最後の審判 17
17
身体から解放の後、人間の霊が人間であり、似た形をしていることは、多年にわたる日々の経験によって私に明らかなものとなっています。なぜなら、私は千回も彼らを見、聞き、彼らと話し、そしてまた、世の中の人間はこのようであることを信じないこと、信じている者は学識のある者から単純な者のように見なされることについても話したからです。
霊たちは、このような無知が今なお世界に続くこと、教会内で最大に続いていることを心から悲しみました――しかし、彼らは言いました。「この信仰は特に学識のある者から広がった。彼らは霊魂について身体の感覚から考え、そこから霊魂について単なる思考のような観念としか理解しなかった。そのとき霊魂は、その中に何らかの主体なしに、またそこから眺められるとき、何か飛び去りやすい純粋なエーテルのようなものであって、それは身体が死ぬとき、消散さざるをえないものである――しかし、教会では、みことばから霊魂の不滅が信じられているので、思考のようなものである何か生命力のあるものを付加し、しかしそれでも、人間にあるような感覚的な能力は再び身体と結合がある以前には付加することはしなかった」。
この見解に基づいて、復活についての教えが、そして最後の審判が行なわれる時、霊魂と身体が結合されるという信仰があります。なぜなら、霊魂について与えられたこの仮説から、人間の永遠のいのちについて教会の信仰と結合されたものに何も結論することができないからです――ここから、だれかが、教えからそして同時に仮説から霊魂について考えるとき、それが霊であり、それは人間の形をしていることをまったく理解しなくなります。付け加えれば、今日のほとんどの者は、霊的なものが何であるか知らず、ましてすべての霊や天使である霊的な者が何らかの人間の形をしていることを知りません。
ここから、世からやって来るほとんどすべての者が最大に驚くことは、〔自分が〕生きていること、以前と等しく人間であり、まったく何も異ならないことです――しかし、自分自身に驚くことがやんだ後、教会が死後の人間のこのような状態について何も知らないことに驚きます――そのときそれでも、世で生きていた者がどれほど多くても、すべての者は来世にいて、人間として生きています。そしてまた、なぜこのことが、幻によって人間に明らかにされなかったか不思議に思ったので、天界から彼らに次のことが言われました。「このことを行なうことができること、なぜなら、主が喜ばれるとき、これ以上に容易であるものは何もないから、しかし、それでも、自分自身がそれらに反した虚偽の中にいて、これを確信した者は、たとえ彼ら自身が見たとしても信じるようにならないこと。さらに、世俗的なものと身体的なものの中にいる者に天界から明らかにすることは危険であること、なぜなら、このように最初に信じ、そしてその後、否定し、そしてそのように、そのこと自体は真理を冒涜することになるから――なぜなら、冒涜することは、信じ、またその後、否定することであるからである。冒涜する者は、外すべての地獄の中で、最低の最もきびしい地獄に押し下げられる」。次の主のことばによって意味されるものはこの危険です、
主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。彼らが目で見、心で理解し、回心し、わたしが彼らをいやすことがないためである(ヨハネ12:40)。
また、世俗的な愛や身体的な愛の中にいて、やはり信じようとしない者は、これらによって〔意味されます〕、
アブラハムは地獄の富んだ者に言った、「彼らにはモーセと預言者がある、彼らに聞くがよい」。しかし、彼は言った。「いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者から彼らのところに行くなら、回心させられます」。しかし、アブラハムは彼に言った。「もし、彼らがモーセと預言者を聞かないなら、だれかが死んだ者から生き返ったとしても、彼らは信じない」(ルカ16:29-31)。
〔これは『天界と地獄』456番とほぼ同じです〕