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霊魂と身体の交流

まえがき◀︎目次▶︎2

1.  霊魂と身体の交流について、すなわち、一方がもう一方の中に流入し、そして、一方がもう一方とともに働くことについては、仮説である三つの見解と伝統的な教えがあります。第一のものは物質的な流入、第二のものは霊的な流入、第三のものは予定された調和と呼ばれます。第一のものは、物質的な流入と呼ばれ、感覚の外観とそこからの欺きからのものです。目に働きかける視覚の対象が、思考の中に流入し、思考を生むかのように――同じく、耳を刺激する言葉が、心に流入し、そこに観念を生むかのように見られるからです。嗅覚・味覚・触覚もまったく同様です――これらの感覚器官は、最初に世から到着する接触を受け入れ、それらの情愛にしたがって、心が考え、そしてまた意志するかのように見えるからです。それゆえ、古代の哲人やスコラ学者たちは、流入を感覚器官から霊魂の中へ運ばれることと信じ、このように、物質的な流入、すなわち、自然的な流入についての仮説を結論づけました。
[2]第二のものは、霊的な流入と呼ばれ、ある種の誘因による流入であって、秩序とその法則からのものです。霊魂は霊的な実体であり、それゆえ、さらに純粋で、さらに前に、さらに内部にあります、けれども、身体は物質であり、それゆえ、さらに粗野で、さらに後ろに、さらに外部にあり、純粋なものが粗野なものへ、前のものが後ろのものへ、内的なものが外的なものへ、そのように霊的なものが物質的なものへ流入し、この逆でないことが秩序にしたがっているからです。それゆえ、思考力のある心が、対象から目に引き入れられる状態にしたがって視覚に流入し、その状態をその心もまた意のままに統制します。同じく、知覚力をもつ心が、話し声から耳に引き入れられる状態にしたがって聴覚に流入します。
[3]第三のものは、予定された調和と呼ばれ、心がその働きそのものの中で身体と一緒にまた同時に行なうので、その外観と推論の欺きからのものです。しかしそれでも、すべての働き(作用)は最初に連続的であり、その後、同時的です。連続的な作用は流入であり、同時的な作用は調和です。いわば、心が考えて、その後、話すとき、または心が意志し、その後、行動するときです。それゆえ、同時的なものを固定させ、連続的なものを除外することは推論の欺きです。
霊魂と身体の交流についてこれらの三つの見解のほかに第四のものはありえません、なぜなら、霊魂が身体の中へ、または身体が霊魂の中へ働くか、または両方とも絶えず同時に働くからです。


 〝連続的〟と〝同時的〟について
それぞれsuccessiveとsimultaneousと英訳されています。その言葉についてFrank Rose著“WORDS IN SWEDENBORG”(スヴェーデンボリの用いた言葉について解説したもの)には次のようにあります――
SUCCESSIVE(adj.) = following in a sequence step by step from the highest to the lowest
SIMULTANEOUS = existing at the same time or on the same level
具体的には「建物で説明すれば、別々の〝階〟は〝連続的な順序(秩序)〟にあり、その一方で同一階の別々の部屋は〝同時的な順序(秩序)〟にある」と説明されています。
ここから、日本語の表現としては〝連続的〟よりも〝継続的、段階的〟の方がよいかもしれません(〝連続〟をこのニュアンスで把握するとよくわかります)。また〝同時的〟といっても〝時〟にあまり力点を置かない方がよいようです。さらにまた、前述の建物の例から類推されますが、〝縦(上下)と横(平面)の関係〟と把握しておくとよいかもしれません。なお、著作では『聖書についての教え』38番と『結婚愛』314番が参考になります。

霊魂と身体の交流

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2.  前述したように、霊的な流入は秩序とその法則からのものであるので、それゆえ、これは学問の世界では賢明な者により、他の二つのものよりも認められ、受け入れられています——秩序からのすべてのものは、〝真理〟であり、そして〝真理〟はそれ自体を生来の光から、推論の陰の中にあってさえ明らかにします。仮説はその陰の中に存在します。
しかし、この仮説を陰で包む三つのものがあります。霊魂とは何か〔について〕の無知、霊的なものとは何か〔について〕の無知、流入とは何か〔について〕の無知です。それゆえ、推論(理性)が〝真理〟そのものを見る前に、これらの三つのものが前もって説明されるべきです。なぜなら、仮説上の〝真理〟は〝真理〟そのものではなく、〝真理〟の憶測であるからです。それは夜の星の光の中で壁の中に見られる絵のようなものです。心は幻想にしたがって壁にさまざまな形をひき起こします。夜明けの後、太陽の光がそれらを照らし出し、その概略だけでなく、その詳細な部分もまた示され、見られるようにされる時、異なります。そのように、〝真理〟の陰から、その中にこの仮説が存在しますが、開かれた〝真理〟が生じます。霊的なものが、自然的と比べて、何であり、どんなものであるか、なおまた人間の霊魂が何であり、どんなものであるか知られる時です。霊魂の中へ、またその霊魂によって知覚力と思考力のある心の中へ、そして心から身体の中への流入がどんなものであるか知るためです。
[2]しかし、これらのことは、主から霊界の中の天使との交わりを、また同時に自然界の人間との交わりを与えられた者でないなら、だれからも述べられることができません。このことが私に与えられたので、霊的なものと自然的なものが何であり、どんなものであるか述べることができました。それらは『結婚愛』についての小著に書かれています、霊的なものについてそこのメモラビリア(*)の中の326から329番、人間の霊魂については315番、流入については380番、またさらに豊富に412から422番にあります。
[3]霊的な流入そしてその起源と派生物がそこからであることを次の順序で明らかにします。
 1 二つの世界がある。霊と天使たちがいる霊界と人間がいる自然界である。
 2 霊界はそれ自体の太陽から生じ、存続し、自然界もそれ自体の太陽から生じ、存続する。
 3 霊界の太陽は神エホバからの純粋な愛であり、その方はその中心におられる。
 4 その太陽から熱と光が発出しており、そこから発出している熱はその本質では愛であり、そこからの光はその本質では知恵である。
 5 その熱と同じくその光も人間の中に流入する。熱はその意志の中に流入し、そこに愛の善を生み、光はその理解力の中に流入し、そこに知恵の真理を生む。
 6 これらの二つのもの、熱と光は、すなわち、愛と知恵は、神から人間の霊魂の中へ結合して流入する。また霊魂を通って心へ、その情愛と思考力の中へ、これらから身体の感覚・話すこと・行動の中へ流入する。
 7 自然界の太陽は純粋な火である。この太陽によって自然界は生じ、存続する。
 8 それゆえ、この太陽から発出するすべてのものは、本質的に見れば、死んだものである。
 9 人間が衣服を着るように、霊的なものは自然的なものを着ている。
 10 人間の中でそのように〔自然的なものを〕着た霊的なものは、理性的で道徳的に、そのように霊的で自然的に生きることができるようにする。
 11 この流入は、人間のもとの愛と知恵の状態にしたがって受け入れられる。
 12 人間の中で理解力は、啓発された理性にしたがって、天界の天使のいる光の中へ、すなわち、知恵の中へ上げられることができる。その意志は、生活の行為にしたがって同様に、熱の中へ、すなわち、愛の中へ上げられることができる。しかし、意志の愛は、理解力からの知恵が教えることを人間が欲し、行なわないかぎり、上げられない。
 13 獣のもとではまったく異なる。
 14 霊界に三つの段階、自然界に三つの段階があり、それらの段階にしたがってすべての流入が生ずる。
 15 目的は第一の段階に、原因は第二の段階に、結果は第三の段階にある。
 16 これらから、霊的な流入の性質が、その起源から結果まで、どんなものか明らかである。

 これらの一つ一つを、今から簡潔に説明します。


メモラビリアについて
原語のmemorabiliaをスヴェーデンボリは「記憶すべき(覚えておく価値がある)霊界での出来事」の意味で用いています。また特にそうした記事の「見出し」ともしています。それでこれは訳さないでメモラビリアのままとしたほうがよいと思います。

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1二つの世界がある。霊と天使たちがいる霊界と人間がいる自然界である。

3.  霊界があり、そこには霊と天使たちがいて、人間がいる自然界から分けられていることは、これまでキリスト教世界ですら深く隠されていました。その理由は、ある天使が降りて来て、面と向かって教えたことも、ある人間が上って、見たこともなかったからです。そこで、その世界についての無知から、また天界と地獄についてここからのあやふやな信仰から、人間が自然崇拝の無神論者となるほどにも愚鈍とならないよう、主は私の霊的な視覚を開け、天界に上げ、そしてまた地獄に降ろし、その両方の性質を見せることを喜ばれました。
[2]ここから、二つの世界があり、それらは互いに分けられていることが私に明らかになりました。一つは、その中のすべてのものが霊的であり、そこから〝霊界〟と呼ばれ、もう一つは、その中のすべてのものが自然的であり、そこから〝自然界〟と呼ばれ、そして霊と天使たちは彼らの世界の中で、人間も自分たちの世界の中で生活します。なおまた、人間のだれもが死によって自分たちの世界から他の世界〔あの世〕へ移住し、そこで永遠に生活します。
流入がその最初から明らかにされるために、そのことについてここで扱われますが、この両方の世界についての知識が前もって述べられるべきです。というのは、霊界が自然界に流入し、自然界の個々のものを、人間も動物も活動させ、そしてまた木や草を生長させるからです。

