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最後の審判 36

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36 さて、もし仁愛がないなら、何も信仰はないことについて何らかのものを述べます。
教会の教えの事柄が信じられているかぎり、このように信じる者のもとに信仰があると思われています。起しかし、単に信じることは信仰ではありません、信じられるものを欲することと行なうことが信仰です。
教会の教えの事柄は、単に信じられている時、人間のいのち(生活)の中にありません、彼の記憶の中にだけ、ここから人間の思考の外的なものの中にあり、彼の意志の中に、またここから行為(活動)の中に入る前には彼のいのち(生活)の中に入りません。その時、初めて(何らかのものが)人間の霊の中にあります。なぜなら、人間の霊は、そのいのち(生活)は人間のいのち(生活)そのものであり、彼の意志からです、そして意志から発出すればするほど、それだけ思考から形成されます――人間の記憶は、またここからの思考は、単に張り出し玄関であり、それを通って、導入が生じます。
[2]あなたが意志あるいは愛と言っても同じです、だれもが愛するものを意志し、意志するもの愛します。そして、意志は愛の容器であり、理解力は考えることであって、信仰の容器です。.人間は多くのものを知り、考え、理解することができます、しかし、彼の意志または愛と一致していないものは、自分ひとりにされて、自分の意志からまたは自分の愛から熟考するとき、自分自身から捨てます。それゆえ、身体の生活の後、霊の中で生きるときも、それらを捨てます。なぜなら、すぐ前に言われたように、彼の意志または愛の中に入るものだけが人間の霊の中に残るからです。他のものは、それらは彼の愛に属するものでないので、他に属するもののように見られ、死後、家から投げ出され、そして顧みられません。
[3]もし、人間がみことばからである教会の教えの事柄を信じるだけでなく、それらを意志し、それらを行なうなら、別の事柄であり、その時、信仰となります――というのは、信仰は、真理であるので真理を意志することによる真理への情愛であるから。なぜなら、真理であるので真理を意志することは人間の霊的なものそのものであるからです。というのは、真理のためでなく、自分の栄光・名声・利益のために真理を意志することである自然的なものから引き離されているから――というのは、そのようなものから引き離されて見られた真理は、その本で神的であるので、霊的なものであるからです――それゆえ、真理であるので真理を意志することは、神性を認めることと愛することです――これら二つのものは完全に結合しており、そしてまた天界の中で一つのもののように見られます、神性は天界の中の主から発出する神的な真理であるからです(著作『天界と地獄』128–132番参照)。それを受け入れ、自分のいのち(生活)のものにする者は天界の中の天使です。これらは、信仰は信じることだけでなく、欲することを行なうことであること、それゆえ、もし仁愛がないなら、何も信仰はないことが知られるために言われました――仁愛または愛は、欲することと行なうことです。