神の摂理 331
(13)主は神的な摂理の法則に反して行なうことができない、それらに反して行なうことは、ご自分の神的な愛に反して、自分の神的な知恵に反して、このようにご自分に反して行なうことになるからである
331『神の愛と知恵』の中に、主は神的な愛と神的な知恵であること、これら二つのものはエッセそのものといのちそのものであり、それらからすべてのものが「存在する」また「生きる」ことが示されています。なおまたさらに、その方から似たものが発出すること、そのようにまた発出する神性はその方であることが示されています。
それら発出するものの間に、神的な摂理の最初のものがあります。というのは、これらは絶えず目的の中にあり、そのために全世界が創造されているから――手段による目的への働きと前進が神的な摂理と呼ばれるものです。
[2]そこで、発出する神性はその方であり、そして神的な摂理は発出する最初のものであるので、ご自分の神的な摂理の法則に反して行なうことはご自分に反して行なうことであるといえます。
さらにまた、神が秩序である、と言われるように、主は摂理である、と言われることができます。なぜなら、神的な摂理は人間の救いに関して神的な秩序の最初のものであるからです。法則なしに秩序が存在しないように、というのは、法則はその秩序をつくるから、それぞれの法則は秩序から秩序であるようにもまた導き、ここから、神が秩序であるように、〔主は〕ご自分の秩序の法則であることがいえます――同様に、神的な摂理について、主がご自分の摂理であるように、ご自分の法則もまた摂理である、と言われるべきです。
ここから、主はご自分の神的な摂理の法則に反して行なうことができないことが明らかです、それらに反して行なうことは、ご自分に反して行なうことになるからです。
[3]さらに、働きは主体の中でないなら、手段によってその中でないなら、存在せず、主体の中でないなら、また手段によってその中でないなら、何らかの働きは存在しません。神的な摂理の主体は人間であり、手段は神的な真理です、その手段によって彼に知恵があり、神的な善によって彼に愛があり、神的な摂理はその手段によって自分の目的である人間の救いを生み出します。なぜなら、目的を欲する者は手段もまた欲し、それゆえ、欲するものは目的を生み出すとき、それを手段によって生み出すからです。
しかし、これらは次の順序の中で熟考される時、さらに明白なものになります。
(1)人間の救いのための神的な摂理の働きは、彼の出生から始まり、そしてその生涯の終わりまでも、またその後、永遠に続く。
(2)神的な摂理の働きは、純粋な慈悲からの手段によって絶えず生ずる。
(3)直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえない。
(4)直接の慈悲からの瞬間の救いは、教会の中で飛びかける火蛇である。