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2  霊界はそれ自体の太陽から生じ、存続し、自然界もそれ自体の太陽から生じ、存続する

4.  霊界に別の太陽があり、自然界に別の太陽があります、それらの世界は完全に分かれており、世界はその起源を太陽から得ているからです。というのは、その中のすべてのものが霊的である世界は、太陽から生ずることができないからです、その太陽からはすべてのものが自然的です。なぜなら、このように物質的な流入があることになり、それでは秩序に反しているからです。
世界が太陽から生じたのであって、逆でないことは、原因と結果から明らかです。世界のすべてと個々のものは太陽によって存続し、存続は存在を示しており、それゆえ、存続は絶え間のない存在であると言えます。このことから、もし太陽が取り除かれるなら、その世界は混沌へ、混沌は無へと落ち込むことが明らかです。
[2]自然界の中の太陽とは別の太陽が霊界に存在することを、私は証言することができます、私はそれを見たからです。私たちの太陽のような火が、ほとんど同じような大きさで、私たちの太陽が人間から隔たっているように、天使たちから隔たって見られます。しかし、昇りも沈みもしないで、天頂と水平線の間の中間の高みにあって動きません。そこから天使たちに絶え間のない光と絶え間のない春があります。
[3]霊界の太陽について何も知らない論証好きな人間は、全世界(宇宙)の創造についての自分の観念の中で容易に気が狂ってしまいます。彼は深く思い巡らすとき、全世界(宇宙)は自然から存在することと、自然の起源は太陽であるので、創造者としてのその太陽から存在すること以外に知覚しません。
そのうえ、その起源も知らないなら、霊的な流入が何であるかも知覚できません。というのは、すべての流入は太陽から、霊的な流入はこの太陽から、自然的な流入もそこの太陽から存在するからです。心のものである人間の内なる視覚は、霊界の太陽から流入を受け入れます。けれども、身体のものである外なる視覚は、自然界の太陽から流入を受け入れます。また、霊魂が身体と結合するように、それらは働きの中で結合しています。
[4]これらから、霊界とその太陽について何も知らない者は、どれほどの盲目・暗黒・愚かさの中へ落ち込むかが明らかです。盲目の中へは、目の視覚だけに依存する心は、誤って推論する中で、定まった対象なしに吊り下げられただけの亜麻布に向かって夜に飛ぶコウモリに似たものになるからです——暗黒の中へは、心の視覚は、その中へ内的なものから目の視覚が流入するとき、すべての霊的な光を奪われ、フクロウに似たものになるからです——愚かさの中へは、人間は考えているにもかかわらず、霊的なものについて自然的なものから考え、その逆には考えないで、そのように狂い、愚かで、惑わされるからです。

霊魂と身体の交流

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3 霊界の太陽は神エホバからの純粋な愛であり、その方はその中心におられる

5.  霊的なものは、愛以外の別の源泉から、そして愛は、愛そのものであられる方、神エホバ以外の別の源泉から発出することはできません。それゆえ、霊界の太陽は、神エホバから発出する純粋な愛であり、その方はその中心におられ、すべての霊的なものがそれから、泉からのようにわき出ます——その太陽そのものは神ではなく、神からのものであり、その方のまわりのその方からの最も近いスフェアです。
神エホバによりこの太陽によって全世界(宇宙)は創造されました。その全世界(宇宙)によって全体としての世界のすべてのものが意味され、それは私たちの天の広がりの中に存在する星ほど、それほど多くあります。
[2] 創造は、純粋な愛であるその太陽によって、そのように神エホバによりなされたことは、愛はいのちの〝エッセ〟(*)そのものであり、知恵はそこからのいのちの〝エキシステレ〟(*)であり、愛から知恵によってすべてのものが創造されたからです。このことが「ヨハネ福音書」の次の言葉によって意味されます。

〝ことば〟は神とともにあった、〝ことば〟は神であった。すべてのものはその方によって造られた。その方なしで、造られたものは何もない。世はその方によって造られた(1・1、3、10)。

そこに〝ことば〟は神的な真理であり、したがって神的な知恵でもあります。それゆえ、そこに〝ことば〟は、神的な真理によって神的の知恵が照らすのと同じように、すべての人を照らし出す〝光〟とも呼ばれています(9節)。
[3] 世界の始まりを、神的な知恵によって神的な愛以外の別の源泉から導く者は、狂った者のように惑わされます。その者は幽霊を人間として、幻影を光として、想像の所産を実在する像として見ます。というのは、創造された全世界(宇宙)は、愛から知恵によって密接に結合された作品であるからです。あなたに最初から最後まで秩序の中に結合されたものを調べる能力があるなら、あなたはこれを見るでしょう。
[4] 神がひとりであられるように、そのように霊界の太陽もまた一つです。なぜなら、その派生物である霊的なものについて、空間の広がりを属性とすることはできず、空間なしにエッセとエキシステレは、したがって神の愛は、空間なしに空間の中のいたる所に、全世界(宇宙)の源からその境界のすべてのものにまで存在するからです。神的なものがすべてのものを満たし、満たすことによって創造の状態の中にすべてのものを保持することを、理性は遠くで見ます、そして、その中にある愛の性質を、目的が知覚されるために知恵とのその結合を、原因が確立されるために知恵の中へのその流入を、結果が生まれるために知恵による働きを知れば知るほど、近くで見ます。


〝エッセ〟と〝エキシステレ〟について
英訳書ではラテン語のままかそれぞれbeingとmanifestationとされています。やはりFrank Rose著“WORDS IN SWEDENBORG”にある解説を以下に紹介します――
ESSE = being; reality; essential quality (from the Latin meaning “to be”)
EXISTERE = standing forth; coming into existence; presence; taking form
『聖書についての教え』28番では、目的・原因・結果と比較して、それぞれを“esse” “fieri” “existere”としています。これらのラテン語は「(本質的、根源的な)存在」「生成(生まれること)」「実存」と訳されます。
すなわち、エッセは(形には現われなくても)本質的に存在するものであり、形をとって現存するものとなろうとする原因を通して、結果となって現われたもの、目的への手段として存在するものがエキシステレといえそうです。
〝礼拝〟を例にとって考えれば、その本質は〝神の存在〟であり、礼拝を成り立たせるもの(原因・生成)は〝神を崇拝する心〟であり、外面的な形式である〝礼拝〟は目に見えるその心の結果でもあり、その手段でもあります。
スヴェーデンボリ神学の特徴を示す言葉のひとつです。

霊魂と身体の交流

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4その太陽から熱と光が発出しており、そこから発出している熱はその本質では愛であり、そこからの光はその本質では知恵である

6.  みことばの中で、またそこから説教者の通常の説教の中で、「天界の火が心を満たす」、「神の崇拝への神聖な願いが火をともす」というように、神の愛が火によって表現されていることがよく知られています。その理由は、火が愛に対応し、そこからそれを意味するからです。
ここから、神エホバはモーセの面前で柴(イバラの茂み)の中の火として見られ、同様にシナイ山の上でイスラエルの子孫たちの面前で見られ、また、火が祭壇の上に絶えず守られること、毎夕、幕屋の中で燭台のあかりが点火されることが命じられました。これは、火が愛を意味したからでした。
[2]その火から熱が存在することは、熱中する中で、または怒りに激昂している中で、人間は自分の愛が高められるように、火をつけられ、熱くなり、燃え上がるという、愛の結果からきわめて明らかです。血液の熱は、すなわち、人間やまた一般的に動物の生命の熱は、愛から以外のものではありません、愛はそれらの生命を構成します——地獄の火もまた天界の愛に対立する愛以外の何ものでもありません——そこでここから、前に述べたように、神の愛が天使に彼らの世界の太陽の火のように、私たちの太陽の火のように見られます。天使は、その太陽によって、神エホバから愛を受け入れるのにしたがって熱の中にいます。
[3]ここから、そこの光はその本質では知恵であることになります、というのは、愛と知恵は、エッセとエキシステレのように、分離されないものであり、愛は知恵によって、知恵にしたがって存在するようになるからです。このことは私たちの世界の中のように、春の時の熱がそれ自体を光と結合させて、発芽させ、最後に結実を生むことと同様です——さらに、だれでも、霊的な熱が愛であり、霊的な光が知恵であることを知っています。というのは、人間は愛するほど熱くなり、そして賢明であるほどその理解力は光の中にあるからです。
[4]私はその霊的な光をしばしば見ました。その光の白光りそしてまた輝きは自然的な光を測り知れないほど超えていました。というのは、本質的に、白光りそのものと輝きそのもののようであり、輝いてきらめく雪のように見えるからです。そのように、主が御姿を変えられたとき、その衣服は見られました(マルコ 9・3、ルカ 9・29)。光は知恵であるので、それゆえ、主はご自分を、すべての人間を照らす光と呼ばれています(ヨハネ 1・9)。また、他のところにも、光そのものであられること、すなわち、神の真理そのものであるものは、みことばであり、したがって知恵そのものであることが述べられています(ヨハネ 3・19、8・12、12・35、36、46)。
[5]自然的な光(*)(ルーメン)は、理性の光でもあり、私たちの世界の光からのものであると信じられています。しかし、霊界の太陽の光(*)(ルークス)からのものです、なぜなら、心の視覚は目の視覚に流入し、そのように光もまた流入し、この逆ではありません。もしこの逆なら、それは物質的な流入であり、霊的な流入ではありません。


