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結婚愛

まえがき◀︎目次▶︎2

結婚愛について知恵の歓喜

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(0)序 文

0 天界の楽しさとそこの婚姻について

1 私は、ここに続けられるものや各章の後の「メモラビリア」を読む多くの者が、「想像の作り事である」と信じるであろうことを先見します。しかし、作り事でなく、心が眠らされたある種の状態の中で見られたものでもなく、完全に目覚めた状態の中で、真理として、真に見られ、聞かれたものであることを断言します——というのは、主ご自身がご自分を私に示すことを、また「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって意味される新しい教会に属すものになるそれらを教えるために私を遣わすことを喜ばれたからです。その目的のために、私の心の内的なものと霊を開き、そのことから天使とともに霊界にいると同時に人間とともに自然界にいることが私に与えられ、このことが今では25年にわたります。

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1◀︎目次▶︎3

2 かつて私に、東の空の下を飛んでいる天使が見られた、その手にらっぱがあり、それを口にし、北・西・南に向かってらっぱを吹いた。
マントを着ていて、飛ぶことからそれが後ろへ流れた。ルビー(赤めのう)とサファイア(青玉)からできた燃えて輝いているような帯を締めていた。下方へ飛んで、私へと続く地上にゆっくりと降りた——地に触れるかのように、足で立ち、あちらこちらを歩き、その時、私を見て、私へ向かって歩みを向けた。
私は霊の中にいて、南方の丘の上に立っていた。
そして、彼が近くにいたとき、私は彼に話しかけて質問した、「今、何事があるのですか?私はあなたのらっぱの音を聞き、空中を通ってあなたが降りるのを見ました」。
天使は答えた、「私は、学問で最も有名な者を、才能で最も鋭敏な者、そして知恵のある者として最も卓越している者を召集するために派遣されました。この地の上に続いて広がるキリスト教界の国からその者たちを、あなたが滞在しているこの丘の上に、集合させ、世で「天界の楽しさ」と「永遠の幸福」について何を考え、理解し、どんな知恵を持ったか、胸から心を取り出す(=明らかにする)ためです。
[2]私が派遣された理由は、東にある私たちの天界の社会に、世から新しくやって来たある者が入ることを許されて、『全キリスト教界の中のひとりも、何が天界の楽しさと永遠の幸福か、そのように何が天界か、何も知らない』と語ったからです。
このことに私の兄弟と仲間は非常に驚き、私に、『降りなさい。将来の生活についてこのような無知の暗黒または暗やみがキリスト教徒にあることが真理であるかどうか、自然界から去った後、死ぬすべての者が最初に集められる霊たちの世界の中の多くの者の口から、私たちが確実にするために、最も賢明な者たちを、大声で呼び、招集しなさい』と言いました」。
また言った、「少し待ちなさい、するとあなたは、ここへやって来る賢明な者の群れを見ます。主が彼らのために、集合する会館を用意します」。
[3]私は待った、すると見よ、半時間の後、私は北から二つ、西から二つ、南から二つの集団を見た。やって来るに応じて、集団は天使により準備された会館の中に導かれ、そこの方角にしたがって彼らに指定された場所を占めた。
六つの集団または群れがいた。第七の集団は東からであった。それは光のために他の集団に見られなかった。
集まった後、天使は召集の理由を明かし、「天界の楽しさ」と「永遠の幸福」について、群れが順に、自分たちの知恵を明らかにするよう請い求めた——その時、それぞれの群れが、顔と顔を合わせて、前の世で把握した観念からその問題を思い出すために輪の中に丸く塊り、その時、熟考し、そして協議の後、考察したものを明らかにした。

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2◀︎目次▶︎4

3 協議の後、北からの「第一の群れ」は、天界の楽しさと永遠の幸福は、天界の生活そのものと一つである、と言った——「それゆえ、天界に入るそれぞれの者は、生活に関して、その祝祭に、結婚式のその祝祭に入る者と異ならない。私たちの視覚の前に、私たちの上に、天界は、そのように場所にあるのではないのか、そしてそこにあり、他の場所に幸せを越える幸せはなく、快楽を越える快楽はないのではないのか?人間は心のすべての知覚に関してまた身体のすべての感覚に関して、天界にいるとき、その場所に充満する楽しさから、これらの中へ引き入れられる——それゆえ、天界の幸福は、それは永遠のものでもあり、天界へ入ること、そして主の恵みにより入ること以外の他のものではない」。
[2]これらが言われて、北からの「第二の群れ」が、自分の知恵から次の予言(占い)を取り出した(明らかにした)——「天界の楽しさと永遠の幸福は、天使との最も喜ばしい交わり、彼らとの最も心地よい会話以外の他のものではない、それらから顔〔の表情〕は広がり、絶えず喜びの中に保たれ、全部の口は、交わりの快い会話とおどけからの魅力ある笑いの中に保たれる。このようなものの永遠の変化以外に何が天界の楽しさか?」
[3]西の方位からの賢明な者からの第一のものであった「第三の群れ」は、自分の情愛の思考から次のことを出した——「アブラハム、イサク、ヤコブとの祝宴以外の他の何が天界の楽しさと永遠の幸福か? それらの食卓の上に上等で豪華な食べ物が、そして優良銘柄の高貴なワインがあり、宴会の後に、遊びと最も甘美な歌の響きを間に入れて、娘と若者の楽団や笛の拍子に合わせて踊る踊りがある。最後に、夕方に、舞台からの演劇。またこの後、再び宴会〔があり〕、このように毎日、永遠にある」。
[4]これらが言われて、西の方位からの第二のものであった「第四の群れ」が、自分の見解を発言し、言った——「私たちは天界の楽しさと永遠の幸福について多くの観念を抱いている、私たちはいろいろな楽しさを調べ、それらを自分たちの間で比較し、天界の楽しさが楽園の楽しさであることを結論した。楽園以外に何が天界か? それは東から西に、南から北に広がり、その中に果実の木と歓喜の花が、それらの中央に壮大ないのちの木があり、その周りに祝福された者が、上品な味の果実を食べ、そして最も甘美な香りの花の花環で飾られて座る。これらが永続する春に吹きかけられて、日々、無限の変化とともに生え出て、再び生長する。この絶え間なく起こることと開花から、同時に常に春の調和から、心は絶えず活気づけられ、日々、新しい楽しさを、引きつけ、呼吸することと異ならない、ここから永遠の花園へ、これによって、アダムとその妻が創造された原始の状態へ戻され、このように地から天界へ移された彼らの楽園へ戻される」。
[5]南の方位からの才気ある者たちからの最初のものであった「第五の群れ」からは、このことが発言された——「天界の楽しさと永遠の幸福は、卓越した支配と宝物の最も多くの富〔以外の〕他のものではない、ここから王にまさる荘厳さと輝き以上の輝き〔がある〕。
天界の楽しさは、この絶え間のない享受は、それが永遠の幸福であって、私たちは前の世でそれらを所有した者から認めた。特に、天界で幸福な者は、主とともに支配し、そして王や君主になる者である〔ことを認めた〕、その方の息子であるからである、その方は王の王また主の主であり、王座の上に座り、天使たちが彼らに仕える。
私たちは天界の荘厳さを、天界の栄光が描かれている「新しいエルサレム」のそれぞれの門が一つの真珠であったこと、街路は純金から〔できており〕、宝石の上に城壁の土台があったことから認めた。したがって、天界の中のそれぞれの者は、金や輝く宝石からの自分の宮殿を受け、そして支配は順にある者から他の後継者へ続く。
私たちはこのようなものに楽しさが内在し、そして幸福が植え付けられており、神の誓約は破られないものであることを知っているので、私たちは他のところから最も幸福な天界の生活を導くことができない」。
[6]この後、南の方位からの第二のものであった「第六の群れ」が、声を上げ、言った——「天界の楽しさとその永遠の幸福は、神への永続する賛美、永遠に続く祝祭、そして歌と歓呼とともに最も祝福された礼拝以外の他のものではない。このような神への不変な心の高揚、受け入れへの完全な信頼とともに、自分たちの至福をくださる神の寛大さのための祈りと称賛である」。
群れからのある者が、その賛美は壮大な光、そして最も香ばしい香をたくこと、華麗な行列とともにあることを付け加えた。〔その行列は〕最大の高位聖職者が前を進み、大きな角笛とともに、その高位の者と鍵の運び手が、〔位の〕大小の者が続き、これらの後に、シュロ(の枝)を持った男たち、手に金の像を持った女たちが続く。

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4 光のために他の者から見られない「第七の群れ」は、天界の東からであった。らっぱを持つ天使がいたのと同じ社会からの天使たちであった。
彼らは天界で、〝キリスト教界に、何が天界の楽しさか、永遠の幸福か、決して知らない者がいる〟と聞いたとき、自分たちの間で言った、「このことは決して真理ではありません。それほどの暗黒は、キリスト教徒のこのような心の麻痺は存在するはずがありません——私たちも降り、真理であるかどうか聞きましょう。もし真理であるなら、確かに驚きです」。
[2]その時、天使たちは、らっぱの天使に言った、「あなたは知っています。天界を願い、そこの楽しさについてある確かなものを考えたそれぞれの人間が、死後、自分の想像の楽しさの中に導き入れられること、その後、その楽しさがどんなものであるか、それは心のむなしい観念にしたがっていること、またそれらの幻想の狂信にしたがっていることを経験により学ばされ、それらから教育され、教えられることです。
このことが霊たちの世界で、前の世で天界について熟考し、そこの楽しさについて何らかのものを、これらの欲望にまでも閉じ込めた大部分の者に生じることです」。
これらを聞いて、らっぱを持った天使はキリスト教界の賢明な者から招集された六つの群れに言った、「私に従いなさい、私はあなたがたをあなたがたの楽しさの中へ、そのように天界へ導き入れます」。

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4◀︎目次▶︎6

5 これらを言って、天使は先立って行き、最初に、天界の楽しさは最も喜ばしい交わりと最も甘美な会話だけにあることを確信した者からの群れを集めた——これらの者を天使は北の方位にある集会へ導いた、それらの者に〔とって〕天界の楽しさは前の世のものと異なるものではなかった。
そこに大きな家があり、その中にこれらの者が集められた。家に五十以上の部屋があり、いろいろな種類の会話にしたがって分けられていた。
これらの部屋の中で、広場や街路の中で見て、聞いたようなものについて話された。他の部屋では、いろいろな愛すべきことが話された——美しい異性について、冗談がちりばめられ、機嫌のよい笑い顔が交わりの中のすべての者に広がった——他の部屋では、宮廷、国に仕える者(大臣)、政治の状態について、秘密の評議会から流れ出るいろいろなことについてのニュース(新しい情報)が、出来事についての推理と憶測と一緒にして話された。他の部屋では商売について。他の部屋では文学の事柄について。他の部屋では市民のまた道徳的な生活の思慮分別のようなものについて。他の部屋では教会についてと宗派について、等々。
私にその家の中を眺めることが与えられ、部屋から部屋へ走りまわる者を、自分の情愛とここからの楽しさの交わりを捜し求める者を見た。交わりの中に、私は三つの種類の者を見た、話すことへと喘いでいる(熱望する)ような者、知ることへの欲望のある者、聞くことをほしがる者(熱心な者)である。
[2]家には、それぞれの方位に四つの扉があった、私は、多くの者が交わりから解放され、外へ出ようと急いでいることに気づいた。
私は、東の扉へ向かう者を追い、その近くに悲しい顔で座っている者を見て、近づき、なぜ、そのように悲しんで座っているのか質問した——答えた、「この家の扉は出る者に対して閉ざされている。今や、私たちが入り、私たちの願望であった交わりと会話の生活を過ごした時から三日である。会話の連続から、私たちは、彼らからのつぶやき声を聞くことに、ほとんど耐えられないほどうんざりさせられた。それゆえ、飽き飽きしてこの扉へ集まり、たたいた。しかし、私たちに、『この家の扉は出る者に対して開かれない、しかし、入る者に〔開かれる〕。とどまり、天界の楽しさを享受せよ』との答えがあった——それらの応答から私たちは、ここに永遠に私たちはとどまらなくてはならないことを結論した。ここから悲しみが私たちの心に入り込み、今や、胸が引き締められ、不安が起こり始めた」。
[3]その時、天使は彼らに話しかけ、言った、「この状態はあなたがたの楽しさの死です、あなたがたはそれをもっぱら天界のものであると信じました。そのときそれでも天界の付けたしのものでしかありません」。
彼らは天使に質問した、「では、何が天界の楽しさか?」
天使はこれにわずかなものを答えた——「自分自身にまた他の者に役立つものを行なう快さです。役立ちの快さはその本質を愛から、実在を知恵から得ています。愛から知恵によってわき出る役立ちの快さは天界のすべての楽しさの霊魂といのちです。
[4]天界に最も喜ばしい交わりがあり、それが天使たちの心(mens)を快活にし、アニムスを楽しませ、胸を喜ばせ、身体を活気づけます。しかし、これらは、自分の職務の中で役立ちを行なった後に彼らにあります。これらから、彼らのすべての喜びと楽しみ(満足感)の中に、霊魂といのちがあります。しかし、もしそれらの霊魂といのちを(あなたが)取り去るなら、付けたしの楽しさはしだいに楽しさを生まなくなり、最初に無関心、その後、価値のないようなもの、最後に悲しみと不安を生みます」。
これらを聞いたとき、扉が開かれ、そばに座った者は跳び上がった。家へ逃げ去り、それぞれの者が自分の職務へ、自分の仕事へ〔戻り〕元気づけられた。

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5◀︎目次▶︎7

6 これらの後、天使は天界の楽しさと永遠の幸福について、アブラム、イサク、ヤコブとの宴会、宴会の後、遊びと演劇、そして再び、このように永遠に宴会があるという観念を自分自身に導き出した者に話しかけた——彼らに言った、「私に続きなさい、私はあなたがたをあなたがたの楽しさの幸福へ導き入れます」。
彼らを、森を通って厚板でおおわれた平らなところ(舞台)に導いた、その上に食卓が、一方の側に十五、もう一方の側に十五、置かれていた。
彼らは質問した、「なぜ、このように多くの食卓が?」
天使は答えた、第一の食卓はアブラム、第二はイサク、第三はヤコブのものであり、これらの次に、順に十二使徒の食卓です。もう一方の側に、同じ数の彼らの妻の食卓、最初の三つのはアブラムの妻サラ、イサクの妻リベカ、そしてヤコブの妻レアとラケル、そして残りの十二は十二使徒の妻の食卓です」。
[2]いくらかの時の経過の後、すべての食卓が(十分な)皿で満ち、これらの間のすきまは砂糖菓子の小さなピラミッドで飾られているのが見られた。
宴会に出席する者は、食卓の長を見ることを期待して、それらのまわりに立った。しばらくして、期待された者たち、アブラムから使徒の最後の者まで、行列の(適切な)順序で入って来る者が見られた。じきに、自分の食卓に近づくそれぞれの者が、座列に、その頭(主要な部分)に座った。ここから、周りに立つ者たちに言った、「私たちとともに、あなたがたも食卓に着きなさい」。男たちは彼らの父祖(族長)たちと食卓に着いた。女たちは彼らの妻たちと、喜びの中で、尊敬とともに食べ、飲んだ。昼食の後、それらの父祖(族長)たちは去った。その時、遊び、娘と若者の踊り、これらの後、演劇が始まった。
それらが終わって、再び宴会(ごちそう)へ招かれた、しかし、第一日にアブラムとともに、第二日にイサクとともに、第三日にヤコブとともに、第四日にペテロとともに、第五日にヤコブとともに、第六日にヨハネとともに、第七日にパウロとともに、また他の者と順に第十五日まで食べるといった状況で、そこから再び、同様の順序で祝宴が、座席を変えて更新され、このように、永遠に〔続けられる〕。
[3]この後、天使は群れの男を招集し、彼らに言った、「これらすべての者は、あなたがたともに、天界の楽しさとここからの永遠の幸福ついて同様の想像上の思考の中にいました、それらの者をあなたがたは食卓で見ています。彼ら自身が、主の許しによりこのような宴会の場面から、自分の考え(概念)の空虚さを見ます、それらから導き出され、教えられるためです。あなたがたが食卓の頭に見たそれらの首長は、大部分の者は〔首長の〕役を演じる田舎の人々からの老人でした。その者はひげがあり、いくらかの富から他の者よりも傲慢でした、その者に、昔のこれらの父祖(族長)であったという幻想が引き起こされました。しかし、あなたがたは、この舞台からの出口への道へと、私に従いなさい」。
[4]従った、ここに五十人、そこに五十人を見た。吐き気がするまで食べ物を胃に詰め込んだその者は、自分の家の家族へ、ある者は自分の職へ、ある者は自分の商売へ、ある者は自分の仕事へ戻ることを熱望した——しかし、多くの者は森の見張り番により制止され、彼らの宴会の日数について、ペテロとの食卓パウロとの食卓で食べたか、まだか、と質問された、もし〔それ〕以前に出て行くなら、このことは、不作法なので、彼らに恥となる——しかし大部分の者は答えた、「私たちは楽しみに飽きた、食べ物は私たちにまずいものになり、味覚は干し上がった、胃はそれらを受けつけない、私たちはそれらを味わうことに耐えられない。私たちは数日、数夜、それらのぜいたくの中でだらだらとしてきた、私たちを出してくれるよう、私たちは本気で懇願する」——そして(去ることを)許されて、霊で喘ぐ〔ようにして〕急ぎいで、駆け足で、家へ逃げ去った。
[5]この後、天使は群れの男を呼び、道の途中で、天界についてこれらを彼らを教えた——
「天界に世と等しく、食べ物や飲み物、宴会や祝宴があります。首長のもとの食卓に、それらの上に豊富なごちそう・菓子・珍味があり、それらで心(アニムス)は喜ばされ、活気づけられます。遊びや観劇もあり、音楽の演奏や歌があります。それらのすべてのものは最高の完全さの中にあります——彼らにもそのようなものが楽しさの中にあります、しかし、〔その楽しさは〕幸福の中にありません。これ(幸福)は、楽しさの中にあり、ここから、楽しさからでなければなりません。楽しさの中の幸福が、楽しさを楽しさであるようにし、それらを豊かにし、価値がなくならないように、嫌気がしないように保ちます。この幸福は、それぞれの者に自分の職務の中の役立ちからあります。
[6]それぞれの天使の意志の情愛の中に隠れている何らかの水脈があり、それは心(mens)を行なうべき何らかのものへ引き寄せます。これによって心は鎮まり、満足します。この満足感とその静けさが、主からの、愛の役立ちを受け入れることができる心の状態をつくります。この受け入れから天界の幸福があり、それは前に記された彼らの楽しさのいのち(生活)です。
天界の食べ物は、本質的に、役立ちと一緒の愛と知恵、すなわち、愛からの知恵を通しての役立ち以外の他のものではありません。そのために、天界ではそれぞれの者に、果たした役立ちにしたがって、身体のために食べ物が与えられます。すぐれた役立ちの中にいる者にみごとな食べ物が、中位の段階の役立ちの中にいる者に小さいけれども味のよいものが、卑しい役立ちの中にいる者に卑しい食べ物が〔与えられます〕、しかし、怠け者には何も与えられません」。

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6◀︎目次▶︎8

7 これらの後、天使はいわゆる賢明な者の群れを呼んだ。その者は天界の楽しさが、これらからの永遠の幸福が、統治(支配)の最も卓越したもの、そして宝に最も富むことの中に、そして王にまさる荘厳さ、輝き以上の輝きの中に置いた。その理由は、みことばの中に、王と君主になること、キリストとともに永遠に支配すること、天使により仕えられること、ほかに多くのことが言われているからである。
天使はこれらの者に言った、「従いなさい、私はあなたがたをあなたがたの楽しさの中に導き入れます」。
柱とピラミッドから建てられた柱廊へ導き入れた——前方に低い宮殿があった、それを通って柱廊への入り口が開いていた。これを通って彼らを導き入れた。見よ、ここに二十人、そこに二十人が見られ、待っていた。
その時、突然、天使に扮したある者が近づき、彼らに言った、「この柱廊を通って天界への道がある。しばらくの間、待て。あなたがたは準備せよ、あなたがたからの年長の者は王になる、そして若い者は君主となるからである」。
[2]これらが言われて、どの柱の近くにも王座が、王座の上に絹からできたマント、マントの上に笏と王冠が見られた。どのピラミッドの近くにも地面から三キュービット高い椅子(王座)が、椅子の上に金の輪からできた首飾りが見られた。
その時、叫ばれた、「行け、今や、あなたがたは着よ、座れ、そして待て」。
直ちに、年長の者は王座に、年下の者は椅子へ走り寄り、着た、座った——しかし、その時、もやのように下方から上ってくるものが見られた。その引きつける力から王座と椅子の上に座っている者は、今や、王と君主であることに顔をふくらませ、胸を張り、自信に満ち始めた。そのもやは幻想のオーラであり、それによって吹き込まれた——突然に、若者たちが仕えるために天界からのように飛んで来て、どの王座の後ろにもふたりが、どの椅子の後ろにもひとりが置かれた。その時、ある使者からの声が叫ばれた、「あなたがた、王と君主は、さらに少し待て。その時、天界の中にあなたがたの宮殿が見られ、すぐに護衛とともに廷臣がやって来て、あなたがたは導き入れられる」。
待ちに待った、彼らの霊があえぎ求め、願望に飽きるまでも。
[3]3時間後、彼らの頭上の天界が開かれ、天使が見おろし、彼らを哀れみ、言った、「なぜ、あなたがたは座っているのですか? そのように愚かげに、俳優となって。彼らはあなたがたを笑いものとして遊んだのです。あなたがたは人間から偶像に変わりました、その理由は、あなたがたは自分の心の中に、〝自分たちはキリストとともに王と君主のように支配する、その時、天使たちは自分たちに仕える〟という思いを引き入れたからです。あなたがたは主のことばを忘れていませんか? 天界で大いなる者であることを欲する者は、しもべになることです。
それゆえ、何が「王」と「君主」によって、何が「キリストととも支配すること」によって意味されるか学びなさい、役立ちを味わうことと行なうことです。というのは、キリストの王国は、天界であり、役立ちの王国であるから。なぜなら、主はすべての者を愛し、そしてここからすべての者に善を欲し、そして善は役立ちであるからです。主は善行または役立ちを天使によって、また世で人間によって間接的に行なわれます、それゆえ、誠実に役立ちを果たす者に、役立ちの愛を、またその報酬を与え、それは内なる至福であり、これは永遠の幸福です。
[4]天界に、地上のように、卓越への支配が、最も富んだ宝物があります。というのは、統治と統治の形が、それゆえ、大小の権限と地位があり、最高位の中にいる者に宮殿や会館があり、それらは地上の帝国と王国の宮殿と会館に荘厳さと輝きで、また廷臣・従者・護衛の数でまさります、これらのりっぱな制服から、彼らの誉れと栄光が流れ出ているからです。
しかし最高位の者たちは、その心が公共の福祉の中にあり、身体の感覚が単に従順なためにりっぱな階級の中にいる者たちから選ばれます——公共の福祉は、普通の身体の中のように、それぞれの者が社会の中の何らかの役立ちの中にいるためにあるので、またすべての役立ちは主から、天使と人間によって、彼らからのように行なわれるので、これが主とともに支配することであることが明らかです」。
天界からこれらを聞いて、王や君主たちの役を演じた者たちは、王座や椅子から降り、笏・王冠・マントを捨てた。彼らからもやが去った、その中に幻想のオーラがあった。彼らを白く輝く雲がおおった、その中に知恵のオーラがあった、その知恵のオーラから彼らの心に健全さが戻った。

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8 この後、天使はキリスト教界からの賢明な者の集会の家へ戻り、天界の楽しさと永遠の幸福は楽園の楽しみ(歓喜)であるという信仰を固めた者を呼んだ。
これらの者に言った、「私に従いなさい、私はあなたがたを楽園へ、あなたがたの天界へ導きます、あなたがたの永遠の幸福〔から〕の至福があなたがたに始まるためです」。
みごとな木の枝と横枝から組み合わせた構造の高くそびえる門を通って彼らを導き入れた——入場の後、遠回りの道を通って場所から場所へ彼らを連れまわした。
天界への最初の入り口に実際に楽園があり、その中へ、世で天界全体は一つの楽園であることを信じた者が入れられる、それは楽園(パラダイス)と呼ばれる。そして、死後に労働からのまったくの休息があり、この休息は、〔これ以外の〕バラの上を歩くような歓喜へ霊魂を引き入れることであるという観念を自分自身に刻みつけた者にとって、他のものではない。ブドウの最も豪奢なブドウ汁(ブドウ酒)を喜び、お祭りの宴会を祝うこと、この生活は天界の楽園の中でないなら存在しないこと〔である〕。
[2]天使により導かれた者は、老人と若者、少年、そしてまた女と少女のおびただしい数の群衆を見た。三人と三人の集団、そして十人と十人の集団、バラの園の上に座っている者、花輪(花冠)を編み、それらで老人の頭を、若者の腕を、そして少年の胸を帯(輪)のように飾る者。他のところに、木から果実を摘んでいる者、かごの中に〔入れて〕仲間へ運んでいる者。他のところに、ブドウ(の実)からブドウ汁を、サクランボやベリー(漿果)から杯の中へしぼっている者、うれしそうに飲んでいる者。他のところに、花からの芳香を、果実そして匂いを放つ葉から発散される〔芳香〕、まわりにまき散らされたものから鼻に引き寄せる者。他のところに、甘い歌を歌い、それらで居合わせる者の聴覚を慰めた者。他のところに、泉に座っている者、わき出る水流の水をいろいろな形へ導く者。他のところに、歩いている者、会話する者、冗談をまき散らす者。他のところに、走る者、遊ぶ者、ここに拍子の中で、またそこに輪の中で踊る者。他のところに、庭園のあずまやに、長椅子の上で横になるために入っている者。さらに多くの者が、他のところに、楽園を喜んでいる者。
[3]これらが見られた後に、天使は自分の仲間を回り道を通ってあちこちへ、そして最後にオリーブの木・オレンジの木・シトロンの木に最も美しいバラの花壇の中に座っている者へ案内した、その者はうなだれて、頬杖をつき、悲嘆し、涙を流していた。
これらの者に同行の天使たちは話しかけ、言った、「なぜ、そのように座っているのですか?」
彼らは答えた、「私たちがこの楽園の中にやって来て、今では七日である——私たちが入った時、私たちの心(mens)は天界へ上げられた、そして、その楽しさの最内部の至福へ入れられたように見られた。しかし3日間の後、それらの至福がつまらなくなり、私たちの心の中で破壊が始まり、そして感じないことが生じ、このように何もなくなった。そのように私たちの想像していた楽しさが消滅したとき、私たちは私たちのいのち(生活)のすべての快感を失うのではないかと恐れた。また、永遠の幸福について何らかのものであるか(=そのようなものがあるか)疑いが生じた——その後、私たちは道や中庭を通ってさ迷い、私たちが入った門をさがした。しかし輪また輪を通ってさ迷った、そして道で出会った者たちに質問した。彼らからのある者が、『門は見つけられない、この楽園の庭園は広い迷宮である、これは、出ることを欲する者が、さらに深く入るようなものである。それゆえ、あなたがたは、ここに永遠にとどまることしかできない。あなたがたは、そこにすべての歓喜があるその真ん中に、その中心にいる』と言った」。
さらにまた、彼らは天使の仲間に言った、「ここに今や、私たちは一日と半、座っている、私たちに出口を見つける希望がないので、このバラの花壇の上に座った。周囲を、おびただしい数のオリーブの木・ブドウの木・オレンジの木・シトロンの木を眺めている。しかしそれらをさらに眺めれば眺めるほどますます、見る視覚は、かぐ嗅覚は、また味わう味覚はうんざりさせられる——これらが悲しみ・嘆き・落涙の原因であり、あなたがたはそれらの中にいる私たちを見る」。
[4]これらを聞いて、集団の〔引率の〕天使が彼らに言った、「この楽園の迷宮は真に天界への入り口です。私は出口を知っています、あなたがたを導きましょう」。
これらが言われて、座っている者は立ち上がり、天使を抱擁し、彼の集団と一緒に、彼に同行した。
天使は途中で彼らに、何が天界の楽しさとここからの永遠の幸福か、楽園の外なる歓喜は楽園の内なる歓喜と一緒でないなら存在しないことを教えた。「楽園の外なる歓喜は単なる身体の感覚の歓喜です、しかし、楽園の内なる歓喜は霊魂の情愛の歓喜です。後者が前者の中にないなら、天界のいのちはありません、前者の中に霊魂がないからです——すべての歓喜は、その対応する霊魂なしに、絶えず繰り返えされることから弱まり、鈍くなり、労働よりも心(アニムス)をくたびれさせます。
天界には、どこにも楽園の庭園があり、これらからもまた天使の楽しさがあり、彼らの中に霊魂の歓喜があればあるほど、それだけその〔庭園の〕歓喜が彼らにとって歓喜となります」。
[5]これらを聞いて、すべての者は質問した、「霊魂の歓喜とは何か、これはどこからか?」
天使は答えた、「霊魂の歓喜は主からの愛と知恵からです。愛は結果をひき起こすものであり、結果をひき起こすものは知恵を通してであるので、それゆえ、二つとも座が結果の中にあり、結果は役立ちです。
この歓喜が主から霊魂へ流入し、心の高いものと低いものを通って身体のすべての感覚へ下り、それらの中にそれ自体を満たします。ここから楽しさは楽しさになり、永遠の根源から永遠なものとなります。
あなたがたは楽園を見ています。私はあなたがたに断言します、愛と知恵の結婚からの役立ちの中にないものはそこに何もなく、葉すらありません。それゆえ、もし人間がこの中にいるなら、天界の楽園の中に、そのように天界の中にいます」。

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8◀︎目次▶︎10

9 この後、案内役の天使は会館へ、天界の楽しさと永遠の幸福は絶え間のない神の賛美であり、そして永遠に続く祝祭であることを堅く確信した者のもとへ戻った。その理由は、世で、その時、神を見ることになることを信じたから、また神の礼拝からの天界の生活は永続する安息日と呼ばれるからである。
これらの者に天使は言った、「私に従いなさい、私はあなたがたをあなたがたの楽しさへ導きます」。
彼らを小さい都へ導いた、その中心に神殿(教会)があった、すべての家は聖なる会館と呼ばれた。
その都の中で彼らは地のすべての隅から〔やって来る〕群衆を、彼らの間に多数の祭司を見た、その者はやって来る者を受け入れ、挨拶し、手をとって神殿の扉へ導き、ここから神殿のまわりの何らかの会館へ、彼らを神の永久の礼拝へ導いた。この都は天界への前庭であり、この都の神殿は天界にある荘厳なまた最も大きい神殿への入り口である、そこで神は天使たちにより、祈りと称賛で、永遠に賛美される、と言って——「こことそこに規定があります。最初に神殿を入り、そこに三日三晩とどまること、この最初の段階の後、この都の家の中で、それらはそれだけ多くの(同数の)私たち(祭司)により清められた会館であって、その会館から会館へ、そこで、群衆とともに交際の中で祈り、叫び、説教を唱えます——すべての点で、あなたがたは、あなたがたの中で聖なるもの・敬虔なもの・宗教的なもの以外に、何かを考えないよう、仲間と話さないよう、用心しなさい」。
[2]この後、天使は自分の従者たちを神殿の中へ導いた、それは、多くの者で満ち、ぎっしり詰まっていた、その者は世で大いなる地位にいた、そしてまた庶民からの多くの者であった。三日の滞在以前にだれかが去ることを許さないように門(入り口)に守衛が配置されていた。
天使は言った、「今日は、これらの者が入ってから二日です。彼らを観察しなさい、すると、あなたがたは彼らの神の賛美を見ます」。
観察し、大部分の者が居眠りをしており、目覚めている者、あくびをまたあくびをする者——ある者は神への思考の絶え間のない高揚から、それら(思考)が身体に何も逆戻りしないことから、身体から顔が隔離しているように見えた、というのは、そのように自分自身に、ここから他の者にも見えるからである。ある者の目は、彼らの絶え間のない放心状態から精神が錯乱しているように見えた。一言でいえば、すべての者は胸が圧迫された者、飽きてしまって霊(精神)が疲れた者、説教壇から背いた者、「私たちの耳は鈍った、説教を終えよ、声はもはや聞かれない、音声を嫌い始めた」と叫ぶ者であった。
その時、立ち上がり、一団となって門(入り口)へ突進し、それをこじ開け、守衛を中に追い立て、追い払った。
[3]これらを見て、祭司たちは彼らを追い、彼らの側につき添い、教え、また教え、祈って、ため息をついて、言った、「祭りを祝え、神を賛美せよ、あなたがたを神に捧げよ。この天界の前庭の中で、私たちはあなたがたを、神の永遠の賛美へ、天界にある荘厳な、最も大きい神殿の中へ、このように永遠の幸福の享受へと訓練する」。
しかしこれらは彼らに理解されず、ほとんど聞かれなかった、二日間の心の浮遊状態からの知覚力が欠如し、家事と公共のことを制止されたためである。
しかし祭司から離れようと努力するとき、祭司は彼らの腕を、そしてまた衣服をつかまえ、そこに説教が唱えられる会館へと追い立てた。しかしむだだった——彼らは叫んだ、「このままにしてくれ、身体の中に気絶のようなものを感じる」。
[4]これらが言われて、見よ、四人の男が、白く輝く衣服で、司教冠で見られた。彼らからのひとりは世で大司教、残りの三人は司教であったが、今や、天使となっていた。
これらの者が祭司たちを呼び集め、彼らに話しかけて、言った、「私たちはあなたがたを天界から、これらの羊とともに、どのようにあなたがたが彼らを牧しているか見ました。あなたがたは彼らを狂気へまでも牧しています——あなたがたは、神の賛美によって何が意味されるか知りません。〔神への賛美によって〕愛の実を結ぶことが意味されます、すなわち、忠実に、誠実に、勤勉に、自分の職務の働きを行なうことです、というのは、これが神の愛のもの、隣人愛のものであるから、これが社会のきずな、その善であるからです。このことによって、また定まった時間の礼拝によって、その時、神は賛美されます。
あなたがたは主のこのことばを読んでいませんか?

あなたがたが多くの実を結び、あなたがたがわたしの弟子になることで、わたしの父は賛美されます(ヨハネ15:8)

[5]あなたがた祭司たちは、礼拝の中で賛美の中にいることができます、これがあなたがたの役目であるので、ここからあなたがたに名誉・栄光・報酬があります。しかしそれでも、職務と一緒にあなたがたに名誉・栄光・報酬がないなら、あなたがたはそれ以上にさらに、その賛美の中にいることができません」。
これらが言われて、司教は門(入り口)の守衛に、すべての者が入るように、すべての者が出るように命令した。「というのは、天界の状態について何も知らないので、天界の何らかの楽しさを、絶え間のない神の礼拝以外に考えることができない群衆がいるからである」。

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9◀︎目次▶︎11

10 これらの後、天使は自分の仲間と集会の場所へ戻った、賢明な者の集団はそこからまだ去っていなかった。そこに、「天界の楽しさと永遠の幸福は単に天界へ入ること、そして神的恩恵から入ることである、その時、世で彼らにあるのと同様な楽しさ、祝祭の日に王の宮廷に、または招待された結婚式に入るような楽しさがある」と信じた者を呼んだ。
これらの者に天使は言った、「しばらくの間、ここで待ちなさい、私はらっぱが聞こえるようにします、するとここへ教会の霊的なものについての知恵で有名な評判の者がやって来ます」。
数時間後に、それぞれの者が自分の名声の賞である月桂冠で飾られた九人の男が近づいた。これらの者を天使は、すべての者が以前に招集されて近づいた集会の会館の中へ導き入れた。これらの者の居合わす中で、天使は九人の月桂冠をかぶった者に話しかけて、言った、「私は、あなたがたが自分の観念にしたがって、その欲望から天界の中に上ることがあなたがたに与えられたこと、またこの低いものの中に、または天界の下の地に、天界の状態について十分な知識とともに、あなたがたが戻ったことを知っています。そこで、あなたがたの見た天界がどのようなものであったか話してください」。
[2]順に答え、最初の者が言った、「天界について、世で少年期の最初からいのちの終わりまで、私の観念は、すべての至福・幸せ・快さ・楽しさ・快楽の場所であった。また、もし入れられるなら、このような幸福のオーラがあたりを流れ、胸で十分にそれらを、結婚式を祝うときの、そして花嫁と寝室に入るときの花婿のように吸収する——この観念の中で私は天界へ上り、最初の守衛を、そしてまた第二の守衛を通り過ぎた。しかし、第三の守衛にやって来たとき、守衛の長官が私に話しかけ、言った、『友よ、あなたはだれなのか?』
私は答えた、『ここは天界ではありませんか? ここへ、私の誓った願いから、私は上りました。どうぞ、入れてください』。そして、入れられた。
私は白い衣の天使を見た、これらの者は私を歩き回って、調べ、このことをつぶやいた、『見よ、新しい訪問客を、天界の衣服を着ていない』。このことを聞き、私は、婚礼の服装なしに結婚式に入った者について主が言われた者と同様に見られている、と思った。『私にそのような衣服を与えてください』と言った。すると、彼らは笑った——その時、集会所から命令とともにある者が走り寄った、『彼を脱がせて裸にせよ、彼を投げ出せ、その後、彼の衣服を投げつけよ』——このように投げ出された」。
[3]順に第二の者が言った、「私は、私の頭の上方にある天界に入れられるだけで、私に楽しさが、その息があたりを永遠に流れる。私は望ましいものも得た、そのように信じた。しかし、天使たちは、私を見て、逃げ去り、互いに言った、『この怪物は何か? どのようにして、ここに夜の鳥がやって来たのか?』
実際に、私は人間から変化したのを感じた、それでも私は変わらなかった。このことは天界の大気を吸い込むことからであった。
しかし、すぐに集会所から命令とともにある者が走り寄った、ふたりの召使いが私を連れ出し、上る道を通って、私の家まで戻した。私が家にいたとき、私は他の者に、私にも、人間のように見えた」。
[4]第三の者が言った、「天界〔について〕の私の確固とした観念は場所からであり、愛からでなかった。それゆえ、私がこの世界にやって来たとき、私は大いなる欲求で天界を熱望し、上っている者を見て、彼に続き、入ることを許されたが、数歩を越えなかった——しかし、私がそこの楽しみと至福の観念から私の心(アニムス)を喜ばせることを欲した時、雪のように白く輝いた天界の光から、その本質は知恵であると言われるが、私の心(mens)に無感覚が、ここから目に暗黒が入り込み、私は狂い始めた。じきに、その白く輝く光に対応した天界の熱から、その本質は愛であると言われるが、私の心臓は速く打ち、不安が私を占め、内的な苦痛で苦しめられ、そこの地面の上に仰向けに投げ出された。私が横たわっていたとき、集会所から従者が命令とともにやって来た、私〔自身〕の光と熱の中へ、私をゆっくりと連れ去るためであった。その中にやって来たとき、私の霊と心が戻った。
[5]第四の者が、自分自身もまた天界について、場所の観念の中にいて、愛の観念の中にいなかったこと、また、次のことを言った、「私は霊界にやって来るとすぐに、賢明な者に、天界に上ることが許されるか質問した。その者たちは私に、『それぞれの者に許される、しかし投げ落とされないよう用心するように』と言った。
これを笑って、私は、他の者のように、全世界中のすべての者はそこに楽しさを、それを十分に受け入れることができると信じて上った——しかし実際に私が〔天界の〕内部にいたとき、ほとんど気絶し、苦痛とここからの責め苦が頭と身体の中にあり、私は地面に打ち倒され、火に近づけられたヘビのように巻き上げられた。断崖まで這い、そこから自分を投げ落とした。その後、下方の傍観者により取り上げられ、宿泊所に運ばれた、そこで私に健全さが戻った」。
[6]残りの五人もまた天界への自分の上昇について驚くべきことを物語った。自分のいのちの状態の変化を、水から空気の中に上げられた時の魚の状態に、エーテルの中の鳥の状態にたとえ、「それらの恐ろしい運命(=人生経験)の後、もはや天界を欲しがらず、どこであっても自分と似た者たちとの共同の生活だけを欲しがった。私たちがいる霊たちの世界で、善い者たちは天界へ、悪い者たちは地獄へ、すべての者は前もって準備されると知った。準備されたとき、自分に似た者とともに永遠にとどまることになる社会へ向けて開かれた道を見る。これらの道へ、その時、快さとともに入る、彼らの愛の生活であるからである」と言った。
最初の招集〔のとき〕からこれらを聞いたすべての者は、さらにまた、彼らにも天界について、あたりに流れる永遠の楽しさを口で十分に吸い込むといった場所についてのような観念以外の他の観念がなかったことを認めた。
[7]これらの後、らっぱを持つ天使は彼らに言った、「今や、あなたがたは、天界の楽しさと永遠の幸福は場所にないこと、しかし人間のいのちの状態であることを見ました。そして天界のいのち(生活)の状態は愛と知恵からです。役立ちはそれらの二つの容器(として役立つもの)であるので、天界のいのち(生活)の状態はそれらの結合から役立ちの中にあります——仁愛・信仰・善の働きが言われても同じことです、仁愛は愛であり、信仰はその知恵からの真理であり、善の働きは役立ちであるからです。さらに、私たちの霊界に、自然界のように場所があります、そうでなければ、住まいや別々の住居はありません、しかしそれでも、そこの場所は場所ではありません、愛と知恵のすなわち仁愛と信仰の状態にしたがった場所の外観です。
[8]天使になるすべての者は、内部にそれ自体の中に自分の天界を携えます、自分の天界の愛を携えるからです。なぜなら、人間は創造から、最大の天界の最小の似姿・映像・型であるからです。人間の形は他のものではありません。それゆえ、それぞれの者が個々の似姿の中にその形がある天界の社会の中へやって来ます。結果として、その社会の中へ入る時、自分自身に対応する形の中へ入ります、そのようにあたかも自分自身から自分自身の中へ、あたかもそれからその中へ、自分自身の中へのように、そしてそのいのち(生活)を自分のものとして、自分のいのち(生活)をその社会のものとして引き寄せます。どの社会も共同体のようであり、そこの天使たちは似ているものの一部のようであり、それらから共同体が共存します。
そこで、これらから悪とここからの虚偽の中にいる者は、自分自身の中に地獄の似姿を形作ったこと、またこれらは天界で、対立する活動の流入と暴力から、対立するものの中で苦しめられることがいえます。というのは、地獄の愛は天界の愛に対立し、ここからそれらの二つの愛の快さは敵のように互いに争い、出会うとき、互いに滅ぼすからです」。

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10◀︎目次▶︎12

11 これらが行なわれて、らっぱを持つ天使に天界から声が聞かれた、「招集したすべての者から十人を選び、彼らを私たちへ導け。私たちは主から聞いた、〔主は〕彼らを三日の間、私たちの天界の熱と光すなわち愛と知恵が彼らに何からの害をもたらさないよう用意されている」。
十人が選ばれ、天使に従った。坂のある小道を通ってある丘へ、ここから山へ上った、その上に彼らの天使の天界があった、それは最初、隔たっていたので、彼らに、雲の中の広大な広がり(大空)のように見られた——彼らのために門が開けられ、第三の門を通り過ぎた後、案内者の天使は、社会の君主へすなわちその天界の君主へ走り、彼らの到着を知らせた。君主は答えた、「私の護衛からだれかを選び、彼らの到着が私に受け入れられることを彼らに報告せよ、彼らを私の別館へ導き入れよ、それぞれの者に寝床付きの自分の部屋を割り当てよ——私の廷臣から、廷臣に仕える召使いからだれかを選び出せ、それらの者は彼らの意のままに仕えるであろう」——そのように行なわれた。
しかし、天使により導かれたとき、彼らは、君主を近づくことと見ることが許されるか質問した。天使は答えた、「今は朝です、正午の時刻前には許されません。それまではすべての者は自分の任務の中に、自分の働きの中にいます。しかしあなたがたは昼食へ招待されています。その時、私たちの君主とともに食卓に座ります——それまでの間に、私はあなたがたをその宮殿に導きます、そこであなたがたは壮大なものとみごとなものを見るでしょう」。

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11◀︎目次▶︎13

12 宮殿へ連れて来られた時、最初にそれを外から見た。大きかった、班岩から建てられ、碧玉からできた土台を据えられ、門の前にラピスラズリからできた六本の高い柱、金の板からできた屋根、最も透明な水晶からできた高い窓があり、これらの側柱(窓枠)も金からできていた。
この後、宮殿の内部に導き入れられ、部屋から部屋へ連れまわされ、言語に絶する優雅な装飾(品)、屋根の下(天井)に比類のない彫刻物の飾りを見た——壁の近くに金を溶かしこんだ銀からできた食卓が置かれ、それらの上に宝石から、天界の形をした無きずの宝石からできたいろいろな備品があった。多くのものを見たが、それらは地上のある者が目で見ないもの、ある者によって、このようなものが天界の中にあるという信仰を自分自身にひき起こすことができないものであった。
[2]それらの荘厳なものを見て茫然自失していたとき、天使は言った、「驚いてはなりません。あなたがたの見るこれらは、天使の何らかの手でつくられ、組み立てられたものではありません、全世界の「形成者」により建てられ、私たちの君主に贈り物として与えられたものです。それゆえ、この建築の技術は技術そのものであり、これから、世の技術のすべての規定があります」。
さらに天使は言った、「あなたがたはこのようなものが私たちの目を魅了し、そしてそれらに、私たちがそれらを私たちの天界の楽しさであると信じてしまうまでも夢中になると思うかもしれません。しかし私たちの心はそれらの中にないので、〔それらは〕単に私たちの心(cor)の楽しさの付けたしです。それゆえ、私たちがそれらを付けたしとして、そして神の製作品として見つめれば見つめるほど、それだけそれらの中に神的全能と慈悲深さを見つめることになります」。

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12◀︎目次▶︎14

13 この後、天使は彼らに言った、「まだ日の正午ではありません。私と宮殿に隣接する私たちの君主の庭園に来なさい」。
彼らは行った、そして入り口の中で〔天使は〕言った、「見よ! 天界のこれらの社会の中の庭園よりも荘厳な庭園を」。
しかし、答えた、「あなたは何を言っているのか? これは庭園ではない。私たちは単に一本の木を、そして枝の中にまたその先端の中に金からできた実のようなものを、銀からできた葉のようなものを見る、それらのへりはエメラルドで飾られている。その木の下に幼児を、その乳母とともに見る」。
これに天使は(霊感を)吹き込む声で言った、「この木は庭園の真ん中にあり、私たちにより、私たちの天界の木、またある者により、いのちの木と呼ばれています。しかし進み、近づきなさい、するとあなたがたの目が開かれ、庭園を見ます」。
そして、そのようになった、目が開かれ、風味のある実でたわわに実った木を、ブドウのつるを巻きつけたブドウの木を見た、それらのてっぺんは実とともに真ん中のいのちの木の方向に傾いていた。
[2]これらの木は連続して一続きに植えられていた、それらは永続するらせんのように永久の輪または環の中へ出て、伸びていた。木の完全ならせんであった、その中に実の品質にしたがって種類から種類へと連続的に続いた——旋回の始まりは真ん中の木からかなりの隔たりで遠く離れていた、そして〔その〕間隔は光の光線できらめいていた、そこから環状に植えられた木が、連続的に配列されて輝き、最初から最後まで続いていた——最初の木はすべての中で最良の実を豊かに生み出し、最も優れていて、楽園の木と呼ばれた。〔これは〕自然界の地上に存在しないし、ありえもしないので決して見られない。これらの次にオリーブの木、これらの次にブドウの木、これらの次に芳ばしい木、そして最後に建築に役立つ木材の木が続いた。
ここやそこに、この木々のらせんの中に、この輪の中に、背後から木の横枝で曲げ合わせ、引き寄せたものから、そしてそれらの実で富んだものと飾られたもので形作られた座席があった。
その永続する樹木の世界の中に、花園へ、これらから区画と列に区切られた芝地へ導き入れられる入り口があった。
[3]天使の同行者たちは、これらを見て、叫んだ、「見よ! 天界の形を——私たちの目のまなざしをどこへ向けても、言語に絶する天界の楽園の何らかのものが流入している」。
これらを聞いて、天使はうれしがって、言った、「私たちの天界の庭園のすべてのものは、その起源から天界の幸福の状態の表象または型の形であり、これらの幸福の状態の流入があなたがたの心を高揚させたので、あなたがたは、『見よ! 天界の形を』と叫びました。しかし、その流入を受けない者は、この楽園を森としか眺めません。流入を受けるすべての者は役立ちの愛の中にいます。しかし、それを受けない者は名声への愛の中に、役立ちからでない愛の中にいます」。
その後、この庭園の個々のものが何を表象し、意味するか、説明し、教えた。

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13◀︎目次▶︎15

14 これらの中にいたとき、君主から使者がやって来て、その使者は彼らを、自分とともにパンを食べるために招待した。同時に、宮廷のふたりの従者が亜麻布の衣服を携えてきて、言った、「これらを着なさい、天界の衣服を着た者でないなら、だれも君主の食卓へ入るのを許されないからです」。
身に付け、自分の天使に随行して、宮殿の回廊、中庭へ導き入れられ、君主を待った。そこで、天使は彼らを、高位な者や監督官との交わりへ入れた、それらの者も君主を待っていた。
すると見よ、しばらくして、(両開き)の扉が開かれ、西側の幅広い一つ(の扉)を通って、順序正しい華麗な行列の入場が見られた——君主の前を行く側近の顧問官、これらの後に宝物の顧問官、これらの後に宮廷からの主要な者たち、これらの真ん中に君主、その後ろにいろいろな別の廷臣たち、最後に護衛たちがいた。すべての者は百二十人まで数えられた。
[2]その時、衣服から、よそ者として見られる者たちである新しくやって来た十人の前に立っている天使は、彼らとともに君主へ近づき、うやうやしく彼らを引き寄せた。〔行列を〕進んでいる君主は立ち止まることなく、彼らに言った、「私とのパン〔食事〕へやって来い」。
食堂へついて行った。みごとに飾られた食卓が、その真ん中に金からの高いピラミッドが三列の百枚の小皿とともに、その形の上に、それらの上に砂糖パン(=甘いケーキ)、凝縮したブドウ酒の汁があり、他にパンとブドウ酒からつくられたうまいものとともに見られた——そして真ん中のピラミッドを通って、吹き上がる泉のように、ネクタル(神酒)のようなブドウ酒がわき出ており、その水流はピラミッドの頂上から広がり、杯を満たした。
この高いピラミッドの脇に金からできたいろいろな天界の形(=装飾品)があった、それらの上にすべての種類の食べ物でいっぱいの皿と小皿があった——それらの上に皿と小皿があった天界の形(=装飾品)は、知恵からの技術の形(=装飾品)であった、それは世の何らかの技術で描くことも、言葉で述べることもできない——皿と小皿は銀からできていた、平面の中に、その支え(支柱)とともに似た形(=装飾品)に全面的に彫刻が施してあった。杯は透明性の宝石からできていた。
このようなものが食卓の調度品であった。

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14◀︎目次▶︎16

15 君主とその仕える者(大臣)の衣装はこれであった——君主は銀色の星の刺繍で飾られた紫色のローブを着ていた。ローブの下に、青色で輝く絹からできたシャツがあった。これは胸のまわりが開いていて、そこの帯の前の部分が、その社会の徽章とともに見られた。徽章は、木のてっぺんのワシであり、その下にひなが横たわっていた——これはダイヤモンドで囲まれた金から輝いていた。
側近の顧問官たちの衣装も似ていたが、その徽章はなかった。その代わりに、首から金の首飾りでつり下げた彫刻したサファイアがあった。
廷臣〔の衣装〕は、栗色のトーガであり、ワシのひなのまわりに花が織り込まれていた。それらの下のシャツはオパールの色(乳白色)の絹からできていた。ズボン下とストッキングも同様であった。
このようなものが彼らの衣服であった。

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15◀︎目次▶︎17

16 食卓のまわりに、側近の顧問官・宝物の顧問官・監督官たちが立ち、君主の命令により、手を合わせ、一緒に主へ捧げる賛美をつぶやいた。この後、君主の身振りにより食卓の列に座った。
君主は十人の到来者に言った、「あなたがたもまた私と食卓に着け、見よ、そこにあなたがたの席がある」。彼らは食卓に着いた。前もって君主から彼らに仕えるようにされた廷臣たちが、彼らの背後に立った。
その時、君主は彼らに言った、「それぞれの者が自分の輪から皿を、その後、それぞれの者がピラミッドから小皿を取れ」。取った、すると見よ、直ちに新しい皿と小皿が、置かれたそれらに代わって現われた。そして、それらの杯は大きなピラミッドからわき上がる泉からのブドウ酒で満たされた。食べ、飲んだ。
[2]飽満の中間の後(=〔食事で〕ほどよく満たされた後)、君主は十人の来客に話しかけ、言った、
「私は、この天界の下にある地上で、天界の楽しさとここからの永遠の幸福について、あなたがたが自分の思いを明らかにするために招集されたこと、いろいろな種類のそれらを、それぞれの者が自分の身体の感覚の快さにしたがって明らかにしたことを聞いた。しかし、霊魂の快さなしに身体の感覚の快さとは何か? それらを楽しむものは霊魂である。霊魂の快さは本質的に知覚されることができない至福である、しかし心(mens)の思考の中に、これらから身体の感覚の中に下るほど、ますます知覚できるものになる——心の思考の中で、幸せのように、身体の感覚の中で、快さのように、身体そのものの中で、欲望のように知覚される。これらとそれらからの一緒であるものが永遠の幸福である。しかし、後に位置するものだけからの幸福は永遠ではない、一時的なものであり、それらは終わり、通り過ぎ、時々、不幸なものになる。
今や、あなたがたは、あなたがたの楽しさは天界の楽しさでもあり、これまで考えることができたものよりもさらにまさったものであることを見ている、しかしそれでも、これらは内的に私たちの愛に働きかけない。
[3]主から一つのものとして私たちの霊魂の中に流入する三つのものがある。これらは一つのものとしての三重の実在(三位一体)、すなわち、これは愛・知恵・役立ちの三重の実在(三位一体)である——しかし、愛と知恵は心の情愛と思考の中にだけ存在するので、観念的にしか存在するようにならないが、役立ちは実際に存在する、同時に身体の活動と働きの中にあるからである。またそこに実際に存在するようになり、さらにまたそこに存続する。愛と知恵は役立ちの中に存在するようになり、存続するので、それは私たちに働きかける役立ちであり、そして〔それは〕忠実に、自分の職務の働きを誠実にまた勤勉に果たすことである——役立ちへの愛と、ここから役立ちへの熱意が、心を発散しないように、ぶらつかないように、すべての欲望を吸収するように保つ、それら〔欲望〕は身体からまた世から感覚を通って誘惑とともに流入し、それらから宗教の真理と道徳の真理はその善行とともにすべての方向に追い散らされる。しかし、役立ちへの心の熱意はそれらを保ち、集め、心をそれらの真理からの知恵の容器の形の中へ整える。その時、脇にある虚偽・見せかけの虚栄・ばかばかしいものを追い払う。
しかしこれらについての多くのものをあなたがたは私たちの社会の賢明な者から聞く〔であろう〕、私はそれらの者を、この午後に、あなたがたへ遣わす」。
これらを言って、君主は立ち上がり、その食卓仲間も一緒に立ち上がった、そして挨拶(平安あれ)を言い、彼らの案内役の天使に、彼らを自分の部屋へ戻るよう、彼らにすべての敬意の礼儀を示すよう、そしてまた、この社会のいろいろな楽しさについての話しで喜ばせる上品で愛想のよい男たちを呼ぶよう命じた。

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16◀︎目次▶︎18

17 彼らが戻ったとき、そのように行なわれた。都から呼ばれた者たちがやって来た、その者が社会のいろいろな楽しさについての話しで彼らを喜ばせた。これらの者は、挨拶の後、歩きながら、彼らと優雅なことを話した。
しかし彼らの案内役の天使は言った、「これらの十人の男たちはこの天界の中に、その楽しさを見て、ここから永遠の幸福について新しい観念を得るために招かれています。それゆえ、あなたがたの感覚に働きかけるその楽しさについて何らかのものを話しなさい。その後、〝賢明な者〟がやって来て、その者は〔感覚からの楽しさを〕を幸せや幸福なものにする何らかのものを話しに出します」。
これらを聞いて、都から呼ばれた者たちはこれらを話した——
〔(ⅰ)〕心を疲労から回復させるために、ここに君主により命じられた祭日がある、その疲労はある者に競争(張り合うこと)の欲望からひき起こされる。
これらの日に、広場で音楽と歌の音楽会、都の外で遊びと演劇がある。その時、広場に、ブドウのつるから編み合わせた格子をめぐらせた(天井)さじきが設けられ、それらからブドウの房が垂れ下がっている。それらの内部の高くした3列のところに弦楽器とともに、高い音や低い音の、そして輝かしい音色や柔らかい音色の音の楽器とともに、楽士が座り、脇に男女の歌手がいる。最も愛らしい歓呼と歌とともに、混声やソロで、時々、いろいろな種類のもので、市民を喜ばせる。これらはそこで、それらの祭りの日々に、朝から正午まで、この後、夕方まで続く。
[2](ⅱ) さらに、毎朝、広場のまわりの家から、処女と少女の極めて甘美な歌が聞こえ、そこから都全体に響き渡る。一つの霊的な愛の情愛があり、毎朝それが歌われる、すなわち、歌声の加減、または調子(の変化)によって、響き、歌の中のその情愛が〔情愛〕それ自体のように知覚される。聞いている者の霊魂に流入し、その心を対応するものへとかきたてる。このようなものが天界の歌である。
女性歌手たちが言っている、「自分たちの歌声が、内的なものからそれ自体のように吹き込み、いのちを与えます、聞く者による受け入れにしたがって快活に高まります」。
これが終わって、広場の家の窓、一緒に街路の家の窓、そしてまた扉が閉ざされ、その時、都全体が黙る、どこにも大声が聞かれない、歩きまわる者も見られない。その時、すべての者が、自分の職務の役割に集中して取りかかっている。
[3](ⅲ) しかし、正午に扉が、また午後、どこかで窓も開かれ、広場の中の少年と少女の遊びが眺められ、彼らを見守って、彼らの保母と教師が、家の柱廊に座る。
[4](ⅳ) 都の最も外で、少年と若者のいろいろな遊びがある——かけっこ・ボール遊び・ラケットと呼ばれるボールを打ち返す遊びがある。話し、行動し、感じることで、だれが活発で、だれが鈍重か、少年たちの間に舞台でコンテストがある。活発〔であったこと〕のために賞として何らかの月桂冠がある。さらに多くの他のものがあり、それらは少年の中に隠れている可能性を刺激する。
[5](ⅴ) なおまた、都の外に舞台上で、喜劇役者によるいろいろな名誉や美徳の道徳的な生活を表象する演劇があり、それらの間にもまた、関係するもののために、俳優がいる。
十人からのある者が質問した、「関係するもののために、とは何か?」
答えた、「何らかの美徳は、その名誉と美しさとともに、それらの最大のものから最小のものへの関係によってでないなら、生きいきと示されることができない。俳優はそれらの最小のものを何もなくなるまでも表象する。しかし法律で、何らかの反対のものがないように規定されている、それは不名誉なものと醜いものと呼ばれ、偽装させて、遠くからかのように(=婉曲に)示されなければならない——そのような規定がある理由は、ある者の美徳の何らかの名誉なものと善行が連続的な進行を通して不名誉なものと悪行に移らないためである、しかしその最小のものへ、失われるまでも〔移り〕、失われる時、反対のものが始まる。それゆえ、天界は、そこにすべてのものは名誉なものと善行であり、地獄と共通するものを何も持たない、そこ〔地獄〕のすべてのものは不名誉なものと悪行である」。

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17◀︎目次▶︎19

18 話している間に、召使いが走り寄り、君主の命令により、「八人の賢明な者たちがいる、彼らが入って来るよう欲している」と伝えた。そのことを聞いて、天使は出て、彼らを受け入れ、導き入れた——すぐに、賢明な者たちは習慣的な礼儀正しい挨拶の後、最初に彼らに、知恵の始まりと増大について、それらにいろいろなものが混合していること、その推移について、天使のもとの知恵は決して終わりを持たない、消えない、しかし永遠に増大し、成長することを話した。
これらを聞いて、集団〔に付き添う〕の天使は彼らに言った、「私たちの君主は食卓で、知恵の座について役立ちの中にあることを話しました。あなたがたも、よろしかったら、彼らにもまたそのことについて話してください」。
彼らは言った、「創造された最初の人間は、自分自身のためでない知恵が、その愛が、しかし自分自身から他の者との伝達のために吹き込まれました——ここから、同時に他の者とでないなら、だれも自分自身にだけ賢明であり、生きることがないよう、賢明な者の知恵が刻み込まれました。ここから、社会があり、これはそうでなければ存在しませんでした。他の者〔のため〕に生きることは役立ちを行なうことです。役立ちはそのきずなであり、それらは善の役立ちと同数ほど多く、そして役立ちは数で無限です。
霊的な役立ちがあり、それは神への愛のもの、隣人に対する愛のものです。道徳的・市民的な役立ちがあり、それは社会のまた市民の愛であり、その中に人間が、そしてそれらの者ともにいる仲間の社会、市民の社会があります。自然的な役立ちがあり、それは世の愛(世俗愛)のもの、その必需品のための愛です。身体的な(物質的な)役立ちがあり、それはさらに高い役立ちのために自分を維持するための愛です。
[2]これらのすべての役立ちは人間に刻み込まれ、あるものの後にもう一つのものと順に続いています、一緒に存在するとき、あるものがもう一つのものの中にあります。
霊的なものである第一の役立ちの中にいる者は、さらにまた続くもの〔役立ち〕の中にいます、これらの者は賢明な者です。けれども、第一の役立ちの中にいないで、それでも第二の〔役立ちの〕中に、ここから続くものの中にいる者は、そのように賢明ではありません、しかし礼儀正しく丁重なだけであり、外なるものはそのように見えます——第一と第二の役立ちの中にいないで、第三と第四の役立ちの中にいる者は決して知恵のある者ではありません、なぜなら、サタンであるから、というのは、世だけを、世から自分自身を愛するからです。しかし、第四の役立ちだけの中にいる者は、すべての者で最小限に賢明な者です、というのは、悪魔であるからです、自分自身のためにだけ生き、他の者のために生きるなら、やはりもっぱら自分自身のためです。
[3]さらに、愛のそれぞれにその快さがあります、というのは、これによって愛は生きるからです、そして役立ちの愛の快さは天界の快さです。順に続いて快さが入り、続くことの順序にしたがってそれが高まり、そしてそれに永遠性を与えます」。
この後、役立ちの愛から発出する天界の歓喜を列挙し、無数にあり、天界にいる者がそれらの中に入ることを言った——さらに、役立ちの愛について知恵の談話で彼らとともに夕まで一日を過ごした。

結婚愛

18◀︎目次▶︎20

19 しかし夕方に近く、亜麻布の衣の使者が、天使に伴われた10人の到着者にやって来て、そして彼らを、次の日に祝う結婚式へ招待した。〔新来の〕到着者は、天界の結婚式も見ることになることを大いに喜んだ。
この後、側近の顧問官のある者〔の家〕へ案内され、彼と食事をした。食事の後、戻り、それぞれが自分の寝室へ続き、朝まで眠った。
目が覚めた時、広場のまわりの家から乙女と少女の歌が聞こえた(それについて前に述べた)——その時、結婚愛の情愛が歌われた。その甘美さから深く働きかけられ、知覚されて、彼らは楽しさに植え付けられた愛らしい至福を感じた、それがそれら〔楽しさ〕を高揚させ、それら〔楽しさ〕を新たにした。
時が来て、天使は言った、「あなたがたは身支度しなさい、私たちの君主があなたがたに贈った天界の衣服を着なさい」。
そして彼らは着た、すると見よ、衣服は炎の光からのように輝いた。天使に質問した、「このことはどこからですか?」 答えた、「あなたがたは結婚式へ行くからです。私たちのもとで、その時、衣服は輝き、結婚式用のものになります」。

結婚愛

19◀︎目次▶︎21

20 この後、天使は彼らを結婚式の家へ導き、門番が扉を開けた。入り口のすぐ内で、花婿から遣わされた天使により受け入れられ、挨拶され、そして導き入れられ、彼らのために指定された席へ連れて来られた。すぐに控えの間に招かれ、そこの中央に食卓を見た、その上に、金からできた七つの枝とろうそく受けを装備した荘厳な燭台が置かれていた。壁には銀からできた〝突き出し燭台〟が取り付けられていた。火が灯され、それらから大気が金色のように見られた——燭台のわきに二つの食卓を見た、それらの上に3列にパンが置かれていた。四隅に食卓があり、それらの上に水晶の杯があった。
[2]それらを観察していた時、見よ、寝室の近くの部屋の扉が開かれ、出てくる6人の乙女を、その後、花婿と花嫁を見た、手を握って、席へ自分たちを導いていた、その席は燭台の真向かいの位置にあった、その上に花婿は左側に、花嫁は右側に、六人の乙女は花嫁の近くの脇に定められた席に座った。
花婿は紫色から輝く外衣を、光を放つ亜麻布からできたシャツを、エポデとともに着ていた、その〔エポデの〕上に、ダイヤモンドでまわりを巻いた金の金属板があった。金属板にこの天界の社会の結婚式のしるしであるワシの子が刻まれていた。花婿の頭には頭飾りがあった。
けれども、花嫁の衣装は、深紅色のマント、その下に首から足まで刺繍されたローブ、胸の下に金の帯、頭の上にルビーの植え付けられた金からできた冠であった。
[3]そのように着席した時、花婿は花嫁へ向きを変え、そしてその指に金の指輪をはめ、真珠からできた腕輪と首飾りを取り出し、腕輪をその手首の上に、首飾りをその首のまわりにつけ、言った、「これらのしるしを受け取りなさい」。彼女が受け取ったとき、彼女にキスし、「今、あなたは私のものです」と言って、彼女を自分の妻と呼んだ。
これが行なわれて、招待された客たちは叫んだ、「祝福あれ」。これをそれぞれの者が個別に、その後、すべての者が一緒に叫んだ。君主から遣わされた者が、君主の代わりにさらにまた叫んだ。その瞬間に、控えの間は芳香の煙で満ちた、それは天界からの祝福のしるしであった。
その時、仕える者たちが燭台の近くの二つの食卓からパンを、隅の食卓から、今や、ブドウ酒で満たされた杯を取った、招待されたそれぞれの者に、その者のパンと杯を与え、そして彼らは食べ、飲んだ。
この後、夫とその妻は立ち上がり、六人の乙女が今や灯された銀製の明かりを手にして、入り口まで続いた。そして夫婦は寝室へ入り、扉が閉ざされた。

結婚愛

20◀︎目次▶︎22

21 その後、案内者の天使は、自分の十人の仲間について、招待されている者と話した、命令から彼らを導き入れたこと、彼らに君主の宮殿の荘厳なもの、そこの驚くべきものを示し、彼らとともに食卓でごちそうを食べたこと、その後、「私たちの知恵のある者と」話したことである。そして、「彼らにもまたあなたがたと何らかの会話をともにすることを許すように」と求めた。近づき、談話した。
結婚式の男たちからのある賢明な者が、「あなたがたが見たそれらが何を意味するか、あなたがたは理解しているのか?」と言った。
彼らは、わずかなものである、と言った——その時、彼に、今や夫である花婿が、なぜ、そのような衣装であったか質問した。
今や夫である花婿が主を表象し、そして、今や妻である花嫁が教会を表象し、天界の結婚式は教会との主の結婚を表象するからである、と答え、「ここから、彼の頭の上にかぶり物があり、彼は外衣・シャツ・アロンのようなエポデを着ていた。また、今や妻である花嫁の頭の上に、冠があり、彼女は女王のようにマントを着ていた。しかし明日に衣装は異なっている、この表象は今日だけ続くからである」。
[2]再び質問した、「彼が主を、彼女が教会を表象したのに、なぜ、彼女は彼の右側に座ったのか?」
賢明な者が答えた。「主と教会の結婚をつくる二つのもの、愛と知恵があり、そして主は愛であり、教会は知恵であり、知恵は愛の右側にあるからである、というのは、教会の人間は自分自身からのように賢明であり、賢明であるほど、主からの愛を受け入れ、右側は力もまた意味し、愛の力は知恵からである——しかし言われたように、結婚後、表象は変えられる、なぜなら、その時、夫は知恵を、妻はその知恵への愛を表象するから、けれども、この愛は前の愛ではない、しかし第二位の愛である、それは主から夫の知恵を通して妻にある——前の愛である主への愛は、夫のもとの賢明になる愛である。それゆえ、結婚後、両方のものは、一緒に、夫とその妻は教会を表象する」。
[3]再び彼らは質問した、「なぜ、あなたがたは今や夫である花婿の脇に、今や妻である花嫁の脇に六人の乙女(処女)が立ったように、立たなかったのか?」
賢明な者が答えた、「その理由は、私たちは、今日、乙女(処女)の間に数えられている、そして数の六はすべてと完成されたものを意味するからである」。
しかし、言った、「このことは何か?」
答えた、「〝乙女〟は教会を意味し、教会は両性からである。それゆえ、私たちもまた教会に関して乙女(処女)である。そのようであることは「黙示録」の中のこれらから明らかである、

これらの者は、女に汚されていない、というのは処女であるから、また、どこへでも小羊に従って、行く(14・4)。

また「乙女(処女)」は教会を意味するので、それゆえ、主は彼女を「 結婚式へ招かれた十人の乙女」にたとえられた(マタイ25・1以降)——イスラエル・シオン・エルサレムによって教会が意味されるので、それゆえ、みことばでそれほど何度も「イスラエル、シオン、エルサレムの乙女と娘」と言われている。
主もまた教会とのご自分の結合を、「ダビデの書」のこれらのことばで述べられている——

女王は、オフィルの最良の金であなたの右にいる……その衣に金の織り合わせから、刺繍された衣服で王のもとに、彼女の後ろにその女友だちの乙女たちが連れて来られ……王の宮殿にやって来る(詩篇45・9―15)。

[4]その後、彼らは言った、「だれか聖職者がいて、これらの中で仕えるのが適切ではないのか?」
賢明な者が答えた、「このことは地上で適切である、けれども天界では主ご自身と教会が表象されるので適切ではない。このことは地上では知られない。しかしそれでも、私たちのもとで、聖職者が婚約式を執り行ない、同意を聞き、受け入れ、確認し、神聖にする——結婚の本質的なものは同意であり、続く残りのものは、その形式的なものである」。

結婚愛

21◀︎目次▶︎23

22 この後、案内者の天使は六人の乙女へ近づいた、そしてまた彼女たちに、自分の同行者たちについて語り、自分たちが交わる価値があると思うようにと求めた。彼女たちは近づいた、しかし近くに来たとき、急に、引き下がり、彼女たちの女友だちである乙女がいた(女性用の)部屋へ入った。
これを見て、案内者の天使は彼女たちの後に続き、なぜ、彼らと話さないで、このように急に引き下がったのか質問した。答えた、「私たちは近づくことができません」。
言った、「このことは、なぜですか?」
答えた、「私たちは知りません、しかし何らかのものを私たちは知覚します、それが私たちをはねつけ、引き戻しました、お許しください」。
天使は自分の仲間へ戻り、返答し、言い足した、「私は、あなたがたに純潔な性愛がない、と推測します。天界では私たちは乙女を、彼女らの美しさと振る舞い(物腰)の優雅さから愛し、まじめに、純潔に彼女たちを愛します」。
これに彼の仲間たちは、ほほ笑み、言った、「あなたは正しく推測しています。このような美しい人を近くに見て、何らかのものを欲しないことをだれができましょうか?」

結婚愛

22◀︎目次▶︎24

23 この懇親の祝祭の後、結婚式に招かれたすべての者は、そしてまた十人の男は自分の天使とともに立ち去った。晩もおそかったので、床へ行った。
夜明けに、彼らは今日は安息日の布告を聞いた。起き上り、天使に質問した、「あれは何ですか?」
定時に繰り返される神の礼拝に向けて、聖職者により布告されるのものであることを答えた。「それは私たちの教会の中で行なわれ、およそ2時間続きます。それゆえ、よろしかったら、私とともに行きましょう、私が案内します」。
彼らは身支度し、天使に同行し、入った——見よ、教会は広大で半円形だった、およそ三千人を収容でき、長椅子または連結した座席が教会の形にしたがって、円形に囲んでいて、後方の座席は前方の座席よりも高かった。説教壇はそれらの前に少しばかり中心から引っ込んでいた。説教壇の後ろの左側に扉があった。
到着した十人の男たちは自分の案内者の天使とともに入り、天使は彼らが座る場所を、次のように言って、指定した、「教会に入るだれもが自分の場所を知っています。このことを本能的に知っていて、他のところに座ることはできません。もし他のところになら、何も聞かないし、何も知覚しません、そしてまた秩序を乱します。その騒乱から聖職者は霊感を与えられません」。

結婚愛

23◀︎目次▶︎25

24 集められた後に、聖職者が説教壇に上り、知恵の霊に満ちた説教をした。
聖なる書物の神聖さについて、またそれ〔神聖さ〕によって霊的なまた自然的な二つの世界との主の結合についての説教であった。
その中にあった実例で、その聖なる書が主エホバにより言われ、ここからその方がその中にいること、これほどまでもその方はそこの知恵であることを完全に確信させた。しかし知恵は、それはそこのその方である、文字どおりの意味の下に横たわり、隠されており、教えの真理の中に、同時に生活の善の中に、このように主の中に、主が彼らの中にいる者でないなら、明らかにされない。
説教に祈りを付け加えて、捧げ、降りた。
傾聴者たちが去り、天使は聖職者に、何らかの挨拶のことばを自分に同行した十人に話すことを求めた。彼らに近づき、半時間にわたって会話し、神的三一性について、それがイエス・キリストの中にあること、使徒パウロの言明にしたがって、その方の中にすべての神性が形をとって住んでいることについて話した〔コロサイ2:9〕。またその後、仁愛と信仰の結合について、しかし仁愛と真理の結合について語った、信仰は真理であるからである。

結婚愛

24◀︎目次▶︎26

25 感謝を言った後、家へと去った。そこで、天使は彼らに言った。「今日は、あなたがたがこの天界の社会へ上った時から第三日です。この三日間、あなたがたは、主により、ここにとどまるよう備えられました。それゆえ、私たちが別れなければならない時です——そこで、君主から贈られた衣服を脱ぎ、あなたがたの衣服を着なさい」。
これらの中にいたとき、立ち去る願いが吹き込まれ、天使にゆだねて、自分たち集会の場所へ去った。そこでは、自分たちに知識を、またここから「天界の楽しさ」と「永遠の幸福」についての理解力を快く(祝福をもって)与えてくれたことを主に感謝した。

