聖書について116
116 マレー諸島生まれの人々を見ることが与えられました。その者は、市民的なこと関して理性的でしたが、神について少しも知りませんでした。
彼らは霊界の中でサルのように見え、そして彼らの生活もほとんど〔サルに〕似ていました。
しかし、人間として生まれ、霊的ないのちを受け入れる能力の中にいるので、天使により教えられ、主についての知識を通して人間として生かされました。
人間は、それ自体からはどんなものであるか、地獄の中にいる者から明らかに見られます。彼らの間にも、ある高位聖職者と博学な者がいて、その者は神について聞くことさえ欲せず、このために、神の名前を言うこともできません。私はこの者を見、彼らと話しました――そしてまた、ある者が神について話すのを聞くとき、怒りと憤りの火の中にやって来る者と話しました。
[2] そこで、神について何も聞かなかった人間がどのような者になったか熟考してみなさい。その時、神について聞き、神について書き、神について説教した者もこのようでした。このような者の多くは、イエズス会士からです。
このような者であることは、意志からであり、それは悪です。意志は、以前に言われたように、理解力を導き、みことばからそこにある真理を取り去ります。
人間が自分自身から神が存在することを、また死後の生活を知ることができたなら、なぜ、人間が死後も人間であることを知らなかったのですか?
なぜ、人間の霊魂または霊は、その死体と骸骨と結合し、合体しないうちは、目で見ず、耳で聞かず、口で話さない息またはエーテルのようなものである、と信じるのですか?
[3] そこで、理性の光だけから考え出された礼拝のための教えを規定してみなさい。その礼拝は自分自身を礼拝するようなものになりませんか?何世紀も前から、また今日も、そのようになっていて、そのことは、みことばから神だけが礼拝されなくてはならないことを知っている者から生じています。
人間のプロプリウムからでは、他の礼拝は、太陽と月の礼拝でさえ、存在することができません。