神の摂理 279
279 (3)悪は、遠ざけられれば遠ざけられるほど、それだけ許される
〔第一〕悪は赦された時、人間から分離された、それどころか追い出された、と信じることは――〔第二〕人間のいのちの状態は、瞬間に正反対のものに変えられ、このように悪から善になること、したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができ、このことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りです。
〔第三〕しかし、そのように信じ、信念を抱く者は、何が悪で何が善か、人間のいのちの状態について、何も知りません。〔第四〕また、それは意志に属する情愛が心の有機体の純粋で実体の変化と相違の状態にほかならないこと、理解力に属する思考がそれらの形の変化と相違にほかならないこと、記憶がこれらの変化のとどまっている状態であることをまったく知りません。
これらやそれらの知識から、何らかの悪は連続的にでないなら遠ざけられることができないこと、悪の赦しはその移動(遠ざけること)ではないことを明らかに見ることができます。
しかし、要約して言われたこれらのものは論証されないなら、認められることができても、理解されません。理解されないことは、手で回転させる輪のようなものです――それゆえ、前述のことをその提示された順序で、一つずつ論証しなければなりません。
[2]第一――悪は赦された時、人間から分離された、それどころか追い出された、と信じることは現代の誤りである
すべての悪は、人間はその中に生まれ、人間自身が実際に浸っており、人間から分離されませんが、しかし、見られないようにまでも遠ざけられていることが、私に天界から知ることが与えられました。
以前、私は、悪は赦される時、追い払われ、汚れのように顔から水によって洗い落とされ、ぬぐい取られる、という信念の中にいました。世の中の大部分の者もその信念の中にいます――しかし、〔このことは〕悪または罪と似ていません、そのすべてのものは残ります。悔い改めの後で赦されるとき、中心から脇へ押し進められます。その時、中心にあるものは、視覚の下のすぐ近くにあるので、いわば日の光の中に見られ、脇にあるものは、陰の中に、時々、夜の暗やみの中にあるように見られます–悪は分離されないで、しかし、単に遠ざけられる、すなわち、脇へ追放されるので、人間は中心から周囲に移されることができ、その悪が追い払われたと信じるとき、戻ることもできます――というのは、人間は、ある情愛から他の情愛の中に、また時々、正反対のものの中に、このようにある中心から他の中心にやって来ることができるようなものであるからです。人間の情愛は、その中にある間、中心を構成します。というのは、その時、その快さの中に、またその光の中にあるからです。
[3]よく生きたので、死後、主により天界に上げられましたが、しかし、それでも、自分自身に、罪からきれいにされ、清められている、またそれゆえ、何らかの罪の中にない、という信念を抱いた人間がいます。
この者たちは最初、彼らの信仰にしたがって白い衣服を着せられます、というのは、白い衣服は悪から清められた状態を意味するから。しかし、その後、世の中でのように、すべての悪から洗って清められており、またここから、もはや他の者のような罪人ではないと思い、誇り始めます。ある心の高まりから、また自分自身よりも他の者へのある種の軽蔑から、ほとんど分離されることができません。それゆえ、その時、想像上の自分の信念から遠ざけられるようにと、天界から追い払われ、自分の悪の中へ送り返され、同時に彼らに、以前には知らなかった遺伝悪の中にもいることが示されます――このように彼らの悪が自分たちから分離されていないで、しかし、ただ遠く離れていること、このように自分自身からは不潔であること、それどころか悪でしかなく、主により悪から押しとどめられ、そして善の中に保たれていること、このことは彼らに自分自身からのように見えることを認めるようにさせられた後、再び、主により天界の中へ上げられました。
[4]第二――人間のいのちの状態は瞬間に変えられることができること、このように悪から善になること、したがって地獄から連れ出され、すぐさま天界の中に移されることができ、このことは主の直接の慈悲からである、と信じることは、現代の誤りである
仁愛を信仰から分離し、信仰のみの中に救いを置く者は、この誤りの中にいます。なぜなら、その信仰から思考と言葉の発言だけが、もし信頼と信任とともに行なわれるなら、義とし、救う、と思い、多くの者もまた、人間のいのちの最期の瞬間に、もし以前にでないなら、それに近い時に起こると見なすからです。
これらの者は、人間のいのちの状態が瞬間に変えられるとしか、人間は直接の慈悲から救われるとしか信じることができません。
しかし、主の慈悲は直接のものではないこと、人間は悪から瞬間に善になることができないこと、また地獄から連れ出され天界の中に移されることは、幼児期から人間のいのちの最期まで、絶え間ない神的な摂理の働きによってでないならできないことは、本書の最後の章に見られます〔332番〕――ここでは、神的な摂理のすべての法則は、改心を、したがって人間の救いを、そのように、地獄に生まれている彼の状態を、正反対のものである天界のものに逆転させることを目的としてもち、人間が悪とその快さから退き、そして善とその快さの中に入るに応じて累進的にでないなら行なわれることができないことだけを述べておきます。
