新しいエルサレムとその天界の教え 125
125 外なる聖なるものは、こうした敬虔に似ており、特に人間がすべての神礼拝を教会堂(神殿)にいるときの聖なる振る舞いに置くことから成り立ちます、しかし、これは人間の内なる聖なるものでないなら、人間のもとで聖なるものではありません。なぜなら、人間は自分の内なるものがあるように、その外なるものもあるからです。というのは、行動がその精神から発出するように、後者は前者から発出するからです。それゆえ、内なる聖なるもののない外なる聖なるものは自然的であって、霊的ではありません。ここから、〔そうした聖なるものは〕善い者のもとにも悪い者のもとにも等しく存在します。こうしたものの中に礼拝のすべてを置く大部分の者は、空虚な者、すなわち、善と真理の認識を欠く者です。それでも、善と真理は神性から発しており、こうして神性はその善と真理の中にあるので、その善と真理は神聖そのものであり、知られ、信じられ、愛されなくてはならないものです。そこで、内なる聖なるものは、善と真理を善と真理のために愛し、公正と誠実のために公正と誠実を愛することです。このように人間はそれらを愛すれば愛するほど、それだけ霊的であり、またその礼拝も霊的です。なぜなら、それだけ彼はそれらを知り、それらを行なおうと欲するからです。しかし、人間はそのようにそれらを愛さなければ愛さないほど、それだけ自然的であり、その礼拝もまた自然的であり、またそれだけそれらを知ろう、それらを行なおうと欲しません。内なるもののない外なる礼拝は心臓の生命のない呼吸の生命にたとえることができますが、内なるものからの外なる礼拝は心臓の生命に結合した呼吸の生命にたとえることができます。