主について27
27 あがない・救い・改心・再生について扱われているところで、主は「人の子」と言われた
このことは、これらから明らかです——
人の子は……多くの者のために、あがないを、霊魂を与えるためやって来ます(マタイ20・28。マルコ10・45)。
人の子は救うためにやって来ます、滅ぼすためではありません(マタイ18・11。ルカ9・56)。
人の子は、滅んでいるものを探し、救うためにやって来ます(ルカ19・10)。
人の子は、その方によって世が救われるためにやって来ます(ヨハネ3・17)。
善い種を蒔く者は人の子です(マタイ13・37)。
そこにあがないと救いが扱われています。それらは主により、みことばによって行なわれるので、それゆえ、そこでは、ご自分を「人の子」と呼ばれています。主は言われました、
「人の子」は罪を赦す力を持っていること(マルコ2・10。ルカ5・24)。
すなわち、救う力です。なおまた、
「人の子」であるので安息日の主であること(マタイ12・8。マルコ2・28。ルカ6・5)。
みことばであるからです、そのことをその方はその時に教えられています。
さらに、「ヨハネ福音書」で言われました、
滅びない食物のために、永遠のいのちの中に残る食物のために働きなさい。それを人の子はあなたがたに与えます(6・27)。
「食物」によって、みことばからの、そのように主からの、教えのすべての真理と善が意味されます——これはまた「マナ」によって、天から下った「パン」によってそこに意味されます。そしてまた、同じ章の次のことによって、
人の子の肉を食べず、その方の血を飲まないなら、あなたがたの中にいのちはありません(53節)。
「肉」または「パン」は、みことばからの愛の善であり、「血」または「ぶどう酒」は、みことばからの信仰の善であり、二つとも主からです。
[2]他の箇所に言われている「人の子」によって、似たものが意味されます。
例えば、これらの中に——
キツネには穴が、鳥には巣があります。けれども、人の子には頭を横たえるところもありません(マタイ8・20。ルカ9・58)。
このことによって、主もまた言われたように、みことばはユダヤ人のもとにないことが意味されます(ヨハネ8・37)。その方を認めなかったので、彼らのもとに留まることもありませんでした(ヨハネ5・38、39)。
「黙示録」の中でもまた、「人の子」によって、みことばに関する主が意味されます、
「七つの燭台の真ん中に」私は「ローブ(くるぶしまで垂れた外衣)を着て、乳に金の帯を締めた人の子に似たものを」見た(1・13以降)。
そこのいろいろなものによって、みことばとしての主が表象されています。それゆえ、さらにまた「人の子」と呼ばれています。
「ダビデの書」に、
あなたの手が、あなたの右手の男のために、あなたで強くされた人の子のためにあります。その時、私たちはあなたから引き下がりません。私たちを生かしてください(詩篇80・17、19)。
「右手の男」は、ここでもまた、みことばに関する主です。「人の子」も同様です。主は、神的真理から、それもまたみことばであり、力があるので、「右手の男」と呼ばれ、そして、みことば全部を成就した時、神的力そのものでした——ここからもまた言われました、
父の「右手に座っている人の子が」力とともに見られること(マルコ14・62)。