「ルーメン」と「ルークス」について
原語はlumenとluxです。Frank Rose著“WORDS IN SWEDENBORG”には——
LUMEN = light (sometimes used of physical light or deceptive light)
LUX = light (sometimes used of a more spiritual or purer kind of light in contrast to LUMEN)
lumenが自然的な光を、luxが(自然的な光も含めた)精神的な光、霊的な光を意味するとみなしてだいたいのところそれでよいようです。すなわち、スヴェーデンボリは厳密には使い分けていなかったけれども、lumenとluxをそれぞれ「自然的な光」と「霊的な光」として用いている傾向が認められます。
本書16[8]参照(『黙示録講解』970番、スヴェーデンボリ出版『宗教と生活』32番も参照)

霊魂と身体の交流

6◀︎目次▶︎8

5その熱と同じくその光も人間の中に流入する。熱はその意志の中に流入し、そこに愛の善を生み、光はその理解力の中に流入し、そこに知恵の真理を生む

7.  すべてのものはあまねく善と真理に関係すること、またそれらの二つのものに関係しない単独の存在物はないことがよく知られています。
ここから、人間の中には、一つは善の容器であって、〝意志〟と呼ばれ、もう一つは真理の容器であって、〝理解力〟と呼ばれる二つのいのちの容器があります。善は愛のもの、真理は知恵のものであるので、意志は愛の容器であり、理解力は知恵の容器です。
善が愛のものであることは、人間は、意志するものを愛し、そのために働くとき、それを善と呼ぶからです。また、真理が知恵のものであることは、すべての知恵は真理からのものであり、それどころか、賢明な者が考える善は真理であり、またそれを欲して、行なうとき、これは善となるからです。
[2]意志と理解力であるそれらのいのちの二つの容器の間を正しく区別せず、それらについて明らかな概念を形成しない者は、霊的な流入を知ろうとしてもむだな骨折りをすることになります。なぜなら、意志の中への流入があり、理解力の中への流入があり、人間の意志の中へは愛の善の流入であり、彼の理解力の中への流入は知恵の真理の流入であり、両方とも、神エホバから、〔神エホバが〕その中心におられる太陽によって直接に、また天使の天界によって間接に流入するからです。
これらの二つの容器である意志と理解力は、熱と光のように区別されます。なぜなら、前に述べたように、意志は、その本質では愛である天界の熱を受け入れ、そして理解力は、その本質では知恵である天界の光を受け入れるからです。
[3]人間の心から、話すことの中への流入、また行動の中への流入が存在します。話すことの中への流入は意志から理解力によって生じます、けれども、行動の中への流入は理解力から意志によって生じます——単に理解力の中への流入だけで、同時に意志の中への流入を知らず、それから推論し、結論する者は、眼が一つの者のようです。その者は、ただ一つの側面の対象を見るだけで、同時にもう一つの側面を見ません。そして、具合の悪い一つの手だけで働く不具者のようです——そして、杖とともに一つの足で跳ぶように歩く者のようです。
これらのわずかなことから、霊的な熱が人間の意志の中へ流入し、愛の善を生むこと、また霊的な光が彼の理解力に流入し、知恵の真理を生むことがはっきりします。

霊魂と身体の交流

7◀︎目次▶︎9

6これらの二つのもの、熱と光は、すなわち、愛と知恵は、神から人間の霊魂の中へ結合して流入する。また霊魂を通って心へ、その情愛と思考力の中へ、これらから身体の感覚・話すこと・行動の中へ流入する

8.  これまで、鋭い才能のある者により伝えられてきた霊的な流入は、霊魂から身体へであって、霊魂の中への何らかの流入、また霊魂を通して身体の中への流入ではありませんでした。それでも、すべての愛の善とすべての信仰の真理は神から人間へ流入し、それらは人間からのものでは決してなく、神から流入するそれらのものは、最初にその霊魂へ、霊魂を通して理性的な心の中へ、それによって身体をつくり上げるものの中へ流入することが知られています。
もし、だれかこれと異なる霊的な流入を探すなら、その者は泉の流出口をふさいで、それでもそこに尽きない水を求めるような者です。または、木の発生を種からではなく、根からであるとするような者、または、派生したものをその源なしに調べるような者です。
[2]というのは、霊魂は本質的にいのちではなく、本質的ないのちであられる神からのいのちを受け入れるものであり、すべての流入はいのちからのもの、そのように、神からのものであるからです。それは次のことによって意味されます、
神エホバは人間の鼻の中へいのちの霊魂を吹き込まれた。人間は生きた霊魂となった(創世記 2・7)。
鼻の中へいのちの霊魂を吹き込むことは、善と真理の知覚を与えることを意味します。主はご自分についてもまた言われています、
父がご自分の中にいのちを持たれるように、そのように子にも、ご自分の中にいのちを持つことを与えられました(ヨハネ 5・26)。
ご自分の中のいのちとは、神です。霊魂のいのちとは、神から流入するいのちです。
[3]さて、すべての流入はいのちのものであり、この流入はその容器によって果たされ、人間の中の最内部または最初の容器はその霊魂なので、それゆえ、流入が正しく知覚されるためには、中間の位置からでなく、神から始められるべきです。もし中間の位置から始めるなら、流入の教えは、車輪のない馬車のように、または帆のない船のようになります。
そのようなので、それゆえ、前置きとして、神エホバがその真ん中におられる霊界の太陽について(番)、また、愛と知恵の流入、そのように、いのちの流入について(6、7番)扱ったのです。
[4]霊魂を通して、いのちが神から人間の中に流入し、これによってその心の中に、すなわち、この情愛と思考の中に、これらから身体の感覚・話すこと・行動の中に流入することは、それらが連続的な順序の中で、いのちに属するものだからです。というのは、心は霊魂に従属し、身体は心に従属するからです。そして、心には二つのいのちがあります、一つは意志のいのち、もう一つは理解力のいのちです。その意志のいのちは愛からの善であり、その派生物は情愛と呼ばれます。そして、そこの理解力のいのちは知恵からの真理であり、その派生物は思考と呼ばれます。後者と前者によって心は生きます。けれども、身体のいのちは、感覚・話すこと・行動です。これらが霊魂から心を通していることは、その中にある順序から起こり、そしてこれは調べることなしに賢明な者の前に明らかです。
[5] 人間の霊魂は、上位の霊的な実体であるので、神から直接に流入を受け入れます。しかし、人間の心は、より低い霊的な実体であるので、神から間接に流入を霊界を通して受け入れます。また身体は自然的な実体であるので(これは物質と呼ばれます)、神から自然界を通して間接に受け入れます。
愛の善と知恵の真理は、結合して、すなわち、一つに結合して、神から人間の霊魂の中へ流入します。しかし、進行中に人間により分離されます。そして神により導かれる者のもとでわずかに結合されることは、続きの中に見られます。

霊魂と身体の交流

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7  自然界の太陽は純粋な火である。この太陽によって自然界は生じ、存続する

9.  自然とその世界によって、大気、そして惑星と呼ばれる地球——そこには私たちがその上に住む水陸からなる地球もあります——そしてまた毎年その表面を飾るすべてと個々のものが意味されます。そしてあれやこれらは、もっぱら太陽から存続し、太陽はそれらの中心となり、そしてその光線によって、その熱のバランスによって、いたるところに現存することは、だれもが観察から、感覚からの概念から、そこに住むことについての書物から、確かなものとして知っています。また、永続する存在はそこからであることを、現存もまたそこからであることを理性で確かなものとして結論できます、なぜなら、永続的に存続することは、生じたように永続的に存在することだからです。
これらから、自然界は、神エホバからこの太陽によって二次的に創造されたことがいえます。
[2]霊的なものと自然的なものがあること、それらの間に完全に分離があること、また霊的なものの起源と維持は、純粋な愛であり、その真ん中に全世界(宇宙)の創造主で維持者である神エホバがおられる太陽からであることは、これまでに示しました。
けれども、自然的なものの起源と維持は純粋な火である太陽であること、また後者〔自然界の太陽〕は前者〔霊界の太陽〕から、そして両者とも神からであることは、前のものから後のものが、そして最初ものから前のものからであるように、それ自体からいえます。
[3]自然の太陽とその世界が純粋な火であることは、光学の技術で焦点へその光線を集中させ、そこから激しく燃える火と閃光もまた生ずるように、その結果のすべてが示しています。その熱の性質は、元素の火(*)からの熱に似ています。投射角(*)にしたがったその熱の段階、そこからの気候、そしてまた年の四季も、そのほかに多くありますが、それらから理性は身体の感覚によって、自然界の太陽が火にほかならず、そしてまた純粋な火そのものであることを確信することができます。
[4]霊的なものの起源についてその太陽からであるとはまったく知らずに、自然的な起源について自然界の太陽からであるとしか知らない者は、霊的なものと自然的なものを混ぜることしか、また感覚の欺きとそこからの推論によって、「霊的なものは純粋な自然的なもの以外のものではない。光と熱による後者の活動の興奮状態から知恵と愛が生ずる」と結論することしかできません。それらの者は、自然以外の何かを目で見ず、何かを鼻で認めず、何かを胸で呼吸しないので、それゆえ、その者は、すべての理性的なものもまた自然に帰します。そして、スポンジが水を吸収するように自然主義〔自然を神として崇拝すること〕を受け入れます。しかし、これらの者は、四頭立ての馬を、その馬車の前でなく、後ろにつなぐ御者に比べることができます。
[5]霊的なものと自然的なものの間を区別する者は異なっています、後者を前者から導きます。さらにこの者は、身体の中への霊魂の流入を、それは霊的なものであって、自然的なものは、それは身体のものであって、自然界の中にその霊の結果を生むための輸送手段や方法として霊魂に仕えることを認めます——もし、あなたがこれと異なって結論するなら、あなたを尾によって歩みを進める甲殻類(*)〔カニ・エビ〕にたとえることができます、歩みにしたがって目を後方へ引きます。そして、あなたの理性的な視覚は、アルゴス(*)の後頭部にある目の視覚に比べることができます、額にある目は眠っています。この者もまた、推論するとき、自分をアルゴスと信じます。というのは、「だれが宇宙の始まりを自然から見ないか。その時、神は自然の広がりの最内部のものでないなら何か」と言い、また同じような理性のないことを言って、そのことを賢明な者以上に推理力から自慢するからです。


