最後の審判と世の終わり 第二部 37
37 [4334] 「けれども、その日と時について、だれも知りません」は、地上でもなく、天界でもなく、だれにも、その時の善と真理に関する教会の状態が明らかにされないことを意味します。というのは、「日」と「時」によって、ここに日と時または時間は意味されず、しかし、善と真理に関する状態が意味されるからです(みことばの中で「時間」が状態を意味することは、2625, 2788, 2837, 3254, 3356[4]番、またさらにまた「日」については23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462, 3785番参照)。ここから「時間」もまた、しかし、特に〔善と真理に関する〕状態です。善と真理に関する状態であることは、教会について扱われているからです、なぜなら、善と真理が教会をつくるからです。
[2]「わたしの父だけでないなら、天の天使たちも知りません」は、天界が教会の状態について、特に善と真理に関して、知らないことを意味します、しかし、主だけが、そしてまたその教会の状態がいつなのか知られます。「父」によって意味される方は主ご自身です(15, 1729, 2004, 2005, 3690番照)。また主の中の神的善が「父」と呼ばれるものであり、神的善からの神的真理が「子」と呼ばれるものです(2803, 3703, 3704, 3736番)。それで、あるものが父と子が別のものであると信じ、それらを区別する者は、聖書を理解していません。
[3]「けれども、洪水前の日々は、このようです」は、教会からの者の荒廃の状態を意味し、それが最初の教会、すなわち、最古代の教会の荒廃の状態にたとえられており、その世代の完了、すなわち、最後の審判が、みことばの中で洪水によって述べられています(「洪水」によって悪と虚偽の氾濫が、またここからその世代の完了が意味されることは、310,660,662,705,739,7
90,805,1120番照。「日々」が〔それらの〕状態であることは、前のもの参照)。
[4]「食べて、飲んで、めとったり、とついだりしていた」は、悪と虚偽を自分のものにすること、そしてここからそれらとの結合に関して、彼らの状態を意味し(「食べる」は善を自分のものにすること、また「飲む」は真理を自分のものにすることは、3168, 3513番以降、3596番参照)、そのように正反対の意味では悪と虚偽を自分のものにすることです。「めとる」は悪との結合、また「とつぐ」は虚偽との結合であることは、結婚と結婚愛について言われ、示されたことから明らかにすることができます(686, 2173, 2618, 2728, 2729, 2737-2739, 2803, 3132, 3155番)、すなわち、内意では、善と真理の結合です、けれども、ここでは、正反対の意味であり、悪と虚偽の結合です。
主が話されるどんなものでも、神的なものであるので、聖餐で食べることと飲むことが霊的な意味で食べることと飲むことを意味しないように、内意では、文字どおりの意味のようなものではなく、しかし、主の愛の神的な善を自分のものにすることです(2165, 2177, 2187, 2343, 2359, 3464, 3478, 3735, 4211, 4217番)。教会についてまた主の王国について述べられるとき、結婚のように、愛のものである善と、信仰のものである真理との結合であり、それゆえ、その結合から主の王国は、みことばの中で、天界の結婚と呼ばれています。
[5]「ノアが箱舟に入るその日まで」は、前の教会の終わりと新しいものの始まりを意味します。というのは「ノア」によって、洪水後に最古代教会に続いた古代教会が全般的に意味されるから(773番)、また他の箇所、また「箱舟」によって教会そのものが〔意味されるから〕(639番)――数回、これらの節に名前を挙げられている「日」は、直前に示されているように、状態を意味します。
[6] 「また、洪水がやって来て、すべてのものを取り上げるまで〔彼らは〕知らなかった」は、教会の人間は、その時、悪と虚偽に氾濫させられていることを知らないことを意味します。何が主の中の愛の善か、隣人に対する仁愛の善か、なおまた何が信仰の真理か無知でおり、まったくの悪と虚偽の中にいるからです。またこのことは、ここからであり、その愛の中に、またその仁愛の中に生きる者以外にありえません。さらにまた、内なるものが救い、断罪するけれども、内なるものから分離した外なるものはそうしない、ということに無知でしょう。
[7]「人の子の到来もまた、このようです」は、受け入れられない神的真理を意味します。前の27と30節に言われた「人の子の到来」は、その時、啓示される神的真理です(2803, 2813, 3704番、なおまた3004-3006, 3008, 3009番)。
[8]「その時、ふたりが畑の中にいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」は、善の中にいる教会内の者、また悪の中にいる教会外の者を意味します、善の中にいる者は救われ、悪の中にいる者は(地獄へと)断罪されます。「畑」は善に関する教会です(2971, 3196, 3310, 3317, 3766番参照)。
[9]「ふたりの臼をひく女がいて、ひとりは選ばれ、ひとりは残されます」は、真理の中にいる教会内の者、すなわち、善からのその情愛の中にいる者は救われること、また教会内の真理の中にいても、その者は悪からの情愛の中に〔いるので〕、断罪されることを意味します。みことばの中で「臼をひくことと臼」がそれらを意味することは、今から続くものから明らかです。
これらから、今や、それらのことばによって教会内の善と真理に関して、どのような状態になるか、それらが退けられて、新しいものが養子とされることが述べられているのが明らかです。