結婚愛

25◀︎目次▶︎27

26 前に話しに出したような、天界と地獄の間にある霊たちの世界で行なわれ、言われたものを、またこれから続けられる天界の社会の中にあるようなものを(らっぱを持った案内者の天使はその社会からでした)、私は再び真理として断言します。
ある者に彼の霊の視覚を開くこと、そして示し、教えることが主の喜ばれるところでないなら、キリスト教界の中のだれが、天界について、そしてそこの楽しさと幸福について何らかのものを知ったでしょうか? その知識は救い〔について〕の知識でもあります。
似たものが霊界に存在することは、使徒のヨハネにより見られて、聞かれたものからはっきりと明らかです、それらは「黙示録」に述べられています——例えば、

七つの燭台の真ん中に人の子を見たこと。天の中の幕屋・神殿・箱・祭壇。七つの封印で封じられた巻き物が開かれ、ここから出て来る馬。王座のまわりに四つの生き物。それぞれの部族から十二千の選ばれた者。深淵から上ってくるイナゴ。竜とミカエルとのその戦い。男の子を産み、そして竜のために荒野の中に逃げる女。一つは海から、もう一つは地から上って来る二つの獣。緋色の獣の上に座っている女。火と硫黄の池の中に投げ込まれた竜。白い馬や大宴会。新しい天と新しい地。降って来る「聖なるエルサレム」が門・城壁・その土台に関して描かれたこと。なおまた、いのちの水の川、また毎月、実を結んでいるいのちの木。
ほかに多くのもの、それらすべてがヨハネに見られ、そして見られた時、霊に関して霊界に、天界にいました。
ほかにも、主の復活後に使徒たちに見られたものがあります、例えば、それらはその後、ペテロに(使徒の働き第11章)、なおまたそれらはパウロに見られ、聞かれました。
さらに、それらは預言者に——例えば、エゼキエルに(生じました)、

四つの生き物を見たこと、それらはケルビムであった(エゼキエル第1, 10章)。
新しい神殿と新しい庭、また天使がそれらを測ったこと(第40–48章)。
エルサレムへ連れ去られ、そこに忌まわしいものを見たこと、そしてまたカルデヤに(連れて行かれたこと) (第8, 11章)。

同様のものがゼカリヤに生じました、

ミルトスの木の間に馬に乗っている男を見たこと(ゼカリヤ1:8以降)。
四つの角を、またその後、手の中の測り綱とともに男を見たこと(1:18–21, 2:1以降)。
燭台を、また二本のオリーブの木を見たこと(4:2以降)。
飛んでいる巻き物、またエパ枡を見たこと(5:1, 6)。
二つの山の間から出てくる四つの戦車と馬を見たこと(6:1以降)。

結婚愛

26◀︎目次▶︎28

結婚愛について知恵の歓喜


(一)天界の結婚について

27 〝天界に結婚がある〟ことは、人間が死後に霊魂または霊であることを信じ、〔その〕霊魂と霊について、希薄なエーテルまたはそよぎ風(プネウマ)であるといったような観念を抱いている者の信念に入ることができません――なおまた、その者は「最後の審判」の後でないなら、人間は人間として生きないことを信じています。全般的に、その者は霊界について、その中に天使と霊たちがいることを、そのように天界と地獄がどこにあるか、何も知りません――また、その世界が今まで知られておらず、天界の天使は完全な形の人間であること、同じく、地獄の霊も、しかし不完全な形の人間であることがまったく知られていなかったので、それゆえ、そこに結婚について何らかのものが啓示されることができませんでした――というのは、「地上の配偶者が配偶者と結合されるように、どのように霊魂が霊魂と、またはそよぎ風(プネウマ)がそよぎ風(プネウマ)と結合されることができるのか?」と言われ、その他、多くのことがそのように言われた瞬間に、そこの結婚についての信念は取り去られ、消散させられるからです。
しかし、今や、著作『天界と地獄』の中で、そしてまた『啓示された黙示録』の中で、その世界について多くのことが啓示され、そしてまたどんなものであるか述べられたので、そこに結婚があることの証明を理性の前にも示すことができます、これらによって――
(1) 死後、人間は人間として生きる。
(2) その時、男性は男性であり、女性は女性である。
(3) 死後、それぞれの者のもとに自分の愛が残る。
(4) 特に、性愛が残る。地上で霊的であって、天界にやって来る者のもとに、結婚愛が残る。
(5) これらは、個人的な観察によって十分に確証される。
(6) したがって、結婚が天界にある。
(7) 復活の後に婚姻が存在しないという主のことばによって霊的な婚姻が意味される。

今からこれらの説明をその順序で続けます。

結婚愛

27◀︎目次▶︎29

28 (1) 死後、人間は人間として生きる
死後、人間が人間として生きることは、今まで世で知られていませんでした、直前のそれらについての理由からです。また、キリスト教界でも知られていないのは驚くべきことです、そこには、みことばがあり、ここから永遠のいのちについて照らしがあり、そこに、主ご自身が、「 すべての死んだ者はよみがえります、神は死んだ者の神ではありません、しかし、生きている者の神です」と教えられています(マタイ22:30, 31, ルカ20:37, 38)。
そしてなおまた、人間は自分の心の情愛と思考に関して、天使と霊たちの真ん中にいます、そして、死なないなら彼らから引き離されることができないかのようなその仲間となっています。
そのときそれでも、最初の創造から死んだすべての人間が、死んだ後、〔家族など〕自分のものへやって来ました、そしてやって来ます、すなわち、みことばの中に言われているように集められました、また集められます――このことが知られないのはさらに驚くべきことです。さらにまた、人間に普遍的な知覚があります、それは彼の心の内的なものの中への天界の流入と同じものであり、それから真理を内的に自分自身の中に、それらの真理を見るかのように知覚します、特に次の真理を知覚します、それは人間が、死後、もし善く生きたなら幸福な生活を、もし悪く生きたなら不幸な生活を送ることです――というのは、心を身体から、また彼の感覚に近い思考から少し高揚させる時、内的に神の礼拝の中にいる時、また死の床に横たわって最期を待つ時、〔このことを〕だれが考えませんか? 死んだ者や彼らの運命について聞く時、同様ではありませんか?
私は、それらについて千回も語りました、例えば、ある者の兄弟・配偶者・友人がどのような運命であったかです。そしてまた、私はイギリス人・オランダ人・ローマカトリック教徒・ユダヤ人・異教徒の運命について、そしてまた、ルター、カルヴァン、メランヒトンの運命について書きました。私は今まで、ある者が、「彼らのそのような運命がどのようなものでありえるのか? そのとき、それでもまだ自分の墓からよみがえっていない、というのは、まだ最後の審判が起こっていない。彼らはその間にプネウマ(そよぎ風)である霊魂ではないのか? またある種のプーに、すなわち、どこかにいるのではないのか?」と言っているのを決して聞いたことがありません。
そのように言われたことを私は今までだれからも聞いていません。そのことから、「それぞれの者が自分自身の中で、人間は、死後、生きることを知覚している」と結論することができます。
配偶者が、そして自分の幼児と子どもが死ぬかまたは死んだ時、彼らを愛しただれが、自分自身に言いませんか? もし身体の感覚的なものの上に思考が高められているなら、〔彼らが〕神の手の中にあること、そしてまた彼らを、自分の死後、再び、見ること、そして彼らと愛と楽しさの生活を再び結ぶことです。

結婚愛

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29 だれが理性から見ることができませんか? もし見ることを欲するなら、人間が、死後、そよぎ風(プネウマ)でないこと、それ〔人間の霊魂〕について、風のそよぎについて、または空気やエーテルについてのようなもの、また、それがまたはその中に人間の霊魂があること、それが感覚で、またこれらの楽しみで享受することができるために、その身体との結合を、以前のように世で、望み、期待する以外の他の考えがないことです。
だれが見ることができませんか? もし人間が、死後、そのようなものになる時、彼の状態は、魚・鳥・地の動物の状態よりもさらに価値がないことです。それらの霊魂は生きないし、ここから、願望と期待からこのような不安の中にいません。
もし人間が、死後、そのようなプネウマ(そよぎ風)、このように風のそよぎであるなら、その時、宇宙の中を飛ぶかあるいはある者たちの伝説にしたがってある種のプーの中に、または最後の審判まで教父たちとともにリンボの中に保たれます。ここから、だれが理性から結論することができませんか?彼らは、その者は最初の創造から生き、それから六千年が数えられ、依然として同じ不安な状態の中に、だんだんとさらに不安を生じさせる状態の中にいて、願望からのすべての期待が不安を生じさせているので、時間から時間へとその不安がさらに増し、それゆえ、彼らは、依然としてあるいは宇宙の中を飛ぶかあるいはプーの中に閉じ込められて、このように極度の悲惨さの中に保たれることです。同様にアダムと彼の妻は、同様にアブラハム、イサク、ヤコブは、すべての他の者は、その時から同様に〔保たれませんか?〕
これらから、人間〔として〕生まれることよりも嘆かわしいものは何もないことがいえます。
しかし、永遠からのエホバであり、全世界の創造主(つくりぬし)であられる主により、正反対のものが備えられました。その方の戒めにしたがった生活によって自分自身をその方と結合させた人間の状態は、死後、世での以前の生活よりもさらに祝福され、さらに幸福です、人間はその時、霊的であることからさらに祝福され、さらに幸福です、そして霊的な人は卓越している霊的な快さを感じ、知覚します、霊的な快さは自然的な快さよりも千倍もまさるからです。

結婚愛

29◀︎目次▶︎31

30 天使と霊たちが人間であることは、アブラハム、ギデオン、ダニエル、預言者たちに、特に「黙示録」を書いたときのヨハネに、そしてまた、主の墓の中の女たちに見られたことから明らかにすることができます。それどころか、主ご自身が復活の後、弟子たちに〔人間として見られました〕。
見られた理由は、その時、彼らの霊的な目が開かれたからです。これらが開かれるとき、天使が人間の形で見られます。しかし、それらが閉ざされるとき、すなわち、自然界からすべてのものを得ている目の視覚がおおわれる時、見られません。

結婚愛

30◀︎目次▶︎32

31 しかし、人間は、死後、自然的な人ではなく、霊的な人であること、そしてまた、自分自身にまったく似たものに、そして依然として自然界にいるとしか知らないように、似たものに見えることを知らなくてはなりません。というのは、似た身体・似た顔・似た話し方・似た感覚であるからです、似た情愛と思考、すなわち、似た意志と理解力をもつからです。
確かに、実際に似たものではありません、霊的であり、ここから内的な人であるからです。しかし、彼に相違は見られません、自分の状態を前のものすなわち自然的なものと比較することができません、というのは、自然的なものを捨て、霊的なものの中にいるからです。それゆえ、しばしば、私は、彼らが、「前の世にいるとしか知らない、〝もはやその世界に残した者を見ない、しかしその世界から去った者をすなわち死んだ者を見る〟という相違だけがある」と言っているのを聞きました――けれども、今や前者を見ず、後者を見る理由は、自然的な人ではなく、霊的な人すなわち実体的な人であるからです。そして霊的な人すなわち実体的な人は、自然的な人すなわち物質的な人が、自然的な人すなわち物質的な人を見るように、霊的な人すなわち実体的な人を見ます。しかし、実体的なものと物質的なものの間の相違のために、逆ではありません。それは前のものと後のものの間の相違のようです、そして前のものは本質的に純粋であるので、本質的に粗雑なものである後のものに見られることができません、後のものも粗雑であるので、本質的に純粋である前のものに、それゆえ、天使はこの世の人間に、この世の人間も天使に見られることができません。
人間が、死後、霊的な人すなわち実体的な人であることは、これが自然的な人すなわち物質的な人の中に内部に隠れているからです。これは彼にとって衣服のようなもの、またはぬけがらのようなものです、それらを捨てて、その霊的な人すなわち実体的な人が、そのように、さらに純粋な、さらに内的なさらに完全な人が出てきます。
霊的な人は、たとえ自然的な人に見られなくても、それでも完全な人間であることは、復活の後、使徒に見られた主からはっきりと明らかです、現われ、すぐに消えました、それでも現われ、消えたとき、ご自分に似ている人間でした。彼らもまた、彼らの目が開かれて、その方を見たとき、そのことを言いました。

結婚愛

31◀︎目次▶︎33

32 (2) その時、男性は男性であり、女性は女性である
死後、人間は人間として生き、人間は男性と女性であり、男性と女性は別のものであるので、ある者が他の者に代わることはできません、その結果、死後、男性は男性、女性は女性として、両者とも霊的な人として生きることになります。
男性は女性に、女性も男性に代わることができません、それゆえ、死後、男性は男性、女性は女性であることが言えます。しかし、本質的に男性がどこに、本質的に女性がどこにあるか知られていないので、それゆえ、わずかながらここで言っておきます。
相違は本質的に、男性の中の最内部のものが愛であり、このおおいが知恵であること、すなわち同じことですが、知恵でおおわれた愛であることの中にあります。そして女性の中の最内部のものが男性のその知恵であり、そしてこのおおいがここからの愛であることです。しかし、前者の愛は男性の愛であり、また賢明になろうとする愛であり、そして主から知恵の受け入れにしたがって夫へ与えられ、そして後者の愛は女性の愛であり、そして主から妻に夫の知恵を通して与えられます――男性が愛の知恵であること、女性がその知恵の愛であることはそのことからです。それゆえ、創造から、一つのものへの結合の愛が両方のものに植え付けられています。しかし、これらについて続きの中で多くのものを言います。
女性が男性からであること、すなわち女が男から取られたことは、「創世記」の中のこれらから明らかです――

神エホバは……男の肋骨から一つを取り、そのところに肉を閉じ込められた。男から取った肋骨を女に造り上げ、それを人へ連れて来られた。人は言った、「これは私の骨からの骨、私の肉からの肉である。これをイシャと呼ぼう、男から取られたからである」(2:21–23)。

「肋骨」と「肉」が何を意味するかは他の箇所で言います〔193番〕。

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32◀︎目次▶︎34

33 この根本的な形成から、男性が知性に生まれ、女性が意志に生まれていること、すなわち同じことですが、男性は知り、理解し、賢明になる情愛の中に生まれ、女性は男性の中のそれらの情愛と自分自身を結合させる愛の中に生まれていることが流れ出ます。
内的なものは外的なものをその似たものへと形作ります、男性の形は理解力の形であり、そして女性はその愛の形であるので、ここから、男性は女性とは別の形・別の声・別の身体です。すなわち、女性よりも、固い顔・粗い声・強い身体、なおまた、あごにひげがあり、全般的に美しくない形です。振る舞いや行儀でも異なっています——一言でいえば、何も似ていません、しかしそれでも、個々のものの中に結合へ向かうものがあります。実に、男性の中に男性らしいものが、すべての部分の中に、彼の身体の最小のものの中にも、そしてまた、思考のすべての観念の中に、またその情愛のすべての小片の中に男性らしいものがあります。同様に、女性の中に女性らしいものがあります——このように、一方はもう一方に変わることができないので、死後、男性は男性であり、女性は女性であることがいえます。

結婚愛

33◀︎目次▶︎35

34 (3) 死後、それぞれの者のもとに自分の愛が残る
人間は愛があることを知っています、しかし、愛が何であるか知りません。通常の会話から愛があることを知っています。例えば、彼は私を愛する、国王は臣民を愛し、臣民は国王を愛する、夫は妻を愛する、また母は子どもを愛し、その逆も、さらにあれこれの者が祖国・仲間の市民・隣人を愛する——同様に、人物から抽象された事柄について、これやあれやを愛する、とこのように言われています。
このように会話の中で愛は万人共通のものですが、それでも愛とは何かほとんど知りません。愛について熟考する時、そのことについて何らの観念を形成することもできないので、それを、「何でもない、あるいは単に視覚・聴覚・触覚・交際から流入し、こうして〔心を〕動かす何らかの存在である」と言います。いのちそのものであることを、全身の全般的ないのちと彼のすべての思考の全般的ないのちだけでなく、個々のもののすべてのいのちであることをまったく知りません。
賢明な者はこのことを、「もし、あなたが愛のものである情愛を取り去るなら、何かを考えることができますか? 何かを行なうことができますか? 愛のものである情愛が冷たくなるほど、それだけ思考・話すこと・行動は冷たくなりませんか? 熱くなるほど、それだけそれらも熱くなりませんか?」と言われるとき、ここから知覚することができます。
そこで、愛は人間のいのちの熱、すなわち彼の生命力の熱です。血の熱は、そしてまたその赤色は、他のところからではありません。天使の太陽の火が、それは純粋な愛であり、これをひき起こします。

結婚愛

34◀︎目次▶︎36

35 それぞれの者に自分の愛があること、または他の者の愛から区別されること、すなわち、ある人間に他の者の愛と似た愛がないことは、顔が愛の象徴であり、その顔の無限の変化から明らかにすることができます。なぜなら、顔は愛の情愛にしたがって変えられ、多様なものにされるからです。愛のものである願望も〔そのようなものであり〕、その楽しさと悲しみもそこから輝き出ます――このことから、人間は自分の愛、それどころか、自分の愛の形であることが明らかです。
しかし、内的な人は、それは死後に生きる彼の霊と同じであり、自分の愛の形であることを、世では外的な人と似ていないことを知らなくてはなりません、これは〔外的な人が〕幼児期から自分の愛の願望を隠すことを、それどころか、偽り装うこと、そして自分のもの〔願望〕よりも他のものを見せることを学んだからです。

結婚愛

35◀︎目次▶︎37

36 それぞれの者のもとに自分の愛が、死後、残るのは、(直前の34番に言われているように)愛は人間のいのちであり、ここから人間そのものであるからです。
さらにまた、人間は自分の思考、そのように自分の知性と知恵です、しかしこれらは彼の愛と一つのものとなっています。なぜなら、人間は自分の愛から、それにしたがって考え、それどころか、もし自由の中にいるなら、〔考えるだけでなく〕話し、行動するからです。そのことから、愛は人間のいのちのエッセ(存在)または本質であり、思考はここからの彼のいのちのエキシステレ(実存)または実在であることを見ることができます。それゆえ、思考から流れ出る話すことと行動は、思考から流れ出ないで、愛から思考を通って流れ出ます。
死後、人間は自分の思考ではなく、自分の情愛とここからの思考であること、すなわち、自分の愛とここからの知性であること、なおまた、死後、人間は彼の愛に一致しないすべてのものを脱ぐこと、それどころか、それは、しだいに、自分のいのちの愛の顔・声・話し方・振る舞い・態度を身につけることを多くの経験から知ることが与えられました。
ここから、全天界は善の愛の情愛の多様性にしたがって、そして全地獄は悪の愛の情愛にしたがって配列されています。

結婚愛

36◀︎目次▶︎38

37 (4) 特に、性愛が残り、地上で霊的であって、天界にやって来る者のもとに、結婚愛が残る
人間のもとに性愛が残ることは、その時、男性は男性、女性は女性であり、そして男性の中の男らしさは、同様に、女性の中の女らしさは、その全部の中にまたすべての部分の中にあり、そして個々のものの中に結合への傾向が、実に、彼らの最小のものの中にあるからです――さて、創造からその結合への傾向が着せられているので、一方がもう一方との結合を願い、結合したがることがいえます。
本質的に眺められた愛は、結合への願望とここからの努力、また一つのものとしての結合への結婚愛でしかありません。というのは、男性の人間と女性の人間は、二つのものから一つの人間すなわち一つの肉のようになることができるように創造されているからです。また一つになる時、そのとき一緒に、人間はその完全さの中でひとまとめにされます。しかし、その結合がないなら二つです、そして二つとも、いわば分割された人間すなわち二つに分かれた人間です。
さて、その結合への傾向が、男性の個々のものの中に、また女性の個々のものの中に、最内部に隠れています、そして一つのものとして結合への能力と願望が個々のものに内在するので、相互のまた交互の性愛が、人間のもとに、死後、残ることがいえます。

結婚愛

37◀︎目次▶︎39

38 性愛は結婚愛と別のものであるので、性愛と結婚愛が言われます。性愛は自然的な人のもとに、しかし、結婚愛は霊的な人のもとにあります――自然的な人は、単なる外なる結合を、またそれらから身体の快楽を愛します。しかし、霊的な人は内なる結合を、またそれらから霊の幸せを愛し、願い、これらがひとりの妻に存在し、彼女とともに永久に、ますます一つのものとして結合されることができることを知覚します。また、そのようにさらに結合されるほど、自分の幸せを、同様の段階の中に上がっていること、これらが永遠に変わらないことを知覚します。しかし、自然的な人はこのことを考えません。
それでここから、地上で霊的となって天界にやって来る者のもとに結婚愛が残ることが言えます。

結婚愛

38◀︎目次▶︎40

39 (5) これらは個人的な観察によって十分に確証される
人間が人間〔として〕、死後、生きること、その時、男性は男性、そして女性は女性〔であり〕、そしてそれぞれの者のもとに自分自身の愛が、そして特に性愛と結婚愛が残ることを、理解力のものや理性と呼ばれるそのようなものによって確信することに、これまで、私は懸命に努めました。しかし、人間は両親と教師により幼児期から、その後、学者や聖職者から、人間は死後に、最後の審判の日の後よりも生きないという信念を得て、その期待の中に今や六千年いました。多くの者はこのことを、信念で得られても、理解力で得られないものの間に置いたので、同じことが個人的な観察の証拠によって確信されることが必要です。そうでなければ、単に感覚によって信じる人間は、刻みつけられた信念から、「もし、人間が、死後、人間として生きるなら、私は彼らを見、聞くであろう」、なおまた、「だれが天界から下ったか、地獄から上ったか、また話したか?」と言うでしょう。
しかし、霊のものである心の内的なものが、主により開かれた者とでないなら、天界の何らかの天使が降り、地獄の何らかの霊が上り、そして何らかの人間と話すことはできなかったし、〔今でも〕できません、またこのことは、主により霊的な知恵のものであるそれらを受け入れるために、十分に(完全に)準備された者でないなら行なわれることができないので、それゆえ、このこと〔=これらのことが私になされること〕は、天界と地獄の状態が、そして死後の人間のいのち(生活)の状態が知られず、そしてついには否定の中に埋められることがないようにとの目的のために、主の喜びでした。
しかし、前述のことについて個人的な観察からの証拠は、豊富なために、私はここに示すことができません。しかし『天界と地獄』の著作の中に、そしてその後、『続 霊界について』の中に、そして、続いて、『啓示された黙示録』の中に示しました。しかし、特に、ここに、結婚について、この著作の段落または章の後に続けられるメモラビリアの中に示します。

結婚愛

39◀︎目次▶︎41

40 (6) したがって、結婚が天界にある
これらは、今、理性によって、同時に経験によって確認されたので、さらなる論証を必要としません。

結婚愛

40◀︎目次▶︎42

41 (7) 復活の後に婚姻が存在しないという主のことばによって霊的な婚姻が意味される
福音書にこれらが読まれます――
復活を否定するあるサドカイ人がイエスに、「先生、モーセは……もし、ある兄弟が、妻を持っていて、死に、そして彼に子どもがないとき、彼の兄弟は〔その〕妻をめとり、自分の兄弟の種を起こすようにせよ、と書いていますと言って――七人の兄弟がいて、彼らは次々に妻を受け入れました。しかし、子どもがなく……最後に、女も死にました……そこで、復活のとき、彼らのだれの妻になるのですか?」と質問した。……しかし、イエスは彼らに言った、「この世代の子たちはめとり、とついだりします。けれども、次の世代に続き、死から復活するためにふさわしい者は、めとらないし、とついだりもしません。というのは、もはや死ぬことができないから、というのは、天使は、また神の子たちは、復活の子であるとき、同様であるからです。けれども、死んだ者がよみがえることは、モーセもまた「柴〔の箇所〕」で、主を、アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神と言ったとき、表明しました。けれども、今、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。というのは、すべての者はそれらの神に対して生きているからです」(ルカ20:27–38, マタイ22:22–31, マルコ12:18–27)。

主がこれらによって教えたものは二つあります。第一のものは、人間が、死後、よみがえること、第二のものは、婚姻が天界に存在しないことです。
人間が、死後、よみがえることは、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であること、また、アブラハム、イサク、ヤコブが生きていることによってです。そしてさらに、地獄の富んだ者、天界のラザロについてのたとえによってです(ルカ16:22–31)。
[2]第二のもの、天界に婚姻がないことは、次の世代に続くのにふさわしい者は、めとらないし、とついだりもしないことによってです――霊的な婚姻以外の他の婚姻がここに意味されないことは、直ちに続けられるみことばからはっきりと明らかです、もはや死ぬことができないから、というのは、天使は、また神の子たちは、復活の子であるとき、同様であるからです――霊的な婚姻によって主との結合が意味され、これは地上で行なわれます。地上で行なわれるとき、天界でも行なわれます。それゆえ、天界では再びめとったり、とついだりしません。このこともまたこれらによって意味されます、「この世代の子たちはめとり、とついだりします。けれども、次の世代に続き、死から復活するためにふさわしい者は、めとらないし、とついだりもしません」。
これらの者もまた主により「婚姻の子たち」と呼ばれています(マタイ9:15, マルコ2:19)。また今や「天使」、「神の子たち」、「よみがえりの子たち」です。
[3]「婚姻を行なうこと」が主と結合されること、また「婚姻の中に入れられること」が主により天界に受け入れられることであることは、これらから明らかです――

天の王国は王〔である〕人間に似ています、その王は自分の息子のために婚礼を設け、そしてしもべを遣わし、婚礼へと招きました(マタイ22:1–14)。
天界の王国は十人の娘に似ています、その者たちは……花婿に会いに出て、それらの者からの用意された五人が婚礼の中に入れられました(マタイ25:1以降)。

主がここに〔花婿によって〕ご自分を意味したことは第13節から明らかです、そこに言われています、

目覚めていなさい……あなたがたは、いつ人の子がやって来るか、その日と時を知らないからです。

なおまた「黙示録」から、

小羊の婚姻の時が来て、その妻は用意した……小羊の婚姻の正餐に呼ばれた者は幸いだ(19:7, 9)。

主が語られたそれらのすべてと個々のものの中に霊的なものが意味されていることは、1763年にアムステルダムで出版された『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に、十分に示されています。

結婚愛

41◀︎目次▶︎43

1 天界から降ろされたふたりの夫婦のもとに、結婚愛がその形として見られた

42 (これらに私は霊界からの二つのメモラビリアを加えます、第一のものはこれ——)
ある朝、私は天を見上げ、私の上方に、広がりの上方の広がりを見た。私は、近くの第一の広がりが開かれ、すぐにさらに上の第二のもの、最後に最も高いものであった第三のものが開かれたのを見た。また、ここからの照らしから、私は、第一の広がりの上に、第一の天界すなわち最も下の天界からの天使、また第二の広がりの上に、第二の天界すなわち中間の天界からの天使、また第三の広がりの上に、第三の天界すなわち最も高い天界からの天使がいるのを知覚した。
最初、これは何か、なぜか、と驚いた。直ちに天界から、らっぱのような声が聞こえ、「あなたが結婚愛について瞑想していることを知覚しました、今、私たちは見ています。私たちは、真の結婚愛がその起源で、またその本質で、何であるか、地上にいる者が依然として知らないことを知っています、それでも、知られることは重要です。それゆえ、照らす光があなたの心の内的なものの中へ流入するために、あなたに天界を開き、ここから知覚することが主の喜びでした——天界の、特に、第三の天界の私たちのもとで、私たちの天界的な楽しさは、とりわけ結婚愛からです。それゆえ、私たちに与えられた許可から、私たちはあなたが見るために、あなたに結婚した一組〔の夫婦〕を降ろします」と言った。
[2]見よ、その時、最も高い天界すなわち第三の天界から降っている馬車が現われ、その中にひとりの天使が見られた。しかし近づくにつれて、その中にふたりが見られた——馬車は遠方から、私の目にダイヤモンドのように輝き、それに、雪のように白く輝く子馬(若い馬)が取り付けられていた。馬車に座っている者は手に二羽のキジバトを持っていて、私に叫んだ、「あなたは私たちがさらにそばに近づくようにと望んでいます。しかし私たちの天界からの閃光が、その天界から私たちは降ったのですが、その時、炎となって、内部に貫通しないように用心しなさい、その流入から確かにあなたの理解力の高い観念が照らされます、それは本質的に天界的なものです、しかし、それらはあなたがいる世で、言い表わせないものです——それゆえ、あなたはそれらを理性的に聞いて、受け入れ、そのようにそれらを理解力にゆだねなさい」。
私は答えた、「用心します、さらにそばに来てください」。
彼らは来た、見よ、夫とその妻であった——彼らは言った、「私たちは夫婦です。私たちはあなたがたから黄金時代と呼ばれる最初の時代から、天界で、幸福に、永続的に、花に似た年齢の中で生きました。あなたは、今日、その中の私たちを見ています」。
[3]私は両者を調べた、結婚愛を表象するものをいのちとその装飾品の中に、そのいのちを顔の中に、その装飾品を衣服の中に知覚したからである。というのは、すべての天使は人間の形をした愛の情愛であるから。支配している情愛そのものが彼らの顔から輝き出ており、情愛からそれにしたがって衣服が定められる。それゆえ、天界では、だれでも自分の情愛を着ている、と言われている。
夫は青年と若者の間の中間の年齢で見られた。その目から、愛の知恵からきらめく光が輝き出ており、その光からその顔は内部で輝くようであり、ここからの放射から皮膚は最外部であたかもきらめくようであった。ここからその顔全体は一つの輝く美しさをなしていた——ローブを着ており、ローブの下に青色の服、これに金色の帯が巻きつけられ、その上に三つの宝石、脇に二つのサファイア、そして中央に赤めのう(ルビー)があった。輝くリンネルからできた長い靴下、それに銀からの糸が編み込まれていた。履き物は絹からできていた——これが夫のもとで結婚愛を表象する形であった。
[4]けれども、妻のもとで、これらであった——その顔は私に見られ、見られなかった。美そのもののように見られ、これは言い表わせないので見られなかった。というのは、顔の中に第三の天界の天使にある光のような炎のような光の輝きがあり、これが私の視力を弱めたから。それゆえ、私はただ唖然とした。
彼女はこれに気づいて、私に「あなたは何を見ていますか?」と言って話した。
私は答えた、「私に結婚愛とその形しか見えません。私は見るし、見ません」。
そのために、彼女は夫へ斜めに向きを変え、その時、私はさらに鋭く調べることができた。
その目はその天界の光からきらめいた、それは、すでに述べたように、炎のようであり、ここから〔きらめきを〕知恵への愛から得ている。というのは、その天界の妻たちは夫たちを知恵から、また夫たちの知恵の中で愛し、夫たちは妻たちをその愛から、自分自身に向かうそれらから愛し、このように結合されるからである。ここからその美があり、それは、どんな画家も形としてそれを模倣し、見せて示すことができないようなものである。というのは、そのようなひらめきが彼の色の中に、そのような表現できる美しさも彼の技術の中に存在しないから——髪は、美との対応にしたがって置かれた美しい秩序の中にあり、その髪に宝石からできた花が入れられていた——首飾りは赤めのう(ルビー)からできていた、そしてここから貴かんらん石(クリソライト)からできたロザリオがつりさがっていた。真珠からできた腕輪もしていた。緋色のトーガを、その下に紫色の胸当てを着ていて、ルビーでその前部を結び付けていた。しかし私は、夫に見られるのにしたがって色が変化し、そしてまた、それにしたがって時には大きく、時には小さくきらめいたことに驚いた。互いに見られる中で大きく、斜めに見られる中で小さくきらめいた。
[5]これらが見られて、彼らは再び私と話した。夫が話すとき、彼は同時に妻からのように、妻が話すとき彼女は同時に夫からのように話す、というのは、このように心の結合があり、それらから話しが流れ出るから。その時、私は結婚愛の声も聞いた、それは内部で同時もの、そしてまた平和と無垢の楽しい状態から発出しているものであった。
最後に彼らは言った、「私たちは呼び戻されています、去らなければなりません」。
その時、以前のように再び馬車に乗るのが見られた。花畑の間の舗装された道を通って運ばれ、それらの花壇からはオリーブの木と多くの実をつけたオレンジの木が伸びていた——自分の天界が近づいたとき、乙女たちが出迎えにやって来て、彼らを受け入れ、導いた。

結婚愛

42◀︎目次▶︎44

43 この後、その天界からの天使が手に羊皮紙を持っているのが私に見られ、それを広げて、言った、「私は、あなたが結婚愛について瞑想しているのを見ました——それについて、これまで世で明かされなかった知恵の秘義がこの羊皮紙の中にあります。今や重要であるので明かされます。
私たちの天界にその秘義が他の天界よりもさらにあります、私たちは愛と知恵の結婚の中にいるからです——しかし私は、主により新しいエルサレムである新しい教会に受け入れられる者以外の他の者がその愛を自分のものにしないことを予告しておきます」。
これらを言って、天使は広げた羊皮紙を降ろし、それをある天使的な霊が受け取り、ある部屋の中の机の上に置き、その部屋を直ちに閉め、私に鍵を差し出し、言った、「書きなさい」。

結婚愛

43◀︎目次▶︎45

2 世からの三人の新来者に天界での結婚について知らされたもの

44 (第二のメモラビリア——)
かつて、私は世からの三人の新来の霊を見た、その者たちは歩きまわり、調べ、質問した。
彼らは、自分たちがまったく以前のような人間として生き、以前と同様のものを見て、驚いていた。というのは、彼らは、前の世界すなわち自然界で死んだこと、そこでは、人間は最後の審判よりも前に生きないこと、その時、墓の中にしまわれた肉と骨で囲まれると信じたことを知っていたからである。それゆえ、すべての疑いがはらされるために、交互に眺め、そして自分自身に、また他の者に触れ、対象物をさわって調べ、千のものによって、今や、前の世界の中のような人間である、むしろ真の人間であること、このことに加えて、お互いにさらに清浄な光の中で、対象物をすぐれた輝きの中で、このようにさらに完全に見ていることを確認した。
[2]その時、たまたま、ふたりの天使的な霊が彼らに出会い、「あなたがたはどこからですか?」と言って、引き止めた。彼らは答えた、「私たちは世で死んだ、そして再び世で生きている。そのように私たちは世から世へ移住した。このことに、今、私たちは驚いている」。
その時、三人の新来者は天界についてふたりの天使的な霊に質問した。三人の新来者からのふたりは青年であったので、彼らの目から性への情欲が火花のように輝き出ており、天使的な霊は言った、「おそらく、あなたは女を見たでしょう」。彼らは答えた、「私たちは見た」。
天界について質問したので、彼らはこれらを言った——
「天界にすべての荘厳なものとみごとなもの、目では決して見なかったようなものがあります。そこに乙女と若者がいます、乙女の美しさは、その形としての美と呼ばれることができるほどのものです。そして、若者の礼儀正しさはその形としての礼儀正しさと呼ばれることができるほどのものです。乙女の美と若者の礼儀正しさは、相互に釣り合っている形のように、それ自体に対応しています」。
ふたりの新来者は、天界の人間の形は自然界にいる者とまったく似ているか質問した。
まったく似ていて、男から何も、女から何も取り除かれていないことを答えた、「一言でいえば、男は男であり、女は女です、すべて完全な形として、男と女に創造されています。よろしかったら〔ここから〕去って、何が欠けていないか、むしろ、あなたは以前のように男であるかどうか、あなた自身で調べなさい」。
[3]再び、新来者たちは言った、「私たちは世で、そこから私たちは去ったが、天使であるので天界には婚姻が存在しない、と聞いた。このように、性愛は存在するのか?」
天使的な霊は答えた、「あなたがたの性愛は天界に存在しません、しかし天使の性愛が存在し、それは貞潔であり、すべての誘惑を欠いたものです」。
これに新来者たちは答えた、「誘惑的なものが何もない性愛が存在するなら、その時、性愛とは何か?」  この愛について考えたとき、彼らはため息をつき、言った「おお、なんと天界の楽しさは乾いていることか。若者のだれが、その時、天界を望むことができるのか? そのような愛は不毛のもの、いのちを欠いているものではないのか?」
これらに天使的な霊は、ほほ笑んで話した、「天使の性愛すなわち天界にあるような性愛は、それでも最内部は楽しさで満ちています。心(mens)のすべてのものの最も楽しいものの、ここから胸のすべてのものの拡張です、そして胸の内部で心臓が肺と遊ぶようであり、その遊びから呼吸・音声・話しが出てきます、それが両性の間の、すなわち、若者と乙女の間の交わりを天界の甘美そのもののようにしており、それは純粋です」。
[4]天界に上るすべての新来者は、〔その者の〕貞潔がどんなのものであるか調べられます。というのは、乙女の交わりの中に入れられ、天界の美である彼女たちは音声から、話し・顔・目・身振りから出てくるスフェアから、性愛に関してどんなものであるか知覚するからです。もし不貞な者であるなら、逃げ去り、自分たちに、サテュロスまたはプリアーポスを見たことを知らせます。そしてまた、新来者は、天使の目の前で毛むくじゃらな者に見られ、足に関して子牛またはヒョウのように変えられ、彼らは、自分の情欲で、そこのオーラ(空気)を汚さないように、すぐに投げ落されます」。
これらを聞いて、ふたりの新来者は再び言った、「そのように天界に性愛は何もない——そのいのちの本質を空にした愛でないなら、貞潔な性愛とは何か? このようにそこの若者と乙女の交わりは味気ない楽しさではないのか? 私たちは石や丸太ではなく、いのちの知覚と情愛である」。
[5]これらを聞いて、憤慨したふたりの天使的な霊は答えた、「あなたがたは依然として貞潔でないので、何が貞潔な性愛か、まったく知りません。その愛は心(mens)の、ここから心臓(心)(cor)の楽しさそのものです、また同時に心臓(心)の下の肉のものではありません——天使の貞潔は、それは両性に共通であり、心(心臓)の囲いを超えてその愛の移行を妨げます、しかしその内部で、その上方で若者の礼儀正しさは乙女の美とともに、貞潔な性愛の歓喜で楽しみます、それらは言葉によって述べられることができないようなもの、楽しさのさらに内的なもの、よく実を結ぶものです。
しかしこの性愛は天使にあります、彼らに結婚愛だけがあり、この愛は不貞な性愛と同時にありえないからです。真の結婚愛は貞潔な愛であり、不貞な愛と共通なものを持ちません。〔異〕性からのただひとりの者とだけのものであり、他のすべての者から遠く離れています、というのは、霊の愛であり、ここから身体の愛であるからです、身体の愛であり、ここから霊の愛ではありません、すなわち、霊を悩ませる愛ではありません」。
[6]これらを聞いて、ふたりの若者の新来者はうれしがり、言った、「やはりそこに性愛がある、結婚愛は他の何なのか?」
しかし天使的な霊は彼らに答えた、「深く考え、熟考しなさい、するとあなたがたは知覚します、あなたがたの性愛は婚外性交の愛であり、結婚愛はまったく他のものであること、結婚愛は性愛から、麦がもみ殻からのように、あるいはより適切には人間が野獣からのように区別されることです。もしあなたがたが天界の中の女に、何が婚外性交の愛か質問するなら、『これは何ですか? あなたがたは何を言っているのですか? どのように、耳を害するこのようなものをあなたは口に出することができるのですか? どのように、創造されなかった愛が人間に出生によって伝わるのですか?』と答えるであろうことを断言します。
もしその時、あなたがたが彼女たちに、何が真の結婚愛か質問するなら、私は、彼女たちが、『性愛ではありません、〔異〕性からのひとりへの愛であり、それは、若者が主により備えられた乙女を、また乙女が若者を見る時、両者が自分の心の中に燃え上がる結婚のものを感じ、そして、彼は自分のものであり、また彼女は自分のものであると知覚するものと異なりません、というのは、愛はそれ自身の愛に出会い、それ自身に認めることを行ない、直ちに霊魂を結合させ、その後、心を、ここから胸に入り、そして婚姻の後、〔さらに〕越えて、十分な愛になるからです、それは日々に結合へと、もはや二つではないように、しかし一つであるようにまでも増大します』と答えることを知っています——
[7]さらにまた、私は、彼女たちが、『他の性愛を知りません』と誓うであろうことを知っています。というのは、『永遠の結合をしたがるように、そのように出迎え、交互のものでないなら、どのように性愛が存在することができるのですか? それは二つが一つの肉であるためのものです』と言うでしょうから」。
これらに天使的な霊は付け加えた、「天界では何が淫行かまったく知られていません、あることも、ありえることも知られていません。天使は不貞な愛または婚外性交の愛に全身が凍りつき、そして逆に、貞潔な愛すなわち結婚愛に全身が温かくなります。そこの男のもとで、すべての神経は、娼婦を見ると委縮し、妻を見ることで伸長します」。
[8]3人の新来者たちは、これらを聞いて、夫婦の間に地上のような似た愛が天界にあるのか、質問した。
ふたりの天使的な霊は、「まったく似ています」と答えた。
また、同様な最終的な歓喜がそこにあるかどうか知ることを欲している、と知覚したので、言った、「まったく似ていますが、天使の知覚と感覚は人間の知覚と感覚よりもはるかに鋭敏であるので、はるかに祝福されています。〔性的〕能力の流れ(静脈)からでないなら、その愛のいのちは何ですか? これが不足するなら、その愛は不足し、冷たくなりませんか? その精力は、その愛の基準そのもの、程度そのもの、基盤そのものではありませんか? その始まり・支え・完成ではありませんか?
最初のものは最終的なものから存在するようになり、とどまり、続くことが普遍的な法則です。その愛もそのようです。それゆえ、最終的な歓喜がないなら、結婚愛の歓喜は何もありません」。
[9]その時、新来者たちは、その愛の最終的な歓喜からそこに子が生まれないのか、もし子が生まれないなら、その役立ちは何なのか質問した。
天使的な霊は答えた、「何らかの自然的な子ではなく、霊的な子です」。
彼らは質問した、「霊的な子とは何か?」
答えた、「ふたりの夫婦は最終的な歓喜によって、善と真理の結婚でさらに結合されます、善と真理の結婚は愛と知恵の結婚であり、そしてその結婚から生まれた愛と知恵が子です——夫はその知恵であり、妻はその知恵への愛であり、そしてまた両者は霊的なものであるので、それゆえ、霊的なもの以外の他の子は、そこで、みごもり、生じることができません。
ここから、天使は、歓喜の後、地上のある者のように悲しくならないで、快活になります、このことは前の力(活力)の後に、力(活力)の不変の流入から彼らにあり、それらは更新し、同時に照らします。というのは、天界にやって来るすべての者は、自分の青春時代の春に、そしてその年齢の力(活力)に戻り、このように永遠にとどまるからです」。
[10]三人の新来者たちは、これらを聞いて、言った、「みことばの中に、天使であるので天界に婚礼がないことが読まれないか?」
これらに天使的な霊は答えた、「天界を見上げなさい、すると、あなたがたに答えられます」。
質問した、「なぜ天界を見上げるのか?」
言った、「ここから、私たちにみことばのすべての説明があるからです。みことばは深く霊的なものです。天使は、霊的であるので、その霊的な意味を教えるでしょう」。
いくらかの時の経過の後、彼らの頭の上方の天界が開かれ、彼らの視野にふたりの天使がやって来て、言った、「天界に地上のような婚礼は存在しません。しかし善と真理の結婚の中にいる者にしかありません、他の天使にもありません。それゆえ、善と真理の結婚である霊的な婚礼が、そこに意味されます。
地上にある婚礼は、死の後になく、そのように天界にありません。婚礼に招待されていて、入ることができなかった五の愚かな娘について言われるように、彼女たちには善と真理の結婚がありませんでした、というのは、彼女たちに油がなく、明りだけがあったからです。〝油〟によって善が、〝明かり〟によって真理が意味されます。そして〝婚礼へ〔加わることが〕与えられること〟は天界に入ることであり、そこにその結婚があります」。
三人の新来者は、これらを聞いて喜んだ、そして天界への十分な願望で、またそこの結婚式への希望で、言った、「私たちは願いを獲得するために、礼儀正しい、ふさわしい生活に専念しよう」。

結婚愛

44◀︎目次▶︎46

(二)夫婦の死後の状態について

45 天界に結婚があることが、すぐ前に示されました。今からここに、世で結ばれた結婚の約束が、死後、残り、確定しているか、あるいはそうでないか示します。
このことは判断の事柄ではなく経験の事柄であり、このことが、天使また霊との交わりによって私に与えられたので、私により伝えられます。しかし、それでも理性によってもまた得られるようなものです。
そのことを知ることが夫婦の願いと欲求の間にもあります、というのは、自分の妻を愛した男は、同様に、自分の夫を愛した妻は、もし死ぬなら、〔これは〕自分たちによい〔ことである〕かどうか、また再び出会うか知ることを欲するからです。多くの夫婦もまた、死後、別れるか、あるいは一緒に生活するか、互いに気質(アニムス)で一致しないなら別れるのではないか、そして、気質で一致しているなら一緒に生活するのではないか、前もって知ることを望みます。
これらが望まれているので伝えます。次の順序で行ないます――

(1) 死後、すべての人間のもとに性愛が残る、彼の内なるものであった、すなわち、世で彼の内的なものの中の意志と思考であったような性愛である。
(2) 結婚愛も同様である。
(3) 大部分の夫婦のふたりは、死後、出会い、互いに認め、再び、仲間となり、ある期間、一緒に生活する。このことが最初の状態の中で、したがって外なる状態の中にいる時、世でのように生じる。
(4) しかし、しだいに、外なるものを出る、そして自分の内なるものの中に入ることに応じて、自分たちに向けて相互にあった自分たち自身の間の愛と性向を、またここから、一緒に生活することができるか、あるいはできないか、知覚する。
(5) 一緒に生活することができるなら、夫婦は続く。しかし、できないなら、お互いに、ある時は男が妻から、ある時は妻が男から、またある時は両者が相互に別れる。
(6) その時、男に似合いの妻が、そして同様に女に似合いの夫が与えられる。
(7) 夫婦は、互いに世の交わりと似た交わりを享受する、しかし、さらに快い、さらに祝福されたものである。けれども、子孫を産むことはなく、それに対してすなわちその代わりに、愛と知恵の霊的な子孫を産むことがある。
(8) 天界にやって来る者はそのようになる。けれども、地獄にやって来る者は異なる。

今から説明を続けます、それによってこれらは照らされ、確信されるでしょう。

結婚愛

45◀︎目次▶︎47a

  1 天界から降ろされたふたりの夫婦のもとに、結婚愛がその形として見られた

46 (1) 死後、すべての人間のもとに性愛が残る、彼の内なるものであった、すなわち、世で彼の内的なものの中の意志と思考であったような性愛である
すべての愛が死後、人間に同行します、彼のいのちのエッセ(存在)であるからです。また、他の愛の頭である支配愛は、またそれとともに同時に従属する愛が人間のもとに永遠に存続します。存続するのは、愛はまさしく人間の霊であり、霊から身体のものです、そして、死後、人間は霊になり、このように自分の愛を自分自身にもたらすからです。また、愛は人間のいのちのエッセであるので、人間のいのち(生活)が世でどのようなものであったかによって、彼の死後の運命がそのようなものになることが明らかです。
性愛については、それはすべての愛の普遍的なものです、なぜなら、創造から人間の霊魂そのものに着せられていて、それから人間全体に本質があり、これは人類の繁殖のためのものであるからです。この愛が特に残ることは、死後、男は男であり、女は女であるからです、霊魂の中に、心の中に、身体の中に、男性の中に男らしくないもの、女性の中に女らしくないものは何もないからです。これら〔男女〕二つは、結合に向かって努力するように、それどころか、結合の中で一つとなるように、そのように創造されています。この努力(活動)は性愛であり、それは結婚愛に先行します。
そこで、結合へ向かう性向が男性と女性のすべてと個々のものに刻み込まれているので、その性向は、身体とともに消し去られこと、そして死ぬことができないことがいえます。

結婚愛

46◀︎目次▶︎48a

47a 性愛が世であったように残るのは、すべての人間のもとに内なるものと外なるものがあるからです、それら二つは内なる人と外なる人とも呼ばれ、そして内なるまた外なる意志と思考はここからです――死ぬとき、人間は外なるものを残します、そして自分の内なるものを保持します。というのは、外なるものは正しく彼の身体のもの、そして内なるものは正しく彼の霊のものであるからです。
さて、人間は自分の愛であり、愛は彼の霊に居座るので、彼のもとの性愛は、死後、それが内的に彼のもとにあったように残ることがいえます。例えば、その愛が内的に結婚のものまたは貞潔なものであったなら、死後、結婚のものと貞潔なものが残ります。しかし、もし内的に淫行のものであったなら、死後もまたそのようなものが残ります。
しかし、性愛はある者のもとと他の者のもとで似ていないことを知らなければなりません。その相違は無限です。それでも、それぞれの者の霊の中でどのようであるかによって、そのように残ります。

結婚愛

47a◀︎目次▶︎47b

48a (2) 結婚愛も同様に残る、人間のもとの内なるものであった、すなわち、世で彼の内的なものの中の意志と思考にあったような結婚愛である
性愛と結婚愛は別のものであるので、それゆえ、両方のものが名前を上げられ、そして、これ〔結婚愛〕もまた世で生きた時、人間のもとでどのようなものであったかによって彼の内なる人の中で死後に残ることが言えます――しかし、性愛と結婚愛の相違をわずかな者しか知らないので、それゆえ、この章の入り口でそれらについて何らかのものをあらかじめ言っておきます。
性愛は、〔異〕性からの多くの者へ向かう、多くの者との愛です、しかし、結婚愛は、〔異〕性からのただひとりの者へ向かう、ひとりの者との愛です。そして、多くの者へ向かう愛、多くの者との愛は自然的な愛であり、獣や鳥とも共通のものであり、これは自然的なものです、しかし、結婚愛は霊的な愛であり、そして特にまた正しく人間のものです、人間は霊的なものになるように創造され、それゆえ、生まれているからです。それゆえ、人間は霊的なものになればなるほど、それだけ性愛を脱ぎ、結婚愛を着ます。
結婚の初めは、性愛は結婚愛と結合されているように見えます。しかし、結婚の進行の中で分離され、霊的である者のもとで、性愛は追い払われ、そして結婚愛が取り入れられます。しかし、自然的である者のもとで、正反対のものが生じます。
今、言われたことから、多くの者との性愛は、本質的に自然的なもの、それどころか、動物的なものであり、不純なまた不貞なもの、さまようもの、制限のないものであるので淫行のものです、しかし、結婚愛はまったく異なっていることが明らかです。
結婚愛は霊的であり、そして正しく人間的なものであることが、続くものからはっきりと明らかになります。

結婚愛

48a◀︎目次▶︎48b

47b (3) 大部分の夫婦のふたりは、死後、出会い、互いに認め、再び、仲間となり、ある期間、一緒に生活し、このことが最初の状態の中で、したがって外なる状態の中にいる時、世でのように生じる
人間が、死後、経験する二つの状態、外なる状態と内なる状態があります。最初に自分の外なる状態の中に、その後、内なる状態の中にやって来ます。外なる状態の中にいる時、結婚した夫婦は、もし両者が死んだなら、会い、認めます、もし世で一緒に生活したなら、交わり、ある期間、一緒に生活します。この状態の中にいるとき、一方は自分自身へのもう一方の性向を知りません、これは内なるものの中に隠れているからです――けれども、その後、自分の内なる状態の中にやって来るとき、性向が明らかになります、それが、一致したものや調和したものなら、結婚生活を続けます、しかし、一致しないものや反感を覚えるものなら、それを捨てます。
もし男に多くの妻がいたなら、外なる状態の中にいる時、女たちと順に結合します。しかし、どんなものであるか愛の性向を知覚する内なる状態の中に入るとき、その時、ひとりの女を選ぶか、あるいはすべての女を捨てます。なぜなら、霊界で、世と等しく、キリスト教徒である者に多くの妻をめとることは許されません、このことは〔その〕宗教を攻撃し、冒涜するからです――多くの夫がいた女も同様です。しかし、それでもこれらの女は自分自身を夫に結び付けません。単に自分自身を示すだけです。しかし、夫たちが彼女たちを自分自身に結び付けます。
夫たちが自分の妻たちを認めるのはまれですが、妻たちは夫たちをよく認めることを知っておくべきです。その理由は、女たちには愛の内的な知覚があり、男たちには単なる外的な知覚があるからです。

結婚愛

47b◀︎目次▶︎49

48b (4) しかし、しだいに、外なるものを出る、そして自分の内なるものの中に入ることに応じて、自分たちに向けて相互にあった自分たち自身の間の愛と性向を、またここから、一緒に生活することができるか、あるいはできないか、知覚する
これらがさらに説明される必要はありません、それらは先行する節の中で説明されたものからいえるからです――ここにどのように人間が、死後、外なるものを脱ぎ、内なるものを着るかだけを説明します。
それぞれの者は、死後、最初に、天界と地獄の中間にある霊たちの世界と呼ばれる世界へ導き入れられます、そして、そこで、善い者は天界へ、悪い者は地獄へ準備されます。
[2]そこでの準備は、内なるものと外なるものが一致し、一つのものをつくり、一致しないものがなく、二つのものをつくらないことを目的として持っています。自然界でそれらは二つものをつくっています、そして心が誠実である者のもとでだけ、一つのものをつくっています――二つのものをつくっていることは、狡猾な者や欺く者から、特に偽善者・おべっか使い・偽る者・うそつきから明らかです――けれども、霊界で、そのように分割された心を持つことは許されません、しかし、内なるものの中で悪い者であった者は、外なるものの中でもまた悪い者になります。同様に、善い者は両方のものの中で善い者になります――
[3]というのは、すべての人間は、死後、内部であったようなものになり、外部であったようなものにはならないからです――この目的のために、彼はその時、交互に、自分の外なるものの中に、また自分の内なるものの中に入れられます。また、だれでも人間は、外なるものの中にいる時、賢明です、すなわち、悪い者もまた賢明であると見られることを欲します。しかし、この者は自分の内なるものの中で狂っています。それらの交替によって、この者は自分の狂気を見ること、またそれらから正気に返る(後悔する)ことができます。しかし、もし世で正気に返らない(後悔しない)なら、その後、できません、なぜなら、自分の狂気を愛し、その中にとどまることを欲するからです。それゆえ、自分の外なるものもまた同様に狂うことへと追い立てます。このように、彼の内なるものと外なるものが一つのものになります。このことが行なわれるとき、地獄へと準備されます。
[4]けれども、善い者は逆です。この者は、世で神へ目を向け、そして正気に返った(後悔した)内なるものの中で、外なるものの中でよりもさらに賢明です。外なるものの中でもまた世の誘惑と虚栄から、ときどき、正気を失いました。それゆえ、この外なるものもまた彼の内なるものへ一致するように戻されます、そのことは、言われたように、賢明になることです。これが行なわれて、天界へと準備されます。
これらから、死後、どのように、外なるものを脱ぎ、内なるものを着るか説明します。

結婚愛

48b◀︎目次▶︎50

49 (5) 一緒に生活することができるなら、夫婦は続く、しかし、できないなら、お互いに、ある時は男が妻から、ある時は妻が男から、またある時は両者が相互に別れる
死後に分離が生じるのは、地上で生じた結合は、何らかの愛の内なる知覚から生じるのはまれであり、内なるものを隠す外なるものから生じているからです。愛の外なるものの知覚は、原因と起源を世と身体の愛に属すようなものから導いています。世の愛に属すものは特に富と財産です、そして身体の愛に属すものは地位と名誉です。他にいろいろな誘惑もあります、例えば、美や美しさを偽り装った振る舞いです。時々、不貞もまた、それらが誘います。そして、さらに結婚は、生まれたまたは住んでいる地域、都市、または村の中で結ばれます、そこに、知られている家に、またそこに自分の運命に適合する者に制限され、限定されたものでないなら、選択も存在しません。ここから、世で始められた結婚の大部分は、外なるものであり、同時に内なるものでありません。そのとき、それでも内なる結合は、霊魂の結合であり、結婚そのものをつくります。その結合は、人間が外なるものを脱ぎ、そして内なるものを着る時よりも前に、知覚できるようになりません、それは死後に生じます――それでここから、分離が、またその後、似た者や同質の者と新しい結合が生じます。これが地上で備えられなかったなら、〔このことは〕青春時代から、ひとりの者と適法に愛情深く交わることを愛し、望み、主に懇願し、そして放浪性の情欲を鼻をしかませて(=渋面をつくって)軽蔑して拒んだ者に生じます。

結婚愛

49◀︎目次▶︎51

50 (6) その時、男に似合いの妻が、そして同様に女に似合いの夫が与えられる
その理由は、天界にとどまるために、内的に結ばれていない夫婦はそこに受け入れられないからです。なぜなら、そこでは、ふたりの夫婦はふたりと呼ばれず、ひとりの天使と呼ばれるからです。このことが主のことばによって意味されています、「 もはやふたりではなく、一つの肉です」〔マタイ19:6〕。
〔これ以外の〕他の夫婦が天界に受け入れられないのは、他の者たちがそこに一緒に住むこと、すなわち、一つの家の中で、そして寝室や寝床の中で一緒にいることができないからです。というのは、天界にいるすべての者は、愛の姻戚と近親にしたがって仲間となり、これらにしたがって彼らに住居があるから。なぜなら、霊界に空間はなく、空間の外観があり、これらは彼らのいのちの状態にしたがっており、いのちの状態は愛の状態にしたがっているからです。それゆえ、ある者は、自分の家の中でないなら、そこにとどまることができません、それは彼の愛の性質にしたがって、彼に備えられ、定められます。もし他のところになら、胸が苦しくなり、あえぎます。また、類似性がないなら、ふたりは同じ家の中で一緒に住むことができません。夫婦は、相互のその性向がないなら、まったくできません。もし外なる性向があり、同時に内なる性向がないなら、家そのものまたは場所そのものが彼を引き離し、拒否し、また追い払います。
これが、準備の後、天界へ導き入れられる者に、配偶者との結婚が備えられ、その霊魂は他の者との合一へ、二つのいのちであることを欲せず、一つ〔のいのちを欲します〕ほどにまでも傾く理由です――これが、分離の後、男に適当な(似合いの)妻が、そして同様に女に夫が与えられることの理由です。

結婚愛

50◀︎目次▶︎52

51 (7) 夫婦は、互いに世の交わりと似た交わりを享受する、しかし、さらに快い、さらに祝福されたものである。けれども、子孫を産むことはなく、それに対してすなわちその代わりに、愛と知恵の霊的な子孫を産むことがある
夫婦が世の交わり(性交)と似た交わりを享受するのは、死後、男は男、そして女は女であり、両者に創造から結合への性向が植え付けられているからです。人間のもとのこの性向は彼の霊とここからの身体のものであり、それゆえ、死後、人間が霊となるとき、同じ相互の性向が残ります。このことは似た交わり(性交)なしにありえません。というのは、人間は、前のように、男からも何も、女からも何も欠けていないで、形に関して、同じく情愛と思考に関して、自分自身と似ている人間であるからです。その時、似た交わり(性交)であること以外に、ここから他のものの何がいえますか? また、結婚愛は貞潔・純粋・聖なるものであるので、交わり(性交)もまた完全なものであるといえませんか? (しかし、これら多くのものについてメモラビリア44番参照)。
その時、交わり(性交)はさらに快い、祝福されたものであり、その愛は、霊的なものになる時、さらに内的な、さらに純粋なもの、ここからさらに知覚できるものになります、すべての快さは知覚にしたがって増大し、その至福がその快さの中で認められるまでも増大します。

結婚愛

51◀︎目次▶︎53

52 天界での結婚に生殖はありません、しかし、その代わりに愛と知恵の霊的な生殖があり、それがあるのは、霊界にいる彼らのもとに、第三のものである自然的なものが欠けているからです、これは霊的なものの容器であり、そしてその容器なしに自然界に生まれる霊的なものは存続しません。そして、本質的に眺められた霊的なものは愛と知恵に関係し、それゆえ、彼らの結婚から生まれるこれらのものが存在します。
これらのものが生まれることが言われたのは、結婚愛は天使を完成するからです、というのは、彼をその配偶者と結合させ、ここからますます人間になるから、なぜなら、前に言われたように、天界のふたりの夫婦はふたりではなく、ひとりの天使であるからです。それゆえ、結婚の結合によって人間性を満たし、これは賢明になることを欲すること、そして知恵に属すものを愛することです。

結婚愛

52◀︎目次▶︎54

53 (8) 天界にやって来る者はそのようになる、けれども、地獄にやって来る者は異なる
死後、夫に似合いの妻が、同様に妻に夫が与えられ、これらの者は快い祝福された性交を享受します、けれども、生殖のない霊的なものであり、天界に受け入れられ、天使になる者についてであることを理解すべきです。その理由は、これらの者は霊的であり、結婚は本質的に霊的なもの、ここから聖なるものであるからです――しかし、地獄にやって来る者は、すべて自然的であり、単に自然的な結婚は結婚ではなく、不貞な情欲から〔起源を〕得ている結合です――これらの結合がどんなものであるか、続きの中で言います、そこでは貞潔な愛と不貞な愛について、さらに淫行愛について扱います。

結婚愛

53◀︎目次▶︎55

54 死後の夫婦の状態についてこれまで話しに出したものに、これらを言い足すべきです――

(i) 単に自然的であったすべて夫婦は、死後、分離される。その原因は、彼らのもとの結婚愛が冷え、姦淫愛が熱くなるからである――しかしそれでも、分離の後、時々、他の者と夫婦のように交わりに加わる、しかし短い時間のあと、自分自身から互いに去る。このことが出来事としてしばしば繰り返される。最後に、男はある娼婦に、女はある姦淫者に引き渡され、このことは地獄の牢獄の中で生じる(それについては『啓示された黙示録』153番(10))、そこではふたりとも、見境ない淫行は罰の下に禁じられている。
[2](ⅱ) 一方は霊的であり、もう一方は自然的である夫婦もまた、死後、分離され、霊的な似合いの配偶者が与えられる、しかし、自然的な者は似た者の場所へ、好色な者の場所へ追放される。
[3](ⅲ) けれども、世では独身で生き、そしてまったく心から結婚を追い出した者は、もし霊的であるなら、独身にとどまる。けれども、もし自然的なら、淫行者になる。
けれども、その独身中に結婚を望んだ、さらにまた、それを真剣に求めたけれども成功しなかった者は異なる――これらの者は、霊的であるなら、祝福された結婚が備えられる。しかし、天界にいる時よりも前には備えられない。
[4](ⅳ) 世で修道院の中に閉じこもっていた者は、処女も男も、修道院の生活が終わった後、その生活は死後もいくらかの期間続くが、解放され、出され、そして自分の欲望の願いから、結婚〔生活〕を生きることを欲するかあるいは欲しない自由を得る――結婚を欲するなら、そうなる。欲しないなら、天界の脇の独身者〔のもと〕へ運ばれる。しかし、許されない情欲で燃え上がった者は投げ落とされる。
[5](ⅴ) 独身者たちが天界の脇にいるのは、永続する独身者のスフェアが天界のスフェアそのものである結婚愛のスフェアを悩ますからである。

結婚愛のスフェアが天界のスフェアそのものであることは、〔そのスフェアが〕主と教会の天界的な結婚から降るからです。

結婚愛

54◀︎目次▶︎56

3 貞潔な性愛について

55 (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
かつて、天界から最も甘美な歌が聞こえた。そこに、乙女たちとともに妻たちがいて、彼女たちは短い歌をいっしょに歌っていた。歌うことの快さは、調和して流れ出るある種の愛の情愛のようであった。
天界の歌は、聞こえるようになった情愛以外の、すなわち、表現され、音に変えられた情愛以外の何ものでもない、なぜなら、話すことによって表現される思考のように、歌によって表現される情愛であるからである。天使たちは調子のつり合いや滑らかさから情愛の内容を知覚する。
その時、多くの霊が私のまわりにいて、そのある者から私は、「最高に甘美な歌が聞こえた、それはある種の愛らしい情愛の歌であり、私たちはその内容を知らない」と聞いた——それゆえ、いろいろなものを推測したが、むだだった。ある者は、その歌うことが婚約を結ぶときの花婿と花嫁の情愛を表現していることを、結婚式へ入るときの花婿と花嫁の情愛を表現していることを、ある者は、夫と妻の最初の愛を表現していることを推測した。
[2]しかし、その時、彼らの真ん中に天界からの天使が現われ、「貞潔な性愛を歌っています」と言った。
しかし、まわりに立っている者は、何が貞潔な性愛か質問した。
天使は、「美しい形のまた適正な振る舞いの乙女へのまた妻への男の愛であり、すべての好色な観念から損なわれていません」と言った。これらが言われて、天使は消えた。
歌は続いた。その時、それを表現した情愛の内容を知ったので、多くの変化とともに、だれもが自分の愛の状態にしたがってそれを聞いた。女を貞潔に眺めた者は、その歌を、調和した甘美なもののように聞いた。けれども、女を不貞に眺めた者は、それを不調和な悲しいもののように聞いた。女をうんざりして眺めた者は、それを不一致のしゃがれ声のように聞いた。
[3]しかし、突然に、その時、彼らが立っていた平地は、劇場に変えられ、声が聞こえた、「この愛を議論せよ」。
すると急に、いろいろな社会から霊たちが近づき、彼らの真ん中に白い衣を着たある天使たちがいた。これらの者は、その時、語って、言った——
「私たちは、この霊界で、愛のすべての種類を、男に対する男の愛だけでなく、女に対する女の愛を、そして、夫と妻の相互の愛を、女に対する男と愛を、男に対する女の愛もまた探求しました。社会を通り抜け、調べることが私たちに与えられましたが、まだ、全般的な貞淑な性愛を、真の結婚愛から絶えず力(性的能力)の中にいる者のもとでないなら見つけていません、これらの者は最高の天界にいます——そしてまた、私たちの心の情愛へこの愛が流入するのを知覚することが与えられ、私たちはそれを快さで、それらの心が一つであるふたりの夫婦の愛を除いて、すべての他の愛にまさっていることを深く感じました——しかし、あなたがたがこの愛を議論するよう求めます、あなたがたの前に新しいもの、未知のものであるからです。楽しさそのものであるので、〔それは〕天界の私たちにより天界の甘美さと呼ばれています」。
[4]そこで、議論したとき、最初に結婚について貞潔を考えることができなかった者が話し、言った。
「だれが、美しいまた愛らしい乙女または妻を見る時、美を愛するように、彼女たちを味わう(楽しむ)ことが許されても、それでもまったく欲しないことが、そのように強い欲望から自分の思考の観念を正し、清めることができるのか?だれが、それぞれの男に生来の強い欲望をこのような貞潔なものに、そのようにそれ自体でないものに変えること、それでも愛することができるのか? 性愛は、目から思考の中へ入る時、女の顔の中にとどまることができるのか? すぐに胸の中へ、また越えて降らないか?
天使たちは、〝その愛は貞潔であり、それでも、すべての愛の最も甘美なものであり、もっぱら、自分の妻との真の結婚愛とここからの極めて有効な能力の中にいる夫のもとに存在可能である〟という空虚なことを話した——これらの者は、他の者よりも、美しい女を見る時、自分の思考の観念を高いものの中に保ち、降って来ないように、その愛をつくるものへ進まないよう宙ぶらりんに保つことができるのか?」
[5]これらが話された後、冷たさと熱の中に、自分の妻へ向けて冷たさの中に、〔異〕性へ向けて熱の中にいた者が言った、「何が貞潔な性愛か? 性愛は貞潔が加えられるとき、矛盾ではないのか? 加えられたものの中の矛盾は、それからその属性が取り去られているものでないなら、それは何らかのものであるのか? 貞潔がその甘美なものを奪うとき、どのように、貞潔な性愛は、すべての愛の最も甘美なものであるのか? あなたがたすべての者は、どこにその愛の甘美なものが住むか知っている。そこで、これと結合された観念が追放されるとき、その時、甘美なものは、どこに、どこからなのか?」
その時、ある者が続けて、言った、「私たちは、非常に美しい者と一緒にいたが、欲しなかった。それゆえ、私たちは、何が貞潔な性愛か知っている」。
しかし、彼らの好色を知っていた仲間は、答えた、「あなたがたは、その時、〔異〕性を嫌悪する状態の中にあった、〔性的な〕能力がなかったことから、これは貞潔な性愛ではなく、不貞な愛の最後の状態である」。
[6]これらを聞いて、天使たちは憤慨して、右に、すなわち、南に立っていた者が話すよう請い求めた。これらの者は言った——
「男と男との愛があり、なおまた女と女との愛、また女への男の愛と男への女の愛があります。これら一対の三つの愛は、互いにまったく異なっています。男と男との愛は理解力と理解力との愛のようです、というのは、男は理解力となるように創造されて、ここから生まれているからです。女と女との愛は男の理解力への情愛と情愛との愛のようです、というのは、女は、男の理解力への愛となるように創造され、生まれているからです——これらの愛は、すなわち、男と男との愛、そして女と女との愛は、胸の中へ深く入りません、しかし外に立ち、互いに単に触れます、そのようにふたりは内的に結合しません。それゆえ、ふたりの男たちはふたりの闘技者のように推論と推論で互いに殴り合います。そして、ふたりの女たちは、情欲と情欲で、互いに争いでけんかするふたりの演技者のように殴り合います。
[7]しかし、男と女との愛は、理解力とその情愛の愛であり、これは深く入り、結合します。その結合がその愛です。しかし、心の結合であって同時に身体の結合ではありません、すなわち、その結合だけへの努力だけであるので、霊的な愛であり、ここから貞潔な愛です。この愛は真の結婚愛にいる者のもとにだけ存在し、ここからすぐれた〔性的〕能力の中にいます、これらの者は貞潔のゆえに、自分の妻から以外の他の女の身体からの愛の流入を許しません。卓越した〔性的〕能力の中にいるので、〔異〕性を愛することと同時に不貞を避けることしかできません——ここから、彼らに貞潔な性愛があり、それは本質的に眺められるとき、内的な霊的な友情であり、それはその甘美なものを、しかし貞潔なものをすぐれた〔性的〕能力から導いています。淫行の全面的な拒絶から、彼らにすぐれた〔性的〕能力があります。妻だけが愛されるので、貞潔です。
さて、彼らのもとのその愛は肉からのものに関係しないで、霊だけからのものなので、貞潔です。また、女の美は生来の性向から、同時に心の中に入るので、甘美なものです」。
[8]これらを聞いて、傍観者からの多くの者が手を自分の耳へ置き、言った、「それらの言われたことは、私たちの耳を損なう、あなたがたが話したそれらのものは、私たちに価値がない」。不貞な者であった。
その時、再び、その歌うことが聞こえ、今や、前のものよりもさらに甘美であった。しかしこれは不貞な者の前に、不調和の醜い音であり、そのような不協和なきしり音のために、劇場から投げ出〔すように〕して、知恵から結婚の貞潔を愛したわずかな者を残して、逃げ去った。

結婚愛

55◀︎目次▶︎57

4 知恵の神殿について、そこで賢明な者により女性の美の原因について議論された

56 (第二のメモラビリア——)
かつて、霊界で天使たちと話している時、私は以前に1度見たことのある知恵の神殿を見ようとする楽しい快感を吹き込まれた。私は彼らにそれへの道について質問した。
彼らは言った、「光に従いなさい、あなたは見つけるでしょう」。
私は言った、「光に従うとは何ですか?」 彼らは言った、「私たちの光は、その神殿に近づくほどますます輝きます。それゆえ、輝きの増大にしたがってその光に従いなさい、なぜなら、私たちの光は太陽としての主から発出し、ここから本質的に見られた知恵であるからです」。
その時、随行するふたりの天使と、私は光の輝きの増大にしたがって進み、坂のある小道を通って、南の方位にあった一つの丘の頂上まで上った、そこに堂々とした門があった——見張りが、私とともにいる天使を見て、門を開けた。見よ、シュロの木と月桂樹の並木道が見られ、それにしたがって私たちは進んだ。並木道を行き巡って、庭園で終わり、その真ん中に知恵の神殿があった。
そこを私が見回したとき、神殿に似ている小さな建物を見た、それらの中に賢明な者がいた。
私たちは一つ〔の建物〕に近づき、もてなす者(主人)と入り口で話し、到来の理由を、接近の方法を語った。もてなす者(主人)は言った、「ようこそ、入り、座りなさい。私たちは知恵の会話に加わりましょう」。
[2]私は小さな建物の内部を見た、それは二つに分かれていた、それでも一つであった。透明な内壁によって二つに分かれていた、しかし、透明さから一つのように見られた、それは最も純粋な水晶のようであった。
私は、なぜそのようなのか質問した。
彼は言った、「私たちはひとりではありません、妻が私とともにいます、私たちはふたりではありません、しかしそれでも、ふたりでなく、一つの肉です」。
しかし、私は言った、「私は、あなたがたが賢明であることを知っています。賢明な者または知恵は女と何〔の関係〕があるのですか?」
これに、もてなす者(主人)はある種の憤りから顔を変え、手を伸ばした、見よ、その時、近い小さな建物から他の賢明な者が近づいた、この者に、冗談ぽく言った、「質問している私たちのこの到来者は、『賢明な者または知恵は女と何〔の関係〕があるのですか?』と求めました」。
これに、すべての者はほほ笑み、言った、「女なしにすなわち愛なしに、賢明な者または知恵とは何ですか? 妻は、賢明な者の知恵の愛です」。
[3]しかしもてなす者(主人)は言った、「今、私たちは、知恵についての何らかの会話に加わりましょう。原因について、また今は、女性の美の原因について話しましょう」。
その時、順に話された——最初の者はこの原因を、女は主により男の知恵の情愛として創造され、知恵の情愛は美そのものである、と言った。
第二の者はこの原因を、女は主により男の知恵によって創造されたこと、男からであるので、ここから愛の情愛を吹きかけられた形であり、愛の情愛はいのちそのものであるので、女は知恵のいのちである、けれども男性は知恵である、そして知恵のいのちは美そのものである、と言った。
第三の者はこの原因を、女に結婚愛の歓喜の知覚が与えられている、彼女たちの全身は知覚のそれらの器官であるので、結婚愛の歓喜の住む場所としてその知覚とともに美であるしかない、と言った。
[4]第四の者はこの原因を、主は男からいのちの美と優雅さを引き出し、女の中に移した、ここから、男は、女の中の自分の美と優雅さとの再結合なしでは、厳格で、いかめしく、情味に乏しく、愛嬌がない、彼は自分自身にだけでないなら賢明でなく、この者は愚鈍である。しかし、男が妻の中のいのちの自分の美と優雅さと再結合されるとき、快く、楽しく、生きていて、愛らしい、と言った。
第五の者はこの原因を、女は自分自身のためでなく、しかし男のために、美として創造されている、そのように、男は、それ自体固いものから柔らかになる、彼らの気質(アニムス)は、それ自体きびしいものから柔らかになり、彼らの心は、それ自体冷たいものから、温かくなる、自分の妻と一つの肉になるとき、そのようなものになる、と言った。
[5]第六の者はこの原因を、全世界は主により最も美しい作品として創造された、しかし、その中に容貌で美しく、振る舞いで礼儀正しく、さらに完全なものは何も創造されなかった男が、彼女を〔その〕気前のよい供給のために、主に感謝し、その方からの知恵の受容に報いる理由のためである、と言った。
これらや同様の多くのことが言われた後、水晶の内壁を通して妻が見られ、〔その〕夫へ言った、「よろしかったら、話しなさい」。話したとき、妻から知恵のいのちが知覚された、というのは、話しの音声にその愛が内在したから。このように、経験によりその真理が証明された。
この後、私たちは知恵の神殿を、そしてまた、そのまわりの楽園を観察し、それらから、うれしさで満たされて、立ち去り、門へと並木道を通り過ぎ、上った道を通って降った。

結婚愛

56◀︎目次▶︎58

(三)真の結婚愛について

57 結婚愛には無限の変化があります。ある者のもとに、他の者のもとにあるのと同様なものは存在しません。
確かに、多くの者のもとで同様なもののように見えます。しかし、身体に属す判断の前にそのように見られるのは、人間は、粗野で鈍いこの判断からそのようなものをほとんど識別しないからです。身体に属す判断によって意味されるものは、外なる感覚からの心に属す判断です。
しかし、霊に属す判断から見る者の前に相違が見られます、判断のこの視覚を高く上げることができる者の前にさらに区別して〔相違が見られます〕、それ〔その高く上げること〕は感覚からその離脱によって、さらに高い光の中へ高めることです。これらの者は、最後に、理解力で確信し、このように結婚愛はある者のもとに、他の者のもとにあるのと同様なものは存在しないことを見ることができます。
しかし、それでも、その愛が本質と完全さそのものの中で、いのちと一緒に神により人間に着せられた時、どんなものであるか、そのようにどんなものであったか、最初に知らないなら、だれもこの愛の無限の変化をある種の理解力の光の中で、さらにまた上げられて、見ることができません――この最も完全であった者のその状態が知られないなら、その相違について何らかの調査はむだであることが明らかです。というのは、何らかの確立した点があって、それから始まるかのように、また関係するものにねらいを定めるかのように相違が導かれ、このように真にまた偽りなく見られますが、その何らかの確立した点がないからです。
これがその愛をその真の本質の中で記述し始める理由であり、神によりいのちと一緒に人間に注ぎ込まれた時、この中でそれが生じるので、その初期の状態の中でどんなものであったかそれを述べます。この状態の中にその真の結婚のものがあったので、この章で「真の結婚愛」について書きます。
しかし、この記述を次の順序で行ないます。

(1) 真の結婚愛が存在する、それは、どんなものであるか、存在することも、ほとんど知られていないために、今日、これほどにまれである。
(2) その愛の起源は善と真理の結婚からである。
(3) その愛は主と教会の結婚に対応する。
(4) その愛は、その起源と対応から、天界の天使と教会の人間のもとにある主からのすべての愛よりも、天的なもの・霊的なもの・聖なるもの・純粋なもの・清潔なものである。
(5) 天的なまた霊的な、ここから自然的なすべての愛の根本的な愛でもある。
(6) そして、すべての楽しさとすべての歓喜が最初から最後までその愛の中に集められている。
(7) しかし、主に近づき、そして教会の真理を愛し、その善を行なう者しかその愛の中にやって来ない、その中にいることもできない。
(8) この愛は、金・銀・銅の時代に生きた古代人のもとの愛の愛であった、しかし、その後、しだいに消滅した。

これらの説明を今から続けます。

結婚愛

57◀︎目次▶︎59

58 (1) 真の結婚愛が存在する、それは、どんなものであるか、存在することも、ほとんど知られていないために、今日、これほどにまれである
続きの中で述べられているような結婚愛が存在することは、確かに、それ自体が若者と処女の心の中に徐々にしみ込み、そして入る時の彼らの愛の最初の状態から、そのように、異性からのひとりだけを愛し、そして花嫁(婚約者)として望み始める者のもとに、さらに婚約の時に、これが長くされ、結婚式へ進む時にもっと、最後に結婚式で、またその後の最初の日々で、認められることができます。
その時、その愛がすべての愛の根本的なものであることをだれが認めませんか、なおまた、その中にすべての楽しさとすべての歓喜が最初のものから最後のものまで集められていることに同意しませんか?
また、この楽しい時の後、その喜びがしだいに過ぎ去り、最後にそれをほとんど感じないようにまでもなくなることをだれが知りませんか?もし、その時、彼らに、「その愛は前のものと同じものである。すべての愛の根本的なものである。その中にすべての楽しさとすべての喜びが集められている」と言われるなら、同意しないし、認めもしません。おそらく、「たわごとである、または限度を超えた神秘的なものである」と言うでしょう。
これらから、結婚の初期の愛は真の結婚愛に似ていて、ある映像として見せて示していることが明らかです。このことは、その時、不貞なものである性愛が退けられており、そしてそれに代わって、真の結婚愛であり、貞潔である〔異〕性からのひとりの〔者だけを愛する〕愛が、植え付けられて固く宿っているからです。
だれがその時、愛していない他の女を気まぐれに眺め、そして自分の唯一の者を愛して眺めるのですか?

結婚愛

58◀︎目次▶︎60

59 それでも、真の結婚愛がどんなものであるか、存在することもほとんど知られていないようにもまれであるのは、結婚前の楽しい状態が、その後、それらの無感覚から無関心の状態に変えられるからです。
その状態の変化の原因はここに示されることができるよりも多くのものがあります。しかし、続くものの中で冷淡・分離・離婚の原因を順に明らかにして示します。それらから、大部分の者のもとで、今日、結婚愛のその映像が、またその知識とともに、どんなものであるか、存在することもほとんど知られていないようにまでも破壊されていることを見ることができます。
すべての人間は、生まれる時、単に身体的であり、身体的なものから内的なさらに内的な自然的なものに、このように理性的なものに、また最後に、そのように累進的に、霊的なものになることが知られています――それは、身体的なものが土壌のようであるからです、それに自然的なもの・理性的なもの・霊的なものが順に導入されます。そのように、人間はますます人間になります。
[2]結婚に入るときほとんど同様に生じます――その時、人間はさらに完全な人間になります、ひとりの人間として活動する配偶者と結合されるからです。しかし、このことは前に〔述べた〕ある種の映像としてその最初の状態の中で生じます。同様に、その時、身体的なものから始まり、自然的なものへ進みます、しかし結婚生活とここから一つのものとしての結合に関してです。その時、身体的な自然的なものを、またそれらから理性的なものだけを愛した者は、その外なるものに関してでないなら、配偶者と一つのものとして、そのように結合されることができません。外なるものが欠ける時、冷淡が内なるものに侵入し、彼らの愛の快さを、心からのように身体から、そしてその後、身体からのように心から追い払います。このことが、その時、自分の結婚の初期の状態について記憶からの何らかのものが残らないほどまでも生じます。
さて、そのように今日、大部分の者のもとで生じているので、真の結婚愛がどんなものであるか、存在することもほとんど知られていないことが明らかです。
霊的である者に異なって生じます。これらの者に、最初の状態は永続する幸せへの初期の段階です、それは、身体の自然的な感覚的なものからである心の霊的な理性的なものが、もう一方の者に一つのものに結合させ、一つに合わせる段階へ進みます。しかし、これらの者はわずかです。

結婚愛

59◀︎目次▶︎61

60 (2) その愛の起源は善と真理の結婚からである
全世界のすべてのものが善と真理に関係することは、知性のある人間により認められています、普遍的な真理であるからです。さらにまた、全世界のすべてと個々のものの中で、善が真理に、そして真理が善に結合していることを認めざるをえません、このこともまた、他の真理と密接に関連している普遍的な真理であるからです。
全世界のすべてのものが善と真理に関係していること、また善が真理と交互に結合していることの理由は、両方とも主から、そしてその方から一つのものとして発出しているからです――主から発出するそれら二つは愛と知恵であり、これらはその方であり、そのようにその方からです、また愛に属すすべてのものは善と呼ばれ、知恵に属すすべてのものは真理と呼ばれます。創造主としてのその方からそれら二つが発出するので、創造されたものの中にそれら二つが存在することがいえます。
このことは、太陽から発出する熱と光によって説明されることができます――これらから地上のすべてのものがあります、というのは、それらの現存にしたがって、それらの結合にしたがって発芽するからです。そして、自然的な熱は、霊的な熱に対応し、それは愛です。自然的な光は霊的な光に対応し、それは知恵です。

結婚愛

60◀︎目次▶︎62

61 結婚愛が善と真理の結合から発出することを続く章または段落で示します。ここには、その愛が、天的な霊的な聖なる起源から、天的なもの霊的なもの聖なるものであることだけが見られるようにとの理由のために、そのことだけを示します。
結婚愛の起源が善と真理の結婚からであることが見られるために、いくつかを簡潔に要約して、そのことについてここに言われることが重要です。
創造されたすべての個々のものの中に善と真理の結合があり、結合は交互の結合がないなら存在しないことが直前に言われました、なぜなら、一方からの結合は、また逆にもう一方からの結合がないなら、それ自体から破られるからです。さて、善と真理の結合があり、これが交互のものであるので、善の真理すなわち善からの真理があること、また真理の善すなわち真理からの善があることがいえます。善の真理すなわち善からの真理が、男性の中にあること、また男性そのものであること、そして、善の真理すなわち善からの真理が、女性の中にあり、また女性そのものであること、なおまた、結婚の結合がそれら二つの間にあることが、続く最も近くの章に見られます。そのことについて何らかの予備的な観念を持つために、そのことをここに述べました。

結婚愛

61◀︎目次▶︎63

62 (3) その愛は主と教会の結婚に対応する
すなわち、主が教会を愛し、そして教会がご自分を愛することを望まれるように、そのように夫と妻は相互に愛します。それらの間に対応があることがキリスト教界でよく知られています、しかしそれがどんなものであるかまだよく知られていません、それゆえ、その対応について続く特別な章で説明します〔第(5)章〕――ここでは、結婚愛が、主と教会の結婚の天的で霊的なまた聖なるものに対応するので、天的で霊的なまた聖なるものであることが見られる目的のために、そのことを話しに出します。
この対応もまた善と真理の結婚からの結婚愛の起源からであり、それについては先行する章の中で述べました、善と真理の結婚が人間のもとの教会であるからです。というのは、善は仁愛に属し、真理は信仰に属すので、善と真理の結婚は仁愛と信仰の結婚と同じものであるからです――この結婚が教会をつくることは認めざるをえません、普遍的な真理であるからです、普遍的な真理は、聞かれるとすぐに、認められます、それは主の流入であり、同時に天界の確証からのものです。
さて、教会は主からであるので主のものであり、結婚愛は主と教会の結婚に対応するので、その愛は主からであることがいえます。

結婚愛

62◀︎目次▶︎64

63 どのように教会が、またそれによって結婚愛が、主によりふたりの配偶者のもとに形成されるか説明しました(それについて前章で)――けれども、ここに、教会が主により男のもとに、男によって妻のもとに形成され、また両方の者のもとに形成された後、完全な教会であることだけを説明します。というのは、その時、善と真理の完全な結合が生じ、善と真理の結合が教会であるからです。
結婚愛である結合へ向かう傾向と同様の段階が、教会である善と真理の結合にもあることは、続きの中で立証する論拠の系列の中で説明します。

結婚愛

63◀︎目次▶︎65

64 (4) その愛は、その起源とその対応から、天界の天使と教会の人間のもとにある主からのすべての愛よりも、天的なもの・霊的なもの・聖なるもの・純粋なもの・清潔なものである
結婚愛が、善と真理の結婚であるその起源から、このようなものであることは、すぐ前にわずかなものを説明しましたが、そこでは単に予備的に扱いました。主と教会の結婚に対応するものから同様に、その愛がこのようなものであることを〔説明しました〕――これら二つの結婚は、それらから小枝のように結婚愛が降り、神聖そのものです。それゆえ、もし主であるその創造者から受け入れられるなら、その方から神聖なものが続き、それは絶えずそれを浄化し、清めます。もしその時、人間の意志の中にそれへ向かう願いと努力があるなら、その愛は、日ごとに、永久に清潔で純粋なものになります。
[2]結婚愛は、天界の天使のもとにあるので、天的なものと霊的なものと呼ばれます。最高の天界の天使のもとで天的なものです、その天使たちは天的と呼ばれるからです。また、その天界の下の天使のものでそれは霊的なものです、その天使たちは霊的と呼ばれるからです――それらの天使たちがそのように呼ばれるのは、天的なものは愛とここからの知恵であり、そして霊的なものは知恵とここからの愛であるからです。彼らの結婚のものも同様です。
[3]さて、結婚愛は高いものも低いものも天界の天使のもとにあるので、最初の章の「天界の結婚について」にも示されたように、それが聖なるものまた純粋なものであることが明らかです。
その愛は、その派生物からその本質として眺められるとき、他の愛よりも聖なる純粋なものです、天使のもとと人間のもとで、それが他の愛の頭のようであるからです。その卓越性について、今から、続く節の中で何らかのものを言います。

結婚愛

64◀︎目次▶︎66

65 (5) 天的なまた霊的な、ここから自然的なすべての愛の根本的な愛でもある
本質として眺められた結婚愛が天界と教会のすべての愛の根本的な愛であるのは、その起源が善と真理の結婚からであり、この結婚からすべての愛が発出し、それは人間のもとの天界と教会をつくるからです――その結婚の善が愛をつくり、そして、その真理が知恵をつくります。また、愛が知恵へ近づく時、すなわちこれがそれ自体を結合する時、愛は愛になり、逆に、知恵が愛へ近づき、これがそれ自体を結合する時、知恵は知恵になります。
真の結婚愛は、愛と知恵の結合以外の何ものでもありません。
ふたりの配偶者は、彼らの間に、すなわち、同時にこの愛の中にいる彼らの中に、その〔愛の〕似姿と形があります。さらにまた、天界のすべての者は、そこの顔は自分の愛の情愛の真の型であり、その肖像です、というのは、前に示されたように、彼らに全般的にまたすべての部分の中に〔その愛が〕内在するからです。
さて、ふたりの配偶者は、似姿と形としてその愛があるので、愛の形そのものから発出するすべての愛も、そのようであることがいえます。それゆえ、もし結婚愛が天的なものまた霊的なものであるなら、それから発出している愛もまた天的なものまた霊的なものです。そこで、結婚愛は両親のようなものであり、他の愛は子孫のようです。
ここから、天界の天使の結婚から霊的な子孫が生まれ、それらは愛の子孫と知恵の子孫、すなわち、善の子孫と真理の子孫です(その生殖については前の51番参照)。

結婚愛

65◀︎目次▶︎67

66 同様に、その愛へ向けての人間の創造から、その後、それによる彼らの形からはっきりと明らかです。
男は賢明になる愛から知恵になるように創造されています、女は彼の知恵から、そのようにそれ〔彼の知恵〕にしたがって、男への愛になるように創造されています。そのことから、ふたりの配偶者は愛と知恵の、すなわち、善と真理の結婚の形と似姿そのものであることが明らかです。
善も真理も、主体の中にあるようにその実体の中に存在していることを正しく知らなければなりません――抽象的な善と真理は存在しません、というのは、座を持たないので、どこにもないからです、それどころか、飛び去るようなものであり、現われることもできません。それゆえ、単なる存在物であり、理性それ自体にはそれらについて抽象的なものに見られます、しかしそれでも、主体の中にあるのでないなら考えることができません、なぜなら、人間のすべての観念は、高尚なものもまた、実体的なもの、すなわち、実体に結び付けられたものであるからです。
なおまた、形でないなら実体は存在しないことを知らなければなりません。形となったものでない実体も何らかのものではありません、それについて何らかものは属性づけられることができないからです、そして属性のない主体は想像の所産にもなりません。
このように、真の結婚愛にいるふたりの配偶者が、実際に善と真理のすなわち愛と知恵の結婚の形である、と見られることができるために、これらの哲学的な論証を加えました。

結婚愛

66◀︎目次▶︎68

67 自然的な愛は霊的な愛から、霊的な愛は天的な愛から流れ出るので、それゆえ、結婚愛は天的な愛と霊的な愛の、ここから自然的な愛のすべての愛の根本的なものであることが言えます。
自然的な愛は自己愛と世俗愛に関係します。けれども、霊的な愛は隣人に対する愛に関係します。天的な愛は主への愛に関係します。愛に関係するものがこのようなものであるので、その順序で続き、秩序の中に内在するほど、それだけ人間のもとに内在することが明らかです。秩序の中に内在する時、自然的な愛は、霊的な愛から、またこれらは天的な愛から生き、すべてのものはこの秩序の中で根源である主から生きます。

結婚愛

67◀︎目次▶︎69

68 (6) そして、すべての楽しさとすべての歓喜が最初から最後までその愛の中に集められている
人間により感じられるどんなものでも、すべての快さは彼の愛に属します。それ〔快さ〕によって愛は、それ自体を明らかにします、それどころか、存在し、生きます。快さは、そこへそれ自体を愛が高める段階で、そのようにまた、情愛が支配愛をさらに近くに触れるように作用し、それ自体を高めることがよく知られています。
さて、結婚愛はすべての善い愛の根本的なものであるので、また人間の最小のものに刻み込まれているので、前に示されたように、その快さはすべての愛の快さにまさり、そしてまたその臨在にしたがって、同時にそれとの結合にしたがってこれを楽しませることになります。というのは、心の最内部のものを、同時に身体の最内部のものを、その泉の歓喜の水流が流れ抜け、開くように広げるからです。
[2]この愛の中にすべての快さが最初から最後のものまで集められていることは、他のものよりもその卓越した役立ちのためです。〔その〕役立ちは人類の繁殖とここから天界の天使の繁殖です――この役立ちは創造の目的の目的であったので、すべての祝福・幸せ・快感・楽しさ・快楽が、それらは創造主なる主によりどんな場合でも人間の中に与えられることができ、彼のこの愛の中に集められていることになります。
快さが役立ちに続き、この愛にしたがって人間に内在することは、五つの感覚である視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の快さから明らかです。これらのそれぞれに快さが、それらの特定の役立ちにしたがって、変化とともにあります――結婚愛の感覚にないものとは何ですか、その役立ちは他のすべての役立ちの複合体です。

結婚愛

68◀︎目次▶︎70

69 私は、結婚愛にすべての楽しさとすべての歓喜が最初から最後のものまで集められていることを認めるようになる者がわずかであることを知っています、その理由は、真の結婚愛に集められているその楽しさと歓喜が、今日、どんなものであるか、また〔それらが〕あることが、前に(58, 59番)に説明され、証明されたそれらにしたがって、ほとんど知られないほどにわずかであるから、なぜなら、本物以外の他の結婚愛に存在しないからです――これが地上でこれほどにわずかであるので、その卓越した幸福を天使たちの口から以外の別の出所から描くことは不可能です、これらの者はその中にいるからです。
これらの者が言いました、「霊魂に属すものであるその最内部の歓喜は、その中へ最初に、愛と知恵の結婚のもの、すなわち、主からの善と真理の結婚のものが流入しています、ここから、同時に平和と無垢に属すものであるので言い表わすことができず、知覚されることができません。しかし、同じものが降る中で、さらにまたさらに知覚できるものになります」。
[2]「心のさらに高いところで至福のように、心のさらに低いところで幸せのように、胸の中でそれらからの快感のように、また胸から身体のすべてと個々のものの中に広がり、そして最後に最外部の中で、歓喜の歓喜の中で、結合します」。さらに、天使たちはそれらの驚くべきものについて語って、言いました、「配偶者の霊魂の中に、これらから彼らの心の中の、またこれらから彼らの胸の中にあるそれらの歓喜の多様性は、無限であり、そしてまた永遠です。そしてそれは、夫のもとの知恵にしたがって高められています。このことは自分の花の盛りの年齢の中に永遠に生きているからです、彼らにますます賢明になることよりも祝福されたものは何もないからです」。
しかし、それらの歓喜について天使の口から語られた多くのものがメモラビリアの中に、特に、いくつかの章の後にさらに続けられるそれらの中に見られます。

結婚愛

69◀︎目次▶︎71

70 (7) しかし、主に近づき、そして教会の真理を愛し、その善を行なう者しかその愛の中にやって来ない、その中にいることもできない
主に近づく者以外の他の者がその愛の中にやって来ないのは、ひとりの妻とのひとりの男のものである一夫一婦の結婚が主と教会の結婚に対応するからであり、彼らの結婚の起源は善と真理の結婚からであるからです(それらについては前の60と62番に)。
真の結婚愛が主からであることは、この起源とその対応から、それら二つのアルカナについて特に扱われないなら、その方に直接に近づく者に、十分に確信されることができないことがいえます、それはこの最も近くに続く章の中にあります、それらの一つは「善と真理の結婚からの結婚愛の起源について」、そしてもう一つは「主と教会の結婚について、その対応について」です。
これらから、人間のもとの結婚愛は彼のもとの教会の状態にしたがっていることがいえ、さらにまたそこに見られます。

結婚愛

70◀︎目次▶︎72

71 主から真の結婚愛を受け入れる者以外に、他の者たちはその愛の中にいることができません、その者はその方に直接に近づき、その方から教会の生活を生きる者です。起源から、またその対応から眺められたその愛は、天界の天使のもとに、また教会の人間のもとにあるすべての愛よりも、天的な霊的な聖なるもの、純粋で清潔なものであるからです(例えば、前の64番)。またこれらのその属性は、主と結合し、その方により天界の天使と仲間となっている者のもとにしか与えられることができません。というのは、これらの者は、自己のものとの以外の、すなわち、自己の配偶者との以外の他の者と結合する結婚外の愛を、霊魂の損傷のように、地獄の池のように避けるからです。また、配偶者がその結合を、意志の情欲とここからの意図に関しても、避ければ避けるほど、それだけ彼らのもとのその愛は清められ、継続的に、最初に地上で生きている時、またその後、天界で霊的になります。
[2]人間のもとで、ある者の愛は決して純粋になることができません、天使のもとでもできません、そのようにこの愛もまた純粋になることができません。しかし、意志に属すものである意図が、主により第一に眺められるので、それゆえ、人間がこの中にいて、この中で持続すればするほど、それだけ、純潔と神聖さの中に導かれ、継続的に前進します。
主からそのような者である者以外に、ある者たちが霊的な結婚愛にいることができないのは、天界がその中にあるからです。自然的な人間は、その者のもとでその愛が肉だけからその心地よさを得ていて、天界へ近づくことができません、その中のその愛がある天使のだれも、それどころか人間のだれも近づけません、というのは、この愛は天的なまた霊的な愛すべての愛の根本的な愛であるからです(前の65–67番参照)。
[3]そのようであることが、経験から私に確信(証明)されました。

私は霊界で地獄へと準備されていた悪鬼を見た、その者は、自分の配偶者と楽しんでいる天使へ近づいた――少し離れていた彼らは、近づくにつれて、怨霊のようになり、避難所として洞窟や穴を探して、その中へ自分自身を投げ込んだ。

悪霊は、どれほど不潔であっても自分の情愛と同質のものを愛します、そして天界の霊を、純粋であるので、自分に異質なものとして退けることを、「序文」で記したことから結論することができます(10番)。

結婚愛

71◀︎目次▶︎73

72 結婚愛にやって来て、その中にいることができる者が教会の真理を愛し、その善を行なうのは、他の者たちは主により受け入れられないからです。というのは、これらの者はその方と結合の中にいて、ここからその方によりその愛の中に保たれるからです。
人間のもとに教会をつくり、ここから天界をつくる二つのものがあります、信仰の真理と生活の善です。信仰の真理は主の臨在をつくり、信仰の真理にしたがった生活の善はその方との結合を、このように教会と天界をつくります。
信仰の真理が臨在をつくるのは、〔それが〕光に属すからです。霊的な光は他のものではありません――生活の善が結合をつくるのは、〔それが〕熱に属すからです。霊的な熱も他のものではありません、というのは、それは愛であり、生活の善は愛に属すからです――すべての光が、冬の光もまた、臨在をつくること、光と結び付いた熱が結合をつくることはよく知られています。というのは、庭園と花園はすべての光の中で見られます、しかし熱がそれ自体を光に結合させる時でないなら、開花しないし、結実しません。
これらから、教会の真理を知るだけの者には主から真の結婚愛が与えられないが、それを知り、その善を行なう者に与えられる、という結論が明らかです。

結婚愛

72◀︎目次▶︎74

73 (8) この愛は、金・銀・銅の時代に生きた古代人のもとの愛の愛であった
そのように名づけられたそれらの最初の時代の中に生きた最古代人と古代人のもとの結婚愛が「愛の愛」であったことは、歴史から知られることができません、彼らの文書は存在していません、存在しているものは、その時代の後の作家たちのものです。なぜなら、これらの者により名づけられ、そしてまた彼らの純潔で正しい生活が、同じく、金から鉄までのように、その継続的な減少も、描かれているからです――しかし、最後のすなわち鉄の時代は、それらの作家の時代からその時代が始まりましたが、ある部分に関して、ある王や士師、またギリシアや他のところで賢人と呼ばれた賢明な者の歴史上の生活から推断されることができます――けれども、この時代が存続しないで、鉄がそれ自体存続して、密着しない粘土と混合された鉄のようになったことが「ダニエル書」に述べられています(2:43)。
[2]さて、金・銀・銅と名づけられた時代は、文書の〔あった〕時代の前に過ぎ去り、このように彼らの結婚についての知識は地上に存在可能でなかったので、主は、霊的な方法によって、私がそれを明らかにすることを喜ばれ、天界へ案内して、そこに彼らの住居があり、そこで面と向かって彼らから、その時代に生きたとき彼らのもとで結婚がどのようであったか、私が汲み取るようにされました――というのは、創造されただれであっても、すべての者は自然界から出て、霊界にいます、すべての者は、自分の愛に関して〔以前の自分と〕似たものであり、永遠に〔その状態に〕とどまるからです。
これらは、知られ、物語られて、結婚の神聖さを確信させる価値があるので、私は、霊の中で目覚めて私に示されたようなもの、その後、天使によって記憶に思い出されたものを、また記されたそれらを出版することを欲しています――また、章の後に加えられた他のもののように、霊界からのものであり、それらを時代の進行にしたがって六つのメモラビリアに分けることにします〔75―80番〕。

結婚愛

73◀︎目次▶︎75

74 結婚愛について、霊界からの次の六つのメモラビリアは、その愛が最初の時期にどんなものであったか、その後、どんなものか、また今日どんなものであるかを啓示している。それらから、その愛がその神聖なものと純潔なものから淫行的なものになった時まで、しだいにそれたこと、しかしそれでも、初期のものへ、すなわち、古代のその神聖さへの復帰の希望があることが明らかである。

結婚愛

74◀︎目次▶︎76

5 黄金時代に生きた者のもとの結婚愛について

75 (最初のメモラビリア——)
かつて、私が結婚愛について瞑想していたとき、その愛が黄金時代に生きた者のもとでどんなものであったか、その後、白銀・青銅・黒鉄と呼ばれる続く時代の者のもとでどんなものであったか、知ろうとする願いに心が捕えられた——私は、それらの時代で善く生きたすべての者は、天界にいることを知っていたので、私は、彼らと話し、教えられることが私に許されるよう主に祈った。
見よ、天使が私のそばに立ち、言った、「私は、あなたの案内者であり、仲間であるようにと、主から遣わされました。最初に、黄金と呼ばれる最初の時期または時代に生きた者へ、あなたを導き、同行します」。
また言った、「彼らへの道は険しいです。それは、暗い森を通っていて、主から与えられた案内者がいないなら、だれも通り過ぎることができません」。
[2]私は霊の中にいた。旅の身支度をし、顔を東へ向けた。前進中に、私は、雲の領域を超える高さに達していた山を見た。
私たちは広大な荒野を通り過ぎ、いろいろな種類の木が密集した森の中にやって来た、それについて天使は、それらの密生から暗い、と予告していた——森は多くの狭い小道に分けられていた。天使は、「主により目が開かれていないなら、そしてブドウのつるが巻き付いているオリーブの木が見られ、そしてオリーブの木からオリーブの木へと歩みを向けないなら、旅人は、脇へ、周囲にあるタルタロス(奈落)へそれる、それだけ多くの間違った回り道があります。この森は、接近を守る目的のために、このようなものとなっています。というのは、初期(原始)の者以外に他の人々は、その山の上に住んでいないからです」と言った。
[3]私たちが森の中に入った後、目が開かれ、そして、私たちは、あちこちにブドウのつるが巻き付いているオリーブの木を見た、それらから紺青色のブドウの房が垂れ下がっていた。オリーブの木は永続する輪に配列されていた。それゆえ、それらを見て、それにしたがって、私たちは巡って、回って行った。
最後に、私たちは高い杉の木立を、その枝の上に何匹かのワシを見た。それらを見て、天使は言った、「今、山の中にいますが、私たちはそのてっぺんから遠くありません」。
私たちは進んだ、見よ、木立の後ろに、円形の野原があり、そこで雄羊と雌羊が草を食べていた、それらは山の住人の無垢と平和の状態を表象する形であった。
この野原を通り抜けた、見よ、前方にまた脇に、視野いっぱいに、多くの数千のもの天幕また天幕が見えた——天使は言った、「今や、私たちは、主エホビの軍勢の、そのように、自分自身と自分の住居を呼んだ、その陣営の中にいます。これらの最古代人は、世にいた時、天幕の中に住みました、それゆえ、今もまたそれらの中に住んでいます——しかし私たちは道を南へ向かいます、そこに彼らのさらに賢明な者がいて、私たちがだれかに会って、その者と共に話しをするためです」。
[4]進む中で、私は遠方からある天幕の入り口に座っている三人の少年と三人の少女を見た。しかし彼らは、私たちが近づいたとき、中位の背丈の男と女のように見られた。
天使は言った、「この山の住民は遠方から幼児のように見えます、無垢の状態にあるからです、そして、幼児期は無垢の外観です」。
これらの男は、私たちを見て、走り寄り、言った、「あなたがたはどこから、どのようにここにやって来たのですか? あなたがたの顔は山にいる私たちの顔ではありません」。
しかし、天使は森を通って接近の機会が与えられたことを話し、到来の理由を語った。
これらを聞いて、3人の男からのひとりが、私たちを自分の天幕の中へ招き、導き入れた。
男は青(ヒヤシンス)色の外衣、そして白光りの羊毛でできたシャツの衣服であった。彼の妻の衣服は、紫色のトーガ、〔その〕下に刺繍された亜麻布からできた胸衣のシャツであった。
[5]私の思いの中に最古代人の結婚を知ろうとする願いがあったので、私は夫と妻を代わる代わる観察した、顔の中にいわば彼らの霊魂の同一性を認めた。私は言った、「あなたがたふたりは一つです」。
男は答えた、「私たちはひとりです。彼女のいのちは私の中に、私のいのちは彼女の中にあります。私たちは身体は二つですが、霊魂は一つです。私たちの間に、心臓と肺と呼ばれる胸の中の二つの天幕(住居)の間にあるような結合があります。彼女は私の心臓であり、私は彼女の肺です。しかし心臓によってここに私たちは愛を、肺によって知恵を意味するので、彼女の愛は私の知恵のものであり、私は彼女の愛の知恵です。それゆえ、彼女の愛は外部から私の知恵をおおい、私の知恵は内部から彼女の愛に内在します——ここから、あなたがたが言ったように、私たちの顔の中に霊魂の同一性があります」。
[6]その時、私は質問した、「もしそのような結合があるなら、あなたは、あなたの妻以外に他の者の妻を眺めることができますか?」
答えた、「私はできます、しかし、妻は私の霊魂と結合しているので、私たちふたりは同時に眺めます、その時、情欲のものは何も入ることができません。なぜなら、私は他の者の妻たちを眺める時、私は彼女たちを、もっぱら私が愛する私の妻を通して眺めるからです。私のものである彼女は私のすべての性向を知覚できるので、私の思考を導く媒介として働くものとして、すべての不一致なものを引き離し、同時に、すべての好色なものに対する冷たさと恐怖感を持ち込みます。それゆえ、情欲から仲間の他の者の妻を眺めることは、私たちの天界の光を奈落(タルタロス)の陰から眺めることのように不可能です。それゆえ、私たちのもとに好色な愛を誘惑する何らかの思考の観念が、まして何らかものを話す言葉が存在しません」。
淫行〔の言葉〕を発声することができないのは、彼らの天界の貞潔が抵抗するからである。
私の案内者の天使は言った、「今、あなたはこの天界の天使の話しを聞いています、それは、原因から話しているので知恵の話しです」。
[7]この後、私はあたりを見回し、金でおおわれているような彼らの天幕を見て、質問した、「このことはどこからですか?」
「炎の光から」と答えた、「それは私たちが結婚愛について話している時、光を投げかけ、金のようにきらきら光り、私たちの天幕の幕を照らします。というのは、私たちの太陽からの熱は、その本質では愛であり、その時、それ自体を現わし、そして光はその本質では知恵であり、自分の色で光の色を付けます、それは金色であるからです。また、結婚愛はその起源の中で知恵と愛の遊びであるのでこのことが生じます、というのは、男は知恵であるように、そして、女は男の知恵の愛であるように生まれているからです。ここから、結婚愛の中に、またそれから私たちと私たちの妻たちの間にその遊びの歓喜があります。
私たちは、これを数千年の間、知覚しました、その歓喜は、豊富さ・段階・強さにしたがって、私たちのもとの主エホビの礼拝にしたがってすぐれ、卓越したものです、そこから愛と知恵のものであるその天界の結合が、すなわち、その天界の結婚が流入します」。
[8]これらが言われて、私は天幕の間の真ん中の丘の上に大きな光を見た。私は質問した、「その光はどこからですか?」
言った、「私たちの礼拝の天幕の聖所からです」。
私は、近づくことが許されているか質問した。すると、許されると言った——私は近づき、天幕の内部と外部を見た。それは記述にしたがって(出エジプト記25・40、26・30)、荒野の中のイスラエル民族のために建てられ、その形はモーセにシナイ山の上で示されたものに完全に似た天幕であった。
私は質問した、「その聖所の中に、内部に何があるのですか、それほどの光はどこからなのですか?」
答えた、「石板があり、それに、〝エホバと天界の間の契約〟と刻まれています」。多くのことを言わなかった。
[9]私たちは去ろうと用意していたので、その時、私は質問した、「あなたがたが自然界にいた時、あなたがたに、ひとり以上の多くの妻と生活した者はいないのですか?」
ひとりも知らないことを答えた。「なぜなら、私たちは多くの妻について考えることができないからです」。
彼らは私たちに話した。「考えた者は、直ちに、自分の霊魂にある天界の至福が、最内部から自分の身体の最外部へ、爪にまでも、同時にそれらとともに男らしさへの賛辞が引っ込みます。これらの者は、このことが知覚された時、私たちの地から追い払われます」。
これらが言われて、男は自分の天幕へ走り、金からできた種がたくさんあったザクロ(の実)とともに戻り、与えた。私は持ち去った、それは私に、私たちが黄金時代に生きた者といたことのしるしであった。
その時、平安〔あれ〕の挨拶の後、私たちは家へ戻った。

結婚愛

75◀︎目次▶︎77

6 白銀時代に生きた者のもとの結婚愛について

76 (第二のメモラビリア——)
翌日、以前の天使が私にやって来て、言った、「あなたは、白銀の時期または時代に生きた者から、私たちが彼らの時代の結婚について聞くために、私がその人々へ導き、同行することを望みますか?」
そして、これらの者は主の案内からでないなら近づけられないことも言った。
私は以前のように霊の中にいた、そして私の案内者に同行した。最初に、東と南の境界の丘へ〔来た〕。私たちがその斜面の上にいる時、私に地の大きな範囲の地域が示された。そして私たちは遠くに山岳地帯のような隆起を、それらの間に丘を見た、その上に私たちは立った、谷間があり、この後ろに平野が、ここからゆっくりと起き上がっている上がり坂があった。
私たちは谷間を越えて行くために下り、私たちはあちこちに、人間の形の木や石、いろいろな動物・鳥・魚の彫られたものを見た。私は天使に質問した、「それらは何ですか、偶像ですか?」
答えた、「まったく偶像ではありません。いろいろな道徳的な美徳を、霊的な真理を表象する像です。その時代の人々のもとに対応の知識がありました。すべての人間・獣・鳥・魚は何らかの特質に対応するので、それゆえ、それぞれの彫像が、美徳または真理のある部分的なものを、また多くのものが一緒に、全般的に拡大された形として、美徳または真理そのものを表象しています。それらは、エジプトで象形文字と呼ばれたものです」。
[2]私たちは谷間を通って進み、平野に入った時、見よ、私たちは、いろいろな飾り衣装と手綱を付けた馬と馬車を、そしていろいろな形の、あるものはワシのように、あるものはクジラのように、あるものは角とともに牡鹿のように、また一角獣のように彫刻された馬車を見た、そしてまた、最後にある荷馬車を、また周囲と脇に馬小屋を見た。しかし、私たちが近づくとき、馬も馬車も消え、それらの代わりに、私たちは、ふたりずつ、歩き、話し、推論している人間を見た。
天使は私に言った、「遠くから見られた馬・馬車・馬小屋の外見は、その時代の人間の理性的な知性の外観です。というのは、馬は対応から真理の理解力を、馬車はその教えを、そして馬小屋は教えることを意味するからです。あなたはこの世界ではすべてのものが対応にしたがって現われることを知っています」。
[3]しかし私たちはこれらを通り過ぎ、長い上がり坂を通って上り、最後に、都を見て、それに入った。通過中、私たちは街路と外側から、その家々を観察した——大理石から建てられた多くの宮殿であった。その前に雪花石膏(縞大理石)からできた階段、脇に碧玉からできた柱があった——私たちはサファイア(青玉)色や空色(ラピスラズリの色)の宝石からできた神殿を見た。
天使は私に言った、「彼らの家は石からできています、石は自然的な真理を、宝石は霊的な真理を意味するからです。白銀の時期に生きたすべての者に、霊的な真理から、またここから自然的な真理から知性がありました。銀もまた同様のものを意味します」。
[4]都を見渡しているうちに、私はあちこちに、ふたりずつの配偶者たちを見た。夫と妻であったからである、私たちは、どこかに私たちが招かれることを期待した。このことが心(アニムス)にあったとき、通り過ぎる中で、家の中のふたりから呼び戻され、私たちはのぼり、入った——天使は私のために彼らに話して、この天界への到来の理由を明らかにした、「ここにいるあなたがた古代人のもとの結婚について、あなたがたから教えられるためです」。
答えた、「私たちはアジア民族の出身です、私たちの時代の追求(関心)は真理の追求でした、それらによって私たちに知性がありました。この追求は私たちの霊魂と心への追求でした。しかし私たちの身体の感覚の追求は形としての真理の表象でした、そして対応の知識により、私たちの身体の感覚を私たちの心の知覚に結合し、私たちの知性を得ました」。
[5]これらを聞いて、天使は、彼らのもとの結婚について何か話すよう求めた。
夫は言った、「善との真理の霊的な結婚と、ひとりの妻との男の自然的な結婚の間に対応があります。私たちは対応を学んだので、私たちは、教会はその真理と善ともに、ひとりの妻とともに生きる真の結婚愛にいる者以外に、決して他の者のもとに存在することができないことを見ました。というのは、善と真理の結婚は人間のもとの教会であるからです。それゆえ、ここにいるすべての私たちは言います——夫は真理であり、妻はその善です、善は自分のもの以外の他の真理を愛することができず、真理も自分のもの以外の他の善を愛し返すことができません。もし他のものが愛されるなら教会をつくる内なる結婚は滅び、結婚は単なる外なるものになり、それには偶像崇拝が対応し、教会は対応しません。それゆえ、ひとりの妻との結婚を、私たちは神聖な誓いと呼びます、しかし、もし私たちのもとの多くの者と行なわれるなら、私たちはそれを神聖冒涜と呼びます」。
[6]これらを聞いて、私たちは控えの間に導き入れられ、そこに、内壁に多くの芸術品が、銀から鋳造されたような小さい像があった。私は質問した、「それらは何ですか?」
言った、「結婚愛のものである多くの特質・属性・快さを表象する絵や形です——これらは霊魂の結合を、これらは心の結合を、これらは胸(感情の座)の一致を、それらはここから生まれる歓喜を表象しています」。
調べている中で、私たちは内壁に、紫色・青色・白光り色の三つの色から構成された虹のようなものを見た。私たちは、どのように紫色の色が青色に変わるか、また、紺青色の色で白光り色を染めるか、この色が青色を通って紫色へ逆流すること、これが炎の光線のように高揚するのを見た。
[7]夫は私に言った、「あなたにそれらがわかりますか?」
私は返答した、「教えてください」。
言った、「紫色の色はその対応から妻の結婚愛を、白光りの色は夫の知性を意味します、青色の色は妻からの夫の知覚の中の結婚愛の始まりを、紺青色の色で染められた白光り色は、その時の夫の中の結婚愛を意味します。この色が青色を通して紫色へ逆流し、これが炎の光線のように高揚したことは、妻へ逆流した夫の結婚愛を意味します。結婚愛についての瞑想から、その相互のものを、結合の継続するものや同時のものを、そこに描かれた虹を私たちが目を凝らして眺める時、このようなものがそれらの内壁に表象されます」。
これらに私は言った、「これらは今日の神秘以上のものです、というのは、ひとりの妻とのひとりの夫の結婚愛のアルカナの表象の外見であるからです」。
答えた、「そうです、しかし、それらはここの私たちにとってアルカナではありません、ここから神秘でもありません」。
[8]これらが言われて、遠方から白い小馬に引かれた馬車が現われた。これらが見られて、天使は言った、「その馬車は、私たちが立ち去るようにとのしるしです」。
その時、私たちが階段を通って下るとき、主人(もてなす者)は私たちに、ブドウの木から葉がついた白く輝くブドウからその房を与えた。見よ、〔私たちの手の中で〕葉は銀になった——私たちはそれを、白銀時代の人々と私たちが話したことのしるしとして、持ち去った。

結婚愛

76◀︎目次▶︎78

7 青銅時代に生きた者のもとの結婚愛について

77 (第三のメモリビリア——)
次の日、案内者であり、仲間である天使がやって来て、言った、「あなたは身支度をしなさい。私たちは西の天界の住民へ出発します、その者は第三の時代すなわち青銅時代に生きた人間です。彼らの住居は南から北へ向かう西の近くですが、北にはありません」。
私は身支度をし、彼に同行し、そして、その天界へ南側から入った。そこにシュロの木と月桂樹からの壮大な森があった。
私たちはそれを通り抜け、その時、まさに西の境界に普通の人間よりも2倍の身長の巨人を見た。
これらの者が私たちを質問した、「あなたがたが森を通って入るのをだれが許したか?」
天使は言った、「天界の神です」。
答えた、「私たちは古代の西の天界の見張り番である。しかしあなたがたは通過せよ」。
[2]私たちは通り過ぎ、見晴らし台から、雲にまで達する山を見た。そして見晴らし台の中の私たちとその山の間に、中間の庭園・木立ち・平地とともに村また村を見た。
私たちは村を通り抜け、山へ上った。見よ、頂上は頂上ではなく、平地であり、この上に広々とした都があった。そのすべての家は樹脂(乳香)の木の木材から、それらの屋根は板からできていた。
私は質問した、「なぜ、ここの家は木造りなのですか?」
天使は答えた、「木(材)は自然的な善を意味します、この善の中に地上の第三の時代の人間がいたからです。銅もまた自然的な善を意味するので、それゆえ、その中に生きた時代は、古代人から銅にちなんで呼ばれました——この聖なる大建築物もまたオリーブの木の木材から建てられ、その真ん中に聖所があり、そこの箱の中にイスラエルのみことばよりも前にアジアの住民に与えられたみことばが置かれています。その歴史的な書物は『エホバの戦い』、預言的な書物は『宣言』と呼ばれ、両方ともモーセにより名前を挙げられています(民数記21:14, 15, また27–30)。これは今日、アジアの領域の中で失われ、大タタールの中にだけ保存されています」。
その時、天使は私を一つの大建築物へ導いた、そして私たちは内側を、その真ん中に、全部が最も白く輝く光の中にあるその聖所を見た。天使は言った、「その光は古代のそのアジアのみことばからです、というのは、すべての神的真理は天界で輝くからです」。
[3]大建築物から出て来る者たちから、私たちは、「都に、ふたりの外国人(よそ者)がいる、彼らがどこからか、ここで何の用事をするつもりか、検査しなくてはならない」と告げられたことを聞いた。集会所から従者が走り寄り、私たちに裁判所へ行くよう命令した——私たちがどこからか、ここで何の用事をするつもりかとの質問に、私たちは答えた、「私たちはシュロの木の森を、そしてまたあなたがたの天界の見張り番である巨人の住居を、その後、村の地域を通り過ぎました。それらから、あなたがたはここへ私たちがやって来たのは、私たちからでなく、天界の神からであることを結論することができます。私たちの用事は、あなたがたの結婚について、一夫一婦であるかあるいは一夫多妻か教えられたいことです」。
彼らは答えた、「一夫多妻とは何か、それらは淫行ではないのか?」
[4]その時、この裁判の集会で、私たちを自分の家の中で、この用事について教えるひとりの知的な者を委任した。この者は自分の家の中で、自分自身に妻を付き添わせ、これらを話した——
「真の結婚愛にいて、ここから世でその愛の美徳と能力で他の者よりもまさっていました、また今では、東にある自分の天界の中で、最も祝福された状態にいる太古の者たちすなわち最古代の者たちから、私たちは、結婚について私たちのもとに保たれた教訓を持っています。
私たちは彼らの子孫であり、彼らは、私たちの父のように、息子たちに生活の規範を手渡しました、それらの間に結婚についてこれらがあります——

息子たちよ、あなたがたが神と隣人を愛することを欲するなら、またあなたがたが賢明であることを、永遠に幸福であることを欲するなら、私たちはあなたがたにあなたがたが一夫一婦で生きるよう勧める。もしこの教訓からあなたがたが退くなら、あなたがたは天界のすべての愛を、このこととともに内なる知恵を追い払う、あなたがたは追放される。

私たちの父のこの教訓に私たちは息子として従順でした、私たちはその真理を知覚しました、それらは、だれかが配偶者だけを愛せば愛すほど、それだけ天界的なものに、内なるものになります。また、だれかが配偶者だけを愛さなければ愛さないほど、それだけ自然的なものに、外なるものになります。この者は、自分自身と自分の心の想像の産物でないなら愛さないし、この者は気の狂った者か愚か者です。
[5]これらから、この天界の中の私たちすべての者は一夫一婦の者です——そのような者であるので、それゆえ、私たちの天界のすべての境界は、一夫多妻者たち、姦淫者たち、淫行者たちから守られています。一夫多妻者が入り込むなら、北の暗やみへ追い払われます。姦淫者が入り込むなら、西の炉へ追い払われます。淫行者が入り込むなら、南の愚かな光の中へ追い払われます」。
これらを聞いて、私は、北の暗やみ・西の炉・南の愚かな光によって何が意味されるか質問した。
「北の暗やみは心の鈍さ、そして真理の無知であり、西の炉は悪の愛であり、南の愚かな光は真理の虚偽化であり、これらは霊的な淫行です」と答えた。
[6]これらの後、「私たちの宝庫へと、私に従いなさい」と言った。
私たちは従った。私たちに最古代人の書いたものを見せた、それは木と石の板の上に、その後、滑らかにされた木版の上にあった。また、第二の時代ではその書かれたものを羊皮紙の上に記録した。彼は羊皮紙を示した、その上に石の板から写筆された太古の規範が、それらの間にもまた結婚についての教訓があった。
[7]古代のまさに注目すべきこれらのものが見られて、天使は言った、「今は、私たちが立ち去らなくてはならない時です」——その時、もてなす者(主人)は庭園へ出て行き、木からいくつかの小枝を取り、束に結び、「これらの小枝は、私たちの天界に原産の、すなわち、特有の木からであり、その樹液はバルサム(芳香)から香ります」と言って、与えた。
私たちはこの束を持ち去り、見張り番がいなかった東に近い道を通って、降った——見よ、銅または青銅にちなんで名づけられた第三の時代の人々のもとに私たちがいたしるしとして、小枝は、光り輝く青銅に、それらの先端は金に変わった。

結婚愛

077◀︎目次▶︎079

8 黒鉄時代に生きた者のもとの結婚愛について

78 (第四のメモラビリア——)
2日間の後、再び、天使が私に話し、言った、「区切られた各時代を終えましょう。〔まだ〕黒鉄から名づけられた最後の時代が残っています——この時代の人々は、北方の西側の内部ですなわち脇の方向で暮らしています。彼らのすべての者は古代のアジアの住民からであり、彼らのもとに古代のみことばとそれからの礼拝がありました。それゆえ、私たちの主が世に来臨する前でした。
このことは古代の文書から明らかであり、それらの中に、それらの時代がそのように名づけられています。
同じこれらの時代が、ネブカデネザルに見られた像によって意味されます、その頭は金から、胸と腕は銀から、腹とももは銅から、すねは鉄から、そして足は鉄そしてまた粘土からできています(ダニエル2・32、33)」。
[2]道中で天使はこれらを私に言った。道は、私たちの心にひき起こされた変化の状態によって、住民の性質にしたがって、収縮され、早められ、それらを私たちは通り過ぎた。なぜなら、霊界の中の空間とここからの距離は心の状態にしたがった外観であるからである。
私たちが目を上げたとき、見よ、私たちはブナ・ナラ・オークの木の森の中にいた。私たちがあたりを見回すと、そこには左に雌グマ、右にヒョウが見られた。
私がそれらに驚いたとき、天使は言った、「雌グマでもヒョウでもありません、この北の住民を守る人間です——通り過ぎる者のいのちのスフィアを鼻で捕え、そして霊的であるすべての者に突進します、〔ここの〕住民は自然的であるからです——みことばを単に読み、ここから教えを何も汲み取らない者は、遠方から雌グマのように見えます。ここから虚偽を確信する者は、ヒョウのように見えます」。
しかし彼らは、私たちを見て、身を背け、私たちは通り過ぎた。
[3]森の後ろに茂みが見られ、その後、ツゲの木で囲まれて分けられた区画の中に草の平地があった——これらの後ろに、地は谷間へ斜めに傾き、その上に都また都があった。私たちはある都を通り過ぎ、一つの大きな都へ入った。
その街路は、同様に家もふぞろいであった。これらはレンガとその間に置かれた梁から、またしっくいで塗られて建てられていた。
広場の中に切られた石灰岩の石造りの神殿があった、それらの下部構造は地下に、上部構造は地上にあった。それらからの一つの〔神殿の〕中に、私たちは三つの階段を通って降り、周囲の壁にいろいろな形の偶像を、そして群衆がひざまずいてそれらを崇拝しているのを見た。真ん中に聖歌隊がいて、そこから彼らの都を保護する神が、頭一つ突き出ていた。出て行く途中、天使は私に言った、「古代人のもとのそれらの偶像は、白銀時代に生きた者の、それらについて前に〔述べましたが〕、霊的な真理を、また道徳的な美徳を表象する像でした。対応の知識が記憶から薄れ、消えた時、それらの像が最初に崇拝の対象とされ、その後、(異教の)神として崇拝の対象にされました。偶像崇拝はここからです」。
[4]神殿の外にいたとき、私たちは人々とその衣服を観察した。顔は灰色の鋼鉄製のようであった。喜劇役者のような衣服であり、胸にぴったりと締めついたシャツと腰のまわりにタオルが垂れ下がっていた。頭の上に波形のふちのある水夫の帽子があった。
しかし天使は言った、「〔観察は〕これで十分でしょう。私たちはこの時代の人々の結婚について教わりましょう」。
私たちはある高官の家に入った、その頭に塔のような帽子があった。
この者は私たちを親切に受け入れ、言った、「入れ、話そう」。
私たちは玄関に入り、そこに着席した。私は彼に、この都やこの地方の結婚について質問した。
言った、「私たちは、ひとりの妻とともに生活していない、ある者はふたりと、また3人と、またある者は多くの者とともに生活する。その理由は、多様性・服従・威厳のような誉れが、私たちを喜ばせるからである——多くの妻たちがいる時、これらが私たちにある。ひとりとともになら、多様性からの快さはなく、同一であることから飽きてしまうであろう。服従からのこびへつらいはなく、対等〔であること〕からの煩わしさがあるであろう。支配とここからの誉れからの幸せはなく、しかし、優越性について口論からの反目があるであろう。
女とは何か? 女は男の意志の家来であり、そして仕え、支配されるように生まれていないか?
それゆえ、それぞれのこの夫に自分の家の中で王の威厳がある。
これが私たちの愛のものであるので、そしてまた私たちの生活の至福である」。
[5]しかし私は質問した、「その時、どこに結婚愛があるのですか? それは二つの霊魂から一つをつくり、そして心を結合させ、人間を幸福にします。その愛は分割されることができません。もし分割されるなら、情熱はさめ、過ぎ去ります」。
これらに答えた、「私にはあなたの言われるそれらがわからない。人間を幸福にする何らかのものは、自分の夫からの名誉のために、妻たちが卓越を競い合うこと以外に何か?」
これらを言って、男は女性用の部屋に入り、二つの扉を開けた。しかし、ここから好色なものが流れ出た、それは汚物のような悪臭を放った——これはつがい(交尾)のものであり、同時に淫行のものである一夫多妻の愛からであった。それゆえ、私は立ち上がり、扉を閉じた。
[6]その後、私は言った、「あなたがたに何らかの真の結婚愛がないとき、そしてまた偶像を崇拝しているとき、どのようにしてあなたがたはこの地上に存続することができるのですか?」
答えた、「つがい(交尾)の愛に関して、私たちは私たちの妻たちに対して、私たちが、ある者が私たちの家に、玄関の中よりも内部に入ることを許さないように、これほどに激しく嫉妬する、また熱意(嫉妬)であるので、愛でもある——偶像に関して、私たちはそれらを崇拝しない、しかし私たちは全世界の神について私たちの目に示された姿によってでないなら考えることができない、というのは、私たちは思考を身体の感覚的なものの上に、神についてその見えるものの上に高揚させることができないからである」。
その時、再び、私は質問した、「あなたがたの偶像はいろいろな形ではありませんか? どのように、それらが一つの神の幻影をひき起こすことができるのですか?」
これらに答えた、「このことは私たちに神秘である。それぞれの形の中に神の礼拝の何らかのものが隠れている」。
私は言った、「あなたがたは、単なる形体的な感覚的な者です。あなたがたに神への愛はありません、霊的なものから何らかものをもたらす結婚の愛もありません。これらの愛は一緒に人間をつくり、それを感覚的なものから天界的なものにつくります」。
[7]このことを私が言ったとき、扉の向こう側に稲光のようなものが見られた。私は質問した、「これは何ですか」。
言った、「このような稲光は、私たちに東から古代人がやって来ることのしるしであり、その者は私たちに神について、唯一であり、ただひとりの全能者であり、最初と最後である者であることを教える。彼は、私たちが偶像を礼拝しないように、しかし、私たちが単にそれを、唯一の神から発出している力(美徳)を表象している像として眺めるよう警告する、それらは一緒にその方の礼拝を形作っている。この古代人は私たちの天使であり、その者を私たちは崇敬し、その者に傾聴する。私たちにやって来て、私たちが偶像についての幻想から神の礼拝の不明瞭なものの中に陥る時、私たちを奮起させる」。
[8]これらが言われて、私たちは家と都を去り、また道中、天界で見られたものから、結婚愛のひと巡りと進行について結論した——ひと巡りについては、東から南へ、これから西へ、またここから北へ移ったことである。進行については、巡回にしたがって減少したこと、すなわち、東で天的、南で霊的、西で自然的、北で感覚的であった。そしてまた、神の愛と礼拝とともに同様の段階の中で衰えたことである。
それらからこの結論が生じる——その愛は最初の時代で金のようであり、第二の時代で銀、第三で銅、第四で鉄のようであり、最後に消えたことである。
その時、私の案内者で仲間である天使が言った、「しかし、私は、その愛が主であられる天界の神により回復される希望で励まされます、生き返ることのできるものであるからです」。

結婚愛

78◀︎目次▶︎80

9 それらの時代の後に生きた者のもとの結婚愛について

79 (第五のメモラビリア——)
黄金・白銀・青銅・黒鉄の四つの時代に生きた古代人への私の案内者であり仲間であった前の天使が、再び来て、私に言った、「あなたは、それらの古代人の後の時代が、どんなものであったか、また今ではどんなものであるか、見たいですか? 私に続きなさい、あなたに見せましょう——彼らについてダニエルはこれらを預言しました。

それらの四つの〔王国〕の後に王国が起き上がり、その中で、鉄は泥の粘土と混ぜられる。人間の種によって互いに混ぜられる、しかし、鉄が粘土と混ぜられないように、一つはもう一つと密着しない」(ダニエル2:41–43)。

また、言った、「鉄が粘土と混ぜられ、それでも密着しない『人間の種』によって、虚偽化されたみことばの真理が意味されます」。
[2]これらが言われて、私は彼に続いた。道中で私にこれらを語った——「彼らは南と西の間の境界に、しかし前の四つの時代に生きた者の後ろに、大きな距離に、そしてまた深いところに住んでいます」。
私たちは南を通って西に隣接した地域へ前進し、恐ろしい森を通り過ぎた。というのは、そこに池々があり、それらからワニが頭を持ち上げて、その歯のある広くて大きな口を私たちに向けて開けていたから。また池々の間に恐ろしい犬がいた、それらのある犬にはケルベロスのような三つの頭、ある犬には二つの頭があり、すべて犬が恐ろしい口を開け、獰猛な目で、通り過ぎる私たちを注視していた。
私たちはこの西の領域の場所に入り、「黙示録」第12章3、第13章2で述べられているような竜とヒョウを見た。
[3]天使は私に言った、「あなたがたの見たすべてのそれらの野獣は、野獣ではありません、対応するもの、このように欲望の表象の形です、あなたがたが訪問する住民はそれらの欲望の中にいます。欲望そのものが恐ろしいそれらの犬によって、彼らの欺きと策略がワニによって、彼らの虚偽とそれらへの邪悪な傾向が、それらは礼拝のものであり、竜とヒョウによって表象されます。けれども、表象された住民は森の後ろに接して住んでいません、先祖の世代の住民から十分に離され、分けられるために中間にある大きな荒野の後ろに住んでいます。というのは、完全に彼らとすなわちよそ者と違っているからです——確かに、初期の人間のように、胸の上に頭を、そして腰の上に胸を、足の上に腰を持っています。しかし頭の中に何らかの金はなく、胸の中に何らかの銀はなく、腰の中にも何らかの銅はありません、それどころか、足の中にも何らかの純粋な鉄はありません。彼らの頭の中に粘土と混ぜられた鉄が、胸の中に両方のものと混ぜられた銅が、腰の中にさらにまた両方のものと混ぜられた銀が、足の中にそれらが混ぜられた金があります——その反転によって人間から人間の彫像に変えられ、それらの中で、内部は何も密着していません。なぜなら、最高位のものであったものが最低のものにされ、そのように頭であったものがかかとにされ、逆も言えるからです。天界から、私たちに、彼らは俳優に似た者に見えます、その者は身体を逆さにし、肘で横たわり、進みます。または仰向けになって背中を横たえ、そして足を上方へ上げ、地に埋めた頭から天を眺める獣のようです」。
[4]私たちは森を通り過ぎ、荒野へ入った、それはさらに恐ろしかった。石の堆積から成り、それらの間に穴があり、それらからヒュドラーやマムシが這い出し、火ヘビが飛び出した。
この荒野全体は連続して傾いていて、私たちは長い下り坂を通って降り、最後に、その領域の住民からの谷間に、そして彼らの時代の住居へやって来た。
あちこちにあばら屋があり、それらは最後に一緒になり、都の形へと結合されているのが見られた。
私たちはこれへ入った。見よ、家は、焦げた木の枝から、泥でくっつけられて、屋根は黒い薄板で建てられていた——街路はふぞろいであり、すべての街路は始まりで狭く、しかし、進行する中で広がった、終わりで広々としていて、そこに広場があり、そこから多くの街路とそれだけ多くの広場があった。
私たちが都に入った時、暗やみがひき起こされた、空が見られなかったからである。それゆえ、私たちは見上げ、私たちに光が与えられ、私たちは見た。その時、私は出会う者に質問した、「あなたがたの上に、空が見られないのに、あなたがたは見ることができるのですか?」
答えた、「あなたがたが質問しているこのことは何なのか? 私たちは、はっきりと見ている。私たちは十分な光の中を歩いている」。
これらを聞いて、天使は私に言った、「夜の鳥のように、暗やみが彼らに光であり、光が彼らに暗やみです、というのは、下方を眺め、上方を眺めないからです」。
[5]私たちはあちこちの小屋の中に入った、私たちは、どんな小屋の中でも、男が自分の女と〔いるのを〕見た、私たちは、ここのすべての者は自分の家の中でひとりの妻とだけ生活しているのか質問した。
これに、彼らは〔あざけりの〕口笛とともに答えた、「ひとりの妻とだけとは何か? なぜ、あなたがたは、ひとりの淫婦とだけ、と質問しないのか? 淫婦でないなら妻たちとは何か?私たちの法律から、姦通することは、ひとりの女とだけよりも多くの者とは許されない。しかし、それでも多くの者と〔姦通することは〕、私たちに不名誉なことまた不作法なことではない、しかし家の外で〔なら許される〕。私たちはこのことについて、私たちの間で自慢している。このように、私たちは放縦を、またその快楽を、一夫多妻者よりもさらに楽しんでいる。
なぜ、妻の複数性が私たちに否定されるのか、それでも許された、今日、全地球の中で私たちのまわりで許されている。ひとりの妻だけとの生活は、捕らわれの状態や監禁でないなら何なのか?しかし私たちは、ここにこの牢獄のかんぬきを壊して開け、奴隷状態から救い出し、解放する。その者が自分自身を救出できるとき、だれが奴隷を怒るのか?」
[6]これらに私たちは答えた、「あなたがたは、宗教がないかのように話しています。理性でいくらか教えられただれが、姦淫が神性を汚すものと地獄のもの、結婚が聖なるものと天界のものであることを知りませんか? 姦淫は地獄の悪魔のもとに、結婚は天界の天使のもとにありませんか?あなたがたは十戒の第六の戒めを、また、パウロのもとに、姦淫者は決して天界にやって来ることができない、とあるのを読まなかったのですか?」
これらに、もてなす者(主人)は胸全体で(=腹を抱えて)笑い、私を単純な者のように、ほとんど狂気であるかのように見た。
しかし、直ちに、その時、都の首長から、使者が走り寄り、言った、「ふたりの到着者を広場へ連れて来い、もし彼らが欲しないなら、彼らをそこへ引っ張れ。私たちは彼らを夜の暗やみの中で見た、彼らはひそかに入った偵察者である」。
天使は私に言った、「私たちが暗やみの中にいるのが見られたのは、私たちは天界の光の中にいましたが、彼らには暗やみであるからです、そして、地獄の暗やみは彼らに光であるからです。このことが生じたのは何も罪と見なさない、決して姦淫でないとするからです、ここから虚偽をまったく真理のように見ます、そして虚偽は地獄の中でサタンの前で光を放ちます、そして真理は、彼らの目に、夜の暗やみのように暗いものです」。
[7]私たちは使者に言った、「私たちは追い立てられません、まして、広場へと引っ張られません、自発的にあなたとともに行きます」。
そして、私たちは行った——見よ、そこに多くの群衆、そこからある法律家たちが出てきて、私たちの耳の中へ言った、「あなたがたは、宗教に、統治(政治)の形に、また習慣(作法)上の道徳的に善いことに反する何らかのことを話さないように用心しなさい」。
私たちは答えた、「私たちは話しません、しかしそれらのために、それらから話しましょう」。
私たちは質問した、「結婚について、あなたがたの宗教は何ですか?」
これに群衆は不平をつぶやき、言った、「これは私たちにとって結婚と何の関係があるのか? 結婚は結婚である」。
再び私たちは質問した、「淫行について、あなたがたの宗教は何を教えていますか?」
これにもまた群衆は不平をつぶやき、言った、「これは私たちにとって淫行と何の関係があるのか? 淫行は淫行である。罪のない者が最初に石を取れ」。
三度目に私たちは質問した、「あなたがたの宗教は、結婚について、聖なるものと天界のものであること、姦淫について、神聖を汚すものまた地獄のものであることを教えていませんか?」
これらに群衆の中の多くの者は声高に笑い、あざけり、からかって、言った、「それらが宗教のものであることを、私たちでなく、私たちの聖職者たちに質問せよ。私たちは彼らの言うことにまったく満足している、宗教の何らかのものは理解力の判断の中に落ち込まないからである。あなたがたは、理解力は神秘的なものの中で狂うこと、それらの神秘から全宗教があることを聞かなかったのか? 行為は宗教と何の関係があるのか?働きではなく、信心深い心からの、償い・賠償(贖罪)・転嫁についてのブツブツ声が霊魂を幸福にするのではないのか?」
[8]しかしその時、都で賢明な者と呼ばれたある者が近づき、言った、「ここから去れ、群衆は激しく怒った、じきに騒動が起こる。この事柄について私たちとだけで話そう。集会所の後ろに散歩道がある、私たちはそこへ離れる、私たちとともに来い」。
私たちは続いた——その時、私たちに質問した、「あなたがたはどこからか、ここに何の用事があるのか?」
私たちは言った、「結婚について私たちが教えられるためです。それがあなたがたのもとで、黄金・白銀・青銅時代に生きた古代人のもとのように、秘跡であるか、あるいは秘跡でないかです」。
彼らは答えた、「何が秘跡か? 肉と夜の営みではないのか?」
私たちは答えた、「霊の働きでもありませんか? 肉は霊から行ないます、それは霊的ではありませんか? 霊は、行なうすべてのものを、善と真理の結婚から行ないます。自然的な結婚の中に入るもの、夫と妻のものであるもの、これは霊的な結婚ではありませんか?」
これに賢明な者と呼ばれた者は答えた、「あなたがたは、この事柄を、理性的なものを超える霊的なものへと、あまりに洗練させ、高尚にする——だれが、そこに始まり、ここから降ること、このように何らかのものを判断することができるのか?」
あざけって、これらに加えた、「おそらく、あなたがたは私たちが持つことのできない、天界の最高の領域を飛ぶことができるワシの翼を、また、鋭く見ることができるそのような目を持っている」。
[9]その時、私たちは彼らに、ひとりの妻とのひとりの夫の結婚愛が存在すること、その中に天界のすべての至福・幸せ・快さ・楽しさ・快楽が集められていることを、また、この愛は主からであり、その方からの善と真理の受け入れにしたがって、そのように教会の状態にしたがっていることを知っているかどうか、あるいは知ることができるかどうか、彼らの心の観念が飛ぶ鳥の高みまたは領域から言うように願った。
[10]これらを聞いて、彼らは身を背かせ、言った、「これらの男は狂っている。彼らは自分の判断とともにエーテルへ入り、空虚なものを憶測しながら、クルミを散らかしている」。
この後、身を私たちへ向け、言った、「私たちは、あなたがたの空虚な予言と夢にまっすぐに答えよう」。
また、言った、「結婚愛は宗教と、また神からの霊感と共通な何を持つのか? その愛は、それぞれの者のもとの力(性的能力)の状態にしたがっていないか? 教会の外にいる者に、そのように内にいる者のもとに、彼らのもとに等しく存在しないか。キリスト教徒のもとのように異教徒のもとに等しく? それどころか、敬虔な者のもとのように不信心な者のもとに等しく?それぞれの者の愛が力強いのは、あるいは遺伝から、あるいは健康から、あるいは生活の節制から、あるいは気候の暖かさからではないのか? そしてまた、薬物によって強くされ、興奮させられることができる。
獣のもとに、特に、二つ一組になって互いに愛する鳥のもとに似たものがないのか? その愛は肉欲のものではないのか? 肉欲のものが、教会の霊的な状態と共通な何を持つのか?その愛は最後の結果に関して妻と、その結果に関して淫婦と、愛からは少しも異ならないのではないのか?情欲に似たもの、歓喜と似たものではないのか?それゆえ、結婚愛の起源を教会の聖なるものから導き出すことは侮辱を加えることである」。
[11]これらを聞いて、私たちは彼らに言った、「あなたがたは、結婚愛からでなく、好色な興奮から推論しています。あなたがたのもとで結婚愛は冷えているので、あなたがたはそれが何かまったく知りません——あなたがたに言われていることから、私たちは、あなたがたがダニエルによる予言にしたがって(2:43)、密着しない鉄と粘土から呼ばれ、構成されている時代からの者であることを確信しました。というのは、あなたがたは結婚愛と淫行愛を一つのものにしているからです。これら二つのものは鉄と粘土よりもさらに密着するのですか? あなたがたは賢明な者と信じており、そう呼ばれています、しかし、決して賢明な者ではありません」。
これらを聞いて、怒りで火をつけられて、叫び、私たちを投げ出すために群衆を呼び集めた。しかしその時、主から私たちに与えられた力から、私たちは手を伸ばした、見よ、火ヘビ・マムシ・ヒュドラー、そしてまた荒野から竜が近づき、都に入り込み、満ち、そのことから住民は怖がり、逃げた。
天使は私に言った、「この領域の中に、毎日、地球から新しい者が近づき、そして前の者が交替で追放され、西の沼地の中へ投げ込まれ、それは遠方から火と硫黄の池のように見えます。そこのすべての者は、霊的な姦淫者であり、自然的な姦淫者です」。

結婚愛

79◀︎目次▶︎81

80 (第六のメモラビリア——)
これらが言われたとき、私は西の端を見た。見よ、火と硫黄の池が見えた。私は天使に質問した、「なぜ、そこにそのようなものが見えるのですか?」
答えた、「真理の虚偽化から池のように見えます、水は霊的な意味で真理であるからです。悪の愛から火のようなものが、また虚偽への愛から硫黄のようなものが、それのまわりに、またその中に見えます。
それら三つのもの、池・火・硫黄は、それらの中にある悪の愛に対応する外観であるからです。そこのすべての者は永遠の強制収容所に閉じ込められていて、食物・衣服・寝床のために働きます。悪を行なうとき、重くまた惨めに罰せられます」。
[2]再び、私は天使に質問した、「なぜ、あなたは、そこに霊的なまた自然的な姦淫者がいることを言ったのですか? なぜ、悪をなす者や不信心な者と言わないのですか?」
答えた、「姦淫を何でもないものとして見なす、すなわち、その者はそれが罪でないことを確信から、またこのようにはっきりとした目的から、信じ、行なう、それらすべての者は、その心で悪をなす者や不信心な者であるからです。というのは、すべての歩みで、人間の結婚と宗教は、一緒に歩く〔歩調を共にする〕からです。宗教から宗教へのすべての歩みとすべての足取りは、キリスト教の人間に特有のまた固有のものである結婚のものから結婚のものへの歩みと足取りでもあります」。
「その結婚のものとは何ですか?」との質問に、「ただひとりの妻と生活しようとする願望です、この願望が、キリスト教徒の人間に、その宗教にしたがって、あります」と言った。
[3]その後、私は霊の中で、古代人の時代で最も聖なるものであった結婚が、これほどに放埒な姦淫へと向きを変えられたことに悲嘆した。
天使は言った、「今日の宗教も同様です。なぜなら、主は、世代の完了の中で、ダニエルにより述べられた荒涼の忌まわしいものがあること、また、世の始めからなかったような大きな苦難があるであろうことが言われたからです(マタイ24:15, 21)。「荒涼の忌まわしいもの」は、すべての真理の虚偽化と剥奪を意味します。「苦難」は、悪と虚偽により攻撃される教会の状態を意味します。また「世代の完了」は、そのことについて、それらが言われていますが、教会の最後の時、すなわち、終わりを意味します。
今は〔その〕終わりです、虚偽化されない真理が残っていないないからです(=虚偽化されないで残っている真理がない)、そして真理の虚偽化は霊的な淫行であり、それは自然的な淫行と一つのものとして活動し、密着しているからです」。

結婚愛

80◀︎目次▶︎82

10 主の来臨のために、その時の結婚愛のために、天界の天使たちによる主の賛美について

81 これらについて私たちが話し、悲しんでいるとき、突然、私の目を強く打つ光の輝きが見られ、それゆえ、私は見上げた——見よ、私の上の全天界が照らされて現われ、東から西へ長い一続きの賛美が聞かれた。
天使が私に言った、「その賛美は主への賛美です、その方の来臨のために、それは東と西の天界の天使により行なわれました」。
南と西の天界からは、上品なつぶやきしか聞かれなかった。
天使はすべてのものを理解したので、最初に、私に、「それらの主への賛美と称賛はみことばから行なわれます、その時、主から行なわれるからです、というのは、主はみことばです、すなわち、そこの神的真理そのものであるからです」と言った。
また、言った、「今、特に、預言者ダニエルに言われたこれらによって主を賛美し、称賛しています——

あなたは泥と粘土で混ぜられた鉄を見た。それに人間の種を混ぜた、しかし、それらは密着しなかった……けれどもその日に……神は天の王国を起こす、それは永遠に滅びない。……それらのすべての王国を粉砕し、終わりにする、けれども、それ自体は永遠に立つ(ダニエル2:43, 44)」。

[2]この後、私は歌声のようなものを聞き、東のさらに奥に、私は前のものよりさらに輝く光の閃光を見た。私は天使に、そこでは何を賛美しているか質問した。
彼は言った、「「ダニエル書」のこれらによってです、

私は夜の幻の中で見ていた。すると見よ、天の雲とともに、人の子がやって来た。……この方に主権……と王国が与えられ、すべての人民と国民が……その方を礼拝した。その方の主権は永遠の主権で、過ぎ去らない、その方の王国は滅びない(ダニエル7:13, 14)。

それらのほかに、「黙示録」の中で主を称賛しているこれらからです、

イエス・キリストに「栄光と力がある〔ように〕……見よ、雲とともにやって来る。その方はアルファとオメガ、最初と最後、初めと終わりである……その方はいる、いた、やって来る、全能〔である〕。私、ヨハネは……七つの燭台の真ん中から、人の子からこれを聞いた」(1:5–7, 8, 9, 10–13, 22:8, 13。なおまた「マタイ福音書」24:30, 31から)。