「元素の火」について
古代哲学で万物の根源を為す要素として考えられた土・木・火・水の四元素としての〝元素の火〟です。スヴェーデンボリの存命中には元素としての酸素はまだ発見されていません。
「投射角」について
ここでは(地軸の傾きによって)太陽からの投射角の違いがその輻射熱の違いとなって、北や南の国の気候また冬や夏など四季の気候を生ずることを述べています。
「甲殻類」と「アルゴス」
ここの原語cancerは通常「カニ」と訳しますが、チャドウィックによれば「甲殻類であり、ここでは「尾」とあることから「エビ」でしょう。エビが尾を使って後退し、その時、後方を見るために(飛び出している)目を後ろへ向けることをこのように表現したのでしょう。
アルゴスとはギリシア神話で「全身に百眼を有する巨人」です。

未分類, 霊魂と身体の交流

9◀︎目次▶︎11

8それゆえ、この太陽から発出するすべてのものは、本質的に見れば、死んだものである

10.  ほんのわずかでも身体の感覚の上方に高められている者なら、理解力の理性から、 本質的に見れば(*)、愛が生きていること、その火の外観がいのちであり、逆に、本質的に見れば、元素の火が相対的に死んだものであることを、したがって、霊界の太陽は、純粋な愛であるので、生きていること、自然界の太陽は、純粋な火であるので、死んでいることを、それらから発出するすべてものも同様であることを、だれが見ませんか?
[2]全世界(宇宙)の中ですべての結果を生む二つのものにいのちと自然があります、いのちが内なるものから自然を活動させる時、それらを秩序にしたがって生みます——自然が内なるものからいのちに活動を引き起す時は異なります、このことはそれ自体では死んだものである自然をいのちの上方や内部に置き、ここからもっぱら感覚の快楽と肉欲にふけり、霊魂の霊的なものや心の真に理性的なものを無価値なものとみなす者に生ずることです。
これらの者は、その逆転のために、死んでいる者と呼ばれます。世の中の自然主義(*)からのすべての無神論者、それと地獄の中のすべての悪魔はこのような者です。
[3]またさらに、みことばでも、「ダビデの書」にあるように〝死んでいる者〟と呼ばれています、
彼らはバアル・ペオルに付随し、死んでいる者のいけにえを食べた(詩篇 106・28)。
敵は私の魂を追い、世の死んでいる者のように私を暗やみに座らせた(詩篇 143・3)。
縛られた者たちのうめき声を聞くために、また死んでいる者の子たちを開けるために(詩篇 102・20)。
そして「黙示録」には、
わたしはあなたの働きを知っている。あなたは生きているという名前を持っているが、しかし死んでいる。目覚めていなさい、そして死にかけている残りの者たちを強固にしなさい(3・1、2)。
[4]「死んでいる者」と呼ばれるのは、霊的な「死」は断罪であり、彼らに断罪があるからです。彼らは、いのちが自然からであり、このようにこの光をいのちの光であると信じ、それによって、神について、また天界について、永遠のいのちについてのすべての観念を隠し、窒息させ、消してしまいます。そこからこれらの者は〝フクロウ〟のようです、それらの者は暗やみの中に光を、光の中に暗やみを、すなわち、虚偽を真理として、悪を善として見ます。また悪の快さが彼らに心の快さなので、彼らは「鳥と獣」に異なりません、それら〔鳥獣〕は死体をうまいものものとして食べ、墓からの悪臭を香油として感じます。
これらの者もまた、物質的あるいは自然的な流入以外の他の流入は見ません。それでも、霊的な流入を主張するなら、これは彼の観念の何かのものからではなく、教師の口から生じています。


「本質的に見れば」の直訳は
ここで「本質的に見れば」は意訳です。原文はin se spectatumであり、直訳すれば「それ自体で観察されれば」です。in seには文字どおりには「それ自体で」ですが「本質的に、根本的に」の意味があります。またspectoには「見る、眺める」以外に「観察する、考慮する」の意味があり、それでこの熟語としての意味になります。
自然主義は無神論であること
ここでの「自然主義」とは「神の代わりに自然を崇拝すること」であり、これは崇拝のように見えますが結局は無神論です。

霊魂と身体の交流

10◀︎目次▶︎12

9人間が衣服を着るように、霊的なものは自然的なものを着ている

11.  すべての作用の中に能動的なものと受動的なものがあり、能動的なものだけからは何も存在しないし、受動的なものだけからも何も存在しないことが知られています。霊的なものと自然的なものも同様です、霊的なものは生きた力なので能動的であり、そして自然的なものは死んだ力なので受動的です。ここから、この太陽の世界の中に最初から存在するようになり、その後すべての時間に存在するようになるどんなものであっても、霊的なものから自然的なものによって存在することがいえます。またこのことは動物界の対象だけでなく、植物界の対象にもいえます。
[2]これと同様なものもまた知られています、生ずるすべてのものの中に主要なものと手段となるものがあることです、そしてこれら二つのものは、何かが生じる時、一つのように見られますが、それでも区別された二つのものです。それゆえ、主要な原因と手段となる原因が同時に一つの原因をなすこともまた知恵の規範(canon)のうちにあります。霊的なものと自然的なものもまたこのようです。これらの二つが生ずるものの中で一つのものとして見られることは、繊維が筋肉の内部にあるように、また血液が動脈の内部にあるように、または話すことの内部に思考が、また声の中に情愛があるように、霊的なものが自然的なものの内部にあり、そして自然的なものによってそれ自体を感じさせるからです。しかし依然として、格子の仕切りを通して〔見る〕かのようであって、人間が衣服を着るように、霊的なものが自然的なものを着ていることは明らかです。
[3]霊魂が着る有機体の身体は、衣服になぞらえられます、それをおおい、そしてまた霊魂はそれを脱ぎ、死によって自然界からそれ自体の霊界に移住するとき、それをぬけがらのようにそれ自体から捨てるからです。さらにまた身体は衣服のように老います、けれども霊魂は老いません、これは霊的な実体であって、それは、始まりから終わりまで進み、そして周期的に終わりになる自然の変化と共通なものを何も持たないからです。
[4]身体を衣服あるいは着物として、それ自体は死んだものであって、神から霊魂を通して流入してくる生きた力を受け入れるのに適合するだけのものであると見なさない者は、霊魂はそれ自体から、身体はそれ自体から生きていること、またその二つのもののいのちの間に予定された調和があるという欺きから結論することしかできません。霊魂のいのちが身体のいのちに、あるいは、身体のいのちが霊魂のいのちに流入すること、このように霊的な流入、あるいは、自然的な流入を心に抱きます。その時それでも、創造されたすべてのものから、〝後のもの〟はそれ自体からではなく〝前のもの〟から、それにより活動し、そのようにこれもまたそれ自体からでなく、さらに〝前のもの〟から〔活動する〕こと、このようにご自分から活動される方から、〝最初の者〟から、そのように神からでないなら何ものでもないという〝真理〟が明らかです――さらに、いのちは唯一のものであり、これは創造されることのできないものですが、受け入れに適合する有機体の形の中へ最大限に流入することのできるものです。全世界の中の被造物のすべてと個々のものはこのような形です。
[5]霊魂がいのちであること、このように人間は、自分の霊魂から生きているので、いのちから生きており、そのように自分から、したがって神からのいのちの流入によらないで生きている、と多くの者により信じられています。しかし、これらの者は欺きからある種のゴルディオスの結び目をつくることしかできません、そして自分の心のすべての判断をそれにもつれさせることから、霊的なものの狂気そのものとなるか、または迷路を造ってしまい、そこから心は何らかの理性の糸によって道を巡り返ること、抜け出ることが決してできません。実際に、彼らは地下の洞穴のようなものの中へと降りて行き、そこで永遠の暗やみの中で暮らします。
[6]なぜなら、ここから無数の欺きが生まれ、一つ一つが恐ろしいものであるからです。例えば、神(Deus)はご自分を人間の中に注ぎ移し、転写されたこと、そこからそれぞれの人間は何らかの神(Numen)であること、自分自身から生きていること、このように自分自身から善を行ない、賢明であることです。
同様に、信仰と仁愛を自分自身の中に所有し、このように神からでなく、自分自身から、それらを取り出すこと、ほかにも、世にいた時、自然が生きていること、または自分の活動がいのちを生むことを信じていた地獄にいる者たちにあるような憎むべきことです。これらの者は、天界を眺める時、その光を暗黒そのものとして見ます。
[7]かつて私は天界から、「もし人間の中のいのちの火花が彼のものであり、彼の中に神のものがないなら、天界も、そこに何ものもなく、またここから地上に何らかの教会、またそこから永遠のいのちはない」と語る声を聞きました。
これらの事柄についてより多くのことは、『結婚愛』についての著作に挿入したメモラビリアの132から136番に諮るとよいでしょう〔これは『真のキリスト教』48番に再録されている〕。

