神の摂理 329
329 (4)このようにすべての者は天界へ予定されており、だれも地獄へ予定されていない
主はだれも地獄へ投げ込まれません、しかし、霊が自分自身を投げ込むことは、著作『天界と地獄』の中に示されています(ロンドン、1758年出版、545-550番)。
死後、すべての悪い者と不信心な者はこのようになります。世で悪い者と不信心な者も同様になります。そのとき世では改心し、救いの手段を抱き、吸収することができるけれども、世から出た後にはできない、という相違があります。
救いの手段は、十戒の神的な律法に反しているので悪を避けなくてはならないこと、神が存在することを認めるようにすること、これらの二つのものに関係します。
このことをそれぞれの者が、悪を愛さないかぎりできます。というのは、主は絶えず、意志の中に力とともに、悪を避けることができるように、理解力の中に力とともに、神が存在することを考えることができるように流入されるからです。しかしそれでも、一方のものは、同時にもう一方のものができないなら、できません――それら二つのものは十戒の二つの板のように結合していて、それらは一つは主のため、もう一つは人間のためのものです――主はご自分の板からそれぞれの者を照らし、力を与えられます。しかし、人間が自分の板の中にあるものを行なえば行なうほど、それだけ力と照らしを受けます。前には、それら二つのものは一つがもう一つの上に置かれ、封印で閉じ込められて見えます、しかし、自分の板の中にあるものを行なうかぎり、解かれ、開かれます。
[2]今日、幼児または少年の手の中でしか開かれないで、しまい込まれた小冊子または小著のようでないなら、十戒とは何ですか?
確かな年齢となったある者に、「十戒に反するのでこのことを行なわないように」と言ってみなさい、だれが留意しますか?
しかし、あなたが、「神的な律法に反するので、このことを行なわないように」と言うなら、このことに留意するかもしれません、それでもそのとき十戒の戒めは神的な律法そのものです。
霊界の中で多くの者に実体験が行なわれ、その者は、十戒または教理問答書が言われたとき、軽蔑して投げ返しました。
その理由は、十戒が人間の板であるもう一つの板の中で、悪を避けなくてはならないことを教えているからであり、その悪を避けない者は(不信心から、あるいは何の働きもしない信仰だけの宗教から)、ある種の軽蔑とともに十戒と教理問答書のことが言われるとき、彼らにもはや何の用もない幼児用の何らかの本のことが言われたように聞いたからです。
[3]これらは、もし救われることを欲するなら、人間のだれにでも救われることができる手段の知識は、力もまた欠けていないことが知られるために言われました――そのことから、すべての者は天界へ予定され、だれも地獄へ予定されていないことがいえます。
しかし、ある者のもとで、地獄へと断罪し、救いがないとする「予定」についての信念が強くなったので、またこの信念は有害であり、論証によってその中の狂気と残酷さが見られないならそれは追い払われることもできないので、それゆえ、それについて次の系列の中で扱われなければなりません。
(1)天界以外への予定は神的な愛とその無限性に反する。
(2)天界以外への予定は神的な知恵とその無限性に反する。
(3)教会内に生まれた者だけが救われることは、狂気の異端である。
(4)人類のある者が予定から断罪されることは、残酷な異端である。