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神の摂理 327

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327 (3)救われないなら、責任は人間自身にある
正反対のものであるので、善からは悪が、また悪からも善が流れ出ることができない、という真理は、ただ聞かれるだけで、すべての理性的な人間により認められます。したがって、善からは善以外のもの、悪からは悪以外のものは流れ出ません。
この真理が認められるとき、善が悪に変えられることができるのは、善の受け入れによらず、悪の受け入れによることもまた認められます。というのは、すべての形は流れ入るものを自分の性質へ変えるからです(前の292番に見られます)。
さて、主はご自分の本質そのものの中で善、すなわち、善そのものであられるので、主から悪が流れ出ること、その方により生み出されることができないこと、しかし、悪の形である受け入れる主体により悪へ変えられることができることが明らかです。
人間のプロプリウムに関して、このような主体が人間です。
これ〔人間のプロプリウム〕は絶えず主から悪を受け入れ、絶えずそれを悪の形である自分の形の性質に変えます。
ここから、もし救われないなら人間に責任がある、といえます。
確かに悪は地獄からですが、しかし、その悪をこの地獄から自分のものとして受け入れるので、そのことによってそれを自分自身に専有するので、それゆえ、悪は人間からであると言っても、あるいは悪は地獄からであると言っても同じことです。
しかし、ついに宗教が滅びるような悪を自分のものにすることがどこからであるか、次の系列の中で述べます――

(1)すべての宗教は時間の経過とともに衰え、完了する。
(2)すべての宗教は、人間のもとで神の映像の倒置によって、衰え、完了する。
(3)これは世代の中で遺伝悪が絶え間なく増大することから起こる。
(4)それでも、主により、それぞれの者が救わることができるように備えられている。
(5)さらにまた、新しい教会が、前の荒廃したものに代わって続くように備えられている。