霊魂と身体の交流

11◀︎目次▶︎13

10 人間の中でそのように〔自然的なものを〕着た霊的なものは、理性的で道徳的に、生きることができるようにするそのように霊的で自然的に生きることができるようにする

12.  前に確定された原理から、霊魂は人間が衣服を着るように身体を着ることが結論としていえます。というのは、霊魂は人間の心の中へ、その心を通して身体の中へ流入し、いのちをそれ自体に運び、それを主から絶えず受け入れ、このようにそれを間接的に身体の中へ移動させ、その場所で最も固い結合によって身体が生きているかのようにするからです。ここから、また数多い経験の証明から、物質的なものと結合した霊的なものは、死んでいる力と一緒になった生きた力のように、人間が理性的に話し、道徳的に行動するようにすることが明らかです――
[2]舌と唇は本質的にある種のいのちから話し、同様に腕と手は動くように見えます。しかし、話すものは、本質的に霊的なものである思考であり、動かすものは、同様に霊的なものである意志です。そして両方ともそれ自体の器官によっており、それらは自然界から取られたものであるので本質的に物質的なものです。そのようであることは、次のことに留意するなら、日の光の中に明らかです、話すことから思考を取り除きなさい、口は瞬間に黙りませんか? 行動から意志を取り除くとき、手は瞬間に動きをやめませんか?
[3]霊的なものと自然的なものの結合とそこから物質的なものの中での生命の外観は、清潔なスポンジの中の高貴なワイン、ブドウの房の中の糖質のブドウ汁、リンゴの中の風味ある液、そしてまたシナモンの中の香ばしい香りに比べることができます。これらすべてに含まれている繊維は物質です、それらはそれ自体から味がするのでも、薫るのでもなくて、それらの中やそれらの間から流出するものです、それゆえ、もしそれらの汁を絞り出すなら、〔それらは〕死んだ繊維です。身体に特有な器官も、いのちを取り去るなら同様です。
[4]人間が霊的なものと自然的なものを結合することから理性的であること、その思考の分析的な議論から道徳的であることは、尊敬すべき行動とその優美な振る舞いから明らかです。これらは主から天使の天界による流入を受け入れることができる能力から彼らにあるものです。その天界に知恵と愛の住まい、そのように理性と道徳性の住まいそのものがあります。これらから、自然的なものが霊的に生きるようにと人間の中で霊的なものと自然的なものが結合していることが知覚されます。
死後も同様ですが、それでも異なっています、その時、霊魂は自然界で物質的な身体を着たように実体的(本質的)な身体を着るからです。
[5]多くの者により、心の知覚と思考は、霊的なので、有機的にまとめられた形によらないで、裸のまま流入することが信じられています。しかし、そのように夢見る者は、そこに知覚と思考がその始まり〔の状態〕で存在している頭の内部を見ていません。そこには脳があり、灰質と髄質の実体が編み上げられ、組み合わせられています、そして腺・腔・隔壁があり、そしてそれら全部が脳膜と脳の外被に取り巻かれています。そして人間はそれらすべての健全なまたは歪んだ状態にしたがって、聡明にまたは愚かに考え、欲します。それゆえ、その者の心の器官を形成するものにしたがって理性的であり、道徳的です――なぜなら、人間の理性的な視覚は、知性であり、霊的な光の受容へと有機的にまとめられた形なしには、目なしの自然的な視覚のように、属性づけるものが何もないからです。その他〔その多くの例があります〕。

霊魂と身体の交流

12◀︎目次▶︎14

11この流入は、人間のもとの愛と知恵の状態にしたがって受け入れられる

13.  人間はいのちではなく、神からのいのちを受け入れる器官であること、また知恵と一緒の愛がいのちであること、なおまた神は愛そのものと知恵そのものであり、このようにいのちそのものであることが前に示されました。ここから、人間が知恵を愛すれば愛するほど、すなわち、知恵がその者の愛の内部にあればあるほど、それだけ神の映像、すなわち、神からのいのちの容器であることがいえます。そして逆に、愛に対立し、そこから狂気の中にいればいるほど、それだけ神からのいのちを受け入れないで、地獄からのいのちを受け入れ、そのいのちは死と呼ばれます。
[2]愛そのものと知恵そのものは、いのちではなくて、いのちのエッセ(存在)であり、愛の快さと知恵の快感は、情愛であって、いのちを構成します、というのは、いのちのエッセ(存在)はそのエキシステレ(実在)によっているからです。神からのいのちの流入は、それ自体に楽しさと快感をもたらします、春の時の光と熱の流入のように人間の心の中へ、そしてまた、すべての種類の鳥類と獣、それどころか植物の中にも楽しさと快感をもたらし、それらはその時、発芽し、繁殖します。なぜなら、楽しさと喜びが顔を広げ、霊魂の快活な流入へと顔を適合させるように、愛の楽しさと知恵の快感は、心(アニムス)を広げ、受け入れることへと心を適合させるからです。
[3]知恵の愛が働きかけている人間は、〝エデンの園〟のようです。そこには二つの木が、一つはいのちの木、もう一つは善悪の知識の木があります。いのちの木は神からの愛と知恵を受け入れるもの、善悪の知識の木はそれ自体からそれらを受け入れるものです。後者は狂っていますが、それでも自分を神のように賢明であると信じています。けれども、前者は賢明であり、神おひとり以外にだれも賢明でないと信じており、人間は、このことを信じれば信じるほど、さらにこのことを欲すると感じれば感じるほど、それだけ賢明です。しかし、これらについて多くのことが『結婚愛』についての著作に挿入されたメモラビリアの132から136番に見られます。
[4]それらを証明する天界からの一つの秘義をここに加えます。天界のすべての天使は、前頭部(額)を太陽としての主に向け、地獄のすべての使いたちは、後頭部をその方に向けます。後者はその意志の情愛の中に流入を受けています、それは本質に欲望であり、理解力を一致させるようにします。しかし、前者は、その理解力の情愛の中に流入を受けており、意志を一致させるようにします。ここから、これらの者〔理解力に流入を受ける者〕は知恵の中に、しかし、それらの者〔意志に流入を受ける者〕は狂気の中にいます。
というのは、人間の理解力は大脳の中に住んでいて、それは前頭部(額)の下にありますが、しかし、意志は小脳の中に〔あって〕、それは後頭部にあるからです――
[5]虚偽から狂っている人間は自分の悪の欲望に好意をもち、理解力からの理性によってそれらを強めることを、また賢明な人間は真理から自分の意志の欲望がどんなものであるか見て、そしてそれらを抑制することをだれが知らないでしょうか。このことを賢明な者が行ないます、なぜなら、神に顔を向ける、すなわち、自分自身でなく神を信じるからです。しかし賢明でない者はそのことを行ないます、なぜなら、神から顔を背かせる、すなわち、神でなく自分自身を信じるからです。
自分自身を信じることは、神からでなく自分自身から、愛し、賢明であると信じることです、またこれが「善悪の知識の木」から食べることによって意味されます。しかし、神を信じることは自分自身からでなく神から、愛し、賢明であると信じることです、またこれが「いのちの木から食べる」ことです(黙示録2・7)。
[6]これらから、しかし依然として月夜の光の中でのようにしか知りませんが、神からのいのちの流入を受けいれることは、人間のもとの愛と知恵の状態にしたがっていることを知覚することができます。
この流入は、植物の中への光と熱の流入によってさらに説明することができます。植物は、それらを形成する繊維の構造にしたがって、そのように受け入れにしたがって、花を咲かせ、果実を生じさせます。そしてまた、宝石の中への光線の流入からも説明できます。それらはそれらを構成する部分の位置にしたがって、そのように受け入れにもしたがって、それら〔光線〕を色に変えます。同じく、光学ガラス(虫めがね)と雨水によって〔説明できます〕、それらによって、投射、屈折、またこのように光の受け入れしたがって、虹が現われます。霊的な光に関して人間の心も同様です、それは太陽としての主から発出し、絶えず流入しますが、いろいろに受け入れられます。

霊魂と身体の交流

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12  人間の中で理解力は、啓発された理性にしたがって、天界の天使のいる光の中へ、すなわち、知恵の中へ上げられることができる。その意志は、生活の行為にしたがって同様に、熱の中へ、すなわち、愛の中へ上げられることができる。しかし、意志の愛は、理解力からの知恵が教えることを人間が欲し、行なわないかぎり、上げられない

