神の摂理 319
319 意志で、同時に理解力で確信されたすべてのものが永遠に残ることは、それぞれの者が自分の愛であり、愛は彼の意志のものであるからです。なおまた、それぞれの人間が自分の善または自分の悪であるからです。なぜなら、愛のものであるものは善と言われるからであり、悪も同様です。
人間は自分の愛であるので、自分の愛の形でもあり、そして自分のいのちの愛の器官と呼ばれることができます。
人間の愛の情愛とそこからの思考は彼の心の器官(有機体)の純粋な実体的な変化と相違(多様性)の状態と形であることが前に言われました(279番)。ここで、それらの変化と相違(多様性)が何で、どんなものであるかを述べます。
それらの観念は心臓と肺の拡張と圧縮、すなわち、膨張と収縮の交替により比較されることができ、それらは心臓の中で心収縮と心拡張、肺の中で呼吸と呼ばれます。それらは伸長と抑制、あるいは両方向に肺の小葉を広げることと圧縮することです――これらは心臓と肺の変化と相違(多様性)です。
類似のものが身体の残りの小さい内部器官の中に、そしてまたそれらの部分の中にまったく同様に存在し、それらによって血液と生命のある体液が受け入れられ、送り出されています。
[2]前に示されたように、さらにまた類似のものが人間の情愛と思考の主体である心の有機的な形の中に存在します。そこには相違があって、これらの拡張と圧縮は、すなわち、相互の運動は、相対的に自然的な言語の言葉ではなく、霊的な言語の言葉でしか表現されることができないような、すぐれた完全性の中にあります。それは、永続しまた屈曲するらせんが、いのちを受け取る不思議な形となりながら、渦巻に似た内側へのらせんと外側へのらせんである、としか表現することができません。
[3]けれども、これらの純粋に有機的な(器官の)実体と形が、悪い者のもとでどんなものであるか、善い者のもとでどんなものか、ここで述べます。
善い者のもとでそれらの実体は前方へ向かう渦巻、けれども、悪い者のもとでは後方に向かう渦巻となっています。前方へ向かうものは、主へ向きを変えられ、その方から流入を受けます。しかし、後方へ向かうものは、地獄へ向きを変えられ、そここから流入を受けます。
知らなければならないことは、後方へ向きを変えられれば変えられるほど、それだけ背が開かれ、顔が閉ざされ、しかし逆に、前方へ向きを変えられれば変えられるほど、それだけ顔が開かれ、背が閉ざされることです。
[4]これらから、悪人がどんな形または器官であるか、善人がどんな形または器官であるか、正反対の回転の中にいることを明らかにすることができます。いったん導かれた回転は逆転させることができないので、死ぬときどんなであるかによって、永遠にそのように残ることが明らかです。
その回転をつくるもの、すなわち、それを向け、また逆にするものは、人間の意志の愛です、なぜなら、前に言われたように、それぞれの人間は自分の愛であるからです。
ここから、死後、それぞれの者が自分の愛の道を行き、善の愛の中にいる者は天界へ、悪の愛の中にいる者は地獄へ行きます。彼の支配愛がある社会の中に〔たどり着くの〕でないなら、休止もしません――また、鼻で嗅ぐように、それぞれの者が道を知っているのは、驚くべきことです。