神の摂理 321
321 しかし、これらのことは示された順序で説明されます。
第一――知恵と思慮分別が人間から存在し、ここから彼らの中に自分のものであるとの外観を自分自身のもとに確信する者は、そうでなければ〔人間は〕人間ではなく、獣あるいは彫像としか見ることができないが、そのとき、それでも正反対である
神的な摂理の法則から、人間は自分自身からのように考え、自分自身からのように慎重に行動するように、しかし、それでも主からであることを認めるようになっています。
ここから、自分自身からのように考え、慎重に行動し、同時に主からであることを認める者は人間であること、けれども、考え、行動するすべてものは、自分自身からであると自分自身のもとに確信する者は人間ではないことになります。なおまた、知恵と思慮分別は神からであることを知っていても、それでも流入を待つ者も人間ではありません。
というのは、後者は彫像のように、前者は獣のようになるからです。
流入を待つ者が彫像のようであることは明らかです。というのは、当然ながら、彼は動かないで立つかあるいは座り、手をゆるめ、まばたきもしないで目を閉ざすかあるいは目を開き、考えも、呼吸もしないからです。
その時、彼にいのちが何かありますか?
[2]「考え、行なう、すべてのものは自分自身からである」と信じる者が、獣と異ならないこともまた明らかです。なぜなら、獣と人間に共通である自然的な心だけから考え、真に人間的な心である霊的で理性的な心から考えないからです。というのは、この心は、神だけがそれ自体から考え、人間は神から考えることを認めるからです――それゆえ、このような者もまた、人間が話し、獣が音を出すこと以外に人間と獣の間の何らかの違いを知りません。両方のものが同様に死ぬと信じています。
[3]流入を待つ者について、さらにいくらかのことを述べておきます。
心から流入を望むわずかな者でないなら、何らかのものを受けません。この者は時々、思考の中の知覚力の道を通って、あるいはその中で無言の話し方、まれに明瞭な話し方を通して、何らかの応答を受けます。その時、このことは欲し、できるように、考え、行なうことであって、そのことを、賢明な者は賢明に行ない、愚か者は愚かに行なうことです。何を信じ、何を行なわなければならないか、決して教えられません。このことは、人間の理性や自由が滅びないようにとの理由からです。そのことは、すべての外観が自分自身からのようであるとき、それぞれの者が理性にしたがって自由から行動することです。
何を信じ、何を行なわなくてはならないか、主からも、天界のある天使からも教えられない者は、狂信的な者の霊からの流入、クエーカー教徒あるいはモラヴィア教徒の霊からの流入によって教えられる者であり、迷わされます。
主からのすべての流入は、理解力の照らしによって、真理への情愛によって、また後者によって前者の中へ生ずるものです。
[4]第二――すべての善と真理は主から、すべての悪と虚偽は地獄からであることを真理であると信じ、考えることは不可能のように見えるが、それでもなお、そのことは真の人間性であり、ここから天使のものである
「すべての善と真理は主からである」と信じ、考えることは、これを越えて何らかのものが言われないかぎり、可能に見えます。その理由は、「それらに反して考えることは許されない」という神学の信仰にしたがっているからです。
しかし、「すべての悪と虚偽は地獄からである」と信じ、考えることは、「人間は何も考えることができない」とこのようにもまた信じられているので、不可能に見えます。
しかし、それでも、人間は、たとえ地獄から考えるにしても、自分自身からのように考えます。主はそれぞれの者に、思考を、どんな源からであっても、彼の中に自分のもののように見えるように与えられているからです。そうでなければ、前の多くのものに示されているように、人間は人間として生きず、地獄からも連れ出されず、天界に導かれることもありません、すなわち、改心することができません。
[5]それゆえ、主もまた人間に、悪の中にいるなら地獄の中にいること、悪から考えるなら地獄から考えていることを知り、ここから考えることを与えられています。そしてまた、地獄からどのように出て、その地獄から考えないことができ、しかし、天界にやって来て、その場所で主から考えることができる手段を与えられています。そしてまた、人間に選択の自由を与えられています。
それらから、人間は悪と虚偽を自分自身から考え、そしてまた、あれこれが悪と虚偽である、と考えることができることが見られます。それゆえ、自分自身から考えることができることは単なる外観であり、その外観なしに人間は人間ではなくなってしまいます。
真理から考えることは、人間性そのものとここからの天使性です。人間は自分自身から考えないで、しかし、彼には主から、すべての外観の中で、自分自身からのよう考えることが与えられており、このことは真理です。
[6]第三――そのように信じ、考えることは、主の神性を認めない者に、悪が罪であることを認めない者に不可能である、しかし、それら二つを認める者に可能である
主だけが人間に考え、意志することを与えられるので、主の神性を認めない者に、そのことは不可能です。主の神性を認めない者は、その方から切り離されていて、自分自身から考える、と信じています。
悪が罪であることを認めない者にもまた不可能です。その者たちは地獄から考え、そこのだれもが、自分自身から考えている、と思っているからです。
けれども、それら二つのものを認める者に可能であり、前に豊富に提示されており(288-294番)、それらから明らかにすることができます。
[7]第四――これら二つの承認の中にいる者は、自分自身のもとの悪だけを考慮し、それらを罪として避け、退けるかぎり、その悪を自分自身からもとの地獄へ押し戻す
悪は地獄から、善は天界からであることを、だれが知りませんか、あるいは知ることができませんか?
ここから、人間が悪を避け、退ければ退けるほど、それだけ地獄を避け、退けることを、だれが知ることができませんか?
ここから、だれかが悪を避け、退ければ退けるほど、それだけ善を欲し、愛することを、だれが知ることができませんか?それゆえ、それだけ主により地獄から連れ出され、天界へ導かれませんか?
これらのことを理性的なすべての人間は、地獄と天界があることを知りさえすれば、悪と善はそれらを起源とすることを見ることができます。
さて、人間が自分自身のもとの悪を熟考し(自分自身を調べることと同じです)、それらを避けるなら、その時、自分自身を地獄から解放し、地獄を背後に退けます。そして自分自身を天界の中に引き入れ、そこで主を顔から眺めます。
人間がこのことを行なう、と言われ、それを自分自身からのように行ないますが、しかし、その時、主から行なっています。
人間がこの真理を、善い心からと敬虔な信仰から認める時、その後に自分自身から考え、行なうことすべてのものの中の内部にその真理が隠れています。あたかも種の中の内部に、新しい種にまで生長する生殖力が備わっているかのようなものです。また、あたかもいったん自分の健康に良いと認めたその食物に感じる食欲の快さのようなものです。一言でいえば、考え、行なうすべてのことの中の心臓と霊魂のようです。
[8]第五――このように神的な摂理は、ある者に悪を、善もまた、自分のものにさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別がその両方のものを自分のものにする
このことはここで言われたすべてのことから結果として生じます。
神的な摂理の目的は善です。そこで善をすべての働きの中で意図します。
それゆえ、ある者に善を自分のものにさせません、なぜなら、このようにしてその善は功績的なものになるからです。ある者に悪も自分のものにさせません、なぜなら、このようにして彼を悪いものにするからです。
それでも両方のものを人間はプロプリウムから行ないます、これは悪以外の何ものでもないからです。彼の意志のプロプリウムは自己愛であり、そして彼の理解力のプロプリウムは知性のプロプリウムの高慢です。このことから、プロプリウムの思慮分別があります。