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神の摂理 322

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(12)すべての人間は改心することができ、予定は存在しない

322 健全な理性から、すべての者が天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されてないと指図されます。というのは、すべての者は〔そのような〕人間に生まれており、ここから神の像が彼らの中にあるからです。
神の像が彼らの中にあるとは、真理を理解することができ、善を行なうことができることです。
真理を理解することができるのは神的な知恵からであり、そして善を行なうことができるのは神的な愛からです。その力が神の像であり、それは健全な人間のもとに残り、根こそぎにされません。
ここから、市民的で道徳的な人間になることができ、市民的で道徳的な者は霊的な者になることができます、なぜなら、市民的で道徳的なものは霊的なものの容器であるからです。
自分の国の法律を知って、そこの市民であり、それらにしたがって生きる者は市民的な人間と言われます。それらの法律を自分の習慣に、自分の美点にし、理性からそれらを生きる者は道徳的な人間と言われます。
[2]さて、どのように市民的で道徳的な生活が霊的な生活の容器であるかを述べます――
市民的や道徳的な法律としてだけでなく、神的な律法としてもまた、それらの法に生きなさい、すると、あなたは霊的な人間になります。
法律によって、殺人してはならない、他の者の妻に淫行してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてならない、他の者のものを侵害してはならない、と定められていないような野蛮な国民はほとんど存在しません。
人間はこれらの市民的で道徳的な法律を、善い市民であるために、あるいは見られるために遵守します。しかし、それらの法律を同時に神的なものにしないなら、単に市民的で道徳的な自然的な人間です。しかし、それを神的なものにもするなら、市民的で道徳的な霊的な人間です。相違は、後者が世俗の王国の善良な市民であるだけでなく、天界の王国の善良な市民でもありますが、前者が世俗の王国の善良な市民であるけれども天界の王国の市民ではないことです。
彼らの行なう善が、彼らを分けます。市民的で道徳的な自然的な者が行なう善は本質的な善ではありません、というのは、人間と世がそれらの中にあるから。それらを市民的で道徳的な霊的な者が行なう善は本質的に善です、主と天界がそれらの中にいるからです。
[3]これらから、それそれの人間は、市民的で道徳的な自然的な者になることができるように生まれているので、さらにまた市民的で道徳的な霊的な者になることができるように生まれていること、〔そうなるためには〕神を認め、神に反しているので悪を行なわない、しかし神とともにいる〔ことになる〕ので善を行なうように〔すること〕だけであり、このことによって霊が彼の市民的なものと道徳的なもの〔の行為〕の中にやって来て、〔彼らは〕生き、しかし、それら〔の行為〕なしに何らかの霊はそれらの中になく、ここから〔彼らは〕生きないことを明らかにすることができます。
それゆえ、自然的な人間はどれほど市民的にまた道徳的に行動しても死んでいると言われ、霊的な人間は生きていると言われます。
[4]それぞれの国民に何らかの宗教があることは神的な摂理からであり、神の存在を認めることはすべての宗教の主要なものです、なぜなら、そうでなければ宗教と呼ばれないからです。自分の宗教に生きる、すなわち、自分の神に反するからと悪を行なわないすべての国民は、何らかの霊的なものを自分の自然的なものの中に受けます。
ある異教徒が、「あれこれの悪を行なうことを自分の神に反するので欲しない」と言うのを聞くとき、だれが自分自身に、「この者は救われるのではないか、これと異なるとは見えない」と言いませんか?このことは彼に健全な理性から指図されます。また逆に、キリスト教徒が、「あれこれの悪を私は何とも思わない、神に反していると言われるが、それは何のことか?」と言うのを聞くとき、だれが自分自身に、「この者は救われることができるのか?できないように見える」と言いませんか?
このこともまた健全な理性から指図されます。
[5]もし、「私はキリスト教徒に生まれた、洗礼を受けた、主を知った、みことばを読んだ、聖餐に出席した」と言っても、それらのことは、殺人または殺人したい復讐・姦淫・ひそかな盗み・偽りの証言またはうそ・いろいろな暴力を罪としないとき、何なのですか?このような者は、神についてまたは何らかの永遠のいのちについて考えていますか?存在する、と考えていますか?
健全な理性から、このような者は救われることができない、と指図されませんか?
異教徒がキリスト教徒よりも、自分の生活の中で宗教から神について考えているので、これらのことはキリスト教徒について言われました。
しかし、これらについて多くのことを続きの中で、次の順序の中で述べます。

(1)創造の目的は人類からの天界である。
(2)それゆえ、それぞれの人間は救われることができ、神を認め、善く生きる者が救われることは神的な摂理からである。
(3)救われないなら、責任は人間自身にある。
(4)このようにすべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない。