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結婚愛 31

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31 しかし、人間は、死後、自然的な人ではなく、霊的な人であること、そしてまた、自分自身にまったく似たものに、そして依然として自然界にいるとしか知らないように、似たものに見えることを知らなくてはなりません。というのは、似た身体・似た顔・似た話し方・似た感覚であるからです、似た情愛と思考、すなわち、似た意志と理解力をもつからです。
確かに、実際に似たものではありません、霊的であり、ここから内的な人であるからです。しかし、彼に相違は見られません、自分の状態を前のものすなわち自然的なものと比較することができません、というのは、自然的なものを捨て、霊的なものの中にいるからです。それゆえ、しばしば、私は、彼らが、「前の世にいるとしか知らない、〝もはやその世界に残した者を見ない、しかしその世界から去った者をすなわち死んだ者を見る〟という相違だけがある」と言っているのを聞きました――けれども、今や前者を見ず、後者を見る理由は、自然的な人ではなく、霊的な人すなわち実体的な人であるからです。そして霊的な人すなわち実体的な人は、自然的な人すなわち物質的な人が、自然的な人すなわち物質的な人を見るように、霊的な人すなわち実体的な人を見ます。しかし、実体的なものと物質的なものの間の相違のために、逆ではありません。それは前のものと後のものの間の相違のようです、そして前のものは本質的に純粋であるので、本質的に粗雑なものである後のものに見られることができません、後のものも粗雑であるので、本質的に純粋である前のものに、それゆえ、天使はこの世の人間に、この世の人間も天使に見られることができません。
人間が、死後、霊的な人すなわち実体的な人であることは、これが自然的な人すなわち物質的な人の中に内部に隠れているからです。これは彼にとって衣服のようなもの、またはぬけがらのようなものです、それらを捨てて、その霊的な人すなわち実体的な人が、そのように、さらに純粋な、さらに内的なさらに完全な人が出てきます。
霊的な人は、たとえ自然的な人に見られなくても、それでも完全な人間であることは、復活の後、使徒に見られた主からはっきりと明らかです、現われ、すぐに消えました、それでも現われ、消えたとき、ご自分に似ている人間でした。彼らもまた、彼らの目が開かれて、その方を見たとき、そのことを言いました。