[3]私は再び東の天界の中を見た、右側から明るくなり、照明が南の大空に入った。私は天使に、「そこでは主の何を賛美しているのですか?」と質問した。
言った、「「黙示録」の中のこれらによってです、

私は新しい天と新しい地を見た……私は、聖なる都、新しいエルサレムが自分の夫のために花嫁のように整えられて、神から天界を通って降るのを見た……。天使は私に語り、言った、「来なさい、私はあなたに花嫁、小羊の妻を見せましょう」。私を大きな高い山の上に連れて行き、私に都を……聖なるエルサレムを見せた(21:1, 2, 3, 9, 10)。

さらにまた、これらのことばによってです、

わたしイエスは……輝く明けの星である。霊と花嫁は言う、「来てください」。……言われた、「わたしはすぐに来る」。アーメン、主よ、イエスよ、来てください(黙示録22:16, 17, 20)」。

[4]このことや多くのことの後、天界の東から西へ、そしてまた南から北へ普遍的な賛美が聞かれた、私は天使に質問した、「今〔の賛美〕は何ですか?」
言った、「「預言書」からの、これらです——

すべての肉が、わたし、エホバがあなたの救い主、あなたのあがない主であることを知る(イザヤ49:26)。
イスラエルの王、エホバは、またそのあがない主、万軍のエホバはこのように言われた、わたしは初めであり……終わりである、わたしのほかに神はいない(イザヤ44:6)。
その日に言われる、「見よ、この方が私たちの神、この方を私たちを解放するために待ち望んだ。この方、エホバ、その方を私たちは待ち望んだ」(イザヤ25:9)。
荒野の中の叫ぶ声、エホバの道を準備せよ。……見よ、主エホビが強さの中でやって来られる……羊飼いのように自分の群れを飼う(イザヤ40:3, 5, 10, 11)。
私たちに少年が生まれる、私たちに子が与えられる……その名前は、不思議な助言者、神、英雄、永遠の父、平和の君(イザヤ9:6)。
見よ、日がやって来る……またわたしはダビデに正しい若枝を起こす、その者は王となって支配する。……これがその方の名前……エホバ、私たちの正義(エレミヤ23:5, 6, 33:15, 16)。
その方の名前は万軍のエホバ、あなたのあがない主、イスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる(イザヤ54:5)。
その日に、エホバは全地の上に王になる。その日に、エホバは一つ、その方の名前は一つとなる(ゼカリヤ14:9)」。

[5]これらを聞き、理解したことから、私の心は小躍りして喜び、楽しさの中で家へ行き、そこで私は霊の状態から身体の状態へ戻った、その中で、私は見て、聞いたものであるこれらを書いた。
さて、それらに私はこのことを付け加える。主により、その方の降臨の後、古代人のもとにあったような結婚愛が、その愛は主おひとりからであるので、みことばによって霊的になっている者のもとに回復されることである。

結婚愛

81◀︎目次▶︎83

11 新しい教会の教え(戒め)について

82 この後、男が北の方位から猛烈に走り寄り、私を脅迫するような顔つきでにらみ、そして興奮した口調で話しかけて、言った、「あなたなのか? 神から天界を通して降って来る〝新しいエルサレム〟によって意味される新しい教会を教え、そして、主はその教会の教えの事柄を抱く者に、真の結婚愛が与えられ、その歓喜と幸福を天界へまで高めるであろうことを言って、世を惑わそうと欲する者は? これは作り事ではないのか、これをあなたは、あなたの新しいものへ近づけるための、わなや誘惑物として利用していないか? しかし、私に、要約して、それら新しい教会の教えの事柄が何であるか言え、私は一致しているかまたは一致していないか見よう」。
私は答えた、「〝新しいエルサレム〟によって意味される〝教会の教えの事柄〟はこれらです、

(1) 神は唯一であり、その方の中に神的三一性がある。その方は主イエス・キリストである。
(2) 救う信仰はその方を信じることである。
(3) 悪は避けられるべきである、悪魔のもの、悪魔からのものであるから。
(4) 善は行なわれるべきである、神のもの、神からのものであるから。
(5) これらは人間により、自分自身からのように行なわれるべきである、しかし、彼のもとの主から、また彼によって〔行なわれるべきもの〕であることを信じるべきである。

[2]これらを聞いて、しばらくの間、彼の激怒は引っ込んだ。しかし、いくらかの熟慮の後、再び、私をいかめしい顔つきでにらみ、「新しい教会の信仰と仁愛の教えの事柄はこれら五つの教えであるのか?」と言った。
私は答えた、「そうです」。
その時、荒々しく質問した、「どのように、あなたは最初のもの『神は唯一であり、その中に神的三一性がある。その方は主イエス・キリストである』を証明することができるのか?」
私は言った、「私はこのように証明します——
神は一つであり、分割できないのではありませんか? 三一性がありませんか? もし神が一つであり、分割できないなら、一つの位格(ペルソナ)ではありませんか? もし一つの位格なら、その中に三一性がありませんか?
〔その方が〕主イエス・キリストであることは、これらからです、父なる神からみごもられ(ルカ1:34, 35)。このように霊魂に関して神です。ここから、その方が言われるように、 父とその方は一つです(ヨハネ10:30)。その方は父の中に、父はその方の中におられます(ヨハネ14:10, 11)。その方を見、その方を知る者は、父を見、知ります(ヨハネ 14:7, 9)。父のふところにいる方でないなら、だれも父を見ないし、知りません(ヨハネ1:18)。父のすべてのものはその方のものです(ヨハネ3:35, 16:15)。道・真理・いのちであり、その方を通してでないならだれも父へやって来ません(ヨハネ14:6)。そのように、その方の中におられるので、その方からです。
また、パウロによれば、 その方の中にすべての神性が充満して形をとって住んでいます(コロサイ2:9)。そして、さらに、その方に、すべての肉の力があり(ヨハネ 17:2)、その方に、天と地にすべての力があります(マタイ28:18)、それらから、天地の神であることがいえます」。
[3]その後、第二のもの「救う信仰はその方を信じることである」を私がどのように証明するのか、と質問した。
私は言った、「私は、主ご自身のこれらのことばによって証明します。

これが父のみこころです、すべての者が……子を信じる者、永遠のいのちを持つこと(ヨハネ6:40)。
ご自分のひとり子を与えたように、これほど神は世を愛した、その方を信じるすべての者が、滅びないで、永遠のいのちを持つために(ヨハネ3:15, 16)。
子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、いのちを見ない、しかし、神の怒りが彼の上にとどまる(ヨハネ3:36)。

[4]その後、彼は言った、「第三のもの、続くものも証明せよ」。
私は答えた、「悪は、悪魔のもの、悪魔からのものであるので、避けられるべきであること、そして善は、神のもの、神からのものであるので行なわれるべきであることを証明するのに、何が必要ですか? なおまたこれらは人間により、自分自身からのように行なわれるべきであること、しかし彼のもとの主から、また彼によって〔行なわれる〕ことを信じるべきであることを?
これら三つのものが真理であることは、聖書全体が始めから終りまで確証しています。悪を避けることと善を行なうこと、そして主なる神を信じること以外でないなら、そこに要約した形で他の何がありますか? さらに、これらの三つのものなしに、何らかの宗教は存在しません。宗教は生活のものではありませんか?悪を避けることと善を行なうこと以外でないなら何が生活ですか?自分自身からのようにでないなら、人間はどのように善を行なうこと、また悪を避けることができますか?それゆえ、もしあなたがこれらを教会から取り去るなら、あなたは教会から聖書を取り去り、そしてまた、宗教を取り去ります。それらが取り去られた教会は教会ではありません」。
その男は、これらを聞いてたじろぎ、熟考した。しかし、それでも憤慨のうちに去った。

結婚愛

82◀︎目次▶︎84

(四)善と真理の結婚からの結婚愛の起源について

83 結婚愛の起源に内なるものと外なるものがあり、そして、多くの内なる起源があり、同様に多くの外なる起源があります。しかし、すべてのものの最も内なる起源または普遍的な起源は一つです。これが善と真理の結婚であることは、今から続くものの中で示します。
今まで、だれもその愛の起源をここから導きませんでした、善と真理の間に何らかの結合があることが隠れていたからです。隠れていたのは、善は、真理のように、理解力の光の中に見られないからです、ここからその知識はそれ自体を隠し、そして探求を逃れました――善はここから未知のものの間にあるので、だれも善と真理の間の何らかの結婚を推量することができませんでした。
それどころか、自然的で理性的な視覚の前に、善は真理から、何らかの結合がないようにも遠く離れて見えました――そのようであることは、このことが言われている時の会話から見られることができます。例えば、「これは善である」と言われるとき真理について何も考えられていません。また、「これは真理である」と言われるとき善について何も考えられていません。それゆえ、今日、多くの者により、真理はまったく〔善とは別の〕何らかのものである、同じく善も〔そうであると〕信じられています。多くの者からも、人間は知的であり、賢明であり、このように人間は真理にしたがって、それらを考え、話し、書き、信じ、また同時に、善にしたがってではない〔と信じられています〕――それでも、真理なしに善は、善なしに真理は存在しません、それゆえに、永遠の結婚がそれらの間に存在すること、なおまたこの結婚は結婚愛の起源であることを今から説明します。
これを次の順序で行ないます――

(1) 善と真理は、創造の普遍的なものであり、ここから、創造されたすべてのものの中にある。しかし、創造された主体の中に、それぞれの形にしたがって存在する。
(2) 孤立した善は存在しない、孤立した真理も存在しない、どこでも結合している。
(3) 善の真理が存在し、これから真理の善が存在する、すなわち、善からの真理が存在し、そしてその真理からの善が存在する。それらの二つのものに創造から一つのものへの性向が、それら自体を結合させるために植え付けられている。
(4) 動物界の主体の中で、善の真理すなわち善からの真理は男性であり、それからの真理の善すなわちその真理からの善は女性である。
(5) 主からの善と真理の結婚の流入から、性愛があり、結婚愛がある。
(6) 性愛は、外なる人すなわち自然的な人のものであり、ここからこれはすべての動物に共通である。
(7) しかし、結婚愛は、内なる人すなわち霊的な人のものであり、ここからこれは人間に固有のものである。
(8) 宝石がその母岩の中にあるように、人間のもとで、結婚愛は性愛の中にある。
(9) 人間のもとの性愛は結婚愛の起源ではなく、その最初のものである、したがって、外なる自然的なもののようであり、それに内なる霊的なものが植え付けられている。
(10) 結婚愛が植え付けられている時、性愛は逆転し、貞潔な性愛になる。
(11) 男と女は善と真理の結婚の形そのものであるために創造された。
(12) その形は最内部の中で、またここからそれらから続くものの中で、彼ら〔男と女〕の心の内的なものが開かれているほど、その形である。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

83◀︎目次▶︎85

84 (1) 善と真理は、創造の普遍的なものであり、ここから、創造されたすべてのものの中にある。しかし、創造された主体の中に、それぞれの形にしたがって存在する
善と真理が創造の普遍的なものであることは、それらの二つのものは創造主なる神、主の中にあり、実にその方であるからです、というのは、神的善そのものと神的真理そのものであるからです。しかし、もし善の代わりに愛と言われ、真理の代わりに知恵と言われるなら、さらに照らされて、理解力の知覚の中へ、このように思考の観念の中へ落ち込みます。それゆえ、創造主なる神、主の中に神的愛と神的知恵があり、これらはその方です、すなわち、愛そのものと知恵そのものです。というのは、これら二つのものは、善と真理と同じものであるから。その理由は、善は愛に属し、真理は知恵に属すからです、というのは、愛は善から、知恵は真理から構成されるからです。
前者の二つのもの〔愛と善〕と後者の二つのもの〔知恵と真理〕は同じ一つのものであるので、続きの中で、時には前者、時には後者が言われ、そして両方のものによって同様のものが意味されます。
続きの中で、そこに言われるものを、理解力でいろいろと異なって知覚しないように、ここでこのことを予備的に言っておきます。

結婚愛

084◀︎目次▶︎086

85 そこで、愛そのものと知恵そのものである創造主なる神、主は、その方から全世界は創造され、それはその方から発出している作品のようであるので、創造されたすべてと個々のものの中にその方からの善と真理の何らかのものが存在せざるをえません。なぜなら、何らかのものから生じ、発出したものは、それから似たものを得るからです。
 そのようであることは、秩序の中に創造された全世界のすべてと個々のものがあるその秩序から理性でも見られることができます。その秩序とは、あるものは他のもののために存在し、ここから、鉤から〔ぶらさがっている〕鎖のように、あるものは他のものに依存することです。というのは、すべてのものは人類のために存在し、それから天界の天使が存在するためであり、そのことによって被造物は、そのことから創造主そのものに戻るからです――ここから、創造主と創造された全世界との結合があり、結合によって永久不変の維持があります。
 このことから、善と真理は創造の普遍的なものと言われます――そのようであることは理性から熟慮するそれぞれの者に明らかです。この者は、すべての被造物の中に、善に関係するものと真理に関係するものを見ます。

結婚愛

85◀︎目次▶︎87

86 創造された主体の中の善と真理が、それぞれの形にしたがっていることは、すべての主体はその形にしたがって流入を受けるからです。全体の維持は、それ自体により創造された形の中への神的善と神的真理の流入以外の他のものではありません、というのは、このように存続または維持は永続する存在または創造であるからです。
すべての主体が流入をその形にしたがって受けていることは、いろいろなものによって説明されることができます。例えば、すべての種類の植物の中への太陽からの熱と光の流入によって。これら植物からのどんなものでも、その流入をその形にしたがって、そのように、すべての木は、それ自体のもの(形)にしたがって、すべての灌木は、それ自体のもの(形)にしたがって、すべての草本とすべての草は、それ自体のもの(形)にしたがって受けています。流入はすべてのものの中で同様です、しかし受け入れることが、形にしたがっているので、どんな種でも、その種を残すようにしています。
さらにまた、この同じことがすべての種類の動物の中へのそれぞれの形にしたがっている流入によって説明されることができます。
流入がそれぞれの形にしたがっていることは、もし笛・管楽器・らっぱ・角笛・バグパイプ〔など〕、いろいろな楽器に注意するなら、〔粗野な〕田舎者にも見られることができます、これらは似た息を吹きかけること(息)から、すなわち、空気の流入から、その形にしたがって音がします。

結婚愛

86◀︎目次▶︎88

87 (2) 孤立した善は存在しない、どこでも結合している
何らかの感覚から、善についての観念を自分自身に得ることを欲する者は、善が見せられ、示される何らかの付加するものなしにその観念を見いだすことができません。これなしに、善は名前だけの何もない存在物です。それは、真理に関係するものによって見せられ、示されます――ただ善だけを、また同時にそれとともに存在するあれやこれやを言ってみなさい、または、それを抽象的に、すなわち密着した何らかの付加するものなしに定義づけてみなさい、するとあなたは、何らかのものでないこと、しかし付加したものとともになら、何らかのものであることを見るでしょう。もしあなたが理性の切っ先を伸ばす(向ける)なら、あなたは、何らかの付加するものなしに善は属性の割り当てが何もないもの、ここから、関係が何もないもの、情愛が何もないもの、状態が何もないもの、一言でいえば、特質が何もないものであることを知覚します――真理も、それが属性(に連結したもの)なしに聞かれるなら同様です。善に関係するその属性(に連結したもの)を、鋭い理性は見ることができます。
[2]しかし、善は無数にあり、どんなものでも、はしごの段階によるかのように、その最大のものへ上昇し、その最小のものへ下降します、そしてまた、それ自体の進行にしたがって、それ自体の性質にしたがって、名前を変えるので、賢明な者以外の他の者が、対象への善と真理の関係を、それらの中のそれらの結合を見ることは困難です。
それでも、以前の節に示されているように(84, 85番)、最初に、全世界のすべてと個々のものは善と真理に関係することが認められる時、真理なしに善は、善なしに真理も存在しないことは、一般的な知覚から明らかです。
[3]孤立した善は存在しない、孤立した真理も存在しないことは、いろいろなものによって説明され、同時に確信されることができます。例えば、これらによって――形なしに本質は存在しない、本質なしに形もないことです。そして、善は本質またはエッセであり、真理はそれによって本質が形成され、そしてエッセ(存在)が存在するようにするものです。
さらに、人間の中に意志と理解力があります。善は意志に属し、そして真理は理解力に属します、そして理解力によってでないなら意志だけでは何も行ないません、理解力だけでも意志からでないなら何らかのものを行ないません。
さらに、人間の中に身体のいのちの二つの源泉、心臓と肺があります。心臓は肺の呼吸なしに、肺も心臓なしに感覚と運動の何らかのいのちを生み出すことができません。心臓は善に、肺の呼吸は真理に関係し、対応も存在します。
[4]心のすべてと個々のものの中に、そして人間のもとの身体のすべてと個々のものの中に同様のものがあります。しかし、さらに進んで確証を生み出すには、ここに〔そのための〕時間がありません。しかし、これらを十分に確証したものが、『神の摂理』の中に見られ、そこに、それらが次の順序で説明されています(3–26番)――

(ⅰ) 全世界はその個々のものとともに、神的愛から神的知恵を通して、すなわち、同じことであるが、神的善から神的真理を通して創造されている。
(ⅱ) 神的善から神的真理は、一つのものとして主から発出している。
(ⅲ) この一つのものは、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にある。
(ⅳ) 善は真理と結合していないかぎり善ではない、また真理は善と結合していないかぎり真理ではない。
(ⅴ) 主は、何かが分割されていることを許されない、それゆえ、人間は善と同時に真理の中にいなくて
ならない、あるいは悪と同時に虚偽の中にいなくてはならない。
ほかに、多くのもの。

結婚愛

87◀︎目次▶︎89

88 (3) 善の真理が存在し、これから真理の善が存在する。すなわち、善からの真理が存在し、そしてその真理からの善が存在する。それらの二つのものに創造から一つのものへの性向が、それら自体を結合させるために植え付けられている
これらについて何らかの明瞭な観念を得ることが必要です、結婚愛の本質的な起源についての知識はここからであるからです。というのは、〔以下に〕続けられるように、善の真理すなわち善からの真理は男性(のもの)であり、真理の善、すなわち、その真理からの善は女性(のもの)であるからです。しかし、このことは、もし善の代わりに愛が、真理の代わりに知恵が言われるなら、さらに明瞭に把握されることができます。それらが、同じ一つのものであることは前に見られます(84番)。
知恵は、賢明になろうとする愛によってでなくては人間のもとに存在するができません。この愛が取り去られるなら、人間はまったく賢明になることができません。この愛からの知恵は、善の真理すなわち善からの真理によって意味されます。しかし、人間が自分自身にその愛から知恵を得る時、それを自分自身の中で愛します、すなわち、そのために自分自身を愛します、その時、愛を形作ります、それは知恵への愛であり、また〔その愛は〕真理への善〔であり〕、すなわち、その真理からの善によって意味されます――
[2]そこで、男のもとに二つの愛があり、それらの一つは、前のものである賢明になる愛、もう一つは、後のものである知恵への愛です。しかし、この愛は、もし男のもとにとどまるなら、有害な愛であり、傲慢すなわち自己知性への愛と言われます。この愛が男から取り出され、彼を滅ぼさないように、妻の中に移され、結婚愛が生じ、それが彼を回復するために創造から備えられたことを続きの中で説明します。
これらの二つの愛について何らかのものが、また後の愛が女の中に移されたことについて、前に見られます(32, 33番と予備的なもの20番)。
それゆえ、もし愛の代わりに善が、知恵の代わりに真理が理解されるなら、その時、言われたことから、今や、善の真理すなわち善からの真理が存在すること、これから真理の善すなわちその真理からの善が存在することが明らかです。

結婚愛

88◀︎目次▶︎90

89 それらの二つのものに、創造から、一つのものへそれ自体を結合させる性向が植え付けられているのは、一方がもう一方から形成されるからです。〔すなわち、一方は〕賢明になる愛からの知恵すなわち善からの真理、そして〔もう一方は〕その知恵からの知恵への愛(知恵に属す愛)すなわちその真理からの真理への善(真理に属す善)です――その形成(形成物)から、それ自体を再結合させるための、またそれ自体を一つのものへ結合させるための相互の性向があることを見ることができます。
しかし、このことは本物の知恵の中にいる男のもとで、また夫の中のその知恵の愛の中にいる妻のもとで、そのように真の結婚愛にいる者に生じます。
しかし、男のもとにあり、妻により愛されなければならない知恵については、続きの中でも言います。

結婚愛

89◀︎目次▶︎91

90 (4) 動物界の主体の中で、善の真理すなわち善からの真理は男性であり、それからの真理の善すなわちその真理からの善は女性である
全世界の創造主と維持主である主から愛と知恵の永続する結合、すなわち、善と真理の結婚が流入すること、また創造された主体がそれらをどんなものでもその形にしたがって受けていることは、前に示されました(84–86番)。けれども、男性は、この結婚から、すなわち、その結合から知恵の真理を受け、愛の善が主により彼に受け入れにしたがって結合されます。この結合が理解力の中で生じ、ここから男性は知的なもの(知性)となるように生まれていることを、理性はそれ自体の光(lumen)から、彼のもとのいろいろなものから、特に、彼の情愛・適用・振る舞い・形から見ることができます。
[2]男性の情愛から――それは知り、理解し、賢明になろうとする情愛です。知ろうとする情愛が少年期に、理解しようとする情愛が青年期と壮年期の最初に、また、賢明になろうとする情愛がこの壮年期から老年期にまであります。それらから、彼の性質または性格が理解力を形成することへ傾いていること、したがって、知的なもの(知性)になるように生まれていることが明らかです。しかし、このことは愛からでないなら生じることができません、それゆえ、主はこれを彼に受け入れにしたがって、すなわち、賢明になることを欲するアニムス(気質、性向)にしたがって結び付けられました。
[3]彼の適用から――それらは理解力のものであるこのようなものに向けてです、すなわちそれらの中で理解力が優位を占めています、それらの大部分のものは公共のもの、また公共社会の中の役立ちに目を向けているものです。
彼の振る舞い(態度)から――それはすべてのものを理解力の優位から得ています。そこから、振る舞いによって意味される彼の生活の活動は、理性的なもの(判断力)であり、もし理性的なものでないなら、〔理性的であると〕見えるように欲します――彼のすべての美徳(長所)の中にもまた男性の推理力が認められます。
彼の形から――女性の形からは異なり、完全に区別されます。それらについて、何らかのものもまた前に見られます(33番)。
これらに、彼の中に生殖力があることが加わります。これは理解力以外の他のところからではありません、というのは、そこにある善からの真理によるからです。生殖力がここからであることは、続きの中に見られます。

結婚愛

90◀︎目次▶︎92

91 けれども、女性は意志(のもの)であるように、しかし、男の知的なものからの意志(のもの)であるように生まれていることが、または同じことですが、男の知恵への愛であるように生まれていることが、その知恵によって形作られたので(そのことについて前の88, 89番参照)、女性の情愛・適用・振る舞い・形からも明らかにすることができます、
女性の情愛からは――それは知識・知性・知恵を、しかしそれでも、自分自身の中のものではなく、男の中のものを、そのように男を愛する情愛です。というのは、男は、それが人間のように見られる形だけから愛されることができないから、しかし彼の中にある能力から〔愛され〕、それが、それが人間であるようにします。
その適用から――これは次のようなものへ向けてです、それらは裁縫・刺繍、また他の名前で呼ばれる手仕事であり、飾ることへ、自分自身を飾るために、また自分の美を高めるために役立つものです――なおまた、家事と呼ばれるいろいろな役立ちに向けられるものがあり、それらは、言われたように、公共のものと呼ばれる男の役立ちに結び付けられます――これらが結婚への性向から、妻となり、このように夫と一つとなるために彼女たちにあります。
それが振る舞いと形からも見られることは、説明なしに明らかです。

結婚愛

91◀︎目次▶︎93

92 (5) 主からの善と真理の結婚の流入から、性愛があり、結婚愛がある
善と真理は創造の普遍的なものであり、ここから創造の主体のすべてのものの中にあること、それぞれの形にしたがってこれらの中にあること、善と真理は二つのものとしてでなく、しかし一つのものとして主から発出することは、前に示されました(84–87番)。これらから、結婚の普遍的なスフェアが主から発出し、全世界に最初のものから最後のものまで、そのように天使から虫にまで行き渡っていることがいえます。
このような善と真理の結婚のスフェアが主から発出しているのは、それは繁殖のスフェア、すなわち、生殖のスフェア、また結実のスフェアでもあるからです。これは世代の継続によって全世界を維持する神的摂理と同じものです。
さて、善と真理の結婚であるその普遍的なスフェアが、それぞれの形にしたがって主体の中に流入しているので(86番)、男性は自分の形にしたがって、そのように理解力の中にそのスフェアを受けることがいえます、男性は知性の形であるからです。女性は自分の形にしたがって、そのように意志の中に、そのスフェアを受けます、女性は男の知性からの意志の形であるからです。そのスフェアは生殖のスフェアと同じものでもあるので、ここから性愛があることがいえます。

結婚愛

92◀︎目次▶︎94

93 さらにまた、ここから結婚愛があるのは、そのスフェアが人間のもとの、そしてまた天使のもとの知恵の形の中へ流入するからです――というのは、人間は世で生涯の終わりまで、またその後、永遠に天界で、知恵を増大することができるからです――知恵が増大すればするほど、それだけ、その形が完成されます。この形は性愛を受けません、しかし〔異〕性からの一つの愛を受けます。というのは、この者と、その中に天界が、その幸福とともにある最内部にまで結合されることができるからです、この結合は結婚愛の結合です。

結婚愛

93◀︎目次▶︎95

94 (6) 性愛は、外なる人すなわち自然的な人のものであり、ここからこれはすべての動物に共通である
すべての人間は、身体的なものに生まれており、内的にまた内的に自然的なものになり、知性を愛するかぎり理性的なものになり、その後、知恵を愛するなら、霊的なものになります。何が知恵か、それによって人間は霊的になりますが、続きの中で言います(130番)。
さて、人間は知識から知性へ、またこれから知恵へ進むように、そのようにその心もまたその形を変えます、というのは、ますます開かれ、そしてさらに密接にそれ自体を天界と、また天界を通して主と結合するからです。ここから真理をさらに愛し、生活の善にさらに献身する者になります。
そこで、もし知恵への進行中に最初の入り口で止まるなら、その心の形は自然的なままで残ります、この心は善と真理の結婚のものである普遍的なスフェアの流入を受けますが、それは獣や鳥と呼ばれる動物界の低い主体が受けるものと異なりません。それらは単に自然的であるので、それらの人間はそれらと同様になり、このように獣や鳥とまったく同様に、〔異〕性を愛します。
そのようにこのことが意味されます――性愛は、外なる人すなわち自然的な人のものであり、ここからそれはすべての動物に共通です。

結婚愛

94◀︎目次▶︎96

95 (7) しかし、結婚愛は、内なる人すなわち霊的な人のものである。ここからこれは人間に固有のものである
結婚愛が、内なる人すなわち霊的な人のものであることは、人間が知的になればなるほど、それだけさらに内的にすなわち霊的になるからです。また、それだけさらにその心の形は完成され、この形は結婚愛を受けます、というのは、この中に霊的な快さを、それは内部で幸福にされ、ここから霊魂・いのち・本質を得ている自然的な快さを、知覚し、感じるからです。

結婚愛

95◀︎目次▶︎97

96 結婚愛が人間に固有のものであることは、人間だけが霊的にされることができるからです、というのは、自分の理解力を自分の自然的な愛の上方へ高揚し、その高さから自分の下方のそれらを見ること、またそれらについて、どんなものであるか判断すること、そしてまた、それらを正し、矯正し、遠ざけることができるからです――このことをどの動物もできません、なぜなら、この愛はその生得の知識に完全に結合しているからです、それゆえ、これは知性へ、まして知恵へ高揚されることができません。そこから、動物は、自分に植え付けられた知識への愛により、盲目な者が犬により街路を通って導かれるように導かれます。これが、結婚愛が人間に固有のものであることの理由です――さらにまた人間に生来のものや固有のものと呼ばれることができます、人間に賢明になる能力が内在し、それとともにこの愛は一つのものとなっているからです。

結婚愛

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97 (8) 宝石がその母岩の中にあるように、人間のもとで、結婚愛は性愛の中にある
しかし、このことは単なるたとえであるので、今から次節で説明します。それによってもまた、性愛は外なる人すなわち自然的な人のものであり、(直前の95番に示されているように)結婚愛は、内なる人すなわち霊的な人のものであることが明らかにされます。

結婚愛

97◀︎目次▶︎99

98 (9) 人間のもとの性愛は結婚愛の起源ではなく、その最初のものである、したがって、外なる自然的なもののようであり、それに内なる霊的なものが植え付けられている
ここに扱われている真の結婚愛は、普通の愛ではありません、これも結婚のものと呼ばれますが、ある者のもとでは制限された性愛でしかありません。けれども、真の結婚愛は、知恵を熱望し、ここからますますそれへ進む者のもとにだけあります。このことを主は予見され、彼らに結婚愛を備えられています。その愛は、確かに、彼らのもとで性愛から、すなわち、むしろ、この愛によって始まります、しかしそれでも、性愛から起るのではありません。というのは、知恵は段階を進み、光の中で示すほど、彼らのもとで起こるから。なぜなら、知恵とその愛は分離できない仲間であるからです。
[2]結婚愛が性愛を通して始まることは、配偶者に出会う前に全般的に〔異〕性が愛され、そして愛らしい目で見られ、それらとともに礼儀正しく、丁寧に扱われるからです。というのは、若者は選択の中にいるからであり、その時、ひとりの者との結婚に向けての生来の性向から、それ〔性向〕は彼の心の聖なる場所の中に隠れていますが、彼の外なるものは優しく暖かいものになるからです。また、結婚への決定はいろいろな理由から壮年期の真ん中まで引き伸ばされ、そしてその間に、その愛の始まりに情欲のように存在します。それはある者のもとで実際に性愛へそれます、しかしそれでも、健全に導かれるかぎり、彼らのもとでその抑制がさらにゆるめられることはありません。
しかし、これらを男性について言いました、男性には実際に刺激する誘惑があるからです、けれども、女性についてではありません。
[3]これらから、性愛は真の結婚愛の起源ではなく、しかし、時間でその最初のものです、けれども、目的で最初のものはないことが明らかです。というのは、最初のものは目的であり、これは第一位のものであるので、心とその意図で最初のものであるから。しかし、この最初のものは、手段を通して継続的にでないなら近づけられません。これ〔手段〕はそれ自体では最初のものではなく、本質的に最初のものへと単に促進させるものです。

結婚愛

98◀︎目次▶︎100

99 (10) 結婚愛が植え付けられている時、性愛は逆転し、貞潔な性愛になる
心の内側にある結婚愛がその起源へやって来る時、その時、性愛が逆転することが言われました。性愛を前でなく、後ろに、すなわちその上方にでなく、下方に、このように、それを通り過ぎたものの中に残ったもののように見るからです。
例えば、だれかが、職務から職務へと、ある卓越した地位へ上がり、その後、通り抜けた自分の後ろを、または自分の下方の職務を――または、ある者が、〔心を〕ある王国の宮殿への旅行へ向け、到着の後、見る方向を、途中で見たものへ逆転させるのと同様になります。
その時、真の結婚愛にいる彼らに性愛は残り、貞潔なものになります、それでも前のものよりもさらに心地よいものであることは、霊界にいる者によるその記述である二つのメモリビリアから見ることができます(4455番)。

結婚愛

99◀︎目次▶︎101

100 (11) 男と女は善と真理の結婚の形そのものであるために創造された
このことは、男は、真理の理解力であるために形の中の真理であるように創造され、女は善の意志であるために形の中の善であるように創造され、そして、両方の者に最内部から一つのものへの結合の性向が植え付けられたからです(前の88番参照)。そのようにふたりは一つの形になっており、それは善と真理の結婚の形に似ています。
これが似ている、と言われるのは、同じものでなく、似たものであるからです。というのは、男のもとで真理と結合する善は、主から直接に存在します、しかし、男のもとの真理と結合する妻の善は、妻を通して主から間接に存在します、それゆえ、一つは内なるもの、もう一つは外なるものである二つの善は、夫のもとの真理と結合し、そして、夫が絶えず真理の理解力の中に、またここから真の結婚愛を通して知恵の中にいるようにするからです――しかし、これらについて多くのものを続きの中で言います。

結婚愛

100◀︎目次▶︎102

101 (12) ふたりの夫婦は、その最内部の中で、またここからそれらから続くものの中で、彼らの心の内的なものが開かれているほど、その形である
 三つのもの、霊魂・心・身体があり、それらからすべての人間が構成され、彼のもとで順に続いています。その最内部のものは霊魂、中間のものは心、最外部のものは身体です。
 主から人間に流入するすべてのものは、彼の霊魂である最内部へ流入し、ここから心である中間のものへ、またこれを通して身体である最外部へ降ります。
 そのように、善と真理の結婚が主から人間のもとに流入します。直接に、彼の霊魂へ、ここから進んで、次のものへ、これを通って最外部へ、このように結合して、結婚愛をつくっています。
 この流入の観念から、配偶者のふたりが自分たちの最内部の中で、ここから、それからその形をつくっていることが続きの中で明らかです。

結婚愛

101◀︎目次▶︎103

102 けれども、配偶者がその心の内的なものが開かれるほど、その形になることは、心が連続的に幼児期からおそい老年期まで開かれるからです。というのは、人間は身体的なものとして生まれ、心が身体の上方の最も近くに開かれるほど、またこの理性的なものが、あたかも感覚から身体の中に流入する欺きから、また肉の誘惑から流入する情欲から清められるかのように、浄化されるほど、理性的になるからです。このように理性が開かれ、このことはひとえに、知恵によって生じます。また、理性的な心の内的なものが開かれるとき、その時、人間は知恵の形になり、これは真の結婚愛の容器です。

 この形をつくり、この愛を受ける知恵は理性的なまた同時に道徳的な知恵です。理性的な知恵は、人間の内部に見られる真理と善に目を向けます、それらは、自分のものでないように、しかし主の影響を受けたものとして見られます。道徳的な知恵は、悪と虚偽を、らい病のように避けます。特に、自分の結婚愛を汚す好色を避けます。

結婚愛

102◀︎目次▶︎104

12 ヨーロッパ界から呼び集められた賢明な者により議論された結婚愛の起源について、また、その力、すなわち、能力について

103 (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
ある朝、太陽の上る前、私は霊界の中の東の方向を眺め、あけぼのの炎で輝く雲から飛び立つような四人の騎手を見た。騎手たちの頭の上に羽毛飾りのついたかぶと、腕の上に翼のようなもの、身体のまわりにオレンジ色の軽いチュニカ(中世騎士のよろいの外衣)が見られた——このように競走者のような衣服で、彼らは立ち上がり、馬のたてがみの手綱を引きしめ、足に翼が生えたかのように走り出た。
私は、彼らの進路または飛行を知りたい心で、どこへ進むか見続けた。見よ、三人の騎手は三方位へ、南・西・北へ分散した、第四の者はしばらくの時間、東に残った。
[2]これらに驚いて、私は天界を見上げ、それらの騎手はどこへ進むのか質問した。答えがもたらされた、「ヨーロッパの国々で、物事を調べる鋭い理性と鋭敏な能力があり、そして自分の国で才能が称賛され、秀でていた賢明な者に近づき、結婚愛の起源について、また、その力すなわち〔性的〕能力について、その秘密を解くためである」。
彼らは天界から言った、「しばらく注意していなさい、あなたは二七台の馬車を見ます、それらのうち三つはスペイン人、それらのうち三つはフランス人すなわちゴール人、それらのうち三つはイタリア人、それらのうちの三つはドイツ人、それらのうち三つはオランダ人すなわちネーデルランドの住民、それらのうち三つはイギリス人、それらのうち三つはスウェーデン人、それらのうち三つはデンマーク人、それらのうち三つはポーランド人〔が乗っています〕」。二時間後、その時、赤茶色の小さい馬にひかれ、派手に飾られた彼らの馬車が見られ、そして〔馬車は〕、東と南の境界に見られた大きな家のまわりへすみやかに向けられ、すべての乗り手は馬車から出て、意気強く入った。
[3]その時、私に言われた、「行きなさい、あなたもまた中へ入りなさい、するとあなたは聞くでしょう」。
私は、行き、入った。家の内部を観察して、正方形であり、側面の断面が四方位へ向けられ、三つのそれぞれの側面の中の高いところに、水晶のガラスから、その側柱がオリーブの木からできていた窓を見た。両側の壁から、側面の側柱から、上部が丸天井造りの部屋ような突起〔があり〕、そこに机〔があった〕。これらの壁は杉から、屋根はみごとなシトロン材から、床はポプラの板から〔できていた〕。
そこに窓が見られなかった東の壁に、金をかぶせた机が置かれ、その上に宝石を散りばめたかぶり物が〔特別な位置に〕置かれていた、それは間もなく提示される秘密を突き止めた者に称賛のしるしまたは賞として与えられる。
[4]そのとき、私は視覚をいろいろな方向へ、窓の近くの部屋のようだった屋根つきの突起へ送った、ヨーロッパのそれぞれの国から、それぞれの部屋の中にいる5人の男たちを見た、その者は、〔これから〕判断を下す秘密の主題を待ち、用意していた。
すぐさま、その時、天使が宮殿の真ん中に立ち、言った、「あなたがたが判断を下す主題は、結婚愛の起源について、また、その力すなわち〔性的〕能力について、です。これを議論し、決定しなさい。そして決定した見解を紙に書き、これを、金の机の近くに置かれているのが見られる銀のつぼの中に入れなさい、またあなたがたの出身地である国の頭文字を下に書きなさい、フランス人すなわちゴール人なら「F」、オランダ人すなわちネーデルランドの住民なら「B」、イタリア人なら「I」、イギリス人なら「A」、ポーランド人なら「P」、ドイツ人なら「 G」、スペイン人なら「H」、デンマーク人なら「D」、スウェーデン人なら「S」です」。
これらが言われて、天使は「戻ります」と言って、去った。
その時、五人の同国人は窓の近くのそれぞれの部屋の中で、その命令を熟考し、吟味し、自分の優秀な判断の才能にしたがって決定し、紙に自国の頭文字とともに書き入れ、銀のつぼの中に入れた。
これらがなし遂げられて三時間後、天使は戻り、つぼから紙を順に引き出し、会衆の前で読んだ。

結婚愛

103◀︎目次▶︎105

104 その時、彼の手が手当たりしだいにつかんだ最初の紙から、これらを読んだ——
 「部屋の中で私たち5人の同国人は、結婚愛の起源は黄金時代の最古代人からであること、彼らのもとでアダムとその妻の創造からであること、結婚の起源は、結婚とともに結婚愛の起源はここからである、と決定した。
 結婚愛の力すなわち〔性的〕能力については、私たちはこれを、気候または太陽の〔豊かな〕地域から、ここからの地上の熱から以外の他のところから引き出さない——このことを私たちは理性の空虚な作り事からではなく、経験の明白なしるしから熟考した。例えば、赤道または赤道帯の下の住民から、その帯の近くの住民から、またそこから遠くに住んでいる住民からである、そこでは日中の熱は燃えるようである。そしてまた、繁殖するときの春の時の地の動物と空の鳥のもとの生命力の熱とともに太陽の熱の協力からである——さらに、結婚愛は、熱でないなら何なのか? それに太陽からの補助の熱が加わるなら、力すなわち〔性的〕能力になるのである」。
 これに文字「H」が書かれていた、それは彼らの出身国の頭文字であった。

結婚愛

104◀︎目次▶︎106

105 この後、二度目に、つぼの中に手を入れ、ここから紙を取り、その紙からこれらを読んだ——
 「一緒に生活する者たちの集会に集まった私たち同国人は、結婚愛の起源は結婚の起源と同じであり、その結婚は、生来の姦淫へ向かう人間の情欲を抑制するために法律により規定されたことで一致した。姦淫は霊魂を滅ぼし、心の理性をよごし、風習を汚し、そして消耗症で身体を衰弱させる。というのは、姦淫は人間のものではなく、野獣のもの、理性のものでなく、獣のものであり、このようにまったくキリスト教のものでなく、野蛮であるから——このような有罪性のために、結婚が起こり、同時に結婚愛の起源がある。
 この愛の力すなわち〔性的〕能力も同様である、これは定まった対象のない淫行からの節制である貞潔にかかっているからである——その理由は、彼らのもとの力すなわち〔性的〕能力は、その者は配偶者だけを愛するひとりの者に保持され、このように集められ、そのように集中され、その時、その能力は汚れから引き離された第5元素のような高貴なものになる、それは、そうでなければ、追い散らされ、あらゆる方向へ投げ捨てられるからである。
  祭司である私たちの間のひとりは、さらにまた、その力すなわち〔性的〕能力の原因として、『結婚は予定ではないのか? この予定とともにここから生殖もあり、これらに予定の効力がある』と言って、予定(説)を加えた——彼はこれを原因として主張した、それを誓ったからである」。
 これらに文字「B」が書かれていた。
 これらを聞いて、ある者は嘲笑的な語調で言った、「予定。ああ、欠陥すなわち無力(性的不能)の何と美しい言い訳なのか」。

結婚愛

105◀︎目次▶︎107

106 すぐに、三度目に、つぼから紙を取り出し、その紙からこれらを読んだ——
 「小部屋の私たち同国人は、結婚愛の起源の原因を熟考し、それらの原因のうち主要なものが結婚の起源と同じものであることを見た、その愛はそれ以前に存在するようにならないからである。〔その愛は〕ある者が処女を求めるかまたは感情のおもむくままに愛するとき、霊魂と心で彼女を所有することを、すべての愛らしいものよりも所有物として欲するとき、存在するようになる。そして彼女が誓約するとすぐに、自分自身のものを眺めるように、彼女を眺める——これが結婚愛の起源であることは、ライバルに対する憤激から、妨害者に対する嫉妬からはっきりと明らかである。
 その後、私たちはその愛の力すなわち〔性的〕能力の起源を熟考し、配偶者の力すなわち〔性的〕能力は、性についてのある種の許し(放縦)からであることが、3対2でまさった。経験から、性愛の〔性的〕能力が結婚愛の〔性的〕能力にまさることを知っている、と彼らは言った」。
 これらに文字「I」が書かれていた。
 これらを聞いて、机〔=にいた者〕から叫んだ、「この紙を取り除け、つぼから他のものを引き出せ」。

結婚愛

106◀︎目次▶︎108

107 すぐに、四度目〔の紙を〕を引き出した——
 「窓の下の私たち同国人は、性愛と結婚愛の起源は同じである、前者から後者があるからである、と決定した。ただ、性愛は、制限のない、不確定な、放埓な、見境のない、定まった対象がないものである、しかし、結婚愛は、制限され、限定され、束縛を受け、確定した、不変なものである。また、それゆえ、この愛は人間の知恵の思慮分別により、規定され、確定されており、そうでなければ、帝国・王国・共和国も、それどころか社会もなく、人間は群れまた群れのように、娼婦や強奪された女とともに野と森の中をさまよい、そして場所から場所へと、残酷な殺害・強姦・略奪を避けて、逃げ、それらによって全人類は絶滅へ向かったであろうからである——これが結婚愛について、私たちの判断である。
 しかし、結婚愛の力すなわち〔性的〕能力を、私たちは、出生から老年まで絶えず続いている身体の健康から導き出す。というのは、絶えず無事で、安定して健康であることのできる人間は、活力で衰えないから。その繊維・神経・筋肉・挙睾筋は、不活発にならず、弛緩されず、衰えない、しかしその力の強ささの中にとどまる——さらば」。
 これらに文字「A」が書かれていた。

結婚愛

107◀︎目次▶︎109

108 五度目に、つぼから紙を引き出し、その紙からこれらを読んだ。
 「私たちの机の私たち同国人は、私たちの推理力を集中させて、私たちは結婚愛の起源を、そしてその力すなわち〔性的〕能力の起源を調べた。結婚愛の起源を、推論で見回すことから、私たちは、すべての人間は、彼の心と身体の隠された聖なる場所の中の喚起させるものとそこからの刺激から、彼の目のいろいろな情欲の後、最後に、女性からのひとりに心を向け、彼女に深く熱くなるまで傾けること以外の他のものでないことを見、確信した——この時から、彼の熱は炎から炎の中へ出て、火事にまでなる。この状態の中で、性の情欲は追放され、情欲の代わりに結婚愛が生じる。この火事の中の若者の花婿は、彼の愛の力すなわち〔性的〕能力が決して終わらないとしか知っていない、というのは、力の欠如の状態について、またその時、歓喜の後の愛の冷えることを経験やここからの知識が欠けているから。そこで、結婚愛の起源は結婚式前のその最初の熱望からであり、このことからその力すなわち〔性的〕能力がある——しかし、これらは結婚式後、その外見を変え、そして、減少し、また増える、しかしそれでも、思慮分別からの節制によって、まだ清められていない心の洞窟から突発する情欲の抑制によって確定した交替とともにすなわち減少と増加とともに老年まで続く。というのは、情欲は知恵に先立つから——これが、結婚の力すなわち〔性的〕能力の起源と持続性についての私たちの判断である」。
 これに文字「P」が書かれていた。

結婚愛

108◀︎目次▶︎110

109 六番目に紙を引き出し、その紙からこれらを読んだ——
 「私たちの仲間からの私たち同国人は、結婚愛の起源の原因を見回し、私たちは二つのことで一致した、それらの一つは子どもの正しい教育、もう一つは相続の明確な所有である。私たちがこれら二つの原因を取り上げたのは、公共の善である一つの目標へねらいを定め、目を向けるからである。このことは、結婚愛からみごもり、生まれた幼児が、それ自身の固有のものになるからであり、これらのものは適法の家系からであることによって高められた親心(ストルゲー)の愛から、霊的にも自然的にも、自分の両親のすべての所有物の相続人として教育されることによって、なし遂げられる——子どもの正しい教育の上に、また相続の明確な所有の上に、公共の善が基礎づけられることは、理性で見られる。
 性愛があり、結婚愛がある——結婚愛が性愛と一つのように見える、しかし明瞭に別のものである。一方はもう一方の近くにはなく、一方はもう一方の内にある。内にあるものは、外にあるものよりも高貴である。私たちは、結婚愛が創造から内部にあり、性愛の中に、まったく殻の中の内部に、アーモンドの実のようにたくわえられているのを見た。それゆえ、結婚愛が性愛であるその殻から解かれるとき、それは天使の前に、宝石・緑柱石(ベリル)・月長石(ムーンストーン)のように輝く。このことが生じるのは、結婚愛に、私たちにより公共の善によって意味される全人類の安全が刻み込まれているからである——これが、この愛の起源についての私たちの判断である。
 けれども、私たちは、その力すなわち〔性的〕能力の起源を、いろいろな原因から、性愛からの結婚愛の隔離と分離である、と結論する、それは男からの知恵によって、また妻から男の知恵への愛によって生じる——というのは、性愛は、獣と共通である、しかし、結婚愛は人間に特有のものであるから。それゆえ、結婚愛が性愛から隔離され、分離されればされるほど、それだけ、人間は人間であり、獣ではなくなる。人間は自分自身の愛から力をすなわち〔性的〕能力を得る、獣はそれ自身のものから得る」。
 これらに文字「G」が書かれていた。

結婚愛

109◀︎目次▶︎111

110 七度目に、紙を引き出し、その紙からこれらを読んだ——
 「部屋で、窓の光の下で、私たち同国人は、結婚愛についての熟考から、思考とここから私たちの判断を喜んだ。
 だれがそれから喜ばないか? というのは、その愛が心の中にある時、同時に身体全体の中にあるから。
 私たちは、その愛の起源をその快さから判断する。だれが、これまでに、愛のその歩みを、その快さと心地よさからでないなら、知っているか、または知ったか?
 結婚愛の快感は、その起源の中で、至福・幸せ・幸福として、そして、派生物の中で、楽しさと快楽として、最終的なものの中で歓喜の中の歓喜として感じられる。
 そこで、性愛の起源が、心の内部に、またここから身体の内部に、その快感の流入に対して開かれる時にある。しかし、結婚愛の起源は、その愛の初期のスフェアが、婚約の始まりによって、観念的にその婚約を進めた時にある。
 その愛の力すなわち〔性的〕能力については、それは、その流れとともに、心から身体の中へ、愛のその移動する能力からである。というのは、心は感じ、活動し、特に、この愛から楽しむ時、頭から身体の中にあるから。私たちは、ここから〔性的〕能力の段階とその交替して存在する恒久性を判断する。
 なおまた、〔性的〕能力の美徳もまた、私たちは家系から導き出す。もしそれが父のもとで高貴なものであるなら、接ぎ木を通して、子孫のもとでもまた高貴になる。その高貴さが接ぎ木を通して生まれ、受け継がれ、伝わることは、経験とともに理性が支持する」。
 これらに文字「F」が書かれていた。

結婚愛

110◀︎目次▶︎112

111 代わって、八度目に、紙を引き出し、その紙からこれらを読んだ——
 「会合の中で私たち同国人は、結婚愛の起源そのものを見つけなかった、それは心の内部で蓄えられた聖具室の中に隠れているからである。最も完成された知恵ですら、決して、何らかの理解力の眼力で、その愛をその起源の中で触れることができない。私たちは多くのものを推量した、しかし微妙なものを虚しく議論した後、私たちはたわごとか、あるいは判断力で推量したかどうか、私たちにわからなかった。それゆえ、それらの愛の起源を心の聖具室から引き出すこと、また、自分自身に視野の中に与えることを欲する者は、デルポイへ行くとよい。
 私たちはその愛をその起源の下方で熟視した、それは心の中で霊的なものであり、そこでは心地よい水流の泉のようであり、それから胸の中に流れ下り、そこで快さが生じ、胸の愛と呼ばれ、それは本質的に眺められて、相互のものへの傾向に満ちたものから、友情にまた信頼に満ちている。また、それは胸を通り抜ける時、生殖の愛になる——これや同様のものを、若者が自分の思考で思い巡らすとき、それは異性からのひとりを自分自身に選ぶとき生じるが、心(心臓)の中に結婚愛の火をつけ、その火が、その愛の発端であるので、その起源である。 
 力すなわち〔性的〕能力の起源は、私たちは、その愛そのもの以外の他のものを認めない、というのは、分離できない仲間であるから、しかしそれでも、時には一方が先行し、時にはもう一方が先行するようなものである。愛が先行し、そして力すなわち〔性的〕能力がそれに従う時、両方のものは高貴である、〔性的〕能力はその時、結婚愛の力であるからである。しかし、もし〔性的〕能力が先行し、愛が従うなら、その時、両方のものは下劣である、愛はその時、肉欲の〔性的〕能力のものであるからである。そこで、私たちは、愛が下降するかまたは上昇する、このようにその起源から心の中に進む順序から、両方のものの特質を判断する」。
 これらに文字「D」が書かれていた。

結婚愛

111◀︎目次▶︎113

112 最後に、すなわち、九度目に、紙を引き出し、その紙からこれらを読んだ——
「会合から私たち同国人は、判断を三つに向けて、主題の事柄から結婚愛の起源に向けて、またその力すなわち〔性的〕能力の起源に向けて適用した。
私たちは、結婚愛の起源について微妙なことを議論したとき、推論の中での陰(暗さ)を避けるために、性愛を、霊的なもの・自然的なもの・肉欲のものに区別した。霊的な性愛によって、私たちは真の結婚愛を意味する、これが霊的であるからである。自然的な性愛によって、私たちは一夫多妻の愛を意味する、これが自然的であるからである。単なる肉欲の性愛によって、私たちは淫行の愛を意味する、これが単に肉欲のものであるからである。
私たちが、私たちの判断力で結婚愛を注意深く調べたとき、私たちは、この愛がひとりの男とひとりの女の間にだけ存在すること、また創造から、天界的なもの、最内部のものであること、そしてすべての善の愛の霊魂であり、父であり、最初の両親に吹き込まれ、キリスト教徒に吹き込むことができるものであること認めた。そのようにまた結合へ向かうものである、それによって二つの心が一つの心に、そしてふたりの人間がひとりの人間になることができるように、そのことが一つの肉になることによって意味される。
その愛が創造から吹きかけられていることは、「創造の書」の中のこれらから明らかである——

男は父と母を捨て、自分の妻と結びつき、一つの肉にならなければならない(創世記2:24)。

キリスト教徒に吹き込まれることができるものであることは、これらから明らかである——

イエスは言われた、「あなたがたは読まなかったのか? 最初からつくったその方は、人を男と女につくられた。また、言われた、『さらに、人は父と母を見捨て、自分の妻と結びつき、ふたりは一つの肉にならなければならない』。それゆえ、もはや、ふたりではなく、ひとつの肉です」(マタイ19:4–6)。

これらが、結婚愛の起源についてである。
けれども、真の結婚愛の力すなわち〔性的〕能力の起源を、私たちは、心の似ていることから、一致から生じると推測する。というのは、二つの心が結婚にふさわしく結合されるとき、彼らの思いは、その時、霊的に互いに相互にキスをし、これらの思いが身体にその力すなわち〔性的〕能力を息を吹き込むから」。
これらに文字「S」が書かれていた。

結婚愛

112◀︎目次▶︎114

113 宮殿の中の(両開きの)扉の前、直立させた長方形の板の後ろに、よそ者のアフリカ人たちが立っていた、その者はヨーロッパ生まれの者たちに叫んだ、「私たちのある者からもまた、結婚愛の起源について、そしてその力すなわち〔性的〕能力について見解を言明するよう許せ」。
 机〔の脇〕のすべての者は、許されることを、手で同意した。
 その時、彼らからのひとりが入り、その上にかぶり物が置かれていた机〔の脇〕に立った。
 この者は言った、「あなたがた、キリスト教徒たちは、結婚愛の起源を愛そのものから導いている。けれども、私たちアフリカ人たちは、それを天地の神から導く。
 結婚愛は、貞潔な愛・純粋な愛・聖なる愛ではないのか? 天界の天使はその中にいないか? 全人類は、またここから天使の全天界は、その愛の子孫ではないのか? このような卓越した者が、全世界の創造者また維持者である神ご自身から以外の、他のところから存在することができるのか?
 あなたがた、キリスト教徒たちは、結婚の力すなわち〔性的〕能力を理性的なまた自然的ないろいろな原因から導いている。けれども、私たちアフリカ人は、それを全世界の神との人間の結合の状態から導いている。この状態を、私たちは宗教の状態と呼ぶ、けれども、あなたがたは教会の状態と呼ぶ。なぜなら、愛がここからであるとき、これは不動のまた永続するものであり、それは、その力を、そのようにまた不動のまた永続するものと同様のものとしてしか働くことができないからである。
 真の結婚愛は、神に近くにいるわずかな者でないなら、よく知られていない——ここから、その愛の〔性的〕能力も他の者によく知られていない——この能力はその愛とともに、天界の中の天使たちにより〝永続する春の歓喜〟として描かれている」。

結婚愛

113◀︎目次▶︎115

114 これらが言われて、すべての者は立ち上がった、見よ、金の机の後ろに、その上にかぶり物があった、前に見られなかった窓が生じ、それを通して声が聞かれた、「かぶり物はアフリカ人のものになる」。
 天使により彼に頭の上ではなく手に与えられた、彼はそのかぶり物とともに家へ去った。
 ヨーロッパの国々の住民たちは出て行き、馬車に入った、それらで自分のもとへ戻った。

結婚愛

114◀︎目次▶︎116

13 天界から地上へ送られた紙について、それには「善と真理の結婚」と書かれていた

115 (第二のメモラビリア——)
真夜中に、眠りから目覚めて、私は東の方向のある程度の高さに、右手に紙を持っている天使を見た、その紙は太陽から流れ入る光から照らされた輝きの中に見られ、その真ん中に金の文字で書かれていた。私は善と真理の結婚と書かれたものを見た——書かれたものから輝きが、紙のまわりに、広い輪の中に輝き出た。その輪、すなわち、縁は、ここから春の時のあけぼののように見られた。
この後、私は天使が紙を手にして降ってくるのを見た。降るほど、紙は輝きが少なくまた少なく見え、その善と真理の結婚と書かれたものは、金色から銀色へ、その後、銅色へ、続いて、鉄色へ、最後に、鉄さび色と銅さび色へ変った。そして最後に、天使が暗い雲の中へ入り、雲を通って地の上に見られた。そこでは、その紙は天使の手の中にあったけれども、見えなかった。
このことは、すべての人間が、死後、最初に集まる霊たちの世界で起こった。
[2]その時、天使は私に語って、「ここにやって来る者に、私を、あるいは、私の手の中に何を見るか質問しなさい」と言った。
群衆がやって来た、東からの集団、南からの集団、西からの集団、北からの集団であった。私は、世で学問に専念した者であった東と南から来る者たちに、ここに、私のもとにいる者を、また彼の手の中に何らかのものを見るか質問した。すべての者は、「まったく何も見ない」と言った。
その後、私は、世で学者の言葉を信じた者であった西と北から近づいた者に質問した——これらの者は、「何も見ない」と言った。しかしそれでも、最後に世で仁愛からの仁愛からの単純な信仰の中にいた、すなわち、善からの何らかの真理の中にいた者が、前の者が去った後に、「紙とともに男を、美しい服の男を、その紙の上に文字が書かれているのを見る」と言った。また、目を近づけたとき、「善と真理の結婚と読める」と言った。これらの者は天使に、これが何なのか言うよう懇願して、話しかけた。
[3]すると天使は、全天界の中にあるすべてのものは、全世界の中にあるすべてのものは、善と真理の結婚によらないなら存在しない、すべてと個々のものは、生きていて呼吸するものも、生きていないで呼吸しないものも、善と真理の結婚から、その中に創造されているからである、と言った——「被造物は、真理だけの中には何も存在しません、善だけの中にも何も存在しません。孤立した真理と善は何らかのものではありません、しかし結婚によって、このような何らかのものが存在し、結婚のようなものが生じます。
創造主である主の中に、神的善と神的真理がその実体そのものの中に存在します。エッセ(存在)の実体そのものは神的善であり、エキシステレ(実在)の実体そのものは神的真理です。そしてまた、結合そのものの中にあります、なぜなら、その方の中で無限に一つのものとなっているからです。それら二つは創造主ご自身の中で一つであり、それゆえ、その方により創造されたすべての個々のものの中でもまた一つであるからです。そのことによってもまた、創造主はご自分により創造されたすべてのものと、永遠の契約で、結婚のように、結合されています」。
[4]さらに天使は、「主から直接に発出した聖書は、全般的にまた部分的に善と真理の結婚です——教会は教えの真理によって形作られ、宗教は教えの真理にしたがった生活の善によって形作られているので、キリスト教徒のもとで、教会は全般的にまた部分的に善と真理の結婚であることを、もっぱら聖書から明らかにすることができます」と言った(そのようであることは、『啓示された黙示録』373、483番参照)。
このことと同じことが、それは前に言われた善と真理の結婚についてであり、仁愛と信仰の結婚についても言われる、善は仁愛のもの、真理は信仰のものであるからである。
天使と書かれたものを見なかった前の者からのある者が、依然としてそばに立っていて、それらを聞いて、半開きの口で、「実に、そのとおり、それらを私たちは把握する」と言った。
しかしその時、天使は彼らに、「あなたがたは、私から少し離れなさい、そして同様に言いなさい」と言った。
離れて、十分に開けた口で、「そのようではない」と言った。
[5]この後、天使は夫婦のもとの善と真理の結婚について話した。もし彼らの心がその結婚の中にあったなら、夫が真理であり、妻がこの善である両者は無垢の至福の歓喜の中に、ここから幸福の中にいたであろう、その中に天界の天使たちはいる。その状態の中で、夫の生殖力は絶えず春の中に、ここから、自分の真理を増殖させる努力と力の中に、また妻は愛からその永続する受け入れの中にいたであろう、と言った。「主から男のもとにある知恵は、自分の真理を繁殖させる以上に何も快活に感じません。ここから妻のもとにある知恵への愛は、それを子宮に受け入れ、このようにみごもり、(子宮へ)運ぶこと、産むこと以上に何も楽しさを感じません。天界の天使のもとの霊的な生殖はこのようなものです。もしあなたがたが信じることを欲するなら、自然的な生殖もまたその起源からです」。
天使は、平和(平安あれ)の挨拶の後、地から上がり、雲を越えて運ばれ、天界へ上った。その時、紙は上がる段階にしたがって、前のように輝いた。見よ、その時、前にあけぼののように現われた輪が降りてきて、地に暗やみをひき起こした雲を追い散らし、日照が生じた。

結婚愛

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(五)主と教会の結婚について、その対応について

116 主と教会の結婚について、その対応について、ここでもまた扱うのは、それについての知識と理解力なしに、結婚愛がその起源の中で、聖なるもの・霊的なもの・天的なものであること、主からであることを、ほとんどだれも知ることができないからです。
確かに、教会の中で、ある者により、結婚は教会との主の結婚に関係することが言われています、しかしその関係がどのようなものか、知られていません。そこで、これが何らかの理解力の光の中で見られ、示されるために、例えば、聖なるその結婚について、主の教会である者のもとに、その者の中にあることが、詳細に扱われることが必要です。これらの者に、そしてまた他の者にでなく、結婚愛が存在します。
しかし、この秘義をわかりやすくするために、このことを次の項目に分けることにします――

(1) 主はみことばの中で「花婿」や「夫」、教会は「花嫁」や「妻」と言われ、教会との主の結合、主との教会の相互の結合は「結婚」と言われる。
(2) なおまた、主は「父」、教会は「母」と言われる。
(3) 「夫」や「父」としての主からの、また「妻」や「母」としての教会からの子孫は、すべての霊的なものであり、みことばの霊的な意味で、息子や娘・兄弟や姉妹・婿や嫁、また一族に属す他の名前によって呼ばれるものである。
(4) 教会との主の結婚から生まれる霊的な子孫は、真理であり、それらから理解力・知覚・すべての思考がある、また善であり、それらから愛・仁愛・すべての情愛がある。
(5) 主から発出し、流入する善と真理の結婚から、人間は真理を受け、主はこれを善に結合される。こうして教会は主により人間のもとで形作られる。
(6) 夫は主を、妻は教会を表象しない、夫と妻の両者が一緒に教会をつくるからである。
(7) それゆえ、天界の天使と地上の人間の結婚の中に、主との夫の対応、教会との妻の対応はない。
(8) しかし、結婚愛・受精・生殖・幼児への愛との対応、また結婚とそれらから存在するものの中の類似のものとの対応がある。
(9) みことばは、主からであり、こうして主であるので、結合の手段である。
(10) 教会は、主からであり、その方に近づき、その方の戒めにしたがって生きる者のもとにある。
(11) 結婚愛は、人間のもとの知恵の状態にしたがっているので、教会の状態にしたがっている。
(12) また、教会は主からであるので、結婚愛もその方からである。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

116◀︎目次▶︎118

117 (1) 主はみことばの中で「花婿」や「夫」、教会は「花嫁」や「妻」と言われ、教会との主の結合、主との教会の相互の結合は「結婚」と言われる
みことばの中で、主が花婿や夫、また教会が花嫁や妻と言われていることは、これらの箇所から明らかにすることができます――

花嫁を持つ者は花婿です。けれども、花婿の声のために、その方を聞いて、立ち上がり、うれしさでうれしがるのは花嫁の友人です(ヨハネ3:29)。

これらをバプテスマのヨハネが主について言いました。

イエスは言われた、「花婿がいる間は、結婚式の息子たちは断食することができません。彼らから花婿が取り去られる日がやって来ます、その時、彼らは断食します」(マタイ9:15, マルコ2:19, 20, ルカ5:34, 35)。
私は……夫のために飾られた花嫁のように準備された聖なる都、新しいエルサレムを見た(黙示録21:2)。

「新しいエルサレム」によって主の「新しい教会」が意味されることが『啓示された黙示録』に見られます(880, 881番)。

天使はヨハネに言った、「来なさい。私はあなたに花嫁を、小羊の妻を見せます」。また、彼に「聖なる都エルサレム」を見せた(黙示録21:9, 10)。
小羊の婚姻の時が来て、その妻は用意した……小羊の婚姻の正餐に呼ばれた者は幸いだ(黙示録19:7, 9)。

花嫁に出会うために五人の準備した娘がやって来て、その方とともに結婚式に入りました(マタイ25:1–10)、その「花婿」によって主が意味され、そのことは第13節から明らかであり、そこに言われています、

それゆえ、目覚めていなさい、あなたがたは、人の子がやって来る日を、その時間も知らないからです。

さらに、「預言者」の多くの箇所に。

結婚愛

117◀︎目次▶︎119

118 (2) なおまた、主は「父」、教会は「母」と言われる
主が「父」と呼ばれていることは、これらの箇所から明らかです――

少年が私たちに生まれ、子が私たちに与えられた。その方の名前は、不思議な者、助言者、神……永遠の父、平和の君と呼ばれる(イザヤ9:6)。
エホバ、あなたは私たちの父、あなたの名前は永遠からのあがない主です(イザヤ63:16)。
イエスは言われた、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方」父を「見ます」(ヨハネ12:45)。
もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父もまた知っていました。今では、あなたがたは、その方を知り、その方を見ました(ヨハネ14・7)。
ピリポは……言った、「私たちに父を見せてください」。……イエスは彼に言われた、「……わたしを見た者は父を見ました。それゆえ、どうして、あなたは、私たちに父を見せてください、と言うのですか?」(ヨハネ14:8, 9)。
イエスは言われた、「父とわたしは一つです」(ヨハネ10:30)。
父が持っているどんなものでも、すべてのものは、わたしのものです(ヨハネ16:15, 17:10)。
父はわたしの中に、わたしは父の中にいます(ヨハネ10:38, 14:10, 11, 20)。

主とその方の父が、霊魂と身体が一つであるように一つであること、父なる神が人間をあがない、救うために人間性をまとったこと、また世に遣わされ、天界から下ったその方の人間性が「子」と呼ばれたことは、『啓示された黙示録』の中に十分に示されています。

結婚愛

118◀︎目次▶︎120

119 教会が「母」と呼ばれていることは、これらの箇所から明らかです――

エホバは言われた、「あなたがたの母と争え。彼女はわたしの妻ではない、わたしはその夫ではない」(ホセア2:2, 5)。
あなたは、自分の夫を嫌っている母の娘(エゼキエル16:45)。
あなたがたの母の離縁状はどこにあるのか? 彼女をあなたがたが離縁した(イザヤ50:1)。
あなたの母は……水の近くに植えられた実りのよいブドウの木のようだった(エゼキエル19:10)。

. これらはユダヤ教会についてです。

イエスは自分の手を弟子たちへ向けて伸ばして、言われた、「わたしの母とわたしの兄弟は……神のことばを聞いて、それを行なう者です」(ルカ8:21, マタイ12:48, 49〔, 50〕, マルコ3:33–35)。

「主の弟子たち」によって教会が意味されています。

イエスの十字架のもとに、その方の母が立った……母と彼女の傍らにいる弟子を見ているイエスは、自分の母に言われた、「女よ、見よ、あなたの息子」。また弟子に言われた、「見よ、あなたの母」。それゆえ、その時から弟子は彼女を自分自身のものとして受け入れた(ヨハネ19:25–27)。

このことによって、主がマリアを「母」として認めず、〔母が〕「教会」であることが意味されます。それゆえ、彼女を女、弟子の母と呼ばれました。〔彼女が〕この弟子の母、すなわち、ヨハネの母〔と呼ばれたのは〕、彼が仁愛の善に関する教会を表象したからです。これら〔仁愛の善〕は、教会の結果そのものです――それゆえ、彼は彼女を自分自身のものとして受け入れたことが言われます。
『啓示された黙示録』の中に、ペテロが真理と信仰を、ヤコブが仁愛を、ヨハネが仁愛の働きを表象したこと(5, 6, 790, 798, 879番)、また十二の弟子たちが一緒に、教会をそのすべてのものに関して、表象したこと(233, 790, 903, 915番)が見られます。

結婚愛

119◀︎目次▶︎121

120 (3) 「夫」や「父」としての主からの、また「妻」や「母」としての教会からの子孫は、すべての霊的なものであり、みことばの霊的な意味で、息子や娘・兄弟や姉妹・婿や嫁、また一族に属す他の名前によって呼ばれるものである
主から教会によって他の子孫が生まれないことは論証を必要としません、論証なしに理性によってそのことが見られるからです。というのは、主は、すべての善と真理が発出するもとであり、教会は、それらを受け入れ、結果の中へ送り出し、天界と教会のすべての霊的なものは善と真理に関係しているからです――ここから、みことばの中で「息子と娘」によって、その霊的な意味で善と真理が、「息子」によって霊的な人の中にみごもって、自然的な人の中に生まれた真理が、そして「娘」によって同様に善が意味されます。それゆえ、主により再生される者は、みことばの中で「神の息子」、「王国の息子」、「その方により生まれた者」と呼ばれ、主の弟子たちは、「息子たち」と呼ばれました――女が産み、神へ取り上げられた「男の子」(黙示録12:5)によっても、他のものは意味されません(『啓示された黙示録』543番参照)。
「娘」によって教会の善が意味されるので、それゆえ、みことばの中でしばしば「シオンの娘」・「エルサレムの娘」・「イスラエルの娘」・「ユダの娘」の名前が挙げられており、それらによって何らかの娘ではなく、教会のものである善の情愛が意味されます(『啓示された黙示録』612番参照)。
主もご自分の教会の者を「兄弟と姉妹」と呼ばれました(マタイ12:49, 25:40, 28:10, マルコ3:35, ルカ8:21)。

結婚愛

120◀︎目次▶︎122

121 (4) 教会との主の結婚から生まれる霊的な子孫は、真理であり、それらから理解力・知覚・すべての思考がある、また善であり、それらから愛・仁愛・すべての情愛がある
 真理と善が霊的な子孫であることは、それらは主から教会によって生まれ、主が善そのものと真理そのものであられるからです、これらはその方の中で二つではなく一つです。なおまた主から、その方の中のものであり、その方であるもの以外の何らかのものは発出することができないからです。
 善と真理の結婚が主から発出し、人間のもとに流入し、そして教会からの者の心といのち(生活)の状態にしたがって受け入られることは、「善と真理の結婚」についての先行する章に示されています。
 真理によって、人間に理解力・知覚・すべての思考があり、善によって、愛・仁愛・すべての情愛があることは、人間のすべてのものは真理と善に関係しているからです。二つのものが人間の中にあり、それらは意志と理解力をつくっています、そして意志は善の容器であり、理解力は真理の容器です――意志に特有なものは愛・仁愛・情愛であり、理解力に特有なものは知覚と思考であることは、論証からの光を必要としません、この光が理解力自体に内在し、言明するからです。

結婚愛

121◀︎目次▶︎123

122 (5) 主から発出し、流入する善と真理の結婚から、人間は真理を受け、主はこれを善に結合される。こうして教会は主により人間のもとで形作られる
 人間が一つものとして主から発出している善と真理から、真理を受け、これを自分のものとして受けます、自分自身のものとして自分のものにするからです、なぜなら、それ〔真理〕を自分自身から〔得たものの〕ように考え、同様にそれ〔真理〕から話すからです。これは、真理が理解力の光の中にあり、ここからそれを見ることから生じます。自分自身の中に、すなわち、自分の心の中に、見るどんなものでも、どこからであるか知りません、というのは、〔その〕流入を、目の視覚の中に落ち込むように見ないからです、ここから、自分自身の中にあると思ってしまいます。
 そのように見られることは主から、人間に、人間であるために、そして彼に結合の交互のものがあるために与えられています。
 加えて、人間は知り、理解し、賢明になる能力に生まれています、これらの能力が真理を受け、それらによって、彼に知識・知性・知恵があります――女性は男性の真理によって創造され、彼への愛として形作られているので、結婚後、女性もますます自分自身の中に夫の真理を受け、それを自分の善と結合させることがいえます。

結婚愛

122◀︎目次▶︎124

123 人間の受ける真理に、主が善を接合させ、結合させることは、人間が善を自分自身からのように得ることができないから、というのは、彼の前に目に見えないからです。その理由は、光ではなく、熱に属すものであり、熱は感じられますが、見られないからです――それゆえ、人間が思考の中で真理を見るとき、意志の愛から思考の中に流入し、それにいのちを与える善について熟考するのはまれです。
 妻も自分自身のもとで善について熟考しません、しかし、自分自身に対する夫の好みについて熟考します、それは知恵への彼の理解力の上昇にしたがっています。主から彼女のもとにある善を、妻は、夫がその適用について何らかのものを知っていることとは別に適用させます。
 そこで、これらから、人間は主から真理を受けること、また主がその真理に善を、役立ちのために真理の適用にしたがって、そのように、人間が賢明に考え、ここから賢明に生きることを欲するほど接合する、という真理が明らかです。

結婚愛

123◀︎目次▶︎125

124 このように教会が人間のともに主により形作られるのは、その時、主からの善の中に、また自分自身からのように真理の中に、主との結合があるからです。そのように、「ヨハネ福音書」(15:4, 5)の、その方のことばにしたがって、人間は主の中に、主は彼の中におられます。
善の代わりに仁愛が、また真理の代わりに信仰が言われても同様です、善は仁愛に属し、真理は信仰に属すからです。

結婚愛

124◀︎目次▶︎126

125 (6) 夫は主を、妻は教会を表象しない、夫と妻の両者が一緒に教会をつくるからである
教会の中では一般的に、主が教会の頭であるように、そのように夫は妻の頭である、と言われています。そこから、夫は主を、妻は教会を表象することがいえます。しかし、主は教会の頭であり、男と女の人間が教会であり、さらにまたそれでも夫と妻が一緒に〔教会です〕。これらの者のもとに教会は最初に男に、男を通して妻の中に植え付けられます、男がその真理を理解力に受け、妻が男から受けるからです。しかし、もし逆なら、秩序にしたがっていません――それでも時々、このことが生じます、しかし〔そのことは〕知恵を愛していない男たちのもとに、ここから教会に属してもいない者のもとに生じます、そのようにまた、奴隷のように、自分の妻たちの思いのままにぶら下がっている者のもとに生じます。
これらの事柄について、何らかのものが「序文」の中に見られます(21番)。

結婚愛

125◀︎目次▶︎127

126 (7) それゆえ、天界の天使と地上の人間の結婚の中に、主との夫の対応、教会との妻の対応はない
これらは今言われたことからいえます――それでもこれらに、真理が教会の第一位のものであるように見えることを付言しなければなりません、その最初の時に存在するからです。教会の高位聖職者たちが善のものである仁愛よりも真理のものである信仰にシュロの枝を与えたのは、この外観からです。同様に、学者たちは意志に属す情愛よりも理解力に属す思考に〔シュロの枝(勝利)を与えました〕。そのために、何が仁愛の善が、何が意志の情愛であるか、土まんじゅう(墓)かのようにその中に隠されて横たわります、そしてまたある者たちにより、死んだ者がよみがえらないように、これらに、土が投げかけられました。それでも、信仰の善が教会の第一位のものであることは、開かれた目で自分の理解力の中で天界からの道を閉ざさなかった者から見られることができます、それ〔が閉ざされること〕は、〝信仰だけが教会をつくる、思考だけが人間をつくる〟という確信によってです。
さて、仁愛の善は主からであり、信仰の真理がそれらからのように人間のもとにあるので、これら二つのものが人間のもとに主の結合、主との人間の結合のようなものをつくります、それは、主のことば、「 その方は彼らの中に、また彼らはその方の中にいる」(ヨハネ15:4, 5)によって意味されるような結合であり、これが教会であることが明らかです。

結婚愛

126◀︎目次▶︎128

127 (8) しかし、結婚愛・受精・生殖・幼児への愛との対応、また結婚とそれらから存在するものの中の類似のものとの対応がある
 しかし、これらは、理解力が何らかの光とともに入ることができるような「対応」についての知識が先行しないなら、さらなる秘義です。その知識が明かされて理解力に内在しないなら、この章にあるそれらは、どれほど説明されてもむだであり、把握されません――けれども、何が対応であるか、また霊的なものと自然的なものとに対応があることは、『啓示された黙示録』の中に、そしてまた『天界の秘義』の中に、また特に、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に大いに示されています、また、続きの中で、詳細に、それらについてのメモラビリアの中で示します〔326番以降〕。
 それらについての知識が吸収される前に、陰の中にある理解力の前に、これらわずかなものだけが言われます――結婚愛は本物の真理への情愛に、その貞潔に、純粋さと神聖さに対応します。受精は真理の力に対応します――生殖は真理の伝播に対応します。幼児への愛は真理と善の保護に対応します。
 さて、人間のもとの真理は彼のものであるように見え、そして善が主によりそれに接合されるので、それらの対応は霊的な人すなわち内なる人と自然的な人すなわち外なる人の対応であることが明らかです――しかし、これらは続けられるメモラビリアの中で何らかの光が得られます。

結婚愛

127◀︎目次▶︎129

128 (9) みことばは、主からであり、こうして主であるので、結合の手段である
みことばは人間との主の、また主との人間の結合の手段であることは、それはその本質で、神的善と結合した神的真理、そして神的真理と結合した神的善であるからです。この結合が、みことばのすべてと個々のものの中に、その天的な意味と霊的な意味の中にあることは、『啓示された黙示録』に見られます(373, 483, 689, 881番)。そのことから、みことばは善と真理の完全な結婚であることがいえます――それは主から、その方からであるのでその方でもあり、人間がみことばを読み、それから真理を引き出す時、主は善を接合することになります。というのは、人間は情愛の善を見ないからであり、理解力からそれを読み、そして理解力はここから自分のものである真理でないなら汲み取らないからです。これらに善が主により接合されることは、理解力が照らされる時、流入することを快さから感じます。しかし、このことはそれを賢明になる目的で読む以外の他の者には内的に生じません、賢明になる目的は、そこの本物の真理を学んで獲得することを欲する者に、このことによって自分自身のもとに教会をつくることを欲する者にあります――けれども、それを単に博学との称賛のために読む者、なおまた、単に読むことあるいはそれを聞くことが、信仰を吹き込み、救いに貢献するという見解から読む者は、主から何らかの善を受けません、これらの者には単にそこの言葉から自分自身を救う目的があり、それら〔の言葉〕に、真理からの何らかのものは内在しないからです。博学から卓越する目的がある者に何らかの霊的な善は結合されません、しかし、世の称賛からの自然的な快さがあります。
みことばは結合の手段であるので、それゆえ、それは旧い契約と新しい契約と呼ばれます、契約は結合を意味します。

結婚愛

128◀︎目次▶︎130

129 (10) 教会は、主からであり、その方に近づき、その方の戒めにしたがって生きる者のもとにある
今日、むしろ、教会は主のものであり、主のものであるので、主からであることは否定されません――その方に近づく者のもとにあることは、その方の教会がキリスト教界に、みことばからあり、そしてみことばはその方からであり、そしてその方であるように、そのようにその方からであるからです。そこに神的善と結合した神的真理があり、これもまた主です――みことばによって他のものは意味されません、

神のもとにあった。神であった。それから、いのちと人間の光があり、それが肉になった(ヨハネ1:1–14)。

さらにまた、教会がその方に近づく者のもとにあることは、その方を信じる者のもとにあるからです。信じることは、神・救い主とあがない主・義のエホバであること、それを通って(羊の)おりの中へ、すなわち、教会の中へ、入り口・道・真理・いのちへ入らなければならないこと、だれもその方を通してでないなら父へやって来ないこと、父とその方は一つであること、他に多くのこと〔これらを信じることであり〕、それらをその方が教えてられています――私は言います、これらを信じることはその方からでないならだれにもできないことです。〔このことは〕近づかないならできません、〔その方も〕教えられたように、天地の神であるからです。〔教えられた者以外の〕他のだれが、近づくべきですか? また、他のだれが、近づくことができるのですか?
その方の戒めにしたがって生きる者のもとにあることは、他の者との結合がないからです。というのは、言われるから、

わたしの戒めを持ち、それを行なう者は、わたしを愛する者です……わたしは彼を愛し……彼のもとに住まいをつくります。……けれども、わたしを愛さない者は、わたしの戒めを守りません(ヨハネ14:21–24)。

愛は結合であり、主との結合は教会です。

結婚愛

129◀︎目次▶︎131

130 (11) 結婚愛は、人間のもとの知恵の状態にしたがっているので、教会の状態にしたがっている
結婚愛は人間のもとの知恵の状態にしたがっていることは、以前にしばしば言われました、またこれからも、しばしば言われます。そこで、ここに、何が知恵か、またそれが教会と一つのものになっていることを説明します。
人間のもとに知識・知性・知恵があります。知識は認識のものであり、知性は理性のものであり、知恵は生活のものです――知恵は、その十分に眺められて、認識のもの・理性のもの・生活のものと一緒です。認識が先行し、理性がそれらによって形作られ、知恵が両方のものによって、またその時、認識のものである真理にしたがって理性的に生かされます。
そこで、知恵は理性と生活のものと一緒であり、理性のものとここから生活のものである時、知恵を生じます、しかし、生活のものとここから理性のものになった時、知恵です。
この世の最古代人は、生活の知恵以外の他の知恵を認めませんでした。これが昔、「賢人」と呼ばれた者の知恵でした――しかし、その最古代人の後の古代人は知恵の代わりに理性の知恵を認め、これらの者は「哲人(哲学者)」と呼ばれました。
けれども、今日、多くの者は知識も知恵と呼んでいます。学者・博学な者・単なる知識のある者たちもまた賢明な者と呼ばれています。そのように、知恵はその頂上からその谷間へ落ちました。
[2]しかし、何が知恵か、その起源、前進の中で、またここからその十分な状態の中で、さらにまた何らかのものを言います。
霊的なものと言われる教会に属すものは、人間のもとの最内部に住んでいます。市民のものと呼ばれる国家に属すものは、それらの下に位置を占めます。自然的なものと呼ばれる知識・経験・技術に属すものは、それらの長椅子をつくっています。
霊的なものと呼ばれる教会に属すものが人間のもとの最内部に住んでいることの理由は、天界と結合し、天界を通して主と結合しているからです、というのは、他のものは、主から天界を通して人間のもとに入らないからです。
市民のものと呼ばれる国家に属すものが霊的なものの下に位置を占める理由は、世と結合しているからです、というのは、世に属すものであるから。なぜなら、規定・法律・規則があり、それらが人間を束縛し、それらから、社会と都市の安定と壊れないものが生じるからです。
自然的なものと呼ばれる知識・経験・技術に属すものが長椅子をつくっている理由は、身体の五つの感覚と密接に結合していて、これらは最下部のものであって、それらの上に心のものである内的なものそして霊魂のものである最内部のものが、いわば座っているからです。
[3]さて、霊的なものと呼ばれる教会に属すものは最内部に住んでいて、最内部に住んでいるものは頭をつくり、それらの下に続く市民のものと呼ばれるものは身体をつくり、そして自然的なものと呼ばれる最下部のものは足をつくるので、それらの三つのものがその秩序で続く時、人間は完全な人間であることが明らかです。なぜなら、その時、頭のものが身体の中に、身体を通って足の中に流入するように、同様に流入するからです。そのように、霊的なものは市民のものの中に、市民のものを通して自然的なものの中に流入します。
そこで、霊的なものは天界の光の中にあるので、その光が知恵を秩序の中で照らし、愛であるその熱が生命を与え、このことが生じるとき、人間に知恵があることが明らかです。
[4]知恵は生活のもの、ここから理性のものであるので、前に言われたように、何が生活の知恵であるか質問があるでしょう――ひとまとまりの要約したものはこれです。悪を避けるのは、霊魂の害・国家の害・身体の害であるからです。善を行なうのは、霊魂・国家・身体の利益であるからです。
知恵によって意味されるものはこの知恵であり、結婚愛はそれと結ばれます。というのは、姦淫の悪を霊魂の・国家の・身体の疫病のように避けることによって結ばれるから。それらの知恵は教会のものである霊的なものからわき出るので、結婚愛は教会の状態にしたがっていることがいえます、人間のもとの知恵の状態にしたがっているからです。
このことによってもまた、先行するものの中でたびたび言われたことですが、人間が霊的になればなるほど、それだけ真の結婚愛にいることが意味されます。というのは、人間は教会の霊的なものによって霊的になるからです。
結婚愛と結合している知恵について多くのものが、以下に見られます(163–165番)。

結婚愛

130◀︎目次▶︎132

131 (12) また、教会は主からであるので、結婚愛もその方からである
 これが前述のことからの帰結であるので、多くのもので説明することは割愛します。
 さらに、真の結婚愛が主からであることは天界のすべての天使によって証言されています。そしてまた、その愛は知恵の状態にしたがっています、知恵の状態は彼らのもとの教会の状態にしたがっています。
 天界の天使たちによりそれらが証言されていることは、各章の後ろのメモラビリアから明らかです、それらは霊界で見られ、聞かれたものです。

結婚愛

131◀︎目次▶︎133

14 神の映像と似姿とは何か、いのちの木とは、善悪の知識の木とは何か

132 (これらに私は二つメモラビリア付け加えます、最初のものはこれです——)
かつて、私はふたりの天使と話した。ひとりは東の天界から、もうひとりは南の天界からであった。その者は、私が愛について知恵のアルカナを熟考していたことを知覚したとき言った、「あなたは私たちの世界の知恵の学校について何か知っていますか?」
私は答えた、「まだ知りません」。
すると彼らは言った、「多くのものがあります。霊的な情愛から真理を愛する者、すなわち、真理であるので真理を、またその真理によって知恵があるので真理を愛する者は、与えられたしるしに応じて集まり、そして、それらを議論し、さらに深い理解力のものである結論へと導きます」。
その時、彼らは私の手をつかまえ、言った、「私たちに従いなさい、そうすれば、あなたは見、聞くでしょう。今日、集会のしるしが与えられています」。
私は平地を通って丘へ導かれた。すると見よ、丘のふもとに頂上にまで続くシュロの木でできた並木道——私たちはそれに入り、上った。丘の頂上またはてっぺんに木立が見られ、盛り上げられた土の上にそれらの木々が劇場のように形作られ、その内側にいろいろな色の小石で舗装された舞台があった。そのまわりに正方形の形に椅子が置かれ、それらの上に知恵の愛好家たちが座った。劇場の真ん中に机があり、その上に封印で封じられた紙が置かれていた。
[2]椅子の上に座っている者が、私たちをまだ空いている椅子へと招いた。
私は答えた、「ここに私が見て、聞くために、ふたりの天使により導かれました、私が座るためではありません」。
その時、それらのふたりの天使は舞台の机へ行き、紙の封印を解き、座っている者たちの前で紙に書かれた知恵のアルカナを読んだ。それらは第三の天界の天使により書かれ、机の上に降ろされ、今や議論され、解釈されたものであった。
三つのアルカナであった。
第一のものは、「神の映像とは何か、神の似姿とは何か、人間はそれらに創造された」。
第二のものは、「なぜ人間は愛するものの何の知識の中にも生まれていないのか、そのときそれでも、高貴なものも低級なものも、すべての獣と鳥は、自分の愛するもののすべての知識の中に生まれている」。
第三のものは、「『いのちの木』は何を、『善と悪の知識の木』は何を、『それらから食べること』は何を意味するか」。
これらに、「それらの三つを一つの見解に結合し、これを新しい紙に書き、それをこの机の上に戻せ、私たちは見よう。その見解が、はかりの上で釣り合いが取れ、正当なものに見えるなら、あなたがたのそれぞれの者に知恵の褒美が与えられる」と追記されていた。
これらが読まれて、ふたりの天使は引き下がり、自分の天界に上げられた。
[3]その時、椅子の上に座っている者たちは、自分たちに提示されたアルカナを議論し、解釈し始めた。順に、最初に北に座っていた者、その後、西に、その後、南に、また最後に、東に座っていた者が話した。議論の最初の主題を取り上げた、それは、神の映像とは何か、神の似姿とは何か、人間はそれらに創造されたであった。
その時、最初に、「創造の書」からすべての者の前でこれらが朗読された——

神は言われた、わたしたちは人間をわたしたちの映像に、わたしたちの似姿にしたがってつくろう。 ……また神は人間を自分の映像に創造し、神の映像に彼をつくられた(創世記1:26, 27)。
神が人間を創造したその日に、神の似姿に彼をつくられた(創世記5:1)。

北に座った者が最初に話し、言った。「神の映像と神の似姿は、神により人間に吹き込まれた二つのいのちである、それらは意志のいのちと理解力のいのちである。なぜなら、読まれるから、

神エホバはアダムの鼻にいのちの息を吹き込まれた、人間は生きている生き物になった(創世記2:7)。

〝鼻に〟は知覚に、であり、善の意志とそして真理の理解力、またこのように生きた魂が彼に内在することである。また、いのちが神により彼に吹き込まれたので、神の映像と似姿は愛と知恵から、そして公正と判断力からの彼の中の完全性を意味する」。
これらに、西に座った者は賛同した、それでも次のことを付け加えた。「神から彼に吹き込まれた完全性の状態は、人間のそれぞれの者に、その後、絶えず吹き込まれている。しかし、容器の中へのように人間の中にである、人間は容器であるかぎり、神の映像と似姿である」。
[4]その後、順に、南に座った第三の者が言った。「神の映像と神の似姿は区別のある二つのものである、しかし人間の中で創造により結合された。私たちはある種の内的な光からのように、神の映像が人間により破壊されたこと、けれども、神の似姿は破壊されないことを見る。このことは、アダムが神の映像を失った後、神の似姿を保持したことから格子の仕切りを通してのように見られる、なぜなら、呪いの後で読まれるからである、

見よ、善と悪を知って、人間はわたしたちからのひとりのようである(創世記3:22)。

その後、神の映像でなく「 神の似姿」と呼ばれている(創世記5:1)。
しかし私たちはここからさらに高い光の中にいる東に座っている私たちの仲間に、何が正しく神の映像か、何が正しく神の似姿か、言うことを残す」。
[5]その時、沈黙の行為の後、東に座っている者たちが椅子から立ち上がり、主を見上げ、その後、椅子に戻り、言った。神の映像とは神の容器であり、神は愛そのものと知恵そのものであるので、神の映像は彼の中の神からの愛と知恵の容器であること。しかし、神の似姿とは、愛と知恵が人間の中にあるような、またここからまったく彼のものであるような完全な似姿と徹底的な外観であること。「というのは、人間は自分自身から愛し、自分自身から賢明である、すなわち、自分自身から善を意志し、真理を理解するとしか感じないからである。そのときそれでも、少しも自分自身からでなく、神からである。神は愛そのものと知恵そのものであるので、神だけがご自分から愛し、ご自分から賢明であられる。似姿または外観とは、愛と知恵すなわち善と真理が、人間の中に彼のものであるかのように、人間が人間であるように、そして神と結合されることができるようにつくり、このように永遠に生きることである。そのことから、人間がそのことから人間であること、善を意志することそして真理を理解することができること、まったく自分自身からのように、それでも神からであることを知り、信じることができることが流れ出る。なぜなら、このことを知り、信じるように、神は自分の映像を人間の中に置かれるからである。もし神からでなく、自分自身からであると信じたなら異なっていたであろう」。
[6]これらを言って、真理への愛から熱意が彼らから出て、そこからこれらが話された——
「人間は愛と知恵の何らかのものを受けること、そしてそれを保持することが、それを自分自身のもののように感じないなら、どのようにしてできるのか? 愛と知恵によって、人間に何らかの結合の相互のものが与えられていないなら、どのようにして神との結合が与えられることができるのか? なぜなら、相互のものなしに結合は決してありえないからである。人間が自分自身からのように神を愛し、神のものを行ない、それでも神からであることを信じる結合の相互のものがある——なおまた、永遠の神に結合していないなら、どのようにして人間は永遠に生きることができるのか? したがって、どのようにして人間は彼の中に神の似姿なしに人間であることができるのか?」
[7]これらが言われて、すべての者は賛同し、「これらから結論をつくろう」と言った。次のもの——

人間は神の容器であり、神の容器は神の映像である。神は愛そのものと知恵そのものであるので、人間はそれらの容器である。そして容器は受けるかぎり神の映像になる——人間はそのことから神の似姿であること、それらは神からであること、自分自身のものであるかのように自分自身の中にあるかように感じること。しかしそれでも、愛と知恵すなわち善と真理が、彼らの中に自分のものでなく、ここから彼らからでもなく、神の中にだけ、またここから神からであることを認めれば認めるほど、それだけその似姿から神の映像である。

結婚愛

132◀︎目次▶︎134

133 この後、議論の第二の主題、なぜ人間は愛するものの何の知識の中にも生まれないのか、そのときそれでも、高貴なものも低級なものも、すべての獣と鳥は、自分の愛するもののすべての知識の中に生まれている、が取り上げられた。
 最初に、命題の真理をいろいろなものによって、例えば人間について、知識が何もない中に、結婚愛の知識の中にも、決して生まれていないことによって確認した。また調べて、調査者から、幼児は生来の知識から母の乳首に自分自身から接触させることが決してできないこと、しかし母または養母から接触させられること、単に吸うことを知っている、このことを、母の子宮の中で絶えず繰り返す吸うことから学び、また、その後、歩くことを知らず、人間の何らかの声の中の音をはっきり発音することも知らず、それどころか獣のように愛の情愛を音で表現もせず——さらに、自分自身に適切な何らかの食べ物を、獣のように知らず、しかし出会うものを、あるいは清潔なものあるいは不潔なものをつかみ、口の中に引き入れることを聞いた。
 調査者は、「人間は教育なしに、決して異性を区別することを、また、異性を愛する方法について、まったく何も知らない。このことを娘と若者は、他の者からの学習なしに、たとえいろいろな知識で教育されても決して知らない」と言った。
 一言でいえば、人間は虫のように形体的なものに生まれている。もし知り、理解し、他の者から賢明になること学ばないなら、形体的なものにとどまる
[2]この後、獣は高貴なものも低級なものも、地の動物・天の鳥・這うもの・魚・昆虫と呼ばれる小さい虫のように、自分のいのちの愛のすべての知識の中に生まれていることを確認した、例えば、滋養物のすべての、住まいのすべてのもの、性愛のすべてのもの、生殖のすべてのもの、そして自分の子を育てることすべての中に生まれていることである——これらを彼らは、自然界(以前に生きた私たちの世界をそのように呼んだ)で見たもの・聞いたもの・読んだものから記憶の中に思い出し、その中で獣は表象的でなく現実に存在した驚くべきものによって確認した。
 この命題の真理がこのように立証された後、それらによってこのアルカナを説明し、明らかにする目的と原因を探し、見つけ出すために、心を傾注した。すべての者は、「それらは神的知恵から存在することができないのではない、人間が人間であり、獣が獣であるためにである。またこのように人間に出生の不完全さが彼の完全性となり、獣に出生の完全性がその不完全性である」と言った。

結婚愛

133◀︎目次▶︎135

134 その時、最初に北の者たちが自分の見解を明らかにし始めた。「人間は知識なしに、すべてのものを受けることができるように生まれている。しかし、もし知識の中に生まれたなら、何も受けることができない、それらを除いて、その中に生まれている、またその時、自分自身に何も自分のものとすることができない」と言った。彼はこのたとえによって説明した——人間は最初に土地のように生まれている、それに何も種は植え付けられていないが、それはそれでもすべてのものを受け、そして種に芽を生じさせ、実を結ばせることができる。しかし、獣は、すでに植物の生長している、そして草と草本に満ちた土地のようであり、それは、植え付けられた以外の他の種を受けない。もし他のものが植えられたなら、それらを枯らす。ここから、人間は多くの年の間に成熟し、それらの中で、土地のように耕され、すべての種類の作物・花・木のように生じることができる。けれども、獣はわずかな年の間に成熟し、その間、生得のものへと発達する以外に他のものになることができない。
[2]その後、西の者たちが話した、人間は獣のような知識に生まれていない、しかし能力と性向に生まれていると言った。知ることへの能力と愛することへの性向である。知ることだけなく、理解し、賢明になることへの能力に生まれている。そしてまた、自分自身と世のものだけでなく、神と天界のものを愛する最も完全なものへの性向に生まれている。したがって、人間は、両親から、単なる外なる感覚で生き、最初は内なる感覚は何もない生命体に生まれている、その理由は、継続して、最初に自然的に、その後、理性的に、最後に霊的に生き、人間になるためである。もし獣のような知識と愛の中に生まれたなら、〔このことは〕生じないであろう。というのは、生来の知識と愛の情愛はその発達を制限する、しかし、生来の能力と性向は何も制限しないからであり、それゆえ、人間は知識、理解力また知恵を永遠に完成することができる。
[3]南の者たちが続き、自分の発言を述べて、言った、「何らかの知識を自分自身から持つことは人間に不可能である、しかし彼に生来の知識は何もないので、それを他の者から得る。知識を自分自身から何も得ることができないので、愛も何も得ることができない、知識のないところに、愛がないからである。知識と愛は分割できない仲間である、意志と理解力、または情愛と思考、それどころか、本質と形以上にさらに分離されることができない。それゆえ、人間が他の者から知識を得るように、そのように、愛はそれ自体にその仲間のように知識に結びつける。
それに自体に結びつける普遍的な愛は、知り、理解し、賢明になる愛である。これらの愛は人間にだけあり、獣に何もなく、神から流入する。
[4]私たちは西からの私たちの仲間に同意する、人間はどんな愛の中にも生まれていないこと、ここからどんな知恵の中にもなく、単に愛することへの性向の中に、ここから自分自身からでなく、他の者から、すなわち、他の者を通して知識を受け入れることの能力の中に生まれていることである。この者も何らかのものを自分自身から受け入れないので、他の者を通してと言われる。しかし、起源的に神からである。
私たちは北への私たちの仲間ともまた一致する、人間は最初に土地のように生まれている、それに何らかの種が植え付けられていない、しかしそれに高貴なものも低級なものもすべてのものが植え付けられることができることである。
これらに私たちは、獣は自然的な愛の中に、ここからそれら対応する知識の中に生まれていること、それでも知識から何らかのものを知らず、考えず、理解せず、賢明にならない、しかしそれらによって自分の愛により、ほとんど盲人のように、街路を通って犬により導かれることを付け加える、というのは、理解力に関して盲目であるから。または、むしろ夢遊病者のように、その者は盲目の知識から、理解力を眠らせることを行なう」。
[5]最後に東の者たちが話し、言った。「私たちは、私たちの仲間が話したことに同意する、人間は自分自身から何も知らないこと、しかし他の者から、また他の者を通してであり、知り、理解し、賢明になるすべてのものは神からであること知り、認めるためには、人間は主により、みごもり、産まれ(nascor)、生まれ(genero)、そしてその方の映像と似姿にされること以外にできないことである。なぜなら、愛と仁愛のすべての善は、認め、信じることによって、主の映像になるから、主から受け、受けている知恵と信仰のすべての真理は、少しも自分自身からでないからである。また、それらを自分自身からのように本質的に賢明になることによって、主の似姿である。このことを感じる知識の中に生まれていないからである、しかしそれらを受ける、また受けたものを、彼に自分自身からのように見える。このように感じることもまた、人間であり、獣でないために神から人間に与えられ、そのことによって、自分自身からのように意志し、考え、愛し、知り、理解し、賢明になり、知識を受け、それらを知性の中へ高め、それらの役立ちによって知恵の中へ高めるからである。このように主は人間をご自分に結合され、人間は自分を主に結合する。
このことは、主により人間が全面的な無知の中に生まれているように備えられなかったなら、生じることができない」。
[6]その後、すべての者は、討議から結論が行なわれ、それを言うことを欲し、このことが行なわれた——

人間は、すべての知識の中にやって来て、知性の中に、これを通して知恵の中に進むことができるように、知識が何もない中に生まれている。また、すべての愛の中にやって来て、知性からの知識の適用によって、隣人に対する愛によって、主への愛へ、このように主へ結合され、そのことによって人間になり、永遠に生きることができるように、愛が何もない中に生まれている。

結婚愛

134◀︎目次▶︎136

135 この後、紙を取り、討議の第三の主題が読まれた、それは「いのちの木」は何を、「善と悪の知識の木」は何を、「それらから食べること」は何を意味するか、であった。すべての者は、東からの者がこのアルカナを説明するよう求めた、深遠な理解力を要するものであり、東からの者は、炎のような光の中に、すなわち、愛の知恵の中にいるからである。これらの知恵は「エデンの庭園」によって意味され、その中に2本の木が置かれていた。
彼らは答えた、「私たちは言う。しかし人間は自分自身から何も得ないで、主から得ているので、私たちは、その方から言う、しかしそれでも、私からのように私たちから言う」。
その時、言った、「〝木〟は人間を、〝その実〟は生活の善を意味する。ここから、〝いのちの木〟によって、人間が神から生きていることが、すなわち、人間の中で生きている神が意味される。また、愛と知恵、そして仁愛と信仰は、すなわち、善と真理は、人間の中に神のいのちをつくる〝いのちの木〟によって、これらが意味され、ここから人間に永遠のいのちある。食べるようにと与えられている『いのちの木』によって同様のものが意味される」(黙示録2:7, 22:2, 14)。
[2]〝善と悪の知識の木〟によって、人間が自分自身から生き、神からでなく生きていることを信じることが意味される。そのように、愛と知恵は、仁愛と信仰は、すなわち、善と真理は、神のものでなく、人間の中に彼〔のもののよう〕にある——人間はこの信仰から、神がご自分を植え付けたことを、すなわち、彼の中にご自分の神性を注ぎ込んだことを確信するので、それゆえ、ヘビは言った、

神は、あなたがたがその木の実を食べるその日、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが善と悪を知って神のようになることを知っている(創世記3:5)。

[3]それらの木から「食べること」によって、受け入れることと自分のものとすること、「いのちの木から食べること」によって永遠のいのちを受け入れること、また「善と悪の知識の木から食べること」によって断罪を受け入れることが意味される。それゆえ、アダムとその妻の両者もまた、ヘビと一緒に、呪われた——「ヘビ」によって、自己愛に関する悪魔と自己(プロプリウム)知性の高慢が意味される。この愛はその木の持ち主である。その愛から高慢の中にいる人間は、その木である。
そこで、アダムが賢明であったこと、これは彼の完全な状態であったこと、また自分自身から善を行なったことを信じる者は憎むべき誤りの中にいる。そのときそれでも、アダム自身はその信念のために呪われた。というのは、このことが「善と悪の知識の木から食べること」によって意味されるから。それゆえ、その時、自分自身からでなく、神から賢明であり、善を行なうことを信じた完全な状態からそれた、というのは、これが「いのちの木から食べること」によって意味されるからである。
世におられたとき、主おひとりが自分自身から賢明であられ、自分自身から善を行なわれ、神性そのものが出生からその方の中に、またその方のものであったので、それゆえ、固有の力からもまたあがない主と救い主であられた」。
[4]これらやそれらから〔彼らは〕この結論をつくった、「〝いのちの木〟によって、〝善と悪の知識の木〟によって、〝それらから食べること〟によって、人間のいのちは彼の中の神であること、その時、彼に天界と永遠のいのちがあることが意味される。しかし、人間の死は、人間にあるいのちが神でなく、自分自身であることの確信と信仰であり、ここから彼に地獄と永遠の死があり、それは断罪である」。

結婚愛

135◀︎目次▶︎137

136 これらの後、彼らは、天使により机の上に残された紙を調べた、またその下に書かれたもの、それらの三つを一つの見解に結合せよ、を見た。その時、それらを集め、それらの三つを一つの続きものに結合し、その続きものを見た、すなわち、これらの見解である、

 人間は、神からの愛と知恵を受け入れるように、それでもすべての〔愛と知恵の〕類似のものの中に自分自身からのように、このことを受け入れ、結合のために創造された。それゆえ、人間は、自分自身から愛する、また賢明になる何らかの愛の中に、何らかの知識の中にも、そしてまた決して何らかの力の中にも生まれていない。それゆえ、もし愛の善と知恵の真理のすべてのものを神に帰すなら、人間は生きたものになる、しかし、もしそれらを自分自身に帰するなら、人間は死んだものになる。

 これらを彼らは新しい紙に書き、これを机の上に置いた——すると見よ、不意に白く輝く雲の中に〔いる〕天使たちが近づき、紙を天界へ持ち去った。
 そこで読まれた後、椅子の上に座っている者はそこから声を聞いた、「よろしい、よろしい、よろしい」。
 直ちに、そこから、足のまわりに二つの翼、こめかみのまわりに二つの翼のようなものを付け、手に褒美を持って、飛ぶ者が見られた。それら〔褒美〕はローブ・帽子・月桂冠であった——そして、降り、北に座った者にオパールの色のローブを、西に座った者に緋色のローブを与えた。南に座った者に帽子を与えた、そのふちは金と真珠からのひもで飾られていて、左側に持ち上げられた部分に花の形にカットされたダイヤモンドがあった。けれども、東に座った者に月桂冠を与えた、その中にルビーとサファイアがあった。
 すべての者はこれらの褒美で飾られて、知恵の学校から家へ立ち去った、自分の妻たちに自分自身を示したとき、出迎えに来た妻たちもまた天界からの卓越した贈り物で飾られていて、そのことに〔夫たちは〕驚いた。

結婚愛

136◀︎目次▶︎138

15  第三の天界からのふたりの天使によるそこの結婚愛について

137 (第二のメモラビリア——)
私が結婚愛について瞑想していたとき、見よ、遠方からふたりの裸の幼児が、かごを手にして彼らのまわりを飛んでいるキジバトとともに現われた。さらに近くに見られた時、花環でつくられ、こぎれいに飾られて、〔やはり〕裸のようであった。花からできた花冠が彼らの頭を飾り、ヒヤシンス色のユリとバラからできたひもが、肩甲骨から腰まで斜めにつり下げられて、その胸を飾った。ふたりのまわりに、その間にオリーブの葉が織られた花びらからできた共通のひもがあった。
しかし、さらに近く近づいたとき、幼児のように見られなかった、裸でもなく、最初の花の年齢の中のふたりの人間のようであった、輝く絹からのトーガとシャツの衣服であり、それらに美しい外観の花が織り込まれていた。私の近くにいたとき、天界から彼らを通して、芳ばしい香りとともに、春の熱が吹き付けた。
天界からのふたりの夫婦であった。その時、私に話しかけ、「あなたは何を見ましたか?」と質問した——私の思いの中に新しく見たものがあったからである。
[2]私が、彼らが最初、私に裸の幼児のように、その後、花環で飾られた幼児のように、最後に、花で飾られた衣服を着た成人のように見えたことを、また、その歓喜とともに、その時、直ちに私に春が吹き付けられたことを語ったとき、楽しそうにそれらにほほ笑み、自分たち自身が途中で、自分たち自身に幼児のように見られなかったこと、裸でもない、花環とともにでもなく、しかし常に今のような同様の外観の中に見られたこと、また、そのように遠方から、彼らの結婚愛が、その無垢の状態が裸のように見られることによって、その歓喜が花冠によって、同じものが今や、彼らのトーガとシャツに織り込まれた花によって、表象されることを言った。
「あなたが、私たちが近づくほど、春の熱があなたに、庭園からのようなその快いそよぎとともに吹き付けた、と言ったので、私たちはこのことがなぜなのかを言いましょう」。
[3]彼らは言った。「私たちは、今は数世紀の間、夫婦であり、常に花の年齢の中にいます、あなたはその中にいる私たちを見ています。私たちの最初の状態は、結婚で互いに交わりに加わるときの処女と若者の最初の状態のようです。その時、私たちは、その状態が私たちのいのちの至福そのものであると信じました。しかし私たちは、私たちの天界で他の者から聞き、その後、私たち自身が知覚しました。その状態が光と調和していない熱の状態であったこと、また、夫が知恵を完成され、妻が夫の中の知恵を愛するように、しだいに調和することです、このことは役立ちによって、それを両者が相互の助けで社会の中で行なわれ、それにしたがって生じることです。なおまた、歓喜が熱と光の調和にしたがって、すなわち知恵とその愛の調和にしたがって続きます。
[4]私たちが近づいたとき、春の熱のようなものがあなたに吹き付けたのは、結婚愛とその熱が私たちの天界の中で一つのものとして活動するからです、というのは、私たちのもとの熱は愛であり、光は、それに熱が結合されている知恵であり、そして役立ちは、それはその内部に両方のものを含んでいる大気のようであるからです。
熱と光は、その容器がないなら、何ですか? そのように、愛と知恵は、その役立ちがないなら何ですか? それらの中に結婚のものはありません、その中に主体がないからです。
天界に、そこに春のものである熱があり、そこに真の結婚愛があります。そこにあることの理由は、他のところに春のものはないからです、そこでは熱が同程度に光と結合されています、すなわち、そこに熱があればあるほど、そこに光があります、そしてその逆もそうです。私たちは、熱が光を楽しみ、逆に、光が熱を楽しむように、そのように愛は知恵を、逆に知恵は愛を楽しむ、と思っています」。
[5]さらに言った、「天界の私たちのもとに永続する光があり、どこにも夕方の陰は、まして暗やみはありません、私たちの太陽はあなたがたの太陽のようには沈まず、昇りもしません、常に天頂と地平線の間の真ん中に、それはあなたがたの言い方にしたがえば、天の45度に位置します。ここから、私たちの太陽から発出する熱と光が永続する春をつくり、永続する春のものを彼らに吹き込んでいます、その者のもとに、愛が知恵と同程度に結合されています。私たちの主は熱と光の永遠に結合したものによって、役立ち以外の他のものは吹き込まれません。ここから、春の時に、あなたがたの地球にも発芽が、あなたがたの鳥と動物の交尾があります。というのは、春の熱はそれらの内側のものを霊魂と呼ばれる最内部までも開き、これらによって働きかけ、それらにその結婚のものを着せ、それらの生殖力がその歓喜の中にやって来るように、持続する努力(コナトュス)から結実の役立ちをつくることをするからです、それはその種属の繁殖です。
[6]しかし、人間のもとに、主から春の熱の永続する流入があります。それゆえ、彼らは、すべての時に、冬の真ん中でも、結婚を楽しむことができます——というのは、男たちは光を受け入れるものに、すなわち、主からの知恵に創造されており、女たちは、熱を受け入れるものに、すなわち、主からの男の知恵の愛を受け入れるものに創造されているからです。
それで、ここから、私たちが近づくほど、芳ばしい香りとともに、庭園や野の初期のものからのように、春の熱があなたに吹き付けたのです」。
[7]これらが言われて、男は私に右手を与え、私を家へ導いた。そこに同様の花の年齢の中の夫婦がいた。言った、「今は娘のように見られるその妻は、世では年取った老婆でした。また、今は若者のように見られる夫は、そこではよぼよぼの老人でした。それらすべての者は主によりこの永遠の花盛りの中に戻されました、互いに愛し、宗教から姦淫を憎むべき罪として避けたからです」——また、言った、「もし姦淫の恐ろしい快さを退けないなら、だれも結婚愛の祝福された快さを知りません。その者が主から賢明でないなら、だれも主から賢明ではありません、役立ちの愛から役立ちを行なわないなら、だれもこれを退けることができません」。
その時、私は彼らの家の家具も見た、それらのすべてのものは、天界的な形をしていて、金にはめ込まれたルビーから燃えるように輝いていた。

結婚愛

137◀︎目次▶︎139

(六)貞潔な者と不貞な者について

138 依然として、私は、結婚愛について詳細に取り扱うことへ、また特定的な結婚愛については、不明瞭に、このようにあいまいにしか、入り込んでいないので、さらにまたその正反対のものである不貞なものがある程度見られないなら、またこれがある程度すなわち陰の中に、貞潔とともに不貞なものとともに一緒に述べられて見られないなら、知られることができません、なぜなら、貞潔は単に貞潔から不貞の除去であるからです(ここに、それゆえ、貞潔と不貞について言われます)。
けれども、完全に貞潔と正反対である不貞について、この著作の後ろの部分で「淫行愛について狂気の快楽」の表題の下に扱い、十分に、またその多様なものとともに述べます。
けれども、貞潔と不貞が何か、だれのもとにあるか、次の順序で説明します――

(1) 貞潔と不貞は結婚と結婚に属すようなものについてだけ述べられる。
(2) 貞潔は一夫一婦の結婚、すなわち、ひとりの夫とひとりの妻の結婚についてだけ述べられる。
(3) キリスト教徒の結婚にだけ貞潔が存在する。
(4) 真の結婚愛は貞潔そのものである。
(5) 真の結婚愛のすべての歓喜は、最終的なものも貞潔である。
(6) 主により霊的になっている者のもとの結婚愛は、ますます清められ、貞潔になる。
(7) 結婚の貞潔は宗教による淫行の全面的な除去によって生じる。
(8) 貞潔は、幼児について、少年や少女についても、そして自分もとに性愛を感じる前の青年や娘についても述べられることができない。
(9) 貞潔は生まれつき去勢されていた男や去勢された男について述べられることができない。
(10) 貞潔は、姦淫を宗教の悪であると信じない者について、さらにまして姦淫を社会の害であると信じない者について述べられることができない。
(11) 貞潔は単に外なるいろいろな原因のために姦淫を慎む者について述べられることができない。
(12) 貞潔は結婚が不貞であると信じている者について述べられることができない。
(13) 貞潔は、終生の独身を誓って結婚を放棄した者について、彼らの中に真の結婚生活への愛がなく、残存しないなら、述べられることができない。
(14) 結婚の状態は独身の状態よりも優先されるべきである。

今からこれらの解説を続けます。

結婚愛

138◀︎目次▶︎140

139 (1) 貞潔と不貞は結婚と結婚に属すようなものについて述べられる
 このことは、真の結婚愛は、〔これから〕続けられるように貞潔のものであり、それに正反対の愛は、淫行のものと呼ばれ、不貞そのものであるからです。そこで、前者が後者から清められれば清められるほど、それだけ前者は貞潔です、というのは、それだけその正反対な破壊的なものが取り除かれるからです。そのことから、結婚愛の純潔があり、それは貞潔と呼ばれることが明らかです。
 それでも、たとえ不貞でなくても、貞潔でない結婚愛が存在します、例えば、外なるいろいろな原因のために、実際の(効力のある)好色を、それらについて考えないまでにも慎む夫婦の間にです。しかし、もしその愛が彼らの霊の中で清められていないなら、やはり貞潔ではありません。その形は貞潔ですが、それに貞潔の本質は内在しません。

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139◀︎目次▶︎141

140 貞潔と不貞がこのようなものについて述べられることは、結婚のものが両性に最内部から最外部のものまで刻み込まれ、人間はそのことに、思考と情愛に関して、ここから内的に身体の行動と振る舞いに関してしたがっているからです――そのようであることは、不貞な者によりさらにはっきりと見られます。彼らの心に固く宿っている不貞は、彼らの話す音声から、また談話のすべてを、貞潔もまた、淫乱へ適用することから聞かれます。話す音声は意志の情愛から、話すことは理解力の思考からです。意志はそのすべてのものとともに、理解力はそのすべてのものとともに、そのように心全体は、ここから身体のすべてのものは、最内部から最外部のものまで、不貞で満ちているしるしがあります。
 私は天使から聞きました、「最高度に偽善者のもとの不貞が、どれほど貞潔に話しても、聴覚から知覚され、そしてまた彼らから出てくるスフェアから感じられます。不貞が彼らの心の最内部の中に、ここから彼らの身体の最内部の中に固く宿っています、これらが、いろいろな種類の色から描かれた貝殻のように、外的におおわれているしるしもあります」。
 好色なスフェアが不貞な者から出ることは、「汚れた者が単に指で触れたようなものであっても、そのすべてと個々のものは不潔なものとされなければならない」というイスラエル民族の法令から明らかです。
 これらから、貞潔な者に同様であること、すなわち、これらの者のもとですべてと個々のものは最内部から最外部のものまで貞潔であることを結論することができます。結婚愛の貞潔がこのことをつくります――ここから、世で、「清潔な者にはすべてのものが清潔であり、不潔な者にはすべてのものが不潔である」と言われています。

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140◀︎目次▶︎142

141 (2) 貞潔は一夫一婦の結婚、すなわち、ひとりの夫とひとりの妻の結婚についてだけ述べられる
 貞潔が彼らについてだけ述べられることは、結婚愛が自然的な人間のもとに住まないで、霊的な人間の中に入り、連続的にそれ自体に、善と真理の結婚である霊的な結婚そのものへの道を開くからです、それはその起源であり、それ自体をそれに結合させます。というのは、前に数多く示されたように、その愛が知恵の増大にしたがって入り、これ〔知恵の増大〕は主により教会を植え付けることにしたがっているからです。
 このことは一夫多妻者のもとに生じることができません、これらの者は結婚愛を分割し、この分割された愛は、本質的に自然的である性愛に似ているからです。しかし、これについて何らかの〔述べる〕価値あるものが「一夫多妻について」の章の中に見られます。

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141◀︎目次▶︎143

142 (3) キリスト教徒の結婚にだけ貞潔が存在する
このことは、真の結婚愛が人間のもとで、彼のもとの教会の状態と似た歩みを進めるからであり、それは主からです(例えば、先行する章の130、131番に、また他の箇所に示されています)。なおまた、教会は、みことばの中のその本物の真理の中にあり、主はそこのそれらの中に現在されるからです――これらから、キリスト教界にしか貞潔な結婚が存在しないこと、もし存在しなくても、それでも存在可能であることがいえます――キリスト教徒の結婚によって、ひとりの夫とひとりの妻の結婚が意味されます。
この結婚のものは、キリスト教徒の生来のものとして生じ、真の結婚愛にいる両親から子孫の中に遺伝によって続けられることができます、それから、それら知恵への能力と傾向が一緒に生まれ、それらは教会と天界のものであることが、その箇所に見られます。
キリスト教徒は、もし多くの妻をめとるなら、自然的な姦淫だけでなく、霊的な姦淫もまた犯すことが、「一夫多妻について」の章の中で示されます。

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142◀︎目次▶︎144

143 (4) 真の結婚愛は貞潔そのものである
その理由は――

(ⅰ) それは主からであり、主と教会の結婚に対応しているからである。
(ⅱ) 善と真理の結合から降っているからである。
(ⅲ) 人間のもとの教会であるように霊的なものであるからである。
(ⅳ) 根本的な愛と天的なまた霊的なすべての愛の源であるからである。
(ⅴ) 人類の真正の苗床、またこれから天界の天使たちの真正の苗床であるからである。
(ⅵ) それゆえ、天界の天使たちのもとにも存在し、それから彼らのもとに愛と知恵である霊的な子孫が生まれるからである。
(ⅶ) また、このようにその役立ちは創造の他の役立ちにまさっているからである。

 これらから、真の結婚愛は、その起源から、またその本質から眺められて、純粋なまた聖なるものであること、これほどに純潔と神聖、それゆえ、貞潔そのものと呼ばれることができるといえます。しかしそれでも、人間のもとで天使のもとでも、あらゆる点で純粋ではないことは、今から続く次の第(6)節に見られます(146番)。

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143◀︎目次▶︎145

144 (5) 真の結婚愛のすべての歓喜は、最終的なものも貞潔である
このことは前に説明された「真の結婚愛は貞潔そのものである」ことからいえます、そして歓喜がそのいのちをつくります――その愛の歓喜が上昇し、そして天界に入り、途中でそれらの中に天界の天使たちがいる天界の愛の快さを通り抜け、さらにまた彼らの結婚愛の歓喜に結合させます。
なおまた、天使たちから聞きました、地上の貞潔な夫婦からそれらの歓喜が昇るとき、〔天使たちは〕自分自身のもとで高められることと満たされることを知覚することです。また、そばに立っている不貞であった者のために、「最外部の歓喜でもありませんか」と質問を向けたとき、彼らは同意し、ひっそりと、「何が異なって〔いませんか〕? これら〔の歓喜〕は、それらの〔歓喜の〕充満ではありませんか?」と言いました。
その愛の歓喜がどこからか、またどんなものか、前に(69番)、また特に、続くメモラビリアの中に見られます〔151b番以降〕。

結婚愛

144◀︎目次▶︎146

145 (6) 主により霊的になっている者のもとの結婚愛は、ますます清められ、貞潔になる
その理由は――

(ⅰ) 結婚式前の、また結婚式後の間もない愛が意味される最初の愛は、性愛からの、そのように身体に特有の情熱からの何らかのものを得ている、まだ霊的な愛によって和らげられてないからである。
[2](ⅱ) 人間は、自然的なものからしだいに霊的なものになるからである。というのは、天界と世の間の中間のものである理性的なものになるほど、霊的なものになり、天界からの流入から霊魂を引き寄せ始めるからであり、そのことは知恵から働きかけられ、喜ばされるほど生じる(それについて前の130番)。また、このことが生じれば生じるほど、それだけ彼の心は天界の光と熱の中に、すなわち同じものであるが、知恵と愛の中に、容器であるさらに上のオーラ(大気)の中に上げられ、それらの中に天使たちがいる。というのは、天界の光は知恵と天界の熱は愛と一緒に活動するから。また、夫婦のもとで知恵とその愛が増大するほど、そのように、彼らのもとの結婚愛は清められる。これがしだいに生じるので、それはさらにまたさらに貞潔になる、といえる。
その霊的な浄化(清め)は、自然的な酒精の浄化にたとえられることができる、それは化学者により行なわれる「精製(ろ過)・精留・キャスティゲーション(純化)・再留・分留・傾瀉・昇華」と呼ばれるものである。また、清められた知恵はアルコールに〔たとえられ〕、それは最高度に精留された酒精である。
[3](ⅲ) さて、霊的な知恵は本質的にそのようなものであるので、賢明になる愛でますます暖かくなり、このことから永遠に増大し、それは、精製(ろ過)・キャスティゲーション(純化)・精留・分留・傾瀉・昇華によるかのように、これらは理解力を感覚の欺きから、また意志を身体の誘惑から精製と取り除くことによって、清められるようになることから、結婚愛も同様であること、知恵であるその両親により、連続的に、ますます純粋に、そのように貞潔になることが明らかである。

夫婦の間の愛の最初の状態は、光によってまだ和らげられていない熱の状態です、しかし夫の知恵が完成され、妻が夫の中のその知恵を愛するほど、連続的に和らげられることがメモラビリアの中に見られます(137番)。

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145◀︎目次▶︎147

146 しかし、人間のもとに天使のもとにも、まったく貞潔なすなわち純粋な結婚愛が存在しないことを知らなければなりません。それでも、何らかの貞潔でないすなわち純粋でないものがあり、それが接合し、付着しています――しかし、これは不貞であるものよりも他の性質からです。というのは、彼らのもとに、貞潔は上方に、不貞は下方にあり、また主により、ちょうつがいとともにあたかも扉のようなものが間に置かれていて、決定によって開かれ、それが開かれたままにならないで、あるものが他のものの中に移り、混合することがないよう用心されているからです――というのは、人間の自然的なものは出生から悪で汚れており、悪に満ちているから。しかし、彼の霊的なものは、そのようではありません、その出生は主によるからです、というのは、再生があるから。また、これはしだいに悪から分離されます、その悪は生まれながらの傾向です。
人間や天使のもとの愛は決して純粋ではなく、そうなることもできません、しかし意志の目的や目標または意図が主により最初に眺められていて、それゆえ、人間がそれらの中にいればいるほど、それらの中に存続すればするほど、それだけ、純潔へ導かれ、それへ向けて前進することが前に見られます(71番)。

結婚愛

146◀︎目次▶︎148

147 (7) 結婚の貞潔は宗教による淫行の全面的な除去によって生じる
 このことの理由は、貞潔が不貞の除去であるからです。だれかが悪を遠ざければ遠ざけるほど、それだけ善の後に続くような機会が与えられ、さらにまた、悪に憎しみを抱けば抱くほど、それだけ善が愛され、そしてまた、逆も言えるのは、普遍的な規則です。したがって、淫行が退けられれば退けられるほど、それだけ結婚の貞潔が入ります。
 結婚愛が淫行の拒絶にしたがって清められ、精留されることは、だれもが普通の知覚から、言われ、聞かれさえすれば、そのように確証する以前に見ます。しかし、普通の知覚はすべての者にないので、そのこともまた確証によって、説明されることが重要です――〔その〕証拠は、結婚愛が、分割されるとすぐに凍ることです、そしてこの冷たくなることが滅びるようにします、というのは、不貞な愛の熱がそれを消すから。というのは、二つの対立する熱は同時に存在することができず、むしろ、一方がもう一方を追い払い、それをその力で奪うからです。
 そこで、結婚愛の熱が淫行愛の熱を遠ざけ、追う払う時、結婚愛は楽しさで暖かくなり、その歓喜の感覚から、春の時の果樹園とバラの花壇のように発芽と開花を始めます。前者は霊界の太陽からの光と熱の春の温和から、けれども、後者は自然界の太陽からの光と熱の春の温和からです。

結婚愛

147◀︎目次▶︎149

148 それぞれの人間に創造から、またここから出生から内なる結婚のものと外なる結婚のものが植え付けられています。内なるものは霊的であり、外なるものは自然的です。人間は最初に後者へやって来ます、霊的になるほど、前者へやって来ます。
 そこで、もし外なるすなわち自然的な結婚のものの中にとどまるなら、その時、内なるすなわち霊的な結婚のものは、そのことについて何らかのものを知りません、それどころか、それを空虚な観念と呼ぶほどにも、ベールでおおわれます。しかし、もし人間が霊的になるなら、その時、そのことについて何らかものを知り、その後、その性質について何らかのものを知覚し、連続的に、その楽しさ・快さ・歓喜を感じ始めます。また、これらが生じるほど、外なるものと内なるものの間をおおうことは、それについて前に〔述べましたが〕、薄くされ、その後、あたかも溶けるかのように、そして、最後に、分解され、消散させられることが始まります。
 このことが生じるとき、確かに外なる結婚のものが残ります、しかし内なるものによりそのかすから絶えず精製され、清められます。そのとき、このことが外なるものが内なるものの顔のようになり、そして祝福から内なるものの中にあるその快さを、同時にそのいのちを、この歓喜の力を得ます。
 このようなものが淫行の拒絶であり、それによって結婚の貞潔が存在するようになります。
[2]内なる結婚のものがそれ自体を外なる結婚のものから、すなわちそれ自体からそれを、分離した後でも外なる結婚のものが残っていて、分離していない外なる結婚のものと似ている、と信じられることができます。しかし、私は天使から、まったく異なっていることを聞きました。内なるものからの外なるものは、それは内なるものの外なるものと呼ばれ、すべての好色を欠いていることです、内なるものは好色に振る舞うことができず、貞潔だけを楽しみ、似たものをその外なるものに導み、その中でその歓喜を感じるからです――内なるものから分離した外なるものはまったく異なっています。彼らは、これを「全般的なものの中でまたすべての部分の中で好色なものです」と言いました。
 彼らは、内なる結婚のものからの外なるものを、快い味と香りがそれ自体に、その表面の中にしみ込んでいて、それ自体に対応するものを形作っているみごとな果実にたとえました。
[3]内なる結婚のものからの外なるものを、穀倉にもたとえました、その蓄積は決して減らされないで、取り出されるとき、絶えず、新たにもとへ戻されます。しかし、内なる結婚のものから分離した外なるものを、箕〔穀物をあおぎわける道具〕の中の小麦にたとえました、もし周囲に投げ捨てられるなら、もみ殻だけが残り、それらは風により散らされます――結婚愛は、淫行が退けられないなら、そのようになります。

結婚愛

148◀︎目次▶︎150

149 結婚の貞潔が、淫行の拒絶によって、これが宗教から行なわれないなら、存在しないことは、人間は宗教がなくて霊的にならず、自然的にとどまるからです、もし自然的な人間が淫行を退けても、それでも彼の霊はそれを退けません、このように、拒絶によって貞潔であることが自分自身に見られても、それでもやはり不貞が内部に、外側だけが健全な傷の中の膿のように隠れています。
結婚愛が人間のもとの教会の状態にしたがっていることは、前に見られます(130番)。
この事柄について、多くのものが続く第(11)節の説明の中に見られます。

結婚愛

149◀︎目次▶︎151a

150 (8) 貞潔は、幼児について、少年や少女についても、そして自分のもとに性愛を感じる前の青年と娘についても述べられることができない
その理由は、貞潔と不貞が、もっぱら結婚について、また結婚に属すようなものについて述べられ(139番参照)、結婚について何らかのものを知らない者のもとに、貞潔の何らかの属性がないからです、というのは、彼らのもとに何もないかのようであり、何もないものに情愛は存在せず、それについての思考もないからです――しかし、その何もない、その後で、性愛である結婚の最初のものが感じられるとき、何らかのものが起こります。
自分たちのもとで性愛を感じる前の娘と若者が、一般の人々により貞潔と言われているのは、何が貞潔なのか無知であるからです。

結婚愛

150◀︎目次▶︎151b

151a (9) 貞潔は生まれつき去勢されていた男や去勢された男について述べられることができない
 生まれつき去勢されていた男によって、特に、彼らのもとに出生から愛の最終的なものが欠けている者が意味されます。その時、最初のものと中間のものはその上にとどまる基礎を欠いているので存在しません。存在しても、彼らの関心事は貞潔と不貞の間を区別することではありません、というのは、両方のものが彼らにとってどうでもよいことであるからです――しかし、これらの者に多くの相違があります。
 生まれつき去勢されていた男も去勢された男もほとんど同様です。しかし、去勢された男は、男と女であるので、それゆえ、結婚愛を幻想のように、またその歓喜を作り話のように眺めることしかできません――何らかのものが彼らに性向から内在するなら、これは貞潔でも不潔でもない中間的なものになります。どちらでもないものは、一方またはもう一方から何らかの名称がありません。

結婚愛

151a◀︎目次▶︎152a

16 到着者から、地上から何か新しいものがあるか調べたギリシアの古代人について。 そこに、森の中で発見された人間について

151b (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、第一のものは——)
知恵の学校(これについて前の132番)から、私が家へ立ち去る時、途中で、私は、青色(ヒヤシンス色)の衣服の天使を見た——この者は私の脇に付き添い、言った、「私は、知恵の学校からあなたが出るのを、そこで聞いたことからあなたが喜んでいるのを見ました。私はあなたがこの世界に完全にはいないで、同時に自然界にいることを認めます、それゆえ、あなたは私たちのオリュンピア祭の屋内競技場を知りません。そこに古代の賢人たちが集まり、あなたの世界から到着する者から、知恵の変化と推移にどのような状態が生じたか、今でも生じているか、学びます。もしあなたが欲するなら、私はあなたを、古代の賢人からの多くの者が、彼らの子たちが、すなわち、弟子たちが住んでいる場所へ案内します」。
私を北と東の間の境界へ導いた。私は高い場所からそれを眺めた。見よ、都が、またその一つ側に二つの丘が見られ、都に近いものは高さで低かった。彼は私に言った、「その都はアテネ、低い丘はパルナッソス、高い丘はへリコーンと呼ばれます。そのように呼ばれるのは、都とその周囲にギリシアの古代の賢人たち、例えば、ピュタゴラス、ソクラテス、アリスティッポス、クセノポンが、弟子と初心者たちとともに滞在しているからです」。
私はプラトンとアリストテレスについて質問した。
彼は言った、「彼らと彼らの追随者たちは他の領域に住んでいます、前者は生活に属す道徳的なものを教えました、けれども後者は理解力に属す理性的なものを教えたからです」。
[2]彼は言った、「アテネの都からしばしば、キリスト教徒の教養ある者へ、今日、神・全世界の創造・霊魂の不死性について、獣の状態に関連させて人間の状態について、そして内的な知恵のものである他の事柄について、何を考えているか語るために、熱心な者たち〔=探求者〕が委任されます」。また、言った、「布告者が、今日、送り出された者たちが地から新しく到着した者に会い、それらの者から好奇心がそそられることを聞いた、という集会のしるしを知らせました」。
私たちは都とその近隣から出てくる多くの者を見た、ある者は頭の上に月桂冠をかぶって、ある者は手にシュロをつかんで、ある者は脇に本を抱えて、ある者は左のこめかみの髪の中に〔葦の〕筆とともに。
私たちは、彼らと合流し、一緒に上った。見よ、丘の上にパラディウム(知恵の宮殿)と呼ばれる八角形の宮殿があり、私たちは入った。見よ、そこに八つの六角形に凹んだところ〔があり〕、それらのそれぞれの中に書棚、そしてまた机があった。それらへ月桂冠をかぶった者が着席した——パラディウムそのものの中に彫刻された石からできた席が見られ、それらの上にその他の者が座った。
[3]その時、左の扉が開かれ、それを通って地から到着したふたりの者が導き入れられた。挨拶の後、月桂冠をかぶった者からのひとりが彼らを質問した、「地からの新しい情報(ニュース)は何か?」
彼らは言った、「新しいものがある、森の中で獣のような人間が、または人間のような獣が見つけられた。しかし、顔と身体から、人間として生まれたと考えられ、そして二つかまたは三つの年齢で森の中で見失われたかまたは捨てられた」——彼らは言った、「思考の何らかのものを音で表現することができない、何らかのことばの中に、音を音節に区切ることもない。獣のように自分自身に適合する食物を知ることもなく、森にあるものを清潔なものも不潔なものも、口の中に押し込む。ほかに、獣の状態と関連させて人間の状態について、同様の多くのことが、私たちのもとのある学者たちから推測されている、ある者は多くのことを結論している」。
[4]これらを聞いて、古代の賢人からのある者たちが質問した、「それらから何を推測し、結論するのか?」
ふたりの到着した者が、多くのことを答えた、それらはそれでもこれらとして述べることができる——

(1) 人間は自分の性質から、そしてまた出生から、すべての獣よりもさらに愚かであり、ここから下等である。もし教育されないなら同様になる。
(2) 音節に区切って音で表現することを、ここから話すことを学ぶので、教育され、そのことによって思考を明らかにし始めることができる。このことが連続的にますます、社会の法律を明らかにすることができるまで〔続く〕、それでもそれらの多くのものは獣に出生から刻みつけられている。
(3) 推理力が人間と等しく獣にある。
(4) それゆえ、もし獣が話すことができるなら、すべての事柄について人間のように、それほど巧みに推論することができる。その事柄のしるしは理性と思慮分別から人間と等しく考えることである。
(5) 理解力は太陽からの光の単なる変化であり、熱と協力して、エーテルを手段として、そのように単なる手段として、自然の内的な活動である。これは知恵のように見られるまで高められることができる。
(6) それゆえ、人間が死後、獣よりもさらに生きると信じることは空虚である。おそらく、死後、何日かの間、身体のいのちの蒸発から幽霊の姿の下に、自然の中に消散される前のもやのように見られることができる。灰から灌木がその形に似たものへ生き返るように見られるのとほとんど異ならない
(7) したがって、宗教は、それは都市の法律によって外面的に保たれ、単純な者たちがその法律によって抑制の中に保たれるために、死後のいのちを教える作り事である。

これらに、単なる才気ある者はそのように推論する、けれども、知性ある者たちは〔そうで〕ない、とつけ加えた。
質問した、「知性ある者たちは何を〔考えているのか〕」。
彼らは言った、「聞いていない、しかしこのような意見を持っている」。

結婚愛

151b◀︎目次▶︎152b

152a (10) 貞潔は、姦淫を宗教の悪であると信じない者について、さらにまして姦淫を社会の害であると信じない者について述べられることができない
 貞潔は彼らについて言われることができません、何が貞潔か、その存在も知らないからです。というのは、貞潔は、この章の最初に示されたように結婚に属すものであり、姦淫が宗教の悪であることを信じていない者は、結婚もまた不貞なものにするからです、そのときそれでも夫婦のもとの宗教が彼らの貞潔をつくっています。このように彼らに何も貞潔はありません、それゆえ、彼らの前で貞潔の名称はむなしいものとなります。これらの者は確信からの姦淫者です――けれども、姦淫が社会の害であることを信じない者は、前の者よりも何か貞潔か、それが存在することも、さらにいっそう知りません。というのは、故意の姦淫者であるからです。
 もし、結婚は姦淫よりも不貞であることが少ない、と言うなら、これを心でなく、口で言います、彼らのもとで結婚は凍っているからです。この冷たさから貞潔な熱について話す者は、結婚愛について貞潔な熱の観念を持つことができません。
 彼らがどのようなものか、彼らの思考の観念がどのようなものか、またここから彼らの話しの内的なものがどのようなものか、姦淫者の狂気についての第二部で見られます。

結婚愛

152a◀︎目次▶︎153a

152b これらを聞いて、机に向かって座っていたすべての者は言った、「おお、どのような時代が、今、地上に〔あるのか〕。ああ、知恵はどんな変化を被ったのか。愚かな才気へ向きを変えていないか? 太陽は沈み、地の下にあり、真昼と正反対の反対側にある。
 だれが、森の中に残され、見つけられた実例から、教育のない人間がこのような者である、と知ることができないか? 彼は教えられるようなものとならないか? 獣よりも無知の中に生まれていないか? 歩くことと話すことを学ぶのではないか? もし歩くことを学ばないなら、自分自身を足の上に立てるのか? もし話すことを学ばないなら、何らかの考えをつぶやくのか? すべての人間は教えられるような者、虚偽から狂う者、そして真理から賢明な者ではないか? 虚偽から狂っている者は、真理から賢明である者よりも賢明であるというまったくの幻想の中にいるのではないか? 森の中で見つけられた者よりもさらに人間でない、愚かで、気違いじみた人間が存在しないか? 記憶を失った者は、これらの者と同様でないのか?
[2]私たちは、これらから結論する。人間は教育なしに人間でないこと、獣でもない、しかし形であること、それはそれ自体の中に人間をつくるものを受け入れることができること、このように人間は生まれていない、しかし人間になること。また、人間はこのような形に、神からのいのちを受け入れる器官であるように生まれていること、主体であるような目的のために、神はその中にすべての善をもたらすことができ、ご自分との結合によって永遠に幸福にすること。
 あなたがたの話しから私たちは知覚する。今日の知恵は、獣のいのちの状態と関連させて、人間のいのちの状態について、まったく何も知らないほどに消滅し、愚鈍にされた。ここから、死後の人間のいのちの状態も知らない——しかし、これを知ることができるが、知ることを欲しない、ここからそれを否定する者を、あなたがたキリスト教徒の多くの者が行なうように、私たちは森の中で見つけられた者にたとえることができる。教育を取り去ることからそのように愚かにされるのではない、しかし感覚の欺きによってである、それらは、自分自身をそのように愚かな者にする真理の暗やみである。

結婚愛

152b◀︎目次▶︎153b

153a (11) 貞潔は単に外なるいろいろな原因のために姦淫を慎む者について述べられることができない
多くの者が、単に身体で姦淫を断つことが貞潔であることを信じています、そのときそれでも、それを同時に霊でも断つのでないなら貞潔ではありません。ここで情愛と思考に関する彼の心が意味される人間の霊が、貞潔と不貞をつくります、というのは、ここから身体の中につくるから。というのは、身体は完全に心すなわち霊のようであるからです――ここから、霊からでなく身体で姦淫を断つ者は、身体〔的な原因〕から霊でもまた断つ者は、貞潔ではないことがいえます。
人間がそれを身体〔的な原因〕で、そしてまた、身体から霊で断念させるようにする多くの原因が存在します。しかしそれでも、霊から身体でそれをやめない者は不貞です。なぜなら、主は言われるからです、

だれかが他の女を、彼女をほしがるように眺めるなら、すでに自分の心の中で、彼女と姦淫を犯しています(マタイ5:28)。

[2]身体だけで姦淫を断つすべての理由は、列挙されることができません、なぜなら、結婚の状態にしたがって、そしてまた、身体の状態にしたがってさまざまであるからです――というのは、市民の法律とその罰の恐れから断つ者がいるからです。名声とここから名誉が失われる恐れから、それからの病気の恐れから、家で妻からがみがみ言われ、ここから生活の安らぎを失う恐れから、夫または親類からの復讐の恐れから、そして召使いからのむち打ちの恐れから、なおまた、貧乏または貪欲(しみったれ)、または、あるいは病気からあるいは濫用から、あるいは老齢から、あるいは(性的)不能から起こった虚弱からから断つ者がいます。
さらにまた、これらの者の間に、その者は身体でできないかまたはあえてしないで、それゆえ、霊でもまた姦淫を、このようにそれに対して道徳的に批難し、結婚のために(賛成して)話す者がいます――しかし、これらの者は霊からではなく、宗教から霊からではなく、姦淫を忌み嫌うなら、それでも姦淫者です、なぜなら、たとえ身体でなくても、それでも霊でそれを犯すからです。それゆえ、死後、霊となる時、公然とそれに賛成して話します。
これらから、不信心な者も姦淫を害として避けることができること、しかしそれを罪として避けることは、キリスト教徒でないならできないことが明らかです。
さて、これらから〝貞潔は単に外なるいろいろな原因のために姦淫を慎む者について言われることができない〟という〔ここの〕主題の真理が明らかです。

結婚愛

153a◀︎目次▶︎154a

153b しかしその時、ある者がパラディウム(知恵の神殿)の真ん中に立ち、手にシュロをつかんで、言った、「どうぞ、神の形につくられた人間が、どのように悪魔の形に変えられることができたか、この秘義を説明しなさい——私は、天使が神の形であり、地獄の使いが悪魔の形であること、二つの形が互いに正反対であり、前者が知恵の形、後者が狂気の形であることを知っている。それで、言いなさい、神の形に創造された人間が、どのようにして、昼からこのような夜に変わることが、そのように神を、永遠のいのちを否定することができたのか」。
[2]これに教師たちが順に、最初にピュタゴラスの追随者、その後、ソクラテスの追随者が、その後、他の者たちが答えた。
 しかし彼らの間にプラトンの追随者である者がいて、この者が最後に話し、この見解がまさった。これらであった。「サートゥルヌスの時期すなわち黄金時代に、人間は、神からのいのちを受ける形であることを知り、認めていた。それゆえ、知恵が彼らの霊魂と心に刻まれており、ここから、真理の光から真理を見て、真理によってその愛の快さからの善を知覚した——しかし、人類が続く時代に彼らのもとの知恵のすべての真理とここからの愛の善は、絶えず神から流入するという認知から去ったように、神の住まいであることが終わった。そしてまたその時、神との会話が、天使との交わりがやんだ。というのは、彼らの心の内的なものは、上方へ、神により神へ高揚されるものであったその方向から、ますますゆがんだ方向へ、外へ、世へ、このように神により世を通して神へ曲げられ、最後に反対の方向へひっくり返された、それは下方への、自分自身への方向である。神は、逆さにされ、向きを変えられた内なる人から見られることができないので、人間は神から分離し、地獄の形に、このように悪魔につくられた。
[3]これらから、最初の時期に心でまた霊魂で認めた愛のすべての善は、ここから知恵の真理は、彼らに神からあること、そしてまたそれらは彼らの中の神のものであること、このように彼らは神からのいのちの単なる器であること、ここから神の映像・神の子・神から生まれた者と呼ばれたことがいえる——しかし続く時期に、それを心と霊魂で認めないで、ある種の間違った信念の信仰で、その後、歴史に基づく信仰で、また最後に、口だけで認めた。このように口だけで認めることは、認めることではない、それどころか、それを心で否定することである。
 これらから、地上のキリスト教徒のもとの今日の知恵がどのようなものであるか、たとえ彼らに、書かれた啓示から、神から霊感を受けることができても、その時、人間と獣の間の相違を知らない、と見られることができる。ここから多くの者が、もし人間が、死後に生きるなら、獣もまた生きる、または獣が死後に生きないので、人間も生きないと信じている。心の視覚を照らす私たちの霊的な光は、彼らのもとで暗黒となっていないか? 身体の視覚だけを照らす彼らの自然的な光は、彼らに輝きとなっていないか?」

結婚愛

153b◀︎目次▶︎154b

154a (12) 貞潔は結婚が不貞であると信じている者について述べられることができない
これらの者は何が貞潔か知りません、存在することも知りません(それらの者については前の152a番)。そのように、彼らは、貞潔は独身生活の中にだけあるとみなす者であり、彼らについて〔この後〕続けます。

結婚愛

154a◀︎目次▶︎155a

154b この後、すべての者はふたりの到着者に向きを変え、その到着とその語ることに対して彼らに感謝し、このように聞いたものを、自分の仲間に報告するよう懇願した。
 到着者は、「自分たちの仲間に、仁愛の善と信仰の真理を自分自身にでなく、神に帰せば帰すほど、それだけ人間であり、そしてそれだけ、天界の天使になるという真理を確信させよう」と答えた。

結婚愛

154b◀︎目次▶︎155b

155a (13) 貞潔は、終生の独身を誓って結婚を放棄した者について、彼らの中に真の結婚生活への愛がなく、残存しないなら、述べられることができない
 これらの者について貞潔について言われないのは、結婚愛は独身を続ける誓いの後、捨てられるからです、それでもなお、それについて、もっぱら貞潔が言われます。それでも創造からまたここから性への性向が出生から内在し、これが抑制され、服従させられるとき、その性向が熱に、ある者のもとで熱情に変わるしかなく、それは身体から霊へ伸びる時、それを害し、ある者のもとで、それを汚すからです。また、ここから汚された霊は宗教も汚し、これらはそこに神聖さのあるその内なる座から、外なるものの中に投げ捨てられ、そこに口と身振りだけのものになります。それゆえ、主により、その独身(主義)が彼らのもとにだけあることが備えられています、その者は外なる礼拝の中にいて、主に近づかず、みことばも読まないからです。貞潔の誓約と一緒に、命じられた独身(主義)によって、これらの者のもとで、永遠のいのちは、内なる礼拝の中にいる者のように危険にさらされません――追加の事実は、多くの者がその生活の状態へ意志の自由から入っていないことです、しかしある者は理性からの自由の中にいる前に、ある者は世からの誘惑を避けるために入っています。
[2]主の礼拝に没頭するために、心を世から引き離したために、その状態を受け入れた彼らに貞潔があるとすれば、彼らのもとに真の結婚愛が、その前の状態があったか、あるいはその後に生じ、また残ったかであり、このときの生活の愛が、それについて貞潔が言えるからです。
 というのは、そのために、修道院のすべての者は、死後、最後には自分の誓いから解放され、自由の中へ放たれ、内的な誓いと自分の愛の願いにしたがって、あるいは結婚の生活、あるいは結婚外の生活の選択へと導かれるからです。その時、結婚の生活を始めるなら、礼拝の霊的なものを愛した者は、天界での婚姻が与えられます。しかし、結婚以外の生活を〔始める〕者は、天界の脇に住んでいる〔自分と〕似た者たちへ送られます。
[3]私は天使たちに「信心に専念し、自分自身を主の礼拝に引き渡し、このように自分自身を世の欺瞞から、また肉の欲望から遠ざけ、永続する処女性を誓約した女性たちは、天界へ受け入れられますか?彼女たちの信仰にしたがったそこの幸福な者の間の最初の者になりますか?」と質問しました――しかし、天使たちは、「ある者は受け入れられます、しかし、そこで結婚愛のスフェアを感じるとき、悲しみと不安が生じ、その時、ある者は自発的に、ある者は許可を願って、またある者は命令されて、去り、送り出されます。また、その天界の外にいるとき、彼女たちに、世で似た生活状態にいた仲間への道が開かれます。その時、不安から元気になり、そして、自分たちの間で喜びます」と答えました。