14.  人間の心によってその二つの能力が意味され、それらは理解力と意志と呼ばれます。前に示したように、理解力は天界の光の容器であり、その本質は知恵です、また意志は天界の熱の容器であり、その本質は愛です――これらの二つ、知恵と愛は、太陽としての主から発出し、天界の中へ普遍的にまた特定的に流入し、そこから天使に知恵と愛があり、そしてまたこの世の中に普遍的にまた特定的に流入し、そこから人間に知恵と愛があります。
[2]しかし、これら二つは結合して主から発出し、そして同様に結合して天使と人間たちの霊魂に流入します、けれども、彼らの心の中に結合して受け入れられません、最初にそこに理解力をつくる光が受け入れられます、そして徐々に意志をつくる愛が受け入れられます。これもまた摂理によります、すべての人間は新しく創造されなくては、すなわち、改心されなくてはならないからです、またこれは理解力によって生じます。というのは、人間は幼年期から真理と善の知識を吸収し、それらから善く生きることを、すなわち、正しく欲して行なうことを教えられ、そのように意志は理解力によって形成されるからです。
[3]この目的のために、人間に、ほとんど天界の天使がいる光の中へさえも、理解力を高揚させる能力が与えられています。世でしばらく繁栄し、死後、永遠に幸福となるため、自分が欲し、そこから行なわなくてはならないことは何かを認めるためです。自分自身に知恵を得て、意志をその下に服従させて保つなら、繁栄し、幸福になります。しかし、自分の理解力を意志の下に服従させるなら、繁栄せず、不幸になります。その理由は、意志は生まれながらに悪へ、極悪なものへすら傾いているからです。それゆえ、それが理解力によって抑制されないなら、人間は邪悪な行為へ突進します、それどころか、野獣の生来の本性から、自分自身のためにだれであろうと、自分に好意を持たず、同意しない者を、略奪し、殺害します。
[4]さらに、理解力が別々に完成され、意志がそれによって完成されることができなかったなら、人間は人間でなくなり、獣となります。というのは、その分離なしに、また理解力が意志の上へのぼることなしに、考えること、また考えることから話すことはできず、ただ自分の情愛を音にするだけであったであろうからです。理性から行動することもできず、本能から行動するだけで、まして神の存在することなど、またその神によって結び付き、永遠に生きることなどできません。というのは、人間は自分自身からのように考え、意志します、この「自分自身からのように」が、結合における相互のものであるからです。なぜなら、反作用なしに能動と受動の結合がないように、相互のものなしに結合はありえないからです。
神おひとりが働き、人間は働きかけられます、そしてすべての外観で自分自身からのように反応します、それでも、内部では神からです。
[5]これらから、人間の意志の愛が、理解力によって高揚されるなら、どのようなものであるか、なおまた、高揚されないなら、どのようなものか、したがって人間がどのようなものであるか、正しく知覚して見ることができます。
しかしこのことは、人間の意志の愛が理解力によって高揚されないなら彼がどんなものになるかは、たとえによって説明されます。
その者は高い所を飛んでいるワシのようです、しかし、雌のニワトリ、白鳥のひな、羊の子すら、その欲望に属する食物を下方に見るとすぐに、瞬間に飛びかかり食い尽くします――姦通者ともまた似ています、彼は下の部屋に娼婦を隠し、時々、家の最も高い部位に登り、そこに滞在する者と貞潔について賢く話します、しかし、交替に仲間から急いで去り、下方で娼婦と自分の好色を満たします――
[6]塔の中の泥棒とも似ています、彼はそこで見張り番のふりをしますが、下方に強奪の対象を見るとすぐに、下へ急いで駆けつけ、それを略奪します――沼沢のハエにもまたたとえることができます。それらは走っている馬の頭上を柱のように飛びます、馬が休むと離れ去り、自分たちに心地よい沼沢に漬かります――その者の意志あるいは愛が理解力によって高揚されていない人間はこのようです、というのは、その時、下方の足にとどまって、自然的な不潔なものに感覚的な欲望に浸っているからです――理解力からの知恵によって意志からの欲望の誘惑を抑制する者はまったく異なっています。その者のもとで、理解力は意志と婚約し、したがって、その後、知恵は愛と結婚し、楽しさとともに上方で一緒に住みます。

霊魂と身体の交流

14◀︎目次▶︎16

13  獣のもとではまったく異なる

15.  目の前の外観だけから身体の感覚で判断する者は、獣は人間のように等しく意志と理解力があり、それゆえ、人間は話すことが、このように考え、欲求することを口に出すことができる、しかし獣は単にそれを音〔鳴き声〕にするだけであり、このことだけが違っている、と結論します。しかしそれでも、獣は意志と理解力を持たず、わずかに両方の外観があるだけであり、それを学者は類似と呼んでいます。
[2]人間が人間であるのは、自分の理解力を意志の欲求の上方に高揚すること、このように上方からそれを知ること、見ること、そしてまたそれを抑制することができるからです。しかし、獣が獣であるのは、欲求がそれ〔獣〕に、行なうことを行なうようにとさせるからです。それゆえ、人間は自分の意志が理解力の服従の下にあることによって人間です。しかし、獣はその理解力が意志の服従の下にあることによって獣です――これらから、次のことが結論されます。人間の理解力は、天界からの光の流入を受け入れ、これを自分のもののように把握し、認め、これからすべての変化とともに完全にそれ自体からのように分析的に考えるので、生きていて、それゆえ、真の理解力であること、またその意志は、天界の熱の流入を受け入れ、これからそれ自体からのように活動するので、生きていて、ここから真の意志であること、しかし、獣は逆であることです。
[3]そのために、意志の欲望から考える者は、獣にたとえられます。そしてまた霊界の中で、遠くからは獣のように見られます。またさらに同様に行動します、そのとき相違は、欲するなら〔獣と〕異なって〔行動〕できることだけです。しかし、理解力によって自分の意志の欲望を抑制し、ここから理性的に賢明に行動する者は、霊界の中で人間として見られ、天界の天使です。
[4]一言でいえば、獣のもとの意志と理解力は常に密着しています、意志は本質的に盲目であるからです、というのは、〔意志は〕熱のものであって光のものではなく、理解力もまた盲目にするからです。ここから、獣は何を行動したらよいか知らないし、理解していません。それでも行動します、なぜなら、霊界からの流入から行動するからです、このような行動は本能です。
[5]獣は行動することを理解力から考えると信じられています、しかしそんなことは少しもありません、単にその獣に創造から内在する自然的な愛から、その身体の感覚の補助として行動へ導かれています。人間が考え、話すことは、もっぱらその理解力が意志から分離でき、天界の光の中へまでも高揚されることができるからです。なぜなら、理解力が考え、思考が話すからです。
[6]獣がその性質に刻み込まれた秩序の法則にしたがって行動し、そしてある獣は、多くの人間とは異なって、道徳的また理性的であるかのように行動するのは、その理解力が意志の欲求に服従していて盲目であり、ここから、人間のように、邪悪な推論によって意志を歪めることができなかったからです。
前に述べた獣の意志と理解力によって、その〔獣の意志と理解力の〕似たものと類似物が意味されることに注意してください。類似物は外観からそのように名前をつけられています。
[7]獣の生命は、理解力が眠っていて意志から歩きまわり、行動する夢遊病者にたとえことができます――そしてまた、犬に導かれて道を行く失明者に――例えばまた規定にしたがって習慣とそこからの惰性から作業する愚かな者に――同様に、記憶を欠き、そこから理解力を奪われた者にたとえられます。その者はそれでも、着ること、おいしいものを食べること、異性を愛すること、家から家へ街路を歩くこと、また感覚を迷わせ、肉欲にふけり、それらの誘惑と快楽により駆り立てられるようなことを行なうことを、知り、学びます、それでも考えません、ここから話すこともできません。
[8]これらから、獣が理性を授けられていて、外側の形によって、また内部に隠している理性を口に出すことができないことによってだけ、人間から区別される、と信じる者は、どれほど欺かれているか明らかです。これらの欺きから、多くの者もまた、死後、人間が生きるなら、獣もまた生きること、逆に、死後、獣が生きないなら、人間もまた生きない、と結論します。加えて、意志と理解力について、そしてまた段階についても、それらによって人間の心があたかも梯子によるかのように天界へ登るという無知から起こる多くの空想があります。