[5]第三――そのように信じる者は、何が悪で何が善か、何も知らない
というのは、悪は神的な秩序に反して行ない、考える欲望の快さであること、善は神的な秩序にしたがって行ない、考える情愛の快さであること、それぞれの悪に入り、構成する無数の欲望があること、同様にそれぞれの善に入り、構成する無数の情愛があること、人間の内的なものの中にこれら無数のものは、同時にすべてのものが変えられないなら一つも変えられることができないような秩序と結びつきの中にあることを知らないからです。
このことを知らない者は、ただ一つの悪が彼らの前に、容易に遠ざけられるように見られ、ただ一つのものに見られる善が、それに代わって持ち込むことができる、と信じるかまたはその見解を抱きます。
これらの者は、何が悪かまた何が善か知らず、瞬間の救いや直接の慈悲が存在する、という見解を抱くことしかできないからです。しかし、ありえないことは、本書の最後の章に見られます〔338番〕。
[6]第四――瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者は、意志のものである情愛が心の有機体の純粋な実体の変化の状態にほかならず、理解力のものである思考がそれらの形の変化と相違にほかならず、記憶がこれらの変化の残存している状態であることを知らない
情愛と思考は実体とその形の中でないなら存在しないこと、主体である脳の中に存在するので、それは純粋な有機体の形と呼ばれる実体と形に満ちている、と言われる時、だれがそのことを認めませんか。
理性的に考える者ならだれも、情愛と思考は実体の主体の中になく、空気やエーテルの中の映像に見られるような熱と光により変えられた発散物であるといったある種の幻想を笑うことしかできません。そのとき、それでもなお、視覚がそれ自体のものである目から、聴覚がそれ自体のものである耳から、味覚がそれ自体のものである舌から分離して存在するがことできないように、それ以上に思考は実体的な形から分離して存在することができません。
脳を眺めなさい、するとあなたは、無数の実体を、同様に繊維を、そこに有機的にまとめられていないものは何もないことを見ます。その目に見えるもの以外に、他の証拠の何が必要とされますか?
[7]しかし、「そこの何が情愛か、何が思考か?」と質問されます。
このことは身体の中のすべてと個々のものから証明されることができます。そこに多くの内臓があり、その個々のものは自分の固定した位置にあって、その機能を状態と形の変化と相違によって働かせています。胃はそれ自体の働きの中に、腸はそれ自体の働きの中に、腎臓、肝臓、膵臓、脾臓はそれ自体の働きの中に、心臓と肺はそれ自体の働きの中にあることは、よく知られています。すべてのこれらの働きは内部だけで働いており、そして、状態と形の変化と相違によって内部で働いています。
ここから、心の有機体の純粋な実体の働きが、身体の有機体の実体の働きが自然的である相違とともに、心のものは霊的である以外の他のものではないこと、これら〔心と身体のもの〕は対応によって一つとなっていることを明らかにすることができます。
[8]情愛と思考である心の有機体の実体の状態と形の変化と相違がどんなものであるか、目に示すことはできません。しかし、それでも話すことと歌の中で、肺の状態の変化と相違から、鏡の中のように見られることができます。そこにもまた対応があります。なぜなら、話すことや歌の音は、音節に区切ることは、それらは話すことの声と歌の調子ですが、肺によって行なわれ、そして音は情愛に、話すことは思考に対応するからです。
さらにまた、それらから生み出され、このことは肺の中で、肺から気管または喉笛を通して咽頭や声門の中で、その後、舌で、最後に口の唇で、有機体の実体の状態と形の変化と相違によって行なわれます。
音の状態と形の変化と相違は、最初のものは肺から、第二のものは気管と咽頭の中で、第三のものは声門の中で、その口をいろいろと開けることによって、第4のものは舌で、口蓋や歯へそのいろいろな適用によって、第五のものは口の唇で、いろいろな形によって行なわれます。
これらから、有機体の形の状態の変化と相違にほかならないものが、連続的に続けて、話すことと歌である音とそれらの音節に区切ることを生み出していることを明らかにできます。
そこで、音と話すことは心の情愛と思考から以外の他のところから生み出されないので、なぜなら、これらからそれらは存在するようになり、それらなしに決して生み出されないから、意志の情愛は心の有機体の純粋な実体の状態の変化と相違であること、理解力の思考はそれらの実体の形の変化と相違であることが、肺のものと同様に明らかです。
[9]情愛と思考は心の形の状態の変化にほかならないので、記憶はその残存している状態でしかないことがいえます。なぜなら、有機体の実体の中のすべての変化と相違は、いったん吸収したものは残るようなものであるからです。このように、肺で吸収され、気管または喉笛の中でいろいろな音を生み出し、そして声門の中でそれらを変化させ、舌でそれらを音節に区切り、唇でそれらを少し変えます。それらの器官はいったん教え込まれる時、それらの中で、再現されることができます。
それらの変化と相違が、心の有機体の中で、身体の器官の中よりも無限に完全であることは、著作『神の愛と知恵』の中で言われていることから明らかであり(199-204番)、そこに、すべての完全性は段階とともに、それらの段階にしたがって増大し、上昇することが示されています。これらについて多くことが後で見られます(319番)。