結婚愛

155a◀︎目次▶︎156a

17 金色の雨と大広間について、そこで妻たちが結婚愛についていろいろなことを話した

155b (第二のメモラビリア——)
ある朝、私の上方のある高いところから、極めて心地よい歌を聞いて、私は目覚めた。目覚めの最初に、内なるものであり、その日に続くものよりも平和なまた心地よいものであった。私はある時間、まるで身体の外かのように、霊の中に保たれることができ、歌われている情愛に敏感に気づくことができた。
天界の歌は、口を通して発せられる〔歌の〕調子のような心の情愛でしかない。というのは、話し方にいのちを与える愛の情愛からの音声であり、話されるものから分離しているからである。
私はその状態の中で、天界の妻たちにより歌となった結婚愛の歓喜の情愛であったことを知覚した。そのようであったことを、私は歌の音声から、その中で、その歓喜が驚くべき方法で変えられたことに気づいた。
この後、私は起き上がり、霊界を眺めた。見よ、東の太陽の下に、そこに金色の雨のようなものが見られた。そのように豊かに降っている朝の露であった、それは太陽からの光線により打たれたものであり、私の視覚の前に金色の雨の外見が示された——ここからさらに十分に目覚めて、私は霊の中に出た、その時、偶然に私と出会った天使に、私は、太陽から降っている金色の雨を見たか質問した。
[2]彼は、結婚愛について瞑想の中にいるたびごとにそれを見ると答え、その時、そこへ目を向けた。
言った、「その雨は、東の楽園の中央に住んでいる三人の夫たちが自分の妻とともにいる大広間の上に落ちています。太陽から降ってくるこのような雨がその大広間の上に見られるのは、彼らのもとに結婚愛とその歓喜についての知恵が、夫のもとに結婚愛についての知恵が、妻のもとにその歓喜についての知恵が住んでいるからです——しかし私は、あなたが結婚愛の歓喜について瞑想の中にいることを知覚します、それゆえ、私はあなたをその大広間へ案内し、導きましょう」。
楽園を通って、私を家へ導いた、それはオリーブの木から建てられ、入り口の前に二つの杉の柱があった。私を夫たちへと導き、彼らの居合わす中で、妻たちと話すことを私に許すように懇願した。彼らは同意し、彼女たちを呼んだ。
彼女たちは私の目を鋭く調べた。私は質問した、「なぜ、そのようにするのですか?」
彼女たちは言った、「私たちは、あなたの性向とここから情愛を、またこれから性愛についての思考を敏感に見ることができます。私たちは、あなたがそれについて熱心に、しかしそれでも貞潔に熟考していることを見ます」——彼女たちは言った、「それについて、あなたは私たちに何を言ってほしいですか?」
私は答えた、「言ってください、私は結婚愛の歓喜について何らかのものを求めています」。
夫たちは同意して、言った、「よろしければ、それらについて何らかのものを明かしなさい。彼らの耳は貞潔です」。
[3]彼女たちは質問した、「だれが、あなたに教えたのですか? その愛の歓喜について、私たちに質問することを、なぜ、夫にではなく?」
私は答えた、「私とともにいるこの天使が私に、耳の中に言いました、妻たちは歓喜の容器、感覚の容器であり、生まれついた愛であり、すべての歓喜は愛のものであるからです」。
これらに口をほほ笑ませて答えた、「賢明であってください。このようなことを、あいまいな意味でないなら言わないでください、私たち〔女〕性の心の中に、深くたくわえられた知恵であるからです、真の結婚愛にいないなら夫のだれにも明かされないものです。多くの理由があり、それらを、私たちは深く隠しています」。
その時、夫たちは言った、「妻たちは私たちの心のすべての状態を知っています、彼女たちに何も隠れていません。私たちの意志から発出する何でも見て、知覚し、感じます。逆に、私たちは、妻たちのもとに何も見ず、知覚せず、感じません。これは妻たちに与えられています、最も繊細な愛であるからです、結婚の友情と信頼の維持のためのあたかも燃えるような熱意で、このように両方のいのちの幸福で、それを夫と自分自身で準備し、それらの愛に植え付けられた知恵から、愛していると言わない、愛されたいと言わないような、ここから言うことができないほどの思慮分別に満ちています」。
私は質問した、「なぜ、言いたくないのですか、ここからできないのですか?」
もしこのようなものが少しでも彼女たちの口からもれるなら、冷たさが夫に入り込み、ふしど・寝床・視野からの分離が起こると答えた。「しかしこのことは、結婚に聖なるものを持たない、それゆえ、霊的な愛から自分の妻を愛さない者に生じます。愛している者には異なって生じます。これらの夫の中でその愛は霊的であり、ここから身体の中で自然的です——この大広間にいる私たちは、それ〔前者の愛〕からこの〔後者の〕愛の中にいます、それゆえ、私たちは、私たちの結婚の愛の歓喜についての秘密を夫に委ねています」。
[4]その時、私は、私にもまた彼らの秘密について何らかのものを明かすよう熱心に願った。
直ぐに彼らは南の方角の窓を眺めた、見よ、白く輝くハトが見られた、その翼は銀からのように輝き、頭は金からのような冠が飾られていた、枝の上に止まっていて、それからオリーブの実が出ていた。そのハトが翼を広げようとしていたとき、妻たちは言った、「私たちは何らかのものを明かします。そのハトが見られる時、〔明かすことが〕私たちに許されるしるしです」。
言った、「それぞれの男に五つの感覚、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚があります。しかし、私たちに、第六のものもまたあり、それは夫の結婚愛のすべての歓喜への感覚です。この感覚は、私たちが私たちの夫の胸・腕・手またはほほを、特に胸を触れる時、そしてまた彼らから触れられる時、私たちの手のひらの中にあります。彼らの心(mens)の思考のすべての喜びと楽しさは、彼らの心(アニムス)のすべてのうれしさと快さは、そして彼らの胸のお祭り気分と機嫌のよさは、彼らから私たちの中に移り、それ自体を形作り、知覚できるもの、感知できるもの、触れることができるものになります。私たちはそれらを、耳が歌の旋律を見分け、舌がごちそうの味を見分けるように、これほどに鋭敏にまた明確に見分けます——一言でいえば、夫たちの霊的な快感が、私たちのもとで具体化するかのように自然的なものを着るのです。それゆえ、私たちの夫たちから、私たちは、貞潔な結婚愛の感覚器官の器官、またここからその歓喜の器官と呼ばれています。
しかし、この私たちの性の感覚は、私たちの夫たちの中に、知恵を判断から〔夫たちが〕愛し、また逆に私たちが彼らを、彼らの中の同じものから、私たちが愛すれば愛するほどますます段階で高められ、存在し、残り、続きます。私たちの性のその感覚は、天界の中で知恵とその愛との戯れ、愛とその知恵との戯れと呼ばれています」。
[5]これらから私は多くのことを、例えば、歓喜の変化について質問したい願いをかきたてられた。
言った、「それらは無限です。しかし多くのことを言いたくありません、窓のハトが、足の下のオリーブの枝とともに飛び去ったので、それゆえ、できもしません」。
私は帰還を期待した、しかしむだだった。
その間、私は夫たちに質問した、「あなたがたに同様の結婚愛の感覚があるのですか?」
彼らは答えた、「それは私たちに全般的にあり、個別的にはありません。私たちの妻の個別的なものから、私たちに全般的な祝福・全般的な快さ・全般的な楽しさがあります。彼女たちから私たちにあるこの全般的なものは、平和の穏やかさのようなものです」。
これらが言われて、見よ、窓を通してイチジクの木の枝の上に止まっている白鳥が見られ、翼を広げ、飛び去った。
これが見られて、夫たちは言った、「これは私たちに、結婚愛について沈黙のしるしです。戻りなさい、別の機会に、おそらく多くのことが明かされるでしょう」。
そして彼らは退き——私たちは去った。

結婚愛

155b◀︎目次▶︎156b

156a (14) 結婚の状態は独身の状態よりも優先されるべきである

 このことは、結婚と独身についてこれまで言われたそれらから明らかです。
結婚の状態が優先されるべきであることは、それが創造からであり、その起源は善と真理の結婚であり、その対応は主と教会の結合にあり、教会と結婚愛は不変の仲間であるからです。その役立ちは創造のすべての役立ちよりもさらにすぐれているからです、というのは、ここから秩序にしたがって人類の、そしてまた天使の天界の繁殖があるからです、というのは、天界は人類からであるから。これらに追加の事実は、結婚は人間性に満ちたものであることです、というのは、そのことによって、人間は完全なものになるからです、そのことは次章の中で示されるべきもの〔として〕続けられます――それらすべてのものは独身の中にありません。
[2]しかし、「独身の状態は結婚の状態にまさる」という提唱が、もし証拠によって、同意を得て確立されるようなら、調査に残され、その時、これらによって、これらが出てきます――結婚は神聖なものでない、貞潔も存在しないこと。それどころか、貞潔は女性の中で結婚を断ち、永続する(=生涯の)処女性を誓うものでしかないこと。また、なおまた(ほかに)、永続する独身を誓う者は、「 去勢された者、その者は神の王国ために自分自身を去勢された者にする」(マタイ19:12)によって意味されること、ほかに多くのことが、その真理でない提唱から〔ありますが、それら〕もまた、真理ではありません――「去勢された者、その者は神の王国ために自分自身を去勢された者にする」によって、霊的な去勢された者は、結婚の中で淫行の悪を断っている者が意味されます。イタリアの去勢した歌手(カストラート)が意味されないことは明らかです。

結婚愛

156a◀︎目次▶︎157

(七)もはや二つではなく、一つの肉であるという主のことばによって意味される結婚による霊魂の結合と心の結合について

156b 男と女は創造から、一つのものの中にあるような結合の性向と能力もまた植え付けられていること、それら両方のものが男と女に依然として内在することは、「創造の書」から、また同時に主のことばから明らかです。
「創世記」と呼ばれる「創造の書」の中に読まれます、

神エホバは、肋骨を人間から取り出し、女として建造された。彼女を人間へ連れて来られた。人間は言った、「今や、私の骨から骨、また私の肉から肉。これの名前はイシャと呼ばれる、これがイシュ(男)から取り出されたからである」――このために男は自分の父と自分の母を見捨て、自分の妻に結びき、一つの肉になる(2:22–24)。

同様に、主もまた「マタイ福音書」で言われました――

あなたがたは読んでいないのですか? 初めから男と女を造られた方は……「このために、人間は父と母を見捨て、自分の妻に結びつき、二つのものは一つの肉になる。それゆえ、もはや二つではなく、しかし一つの肉である」と言われたことです(19:4, 5)。

[2]これらから、女が男から創造されたこと、また両方のものにそれ自体を一つのものの中に再結合させる性向と能力があることが明らかです。一つの人間の中に〔再結合されること〕は、「創造の書」からもまた明らかであり、そこに両方のものが一緒に「人間」と呼ばれています。というのは、読まれるから、

神は人間を創造したその日に……彼らを男と女に創造し……彼らの名前を人間と呼ばれた(創世記5:1, 2)。

そこに「彼らの名前をアダムと呼ばれた」と読まれます、しかし、アダムと人間はヘブル語で一つの言葉です――なおまた両方の者が一緒に人間と呼ばれています(そこの1:27, 3:22–24)。一つの肉によってひとりの人間もまた意味され、そのことは、みことばでそこに「すべての肉」と言われている箇所から明らかであり、そのことによってすべての人間が意味されます(例えば、創世記6:12, 13, 17, 19。イザヤ40:5, 6, 49:26, 66:16, 23, 24, エレミヤ25:31, 32:27, 45:5, エゼキエル20:48, 21:4, 5, また他の箇所に)。
[3]けれども女として建造された「男の肋骨」によって何が、その代わりにふさがれた「肉」によって何が、このように「私の骨からの骨、また私の肉からの肉」によって何が、男が結婚の後、捨てた「父と母」によって何が、また「妻と結びつくこと」によって何が意味されるか、それは『天界の秘義』の中に示されています、そこには二つの書、「創世記」と「出エジプト記」が霊的な意味に関して説明されています。
「肋骨」によって肋骨が、「肉」によっても肉が、「骨」よっても骨が、そして「結びつく」ことによって結びつくことが意味されていません、しかし、それらに対応する霊的なものが意味され、そこに示されています――二つのものからひとりの人間をつくる霊的なものが意味されることは、結婚愛が彼らを結合し、その愛が霊的なものであることから明らかです。
男の知恵への愛が妻の中に移されることは、前に何度か、言われており、これに続く章で、さらに十分に論証(確認)されます。今や、ここに示された主題から立ち去り、このように脇道へそれることことは許されません、それらはふたりの配偶者が霊魂と心の結合によって一つの肉へと結合することについてです。
しかし、この結合を次の順序で明らかにします――

(1) 創造から両方の性に能力と性向が、一つのものとして結合されることができるように、欲するように植え付けられている。
(2) 結婚愛は、二つの霊魂を、ここから心を一つのものへ結合する。
(3) 妻の意志はそれ自体を男(夫)の理解力に、ここから男(夫)の理解力は妻の意志に結合する。
(4) 妻のもとに男(夫)を自分自身に結合させるための性向が変わらずに、永続的にある、しかし男(夫)のもとに一定でなく、交替的である。
(5) 妻から彼女の愛にしたがって男(夫)に結合が吹き込まれ、彼の知恵にしたがって男(夫)により受け入れられる。
(6) その結合は結婚の最初の日々から連続的に行なわれ、真の結婚愛にいる者のもとで永遠に深くまた深く行なわれる。
(7) 夫の理性的な知恵との妻の結合は内部から、しかしその道徳的な知恵との妻の結合は外部から行なわれる。
(8) 目的としてのその結合のために、妻に夫の情愛を知覚することが、そしてまた抑制する最高度の思慮分別が与えられている。
(9) 妻はこの知覚を自分自身のもとにたくわえ、夫から隠している、結婚愛・友情・信頼のために、このように同棲の至福と生活の幸福が確実にされるために必要品であるという理由のためである。
(10) この知覚は妻の知恵である。これは男(夫)のもとにありえない、男(夫)の理性的な知恵も妻のもとにありえない。
(11) 妻は、男(夫)を自分自身に結合させるつもりで、自分に向けられる彼の性向について常に考えている。男(夫)は異なっている。
(12) 妻は、男(夫)の意志の願望に向けて適応させて、自分自身を男(夫)に結合する。
(13) 妻は、自分の愛から出るそのいのちのスフェアによって、自分の男(夫)に結合される。
(14) 妻は、男のその力を自分のものにすることによって夫に結合される。しかし、このことは彼らの霊的な相互愛にしたがって生じる。
(15) このように、妻は自分の夫の映像を自分自身の中に受け入れ、ここから知覚し、彼の情愛を見、感じる。
(16) 男(夫)に固有の本分があり、妻に固有の本分がある。妻は男(夫)の固有の本分に、男(夫)も妻の固有の本分に入ることができず、それらを正しく果たすことができない。
(17) それらの本分もまた相互の助けにしたがって、ふたりをひとりに結合する。同時に一つの家をつくる。
(18) 夫婦は、前に言われた結合にしたがって、ますますひとりの人間になる。
(19) 真の結婚愛にいる者は、自分たち自身を結ばれた人間に、一つの肉のように感じる。
(20) 本質的に眺められた真の結婚愛は、霊魂の合体、心(mens)の結合であり、胸の中のまたここから身体の中の結合へ向かう活動(努力)である。
(21) この愛の状態は、無垢・平和・静けさ・最内部の友情・完全な信頼、そして、他の者にすべての善を行なおうとするアニムス(気質)と心(cor)の相互の願望である。それらのすべての至福・幸せ・快さ・快楽から、またこれらの永遠の享受から、天界の幸福がある。
(22) これらは、ひとりの妻とひとりの男(夫)の結婚の中でないなら、決して存在することができない。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

156b◀︎目次▶︎158

157 (1) 創造から両方の性に能力と性向が、一つのものとして結合されることができるように、欲するように植え付けられている
 女が男から取られたことは直ぐ前に「創造の書」から示されました――両方の性にそれ自体を一つのものの中に結合する能力と性向があることは、ここからいえます。というのは、他のものから、その固有のものから得て、保持し、自分のものをつくるものが取られたからです。同質であり、再結合をしたがり、再結合があるとき、その〔他のもの〕中にあるとき本質的に〔存在し〕、逆でもそのようであるからです。
 一つの性がもう一つのもの〔性〕と結合の能力があること、すなわち結合されることができることは、これは何も異議が唱えられません。それ自体を結合へ向ける性向もあります。というのは、その両方とも、個人的な観察に基づく経験により教えられるからです。

結婚愛

157◀︎目次▶︎159

158 (2) 結婚愛は、二つの霊魂を、ここから心を一つのものへ結合する
 それぞれの人間は、霊魂・心・身体から構成されます。霊魂はその最内部のものであり、心はその中間のものであり、身体は最外部のものです。
 霊魂は人間の内部のものであるので、それは起源から天的なものです。心はその中間のものであるので、それは起源から霊的なものです。身体は最外部のものであるので、それは起源から自然的なものです――起源から天的なものであるものと起源から霊的なものであるものは、空間の中にありませんが、空間の外観の中にあります。このこともまた世でよく知られています、それゆえ、霊的なものについては広がりも場所も属性とされることができないことが言われます。
 そこで、空間が外観であるとき、距離と臨在もまた外観です。
 霊界の距離と臨在が、愛の近似・近親・姻戚(親近感)にしたがっていることは、その世界についての小著(出版物)の中で、しばしば示し、確証しました。
[2]これらが、人間の霊魂と心は、身体のように空間の中にないことが知られるために言われました、それら〔霊魂と心〕は、前に言われたように、天的なまた霊的な起源からのものであるからです。空間の中にないので、たとえ同時に身体で〔結合され〕なくても、一つのもののように結合されることができます。
 このことは、特に、相互に深く愛している夫婦の間で生じます――しかし、女は男からであり、その結合は再結合の類いのものであるので、一つのものへの結合ではなく、愛にしたがった接合・近隣・親戚〔関係〕であり、真の結婚愛にいる者のもとの接触へ向けたものであることが理性から見られることができます――この接合は霊的な同棲と呼ばれ、それはどれほど身体で離れていても互いにやさしく愛する夫婦のもとに存在します。このことを確証する経験からの多くの実例が、自然界にも存在します。
 これらから、結婚愛が二つの霊魂をまた心を一つのものに結合することが明らかです。

結婚愛

158◀︎目次▶︎160

159 (3) 妻の意志はそれ自体を男(夫)の理解力に、ここから男(夫)の理解力は妻の意志に結合する
 その理由は、男は理解力になるように、そして女は男の理解力を愛する意志になるように生まれているからです。そのことから、結婚の結合は、夫の理解力と妻の意志の結合であり、妻の意志と夫の理解力の結合であり、交互のものであることがいえます。
 最も親しい結合が理解力と意志にあること、また、一方の能力がもう一方の能力の中に入り、そして結合から、その中で楽しむことができるようなものであることを、だれでも見ます。

結婚愛

159◀︎目次▶︎161

160 (4) 妻のもとに男(夫)を自分自身に結合させるための性向が変わらずに、永続的にある、しかし男(夫)のもとに一定でなく、交替的である
 その理由は、愛は、愛し返されるために、愛し、それ自体を結合することしかできないからです。その本質といのちは他のものではありません。そして、女たちは愛に生まれています、しかし、男たちは、愛し返されるために、それらに自分自身を結合するとき、受け入れるものです。
 さらに、愛は絶えずある効果をひき起こします。熱・炎・火のようであり、それは、もし効果をひき起こさないように抑制されるなら、失われます。ここから、自分自身に男を結合するための性向が、妻のもとに不変のものも永続するものです――けれども、男のもとに妻への同様の性向がありません、男は愛ではなく、単に愛を受け入れるものであるからです。受け入れの状態は、さえぎる不安にしたがって、あったり、欠けたりします。心の中のいろいろな原因から熱のあるなしの変化にしたがって、また身体の中の力の増大減少にしたがって、それらは一定不変でなく、定まった時間で戻らないからであり、それらの結合への性向は男のもとで不定で、交替的であることがいえます。

結婚愛

160◀︎目次▶︎162

161 (5) 妻から彼女の愛にしたがって男(夫)に結合が吹き込まれ、彼の知恵にしたがって男(夫)により受け入れられる
 愛とここからの結合が妻から夫(男)に吹き込まれていることは、今日、夫(男)たちに隠されています、それどころか一般的に彼らから否定されています。その理由は、「妻たちは、夫(男)たちだけが愛する、自分たち自身は受けること」、または、「夫(男)は愛である、自分たち自身は従順であること」を確信させるからです。夫(男)たちがそのように信じる時、〔妻たちは〕心から嬉しがります――このことを彼らに確信させる多くの原因があります、それらは妻たちの思慮分別と慎重さのすべてのものであり、それらについて何らかのものを続きの中で、特に「夫婦の間の冷淡・分離・離婚の原因について」の章で言います。
 愛を吹き込むことまたはしみ込ませることが、妻たちから夫(男)たちへであることは、夫(男)たちのもとに結婚愛は何もなく、性愛でさえ何もなく、妻と女たちだけのもとにあるからです。そのようであることは、霊界で私に生きいきと示されました――

[2]かつて、ここ〔霊界〕でこの事柄について会話があった、そして男(夫)たちは、妻たちからの信念から、妻たちでなく自分たちが愛すること、しかし、妻たちは愛を自分たちから受けることを主張した。
 この秘義〔について〕の論争が解決されるために、男(夫)たちからすべて女が、妻たちと一緒に、また同時にそれらともに性愛のスフェアそのものが遠ざけられた。それらが遠ざけられて、男(夫)たちはまったく未知の以前に決して感じられなかった状態の中にやって来た、そのことから大いに不平があった。
 その中にいた時、彼らに女たちが、また夫たちに妻たちが連れて来られ、そして彼女たちが優しく彼らに話しかけた。しかし、彼女たちのおべっかに対して冷たさの〔感情が〕ひき起こされ、背き、自分たちの間で言った、「これは何か?女とは何か?」
 また、ある者たちが、彼らの妻たちであることを言ったとき、彼らは答えた、「妻とは何か? 私たちはあなたがたを知らない」。
 しかし、妻たちが夫たちのこのまったくの冷たい無関心について悲嘆し、ある者が泣き始めたとき、今まで男(夫)たちに取り去られていた女の性愛のスフェア、結婚のスフェアが回復された。その時、男(夫)たちに直ちに前の自分の状態が戻った、結婚を愛する者たちはその中に、性を愛する者はその中に〔戻った〕。
 このように、男(夫)たちは、彼らのもとに住む結婚愛が何もない、性愛でさえ何もない、しかし妻と女たちだけのもとに住むことを確信させられた。
 しかしそれでも、その後、妻たちは自分の思慮分別から、愛が男(夫)たちのもとに住むこと、また何らかのその火花が彼女たちから自分自身の中に移ることができると信じることを男(夫)たちに、ひき起こした。

[3]この経験がここに示されたのは、妻たちが愛であり、男(夫)は受け入れるものであることが知られるためです。
 男(夫)は自分自身のものと知恵にしたがって、特に宗教から、妻だけを愛さなくてはならないことにしたがって、受け入れるものであることは、このことから、妻だけが愛されるとき、愛は集中させられ、高貴なものにもされ、その力強さにとどまり、持続し、存続することが明らかです。そのことはそうでなければ、小麦が穀物倉から犬に投げ捨てられる時のようになり、ここから家に欠乏が生じるでしょう。

結婚愛

161◀︎目次▶︎163

162 (6) その結合は結婚の最初の日々から連続的に行なわれる。真の結婚愛にいる者のもとで永遠に深くまた深く行なわれる
 結婚の最初の熱は結合しません、というのは、性愛から出ていて、それは身体に属し、ここから霊に属すものであるからです。身体から霊の中にあるものは、長い間、残りません。しかし、霊から身体の中にある愛は残ります。
 霊のものであり、霊から身体のものである愛は、友情と信頼と一緒に夫婦の霊魂と心に沁み込みます。これら二つのもの〔友情と信頼〕が結婚の最初の愛にそれ自体を結合させる時、結婚愛が生じ、それは〔ふたりの〕胸を開き、彼らに愛の甘味を吹き込みます。このことが、それら二つのもの〔友情と信頼〕が初期の(根源である)愛にそれ自体を結びつけるほど、後者は前者の中へ、また逆に〔前者は後者の中へ〕、さらに深くまたさらに深く入ります。

結婚愛

162◀︎目次▶︎164

163 (7) 夫の理性的な知恵との妻の結合は内部から、しかしその道徳的な知恵との妻の結合は外部から行なわれる
 男(夫)のもとの知恵は、理性的なものと道徳的なものの二重のものであり、それらの理性的なものの知恵は理解力だけに属し、道徳的な知恵は理解力と同時に生活に属すことは、熟慮と調査だけから結論され、見られることができます。
 しかし、男(夫)の理性的な知恵によって何が、その道徳的な知恵によって何が意味されるか知られるために、特に、何らかのものを列挙します。
 それらは、彼らの理性的な知恵であり、いろいろな名前で区別されています――全般的に、知識・知性・知恵と呼ばれます。けれども、特定的に、推理力・判断力・知力・学識・賢明さと呼ばれます。しかし、知識はそれぞれの者にその役割の中で特有であるので、それゆえ、さまざまです。というのは、聖職者に特有のもの・行政長官の人物に特有のもの・彼らのいろいろな職務に特有のもの・裁判官に特有のもの・医者と化学者に特有のもの・兵士と船員に特有のもの・技術者と職人に特有のもの・農夫に特有のもの等々があるからです。
 すべての知識もまた理性的な知恵に属していて、若者は学校の中でそれらへ、またそれらによってその後、知性へ導かれ、さらにまたいろいろな名前で呼ばれています、例えば、哲学・物理学・幾何学・機械学・化学・天文学・法律学・政治学・倫理学・歴史学、また多くのもの、それらによって、扉を通るかのように、理性的なものへ入れられ、それらから理性的な知恵が生じます。

結婚愛

163◀︎目次▶︎165

164 けれども、男(夫)のもとの道徳的な知恵はすべての道徳的な美徳です、それは生活に目を向け、そしてそれへ入ります――そしてまた、霊的な美徳があり、それは神への愛から、また隣人に対する愛から流れ出て、それへ合流します。
 男(夫)たちの道徳的な知恵に属する美徳は、それらにもいろいろな名前のものがあります、穏健・節制・正直・好意・友情・克己・誠実・配慮・礼儀正しさ、なおまた、精励・勤勉・才気・鋭敏さ・寛大・気前のよさ・高潔さ・活発さ・大胆さ・思慮分別、ほかに多くのもの。
 男(夫)のもとの霊的な美徳は、宗教への愛・仁愛・真理・信仰・良心・無垢、ほかに多くのものです。
 これらやそれらの美徳は全般的に、宗教のための、公共の善のための、祖国のための、市民のための、両親のための、配偶者のための、また子どものための愛と熱意に〔ついて〕述べられることができます。
 これらすべてのものの中で公正と判断が支配しています。公正は道徳的な知恵に属し、判断は理性的な知恵に属すものです。

結婚愛

164◀︎目次▶︎166

165 男(夫)の理性的な知恵との妻の結合は内部からであることは、この知恵が男(夫)たちの理解力に特有のものであり、光の中へ上がり、その中に女たちはいないからです。女たちがその〔知恵〕から話さないで、男(夫)たちの交わりの中で、似たものを議論するそれらの中で、黙り、単に聞くことがその理由です――それでもやはり内部から妻たちのもとにあることは聞くことから、夫から聞き、聞いたことを内部でそれらを認めていること、またそれらに賛同していることから明らかです。
 けれども、男(夫)の道徳的な知恵との妻の結合は外部からであることは、それらの知恵の美徳が大部分に関して女のもと同様のものに類似していて、男(夫)の理解力の意志から得ているからです、それらを妻の意志は結合させ、結婚をつくっています。妻は男(夫)のもとのそれらを、男(夫)よりもさらに、自分自身のもとにそれらを知っているので、それらとの妻の結合が外部からであることが言われます。

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165◀︎目次▶︎167

166 (8) 目的としてのその結合のために、妻に夫の情愛を知覚することが、そしてまた抑制する最高度の思慮分別が与えられている
妻たちが自分たちの夫たちの情愛を知っていること、用心深く(賢明に)それらを抑制していること、〔このこと〕もまた妻たちのもとに深く隠された結婚愛の秘密の間にあります――〔彼女たちは〕それらを三つの感覚、視覚・聴覚・触覚で知り、それらを自分たちの夫たちのまったくの無知のうちで抑制しています。
さて、それらは妻たちの秘密の間にあるので、それらを詳細に関して明らかにすることは私にふさわしくありません。しかし、妻たち自身にふさわしいので、それゆえ、章末に四つのメモラビリアが続けられ、それらの中で〔彼女たち〕自身により明らかにされます〔155b, 208, 293, 294番〕。大広間の上に金色の雨が落ちているように見られたその大広間に住んでいる三つの妻から二つ〔のメモラビリア〕、バラの園に座っている七つの妻たちから二つ〔のメモラビリア〕です。それらが、読まれるなら、この秘密が明かされ、見られます。

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166◀︎目次▶︎168

167 (9) 妻はこの知覚を自分自身のもとにたくわえ、夫から隠している、結婚愛・友情・信頼のために、このように同棲の至福と生活の幸福が確実にされるために必要品であるという理由のためである
 妻たちにより夫たちの情愛の知覚を秘密にすることと隠すことの必要性が〔があると〕呼ばれています、もし知られるようになるなら、夫たちは寝床・寝室・家から離れるからです。その論拠は、大部分の夫に多くの原因から結婚の冷たさが深く固く座っているからであり、それらは「配偶者(夫婦)の間の冷淡・分離・離婚の原因について」の章で示します。
[2]この冷たさは、もし妻たちが夫たちの情愛と性向を明らかにするなら、その隠れ場から突発し、そして最初に心の内部を、その後、胸を、ここから生殖に割り当てられている愛の最後のものを冷たくします。これらが冷たくされると、結婚愛は、友情・信頼・同棲の至福から、またここから生活の幸福の何らかの希望が残らないようにも追放されます。それでも、妻たちはそれらの希望で絶えず励まされています。
 夫たちのもとの愛の情愛と性向を知っていることを明らかにすることは、彼女たちの愛の宣言と公表することになります。妻たちがそれらについて口を開けば開くほど、それだけ、男(夫)たちは冷たくなり、分離を望むことがよく知られています。
 これらから、この節の真理の理由が明らかです、そのために妻たちは自分の知覚を自分自身のもとにしまい込んでいて、夫から隠していることが必要であることです。

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167◀︎目次▶︎169

168 (10) この知覚は妻の知恵である。これは男(夫)のもとにありえない、男(夫)の理性的な知恵も妻のもとにありえない
 このことは、男性と女性の間にある相違から言えます――理解力から知覚することは男のものであり、愛から知覚することは女のものです。そして、理解力は身体の上方のものを、世の外のものも知覚します、というのは理性的なまた霊的な視覚はそこへ進むから。しかし、愛は感じるものを超えません。越える時は、これを創造から確立された男の理解力との結合から得ています。というのは、理解力は光に属し、愛は熱に属し、光に属すものは見通され、熱に属すものは感じられるからです。
 これらから、男性と女性の間にある普遍的な相違のために、妻の知恵は男(夫)のもとに、男の知恵も妻のもとにありえないこと――男(夫)の道徳的な知恵も、それが彼の理性的な知恵から得られるかぎり女のもとにありえないことが明らかです。

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168◀︎目次▶︎170

169 (11) 妻は、男(夫)を自分自身に結合させるつもりで、自分に向けられる彼の性向について常に考えている
これらは前の説明と密接に関連します〔160番〕、すなわち、夫(男)を自分自身に結合させるために性向は妻のもとで変わらず、永続します、しかし夫(男)のともで一定でなくまた交替のものであることが見られます。それらから、自分自身に向けて夫(男)の性向について、彼を自分自身に結合させるつもりである妻の絶え間のない思いがあることがいえます――確かに、夫についての妻の思いは、彼女の関心事である家事によって中断されます、しかしそれでも、彼女の愛の情愛の中に残っていて、これらはそれ自体を女のもとの思考から、男のもとのように分離しません――しかし、これらを、私は語られたものとして話しています。バラの園に座っている七つの妻たちからの二つのメモラビリアを参照してください、それらはある章の後に続けられています〔293、294番〕。

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169◀︎目次▶︎171

170 (12) 妻は、男(夫)の意志の願望に向けて適応させて、自分自身を男(夫)に結合する
 これらはよく知られている親しいものの間にあります、それゆえ、これらの説明を省略します。

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170◀︎目次▶︎172

171 (13) 妻は、自分の愛から出るそのいのちのスフェアによって、自分の男(夫)に結合される
 それぞれの人間から、彼の愛の情愛からの霊的なスフェアが出ています、それどころか、湧き出て、彼を取り巻き、これが身体からの自然的なスフェアを着て、結合しています。身体から絶え間なく流れ出る自然的なスフェアは、人間からだけでなく、獣からも、それどころか、木・果実・花から、そしてまた鉱物からも〔流れ出ていることが〕、大衆によく知られています――霊界でも同様です。しかし、そこの主体から流れ出ているスフェアは霊的です、霊と天使たちから流れ出るスフェアは、深くて霊的です、それらに愛の情愛が、ここから内的な知覚と思考があるからです――すべての調和と反感は、そしてまたすべての結合と分離は、それらにしたがったそこの現存と不在はここからその起源を得ています、というのは、同質性または調和が結合と現存を、そして異質性と不一致が分離と不在をつくるからです。それゆえ、それらのスフェアはそこに隔たりをつくっています。
 それらの霊的なスフェアが自然界で何を生み出すか、ある者によく知られています。
 夫婦の互いの性向もまた他の起源からのものではありません。これら〔の夫婦〕を一致するまた調和するスフェアが結合し、そして対立するまた一致しないスフェアが分離させます。というのは、調和するスフェアは快くて、喜ばしく、そして一致しないスフェアは不快であり、いやなものであるからです。
[2]私はそれらをはっきり知覚している天使から聞きました、人間の内部のどんな部分にも、外部にも、それらはそれ自体を新しくしないものは何にもなく、それは分解と回復によって生じ、ここから、常に湧き出るスフェアがあることです――彼らは、「それらのスフェアは人間を背後と胸から取り囲みます、しかし背後から希薄に、胸から濃密にです。胸からのものは、それ自体を呼吸と結合しています。これゆえに、アニムス(気質)で異なり、情愛で一致しないふたりの夫婦は、寝床の中で、背中合わせに向きを変えて横たわります。逆に、アニムス(気質)と情愛で一致している者たちは、互に向きを向けて横たわります」と言いました。
[3]彼らは、「スフェアは、人間のすべての部分から出て、彼のまわりに広く伸びているので、ふたりの夫婦を外部からだけでなく、内部からもまた、結合させ、分離させます。ここから結婚愛のすべての相違と変化があります」とも言いました。
 最後に、彼らは、「やさしく愛されている妻から出ている愛のスフェアは、世で、最近に結婚した後の、最初の日々に夫から知覚されるよりも、天界の中で甘く香り、傑出して楽しいものように知覚されます」と言いました。
 これらから、妻は彼女の愛から出る自分のいのちのスフェアによって夫(男)に結合されると主張された真理が明らかです。

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171◀︎目次▶︎173

172 (14) 妻は、男のその力を自分のものにすることによって夫に結合される。しかし、このことは彼らの霊的な相互愛にしたがって生じる
 そのようであることを、私は天使たちの口からもまた把握しました。
 彼らは、「夫たちから向けられた生殖力はあらゆる点で妻たちにより受け入れられ、そして自分自身にそのいのちを加えます。このように妻たちは夫たちとともに、和合し、継続的に和合する生活を得ます。ここから霊魂の結合と心の結合が有効的に生じます」と言いました。
 この理由を彼らは、「夫の生殖力の中に彼の霊魂があり、そしてまた心がその内的なものに関して霊魂と結合しているからです」と言いました――彼らは、「このことは、彼の霊魂をつくる夫の知恵が妻に自分のものとされるために、そして、主のことばにしたがって一つの肉になるために、創造から備えられています――さらにまた、このことが、男の人間が、妊娠の後、ある種の幻想から妻を捨てないように備えられました」とつけ加えました。
 「しかし、妻たちのもとの夫たちのいのちの適用と自分のものとすることは結婚愛にしたがって行なわれます、霊的な結合である愛が結合するからであり、このこともまた多くの原因のために備えられています」と言い足しました。

結婚愛

172◀︎目次▶︎174

173 (15) このように、妻は自分の夫の映像を自分自身の中に受け入れ、ここから知覚し、彼の情愛を見、感じる
前に引用した原因から、証言されたものとして、妻たちは夫たちの知恵に属すものを、そのようにそれらは彼らのアニムスと心に特有のものである自分自身の中にそれらを受けること、このように自分自身を娘から妻にすることがいえます。
このことがいえる原因は次のものです――

(ⅰ) 女は男から創造された。
(ⅱ) ここから自分自身を結合させ、男(夫)と再結合させるような性向が内在する。
(ⅲ) その結合から、またそのために自分の配偶者とともに、女は男(夫)の愛に生まれ、ますます結合によって彼の愛になる。その時、愛は自分の思いを常に男(夫)を自分自身に結合させるために振り向けるからである。
(ⅳ) 彼女は自分の唯一の者に、彼のいのちの願望に向けての適用によって、結合される。
(ⅴ) 妻たちのもとの結婚愛の性質にしたがって、また同時に夫たちのもとのそれを受け入れている知恵の性質にしたがって、自分たちを一般的にまた特定的に取り囲み、そして結合させているスフェアによって結合される。
(ⅵ) 彼らもまた妻たちによる夫の力を自分のものにすることによって結合される。
(ⅶ) それらから、常に夫たちの何らかのものが妻たちの中に移され、彼女に彼女のものであるように刻み込まれることが明らかである。

これらから、夫の映像が妻の中に形作られ、夫の中にあるその映像から妻は、自分自身の中に、ここから、彼の中に自分自身のように、それらを知覚し、見る、感じることが明らかです。伝達手段から知覚し、外観(視覚)から見、触覚から感じます――夫からの愛を自分が受容していることを、ほほ・前腕・手・胸の上に、手のひらの中の触覚から感じていることを、大広間の三人の妻たちが、またバラの園の中の七人〔の妻たち〕が私に明かしました。それらについてはメモラビリアにあります〔155b, 293番〕。

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173◀︎目次▶︎175

174 (16) 男(夫)に固有の本分があり、妻に固有の本分がある。妻は男(夫)の固有の本分に、男(夫)も妻の固有の本分に入ることができず、それらを正しく果たすことができない
 男に固有の本分が、妻に固有の本分があることは、それらを列挙して説明する必要がありません、というのは、数多く、いろいろであるからです。また、それらを調べることへ心(アニムス)を向けさえすれば、それぞれの者がそれらを属と種にしたがって多数に分類することを知っています。
 妻たちがことのほか自分自身を夫と結合させる本分は、両性の幼児の教育、そして結婚式の年齢までの娘たちの教育です。

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174◀︎目次▶︎176

175 妻は男(夫)の特有の本分に、また逆に、男(夫)は妻の特有の本分に入ることができません、知恵とその愛のように、または思考とその情愛のように、または理解力とその意志のように異なっているからです――男(夫)の特有の本分で、理解力・思考・知恵が主要な役を演じます。けれども、妻の特有の本分で、意志・情愛・愛が主要な役を演じます。男(夫)は前者から自分の本分を行ない、妻は後者から自分の本分を行ないます。それゆえ、彼らの本分はその特質から異なっています。しかしそれでも、継続的な連鎖の中で結合しています。
[2]多くの者により、女たちは少年のように最初の年齢からそれらに導かれさえすれば、男たちの本分を果たすことができる、と信じられています。しかし、それらの実践の中ではできます、けれども本分の正しさを内的に頼っている判断の中ではできません。そのために、男たちの本分に導かれた女たちは、判断の事柄で男に相談することを強いられ、その時、彼らの助言から、もし自分自身で選択できるなら、自分の愛に一致するものを選びます。
[3]さらにまたある者により、女たちは、自分の理解力の鋭さを男の〔理解力がある〕光のスフェアの中に等しく高揚することが、そして同じ高さの中で物事を見通すことできると、思われています。その見解は、彼らに学識ある女流作家のある者により書かれたものによって導き出されました。しかし、これら〔書かれたもの〕は霊界の中で、彼女たちが臨席する調査の中で、判断や知恵に属すものでありません、才気や雄弁に属すものであること、また、それらはこれらの二つ〔才気と雄弁〕から発出し、構成された言葉の優雅さと粋なことから、あたかも高尚で学問的なものかのように見えることがわかりました。しかし、すべての才気を知恵と呼ぶ者の前でだけです。
[4]男たちもまた、女たちに特有の本分に入り、彼らに正しく果たすことができないことの理由は、彼女たちの情愛に入ることができないから、それらはまったく男たちの情愛から異なっているからです。
男性の情愛と知覚は創造から、またここからの本質からそのように区別されているので、それゆえ、イスラエル民族の法令に次のこともありました――

女の上に男の衣服が、男の上にも女の衣服があってはならない。これは忌み嫌われるものであるからである(申命記22:5)。

その理由は、霊界のすべての者は自分の情愛にしたがって衣服を着せられ、男と女の二つの情愛は、ふたりの間でないなら、決してひとりの中で結合されることができないからです。

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175◀︎目次▶︎177

176 (17) それらの本分もまた相互の助けにしたがって、ふたりをひとりに結合する。同時に一つの家をつくる
 夫の本分は何らかの関係で妻の本分と結合し、妻の本分は夫の本分に結び付いています。それらの結合と接合は相互の助けであり、それにしたがっていることは、世でよく知れたものの間にあります――しかし、協力し、加わり、夫婦の二つの心と生活を一つに集める主要なものは、子どもを教育するという共通の配慮です。それに関して、夫の本分と妻の本分は互いに区別され、同時に結合しています。互いに区別されている両性の幼児の授乳と教育への配慮は、そしてまた男に引き渡され、仲間となる年齢までの少女たちの教育への配慮は妻に特有の本分です。しかし、子供時代から青年時代まで、またその後、自分の力で行なう時まで、少年たちの教育への配慮は夫に特有の本分です。けれども、助言(相談)や支えることによって、また他の多くの相互の援助によって、互いに結合しています。
 それらの本分は結合したものも区別されたものも、すなわち、共通のものも特有のものも、夫婦の心を一つのものの中に集めることを、またストルゲー(親心)と呼ばれる愛がそのことをひき起こすことがよく知られています――その区別と結合の中で見られたそれらの本分は、一つの家をつくっていることもまた、よく知られています。

結婚愛

176◀︎目次▶︎178

177 (18) 夫婦は、前に言われた結合にしたがって、ますますひとりの人間になる
 これらは、結合は最初の日々から連続的に結合すること、真の結婚愛にいる者が深くまた深く、永遠に〔結合される〕ことが説明された(6)節の内容と一致することが見られます。
 結婚愛の増大にしたがって一つの家をつくっています。その愛は天使の霊的なまた天的ないのちから本物であるので、それゆえ、そこのふたりの夫婦が夫と妻と呼ばれるとき、ふたりと言われます、しかし天使たちと呼ばれるとき、ひとりと言われます。

結婚愛

177◀︎目次▶︎179

178 (19) 真の結婚愛にいる者は、自分自身を結ばれた人間に、一つの肉のように感じる
 そのようであることは、今日、地上の人間のもとに、真の結婚愛が存在しないので、地上の住民の口からではなく、天界の住民の口から説明されなければなりません。なおまた、粗雑な身体におおわれていて、それはふたりの夫婦が、一つの肉のように結ばれた人間であるという感覚を鈍くし、吸収してしまいます。さらに、世で、内的にでなく単に外的に配偶者を愛する者は、このことを聞くことを欲しません。さらにまた、このことについて肉から好色に考えています――天界の天使たちのもとで異なっています、これらの者は霊的なまた天的な結婚愛にいるので、地球の人間のように、これほど粗雑な身体におおわれていません。
 私は、数世紀の間、自分の配偶者と生きた者から、「夫自身が妻と、妻自身が夫と、また自分自身が他の者の中に、すなわち、他の者の中に相互にまた逆に、肉の中でも、そのように、たとえ分離された肉であっても、自分自身にそのような結合を感じます」という証言を聞きました。
[2]これが地上でまれな現象であることの原因を言いました、「彼らの霊魂と心の結合が彼らの肉の中で感じられることは、霊魂は頭の最内部をつくるだけでなく、身体の最内部もまたつくるからです。同様に、心は、それは霊魂と身体の間の媒介です。それは、たとえ頭の中にあるかのように見られても、それでも実際に全身の中にもまた存在します」。また彼らは、「ここから、行動は、それへと霊魂と心が向かうとき瞬く間に身体から流れ出ます」と言いました。なおまた、ここから、彼ら自身は前の世の身体を捨てた後、完全に人間です――さて、霊魂と心は、遂行し、その結果を引き起こすためにそれ自体を身体の肉に密接に結びつけているので、夫婦との霊魂と心の結合が身体の中でも一つの肉のように感じられることがいえます。
 これらが天使たちにより言われたとき、私はそばに立った霊たちから「それらは天使の知恵に属すものであり、卓越するものです」と聞きました。しかし、それらの霊たちは自然的な理性的な者であって、霊的な理性的な者ではありませんでした。

結婚愛

178◀︎目次▶︎180

179 (20) 本質的に眺められた真の結婚愛は、霊魂の合体、心(mens)の結合であり、胸の中のまたここから身体の中の結合へ向かう活動(努力)である
霊魂の合体と心の結合があることは、前に見られます(158番)。胸の中で結合へ向かう活動(努力)であることは、胸は集会の広場や王の宮廷のようであり、身体はその周囲の人口の多い都のようであるからです。
胸が集会の広場のようであることは、霊魂と心から身体へ向けられるすべてのものは、最初に胸に流入するからです。王の宮廷のようであることは、そこに身体のすべてのものの支配があるからです、というのは、そこに心臓と肺があるからであり、心臓は血によって、肺は呼吸によってどこでも支配するからです――身体がそれらの周囲の人口の多い都であることは明らかです。
それで、配偶者の霊魂と心が結合しているとき、真の結婚愛がそれらを結合しているとき、それらの愛らしい合体が彼らの胸に流入し、これを通して彼らの身体の中に、結合への活動(努力)をひき起すことがいえます。それだけさらに、結婚愛が努力をその最終的なものへ、その幸せな楽しさを満たすものへ向けるからです。胸は二つの道の会う場所にあるので、結婚愛がその優雅な感覚の座を得ていることが明らかです。

結婚愛

179◀︎目次▶︎181

180 (21) この愛の状態は、無垢・平和・静けさ・最内部の友情・完全な信頼、そして、他の者にすべての善を行なおうとするアニムス(気質)と心(cor)の相互の願望である。それらのすべての至福・幸せ・快さ・快楽から、またこれらの永遠の享受から、天界の幸福がある
 それらが結婚愛にあること、それゆえ、ここからである原因は、その起源が善と真理の結婚からであり、この結婚は主からであるからです――心から愛する他の者に共有すること、それどころかその者に楽しさを与えること、このゆえに、自分自身も自分の楽しさを得ること欲するような、そのような愛であるからです。そこで、主の中にある神的愛はさらに無限であり、人間について、それを、ご自分から発出する愛と知恵の受容するものに創造しました――またそれらを受容するものとして、男を知恵の受容するものとして、女を男の知恵の愛の受容するものとして創造したので、それゆえ、人間に最内部から、その中にすべての祝福されたもの・幸せ・快さ・快楽を与えることができる結婚愛を注ぎました、それらはいのちと一緒に、もっぱらその方の神的知恵を通して神的愛から発出し、流入します。したがって、真の結婚愛にいる者だけが受容するものです。
 無垢・平和・静けさ・最内部の友情・完全な信頼、そしてすべての善を他の者に行なおうとするアニムスと心の相互の願望が言われました。無垢と平和がアニムスのもの、静けさが心のもの、最内部の友情が胸のもの、完全な信頼が心臓のもの、またすべての善を他の者に行なう相互のアニムスと心の願望がそれらからの身体のものであるからです。

結婚愛

180◀︎目次▶︎182

181 (22) これらは、ひとりの妻とひとりの男(夫)の結婚の中でないなら、決して存在することができない
 これはこれまでに言われたすべてのものからの結論です。そしてまた、この後で言われるすべてのものからの結論となります。それゆえ、それらを確証するために、特別な論証を必要としません。

結婚愛

181◀︎目次▶︎183

18 死後の人間の生活(いのち)について、ギリシアの古代の賢人たちから

182 (これらに二つのメモラビリアを加えます。第一のものは、これ——)
数週間後、私は天界から、「見よ、再び、パルナッソスで集会〔がある〕。加われ、私たちが道を示す」。言っている声を聞いた。
私は加わった、私が近くにいたとき、へリコーンの上で、ある者がらっぱとともに、それで集会を知らせ、布告したのを見た。
アテネの都とその辺境から前のように上ってくる者を、彼らの真ん中に地からの三人の新来者を見た。
彼らはキリスト教徒からの三人、ひとりは聖職者、もうひとりは政治家、三人目は哲学者であった。
これらの者は途中でいろいろな話しで、特に、古代の賢人たちの名前を挙げ、それらの者について話して楽しんだ。
彼らが見られるか質問した。「彼らは見られる、もし欲するなら、彼らは親しみやすいので挨拶される」と言った。
彼らは、デモステネス、ディオゲネス、エピクロスについて質問した。
彼らは言った、「デモステネスはここにはいないで、プラトンのもとにいる。ディオゲネスは自分の学徒とともにへリコーンのふもとに滞在している。その理由は、天界的なことだけを心に思い巡らしたように、世俗的なものを何も重要視しないからである。エピクロスは西に向かう境界に住んでいて、私たちの方へ入らない、私たちが善の情愛と悪の情愛の間を区別し、私たちが善の情愛は知恵と一緒であること、悪の情愛は知恵に反していることを言うからである」。
[2]パルナッソスの丘に上った時、見張りの者がそこに、泉からの水を、水晶の鉢に携えてきて、「泉からの水である、それについて古代人は神話として、(翼のある)馬ペーガソスのひづめにより破り開かれ、その後、九人の乙女により捧げられたと語っている」と言った。しかし、翼のある馬ペーガソスによって真理の理解力とそこからの知恵が意味され、その足のひづめによって経験が、それによって自然的な知性が意味され——九人の乙女によって、すべての種類の認識と知識が意味された。これらは今日、寓話と呼ばれる、しかし対応であった、それらから初期の者たちは話した。
仲間が三人の到来者に言った、「あなたがたは驚いてはならない。見張りの者はそのように話すよう教えられている。私たちは、泉からの水を飲むことによって真理について、真理によって善について教えられること、このように賢明になることを理解している」。
[3]この後、パラディウム(知恵の神殿)に、彼らと世からの三人の新来者である聖職者・政治家・哲学者とともに入った。その時、机に座って月桂冠をかぶっていた者が、「地から新しい情報(ニュース)は何か?」と質問した。
彼らは答えた、「これが新しい情報(ニュース)である。ある者が天使と互いに話していると物語っていること、そして、自然界で開かれた視覚を持つように、等しく、霊界で開かれた視覚を持っている、彼はここから多くの新しい情報を示した、それらに間にこれらがある——
人間は、以前に世で生きたように死後も生きる。前の世でのように見て、聞き、話す。前の世でのように、着せられ、飾られる。前の世でのように、飢え、渇きを感じる。前の世でのように、結婚の歓喜を楽しむ。前の世でのように、眠り、目を覚ます。そこに地と湖、山と丘、平野と谷、泉と川、庭園と木立ちがある。なおまたそこに宮殿と家、そして都と村、自然界のように、そのようにまた、書かれたものと本があり、職務と商売があり、なおまた宝石・金・銀がある。一言でいえば、そこに地にあるすべてと個々のものがあり、それらは天界で無限に完全である。霊界にあるすべてのものは純粋な愛であるそこの「太陽」からであるので霊的な起源からであり、ここから霊的なものである。また、自然界にあるすべてのものは純粋な火である太陽からであるので自然的な起源からであり、ここから自然的なものと物質的なものであるという違いだけがある——一言でいえば、人間は死後、完全に人間であること、それどころか、以前に世に〔いたとき〕よりもさらに完全に人間である。というのは、前の世で物質的な身体の中にいた、けれども、ここでは霊的な身体の中にいるからである」。
[4]これらを聞いて、古代の賢人たちは、それらについて地上では何を考えているか質問した。
彼ら3人は言った、「私たちはここにいて、そしてすべてのものを観察し、調べたので、真理であることを知っている。それゆえ、私たちは、それらについて地上で何が話され、推論されているか言おう」。
その時、聖職者は、「私たちの階級(教団)からの者は、最初にそれらを聞いた時、幻視、続いて、作り事と呼び、その後、幽霊を見た」と言った。また最後に、ためらって言った、「信じよ、もしあなたが欲するなら——私たちは今まで、人間は死後、最後の審判の日よりも前には身体の中にいないことを教えた」。
彼らは質問した、「彼らの間に、人間は死後に人間として生きるという真理について、それらを示し、確信させることができるような知的な者が、だれかいないのか?」
[5]聖職者は、「示す者がいる、しかし確信させない」と言った。「示す者は言う、信じることは健全な理性に反していること、人間は最後の審判の日までは人間として生きない、その間、身体のない霊魂であること。霊魂とは何か、それはその間どこにいるのか? 息(気体の発散物)または空気の中で飛んでいる何らかの風か、あるいは、地の真ん中に隠された存在物なのか、どこにそのプーがあるのか? アダムとエバの霊魂が、また彼らの後のすべての者の霊魂が、今や、六千年の間すなわち六十世紀、今でも全世界の中を飛びまわっているかまたは地の中央に閉じ込められて保たれ、最後の審判を期待しているのか? このような期待は、不安で惨めなものではないのか? 彼らの運命は牢獄の中の鎖と足かせで結び付けられた者の運命にたとえられることができないか? もしそのような運命が人間に死後あるなら、人間よりもロバに生まれた〔ほうが〕ましだったのではないか? さらにまた、霊魂がその身体を再び着用することができると信じることは理性に反していないか? 身体は、虫・ネズミ・魚により食い尽されていないか? そしてその新しい身体に、太陽で焼き尽くされた、あるいは塵の中にこなごなにされた骨の骸骨が〔再び肉を〕着せられること〔は理性に反していないか〕? どのようにそれらの屍と腐ったものが集められ、霊魂に結合させられるのか?
しかしこのようなものを聞いたとき、だれも理性から返答しないで、『私たちは理性を信仰の服従の下に保つ』と言って、自分の信仰に固執する——最後の審判の日にすべての者を墓から集めることについて、『このことは全能の働きである』と言う。全能と信仰の名前が挙げられるとき、理性を追放する。その時、理性は無のようなものであること、またある者にとって幽霊のようなものと言うことができる。それどころか、健全な理性を「狂気」と言うことができる」。
[6]これらを聞いて、ギリシアの賢明な者が言った、「矛盾のようなそれらの背理はそれ自体から消散されないか? それでも、世で、健全な理性により消散されることができない。最後の審判について語られ、その時、全世界が滅び、その時、天の星がさらに小さい星である地の上に落ちると信じることができるような背理とは何か? 人間の身体は、その時、あるいは屍、あるいは人間により食べられたミイラあるいは糸くずであって、その霊魂と一つとされるのか?
私たちは世にいた時、理性が私たちに与える推理から人間の霊魂の不滅を信じた、そしてまた、私たちは祝福された者のために場所を指定し、それをエーリシュオンと呼んだ、私たちは、人間の似姿または外見(姿)で存在すること、しかし霊的なので希薄であることを信じた」。
[7]このことが言われた後、彼らはもうひとりの到着者に向かって向きを変えた、その者は世で政治家であった。
この者は、死後のいのちを信じていなかったこと、それらについて聞いた新しいものについて、それらは作り事やでっちあげであると考えた、と言明した。
「それらについて熟考しているとき、私は言った、霊魂に身体があることがどのようにできるのか? 人間のすべてのものは墓の中に死んで横たわっていないか? そこに目はあっても、どのように見ることができるのか? そこに耳はあっても、どのように聞くことができるのか? どこから、彼は口で話すのか? もし人間の何らかのものを、死後、見るにしても、それは、幽霊に似たような何らかのものでないのか?幽霊がどのように食べ、飲むことができるのか? どのように結婚の歓喜を享受することができるのか? 彼の衣服・家・食物などはどこからか? 幽霊は、空気の像であり、存在するように見えるが、それでも存在しない。
人間の死後のいのちについてこれらや似たものを、私は世で考えた。しかし、今や、私はすべてのものを見た、そして私の手ですべてのものを触れ、感覚そのものによって私は世の中のような人間であり、私にさらに健全な理性があるという相違とともに、私が生きたように生きていていること以外に、これほどに他のことを知らないことを確信し、ときどき、以前の考えの私を恥じた」。
[8]同様のことを哲学者は自分自身について語った。しかしながら、それら新しい情報を、それらを死後のいのちについて、見解や仮説の間に〔ある〕それらを古代人や現代人(今日の人々)から集めたことを聞いた〔という〕この相違とともに語った。
これらを聞いて、賢人たちは唖然とした。ソクラテスの学派からであった者は言った、「地からのこれらの新しい情報から、人間の心の内的なものは連続的に閉ざされたこと、今や世では虚偽の信仰が真理のように輝いていること、そして愚かな才気が知恵のように、私たちの時代からの知恵の光は脳の内側から鼻の下の口まで(それ自体を)下げ、そこにそれら〔光〕は目の前に唇の輝きのように、そしてここからの口の話しは知恵のように見えることを知覚した」。
これらを聞いて、そこの徒弟のある者が言った、「今日の地球の住民の心は何と愚かなのか。すべてのものを笑うデモクリトスとすべてのものを泣くヘラクレイトスの弟子たちが居合わせたらよいのに、私たちは大いなる笑いと大いなる泣き声を聞いたであろう」。
この集会がなし遂げられた後、〔彼らは〕地からの三人の新来者に自分の地域の勲章を与えた。それは銅の記念銘板であり、それらの上に何か象形文字が書き記されていた。それらとともに彼らは立ち去った。

結婚愛

182◀︎目次▶︎184

19  アドラマンドーニ(結婚愛の歓喜)と呼ばれた婚礼の庭園について、そこで結婚愛の流入についての談話があった

183 (第二のメモラビリア——)
東の方位に、らせんの輪の位置にシュロの木と月桂樹からの木立が、私に見られた。
私は近づき、入った。ある種のらせんの中を回って導かれる道を歩き、道の終わりに庭園を見た、それは木立の中央となっていた。〔そこを〕分けていた小橋があり、そこに木立の側からの門と庭園の側から門があった。私は近づいた、門が守衛により開かれた。私は、庭園の名前は何か彼に質問した——「アドラマンドーニすなわち結婚愛の歓喜」と言った。
私は入った、見よ、オリーブの木、そしてオリーブの木とオリーブの木の間にブドウのつるが走り、垂れ下がり、それらの下に、それらに間に花を咲かせた灌木があった。その中央に、草におおわれた丸い場所があった、その上に夫と妻たちが、そして若者たちと乙女たちが、ふたりずつ座っていた。土が盛り上がった丸い中央に、そこに小さな泉が勢いある水流から高く湧き出ていた。
私が輪の近くにいたとき、私は紫色と緋色の服のふたりの天使たちを見た、その者たちは草の上に座っているとき、結婚愛の起源について、その歓喜について話していた。その愛についての会話であったので、熱心な傾注と十分な受け入れがあり、ここから、天使たちの話しの中に愛の火からのような高揚があった。
[2]私は、彼らの会話から、要約してこれを推断した——
結婚愛の起源を調べることのむずかしさについて、その知覚することのむずかしさについてあらかじめ言われた、その起源は神的天的なものであるからである、というのは、神的愛・神的知恵・神的役立ち、それら三つのものは一つのもののように主から発出し、ここから一つのものとして人間の霊魂へ流入し、霊魂を通って彼らの心へ、そこに内的な情愛と思考へ、これらを通って身体に近い欲望へ、またこれらから胸を通って生殖の領域へ、そこに最初の起源からのすべての派生物が、一緒に存在し、派生物と一緒に結婚愛をつくっているからである。
これらの後、天使たちは言った、「話しのやりとりを質問と答えによってしましょう。聞くことだけから吸収した事柄の知覚は、確かに流入します、しかし聞く者もそれらについて自分自身から考え、そして質問しないなら残らないからです」。
[3]その時、その結婚した者の集まりからのある者は天使たちに言った、「私たちは、結婚愛の起源は、主から人間の霊魂への流入からであるので、神的天的なものであること、また、愛・知恵・役立ちであることは主からであるので、それらは三つの本質的なものであり、それらは一緒に一つの神的な本質をつくっている、それ以外にその方の神的な本質である他のものは発出することができないこと、そして人間の霊魂と呼ばれる彼の最内部へ流入すること、それら三つのものは身体へ降る中で、類似したものと対応したものに変えられることを聞いた——そこで、私たちは、今や、最初に質問する、「役立ちと呼ばれる発出する神性の第三の本質的なものによって何が意味されるのか?」
天使たちは、役立ちなしに愛と知恵は単なる抽象的な思考の観念であり、さらにまたそれらは心の中でいくらかの時の経過の後、風のように過ぎ去ることを答えた。「しかし、それら二つのものは役立ちの中で集められ、そこに一つのものを生じ、それは実在するものと呼ばれます。愛は〔何かを〕行なっていないなら休むことができません、というのは、愛はいのちの活動原理そのものであるからです、知恵も〔何かを〕行なっている時、愛からまたその愛ともにでないなら、存在し、存続することができません、そして行なうことは役立ちです。それゆえ、私たちは、愛から知恵によって善を行なうことを役立ちと定義づけます。役立ちは善そのものです。
[4]それら三つのもの、愛・知恵・役立ちは、人間の霊魂へ流入するので、すべての善は神からであると言われることがどこからであるか、明らかにすることができます。というのは、知恵を通して愛から行なわれるすべてのものは善と呼ばれ、役立ちもまた行なわれるからです。
知恵のない愛は、ある種の愚かなものでないなら何ですか? また、知恵とともに愛は、役立ちなしに、心の状態でないなら何ですか?
しかし、役立ちと一緒の愛と知恵は人間をつくるだけでなく、人間でもあります——それどころか、おそらく、あなたがたは驚かされるでしょう、〔それらが〕人間を繁殖させます。なぜなら、男の精子の中に、自然の最も純粋なものからの実体(物質)でおおわれ、それらから母の子宮の中で身体が形成される人間の完全な形としてその霊魂があるからです。この役立ちは神的知恵を通して神的愛の最高の役立ちそして最終的な役立ちです」。
[5]最後に天使たちは言った、「これが結論です、すべての結実・すべての繁殖・すべての生殖は、起源的に、人間の霊魂への主からの直接の流入から、動物の霊魂への間接的な流入から、植物の最内部へのさらに間接的な流入から、主からの愛・知恵・役立ちの流入からであり、これらすべてのものが最初のものから最後のものに生じることです。
結実・繁殖・生殖が創造の継続であることは明らかです。というのは、創造は、神的役立ちの中で神的知恵を通して神的愛から以外の他の源泉から存在することができないからです。それゆえ、全世界のすべてのものは、役立ちから、役立ちの中へ、役立ちへ向かって、生まれ、形成されます」。
[6]その後、盛り上がった草地に座っている者が天使たちに質問した、「無数であり、言い表わせない結婚愛の歓喜はどこからか?」
天使たちは、愛と知恵の役立ちからであること、そのことから、だれかが本物の役立ちのために賢明になることを愛せば愛するほど、それだけ結婚愛の流れと力の中にいる、と見られることができること、またこれらの二つのものの中にいればいるほど、それだけ歓喜の中にいることを答えた。「役立ちがこのことを行ないます、愛は知恵を通して互いに楽しみ、あたかも幼児のように遊ぶからです。また、成長するにつれて、機嫌よく互いに結合します。これはあたかも婚約式・結婚式・結婚・繁殖のように、連続的に、変化とともに永遠に生じます——これらは愛と知恵の間で、内的に、役立ちの中で生じます。しかし、それらの歓喜はその始まりの中で知覚されることができません、しかしここから段階を通って降り、身体へ入るほど、ますます知覚できるものになります。段階を通って人間の霊魂から心の内的なものへ、これらからその外的なものへ、またこれらから胸の内部に、これから生殖の領域へ入ります——
[7]そして、霊魂の中のその天界的な結婚の遊びは人間に少しも知覚されません、しかし、ここから心の内的なものの中に平和と無垢の外見の下に、心の外的なものの中に至福・幸せ・快さの外見の下に、けれども、胸の内部に最内部の友情の歓喜の外見の下に、生殖の領域の中に霊魂からまでも途切れない流入から、歓喜の中の歓喜のような結婚愛の感覚そのものとともに徐々にしみ込みます。霊魂の役立ちの中のその愛と知恵の結婚の遊びは胸の内部に向けて発出する中で残存し、その内部で歓喜の無限の変化の下に、それ自体を感覚でとらえられるようになり、生殖の領域との胸の内部の驚くべき伝達のために、そこに結婚愛の歓喜の歓喜を生じます、それは天界と世に存在するすべての歓喜にまさり、高められます。その理由は、結婚愛の役立ちはすべての役立ちに最もまさっているからです、というのは、ここから人類の繁殖が、人類から天使の天界の繁殖があるからです」。
[8]これらに天使たちは、役立ちのために主から賢明になる愛の中にいない者は、無数の歓喜の変化について真の結婚愛のものである何らかのものを知らないことを加えた。「というのは、本物の真理から賢明になることを愛さず、虚偽から狂うことを愛し、この狂気から何らかの愛から悪の役立ちを行なう者のもとに、霊魂への道が閉ざされるからです。ここから、霊魂の中の愛と知恵の遊びの天界的な結婚は、ますますさえぎられて、それらの結婚愛と一緒に、その流れ・力・歓喜とともに、終わりになります」。
これらに、聞いている者たちは、「結婚愛は役立ちのために主から賢明になる愛にしたがっていることを知覚する」と言った。
天使たちはそのようであることを答えた。
その時、ある者の頭の上に花からできた花冠が見られ、彼らは質問した、「このことは、なぜ?」
天使たちは答えた、「彼らがさらに深く理解したからです」。
その時、彼らは庭園から去った、彼らの真ん中にこれらの者〔花冠をかぶった者〕がいた。

結婚愛

183◀︎目次▶︎185

(八)結婚による男と女のもとのいのちの状態の変化について

184 何がいのちの状態によって、またそれらの変化によって意味されるかは、博学な者や賢明な者に最もよく知られています、しかし、無学な者や単純な者に知られていません。それゆえ、そのことについて何らかのものを前もって言わなければなりません。
人間のいのちの状態はその性質です。それぞれの人間に、理解力と意志と呼ばれる、いのちをつくる二つの能力が内在するので、人間のいのちの状態は理解力や意志に関する彼の状態です――ここから、いのちの状態の変化によって、理解力や意志に属すものに関する性質の変化が意味されることが明らかです。
すべての人間はそれら二つのものに関して絶えず変化しています、しかし結婚前と結婚後の変化の相違とともにこの章で示すものを取り上げます。それをこの順序で行ないます――

(1) 人間のいのちの状態は幼児期からいのちの終わりまで、またその後、永遠に、絶えず変えられる。
(2) 同様に、彼の霊である内なる形は変えられる。
(3) これらの変化は、男が創造から知識・知性・知恵の形であり、女は男のもとのそれらの愛の形であるので、男と女のもとで異なる。
(4) 男のもとにすぐれた光の中への心の高揚があり、女のもとにすぐれた熱の中への心の高揚がある。女は男の光の中で自分の熱の歓喜を感じる。
(5) 男と女のいのちの状態は、結婚前と結婚後で異なる。
(6) 夫婦のもとの結婚後のいのちの状態は、結婚愛による彼らの心の結合にしたがって変えられ、続く。
(7) 結婚は夫婦の霊魂と心に他の形もまたひき起こす。
(8) 「創造の書」の記述にしたがって、女は実際に男の妻として形作られている。
(9) その形成は妻により秘密の方法で行なわれる、このことは男が眠っているときに女が創造されたことによって意味される。
(10) その形成は妻により、夫の内なる意志と自分の意志の結合によって行なわれる。
(11) 両方の意志が一つに、こうして両者がひとりの人間になる目的のためである。
(12) その形成は妻により、夫の情愛を自分のものとすることによって行なわれる。
(13) その形成は妻により、自分の夫の知恵が愛であることを欲することから生じる歓喜とともに、夫の霊魂の繁殖の受け入れによって行なわれる。
(14) このように、娘は妻として、若者は夫として形作られる。
(15) ひとりの妻とのひとりの男の結婚の中で、彼らの間に真の結婚愛があり、妻はますます妻に、夫はますます夫になる。
(16) そのようにまた、彼らの形は連続的に内部から完成させられ、気高くされる。
(17) 真の結婚愛にいるふたりから生まれる子は、両親から善と真理の結婚のものを得、そのことから彼らに、息子なら知恵に属すものを受け入れることへ向けて、娘なら知恵が教えるそれらを愛することへ向けて、性向と能力がある。
(18) 子の霊魂は父から、そのまとうものは母からであるので、そのようになる。
今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

184◀︎目次▶︎186

185 (1) 人間のいのちの状態は幼児期からいのちの終わりまで、またその後、永遠に、絶えず変えられる
人間のいのちの全般的な状態は、幼児期・少年期・青年期・壮年期・老年期と呼ばれます。いのちが世で続けられているそれぞれの人間は、連続的に一つのものからもう一つのものに、そのように最初のものから最後のものへ移ることがよく知られています――それらの時期への移行は、時間の間に置かれた間隔によってでないなら、見られません。それでも、瞬間から瞬間へ、そのように絶えず進んでいることは、理性が見ます。というのは、人間は木と同様です、それは時間のすべてのすきまで、最も微小のものでもまた、地に投げられた種から、増大し、生長するからです――これらの進行の瞬間(に起こるもの)もまた状態の変化です、というのは、続くものが先行するものに状態を完全にする何らかのを加えるからです。
[2]人間の内なるものに生じる変化は、彼の外なるものに生じる変化よりもさらに完全に連続的です。その理由は、人間の心のものまたは霊のものが意味される彼の内なるものは、外なるものの上にある高い段階に上げられ、高い段階にあるものの中に、同じ一分間に数千のものが生じ、そのときにただ一つものが外なるものの中に生じるからです。
内なるもののに生じる変化は、情愛に関する意志の状態の変化と思考に関する理解力の状態の変化です。これらとそれらの連続的な変化の状態が、特に、〔この〕主題の中で意味されています。
[3]それらの二つのいのちの状態、すなわち二つの能力の状態の変化は、人間のもとで幼児期からそのいのちの終わりまで、その後、永遠に続きます、その理由は、知識に、まして知性に、さらにまして知恵に終わりが存在しないからです。というのは、「無限なる者」そして「永遠なる者」から、その方からのものである無限そして永遠がそれらの十分な広がりの中に存在するからです――すべてのものが無限に分割できる、という古代人の哲学的な主張はここからです。それに、同様に増すことができるものであることが付け足されなければなりません――天使は、主により知恵が永遠に、さらにまた無限に完成させられることを断言しています、永遠は時間の無限であるからです。

結婚愛

185◀︎目次▶︎187

186 (2) 同様に、彼の霊である内なる形は変えられる
 人間のいのちの状態が変えられるように、これが絶えず変えられることは、どんなものでも形として、また状態がそれをひき起こさないなら、存在しないからです。それゆえ、人間のいのちの状態が変えられると言われても、あるいは、その形が変えられると言われても、同じことです。
 人間のすべての情愛と思考は形として、ここから形から存在します、なぜなら、形はそれらの主体であるからです。情愛と思考は、形を与えられている主体の中になかったなら、脳が〔なくて〕空っぽの頭蓋骨の中にもまた存在しません。目のない視覚・耳のない聴覚・舌のない味覚と同様になったでしょう。これらの形がそれらの感覚の主体であることが、よく知られています。
[2]いのちの状態が、またここから人間のもとの形が絶えず変えられることは、同じものがすなわち二つの完全な同一であるものが、まして多くのものが存在しないことは、真理であるからであり、これを賢人たちが教え、今でも教えています。人間に〔同一の〕二つの顔が、まして〔同一の〕多くの顔がないようなものです。連続するものの中で同様であり、過ぎ去ったものに続いている同じいのちの状態は存在しません――ここから、人間のもとのいのちの状態の変化が、特に、彼の内なるものの状態の変化が永続的であり、それゆえ、形の変化もまた永続的であることになります。
 しかし、これらから結婚について何らかのものは教えられません、単にそれらについての知識の道を用意し、なおまた単に理解力からの研究された哲学の事柄であり、それらはある者にとって知覚するのに険しいので、それゆえ、これらのわずかなもので、通り過ごすことにします。

結婚愛

186◀︎目次▶︎188

187 (3) これらの変化は、男は創造から知識・知性・知恵の形であり、女は男のもとのそれらの愛の形であるので、男と女のもとで異なる
男は理解力の形に創造され、女は男の理解力への愛の形に創造されていることは前に説明されたものが見られます(90番)。
彼らと彼女らのもとに続く状態の変化は、幼児の年齢からおとなの年齢まで続けられます、男のもとの理解力と女のものと意志の形を完全にするためにです。ここから、変化は男のもとと女のもとで別のものである、と見なされます。それでも、心のものである内なる形にしたがって身体のものである外なる形の両方で完全にされます。というのは、心が身体の中で働き、逆ではないから。これが、動物のような物質的な身体でおおわれている地上の幼児と異なって、天界の幼児は彼らのもとの知性の増加にしたがって背丈が伸びた美しい人間で現われる原因です。それでも、最初に彼らの身体の感覚で魅惑されるようなものへ向かう性向〔の中〕で成長し、その後、徐々に思考の内的な感覚に働きかけるようなものへ向かい、段階から段階の中へと、情愛に意志を吹き込むようなものへ向かうことの中で一致します。また年齢が成熟と未熟の間の分岐点の中にあるとき、結婚の性向が加わります。その性向は若者に向けて娘のもの、また娘に向けて若者のものです。また、天界の娘たちは、地上と等しく、生来の思慮分別から結婚への自分の性向を隠し、そこの若者たちも、彼らが娘に愛で働きかけるとしか知りません、このこともまた彼らに男性の性向からであるのように見られています。しかし、これらも彼らに美しい性〔=女性〕からの愛の流入からであり、その流入については他のところで明快に言います。
これらから、状態の変化は、男は創造から知識・知性・知恵の形であり、女は男のもとのそれらへの愛の形であるので、男のもとと女のもとで別ものであるという主題の真理が明らかです。

結婚愛

187◀︎目次▶︎189

188 (4) 男のもとにすぐれた光の中への心の高揚があり、女のもとにすぐれた熱の中への心の高揚がある。女は男の光の中で自分の熱の歓喜を感じる
 男が上げられる光によって、知性と知恵が意味されます、霊界の太陽から発出する霊的な光は、その本質では知恵であり、それらの二つの知性と知恵と等しいものすなわち一つのものとして活動するからです。女が上げられる熱によって、結婚愛が意味されます、その世界の太陽から発出する霊的な熱は、その本質では愛であり、女のもとで自分自身を男のもとの知性と知恵に結合させる愛であり、それはその複合体の中で結婚愛と呼ばれ、また〔範囲の〕確定によってその愛となっているからです。
[2]すぐれた光と熱の中へ上げられることが言われるのは、高い天界の天使たちがいる光と熱の中へ上げられるからです。さらにまた、雲から空気の中へ、また低いこの領域から高いものの中へ、またこれからエーテルの中へのような実際の高揚です。それゆえ、男のもとのすぐれた光の中への高揚は、すぐれた知性へ、またこれから知恵への高揚であり、その知恵の中でも、さらに高いまたさらに高い高揚が存在します。しかし、女のもとの高い(すぐれた)熱の中への高揚は、さらに貞潔なさらに純粋な結婚愛への高揚であり、そして絶えず結婚へ向かいます、それは創造から最内部に隠れています。
[3]本質的に眺められたそれらの高揚は、心を開くことのようです。というのは、世界が大気に関して〔各〕領域の中にあるように、人間の心は区別された〔各〕領域の中にあるからです、その最も低いものは水のようなもの、さらに高い〔領域の〕ものは空気のもの、さらに高い〔領域の〕ものはエーテルのものであり、その上にさらにまた最高のものが存在します。人間の心は、男のもとで知恵によって、女のもとで真の結婚愛によって、これが開かれるほど似た〔各〕領域の中に上げられます。