霊魂と身体の交流

15◀︎目次▶︎17

14  これまで知られていなかったが、霊界に三つの段階、自然界に三つの段階があり、それらの段階にしたがってすべての流入が生ずる

16  結果から原因を調べることによって、二重の種類の段階があり、一つはその中に〝先のもの〟と〝後のもの〟があり、もう一つはその中に〝大きいもの〟と〝小さいもの〟があることがわかります―― 〝先のもの〟と〝後のもの〟を区別する段階は、高さの段階、なおまた分離した段階とも呼ばれます。けれども、〝大きいもの〟と〝小さいもの〟それらによってその間が区別される段階は、広さの段階、そしてまた連続した段階と呼ばれます。
[2]高さの段階または分離した段階は、他のものからもう一つのものの〝生産〟や〝合成〟のようです。例として、繊維から何かの神経が、小繊維からそれぞれの繊維があります。または、部分から何かの材木・石・または金属が、小部分からそれぞれの部分があります――けれども、広さの段階または連続の段階は、大量と少量の水または空気またはエーテルのように、そして大きなまた大きくない塊の材木・石・または金属のように、広さ・長さ・高さ・それと深さに関して、同じ高さの〝段階〟での〝増大〟と〝減少〟のようなものです。
[3]霊界と自然界のすべてと個々のものは、創造により、この二重の種類の段階の中にあります。この世の中の全動物界は全般的にも個別的にも、全植物界、また全鉱物界も等しく、これらの段階の中にあります。また太陽から地球までも大気の広がりもそうです。
[4]それゆえ、霊界と同様に自然界でも、高さの〝段階〟にしたがって、明瞭に区別された三つの大気があります、なぜなら、両方の場所に太陽があるからです。しかし、霊界の大気は、その起源から実体的であり、自然界の大気はその起源から物質的です。そして、大気はそれらの〝起源〟からそれらの段階にしたがって降りて来ており、それらは〝光〟と〝熱〟の容器であり、進む乗り物のようであるので、光と熱の三つの〝段階〟があることがいえます。霊界での〝光〟はその本質では知恵であり、そこの〝熱〟はその本質では愛であるので、前の章の中に示されたように、知恵の三つの段階と愛の三つの段階、それゆえ、いのちの三つの段階があることがいえます。というのは、それらは通り過ぎるものによって段階付けられるからです。
[5]ここから、天使の三つの天界があり、最高のものは、第三の天界とも呼ばれ、そこに最高の段階の天使がいます。中間のものは、第二の天界とも呼ばれ、そこに中間の段階の天使がいます。そして最も下のものは、第一の天界とも呼ばれ、そこに最も下の段階の天使がいます。それらの天界もまた、知恵と愛の段階にしたがって区別されます。最も下の天界の中にいる者は、善と真理を知ろうとする愛の中におり、中間の天界の中にいる者は、それらを理解しようとする愛の中におり、また最高の天界の中にいる者は賢くなろうとする愛、すなわち、知り、理解しているそれらに従って生きようとする愛の中にいます。
[6]天使の〝天界〟は三つの〝段階〟に区別されているので、そこから人間の〝心〟もまた三つの〝段階〟に区別されています。それらは天使の映像、すなわち、最小の形の天界だからです。ここから、人間が三つのこれらの天界の天使になることができ、またこのことは主からの知恵と愛を受け入れるのにしたがって行なわれます。単に善と真理を知ろうとする愛を受け入れるなら、最も下の天界の天使に、それらを理解しようとする愛を受け入れるなら、中間の天界の天使に、賢くなろうとする愛、すなわち、それらに従って生きようとする愛を受け入れるなら、最高の天界の天使になります――人間の心が天界にしたがって三つの領域に区別されることは、『結婚愛』についての著作の270番に挿入されたメモラビリアの中に見られます。
これから、人間へまた人間の中へのすべての霊的な流入は、主から三つのこれらの段階を経て降りて来ること、また人間により知恵と愛の段階にしたがって受け入れられ、その中に人間がいることが明らかです。
[7]これらの〝段階〟の知識は、今日、最大に役立ちます。多くの者が、それらを知らないので、最も下の段階の中に――身体の感覚がその中にあります――停止し、とどまり、理解力の暗黒である無知から、それらの上方にある霊的な光の中に高揚されることができないからです。ここから、人間の霊魂と心、またその推理力について、さらに、天界についてまた死後の生活について何かを探究し、研究することに懸命になると直ぐに、自然主義が自発的かのように入り込みます。ここから、広場の中で、望遠鏡を手にして天を眺めて立ち、空虚な所説を口にするような者に、そしてまた、見るすべての対象について、また聞くすべての物事について、理解力からの何の理性もなく、しゃべり、推論もまたするような者にたとえられます。しかし、これらの者は自分を解剖学に熟練していると信じる肉屋のようです、ウシやヒツジの内蔵を内部からでなく外部から調べるからです。
[8]それでも、霊的な光(lux)の流入から照らされないで自然的な光(lumen)から考えることは、夢見ること以外の何ものでもなく、それらの考えから話すことは、道化を演じることであることが〝真理〟です。
しかし、これらの段階については、さらに多くのことが、アムステルダムで1763年に出版の『神の愛と知恵』についての著作の173から281番の中に見られます。

霊魂と身体の交流

16◀︎目次▶︎18

15 目的は第一の段階に、原因は第二の段階に、結果は第三の段階にある

17.  目的は、原因でなく原因を生むこと、原因は、結果でなく結果を生むこと、したがって順々に続く区別された三つのものであることをだれか見ませんか?
人間の目的は彼の意志の愛です、なぜなら、人間は愛するものを自分自身の前に置き、意図するからです。彼の原因は、彼の理解力からの理性です、なぜなら、目的はそれによって中間の原因を、すなわち、有効である原因を探し求めるからです。そして結果はそれらから、またそれらにしたがった身体の活動です。そのように人間の中に三つのものがあります、それらは高さの段階が続くのと同様に順々に続きます――それらの三つのものがもたらされる時、目的は内部に原因の中に、そして目的は原因によって結果の中にあり、それゆえ、それらの三つのものは結果の中に同時に存在します――そこから、みことばの中で述べられていること、「それぞれの者は彼の働きにしたがって裁かれる」〔黙示録 20・13〕と言われています、というのは、目的、すなわち、彼の意志からの愛は、そして原因、すなわち、彼の理解力からの理性は、彼の身体の働きである結果に、同時に内在するからです。人間の全部の性質がそのようです。
[2]これらのことを知らず、理性の対象をこのように区別しない者は、自分の思考の観念を、エピクロスの原子論の中に、またはライプニッツの単子(モナド)論の中に、またはヴォルフの単一実体論の中に制限することしかできません、このように自分の理解力をかんぬきで閉じ込めるようにし、霊的な流入について理性から考えることすらできません。何らかの前進について考えることができないからです。なぜなら、単一実体について、その著者が、「分割されたそれは無の中に落ち込む」と言っているからです。このように理解力は、まったく身体の感覚からのものである自分の最初の光の中にとどまるので、それ以上の段階に前進しません。
ここから、「霊的なものは自然的なものの希薄なものである」、なおまた、「理性的なものは人間にあるように動物にもまたある」、「霊魂は空気の息であり、死ぬ時に胸から吐き出されるようなものである」としか知りません。さらに多くのことを知っていますが、それらは光ではなく、暗黒に属するものです。
[3]霊界のすべてのものと自然界のすべてのものはこれらの段階にしたがって出てくるので、前章の中で述べられたように、それらの段階を知ることと分類すること、そして秩序の中で見ることが真の知性であることが明らかです。すべての人間がどのようなものであるかもまた、彼の愛が知られる時、それらの段階によって知られます、なぜなら、述べられたように、意志に属する〝目的〟、そして理解力に属する〝原因〟、そして身体に属する〝結果〟は、種から木、木から果実が続くように、彼の〝愛〟から続いているからです。
[4]三種類の愛があります、天界への愛・世への愛・自己への愛です。天界への愛は霊的であり、世への愛は物質的であり、そして自己への愛は形体的です。愛が霊的である時、それから続くすべてのものは、形がそれ自体の本質からのものであるように、霊的であるものを得ます。同様に、主要な愛が世または富に属し、このように物質的であるなら、それから続くすべてのものもまた、最初の原理から導かれたものがその原理からのものであるように、物質的であるものを得ます。同じく、主要な愛が自己への愛、すなわち、他のすべての者よりも卓越しようとする愛であり、このように身体的であるなら、それから続くすべてのものは、身体的であるものを得ます。その理由は、この愛にいる人間は自分自身だけを眺め、このように自分の心の思考を身体の中に浸すからです。そのために、すぐ前に述べられたように、ある者の支配愛を知り、同時に目的から原因へ、原因から結果へ、これらの三つが順々に高さの段階にしたがって進行して続いていることを知る者は、その人間全体を知ります――そのように天界の天使は、それぞれの者を、彼と話す時、知ります。話し声から彼の愛を知覚し、顔から彼の心象〔心に浮かぶイメージ〕を、また身体の振る舞いから彼の形(姿)を見ます。

霊魂と身体の交流

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16これらから、霊的な流入の性質が、その起源から結果まで、どんなものか明らかである

18.  霊的な流入はこれまで霊魂から身体の中へ導かれました、けれども、神から霊魂の中へ、またこのように身体の中へ導かれたのではありません。
このことが行なわれたのは、だれも霊界について、そこの太陽について、そこからすべての霊的なものがその泉からのようにわき出ることを、このように自然的なものの中への霊的な流入について何も知らなかったからです。
[2]今や霊界と同時に自然界にいて、両方の世界と両方の太陽を見ることが私に与えられたので、私は自分の良心からそれらを明らかにする責務を負っています。なぜなら、知ることは、もしだれかが知り、それを他の者もまた知るようにならないなら、何の助けとなりますか?富を集め、箱の中に隠し、ときどきそれらを、それらからの役立ちの少しの意図もなしに、単に見て、数えるだけであるなら、知ることは何ですか? 霊的な貪欲でしかありません。
[3]しかし、霊的な流入が何か、またどんなものか十分に知られるために、霊的なものがその本質では何か、自然的なものが何か、さらにまた人間の霊魂が何か、知る必要があります。そこで、この論文がそれらの無知のために欠陥のあるものとならないように、『結婚愛』についての著作に挿入されているいくつかのメモラビリアに諮ることが重要です。霊的なものについては、そこのメモラビリアの中の326から329番、人間の霊魂については315番、自然的なものの中への霊的なものの流入については380番、またそれ以外に415から422番にあります。

