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主について57

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57 この教えのすべてのものは、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎりその言葉の個々のものに関して真理であることが、そこにこの三一性が置き換えられて、再び書き写した同じものから見られることができます。
位格の三一性はこれです、「主の神性は父、神的人間性は子、神的な発出するものは聖霊である」。
この三一性が理解される時、人間は一つの神を考えることができ、そしてまた、一つの神を言うことができます——そうでなければ、三つの神を考えることしかできないことを、だれが見ませんか、そしてまたアタナシウスは見ました。それゆえ、その教えに次の言葉が導入されました——

 キリスト教の真理から私たちは、それぞれの位格がそれ自体から神と主であることを認めるよう強いられている、それでもやはり私たちは全教会の宗教(またはキリスト教の信仰)によって、三つの神が、または三つの主が存在する、と言うこと(または名前を呼ぶこと)ができない。

これは事実上、それぞれの者にキリスト教の真理から、三つの神と主を認めることと考えることが許され、やはりそれでも、キリスト教の信仰から、一つの神と一つの主以外に言うことまたは名前を呼ぶことが許されないことです——そのときそれでも、〔その〕承認と考えが、人間を主とまた天界と結合させます、けれども、単に話すことではありません。
さらに、一つである神性が、どのようにそれらのそれぞれが神である三つの位格の中に分割されることができるか、だれも把握しません。というのは、神性は分割されないからです——そして本質または実体によって三つを一つにすることは、三つの神の観念を取り去らないで、それらが一致するという観念だけを与えます。