結婚愛

188◀︎目次▶︎190

189 女は男の光の中で自分の熱の歓喜を感じる、と言われます。しかし、このことは次のように理解されます――女は自分の愛の歓喜を男の知恵の中に感じます、この知恵は容器であるからです、愛は、そこにそれ自体に対応し、自分の快さと歓喜の中にあるこの知恵を見いだします。しかし、熱が自分の光と外なる形を楽しむことは理解されないで、内なる形を楽しみます。そして霊的な光ともに霊的な熱は、そこにそれだけさらに、その形は知恵と愛から生きています、このように受けることができるからです。
 このことは、植物の中の光と熱のいわゆる〝戯れ〟から、ある程度、説明されることができます。その植物の外に熱と光の単純な結合だけがあります、しかし、その内にそれら自体の間の〝戯れ〟のようなものがあります、そこの形または容器の中にあるからです、というのは、それらを驚くべき曲がりくねった経路を通って通り過ぎ、そして、その最内部に果実の役立ちを吹き込み、そしてまた、その楽しさを広く空気の中へ発散させ、それを芳香で満たすからです――さらに人間の形の中で、霊的な光とともに霊的な熱の歓喜は、生き生きとなっています、それらの中で、その熱は結婚愛であり、その光は知恵です。

結婚愛

189◀︎目次▶︎191

190 (5) 男と女のいのちの状態は、結婚前と結婚後で異なる
 結婚の前に、両者のもとに二つの状態があります、一つは結婚への性向の前のもの、もう一つは、その後のものです。前者と後者の状態の変化は、またここからの心の形成は、それらの連続的な増大にしたがって、継続的な秩序で進展します。しかし、それらの変化をここに述べるには時間がありません、というのは、対象の中で異なっており、いろいろであるからです――結婚前の結婚への性向そのものは、心の中の単なる想像上のものであり、ますます身体の中で感覚の〔鋭い〕ものになります。しかし、結婚後のそれらの状態は、結合の状態、そしてまた生殖の状態です。それらが前のものから異なっていることは、実現したものが意図したものから異なっているのように、明らかです。

結婚愛

190◀︎目次▶︎192

191 (6) 夫婦のもとの結婚後のいのちの状態は、結婚愛による彼らの心の結合にしたがって変えられ、続く
 夫と妻の両方のもとの、結婚後の状態の変化とその継続は、彼らのもとの結婚愛にしたがっています、このように、心は結合へ向かうかあるいは分離へ向かいます、結婚愛は夫婦のもとで、いろいろであるだけでなく、異なってもいるからです。互いに内的に愛する者のもとで、いろいろです。というのは、これらの者のもとで彼らは交互に中断されるからです、それにもかかわらず内部で自分の熱の中で絶えず持続します。しかし、互いに単に外的に愛する互いに単に外的に愛する者のもとで、彼らの愛はいろいろです。これらの者のもとで彼らは似た原因から交互に中断されませんが、冷たさと熱の交替から中断されます――
[2]これらの相違の論拠は、これらの者のもとで身体が主要な働きをし、この熱があたりにまき散らされ、交わりへとそれ自体で心の低いものを捕えるからです。しかし、内的に互いに愛する者のもとで、心が主要な働きをし、交わりへとそれ自体で身体を導きます。
 愛は身体から霊魂へ上るように見えます。身体が誘惑するものを捕えると直ぐに、扉を通るかのように目を通って心へ、このように前庭を通るかのように視覚を通して思考へ、すぐさま愛へ入るからです。しかし、それでもそれは心から降り、そしてそれらの配置にしたがって低いものの中で働きます。それゆえ、好色な心は好色に、貞潔な心は貞潔に働きます、前者は身体から統制されます、しかし、後者は身体を統制します。

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191◀︎目次▶︎193

192 (7) 結婚は〔夫婦の〕霊魂と心に他の形もまたひき起こす
 結婚が〔夫婦の〕霊魂と心(mens)に他の形もまたひき起こすことは、自然界で気づかれることができません、霊魂と心はそこに物質的な身体で囲まれています、このことによって心が光り貫くのはまれであるからです。そしてまた、この時代の人間は、古代人よりもさらに、顔に容貌を着せることを幼児期から学んでいて、そのことによって心の情愛を深く隠します。それが、心の形が結婚前にどんなものか、結婚後にどんなものであるか見分けられないことの理由です――それでも、霊魂と心の形は、結婚後、その前にあったものとは別ものであることが、霊界で同じものからはっきりと見られます。というのは、その時、霊と天使であるから、それは人間の形として心と霊魂以外の他のものではありません、それは水と地の要素から、また空気中にまきちらされた発散物から合成されたぬけがらを脱いだものです。それらが捨てられて、心の形は、その身体の中で内部でどんなものであったか、またその時、結婚の中に生きた者と結婚の中に生きなかった者は別ものであることがはっきりと見られます――全般的に、結婚した者の顔に内的な美しさがあります、というのは、男は妻からその愛の魅力的な赤色を、妻は男からその知恵の輝きの優雅さを得るからです。なぜなら、ふたりの夫婦はそこに、霊魂に関して結合されているからです。そのうえ、両方の者に人間性が満ちていることが見られます。
 このことは天界にあります、他のところに結婚はないからです。けれども、天界の下に単なる交尾(つがい)があり、それらは結ばれたり、引き離されたりします。

結婚愛

192◀︎目次▶︎194

193 (8) 「創造の書」の記述にしたがって、女は実際に男の妻として形作られている
この「書(「創世記」)」の中に、女は男の肋骨から創造されたことが言われています。また、男は、連れて来られたとき、「これは私の骨からの骨、また私の肉からの肉。イシャと呼ばれなければならない、イシュ(男)から取られたからである」(2:22–24)と言いました。みことばの中で、胸の「肋骨」によって、霊的な意味で、自然的な真理以外の他のものが意味されません――これは雄熊の歯の間にあった「肋骨」によって意味されています(ダニエル7:5)。なぜなら、「雄熊」によって、みことばを自然的な意味で読み、そして理解しないでそこに真理を見る者が意味されるからです。男の胸によって、その本質的なもの、そして女の胸からは区別されるプロプリウム(固有のもの)が意味されます。それが知恵であることは、前に見られます(187番)。なぜなら、肋骨が胸を支えるように、真理は知恵を支えるからです。これらが意味されるのは、すべてのものの中心のように、胸はその中に人間のすべてのものが存在するからです。
[2]これらから、女が男から創造されたこと、彼の自然的な真理からのものである知恵のプロプリウムが転移によって、またこの愛が結婚愛となるために男から女の中に移されたことが明らかです。またこのことは、男の中に自己愛がないように、しかし妻への愛があるために行なわれました。彼女は自分自身に生来の性質から、男のもとの自己愛を自分自身へのその愛に変えることしかできません、私は、「このことが妻の愛そのものから、男が知らないうちに、妻も知らないに、行なわれる」ことを聞きました。ここから、自己愛からの自己知性の傲慢の中にいる者は、決してだれをも真の結婚にふさわしいように配偶者を愛することができません。
[3]男から女が創造されたこの秘義が理解された後、女が同様に、あたかも創造されたかのように、すなわち、結婚の中で男から形作られ、このことは妻から、またはむしろ主から妻によって行なわれ、主は女の中にそのように行なうことへ向けて性向を注ぎ込むことを見ることができます――というのは、妻は自分自身の中に、男の情愛を自分のものにすることによって彼の映像を受け入れるからです(前の173番参照)。また、男の内なる意志を自分のものと結合させることによってです、そのことについて〔この後〕続けます。そしてまた、自分自身に彼の霊魂の派生物を引き寄せることによってです、そのことについても〔この後〕続けます。
これらから、「創造の書」で、内的に理解された記述にしたがって、女が妻に形作られたこと、そのようなものによって、それらを夫とその胸から取り、自分自身に刻み込んだことが明らかです。

結婚愛

193◀︎目次▶︎195

194 (9) その形成は妻により秘密の方法で行なわれる、このことは男が眠っているときに女が創造されたことによって意味される
「創造の書」の中に、神エホバがアダムの上に深い眠りを落とし、眠り込むようにし、その時、彼の肋骨から一つを取り、それを女として建造したことが読まれます(2:21, 22)。男の「眠り」と「眠り込むこと」によって、彼のまったく気づかないうちに、妻が彼から創造されるように形作られることが意味されていることがこれまでの章で、そしてまた本章で示されたことから明らかです、このことが、夫に、あたかも眠っているかのように、知られず、そのように秘密の方法で、妻により行なわれたことが前の説明から明らかです(166–168番以降)。そのところにもまた、それを行なう思慮分別が女に創造から、ここから出生から、植え付けられていることが説明されています、その理由は、結婚愛・友情・信頼、このように同棲(一緒に住むこと)の至福、生活(いのち)の幸福が確定されるために必要不可欠なものであるからです。それゆえ、正しく行なわれるように、男に、父と母を捨て、妻と結びつくよう課せられました(創世記2:24、マタイ19:4, 5)。
[2]男が捨てる「父と母」によって、霊的な意味で彼の意志のプロプリウム(固有性)と理解力のプロプリウムが意味されます。人間の意志のプロプリウムは自分自身を愛することであり、彼の理解力のプロプリウムは自分の知恵を愛することです。「結びつくこと」によって、(自分自身を)妻の愛にささげることが意味されます。それら二つのプロプリウムは、もし男のもとに残存するなら、彼に〔とって〕致命的な悪です、またそれらの二つの愛が、男が妻に結びつくほど、すなわち、その(彼女の)愛を受け入れるほど、結婚愛に変わることはすぐ前に見られます(193番、また他の箇所に)。
「眠ること」によって、無知と無頓着の中にいることが意味されること、「父と母」によって一つは意志もう一つは理解力である人間の二つのプロプリウムが意味されること、「結びつくこと」によって、(自分自身を)他の者の愛にささげることが意味されることは、みことばの他の箇所から十分に確認されることができます。しかし、このことはこの場所にではありません。

結婚愛

194◀︎目次▶︎196

195 (10) その形成は妻により、夫の内なる意志と自分の意志の結合によって行なわれる
男のもとに理性的な知恵と道徳的な知恵があり、妻は自分自身をそれらに男のもとの道徳的な知恵に結合させることが前に見られます(163–165番)。
理性的な知恵のものであるそれらが男の理解力をつくり、道徳的な知恵のものであるそれらが彼の意志をつくります。男の意志をつくるこれらに、妻は自分自身を結合させます。
自分自身を結合させることが言われても、あるいは自分の意志を男の意志に結合させることが言われても、同じことです、妻は意志のものに生まれていて、ここから、行なうものを意志から行なうからです。
男の内なる意志について言われるのは、男の意志は彼の理解力の中に座を持ち、そして男の知性が、前に男から女の形成について述べられ(32番、またこれから多くのところに)、それらにしたがって、女の最内部のものであるからです。
そしてまた、男たちに外なる意志があります、しかしこれら〔外なる意志〕はしばしば見せかけと偽装を連れてきています。このことを妻は認めています、しかし、この意志に自分自身を、偽って、あるいはうわべだけでないなら、結合させません。

結婚愛

195◀︎目次▶︎197

196 (11) 両方の意志が一つに、こうして両者がひとりの人間になる目的のためである
 なぜなら、自分自身を他の者の意志に結合させる者は、彼の理解力もまた自分自身に結合させるからです。というのは、本質的に眺められた理解力は、意志のしもべや召使いでしかないからです。そのようであることは、それが理解力を考えることへと意のままに働く愛の情愛からはっきりと見られます。すべての愛の情愛は、意志の所有物です、なぜなら、人間が愛するものを欲しもするからです。
 これらから、自分自身に人間の意志を結合させる者は、自分自身に〔その人間の〕全部を結合させることがいえます。ここから、妻の愛に、夫の意志を自分の意志に結合することが植え付けられています、というのは、このように妻は夫のものに、そして夫は妻のものに、そのように両者はひとりの人間になるからです。

結婚愛

196◀︎目次▶︎198

197 (12) その形成は、夫の情愛を自分のものとすることによって行なわれる
 これは先行する二つの節と一つです、情愛は意志に属すからです。なぜなら、愛の派生物以外の何ものでもない情愛は、意志を形作り、そしてそれをつくり、作り上げるからです。しかし、これらの情愛は男のもとでは理解力の中に、けれども、女のもとでは意志の中にあります。

結婚愛

197◀︎目次▶︎199

198 (13) その形成は、自分の夫の知恵が愛であることを欲することから生じる歓喜とともに、夫の霊魂の繁殖の受け入れによって行なわれる
これらは前の説明と一致します(172, 173番)、それゆえ、さらなる説明を通り抜けることにします。
妻のもとの結婚の歓喜は、その起源を、善が霊的な結婚の中で真理と一つであるように、夫と一つであることを欲すること以外の別のところから導いていません。結婚愛がこの結婚から降っていることは、その章に詳細に示されています〔84番以降〕。
このゆえに、善がそれ自体に真理を結合させるように、妻が自分自身に男を結合させることが似姿の中にのように見られることができます、真理がそれ自体の中へ善の受け入れにしたがって交互にそれ自体を善に結合するように、男は交互に自分自身を妻に結合します、妻が自分自身の中へ彼の愛の受け入れにしたがって、そのように善が真理によってそれ自体と形作るように、妻の愛が、男の知恵にしたがって、それ自体を形作ることです。というのは、真理は善の形であるからです。
これらからもまた、妻の結婚の歓喜は、特に次のことからであることが明らかです、夫と一つであることを欲すること、したがって、自分の夫の知恵の愛であることを欲することです。というのは、(4)節の説明にしたがって、その時、自分の熱の歓喜を男の光の中に感じるからです(188番)。

結婚愛

198◀︎目次▶︎200

199 (14) このように、娘は妻として、若者は夫として形作られる
このことは、一つの肉の中への配偶者の結合について、本章と前章で前に述べたものからの帰結として流れ出ます。
娘が妻になるかまたはされることは、妻の中に夫から引き出したものが、このように外来するものがあるからであり、それらは前に娘としての彼女の中にありませんでした。若者は夫になるかまたはされることは、夫の中に妻から引き出されたものがあるからです、それらは前に若者としての彼の中になかった彼のもとの愛と知恵の受け入れる能力を高めます。しかし、これらは真の結婚愛にいる者のもとにあります。自分自身を結合した人間、このように一つの肉と感じる者の間にあることは、前章に見られます(178番)――これらから、女のもとで娘が妻に、そして男のもとで若者が夫に変わることが明らかです。
[2]そのようであることを、私は霊界で次の経験から確信させられました――

ある男たちが、結婚前の女との結合が、結婚後の女との結合と同様であることを言った。これらを聞いて、妻たちは大いに憤り、「まったく何も似ているものはありません。愚かなものと実在するものの間のような相違があります」と言った。
それらに男たちは、「あなたがたは以前のような女(性)ではないのですか?」と言い返した。
それらに妻たちはさらに高い声で答えました、「私たちは女ではありません、妻です。あなたがたは愚かなものの中にいて、実在する愛の中にいません、それゆえ、愚かに話しています」。
その時、男たちは、「女性でないにしても、〔結婚した〕女である」と言った。
すると答えた、「私たちは結婚の始めに女でした。しかし、今、私たちは妻です」。

結婚愛

199◀︎目次▶︎201

200 (15) ひとりの妻とのひとりの男の結婚の中で、彼らの間に真の結婚愛があり、妻はますます妻に、夫はますます夫になる
真の結婚愛がふたりをますますひとりの人間に向って結合することは、前に見られます(178, 179番)。また、妻は、夫との結合から、またそれにしたがって妻になり、同様に夫は妻との結合から夫になるからです。真の結婚愛は永遠に続くので、妻はますます妻に、そして夫はますます夫になることがいえます。
その原因そのものは、真の結婚愛の結合の中で、両方の者はさらに内的なまたさらに内的な人になるからです、というのは、その愛が彼らの心の内的なものを開き、これが開かれるほど、人間はますます人間になるからです。そして、妻のもとでさらに人間になることはさらに妻になることであり、夫のもとでさらに夫になることです。
私は天使から聞きました、夫がますます夫になるほど、妻はますます妻になります、けれども、逆にはそのようにならないことです。まれに、もしこれまでに欠けていても、そのように貞潔な妻が夫を愛することが、しかし夫から愛し返すことが欠けています。これは知恵の何らかの高揚がないために欠けています、その知恵がもっぱら妻の愛を受けます(その知恵について130, 163–165番参照)。
しかし、彼らはこれらを地上の結婚について言いました。

結婚愛

200◀︎目次▶︎202

201 (16) そのようにまた、彼らの形は連続的に内部から完成させられ、気高くされる
最も完全なまた最も気高い人間性の形は、二つの形が結合によって一つの形に、そのように創造にしたがって二つの肉が一つの肉になるときです。その時、男の心はすぐれた光の中に、妻の心はすぐれた熱の中に上げられ、その時、春の時の樹木のように、発芽し、開花し、実を結ばせることが前に見られます(188, 189番)。
この気高くする形から、天界の中で霊的なものの、地上で自然的なものの高貴な子孫が生まれることが、今から続く節の中に見られます。

結婚愛

201◀︎目次▶︎203

202 (17) 真の結婚愛にいるふたりから生まれる子は、両親から善と真理の結婚のものを得、そのことから彼らに、息子なら知恵に属すものを受け入れることへ向けて、娘なら知恵が教えるそれらを愛することへ向けて、性向と能力がある
子孫は両親から、両親の愛といのちに属すものとなるようなものに向かう性向を得ることは、全般的に歴史から、特定的に経験から、最もよく知られています。けれども、彼らから情愛そのものを、ここから彼らのいのちを得ていません、または受け継がないで、単にそれらへの性向そしてまた能力を得ています、このことは霊界の賢人たちから証明されています(それらについては前に示された二つのメモラビリアの中にあります〔155a, 182番〕)。
[2]子孫は、生来の性向から、もし砕かれないなら、さらにまた情愛・思考・話し方・いのちの中に、両親に似たものを受けることは、エジプト・荒野・カナンの地での、また主の時代でのユダヤ人の民族から、今日も、自分の先祖たちと非常によく似ていることから、はっきりと明らかです。彼らに非常によく似ていることが、心にだけでなく、顔にもまたあります。だれが、外見から、ユダヤ人と認めませんか?
他の子孫も同様です。これらから、自分の両親に似たものへの性向が一緒に生まれていることが偽りなく結論されることができます。
しかし、思考と行動そのものが続かないように、邪悪への性向が精留される(清められる)ことが神的摂理からあります。このことへの能力もまた植え付けられていて、そのことから両親と教師たちからの習慣を、またその後、自分自身から、自分で判断をするとき、〔その習慣を〕効果的に矯正します。

結婚愛

202◀︎目次▶︎204

203 「子孫は両親から善と真理の結婚のものを得る」と言われるのは、これが創造からそれぞれの者の霊魂に着せられているから、というのは、それが主から人間の中に流入し、彼の人間性のいのちをつくるからです。
しかし、この結婚のものは霊魂から続くものの中へ、身体の最後のものの中へまでも移ります。けれども、それらの中で、人間そのものにより、途中で多くの方法で、時々、正反対のものに変えられます、それは悪と虚偽の結婚のものまたはつがい(交尾)のものと呼ばれます。このことが生じる時、心は下部から閉ざされ、時々、反対方向へ渦巻きのようにねじられます。けれども、ある者のもとでそれは閉ざされないで、上部が半分開かれて残り、ある者のもとで開かれています――子孫が両親から、息子と娘たちがそれぞれ異なって性向を得るのは、それらの結婚のものです――このことが結婚のものからであることは、前に示されているように(65番)、結婚愛がすべての愛の根本的なものであるからです。

結婚愛

203◀︎目次▶︎205

204 真の結婚愛にいる者から生まれた子孫は、息子なら知恵に属するものを知覚するための、娘なら知恵が教えるものを愛するための性向と能力を得ます。その理由は、善と真理の結婚のものが創造からそれぞれの霊魂に、そしてまた霊魂から続くものに植え付けられているからです。なぜなら、その結婚のものは、以前に示したように、全世界を最初のものから最後のものまで、人間から虫までも満たしているからです。また、心の低いものを、天界の光と熱の中にある高いものとの結合へまでも開くための能力が、それぞれの人間に創造から植え付けられた〔からであり、この〕こともまた以前に導き出しました。ここから、善を真理に、また真理を善に結合させるための、このように賢明になるための可能性と能力が、このような結婚から生まれている者に、他の者よりも出生から、したがって、教会と天界のものであるそれらを吸収するための可能性と能力もまた、遺伝により植え付けられていることが明らかです。これらのものと結婚愛が結合していることは、前にしばしば示しました。
 これらから理性の前に目的がはっきりと明らかです、その目的のために真の結婚愛が創造主なる主により備えられ、今でも備えられています。

結婚愛

204◀︎目次▶︎206

205 私は天使たちから〔次のことを〕聞きました。「最古代の時代の中に生きた者は、今日、地上で生きたのと同様に、天界でも、家と家、家族と家族、そして民族と民族の中で生きています、ほとんどだれも家から欠けていません。その理由は、彼らのもとに真の結婚愛があったからです。ここから子孫は善と真の結婚のものへの性向を受け継ぎ、そしてその中に両親による教育を通して内的にまた内的に容易に入れられ、その後、自分自身からのように、自分の判断で行なうとき、主により、導かれました」。

結婚愛

205◀︎目次▶︎207

206 (18) 子の霊魂は父から、そのまとうものは母からであるので、そのようになる
 霊魂が父からであることは賢人のだれからも疑わしいものへと呼び込まれません。このことも気質から、そしてまた気質の型である顔から、また氏族の父祖たちから正しい系列の中へ発出する子孫の中にはっきりと認められます。というのは、息子の中にでないなら、それでも孫やひ孫の中に、父が似姿として繰り返されるから。このことが生じる原因は、霊魂が人間の最内部をつくるからです、これは最も近い子孫によりおおわれることができても、それでも、その後の子孫の中で現われ、示すからです。
 霊魂が父から、そしてまとうものが母からであることは、植物界の類似のものによって説明されることができます――植物界で、地または土は共通の母です。この地または土がそれ自体の中に子宮の中にかのように受け入れ、種に着せます、実に、母が父からの自分の子を妊娠し、子宮に運び、産み、育てるかのようにです。

結婚愛

206◀︎目次▶︎208

20  天界での職務について、ギリシアの古代の賢人たちから

207 (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、第一のものはこれ——)
いくらかの時の後、私はアテネの都を眺めた、それについては前のメモラビリアで何らかのものが言われた〔151b, 182番〕。私はここから異常な叫びを聞いた。その中に何らかの笑いがあり、この笑いの中に何らかの憤り、この憤りの中に何らかの悲しみがあった。しかしそれでも、その叫びは、あるものがもう一つのものと同時にあるのではなかったので、このことから不協和でなく、あるものがもう一つのものの内にあったので調和した。霊界では、情愛のいろいろなものや混合物が明瞭に音の中に知覚される。
私は遠方から質問した、「何事ですか?」
彼らは言った、「キリスト教界から到着する者が最初に見られる場所から使者がやって来て、そこで三人の者から聞きましたが、『そこからやって来た世界では、祝福された者や幸福な者に、死後、労働からのまったくの休息があり、管理・職務・仕事は労働であるので、それらからの休息がある、と他の者とともに信じた』と言いました——私たちの使者により彼ら三人が今、連れて来られ、門の前に立ち、待っているので、叫びが起こり、キリスト教界からのその新しい情報を明らかにするために、前のようにパルナッソスのパラディウム(知恵の神殿)の中でなく、大きな講堂に導き入れられることを、熟慮して決めました。彼らを礼儀正しく導き入れるためにある者たちが委任されました」。
[2]私は霊の中にいたので、霊たちに彼らの情愛の状態にしたがって距離があり、その時、私に彼らを見たい、聞きたい情愛があったので、私にそこに居合わすことが見られた。私は導き入れられる者たちを見、話す者たちの話しを聞いた。
講堂で、長老または賢人たちは脇に、他の者は中央に座った。これらの者の前に盛り上がった地面があった。ここへ三人の到来者が使者とともに習慣的な礼儀とともに若者たちにより講堂の中央を通って導かれた。そこで沈黙の後、ある年長者から挨拶され、「地からのニュース(新しい情報)は何か?」と質問された。
彼らは言った、「多くのニュースがあります、しかし、どうぞ、どの事柄についてか言ってください」。
年長者が答えた、「私たちの世界と天界について、地からのニュースは何か?」
答えた、「この世界に私たちが新しくやって来たとき、私たちは、そこに、また天界に、管理・統治・職務・役目・商売・すべての学問の研究・技術の驚くべきものがあることを聞きました。それでも私たちは、自然界からこの霊界へ移住または移動の後、私たちが労働からの永遠の休息へやって来ることを信じました——労働がないのに任務とは何ですか?」
[3]これらに年長者は言った、「あなたがたは、労働からの永遠の休息を、胸で歓喜を引き寄せ、口で楽しさを吸い込み、絶えず座り、横になっている永遠の怠惰と理解したのか?」
これらに三人の到来者は穏やかに笑って、「そのような何らかのものを思いました」と言った。
その時、彼らに答えられた、「怠惰と共通なものに、何の楽しさ、歓喜、ここから幸福があるのか? 怠惰から心はつぶれ、広げられない、すなわち、人間は鈍らされ、生かされない。
手をこまぬいて、目を落として、または引っ込めて、まったくの怠惰の中に座っている者を仮定せよ、また、彼が同時に喜びのオーラで取り巻かれると仮定せよ、麻痺(だるさ)が彼の頭と身体を占めないか、そして顔の生命力の広がりは衰え、最後に彼は繊維の弛緩で、地に倒れる時まで、うなだれ、よろめかないか?
全身の組織を心に集中させること以外に、何が拡張と緊張を保つのか? その時、快さから行なう管理や仕事からでないなら、心の集中はどこからか?それゆえ、私はあなたがたに天界からのニュースを言う、そこに管理・職務・大小の裁判、なおまた技術や仕事があることである」。
[4]三人の到来者は、天界に大小の裁判があることを聞いたとき、「なぜ、それらがあるのですか? 天界のすべての者は神から霊感を受け、ここから何が公正と正直か、導かれるのではありませんか? その時、裁判官の仕事とは何ですか?」と言った。
年長者の男が答えた、「この世界で私たちは、何が善と真理か、なおまた何が公正と公平か、自然界と同様に、教えられ、学ぶ。これらを私たちは神から直接にでなく、しかし他の者から間接に学ぶ。すべての天使は、すべての人間のように、真理を考え、善を自分自身からのように行なう、このことは天使の状態にしたがった混合物であり、純粋なものではない。そしてまた、天使たちの間に単純な者と賢明な者が存在し、賢明な者は、単純な者が単純さからまた無知から公正について疑う、またはそれらから去る時、判断する。
しかし、あなたがたは、近ごろ到着して、これからはこの世界にいるので、よろしかったら、私たちの都へと私に続きなさい、私たちはすべてのものを見せよう」。
[5]講堂を出た、長老たちからのある者たちもまた彼らに集められた。最初に大きな図書館へ〔行った〕、それは学問にしたがって小さい書棚に分かれていた。
彼ら三人の到来者は、このように多くの本を見て、唖然とし、言った、「この世界にも本がある。羊皮紙と紙はどこから、ペンとインクはどこからですか?」
これらに長老は答えた、「私たちは、前の世界であなたがたが、この世界が霊的であるので、空っぽである、と信じていたことを知覚する。このことをあなたがたが信じたのは、霊的なものについてあなたがたが物質的なものから離れた(抽象した)ものを心に抱いたからである。物質的なものから離れた(抽象した)ものはあなたがたには無のように、そのように空っぽに見える。そのときそれでも、ここにはすべてのものが充満している——ここのすべてのものは実体的なものであり、物質的なものではない、物質的なものはその起源を実体的なものから得ている。ここにいる私たちは霊的な人間であり、実体的であるので、物質的ではない。
ここから、ここに自然界にあるすべてのものが存在する、それはその完全性の中にあり、さらにまたはるかに多くの本と文書がある」。
3人の到来者は、このように多くの本と文書を見もし、物質の起源が実体からである、と言われたことを聞きもしたので、実体的なものと言われるのを聞いた時、そのようであると思った。
さらにこのことについて確信させられるために、筆記人の居場所へ送られた、その筆記人は都の賢明な者により書かれた原本を筆写していた。書かれたものを眺め、このように美しく、優雅であることに驚嘆した。
[6]この後、研究所・高等学校・大学へ導かれ、そこに彼らの文芸の遊びがあった、それらのあるものをヘリコーンの乙女たちの遊び、あるものをパルナッソスの乙女の遊び、あるものをアテネの乙女の遊び、またあるものを泉の乙女の遊びと呼んだ。これらはそのように名づけられる、と言った、「乙女」は知識(学問)の情愛を意味し、知識(学問)の情愛にしたがってそれぞれの者に知性があるからである——そのように遊びと呼ばれた、霊的な訓練や論争であったからである。
その後、都の中を、監督官、行政官(管理者)、役人(官吏)たちにより、霊的な方法で職人によって行なわれていた驚くべき仕事へと連れ回された。
[7]これらが見られた後、再び彼らに年長者の男により、死後、祝福された者や幸福な者がやって来る労働からの永遠の休息について話された——「永遠からの休息は、心とここから身体の怠惰からの弱さ・不活発・麻痺・眠気のような怠惰ではない、これらは死であり、いのちではない、まして天界の天使がいる永遠のいのちではない。それゆえ、永遠の休息はそれらを追い散らし、人間を生きるようにする休息である。これは心を高めるようなものでしかない——それで、何らかの心の傾注と行ないであり、そこから奮起させられ、活気づけられ、心が楽しむ。このことが役立ちから、その中に、またそれへ働きかける役立ちにしたがって生じる。ここから、全天界は主から役立ちの容器のように見られ、それぞれの天使が役立ちにしたがって天使である。役立ちの快さは、彼を、潮流にしたがう船のように導き、永遠の平和の中に、平和の休息の中にいるようにする。そのように労働からの永遠の休息は理解される。
天使が役立ちからの心の傾注にしたがって生きいきとなることは、それぞれの者に結婚愛があること、その力、活力と楽しさとともに、本物の役立ちへの心の傾注にしたがって、その中にあることからはっきりと明らかである」と言った。
[8]それらの三人の到来者が、永遠の休息は怠惰ではなく、役立ちのものである働きの何らかの快さであることを確信させられた後、ある乙女たちが自分たちの手の働きによる刺繍された衣服と縫い物とともにやって来て、彼らに贈った。乙女たちは、それらの新来の霊たちが去るとき、歌を歌った、それによって役立ちの働きの情愛を、その快さとともに、天使の歌で表わした。

結婚愛

207◀︎目次▶︎209

21 金色の雨と大広間について、そこで妻たちが再び結婚愛について話した

208 (第二のメモラビリア——)
妻たちのもとに深く隠された結婚愛のアルカナについて私が瞑想の中にいた時、再び金色の雨が見られた(それを前に〔述べた〕)。私は、それが東の大広間の上に滴り落ちたことを思い出した、そこでは三つの結婚愛が、すなわち、互いに優しく愛した三組の夫婦たちが生活していた。
それらが見られて、私はそれらの愛についての瞑想の甘味に招待されている者のように、そこへ近づいた。私が近づいた時、その雨は金色から紫色に、その後、緋色に、近くにいたとき、露のようなオパール色になった。
そして、私は叩き、扉が開かれた。私は付き添いの者に言った、「前に天使とともにいた者が再び来て、その者が会話へ入ることを許すよう求めていることを、夫たちに話してください」。
そして付き添いの者は戻り、夫たちから同意され、私たちは入った。
三人の夫たちは自分の妻たちと一緒に中庭にいた。私が挨拶し、彼らは好意とともに挨拶を返した。私は妻たちに、あの白いハトがその後、窓に現われたか質問した。
彼女たちは、今日も現われ、そして翼を広げたことを言った。「そのことから私たちは、あなたの居合わすことを、そして、結婚愛のアルカナの一つをさらに明らかにすることについてその切望を推測しました」。
私は質問した、「なぜ、あなたがたは一つと言うのですか? 私は、それでもなお多くのことを知るためにここへやって来ました」。
[2]彼女たちは言った、「〔多くの〕アルカナがあります、あるものはあなたがた〔男〕の知恵を、あなたがたの思考の理解力がそれらを把握することができないように、それほどに上回っています——あなたがたは、あなたがたの知恵から私たちに誇っています、しかし私たちは私たち〔女〕からあなたがたに誇りません、それでも私たちのもの〔知恵〕はあなたがたに卓越しています、あなたがたの性向と情愛に入り、そしてそれらを見、知覚し、感じるからです——あなたがたはあなたがたの愛の性向や情愛についてまったく何も知りません、それでもそれらは存在し、それらから、それらにしたがって、あなたがたは理解力で考えます、それゆえ、それらから、それらにしたがって、あなたがたは賢明です。それでも妻たちは、夫たちの顔の中に見るように、彼らの口の話しの音からそれらを聞きます、それどころか彼らの胸・腕・ほほの上にそれらを触覚で感知します、これほどに十分に自分の夫の中のそれらを知っています——しかし、私たちはあなたがたの幸福と同時に私たちの幸福のために愛の熱意から、私たちは私たちがそれらを知らないようなふりをします、それでもそれらを、何でも私たちの夫の意向・選択・意志であるようにし、私たちは、許して、認め、また可能な時、ただそらせて、しかし、決して強制しないで従うように、それほどに賢明に支配しています」。
[3]私は質問した、「あなたがたのその知恵はどこからですか?」
彼女たちは答えた、「創造から、ここから出生の時から私たちに生来のものです——私たちの夫たちはそれを本能にたとえます、けれども、私たちはそれを男たちが自分の妻によって幸福にされるための神的摂理からのエッセ(本質な存在)と言います。
私たちは私たちの夫たちから、主は男性の人間が理性にしたがって自由から行動するように欲したこと、性向と情愛に目を向けている彼の自由を、主ご自身は内的なものから調整すること、それは彼の妻により外的なものから、このように男は彼の妻とともに天界の天使として形作られることを聞きました。そしてさらに、愛は、もし強制されるなら、その本質を変え、それは愛でなくなります——しかし私たちはこれらをさらにあからさまに言いましょう。私たちはそのことに向けて〔心を〕動かされています、すなわち、私たちの夫の性向と情愛を、自分の理性にしたがって自由から行動することが、自分自身に見られるように、これほどに、思慮分別に向けて調節することです、その理由は、私たちは彼らの愛からの楽しみからです、さらに私たちは、彼らが私たちの歓喜から楽しまされること以上に愛しません、その歓喜は、もし彼らのもとで価値がなくなるなら、私たちのもとでもつまらなくなるからです」。
[4]これらが言われて、妻たちからのひとりが寝室に入り、戻って、言った、「私のハトはまだ翼を振っています、それは、多くのことを私たちが明らかにするようにとのしるしです」。
言った、「私たちは夫たちの性向と情愛のいろいろな変化を観察しました、例えば、夫たちが主と教会に反して空虚なことを考える時、妻たちに向かって寒気がすること。自己知性からの高慢の中にいる時、寒気がすること。他の女たちを色情から眺める時、寒気がすること。妻たちから愛することについて注意される時、寒気がすること。ほかに多くのことです。また、いろいろな冷淡さで寒気がします——このことを私たちは、私たちの感覚が居合わすとき、彼らの目・耳・身体からの感覚の収縮から気づきます。
これらわずかなものから、あなたは、私たちが夫たちよりも知っていること、彼らに善くあるか、あるいは悪くあるどうか見ることができます。もし妻たちに向かって寒気がするなら、彼らに悪くあります、しかし、もし妻たちに向かって温かいなら、彼らに善くあります。それゆえ、妻たちは絶えず心(アニムス)で、男たちが彼女たちに温かく、寒気がしないような手段を熟考しています、それらの手段を、夫たちに計り知れない洞察力で熟考しています」。
[5]これらが言われて、ハトがうめくかのように聞こえた。その時、妻たちは言った、「これは、私たちにとって、私たちがさらに隠されたものを、それらは許されていないけれども、公けにすることを熱望していることのしるしです。おそらく、あなたが聞いたそれらを、あなたは男たちに明らかにします」。
私は答えた、「そのつもりです、ここから何の害がありますか?」
妻たちは、その後、このことについて互いに話し、言った、「あなたがお望みなら、明らかにしなさい。私たち妻たちにどれほどの説得する力があるか隠れていません、というのは、自分たちの夫に、『その男はふざけています、作り話であって、外観から、また男たちのいつものたわごとから冗談を言っています』と言うからです。彼を信じてはなりません、私たちを信じなさい。私たちは、あなたがたは愛であり、私たちが従順であることを知っています。
それゆえ、あなたが欲するなら、明らかにしなさい、しかし、それでも夫たちはあなたの口から判断しないで、キスされる自分の妻たちの口から判断するでしょう」。

結婚愛

208◀︎目次▶︎210

(九)結婚について普遍的なもの

209 結婚について非常に多くのものがあり、それらは、もし詳細に述べられるなら、この小著は大きな書物になります――というのは、夫婦の間の類似と相違について、霊的な結婚愛への自然的な結婚愛の高揚について、そしてまたそれらの結合について、一方の増加ともう一方の減少について、両方の変化と相違について、妻の知性について、天界からの結婚の普遍的なスフェアと地獄からのその対立したものについて、それらの流入と受け入れについて、ほかに他の多くのものについて詳細に述べられることができるからです。それらは、もし詳細に説明されるなら、この著作は、読者がうんざりさられせるようなそれほどに大きな本に膨らみます。
この理由のために、またむだな退屈な議論を避けるために、それらを「結婚についての普遍的なもの」に限定します。しかし、これらを前章で述べたように項目に分けます、それらはこれらです――

(1) 結婚愛の固有の感覚は触覚である。
(2) 真の結婚愛にいる者のもとで賢明になる能力は増大する。しかし、これは結婚愛にいない者のもとで減少する。
(3) 真の結婚愛にいる者のもとで一緒に住む幸せは増大する。しかし、これは結婚愛にいない者のもとで減少する。
(4) 真の結婚愛にいる者のもとで心の結合は友情とともに増大する。しかし、結婚愛にいない者のもとで友情は心の結合とともに減少する。
(5) 真の結婚愛にいる者はひとりの人間であることを絶えず欲する。しかし、結婚愛にいない者はふたりであることを欲する。
(6) 真の結婚愛にいる者は結婚の中に永遠を眺める。けれども、結婚愛にいない者はそうではない。
(7) 結婚愛は貞潔な妻のもとに住むが、それでもその愛は夫に依存している。
(8) 女性の知性は本質的に控えめな・優雅な・穏やかな・従順な・柔らかい・繊細なものである。しかし、男の知性は本質的にきびしく・荒い・固い・勇敢な・自由気ままを愛するものである。
(9) 男(夫)が結婚のきずなを愛するかぎり、妻はそれを愛する。
(10) 妻は男(夫)のように決して興奮の中にいない。しかし、妻に受け入れに向けて準備の状態がある。
(11) 男(夫)に、自分の知恵の真理を繁殖させる愛にしたがって、役立ちを行なう愛にしたがって、能力がある。
(12) 決定は夫の意のままにある。
(13) 結婚のスフェアがあり、それは主から天界を通って全世界のすべてと個々のものの中へ、その最終的なものにまでも流入する。
(14) このスフェアは女性により受け入れられ、これを通して男性へ移される。逆ではない。
(15) 結婚愛があるところに、このスフェアは妻により、もっぱら妻を通して、夫により受け入れられる。
(16) 結婚愛がないところに、そのスフェアは確かに妻により受け入れられるが、妻を通して夫により受け入れられない。
(17) 真の結婚愛は、夫婦からの一方の者のもとに存在し、同時にもう一方の者のもとに存在しないことができる。
(18) 夫婦のもとに、内なるものも外なるものも、似ているいろいろなものと似ていないいろいろなものがある。
(19) 似ているいろいろなものは結合されることができるが、似ていないものとはできない。
(20) 真の結婚愛を望む者に、主は似ているものを備えられる、もし地上で与えられないなら、それを天界で備えられる。
(21) 結婚愛の不足や失うことにしたがって、人間は獣の性質に近づく。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

209◀︎目次▶︎211

210 (1) 結婚愛に固有の感覚は触覚である
 それぞれの愛にそれ自体の感覚があります。理解しようとする愛から、見ようとする愛に視覚の感覚があり、この楽しさは均斉と美です。聞こう、従おうとする愛から、聞こうとする愛に聴覚の感覚があり、この楽しさは調和する音です。知覚しようとする愛から、空気の中のあたりを流れているものを知ろうとする愛に嗅覚の感覚があり、この楽しさは芳香です。善と真理を自分自身に吸収しようとする愛から、自分自身を養育しようとする愛に味覚の感覚があり、この快さは美味です――見回そう、自分自身を守ろうとする愛から、対象を知ろうとする愛に触覚の感覚があり、この楽しさは感覚を刺激することです。
 善と真理を結合しようとする愛から、自分自身を配偶者と結合させようとする愛に触覚の感覚があることは、その感覚がすべての感覚に共通であり、ここから、それらから貢献を得ているからです。この愛は交わりの中で、前述のすべての感覚を自分自身に受け、それらの楽しさを自分自身に割り当てることがよく知られています。
 触覚の感覚が結婚愛に割り当てられていること、またこの固有のものであることは、そのすべての戯れから、その微妙なものへの、最高に微妙なものへの高揚(興奮の状態)から明らかです――しかし、これらをさらに導き出すことは、愛する者たちに残されています。

結婚愛

210◀︎目次▶︎212

211 (2) 真の結婚愛にいる者のもとで賢明になる能力は増大する。しかし、これは結婚愛にいない者のもとで減少する
 真の結婚愛にいる者のもとの賢明になろうとする能力は増大し、前章の十分な論証で示されているように、この愛は夫婦のもとにある知恵からであり、それにしたがっているからです。なおまた、その愛の感覚は触覚であり、これはすべての感覚に共通であり、そしてまた歓喜に満ちているので、ここからそれは感覚の内的なものを開くように心の内的なものを、それらとともに身体全体の器官を開きます――このゆえに、その愛の中にいる者は、賢明であること以上に愛するものは何もないことがいえます。なぜなら、人間は、彼の心の内的なものが開かれるかぎり賢明になるからです。というのは、開けることによって、理解力の思考はすぐれた光の中に、意志の情愛はすぐれた熱の中に上げられ、すぐれた光は知恵であり、すぐれた熱はその愛であるからです――真の結婚愛にいる者にある自然的な歓喜に結合した霊的な歓喜は、愛すべき性質を、ここから賢明になる能力をつくります。
 ここから、天使に知恵にしたがった結婚愛があり、そしてその愛にまたその歓喜と一緒に、知恵の増大にしたがって、増大があります。彼らの結婚から生まれる霊的な子孫は、父からの知恵に属し、母からの愛に属すようなものであり、それらは子孫を霊的なストルゲー(親心)から愛しています。その愛はそれ自体に彼らの結婚愛を付加し、絶えずそれを高揚させ、彼らを結合させます。

結婚愛

211◀︎目次▶︎213

212 何らかの知恵の愛から何らかの結婚愛にいない者のもとに反対のものが生じます。これらの者も好色に振る舞おうとする目的でないなら結婚に入らないし、この目的にもまた狂おうとする愛が内在します。というのは、本質的に眺められたすべての目的は愛であり、そして好色はその霊的な本質で狂気であるからです。狂気によって虚偽からの心の精神障害が意味され、そしてはなはだしい精神障害は、虚偽化された真理からこれが知恵とまでも信じる心の精神障害です――これらの者が結婚愛に対立していることは、明白な確証または証拠が霊界で与えられます。そこでは、彼らは結婚愛のにおいを〔嗅ぐと〕すぐに洞窟の中へ逃げ去り、入り口を閉ざします。もしこれが開かれるなら、世の狂った者のように狂います。

結婚愛

212◀︎目次▶︎214

213 (3) 真の結婚愛にいる者のもとで一緒に住む幸せは増大する。しかし、これは結婚愛にいない者のもとで減少する
 一緒に住む幸せが真の結婚愛にいる者のもとで増大することは、互いにすべての感覚で愛し、妻は夫以外に愛すべき男を見ず、そして夫もそうであるからです。それどころか、〔夫または妻以外に〕愛すべき者を聞かず、嗅がず、触れもしません。ここから、彼に、家・寝室・寝床の中での一緒に住む幸せがあります。
 そのようであることを、夫であるあなたがたは、結婚の最初の歓喜から確信することができます、それらはその十分さの中にある時、すべての〔女〕性〔の中〕から妻だけが愛されるからです。
 何らかの結婚愛にいない者に反対のものがあることはよく知られています。

結婚愛

213◀︎目次▶︎215

214 (4) 真の結婚愛にいる者のもとで心の結合は友情とともに増大する。しかし、結婚愛にいない者のもとで友情は心の結合とともに減少する
真の結婚愛にいる者のもとで、増大することは、「結婚による霊魂の結合と心の結合」について扱われている章の中で、主のことば「もはや二つではなく、一つの肉である」によって意味されることが示されています(156–181番参照)。
[2]けれども、友情がそれ自体を愛に結合するほど、その結合が増大する理由は、友情がその愛の顔のようであり、そしてまた、その衣服のようであるからです、なぜなら、それ自体を愛に衣服のように結びつけるだけでなく、さらにまたそれ自体を顔のように結合させるからです。友情に先行する愛は、性愛に似ていて、その愛は、誓いの後になくなります、しかし、友情に結合した愛は、誓いの後に残り、そしてまた、確定されます。さらにまた胸の内部に入り、友情がそれを導き入れ、それを真に結婚のものにします。その時、その愛がこの友情を自分のものに、さらにまた結婚のものにし、それは他のすべての愛の友情から極めて異なっています、というのは、完全なものであるからです。
[3]結婚愛にいない者のもとで反対のものが生じることはよく知られています。これらの者のもとで、婚約の時に、その後、結婚式の後の最初の日々に徐々にしみ込んだ最初の友情は、ますます心の内的なものから、これらから連続的に去り、最後に皮膚へ去ります。離別を考えている者のもとで、まったく去ります。しかし、離別を考えていない者のもとで、愛は外なるものの中に残りますが、内なるものの中で冷たいものです。

結婚愛

214◀︎目次▶︎216a

215 (5) 真の結婚愛にいる者はひとりの人間であることを絶えず欲する。しかし、結婚愛にいない者はふたりであることを欲する
結婚愛は、その本質では、ふたりが一つであることを欲すること、すなわち、二つのいのちが一つのいのちになることを欲すること以外の他のものではありません――その意志はその愛の永続するコナトゥス(努力)であり、それからそのすべての効果が流れ出ます。
コナトゥス(努力)が運動の本質そのものであること、また意志が人間のもとの生きているコナトゥス(努力)であることは、哲学者の研究から確証され、そしてまた熟考する者に理性から引き出されたものであることが明らかです。ここから、真の結婚愛にいる者は、絶えず努力する、すなわち、ひとりの人間であることを欲する、ということになります。
結婚愛にいない者のもとに反対のものがあることは、彼ら自身がよく知っています。その者は、霊魂と心の分離から、絶えず自分たち自身をふたりと考えています、それゆえ、主のことば、「 もはや二つではなく、一つの肉である」(マタイ19:6)によって何が意味されるのかわかりません。

結婚愛

215◀︎目次▶︎216b

216a (6) 真の結婚愛にいる者は結婚の中に永遠を眺める。けれども、結婚愛にいない者はそうではない
 真の結婚愛にいる者は永遠を眺めます、その愛の中に永遠があるからです。そしてその永遠はここからです――その愛が妻のもとに、また知恵が夫のもとにあり、永遠に増大し、そして増大または進歩の中で、夫婦は深くまた深く天界の至福の中へ入るからです、この至福を彼らの知恵とその愛が同時にそれ自体にたくわえています。それゆえ、もし永遠の観念が引き離されるなら、または何らかの偶然から心からすべり出すなら、彼らは天界から投げ落とされるようになります。
[2]永遠の観念が彼らの心から奪われ、そしてその代わりに一時的なものの観念が生じる時、結婚の状態が天界でどのようであるか、次の経験から、私のもとで公けの場所にやって来ました――

 かつてふたりの夫婦が許可を与えられて天界から私にやって来た。その時、ある〔役に立たない〕やくざ者によって悪賢しく語られて、彼らから結婚について永遠の観念が取り去られた。それが取り去られ、嘆き悲しみ始めて、「もはや生きることができない、以前に決してなかった苦悩を感じる」と言った。それが知覚されて、天界の仲間の天使から、やくざ者は遠ざけられ、投げ落とされた――これが行なわれて、直ちに、彼らに永遠の観念が戻った。そのことから、心が喜びで喜ばされ、そして極めて優しく互いに抱擁した。
[3]このことの他に、私は、ふたりの夫婦から自分の結婚について、時には永遠の観念を、時には一時的なものの観念を抱いたことを聞いた。その理由は、彼らに内なる相違が内在したからである――これらの者は永遠の観念の中にいたとき、互いの間で喜んだ、しかし、一時的なものの観念の中にいたとき、「もはや、結婚ではありません」、また妻は、「私はもはや妻ではありません、めかけです」、そして男は、「私はもはや夫ではありません、姦通者です」と言った。それゆえ、彼らに内なる相違が開かれた時、男は女から、女は男から去った。しかし、その後、両者は結婚について永遠の観念にいたので、似ている仲間に加わった。

[4]これらから、真の結婚愛にいる者が永遠を眺めていること、もしこれが最内部から、思考からすべり出すなら、同時にどれほど友情に関して分離していなくても、結婚愛に関して分離されることを、はっきりと見ることができます。というのは、前者〔結婚愛〕は内なるものの中に、けれども後者〔友情〕は外なるものの中に宿るからです。
 地上の結婚でも同様です――そこの夫婦は、互いに優しく愛している時、〔結婚の〕約束について永遠を考え、そしてまた死によるその終わりについて何も考えません。もしこれについて、悲しんでも、死後、それが継続する思いから希望で元気づけられます。

結婚愛

216a◀︎目次▶︎217

216b (7) 結婚愛は貞潔な妻のもとに住む。しかし、妻の愛は夫に依存している
 その理由は、妻たちは愛に生まれていて、ここから夫たちと一つであることを欲することが彼女たちに植え付けられていて、この自分の意志の思考から絶えず自分の愛を育てているからです。それゆえ、自分たち自身を夫たちに結合させようとする努力から引き下がることは、自分自身から引き下がることになります――夫たちは異なっています。これらの者は愛に生まれていませんが、妻からの愛のそれらを受け入れるものに生まれています、それゆえ、愛を受け入れば受け入れるほど、それだけ妻はその愛とともに入って来ます。しかし、受け入れなければ受け入れないほど、それだけ妻はその愛とともに外に立ち、待ち望んでいます――しかし、このことは貞潔な妻のもとに生じ、不貞な妻のもとでは異なります。
 これらから、結婚愛は(貞潔な)妻のもとに住みますが、その愛は夫に依存していることが明らかです。

結婚愛

216b◀︎目次▶︎218

217 (8) 男(夫)が結婚のきずなを愛するかぎり、妻はそれを愛する
 このことは先行する節からいえます――追加の事実は、妻たちは本能的に妻たちであることを、妻たちと呼ばれることを欲している〔ことです〕。このことは彼女たちにふさわしくて名誉ある名前です。それゆえ、結婚のきずなを愛します――貞潔な妻たちは名前に関してでなく、実際に妻であることを欲し、このことは夫たちと堅いまた堅いきずなを結ぶことによって生じ、それゆえ、結婚のきずなをその約束の確定から愛し、それを、夫たちから愛し返されるほど、すなわち、同じことですが、男たちがそのきずなを愛するほど、それだけさらに愛します。

結婚愛

217◀︎目次▶︎219

218 (9) 女性の知性は本質的に控えめな・優雅な・穏やかな・従順な・柔らかい・繊細なものである。男の知性は本質的にきびしく・荒い・固い・勇敢な・自由気ままを愛するものである
女性がこのようなものであり、男がこのようなものであることは、両方の身体・顔・声・話し方・振る舞い・そぶりからはっきりと明らかです。
身体から、男の皮膚と肉は堅い、けれども、女性は柔らかです――顔から、男は固く、決然としていて、粗く、黄褐色、ひげもあり、そのように美しくありません、けれども、女性は柔らかく、柔軟性があり、繊細、白く輝き、ここから美しいです――声から、男は重々しい、けれども、女性は繊細です――話し方から、男は自由を愛し、勇気があります、けれども、女性は控えめで穏やかです――振る舞いから、男に強さと堅固さがあります、けれども、女性たちに力がなく、弱々しいです――そぶりから、男に遠慮がありません、けれども、女性に優雅さがあります。
[2]男の性格が女性の性格から出生そのものからどれほど異なっているか、群れて集まっている少年と少女を見ることから私にはっきりと明らかになりました――私はこれらの者を数度、大きな都で、窓を通して街路の上に見ました、それらに二十を超える者が毎日、互いに集まりました。そこでは、少年たちは自分自身に生まれた性質にしたがって一緒に遊び、騒ぎ、叫び、争って、むち打って、他の者に石を投げました。しかし、少女たちは家の入り口に穏やかに座って、ある者は幼児とともに遊び、ある者は人形を着せ、ある者は亜麻布の布切れに縫い付け、ある者は互いにキスしていました。私が驚かされたのは、それでも、快い目でそのような少年たちを眺めていたことです。
これらから、私は、男が理解力に、そして女性が愛に生まれていること、また理解力がその始まりの中でどんなものであるか、愛がどんなものか、このように、男の理解力は、女性の愛との結合なしに、その後の結婚での結合なしに、進行の中でどのようになるか、はっきりと見ることができました。

結婚愛

218◀︎目次▶︎220

219 (10) 妻は男(夫)のように決して興奮の中にいない。しかし、妻に受け入れに向けて準備の状態がある
 男たちに射精があり、ここから興奮があること、女たちにそれがないので興奮がないことは明らかです。けれども、女たちに受け入れに向けて、このように妊娠に向けて準備の状態があることを、私は聞いたことから語ります――けれども、この女たちの状態がどんなものであるか、述べることは許されていません、そしてまた彼女たちにだけよく知られています。けれども、彼女たちの愛が、その状態の中にある時、その快さの中に、またはある者が言うように不快の中にあるかどうか、彼女たちから得られません――妻に「できる、でも欲しない」と言うことが夫に許されていないことだけが公けに知られています、というのは、このようにして受け入れの状態は著しく損なわれ、その状態は、夫ができる状態にしたがって準備されるからです。

結婚愛

219◀︎目次▶︎221

220 (11) 男(夫)に、知恵の真理を繁殖させる愛にしたがって、役立ちを行なう愛にしたがって、能力がある
 そのようであることは、古代人たちによく知られていましたが、今日では滅んだ秘義(アルカナ)の一つです。
 古代人たちは、身体の中で行なわれるすべてと個々のものは霊的な起源から行なわれることを知っていました。例えば、本質的に霊的なものである意志から行動が流れ出ること、思考から、それもまた霊的なものであり、話すことが流れ出ること、なおまた、理解力である霊的な視覚から自然的な視覚が〔流れ出る〕こと、霊的な聴覚から自然的な聴覚が流れ出て、それは理解力の傾注であり、同時に意志の適応である〔こと〕、知覚である霊的な嗅覚から自然的な嗅覚がある〔こと〕等々です――同様に、古代人たちは、男の射精が霊的な起源からであることを知っていました。理解力が構成される真理からであることを理性と経験の多くの証拠から結論しました。「善と真理の霊的な結婚から全世界のすべての個々のものの中に流入する真理以外に、その真理に関係するもの以外に、男性により決して受け入れられません、これは進行の中で身体の中で精子の中に形成されます、ここから、霊的に理解されたとき、精子は真理です。
[2]〔精子を〕形作ることについて――男性の霊魂は、知的なものであり、そのように真理であるので、というのは、知的なものは他のものではないからであり、それゆえ、霊魂が降る時、真理もまた降ります。このことが、人間とそれぞれの動物の最内部のものである霊魂が、その本質では霊的なものであり、その繁殖の努力から、降下の中へ続けられることになり、それ自体を生み出すことを欲することから生じ、これが生じるとき、全霊魂はそれ自体を形作り、それ自体を包み、精子になります。これが何千回も行なわれることができます、霊魂は霊的な実体であり、それには拡大がなく、充満があり、それから一部を取り出すことがなく、それを何も失うことなしに全体を引き出すからです。ここから、精子である最小の容器の中に、身体である最大の容器の中に存在するように、完全に存在します。
[3]そこで、霊魂の真理が精子の起源であるとき、男に自分の知恵の真理を繁殖させる愛にしたがって能力があることがいえます――それは役立ちを行なう愛にもしたがっています、役立ちは善であり、それを真理が生み出するからです。世でも、ある者たちに、勤勉な者に能力があり、怠け者にないことがよく知られています」と言いました。
 私は、どのように男の霊魂から女性が繁殖させられるのか質問しました――「善はその本質では真理であるので知的な善からである」という答えを得ました。なぜなら、知性は、これが善であると考えること、そのようにそれが善であることは真理であると考えることができるからです。善は異なっています。これは善と真理を考えません、しかしそれらを愛し、行ないます――それゆえ、みことばの中の「息子」によって真理が、「娘」によって善が意味され、このことが前に見られます(120番)。みことばの「種」によって真理が意味されることは『啓示された黙示録』の中に〔見られます〕(565番)。

結婚愛

220◀︎目次▶︎222

221 (12) 決定は夫の意のままにある
 その理由は、男たちのもとに前述の能力があり、これは彼らのもとで、心の状態にしたがっても、身体の状態にしたがっても変えられるからです。というのは、理解力は、その情愛の中で意志が一定であるように、その思考の中でそのように一定ではないから。というのは、時には下方へ、時には穏やかさと明るい状態の中に、時には暗やみと不明瞭の中に、時には快い、時には不快な対象の中に運ばれるからです。心は、活動している時、身体の中にもあるので、これに似た状態があることがいえます――ここから、夫は、時には結婚愛から去り、時にはそれへ近づき、能力はある状態で引き離され、他の状態で回復されます。これが、決定が夫の好みの中(意のまま)に残されなければならないことの理由です。ここから、妻たちは、彼女たちに植え付けられた知恵から、このようなものについて何らかの警告を決して口にしません。

結婚愛

221◀︎目次▶︎223

222 (13) 結婚のスフェアがあり、それは主から天界を通って全世界のすべてと個々のものの中へ、その最終的なものにまでも流入する
 主から愛と知恵が、すなわち、同じものですが、善と真理が発出していることは、以前の章に示されています〔83番以降〕。
 それら二つのものは主から結婚の中へ絶えず発出しています、それらはその方であり、その方からすべてのものがあるからです。その方から発出しているそれらは全世界に満ちています。なぜなら、そのことなしに、存在するものは決して存続しないからです。
[2]その方から発出する多くのスフェアがあります――例えば、創造された全世界の維持のスフェア、悪と虚偽に対して善と真理の保護のスフェア、改心と再生のスフェア、無垢と平和のスフェア、慈悲と恩恵のスフェア、ほかに多くのものです。しかし、すべての〔ものの中で〕普遍的なものは、結婚のスフェアです、これは繁殖のスフェアでもあり、このように生殖(産出)の継続によって創造された全世界を維持する卓越したスフェアであるからです。
[3]この結婚のスフェアが全世界に満ちています、それらが全世界を最初のものから最後の間に行き渡っていることは、前に示されたことから明らかです、〔すなわち〕天界に結婚があること、また第三の天界、すなわち、最高の天界に最も完全なものが、人間のもとのほかに、(このスフェアは)地上の動物界のすべて主体の中に、虫にまでもあることです。ほかに、オリーブの木とシュロの木から草まで植物界のすべての主体の中にあります。
[4]このスフェアが私たちの世界の太陽から発出する熱と光のスフェアよりもさらに普遍的であることを、理性は、その熱が冬のように不在でも、その光が夜のように不在でも、特に、人間のもとで働くことから確信させられることができます。そのように働くことは、天使がいる天界の太陽からです、ここから、熱と光が変わらずに同等にある、すなわち、善と真理の結合があるからです。というのは、(天界は)絶えず春の中にあるからです。善と真理の変化、すなわちその熱と光の変化は、地上の変化のように、その太陽からの熱と光の変化からではなく、それらは受け入れる主体から起こっています。 

結婚愛

222◀︎目次▶︎224

223 (14) このスフェアは女性により受け入れられ、これを通して男性へ移される。
男性のもとに何らかの結婚愛はないこと、しかし、女性のもとにだけあり、これから男へ移されること、私は経験により証明されたものでこのことを見ました(161番)――次の論拠も賛同されます、男の形は理解力の形であり、そして女は意志の形であることです。理解力の形はそれ自体から結婚の熱で温かくなることができません、しかし、創造から植え付けられている者に結合した熱により〔できます〕。それゆえ、自分自身に女の意志を接合させた形を通してでないなら、それを受け入れることができません、これもまた愛の形であるからです。
[2]このことはさらに善と真理の結婚から、自然的な人間の前に、心臓と肺の結合から同様に説明されることができます、心臓は愛に、肺は理解力に対応するからです。しかし、大部分の者はこれらの知識を欠くので、これらによる説明は、明らかにするよりも、さらにわかりにくくします。
このスフェアが女性から男性へ移動することから、〔異〕性について考えるだけで、心もまた興奮させられます。ここからもまた繁殖の形成が、このように興奮が続きます。なぜなら、地上の光へ熱が加わらないなら、そこに何らかの実を結ばせることへ向けて、何も育たないし、ひき起こされないからです。

結婚愛

223◀︎目次▶︎225

224 (15) 結婚愛があるところに、このスフェアは妻により、もっぱら妻を通して、夫により受け入れられる
 そのスフェアは、真の結婚愛にいる者のもとで、もっぱら妻を通して夫により受け入れられることは、今日、秘義(アルカナ)です、それでも、本質的に秘義(アルカナ)ではありません、花婿や新しく夫となった者はこのことを知ることができるからです。何が花嫁や新しく妻となった者から発出しませんか? それでもその時〔それは〕、結婚にふさわしく働きかけ、〔同〕性の他の者から発出するものではありません。
 真の結婚愛の中で一緒に暮らす者も同様です。男であれ女であれそれぞれの者を、胸から濃く、背後から希薄に取り囲むいのちのスフェアがどこからであるか明らかです、自分の妻たちを深く愛する夫たちは、彼女たちへ向け、日中は、好感を持った顔つきで彼女たちを眺めます。逆に、自分の妻たちを愛さない者は、彼女たちから背き、そして日中は、そむけたまなざし(凝視)で彼女たちを注視します。
 もっぱら妻を通して夫により結婚のスフェアが受け入れられることによって、真の結婚愛が知られ、にせの・偽りの・冷たい結婚愛が見分けられます。

結婚愛

224◀︎目次▶︎226

225 (16) 結婚愛がないところに、そのスフェアは確かに妻により受け入れられるが、妻を通して夫により受け入れられない
 全世界に流れ入っているこのスフェアは、その起源で神的なものであり、天界への進行の中で、天使のもとで天的なものと霊的なものであり、人間のもとで自然的なもの、獣と鳥のもとで動物的なもの、虫のもとで単なる形体的なもの、植物のもとでそのいのちを欠いているものです。またさらに、個々の主体の中でその形にしたがって変化しています。
 さて、そのスフェアは女性により直接に、男性により間接的に受け入れられるので、また形にしたがって受け入れられるので、その起源で聖なるものであるそのスフェアは、主体の中で聖なるものでないものへ、それどころか正反対のものへも、変えられることができることがいえます――それに対立したスフェアはこのような女のもとで娼婦のもの、このような男のもとで淫行のものと呼ばれます。これらの者は地獄にいて、これらのスフェアはそこからです。これらのスフェアもまた多くの変化があり、ここからその多くの種類があります、しかし、彼に調和し、その性質を強め、対応するような種類のものが男により引き寄せられ、運び去られます。
 これらから、妻を愛さない男は、そのスフェアを妻から以外の他のところから受けることを明らかにすることができます――それでも、そのスフェアもまた妻により吹き込まれています、しかし夫は〔このことを〕知りません、〔夫が〕熱くなっている時に、そのことが生じます。

結婚愛

225◀︎目次▶︎227

226 (17) 結婚愛は、夫婦からの一方の者のもとに存在し、同時にもう一方の者のもとに存在しないことができる
 というのは、一方の者は心から自分自身に貞潔な結婚を誓うことができます、けれども、もう一方の者は何が貞潔か知らないからです。一方の者は教会のものを愛することができます、けれども、もう一方の者は世のものだけを愛します。一方の者は心に関して天界にいることができます、もう一方の者は自分に関して地獄にいます。ここから一方のものに結婚愛があり、もう一方の者のもとに存在しないことができます――これらの心は、反対の方向にあるので、内部に互いに衝突します。もし衝突がないなら、それでも結婚愛にいない者は、配偶者〔特に女〕を、醜さから、いやな老婆のように眺めます。等々。

結婚愛

226◀︎目次▶︎228

227 (18) 夫婦のもとに、内なるものも外なるものも、似ているいろいろなものと似ていないいろいろなものがある
 夫婦の間に似ているものと似ていないものがあること、また外なるものが見られても、内なるものが一緒に住むことの時の後でないなら、夫婦自身に、またしるしによって他の者たちに見られないことはよく知られています――しかし、認識するために両方を列挙することはむだです、多くのページを一覧表やいろいろなものの記述で満たすことになるからです――似ているものについて、一部に関して、似ていないものから、そのために結婚愛が冷たさに変わりますが、次章で、演繹し、結論することができます。
 似ているものと似ていないものは、全般的に、教育・交際・吹き込まれた信念によって多様にされた生来の性向から起源が導かれています。

結婚愛

227◀︎目次▶︎229

228 (19) 似ているいろいろなものは結合されることができる。しかし、似ていないものとはできない
 いろいろと似ているものは非常に多く、そして多かれ少なかれ、離れています。しかしそれでも、離れているそれらは、適切な時に、いろいろなものによって結合されることができます、特に、願いを満たすこと・相互の好意・礼儀正しさ・不貞なものを断つこと・幼児への共通の愛・子どもを世話することによってです――けれども、特に、教会の事柄での一致によってです。というのは、教会の事柄によって遠く離れた似ているものに内的な結合が生じるからです、他のものによっては単に外的なものの結合だけが生じます。
 しかし、似ていないものとの結合は行なわれることができません、反感があるからです。

結婚愛

228◀︎目次▶︎230

229 (20) 真の結婚愛を望む者に、主は似ているものを備えられる、もし地上で与えられないなら、それを天界で備えられる
 その理由は真の結婚愛のすべての結婚は主により備えられるからです。その方からであることは、前に見られます(130、131番)。しかし、どのように天界の中で備えられるか、私は天使たちから聞き、それはこのように述べられました――

 結婚について、また結婚の中で、主の神的摂理は最も個々のものと最も普遍的なものです、天界のすべての快いものは結婚愛の快いものから、泉の流出口からの甘い水のように、わき出るからです。それゆえ、結婚の一組が生まれるように備えられています。これらの者は主の導きのもとで常にその結婚へ向けて、少年も少女も、そのことを知らないで育てられています。時の過ぎ去った後、その時、適齢期の娘は、またその時、結婚にふさわしい若者は、運命からのようにどこかで出会い、互いに見ます。直ちにその時、ある種の本能からかのように、配偶者たちであることを知ります、内部である種の命令(内なる声)のようなものから自分たち自身の中で考えます、若者は、彼女が私のものであること、娘は、彼が私のものであることです。しばらくして、このことが両方の心に定まった後、熟慮して、互いに話しかけ、婚約します――運命・本能・命令からのように、と言いましたが、神的摂理からであることが意味されます、これが知られない時、そのように見えるからです。というのは、互いに見るために、主は内なる似ているものを開くからです。

結婚愛

229◀︎目次▶︎231

230 (21) 結婚愛の不足や失うことにしたがって、人間は獣の性質に近づく
 〔この〕論拠は、人間は結婚愛にいればいるほど、それだけ霊的であり、霊的であればあるほど、それだけ人間であるからです。というのは、人間は死後の生活へ生まれているから、彼に霊的な霊魂が内在し、人間はこれへ自分の理解力の能力によって上げられることができるからです。もしその時、彼の意志がそれにも与えられた能力から上げられるなら、死後、天界の生活を送ります――もし結婚愛に反した愛の中にいるなら、正反対です。なぜなら、この〔愛の〕中にいればいるほど、それだけ自然的であり、単に自然的な人間は、その性欲・食欲・快いものに関して獣に似たものであるからです――そのとき、彼らに理解力が霊的な光の中に上げられる能力があり、そしてまた意志が天界の愛の熱の中に上げられる能力がある、という相違だけがあります。これらの能力は決して人間から取り去られません――そのために、単に自然的な人間は、たとえ、彼らの性欲・食欲・快いものに関して獣と似たものであっても、それでも、死後、生きます、しかし、以前に過ごした生活に対応する状態の中で生きます――これらから、投げ落とされた結婚愛にしたがって、獣の性質へ近づくことを明らかにすることができます。
 これらは、結婚愛の不足や失うことが彼らのもとに存在し、それでもなおその者は人間であるので矛盾しているように見られます――しかし、〔これは〕淫行愛から結婚愛を無価値にし、このようにその〔結婚愛の〕不足と失うことの中にいる者についての見解です。

結婚愛

230◀︎目次▶︎232

22 友情の裁判官たちについて、彼らは「おお、なんと正しい者」と叫ばれた

231 (これらに三つのメモラビリアを加えます、第一のものはこれ——)
かつて私は叫びを聞いた、それは下方から水を通ってげっぷが出てくるようであった。一つは左に、「おお、なんと正しい者」、もう一つは右に、「おお、なんと学識のある者」、第三のものは背後から、「おお、なんと賢明な者」という叫びであった——私に、地獄にもまた、正しい者・学識のある者・賢明な者たちがいるのかという思いが起こったので、このような者がそこにいるかどうか、私は見る願いをかきたてられた。天界から私に言われた、「あなたは見、聞くであろう」。
私は霊の中で出て行き、私の前に開口部を見た。そこへ私は近づき、見下ろした。見よ、階段。これを通って、私は降った——下に着いたとき、私はいばらとイラクサの混ざった灌木でおおわれた平野を見た。私は、これが地獄かどうか質問した。
彼らは、「地獄に最も近い、その上にある〝低い地〟である」と言った。
その時、私は叫びの順にしたがって進んだ。最初に、「おお、なんと正しい者」〔のところに〕、私は彼らからの集団を見た、その者は世で友情と贈り物(賄賂)の裁判官たちであった——その後、第二の叫び、「おお、なんと学識のある者」〔のところに〕、私は彼らからの集団を見た、その者は世で議論家(理屈屋)たちであった——また第三の叫び、「おお、なんと賢明な者」〔のところに〕、私は彼らからの集団を見た、その者は世で証明家たちであった。
[2]しかしこれらから私は最初のものへ向きを変えた。そこに友情と贈り物(賄賂)の裁判官たちがいて、正しい者たちと宣言された。私は脇に、れんが構造の、黒い瓦屋根の(階段式座席のある)大講堂のようなものを見た。私に、そこに彼らの「裁判所」がある、と言われた。
その中に北の側から三つ、西の側から三つの入り口が開かれていた、南と東の側からの入り口は何もなかった。彼らの判決が公正な判決でなく、しかし、恣意的なものであるしるしであった。
(階段式座席のある)大講堂の真ん中に炉が見られ、炉の係りの者がその中へ硫黄と瀝青で処理された松を投げ込み、それらから、しっくいの塗られた壁に投げかけられた光が夕の鳥〔コウモリ〕と夜の鳥〔フクロウ〕の画像を示した。しかしその炉は、ここから光が投影され、それらの像の形となったものは、調査したそれぞれの事柄を見せかけの色で示すことができ、それらにえこひいきにしたがって形を引き起こすことができる彼らの判決の表象であった。
[3]半時間の後、私は、紫の縁飾りの上着と外套の老人と若者が入って来るのを見た、その者は判決に座るために、自分の帽子を脱ぎ、椅子の上に、机に座った。そして、私は、どれほど巧みにまた如才なく、友情の外観から判決を公正の外観の中へ傾け、ひっくり返したか、見、知覚した。また、このことを自分自身の不正が見られないように、公正としか見られないように、そして逆に公正が不正であるようにした。それらについての確信のようなものが彼らの顔から見られ、彼らの話しから聞こえた。
その時、私に天界からの照らしがあり、その照らしから個々のものが、法律のものか、あるいは法律のものでないか、知覚した。また、どれほど精を出して不正をおおい隠したか、そしてそれに公正の幻影を着せたか、法律から是認の例を選んだか、残りのものを才気のある推論によって脇へ遠ざけたかを見た。
判決の後、依頼人・友人・支持者に判決が持ち出され、彼らはこれらに賛成して報い、長い列をなして、「おお、なんと正しい者、おお、なんと正しい者」と叫んだ。
[4]この後、私は彼らについて天界の天使たちと話し、天使たちに、私が見、聞いたものについて何らかのことを語った。
天使たちは、「このような裁判官たちは、他の者に、最も鋭い能力の知性を授かったように見られます、そのとき、それでも、決して公正と公平を見ていません」と言った。「もし〔その裁判官が〕何らかもののために、友情を取り去るなら、裁判の席に彫像のように座り、単に、『私は同意を表わし、このことまたはそのことを確認する』と言う〔のを見るでしょう〕。その理由は、彼らのすべての判決は予断とえこひいきであり、それとともに、始まりからその終わりまで予断の理由が続くからです。ここから、友情のものであるもの以外に何も見ません。それらに反するすべてのものに、目をそらし、横目で眺めます。もし再び取り上げるなら、それを、クモが糸で獲物を〔捕えて〕食い尽すように誤った推論でくるみます。ここから、もしこのような自分の予断に従うなら、法律に属すものを何も見ません——見ることができるかどうか調べられ、そしてないことが見つけられました——そのようであることを、あなたの世界の住民は不思議に思うでしょう。しかし彼らに、『これは天界の天使により見つけ出された真理である』と言いなさい。
彼らは公正なものを何も見ないので、私たちは天界の中で彼らを人間として見ないで、奇怪なものとして見ます。その頭を友情のものが、その胸を不正のものが、その足を確証のものが、そしてその足の裏を公正のものがつくります。それ〔足の裏〕はもし友人に好意を持たないなら、追い出し、踏みにじります。
けれども、どんなものが私たちに天界から見られるか、あなたは見るでしょう、というのは、彼らの終わりが差し迫っているからです」。
[5]見よ。その時、突然と地面が開き、そして机の上に机が倒れ、(階段式座席のある)大講堂全体と一緒に、のみ込まれ、洞穴へ投げ込まれ、閉じ込められた。
その時、私に、「あなたはそこの彼らを見たいですか?」と言われた。
見よ。顔に関して、磨かれた鋼鉄からできているように、身体に関して首から腰まで、ヒョウの皮を着た石からの彫像のように、足に関してヘビのように見られた——私は机の上に置かれていた法律の本を見たが、それらは(遊びの)カードに変えられた。また、今や、裁くことの代わりに、彼らに、娼婦の顔に塗る辰砂(朱)を紅へと準備し、それらで、顔を美へ変える役目が与えられた。
[6]これらが見られた後に、 私は残りの二つの集団へ近づくことを欲した。一つの集団は単なる議論家(理屈家)たちがいた、またもう一つはそこに単に〔虚偽の議論で〕確認する者たちがいた。またその時、私に言われた、「少し休みましょう。彼らの上の最も近い社会からあなたに天使の仲間が与えられるでしょう。これらの者によってあなたに主から光が与えられ、あなたは驚くべきものを見るでしょう」。