霊魂と身体の交流

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19.  ここに私は次のメモラビリアを付加します。
これらを書き終えた後、アリストテレスの弟子たちと、同時にデカルトの弟子たちと、またライプニッツの弟子たちと話すことが与えられるよう、主に祈願しました。霊魂と身体の交流について彼らの心にある見解を私が汲み取れるように、との目的のためです――祈願の後、三人のアリストレテス派の者、三人のデカルト派の者、三人のライプニッツ派の者、この九人の男たちが来て私のまわりに、左側にアリストテレスの礼拝者、右側にデカルトの追随者、背後にライプニッツの支持者が立ちました。彼らとの間に距離をおいて、遠く隔てたところに、月桂冠で飾った者のように三人の者が見られました。流れ入る知覚から、私は彼らが主唱者、すなわち、師匠その人であると知りました。ライプニッツの後ろに、一人の者が彼の衣服の裾を手に保持して立っており、その者はヴォルフであると語られました。
これらの九人の男たちは、相互に眺めたとき、最初、愛想のよい声で挨拶し、話しかけていました。
[2]しかし、間もなく、下方から〝霊〟が、右手に松明をもって起き上がり、それを彼らの顔の前で振り回した時、そこから敵対が生じ、三人は三人に反対して、恐ろしい顔つきでにらみ合いました。というのは、口論し、争う欲望が入り込んだからです。その時、アリストレテス派の者が、その者はスコラ哲学者でもありましたが、話し始めて、「ある者が入り口を通って部屋の中に入るように、対象は感覚を経て霊魂の中に流入することを、そして霊魂は流入にしたがって考えることをだれが認めませんか? 〝恋慕する者〟が美しい処女または婚約者を見る時、彼の目はきらめき、彼女の愛を霊魂に抱きませんか?〝貪欲な者〟が、財布を、その中の金銭を見る時、すべての感覚がそれに対して燃え、そこから霊魂の中に入ってきて、それらを所有する欲望をかり立てませんか? だれか〝高慢な者〟が他人から自分についての称賛を聞く時、耳をそばだて、耳がそれらの称賛を霊魂へ伝えませんか?身体の感覚は玄関のようではありませんか?もっぱらそこを通ってだけ霊魂へ入ることが生じます。これらや無数の同様の他のものから、〝流入〟は自然のものから、あるいは物質的なものであること以外に、だれが結論することができますか?」と言いました。
[3]これらの言説に、額に指をあてていたデカルトの追随者たちは、今やその指をもどし、応答して語りました。「ああ、あなたがたは外観から話しています。あなたがたは、目それ自体が処女または婚約者を愛するのではなく、霊魂が愛することを、同じく、身体の感覚それ自体が財布の中の金銭を熱望するのではなく、霊魂が熱望することを、同様に、耳がおべっか使いの称賛を捕えるのではないことを知りませんか? 感じることを行なうものは知覚であり、知覚は霊魂に属し、器官に属さないのではありませんか?思考以外に、他に何が舌と唇に話すようにさせますか、意志以外に、他に何が手に行なうようにさせますか、思考と意志は身体ではなく霊魂に属します。そのように、霊魂以外に、何が目に見ることを、耳に聞くことを、残りの器官に感じるようにさせますか、もし、あなたにできるなら、話してください。これらから、また無数の他の同様のものから、身体の感覚的なものを味わうそれぞれの者は、身体から霊魂の中への流入はなく、霊魂から身体の中への流入があることを結論します。これを私たちは誘因による流入、そしてまた〝霊的な流入〟と呼びます」。
[4]これらを聞くと、ライプニッツの支持者であった前の三人の集団の後ろに立っていた三人の男たちは、声を高くして、「私たちは両方の側からの論証を聞き、それらを比較し、多くの点で後者は前者にまさり、多くの点で前者は後者にまさることを知覚しました。それゆえ、もし許されるなら、私たちは論争をまとめます」と言いました。そして、「どのように」との質問に、「身体の中への霊魂の何らかの流入があるのでも、霊魂の中への何らかの身体の流入があるのでもなく、両方とも同時に一致して瞬間に起こる作用です。これをかの有名な著者は〝予定された調和〟と呼ぶ美しい名称で区別しました」と語りました。
[5]これらのことが行なわれて、再び〝霊〟が松明を手に、しかし今や左手にもって現われました。そしてそれらを彼らの後頭部へ向けて振り回しました。ここから、すべての観念が混乱させられ、「私たちの霊魂も身体も、私たちがどの側へ移るべきか知りません、それゆえ、私たちはクジによってこれらの論争を解決しよう、最初に出て来るクジに同意しよう」と叫びました。三つの紙切れを取り、それらの一つに物質的な流入、もう一つに霊的な流入、第三のものに予定された調和と書き、それら三つを帽子のくぼみの中に入れ、取り出す者を一人選びました。その者は手を入れ、霊的な流入と書かれている紙切れをつかみました。それが見られ、読まれて、すべての者が、それでもある者ははっきりした流れる声で、ある者は不明瞭で引っ込めるような声で、「最初に出て来たのだから私たちはこれに賛成しよう」と言いました。
[6]しかし突然にその時、天使はそこに立って、「あなたがたは霊的な流入の紙切れが偶然に出て来たと信じないでください、摂理から出て来たのです。というのは、あなたがたの観念は混乱していたので、その〝真理〟を見ていません、しかし〝真理〟そのものが、あなたがたがこれに同意するように、彼〔クジを引いた者〕の手に与えたのです」と言いました。

霊魂と身体の交流

19◀︎目次

20.  かつて、私は「どのように哲学者から神学者になったのですか」と尋ねられ、「漁師たちが主により弟子と使徒たちとされましたが、そのようにです。私もまた青春の最初のときから霊的な漁師でした」と答えました。これを聞くと、〔その相手は〕「霊的な漁師とは何ですか」と尋ねました。私は、「みことばの中で漁師はその霊的な意味で、自然的な〝真理〟を探求し、教え、そしてその後、霊的な〝真理〟を理性的に探求し、教える人間を意味します」と返答しました――
[2]「このことはどのように証明されるのですか」との質問に、私は、「みことばの中の次の箇所からです」と言いました。

その時、海から水が尽き、川は干上がり、かれる。それゆえ、漁師たちは嘆き、海の中に釣針を投げ出す者はすべて悲しむ(イザヤ 19・5、8)。
他のところに――その水が良くされた川に、エン・ゲデイからも漁師たちは立ち、魚網を拡げて近づいた。彼らの魚は種類にしたがい、大海の魚のように、大いに数多かった(エゼキエル 47・9、10)
また他のところに、「見よ。わたしは多くの漁師たちを送る――主は語られた――イスラエルの子らを漁る者を送る」(エレミヤ 16・16)

ここから、なぜ主が漁師たちを弟子たちに選び出され、「わたしの後ろに来なさい、わたしはあなたがたを人間の漁師にします」(マタイ 4・18、19。マルコ1・16、17)、またペテロに、多くの魚をとった後、「今から、あなたは人間をとります」(ルカ 5・9、10)と語られたか明らかです。
[3]その後、私は『啓示された黙示録』から漁師の意味の起源を示しました。すなわち、水は自然的な真理を意味するからです、50、932番。同様に、川もそれを意味します、409、 932番。魚は自然的な真理の中にいる者を意味します、405番。ここから、漁師は〝真理〟を探求し、教える者を意味します。
[4]これを聞いて、質問する者が声を上げて言いました、「今や、なぜ主が弟子を漁師と呼び、選び出されたか理解できます、それゆえ、あなたもまた選ばれたことに驚きません。あなたが語られたように、青春の最初から霊的な意味であなたは漁師、すなわち、自然的な真理の探究者であったからです。今や、霊的な〝真理〟の探究者です、霊的な真理は自然的な真理の上に基礎づけられるからです」。
彼は理性的な男でしたから、これらに加えました、「主おひとりが、ご自分の新しい教会のものであるそれらを知覚し、教えるのにだれが適しているか知られています。高位聖職者たちの間のだれか、あるいは彼らに仕える者の間のだれかでしょう」。
それに加えて、「キリスト教の神学者のだれが、神学者として任命される前にギムナジウムで哲学を学ばないでしょうか、そうでなければ、そこに知性がありますか?」
[5]最後に彼は、「あなたは神学者になられたので、あなたの神学がどんなものか公開してください」と言いました。私は、「それには二つの原理があります、神はひとりであられること、それと仁愛と信仰の結合があることです」と答えました。これに彼は、「だれがこれらを否定しますか」と応答し、私は、「内的に調べられるとき、今日の神学です」と答えました。

(スヴェーデンボリ『霊魂と身体の交流』2013年/スヴェーデンボリ出版)