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231◀︎目次▶︎233

23 議論家(理屈屋)たちについて、彼らは「おお、なんと学識のある者」と叫ばれた

232 (第二のメモラビリア——)
数時間後、私は再び〝低い地〟から、最初の声、「おお、なんと学識のある者、おお、なんと学識のある者」を聞いた——私は天使たちのだれがいるのか見回した。見よ、「おお、なんと学識のある者」と叫んだ者たちの上に直接に天界にいる天使たちがいた。
叫びについて彼らと話した。天使たちは、「彼らは、単に存在するか、あるいは、存在しないか推論し、まれに、そのようであることを考える学識のある者たちでした」と言った。「それゆえ、吹き、通り過ぎる風のようです。髄のない木のまわりの樹皮のような、または種のないアーモンドのまわりの皮のような、または果肉のない実のまわりの表皮のようです。なぜなら、彼らの心は内的な判断がなく、単に身体の感覚に結合されたものであるからです。それゆえ、感覚そのものが判断しないなら、何も結論することができません。一言でいえば、単なる感覚的なものであり、私たちから議論家(理屈屋)と呼ばれます——議論家(理屈屋)と呼ばれるのは、決して何らかのものを結論しないで、何でも聞くものを〔主題に〕取り上げ、存在するかどうか、常に反駁して論争するからです。真理そのものを攻撃し、論争の中に入れて、このようにそれら真理を引き裂くこと以外に、何も愛しません——世で、これらの者がすべての者よりも自分自身を学識のある者と信じています」。
[2]これらを聞いて、私は天使たちに、私を彼らへ導くよう懇願した。
空洞へ導かれ、そこから階段が〝低い地〟へ向かっていた、私たちは降った、私たちは「おお、なんと学識のある者」の叫びに従った。見よ、一つの場所に数百人の者が立って、〔足で〕地面を打っていた。
最初、これに驚いて、私は質問した、「なぜこのように立っているのですか、足の裏で地面を打っているのですか?」 私は〔加えて〕言った、「このように、足で地面に穴をつくることができます」。
これを天使たちはほほ笑み、言った、「このように立っていることが見られるのは、何らかの事柄について、そのようであることを単にそのようであるかどうか〔以外に〕何も考えず、そして論争するからです——思考がその先へ進まないとき、単に地の一つの土くれを踏みつけ、進まないように見えます」。
しかし、その時、私は集会へ近づいた、見よ、見苦しくない顔の、飾られた衣服の人間が見られた。しかし天使たちは、「固有の光の中でこのような者に見られます、しかし、もし天界からの光が流入するなら、顔は、そしてまた衣服も変えられます」と言った——そのように行なわれた。その時、顔は黒ずみ、黒い麻布の衣服で見られた。しかしこの光が引っ込められたとき、最初のように見られた。
間もなく、私は彼らからのある者と話し、私は言った、「私はあなたのまわりの群衆の『おお、なんと学識のある者』という叫びを聞きました。それゆえ、学識の最高のものである事柄についてあなたがたと何らかことを話して議論することを許してください」。
[3]彼らは答えた、「言え、何でも好むところを、私たちは満足させよう」。
私は質問した、「人間が救われる宗教は、どんなものでなければなりませんか?」
彼らは答えた、「私たちはこの質問を多くのものに細分し、これらを私たちが結論する前に、答えを与えることはできない——そして討議されなければならない。
第一、宗教は何らかのものであるのか。第二、救いはあるのか、あるいはないのか。第三、ある宗教は他の宗教よりもさらに有効であるのか。第四、天界と地獄はあるのか。第五、死後、永遠のいのちはあるのか。加えて多くのもの」。
私は最初のもの、「宗教は何らかのものであるのか」を質問した——すると、これを豊富な論証で議論し始めた。宗教があるかどうか。それはそのように呼ばれる何らかのものであるかどうか——私はこれを会衆へ話すように頼んだ、そして彼らは応答した——また、その主題は、夕方の間に終わることができないほどに多くの調査を必要とする、という共通の答えがあった。
私は質問した、「あなたがたにより、一年の間に終わりにすることができますか?」
ある者が、百年の間ではできないことを言った。
私は言った、「その間、あなたがたは宗教なしでいます」。
彼は答えた、「最初に、宗教があるのか、それがそのように呼ばれる何らかのものであるのか示されるべきではないのか? もしあるなら、賢明な者のためのものでもあろう、もしないなら、単に大衆のためのものであろう——宗教が束縛と言われることはよく知られている。しかし、だれのためのものか? と質問される〔であろう〕。もし単に大衆のためのものなら、それ自体の中に何らかのものはない。さらにまた、もし賢明な者のためなら、〔何らかのものが〕ある」。
[4]これらを聞いて、私は言った、「あなたがたは決して学識ある者ではありません、あなたがたは、存在するかどうか、またこれを両方の側から考えること以外の何らかのものを考えることができないからです。何らかのものを確実なものとして知り、人間が歩みから歩みへ進むように、それへ進み、引き続いて知恵へ進まないなら、だれが学識ある者であることができますか? そうでなければ、あなたがたは真理に決して爪〔の先〕でさえ触れません、しかし、視野からますますそれらを取り去ります。
単に存在するかどうか推論することは、決してかぶらない帽子から、または決してはかない履き物から、推論することです。
あなたがたには、どんなものでも何らかのものが存在するかどうかの観念しか存在しないのではありませんか? それどころ何らかの救いが存在するかどうか、死後、永遠のいのちが存在するかどうか、ある宗教が他のものよりもさらにまさるかどうか、天界と地獄が存在するかどうか、ここからは知らないこと以外に何が生じますか?
これらについて、あなたがたが第一歩の中にとどまり、そこの砂を打ち、足を越えて足を運び、進まないかぎり、あなたがたは何らかのものを考えることができません。あなたがたは、あなたがたの心が、このように判断なしに外に立つ時、内部で固くなり、あなたがたが塩の柱に、ロトの妻の友人にならないよう用心しなさい」。
[5]これらを言って、私は去った。彼らは憤りから私の後ろに石を投げつけた。私には〔彼らが〕人間の理性が何も内在しない石の彫像のように見えた。
私は彼らの運命について天使たちに質問した。彼らは言った、「彼らの運命は、深い所へ、そこの荒野へ行かされ、荷を運ぶよう強いられることです。その時、理性から何らかのものを取り出すことができず、空虚なものをペチャクチャしゃべり、話し、遠くからはそこで重荷を運ぶロバのように見えます」。

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232◀︎目次▶︎234

24  証明家たちについて、彼らは「おお、なんと賢明な者」と叫ばれた

233 (第三のメモラビリア——)
この後、天使たちからのひとりが言った、「そこの『おお、なんと賢明な者』と叫ばれている場所へ、私の後に続きなさい」。また「あなたは人間の怪物を、人間のものである顔と身体を見るでしょう、それでも人間ではありません」と言った。
私は言った、「その時、獣なのですか?」
彼は答えた、「獣ではありません、しかし、獣人間です。というのは、その者は、真理が真理であるか、あるいは真理でないか、まったく見ることができず、それでもなお、何でも欲するものを真理であるようにすることができる者であるからです。このような者は私たちのもとで、〝証明家〟と呼ばれます」。
私たちは叫びに従って、その場所へやって来た。見よ、男の集団、また集団のまわりに群衆、また群衆の中に貴族からの系統の者がいた。彼らは、すべてのものを証明したことを聞いた時、自分自身もこれほどに明らかな同意で好感を持つと言い、向きを変えて、「おお、なんと賢明な者か」と言った。
[2]しかし天使が私に、「私たちは彼らに近づかないようにして、集団からひとりを呼び出しましょう」と言った——私たちは呼び出し、彼とともに離れ、いろいろなことを話した。彼はそれぞれのものを、まったく真理のように見えるまでも証明した。
私たちは彼に、正反対のものもまた証明することができるか、質問した。彼は、「前のもののように、これほどによく〔できる〕」と言った——その時、あからさまに、心から、「何が真理か? 人間が真理とするもの以外に自然の事柄の中に何らかの真理が存在するのか? 私に何でも好むところを言え、私はそれを真理であるようにする」と言った。
私は言った、「信仰は教会のすべてのものであることを真理としてください」。
これを取り囲む学者たちが驚嘆し、拍手するように、そのように巧みに、如才なく行なった。
その後、私は、仁愛が教会のすべてのものであることを真理とするよう求めた。そして〔それを〕行なった。その後、仁愛がまったく教会のものでないこと、そして両方に衣服を着け、概観で飾った。傍観者が互いに覗き込むようにして、「この者は賢明な者ではないのか?」と言った。
しかし、私は言った、「よく生きることが仁愛であること、よく信じることが信仰であることを、あなたは知らないのですか? よく生きる者は、よく信じもしませんか? このように、信仰は仁愛のもの、仁愛は信仰のものではありませんか? あなたは、これが真理であることを見ませんか?」
彼は答えた、「私はそれを真理とする、私は見よう」。そしてそれを行なって、言った、「今、私は見る」。しかし、じきにその正反対の事柄を、真理であるようにし、その時、言った、「私はこれが真理であることもまた見る」。
これに私たちはほほ笑み、言った、「正反対の事柄ではありませんか? あなたはどのようにして二つの正反対の事柄を、真理として見ることができるのですか?」
これに憤慨して答えた、「あなたがたは間違っている。人間が真理とするもの以外に何らかのものは真理ではないので、両方とも真理である」。
[3]近くにいる者が立った、その者は世で、第一位の大使であった。彼はこれに驚いて、「私は、何らかの似たものが世にあることを認める、しかしそれでも、あなたは狂っている。もしあなたにできるなら、光が暗黒、暗黒が光であることを真理であるようにしてみよ」と言った。
答えた、「このことは私に容易である。光と暗黒は目の状態でないなら何か? 目が日向からやって来る時、そのようにまた、熱心に太陽が見つめられる時、光は陰に変わらないか? 目の状態はその時、変えられること、光はここから陰のように見えることを、だれが知らないか。そして逆に、目の状態が戻る時、陰は光のように見える〔のではないか〕? フクロウは夜の暗黒を日の光のように、昼の光を夜の暗黒のように、その時、確かに太陽そのものを暗くて黒ずんだ球として見ないか? もしだれか人間がフクロウのような目を持つなら、何を光と、何を暗黒と呼ぶのか? その時、光は目の状態でないなら何か? もし目の状態なら、光が暗黒、暗黒が光ではないのか? それゆえ、一つのものが真理である、もう一つのものも真理である」。
[4]この後、大使は、カラスが白色であり、黒色でないことを真理であるようにすることを求めた。
答えた、「このこともまた、私に容易である」。
言った、「針またはかみそりを取れ、カラスの羽毛または綿毛を開けよ、内部は白色ではないか? なおまた、羽毛また綿毛を取り去れ、皮からカラスを眺めよ、白色ではないか? まわりにある陰でないなら黒色とは何か、カラスの色についてそれ〔陰〕から判断すべきではないのか?
黒色は単に陰である、光学の知識がある熟練者に相談せよ、〔そう〕言う〔であろう〕。または、黒い石またはガラスを細かいちりにすりつぶせ、あなたは、ちりが白色であることを見るであろう」。
大使は答えた、「でも、カラスは視覚の前に黒色に見えないか?」
しかし、その証明家は答えた、「〔もののわかった〕人間であるあなたは、何らかのものを外観から考えることを欲するのか? 確かに外観から、カラスが黒色であると話すことができる、しかしあなたはそれを考えることができない。例えば、あなたは、太陽が上り、進行する、沈む、と外観から語ることができる。しかしあなたは〔もののわかった〕人間であるので、あなたは、太陽は不動であり、地球は進行するのでそれを考えることができない——カラスも同様である。外観は外観である。何でもあなたが欲することを言え(=何とでも言え)、カラスはすべての点で白色である。さらにまた私は〔カラスが〕年取ったとき白くなったのを見た」。
[5]その後、私たちは、彼に、人間が真理とするものでないなら何らかの真理がないことを、冗談で言っているかどうか、あるいは信じているかどうか、心から言うよう求めた。また、答えた、「私は誓う、私は信じている」。
その後、大使は、自分自身が狂っていること真理とすることができるか、質問した。
彼は言った、「私はできるが欲しない。だれが狂っていないか?」。
この後、その万能な証明家は、彼がどんなものであるか調べる天使たちへ送られた。これらの天使は調査の後、「彼は理解力の微塵すら決して所有していません」と言った。「推理力の上にあるそのすべてのものが彼のもとで閉ざされており、単に推理力の下にあるものが開かれているからです。推理力の上に天界の光があり、そして推理力の下に自然的な光があり、この光は、何でも好むところを証明することができるようなものです。しかし、もし天界の光が自然的な光の中に流入しないなら、人間は、何らかの真理が真理であるか、ここから何らかの虚偽が虚偽であることも見ません。それらを見ることは、自然的な光の中の天界の光からであり、天界の光は主であられる天界の神からです。それゆえ、その万能な証明家は人間でも獣でもなく、獣人間です」。
[6]私は天使にこのような者の運命について、人間のいのちは天界の光からであり、この光から彼の理解力があるので、生きている者と一緒にいることができるのか、質問した。彼は言った、「自分だけでいるとき、何らかのものを考えること、ここから話すことができないで、口のきけない自動人形のように立っています、そのように深い眠りの中にいるような者です——しかし、耳で何らかのものを捕えるとすぐに目覚めます」——内部で悪い者である彼らはこのような者になることを言い足した——「これらの者の中に上のものから天界の光は流入することができません、しかし何らかの霊的なものが世を通ってだけ〔流入します〕、ここから彼らに証明する能力があります」。
[7]これらを聞いて、私は彼を調べた天使たちから、「聞いたそれらのものから全般的な結論をつくりなさい」と言っている声を聞いた。
私はこれを行なった——「何でも好むところを証明できることは、知的ではない。しかし真理が真理であり、虚偽が虚偽である、と見ることができること、またこれを証明することが知的である」。
この後、私は集会に向かって眺めた、そこに証明家たちが立っていた、群衆が彼らのまわりで、「おお、なんと賢明な者」と叫んでいた。見よ、暗い色の雲が彼らをおおい、雲の中をミミズクとコウモリが飛んだ。私に言われた、「その雲の中を飛んでいるミミズクとコウモリは、彼らの思考の対応するものとここからの外観です。虚偽を真理のように見えるまでも確認(証明)することは、この世界で夜の鳥の形の下に表象されるからです、その目を愚かな光は内部で照らし、その光から対象を光の中で見るかのように暗やみの中で見ます。
このような霊的な愚かな光が、虚偽を確信(証明)し、真理として見るまでも、そしてその後、真理と言われ、信じる者にあります——彼らのすべての者は後からの視覚の中にいて、何らかの前もっての視覚の中にいません」。

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233◀︎目次▶︎235

(十)結婚での、冷淡・分離・離婚の原因について

234 ここに、結婚での冷淡の原因についてのところで、分離そしてまた離婚の原因についてもまた一緒に扱います――その論拠が密接に関連しているからです――というのは、分離は、結婚後に続いて生まれた冷淡から、あるいは結婚後に明らかにされた原因から、その原因からまた冷淡が生まれますが、その冷淡から以外の別のところからではないからです――けれども、離婚は姦淫からであり、それらはまったく結婚に対立しており、そして対立するものは、もし両方でなくても、それでも一方に冷淡をひき起こすからです。
これが、冷淡・分離・離婚の原因を一つの章の中に集めたことの論拠です。
しかし、原因の首尾一貫性は、系列の中でそれらを見ることからさらにはっきりと見通せます。
それらの系列はこれらです――

(1) 霊的な熱があり、霊的な冷淡がある。霊的な熱は愛であり、霊的な冷淡はその剥奪である。
(2) 結婚での霊的な冷淡は、霊魂の分裂、心の分離、ここからの無関心・不和・軽蔑・嫌悪・反感である。それらから、最後に多くの者のもとで、寝床・部屋・家に関して分離がある。
(3) 冷淡の原因は、その連続の中で多くのものがあり、あるものは内なるもの、あるものは外なるもの、あるものは偶発的なものである。
(4) 冷淡の内なる原因は宗教からである。
(5) それらの原因の最初のものは、両者による宗教の拒絶である。
(6) 第二のものは、一方の者に宗教があり、もう一方の者にないことである。
(7) 第三のものは、一方の者にある宗教があり、もう一方の者に他の宗教があることである。
(8) 第四のものは、教え込まれた宗教の虚偽である。
(9) これらは冷淡の内なる原因である、けれども、多くの者のもとで同時に外なるものではない。
(10) 冷淡の外なる原因にも多くのものがある――それらの最初のものは気質と作法の相違である。
(11) 第二のものは、結婚愛が淫行愛と一つであり、単に前者は法律から許される、けれども、後者は許されない、と信じられることである。
(12) 第三のものは、夫婦の間で卓越を張り合うことである。
(13) 第四のものは、何らかの関心または商売への決心が何もないことであり、それから放浪性の欲望がある。
(14) 第五のものは、外なるものでの状態や境遇の不釣り合いである。
(15) 分離の原因もいくつかある。
(16) それらの最初のものは、心の疾患である。
(17) 第二のものは、身体の疾患である。
(18) 第三のものは、結婚以前の(性的)不能である。
(19) 姦淫は離婚の原因である。
(20) 偶発的な原因にも多くのものがある。これらの最初のものは、常に許されることから平凡なものになっていることである。
(21) 第二のものは、夫婦にとって同棲が自由ではなく、契約と法律からの強制に見られることである。
(22) 第三のものは、妻による主張と愛についての談話である。
(23) 第四のものは、夫が妻について昼夜に〔妻が〕欲していると考え、また逆に、妻が夫について〔夫が〕欲していないと考えることである。
(24) 心の中に冷淡があるように、身体の中にもある。前者の冷淡の増加にしたがって、身体の外なるものも閉ざされる。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

234◀︎目次▶︎236

235 (1) 霊的な熱があり、霊的な冷淡がある。霊的な熱は愛であり、霊的な冷淡はその剥奪である
 霊的な熱は霊界の太陽から以外の他のところからではありません。というのは、そこの太陽は主から発出していて、その方はその真ん中におられ、また主からであるので、その太陽はその本質では純粋な愛であるからです――この太陽は、天使たちの前に火に見え、まったくそのように、人間の前に私たちの世界の太陽に見えます。火に見えるのは、愛は霊的な熱であるからです。
 その太陽から熱も光も発出します。しかし、太陽は、それは純粋な愛であるので、ここからの熱はその本質では愛であり、光はここからその本質では知恵です。ここから、霊的な熱がどこからなのか、また愛であることが明らかです。
[2]けれども、霊的な冷淡がどこからなのかもまた、わずかばかり公けにします――それは自然界の太陽から、そしてその熱と光からです。自然界の太陽は、その熱と光をそれ自体の中に、〔霊的な〕太陽の中の霊的な熱と光を受け入れるために、また大気によってこれらを地上の最後のものにまで与えるために、主のものである目的の結果をひき起こすために、そしてまた、適切な霊的な衣服で、すなわち、物質で着せるために、自然界で最終的な目的を働くために創造されました。これらは、霊的な熱が自然的な熱に連結されるとき生じます――しかし、霊的な熱が自然的な熱から分離される時、正反対のものが生じます、それは自然的なものを愛し、霊的なものを退ける者のもとに生じます。これらの者のもとに霊的な冷淡が生じます――創造から調和している二つのそれらの愛が、そのように対立したものになるのは、その時、主人である熱が、しもべである熱になるからです、そしてその逆にもなります。また、このことが生じないように、主人である霊的な熱はその家系から去ります。その時それらの主体の中で、霊的な熱は正反対のものになるので冷えます。
 これらから、何が霊的な冷淡か、また霊的な熱の剥奪であることが明らかです。
[3]今、言われた中で、熱によって愛が意味されます、その熱は生きている主体の中で愛として感じられるからです。
 私は霊界で聞きました。単に自然的な霊は、愛の状態にいるある天使たちの脇に寄り添う時、同様に、地獄の霊は、天界からの熱が彼らに流入する時、強烈な冷たさで凍ること――それでも自分たちの間で、天界の熱が彼らから断たれるとき、大いなる熱で燃えることです。

結婚愛

235◀︎目次▶︎237

236 (2) 結婚での霊的な冷淡は、霊魂の分裂、心の分離である。ここから無関心・不和・軽蔑・嫌悪・反感があり、それらから、最後に多くの者のもとで、寝床・部屋・家に関して分離がある
 夫婦のもとで、彼らの最初の愛がなくなり、冷淡が生じる時、これらが生じることは、論証を必要とするまでもなく、よく知られています――その原因は、人間の心の中の他のすべての冷淡の上に、結婚の冷淡が住んでいるからです。というのは、霊魂から霊魂が、そして父の霊魂が子孫の中に繁殖させられるようにとの目的のために、結婚のものが霊魂に刻み込まれているからです。ここから、この冷淡がそこに始まり、連続的に成り行きの中で〔結婚のものを〕取り去り、汚し、このように最初の愛の喜ばしいものと快いものを悲しいものと不快なものに変えます。

結婚愛

236◀︎目次▶︎238

237 (3) 冷淡の原因は、その連続の中で多くのものがあり、あるものは内なるもの、あるものは外なるもの、あるものは偶発的なものである

 結婚での冷淡の原因は多くのものがあること、さらにまた多くの外なる原因から生じることが、世で知られています。しかし、原因の起源は最内部の中に密かに隠れていることは、これらから結果の中に導かれ、外なるものの中に現われるまで、知られていません――そこで、外なる原因は本質的な原因ではなく、それらは言われたように、最内部の中にある本質的な原因からの派生物であることが知られるために、それゆえ、最初、原因を全般的に内なるものと外なるものに分け、その後、詳細に調べます。

結婚愛

237◀︎目次▶︎239

238 (4) 冷淡の内なる原因は宗教からである
 結婚愛の起源そのものが人間のもとの最内部に、すなわち、彼の霊魂に住んでいることは、子孫の霊魂が父からであること、これが性向と情愛の似ていることから知られ、そしてまた、父から子孫の中へ、後世の者にもまた続く顔つきの共通のものから、なおまた、創造から霊魂にある生来の繁殖させる能力から、これらだけからすべての者に確信されます。そのうえ、発芽の最内部に、ここから植物界の主体である木あるいは灌木あるいはやぶに繁殖そのものが隠れており、ここから多くの類推によってもまた確信されます。
[2]この植物界の種や動物界の霊魂の繁殖させるまたは形成するこの力は、善と真理の結婚のスフェアから以外の他のところからではありません、それは全世界の創造主と維持者であられる主から絶えず流れ出て、流入します(それについて前の222―225番)。そしてそれらの二つの善と真理の努力(活動)から、それ自体を一つのものへ結合することへ向かいます。この結婚の努力(活動)が霊魂に堅く宿っていて、その起源から結婚愛が存在するようになります――その普遍的なスフェアからのその結婚の同じものが人間のもとに教会をつくることが、「主と教会の結婚について」の章に、また他の箇所に多くのものが、そして前に十分に示されています――ここから、教会の起源と結婚愛の起源が、一つの座の中にあること、また絶え間のない抱擁の中にあることが理性の前にまったく明白です。しかし、この事柄について、多くのものが前に見られます(130番)。そこに、結婚愛が人間のもとの教会の状態にしたがっていることが示されています。このように、宗教から、宗教がこの状態をつくるからです。
[3]人間もまた、ますます内的なものにつくられ、このようにますます近くその結婚へ導き入れられること、すなわち、高められることができるように、真の結婚愛へ、このことがその至福の状態を知覚するほどにまで創造されています――導入または高揚の唯一の手段が、宗教であることは、教会の起源と結婚愛の起源が一つの座の中にあること、またそこに相互の抱擁があり、ここから結合が存在せざるをえないという前述のことからはっきりと明らかです。

結婚愛

238◀︎目次▶︎240

239 今、言われたことから、宗教がないところにそこに結婚愛も存在しないこと、またこれがないところに、冷淡があることがいえます。結婚の冷淡がその愛の剥奪であることは、前に見られます(235番)。したがって、結婚の冷淡は、教会の状態の剥奪、すなわち、宗教の状態の剥奪でもあります。
そのようであることの十分に明らかな確証を、真の結婚愛についての今日の一般的な無知から導き出すことができます――結婚愛の起源がここから導かれることを、今日、だれが知っていますか、今日、だれが認めることを欲していますか、今日、だれが驚きませんか?
しかし、これは、たとえ宗教があっても、それでもその真理がないこと以外の他のところからではありません。真理のない宗教とは何ですか?
真理がないことは、『啓示された黙示録』の中に十分に示されています。そこのメモラビリアにもまた見られます(566番)。

結婚愛

239◀︎目次▶︎241

240 (5) 冷淡の内なる原因の最初のものは、両者による宗教の拒絶である
教会の聖なるものを顔から後頭部へまたは胸から背中へ退ける者のもとに、善の愛は存在しません。もしある者に身体から見られても、それでも、その者は霊の中で存在しません。このような者のもとでは、善が悪の外に位置し、これが輝く金の衣服のように腐敗した身体をおおっています。
内部に住んでいる悪は、全般的に憎しみでおおわれており、ここからすべての霊的な者に対する内部の闘争があります。というのは、彼らは本質的に霊的なものである教会のすべてのものを退けるからです。また、前に示されているように、真の結婚愛はすべての霊的な愛の根本的なものであり、〔その悪が〕それらに対立する内的な憎しみであること、また彼らのもとの内部のすなわち固有の愛は対立するためのものであり、それは姦淫のものであることが明らかです。それゆえ、彼らは、結婚愛はそれぞれの者の教会の状態にしたがっているというこの真理を、他の者よりもさらに愚弄するでしょう。それどころか、真の結婚愛を口にするとき、おそらく声高に笑うでしょう。このことがあるかもしれません。しかし、彼は許されるでしょう、淫行での抱擁について考えることよりも、結婚での抱擁について考えることが、彼らにとって、ラクダを裁縫の針の穴を通って押し込むことのように不可能であるからです。
このような者は、結婚愛に関して、他の者よりも冷たくなります。もし夫婦で結びついているなら、このことは前に列挙された外なる原因だけから生じ(153a番)、それらは抑え、縛るものです。
これらの者のもとの内的なものは、それらは霊魂とここからの心に属すものであり、ますます閉ざされ、身体の中に閉じ込められ、その時、性愛もまた価値がなくなります、または、身体の内的なものの中で、ここから彼らの最も低い思考の中で狂って、好色に振る舞います。メモラビリアの中で意味される者もまた彼らです(79番)、もし〔彼らに〕喜ばしいものであるなら、彼らはそれを読むでしょう。

結婚愛

240◀︎目次▶︎242

241 (6) 内なる冷淡の原因の第二のものは、一方の者に宗教があり、もう一方の者にないことである
 その原因は、彼らの霊魂は一致することができないからです。というのは、一方の者に、結婚愛を受け入れるために開かれた霊魂があります、けれども、もう一方の者に、その愛を受け入れるために閉ざされているからです。宗教がない者のもとで閉ざされ、宗教がある者のもとで開かれています。ここからそこに同棲は決してありえません。ここから結婚愛が追放されるとき、冷淡が生じます、しかしこのことは宗教が何もない配偶者のもとに生じます――この冷淡は、もう一方の者の宗教が真理であり、それに一致している宗教を受け入れるのでないなら消散されません。
 そうでなければ、宗教が何もない配偶者のもとに冷淡が生じ、それは霊魂から身体の中に、皮膚の中にまで降り、そのことから、最後に、配偶者を顔でまっすぐに見つめ続けることはなく、話しかけることも、共通の呼吸の中でもなく、押しとどめられた音の声で、手で、また背中ではほとんど、触れることもありません。例えば(そのように)その冷淡から考えの中に忍び込む狂気は黙っておかれ、それを公けにしません。それが、そのような結婚がまさにそれ自体から破られることの原因です――さらに、不信心な者は配偶者をさげすんでいることが、よく知られています。宗教のないすべての者は不信心な者です。

結婚愛

241◀︎目次▶︎243

242 (7) 内なる冷淡の原因の第三のものは、一方の者にある宗教があり、もう一方の者に他の宗教があることである
 その原因は、彼らのもとで善がその対応する真理と結合されることができないからです、というのは、前に示されたように、妻は夫の真理の善、夫は妻の善の真理であるからです。ここから、二つの霊魂から一つの霊魂になることができません。彼らの愛の噴水は閉じられ、それが閉ざされて、下方に位置する結婚のものの中へやって来ます、それは他の真理との善の結婚、あるいは自分のもの以外の他の善との真理の結婚であり、それらの間に調和する愛は存在しません。ここから、宗教の虚偽の中にいる配偶者のもとに、冷淡が始まり、それはもう一方の者から去るようにと、いろいろな方向の中へ向けられます。
 かつて、私は大きな都の中の街路を住まいを探す目的で進んでいました。そして、ある家に入り、そこに宗教の異なる夫婦が住んでいました――そのことについて知らない時、天使たちが私に話しかけて、言いました、「私たちはあなたとその家の中にとどまることができません、そこの夫婦は一致しない宗教の中にいるからです」。このことを彼らは、彼らの霊魂の内的な分離から知覚したのでした。

結婚愛

242◀︎目次▶︎244

243 (8) 冷淡の内なる原因の第四のものは、宗教の虚偽である
 その理由は、霊的なものの中の虚偽は、宗教を取り去るかあるいはそれを汚すからです。虚偽化された本物の真理が存在する者のもとで取り去ります。ある種の虚偽が存在する者のもとで汚します、しかし〔その者には〕本物の真理がありません、それゆえ、虚偽化されません。後者のもとに、それらの虚偽のあるものとともに、主による適用によって結合されることができる善が存在することができます。というのは、これらの虚偽は、不調和ないろいろな音のようであり、それらは巧みにまとめ、しみ込ませることによって、調和する音へ、ここから、さらにまたこの喜ばしさへ導かれるからです。これらの者のもとに何らかの結婚愛がありえます、しかし教会の本物の真理を、自分自身のもとで虚偽化した者のもとに、ありえません――これらから、真の結婚愛について支配的な無知があるかまたは、〔その愛が〕ありえることに否定的な疑いがあります。そしてまた、これらから多くの者の心に、姦淫は宗教の愛ではないという狂気が宿っています。

結婚愛

243◀︎目次▶︎245

244 (9) 前述の原因は冷淡の内なる原因であるが、多くの者のもとで同時に外なるものではない
 もしこの原因がやはり定められ、確信されたものなら、それらは内なるものの中の冷淡の原因であり、外なるものの中に同様に冷淡を生み出します、その時、内なる冷淡と同数のこのように多くの分離が生じます。また宗教の虚偽の中に、異なった宗教の中に、または何も宗教がない中にいる者の結婚と同数の、それらについて扱いましたが、このように多くの冷淡があります――それでも、多くの者は、愛があるかのように、また相互の友情があるかのように一緒に住むことがよく知られています。しかし、内なる冷淡の中にいる者のもとのこれら〔愛と友情〕がどこからか、続く章「結婚での、みせかけの愛・友情・好意の原因について」で言います。
[2]多くの原因があり、それらはアニムス(気質)を結合させます、しかしそれでも霊魂を結合させません。原因の間に、前に列挙されたものからの何らかのものがあります(153番)。しかしそれでも、秘められた冷淡が内部に隠れていて、あちこちで、気づかれ、感じられるようになっています。これらの者のもとで、情愛は相互から分かれます、しかし思考は、話すことと振る舞いの中に出る時、友情と好意の外観のために、近づきます。そのために、彼らは真の結婚愛の楽しさと快さについて、まして幸せと至福について何も知りません。彼らにとって、これらはほとんど作り話でしかありません。
 結婚愛の起源を同じ原因から考案したこれらの者は(ヨーロッパの)国々から集められた九つの知恵の集団の者たちの間にいます、彼らについては前にメモラビリアで〔述べました〕(103―114番)。

結婚愛

244◀︎目次▶︎246

245 前に確信したものに対して、たとえ夫の霊魂に結合していなくても、それどころか、そこに住んでいる冷淡が分離させていても、それでも霊魂が父から繁殖される、と異論を唱えることができます。しかし、それでも霊魂が、すなわち、子孫が繁殖される理由は、男(夫)の理解力が閉ざされず、これは光の中に上げられることができ、その光の中に霊魂があるからです。しかし、彼の意志の愛は、彼を自然的なものから霊的なものにする生活によってでないなら、そこの光に対応した熱の中に上げられません。ここから、それでも霊魂が生れます、しかし精子が生じる時、彼の自然的な愛のものであるようなものによって、降下するものの中におおわれています。このことから遺伝悪がわき出ます。
これらに私は天界からの秘義を加えます――二つの分離した霊魂の間に、特に夫婦の間に、結合が中間の愛の中に生じます、そうでなければ、人間のもとに妊娠は生じないことです。
このことのほかに、結婚の冷淡について、また心の最高の領域の中にあるその座についてです、このことは本章の最後のメモラビリアに見られます(270番)。

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245◀︎目次▶︎247

246 (10) 冷淡の外なる原因にも多くのものがある。これらの最初のものは気質と作法の相違である
 内なる似ているものと似ていないものがあり、外なる似ているものと似ていないものがあります。内なるものは起源を宗教から以外の他のところから得ていません。なぜなら、これ〔宗教〕は霊魂に植え付けられ、両親から霊魂を通して子孫の中へ、最高の性向として伝えられるからです。というのは、それぞれの人間の霊魂は、いのちを善と真理の結婚から得ており、このことから教会があるからです。またこれ〔教会〕は地球の全地域で、多様で異なっているので、それゆえ、すべての人間の霊魂もまた多様で異なっています。それゆえ、ここから内なる似ているものと似ていないものにしたがって結婚の結合があり、それらについてここで扱います。
[2]しかし、外なる似ているものと似ていないものは、霊魂のものではなく、アニムス(気質)のものです。アニムス(気質)によって外なる情愛とここからの性向が意味され、それらは特に、出生の後、教育・交際、ここからの習慣によって取り入れられます。というのは、「私に、これやそれらを行なうことへ向けてアニムス(気質)がある」と言われ、それによってそれへ向けての情愛と性向が認められ、これやそれやのいのち(生活)の種類について把握された信念は、それらの気質もまた形成することよくあるからです。ここから、不釣り合いな者たちともまた結婚に入り、そしてまた釣り合っている者との結婚を拒む傾向があります。しかし、それでも、これらの結婚は一時の同棲の後、遺伝や同時に教育で制限された似ていることと似ていないことにしたがって変えられ、似ていないことが冷淡をひき起こします。
[3]振る舞いが似ていないことも同様です。例として、野蛮な男または女と礼儀正しい男または女です。清潔な男または女と不潔な男または女、けんか好きな男女と穏やかな男女、一言でいえば、思いやりのない男女と道義をわきまえた男女です。
 このような似ていない者の結婚は互いに異なった種類の動物の結合に似ていなくもありません、〔例えば〕ヒツジとヤギ・鹿とラバ・ニワトリとガチョウ・スズメと高貴な鳥の〔結合〕ような、それどころか犬と猫の〔結合〕ような〔ものであり〕、それらは似ていないことのために、互いに仲間となりません。しかし、人類の顔はそれら〔の相違〕を示しません、しかし、性質〔の相違〕です。それゆえ、ここから冷淡があります。

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246◀︎目次▶︎248

247 (11) 冷淡の外なる原因の第二のものは、結婚愛が淫行愛と一つであり、単に前者は法律から許される、けれども、後者は許されない、と信じられることである
 ここから冷淡があることを、熟考するとき、理性によって、淫行の愛は結婚愛に正反対に対立していることがはっきりと見られます。それゆえ、結婚愛が淫行愛と一つである、と信じられるとき、両方の愛は観念の中で等しいものになります。その時、妻は娼婦として、結婚は不潔なものとして見られます。男(夫)自身もまた、もし身体でなくても、それでも霊で姦淫者です――ここから、男(夫)とその女の間に軽蔑・嫌悪・反感が流れ出て、こうして必然的に厳しい冷淡が続きます。というのは、それ自体の中に淫行愛よりも結婚の冷淡をたくわえているものは何もないからです。さらにまたその中へと変わるので、結婚の冷淡そのものと呼ばれるのにふさわしいものとなります。

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247◀︎目次▶︎249

248 (12) 外なる原因の第三のものは、夫婦の間で卓越を張り合うことである
その論拠は、結婚愛は、その最初のものの間で、意志の結合を眺め、ここから自由を喜ぶからです。卓越をすなわち支配について張り合うことは、これら二つのもの〔意志の結合とここからの自由〕を結婚から追い払います。というのは、意志を部分に分割し、分裂させ、選択の自由を奴隷状態に変えるからです。
その張り合うことが続く間は、一方の霊はもう一方に対する暴力を考えます。その時、もし彼らの心が開かれ、霊的な視覚で眺められるなら、短剣で戦っている者たちのように、代わるがわる憎しみで、また代わるがわる好意で互いに眺めているように見えます。猛烈な張り合いの中にいるとき憎しみで、支配の望みの中に、また情欲の中にいる間は、好意で眺めます。
[2]この争いは、一方がもう一方への勝利の後、心の外部から引き下がります、しかし、心の内部で自分自身を取り戻し、そこに、秘められた騒動とともにとどまります。ここから、征服された者にすなわち奴隷となった夫に、そしてまた勝利した者にすなわち女主人に冷淡があります――この者にもまた冷淡があります、もはや結婚愛がなく、そしてこの愛の剥奪は冷淡であるからです(235番)――結婚愛の代わりに、この者に卓越からの熱がありますが、この熱は結婚の熱とまったく一致していません、しかし、情欲の手段で外的に一致することができます。
彼らの間の暗黙の合意の後、結婚愛が友情になったように見えます――しかし、結婚における結婚的な友情と奴隷的な友情の間の相違は、光と陰の間の、生きている火と鬼火の間の、実に、肉で豊かな人間と骨と皮だけでできた人間の間の相違のようです。

結婚愛

248◀︎目次▶︎250

249 (13) 冷淡の外なる原因の第四のものは、何らかの関心または商売への決心が何もないことであり、それから放浪性の欲望がある
 人間は役立ちのために創造されています、役立ちは善と真理の容器であるからです、それらの結婚から、その章〔結婚愛の起源について〕に示されているように、そしてまた結婚愛から創造があります。
 関心と商売によって役立ちのためのすべての適用が意味されます。それで、人間が何らかの関心と商売の中に、すなわち、役立ちの中にいる間は、その時、彼の心は輪のように限定され、制限され、その内でしだいに真の人間の形に整えられ、そこから家からのように自分自身の外のいろいろな欲望を見ます、また内部の健全な理性からそれらを、したがって、淫行の好色で野蛮な狂気もまた追い出します。ここから、彼らのもとの結婚の熱はさらに十分に、またさらに長く、他の者のもとよりも、持続します。
[2]自らを怠惰と無為に任せる者に正反対のものが起こります――これらの者の心は制限のない、不確定なものであり、ここから人間はその全部の中に、世からまた身体から流入するすべての空虚なものとばかばかしいものを入れ、彼らの愛の中で受け取ります。その時、結婚愛もまた流刑へと追い出されることが、明らかです。というのは、怠惰と無為から心は鈍り、身体は動かず、人間全体はすべての生命力のある愛に向けて無感覚になるからです。特に、結婚愛に向けて、そこから泉からのようにいのちの精力的な働きと活発さが流れ出ます。
 けれども、これら者のもとの結婚の冷淡は他の者のもとのその冷淡から異なっています。確かに、結婚愛の剥奪ですが、欠如からです。

結婚愛

249◀︎目次▶︎251

250 (14) 外なる原因の第五のものは、外なるものでの状態や境遇の不釣り合いである
状態や境遇に多くの不釣り合いがあります、それらは一緒に住む時に、結婚式前の初めの結婚愛を引きちぎります。しかし不釣り合いは、年齢・地位・富に関して述べることができます。
老婦人と少年、また老いぼれと青年期の娘のような年齢の不釣り合いが結婚の中で冷淡をひき起こすことは確証を必要としません。
女召使いと君主の男、そして召使いと上流夫人の地位の不釣り合いについても結婚の中で同様であることは、さらにまた確証なしに認めらます。
同じく、彼らを一緒にする気質(アニムス)と行儀の似ていることがないなら、もう一方の者の好みに向けて、生来の欲望に向けて、また一方の者の適用〔がないなら〕、同じく富に〔そうである〕ことは、明らかです。
しかし、他の者の卓越の状態や境遇のためのこれらの従順な行為は、奴隷のようにでないなら結合しません。しかし、この結合は冷淡な結合です。というのは、彼らのもとの結婚は霊と心のものではなく、単に口と名前のものであり、そのことから低い者は称賛を与えられ、上位の者は恥かしがって赤面するからです。
けれども、天界には、年齢も、地位も、富も不釣り合いは存在しません――年齢に関して、そこのすべての者は青春時代の花の中にいて、その中に永遠にとどまります。地位に関して、そこのすべての者は他の者を果たす役立ちにしたがって眺めます、高位の者は低い境遇の者を兄弟のように眺め、地位を役立ちの卓越よりも前に置きません、前者よりも後者がまさっていると見なします。そしてまた、娘に結婚式が与えられるとき、〔娘は〕家系がどこからであるか知りません。というのは、だれもそこでは地上の自分の父を知りません、主がすべての者の父であるからです――富についても同様であり、これらはそこで賢明になっている者への賜物です。これらにしたがって、彼らに富が十分に与えられます――そこの結婚がどのように始められるかは前に見られます(229番)。

結婚愛

250◀︎目次▶︎252

251 (15) 分離の原因もいくつかある
 寝床からの分離があり〔別室〕、家からの分離があります〔別居〕。寝床からの分離に、同じく、家からの分離に多くの原因があります。しかし、ここでは正当なものについて扱います。
 分離の原因は、めかけ囲いの原因と一致するので、それゆえ、それらについてこの著作の続く部分のその章の中で、原因をその順序の中で見るために、読者はそこを参照するとよいでしょう。
 分離の正当な原因を〔次に〕続けます。

結婚愛

251◀︎目次▶︎253

252 (16) 分離の正当な原因の最初のものは、心の疾患である
 結婚愛は心の結合であるからであり、それゆえ、もし一方の者の心がもう一方の者から異なる方向へ去るなら、その結合は破られ、このとき、愛は終わります。
 どんな疾患が分離するか、それらを列挙することから明らかにすることができます。そこで、大部分に関して、これらです――狂気・精神障害・精神錯乱・実際の愚かさと愚劣・記憶の損失・重いヒステリーの症状。善と真理の知覚が何もないような極端な単純さ。公正と平等に従順でない極度の頑固さ。くだらないことやばかげたことでしかないむだなことをおしゃべりし、話す極度の快楽。家の秘密を公けにしようとし、なおまた争おう、むち打ちしよう、復讐しよう、悪いことをしよう、盗み、偽わり、だまし、中傷しようとする抑制のない欲望。幼児への無頓着・不摂生・ぜいたく・過度の浪費・酩酊・不潔・無遠慮・魔法と妖術の適用、不信心。ほかに多くのものです。
 この正当な原因によって司法上のものは意味されず、結婚相手へのものが意味されます。家からの分離が裁判官により行なわれることはほとんどありません。

結婚愛

252◀︎目次▶︎254

253 (17) 分離の正当な原因の第二のものは、身体の疾患である
 身体の疾患によって、配偶者の一方にあるいはもう一方に結婚の時の間に生じ、過ぎ去る偶発的な病気は意味されません。しかし、固定して残り、過ぎ去らない病気が意味されます――これらを病理学が教えています。多くの種類のものがあります、例えば、それらから、感染から致命的なものがひき起こされ、全身がそれほどに害われる病気です。そのようなものが、悪性のまた伝染性の熱病、らい病・性病・壊疽・がん、他の同様のものです。
 なおまた、それらから決して交際することができないように全身がそのように病んでいる病気があり、それらから損傷をひき起こす臭気また有害な蒸気が、あるいは身体の表面から、あるいはその内側から発散されます、特に、胃と肺から――身体の表面から、悪性の疱瘡・いぼ・膿疱・壊血病からの肺結核・毒性の疥癬があります。特に、これらから顔が醜くされたなら〔そうです〕。
[2]胃からは、忌まわしい・悪臭の・臭い・消化不良のおくび〔があります〕。
 肺からは、腫瘍から、潰瘍から、膿瘍から、または内部に、腐敗した血液から、または腐敗したリンパ液から発散する不潔な腐敗した息〔があります〕。
 これらに加えて、さらにまたいろいろな名前の他の病気があります、例えば、眩暈(めまい)卒倒、これは全身の衰弱と活力を欠くことです。麻痺、これは運動に役立つ膜や靭帯の締りのないこととゆるみです。ある種の慢性の病気、これは神経の伸長性と弾力の喪失、あるいは、体液の過度の濃縮・粘着性・酸性化から起こります。てんかん。卒中からの持続する虚弱。ある種の肺結核、それらから身体が消耗させられます。腹腔障害(腸内で食物が未消化の状態)、腹腔の不安定(小児脂肪便症・セリアック病)、ヘルニア、また同様の他の病気〔があります〕。

結婚愛

253◀︎目次▶︎255

254 (18) 分離の正当な原因の第三のものは、結婚以前の(性的)不能である
 これが分離の原因であることは、結婚の目的が子孫を産むことであり、このことが彼らにありえないからです。また、このことを前もって知っているので、配偶者たちは、はっきりとした目的から〔妻たちの〕その希望を奪います、それでも、その希望は彼女たちの結婚愛を育て、強くしています。

結婚愛

254◀︎目次▶︎256

255 (19) 姦淫は離婚の原因である
このことに多くの原因があり、それらは理性的な光の中にあります、それでも、今日、隠されています――理性的な光から、結婚が聖なるものであること、姦淫が冒涜的なものであること――このように結婚と姦淫はそれ自体に正反対に対立したものであることを見ることができます。また、対立したものが対立したものの中で活動するとき、一方はもう一方を、彼のいのちの最後の小さい火花までも滅ぼします――そのように、妻帯者が確信から、このようにはっきりとした目的から、姦淫を犯す時、結婚愛に生じます。
これらのことは、天界と地獄について何らかのものを知っている者のもとに、さらに明白な(判然とした)理性の光の中にやって来ます。というのは、これらの者は、結婚が天界の中にあり、天界からであること、姦淫が地獄の中にあり、地獄からであること、それらの二つは、天界が地獄と結合されないように結合されることができないこと、また、もし人間のもとで結合されるなら、直ちに天界は去り、そして地獄が入ることを知っているからです。
[2]そこで、姦淫が離婚の原因であることはここからです。それゆえ、主は言われます、

だれでも、淫行のためでなく妻を離縁し、他の女をめとる者は、姦淫を犯します(マタイ19:9)。

「淫行のためでなく、離縁し、他の女をめとるなら、姦淫を犯す」と言われます、この原因のための離縁は、心の完全な分離であるからです、それは離婚と呼ばれます。しかし、その原因でない他の原因からの離縁は、分離であり、それらについて、今、前に扱われています。これら〔の原因〕の後、もし他の妻がめとられるなら、姦淫が犯されます。けれども、離婚の後ではありません。

結婚愛

255◀︎目次▶︎257

256 (20) 冷淡の偶発的な原因にも多くのものがある。これらの最初のものは、常に許されることから平凡なものになっていることである
 常に許されることから平凡なものになっていることが偶発的な原因であることは、結婚についてまた妻について好色に考える者にとって原因となりますが、結婚について神聖にまた妻について信頼して考える者にとって原因とならないからです。常に許されることから平凡なものになっていることから、楽しさもまた無関心を、そしてまた飽きを生じるのは、遊びや演劇・音楽の演奏・踊り・祝宴、また他の似たものから明らかです、それらは活気づけるものであるのでそれ自体に愉快があります。夫婦の間で一緒に生活する者に、交わる者に同様に生じます。特に、愛から自分たちの間で不貞な性愛を遠ざけなかった者の間で、そのとき、常に許されることから平凡なものになっていることについて〔性的〕能力の欠乏の中で空虚なことを考えている者の間で生じます――それが平凡なものになっていることが冷淡の原因であることは、それ自体から明らかです。
 これが偶発的なものと呼ばれるのは、原因として、それに影響を与える論拠として、内在的な冷淡をそれ自体に加えるからです。
 さらにまたこのことから起こる冷淡を退けるために、彼女らに生来の思慮分別から許されるものを、いろいろな反抗から許されないものにしています。
 しかし、妻について貞潔に判断している者のもとでまったく異なって生じます。それゆえ、天使たちのもとで、常に許されることから平凡なものになっていることが、霊魂の歓喜そのものであり、彼らの結婚愛の容器です。なぜなら、絶えずその愛の快さの中に、そして心配で中断されない心が現存することにしたがって、そのように夫のもとの賢明な選択からの最終的なものの中にあるからです。

結婚愛

256◀︎目次▶︎258

257 (21) 冷淡の偶発的な原因の第二のものは、夫婦にとって同棲が自由ではなく、契約と法律からの強制に見られることである
 この原因は結婚愛が最内部の中で冷えている者にだけあります。またそれ自体に内部の冷淡を加えているので、付加的な、すなわち、偶発的な原因になっています。これらの者のもとで、結婚外の愛はその一致と好意から内的な熱の中にあります、なぜなら、一方の熱はもう一方の熱であるから、それは、もし感じられないなら、それでも冷淡に、それどころか真ん中に内在します。その熱がその時にもまた内在しないなら、回復はないでしょう。
 強制をつくるものはこの熱です。それが増やされ、一方の側から取り決めからの契約や公正からの法律かのように、踏みにじられないきずなとして見られます。もし両方のものがゆるめられるなら異なります。
[2]結婚外の愛を忌み嫌い、そして結婚愛を天界的なものや天界と考え、さらにそれを知覚する者のもとで反対です。これらの者のもとで、その契約はその取り決めとともに、その法律はその規定とともに、心に刻み込まれています、絶えずそれに刻み足されています。これらの者のもとで、その愛のきずなは取り決めの契約からも、承認された法律によっても縛られません、しかしこれら二つは愛のものそのものであり、創造から植え付けられたものの中にあります。世のそれら〔きずな〕はこれら〔愛のきずな〕からであり、逆ではありません――ここから、その愛に属すすべてのものは自由として感じられます。愛に属さない何らかものに自由は存在しません。私は天使たちから、真の結婚愛の自由は最も自由であり、それは愛の愛であるからであることを聞きました。

結婚愛

257◀︎目次▶︎259

258 (22) 冷淡の偶発的な原因の第三のものは、妻による主張と愛についての談話である
天界の天使たちのもとに、地上のある妻のもとにあるような、妻の側からの拒否や反抗は何もありません。天界の天使たちのもとに、愛について妻の側からの談話もまたあり、地上のある妻のもとにあるような沈黙(会話の回避)はありません。しかし、これらの相違の理由を明らかにすることは許されません、私にふさわしくないからです。しかし、それでも、章末の四つのメモラビリアの中で、天使たちの妻たちから見られ、彼女たちは自由にそれらを自分の夫に公けにしています――彼女たちの上に金色の雨が見られた大広間の中の三人から〔155b, 208〕、またバラの園の中に座っていた7人からです〔293, 294〕。それらのメモラビリアを示すのは、結婚愛のものであるそれらについて全般的にも特定的にもここに扱われているすべてのことが明らかにされるようにという目的のためです。

結婚愛

258◀︎目次▶︎260

259 (23) 冷淡の偶発的な原因の第四のものは、夫が妻について昼夜に〔妻が〕欲していると考え、また逆に、妻が夫について〔夫が〕欲していないと考えることである
 このことが妻のもとで愛の停止の原因であること、またそれが男(夫)のもとで冷淡の原因であることは、論証しないで割愛します。
 なぜなら、男(夫)は、もし昼間に彼の視野に、また夜に彼の脇にいる妻について、「彼女が望んでいるまたは欲している」と考えるなら、極度に冷たくなります、また逆に、妻は、もし男(夫)について、「できる、でも欲しない」と考えるなら、自分の愛を失います、これらのことは結婚愛についてのアルカナを学んでいる夫の認識の間にあるからです。
 これらを話したのも、この著作が完全にされ、結婚愛についての知恵の歓喜が満たされるようにとの目的のためです。

結婚愛

259◀︎目次▶︎261

260 (24) 心の中に冷淡があるように、身体の中にもある。前者の冷淡の増加にしたがって、身体の外なるものも閉ざされる
 今日、人間の心(mens)は頭の中にあり、そのどんなものも身体の中にないことが信じられています。そのときそれでも、霊魂と心は、頭の中にも身体の中にもあります、というのは霊魂と心が人間であるから、というのは、両方のものが霊をつくり、それが死後に生きるからです。それが完全な人間の形の中にいることは、私たちの章〔主題〕の中で十分に示されています――ここから、人間は何らかのものを考えると直ぐに、それを身体の口から瞬く間に発声し、同時にそれを身振りで映し出すことができます。また、何らかのものを意志すると直ぐに、それを瞬く間に身体の四肢によって動かし、行動することができます。それらは、もし霊魂と心が同時に身体の中にいて、その霊的な人をつくっていないなら、生じません。
 このようであるとき、結婚愛は身体の中にある間、身体の中でそれ自体に似たものであり、愛は熱であるので、それが内部から身体の外なるものを開きます、けれども逆に、その〔愛の〕欠如は、それは冷淡であって、内部から身体の外なるものを閉ざすことを見ることができます――これらから天使たちのもとに永遠に続いている能力の原因が、また人間のもとで欠如した原因、冷淡の原因が明らかです。

結婚愛

260◀︎目次▶︎262

25 自己愛から支配する愛の中にいる者について

261 (これらに次のメモラビリアを加えます、第一のものはこれ——)
霊界の東に近く、さらに高い北の方位に、少年そして青年のための、成人そしてまた老人のための教育の場所がある。この場所へ、幼児で死んだすべての者は送られ、天界で育てられる。同様に、それへ世から新たに到着し、天界と地獄についての知識を望むすべての者は送られる。
その地域は、すべての者が主からの流入によって教えられるために東の近くにある、というのは、主は東であるので、そこの太陽の中におられるからであり、それはその方からの純粋な愛である。ここから、その太陽からの熱は、その本質では愛であり、それからの光は、その本質では知恵である。これらが彼らに、主から、その太陽から吹き込まれ、そして、受け入れることにしたがって吹き込まれ、受け入れることは賢明になる愛にしたがっている。
教育の期間の後、知的になった者はここから送り出され、これらの者は主の弟子と呼ばれる——ここから最初に西へ、そこにとどまらない者は、南へ、ある者は南を通って東へ送り出され、そこに彼らの住まいがある社会へ導き入れられる。
[2]かつて、私は天界と地獄について熟考していたとき、両方の状態について普遍的な知識を願い始めた。普遍的なものを知る者は、その後、特定のものを把握することができると知っている、全般的なものの中に部分があるように、前者の中に後者があるからである。
この願いの中で、私は東に近い北の方位のその地域を眺めた、そこに教育の場所があった、その時、私に開かれた道を通って、行き、ある大学へ入った、そこに若い男たちがいた。
私は、そこで教える上級の教師たちに近づき、彼らに、天界と地獄について普遍的なものを知っているか質問した。
[3]彼らは、何らかのわずかなものを知っている、と答えた。「しかしもし、私たちが主へと東に向かって眺めるなら、私たちは教えられ、知る」。
彼らはそのようにして、言った、「地獄の普遍的なものは三つある、しかし地獄の普遍的なものは天界の普遍的なものと正反対に対立している——地獄の普遍的なものはこれらの三つの愛である——自己愛から支配する愛、世俗愛から他の者の財産を所有する愛、淫行(的な)愛。
それらに対立する天界の普遍的なものはこれらの三つの愛である——役立ちへの愛から支配する愛、財産によって役立ちを行なう愛から世の財産を所有する愛、真の結婚愛」。
これらが言われて、平和を祈った後、私は立ち去り、家に戻った。
私が家にいたとき、私に天界から言われた、「上のものと下のものであるその三つの普遍的なものを調べよ、その後、私たちはそれをあなたの手の中に見る」、
「手の中に」と言われたのは、人間が理解力で調べたすべてのものは、天使たちには、手に刻み込まれているように見えるからである。

結婚愛

261◀︎目次▶︎263

262 この後、私は、地獄の普遍的な第一の愛を調べた、それは自己愛から支配する愛であった、その後、それに対応する天界の普遍的な愛を調べた、それは役立ちへの愛から支配する愛であった。というのは、一方の愛を調べることなしに、もう一方の愛を調べることが私に許されなかったから、理解力は、もう一方なしに、一方の愛を受け入れないからである、というのは、対立しているから。それゆえ、両方のものが知覚されるために、一方がもう一方に反して、正反対のものの中に示される。というのは、美しくかわいらしい顔が、その対立した、美しくないまた醜い顔から明らかになるからである。
 私が自己愛から支配する愛を議論したとき、この愛が最高度に地獄的なものであったこと、ここから最も深い地獄にいる者にあること、また役立ちへの愛から支配する愛は、最高度に天界的であり、ここから最も高い天界にいる者にあることを知覚することが与えられた。
[2]自己愛から支配する愛が最高度に地獄的であることは、自己愛から支配することはプロプリウムから〔支配すること〕であるからである、そして人間のプロプリウムは出生から悪そのものであり、悪そのものは主に対して正反対である。そのために、彼らは、その悪へ進めば進むほどますます、主と教会の聖なるものを否定し、自分自身と自然を崇拝する。私は、その悪にいる者を本質的に調べ、見ることを求めた。
 さらにまた、この愛は彼に抑制がゆるめられればゆるめられるほど、それは不可能が妨げられないとき生じるが、それだけ段階から段階へ、最高点へまでも突進するようなものである。そこに終わりもなく、もしさらに上の段階が与えられないなら、苦しみ、嘆く。
[3]政治家のもとのこの愛は、〔自分たちが〕王や皇帝たちであることを、もし可能なら、世のすべての者の上に支配することを、王たちの王たち、皇帝たちの皇帝たちと呼ばれることを欲するまでも上昇する。しかし、同じ愛が聖職者のもとでは、神々であることを天界のすべての者の上に支配するように、神々の神々と呼ばれることを欲するまで上昇する。
 これらやそれらの者は、心で、何らかの神を認めないことが続きの中で見られる。
 しかし、逆に、役立ちへの愛から支配(統治)することを欲する者は、自分自身から支配することを欲しないで、主から欲する、役立ちへの愛は主からであり、主ご自身であるからである。これらの者は地位を役立ちを行なうための手段としか眺めず、役立ちを地位のはるか上に置く、しかし、前の者たちは地位を役立ちのはるか上に置く。

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262◀︎目次▶︎264

263 私がこれらを熟考していたとき、私に、主からの天使を通して、「今、今〔すぐに〕、あなたは見ます、あなたは視覚から、その地獄的な愛がどんなものであるか確信します」と言われた。
その時、突然、地が開かれ、私は地獄から悪魔が上ってくるのを見た、その者の頭に、額の上に、目まで押し下げられた正方形の帽子があった、顔は燃えるような熱病のような吹き出物でいっぱいであり、獰猛な目、菱形にふくれている胸であった。口から炉からのような煙を吐き出し、その腰はまったく火のようだった、足の代わりに肉のない骨のようなものがあった。彼の身体からは悪臭のする不潔な熱が発散した。
[2]それを見て、私は恐れ、彼に叫んだ、「近づくな、あなたはどこからなのか言いなさい」。
しゃがれ声で答えた、「私は下方からであり、そこの社会に二百人とともにいる。その社会はすべての社会に最も卓越している。そこの私たちすべての者は、皇帝の皇帝・王の王・大公の大公・君主の君主である——そこに裸の(飾りのない)皇帝はいない、裸の王・大公・君主もいない、私たちはそこの王座の王座の上に座っている、ここから全世界中に、またそれを越えて、私たちは命令を送る」。
その時、私は彼に言った、「あなたは、それが卓越の幻想からの狂気であることを見ませんか?」
答えた、「どのようにして、あなたはそのように話すことができるのか? 私たちには完全にそのように見える、そしてまた、仲間からそのような者であると認めるからである」。
このことを聞いて、私はさらに「狂気」と言おうとは欲しなかった、幻想から狂っていたからである——その悪魔は、世で生きたとき、ある家の単なる管理人であったこと、その時、自分自身に比べて全人類を軽蔑したように、そして、王であるに、そしてまた皇帝であるにふさわしいという幻覚にふけったほどの高慢な霊の中にいたと知ることが与えられた。その傲慢から神を否定し、そして教会のすべての聖なるものを自分自身に対して何ものでもない、しかし愚かな庶民に対して何らかのものであると見なした。
[3]最後に私は彼に質問した、「そこに導かれているあなたがたは、どれだけ長く、あなたがたの間でそのように誇ったのですか?」
彼は言った、「永遠に。しかし私たちの卓越を否定したために他の者を苦しめた者は、沈められた。というのは、私たちに誇ることが許されている、しかしある者に悪をもたらすことは許されないからである」。
私は再び質問した、「沈められた者にどのような運命があるか、知っていますか?」
言った、「ある種の牢獄の中に沈められ、そこで卑しい者の卑しい者すなわち最も卑しい者と呼ばれ、労働する」。
その時、私はその悪魔に言った、「それでは、あなたもまた沈まされる者とならないよう用心しなさい」。

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263◀︎目次▶︎265

264 この後、再び、地が、しかし右の地が開かれた。私は上がってくるある悪魔を見た、その頭の上に司教冠のようなものがあり、それはあたかも周りをヘビがとぐろを巻くかのようであり、その〔ヘビの〕頭はてっぺんから突き出していた。
彼の顔は、額からあごまで、両方の手も、らい病であった。腰は裸であり、すすのように黒く、それによって火は炉からのようにうす暗く輝き貫き、二つのマムシのような足であった。
前の悪魔はこれを見て、ひざまずき、彼を崇拝した。私は質問した、「なぜ、そのようにするのですか?」
言った、「彼は天地の神である、そして全能である」。
その時、私は〔崇拝された〕この者に質問した、「あなたは〔崇拝する〕この者に何を言っているのですか?」
答えた、「私は、『私に天地のすべての力がある。すべての霊魂の運命は私の手の中にある』と言っている」。
私は再び質問した、「皇帝の皇帝である者が、そのように自分自身を服従させ、あなたの崇拝を受け入れるように、どのようにしてできるのですか?」
答えた、「やはり私のしもべである。神の前に皇帝とは何か? 私の右手の中に破門させる雷電がある」。
[2]その時、私は彼に言った、「どのようにしたら、あなたはそのように狂うことができるのですか? 世であなたは単なる聖職者でした。あなたには鍵があり、ここからあなたは、縛り付け、解くことができるという幻想を被ったので、今、あなたが神そのものであると信じるようなこの気の狂った段階へと、あなたの霊を興奮させたのです」。
〔彼は〕このことに憤慨して、私が神であること、天界で何らかの力が主にない、「すべてのものは私たちに移されたので、私たちの働きはそれを命令することだけである、そして天界と地獄はうやうやしく従属する。もし私たちがだれかを地獄へ送るなら、悪魔たちは直ちに彼を受け入れる、同様に、私たちが天界へ送る者を天使たちは受け入れる」ことを誓った。
私はさらに質問した、「あなたがたの社会にどれほど多くの者がいますか?」
彼は言った、「三百、そこのすべての者は神々であり、私は神の神である」。
[3]その後、両方の者の足の下に地が開かれ、〔それぞれ〕自分の地獄へ深く沈んだ。また、彼らの地獄の下にある強制収容所を見ることが与えられた、その中に危害を他の者に加える者は落ちる。というのは、それぞれの者は地獄で自分の幻想に、そしてまたその中で自慢するままに残される、しかし他の者に悪を行なうことは許されないからである。
このような者がそこにいるのは、人間はその時、自分の霊の中にいるからである、そして霊は、身体から分離された後に、彼の情愛とここからの思考にしたがって働くまったくの自由の中にやってくる。
[4]その後、彼らの地獄を眺めることが与えられた。そして、そこに皇帝の皇帝そして王の王がいた地獄はすべての不潔なもので満ちており、彼らは獰猛な目をしたいろいろな野獣のように見えた——同様に、他の地獄に、そこに神々が、また神々の神がいた、またこの中にオーヒームやイッイームと呼ばれる彼らのまわりを飛んでいる恐るべき夜の鳥が見られた。彼らの幻想の像がそのように私に見られた。
これらから、政治家の自己愛がどのようなものであるか、聖職者の自己愛がどのようなものであるか明らかであった。前者は皇帝であることを欲するような者、けれども、後者は神々であることを欲するような者である。そのように欲し、そしてまたその愛の抑制がゆるめられるかぎり、得ようと求めることが明らかであった。

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264◀︎目次▶︎266

265 その後、地獄が開かれ、そこに、私はふたりの者を見た、ひとりは、長椅子の上に座り、ヘビでいっぱいのかごの中に足を入れたままにしており、それらのヘビが、足を通って上方へ首にまで這っているのが見られた。もうひとりは、火のようなロバの上に座っていて、その脇腹に赤いヘビが首と頭を上げて這い、乗っている者に従っていた。
 私は、その者は皇帝の支配権を奪った教皇たちであり、ローマでは、〔皇帝に〕自分たちを懇願させ、自分たちを崇拝させながら、悪く話し、悪く扱ったと言われた——その中にヘビが見られたかごは、また脇腹のヘビとともに火のようなロバは、自己愛から支配する愛の表象であり、同様のものは、遠方からそこに眺める者にしか見られなかった。
 何人かの聖職者が居合わせ、私は彼らに、彼らが同じ教皇たちであったがどうか質問した。彼らは、「彼らと知り合いであった、彼らであるとわかる」と言った。

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265◀︎目次▶︎267

266 これらの悲しいものと残虐なものが見られた後に、私は見回し、私から遠くない、立って話しているふたりの天使を見た。ひとりの衣服は、燃えるような紫色からの輝く羊毛のトーガであり、その下のシャツは目もくらむような亜麻布からできていた。もうひとりの衣服も類似して、かぶり物とともに緋色でできていて、そのかぶり物に右側からいつくかのルビーが組み込まれていた。これらの者に私は近づいた、「平和〔がありますように〕」と挨拶し、うやうやしく質問した、「なぜ、あなたがたはここに、下方にいるのですか?」
 彼らは答えた、「私たちは主の命令から天界からここに降ろされました。役立ちへの愛から支配されることを欲する者の祝福された運命についてあなたと話すためです。私たちは主の礼拝者たちです。私は社会の君主、もうひとりはそこの大祭司です」。
[2]君主は、「私は自分の社会のしもべです、役立ちを行なってそれに仕えているからです」と言った。もうひとりは、「そこの教会に仕える者です、彼らの霊魂の役立ちのために、聖なるものを執り行なって彼らに仕えているからです」と言った——両者は、主からそれらの中にいるので永遠の幸福からの永続する楽しさの中にいることを言った。その社会のすべてのものはみごとで荘厳である、金と宝石からみごとであり、宮殿と庭園から荘厳である。「その理由は、私たちの支配する愛は自己愛からではないからです、しかし役立ちへの愛からであり、役立ちへの愛は主からであるからです、それゆえ、すべての善の役立ちは天界で光り、輝きます。私たちの社会のすべての者はこの愛の中にいるので、それゆえ、そこの大気は金色に見えます、そこの光は、太陽の炎から得ています、そして太陽の炎はその愛に対応しています」。
[3]これらが言われて、私にもまた彼らのまわりの似たスフェアが見られた。それらから芳香が感じられ、さらに私は彼らにそのことを言い、役立ちの愛について言ったことにさらに何かを加えるよう懇願した——彼らは続けて、言った、「私たちは高位にいます、〔それを〕確かに、私たちは求めました、しかし役立ちをさらに完全に行ない、それをさらに広げることができる以外の他の目的のためでは決してありません——そしてまた、私たちは名誉に取り囲まれています、それを受け入れますが、私たちのためではなく、社会の善のためです。というのは、そこの大衆からである同僚や仲間のほとんどの者は、私たちの高位の名誉は私たちの中にあり、ここから私たちが行なう役立ちは、私たちからである、としか知らないからです。しかし私たちは異なって感じています。私たちは、高位の名誉が私たちの外にあること、私たちが着る衣服のようであると感じています。しかし私たちが果たす役立ちは、私たちの内部のそれらの愛からです、主からの愛からであり、この愛は自分の至福を、他の者との役立ちを通して伝達から受け入れます。私たちは経験から、私たちがそれらの愛から役立ちを行なえば行なうほど、それだけその愛は増大し、愛とともに知恵が増大し、その知恵から伝達が生じることを知っています。しかし、私たちが私たちの中に役立ちを押しとどめ、伝えなければ伝えないほど、それだけ至福は滅びます。その時、役立ちは、胃の中にたくわえられ、まわりに拡散されないで、身体とその部分に滋養物を与えない食物のようになり、消化されないで残り、そこから吐き気が起こります——一言でいえば、全天界は最初から最後まで役立ちしか含んでいません——役立ちは実行された隣人愛でないなら何ですか? この愛でないなら天界は何を含むのですか?」
[4]これらを聞いて、私は質問した、「役立ちを自己愛からあるいは役立ちへの愛から行なうのか、だれがどのように知ることができるのですか? すべての人間は、善い者も悪い者も役立ちを行ない、ある愛から役立ちを行ないます——世に悪魔だけから構成される社会が、また天使だけから構成される社会があると仮定します。〔そのとき〕悪魔は自分の社会の中で自己愛の火から、自分の栄光の輝きから、天使と同数のそれほど多くの役立ちを行なうことになる、と考えられます。それゆえ、役立ちが、何の起源から、何の愛からであるのか、だれが知ることができるのですか?」
[5]ふたりの天使はこれらに答えた、「悪魔は役立ちを、名誉へ上げられるかまたは富を得るために、自分自身のために、名声のために行ないます。しかし、天使はこの理由で役立ちを行ないません、それらへの愛から、役立ちのために行ないます——人間はそれらの役立ちを見分けることができません、しかし主はそれらを見分けられます。主を信じ、悪を罪として避けるすべての者は、主から役立ちを行ないます。しかし、主を信じないで、悪を罪として避けないすべての者は、役立ちを自分自身から、自分自身のために行ないます——この相違が悪魔による役立ちと天使による役立ちの間にあります」。
 ふたりの天使はこれらを言って、立ち去った。遠方からは、エリヤのような火の馬車の中にいるのが見え、自分の天界へ上げられた。

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266◀︎目次▶︎268

26 世のすべてのものを所有する愛の中にいる者について

267 (第二のメモラビリア——)
ある時間を隔てた後、私はある木立へ入り、世のものを所有する欲望とここからの幻想の中にいる者について熟考しながらそこを歩いた。その時、私からある距離に、自分たちの間で会話し、時々、私を眺めているふたりの天使が見られた。それゆえ、私は近くに近づいた、すると〔その天使たちが〕近づいている私に話しかけて、言った、「私たちの間で、私たちは、私たちが話しているものをあなたが熟考していることを、すなわち、熟考しているものを話していることを知覚しました、それは相互の情愛の伝達からです」。
そこで私は、何を話しているか質問した。
彼らは言った、「幻想・欲望・知性についてです。今は、世のすべてのものの所有の幻想と想像から自分自身を喜ぶ者についてです」。
[2]その時、私は、欲望・幻想・知性について、それらの三つのものについて自分の心(mens)を明らかにするよう請い求めた。
すると談話を始めて、それぞれの者が出生から内的に欲望の中に、しかし、教育から外的に知性の中にいること、だれも知性の中に、まして内的に知恵の中に、そのように霊に関して、主からでないなら、いないことを言った——「というのは、すべての者は欲望から悪に保たれ、そして主へ目を向けることにしたがって知性の中に、同時に、その方との結合に保たれるからです。それなしに人間は欲望でしかありません——しかしそれでも、この者は外的なものの中で、すなわち身体に関して、教育から知性の中にいます。というのは、人間は名誉と富をすなわち卓越と富裕をほしがるからです。これら二つのものは、道徳的にまた霊的に、そのように知性的にまた賢明に見られないなら獲得されません。そして、そのように見られることを幼児期から学びます。それが、人間の間にまたは集団の中にやって来るとすぐに、自分の霊をひっくり返し、そしてそれを欲望から遠ざけ、幼児期から教わった礼儀作法や似つかわしいことから、身体の記憶の中に保持したものから、話し、行動する理由です。また、狂気の欲望から何らかのものが、その〔狂気の〕中に彼の霊がいて、流れ出ないようにそれを最大限に用心します。
[3]ここから、内部で主から導かれていないすべての人間は、偽る者・追従者・偽善者であり、このように人間に見られますが、それでも人間ではありません。それらの者について、〝彼の殻(外皮)または身体は賢い、そして彼の仁(種)または霊は狂っている〟と言われることができます。なおまた、彼の外なるものに人間性、そして内なるものに野獣性があります。このような者は後頭部で上方を、前頭部(額)で下方を眺めます。そのように、重苦しさにとりつかれているかのような顔つきで、地へ向けて下方へ頭をたれて歩きます——彼らは、身体を去り、霊となる時、解放され、自分の狂気の欲望を行ないます。なぜなら、自己愛にいる者は、全世界の上に支配することを、それどころか、彼のその境界を、支配の拡大へ向けて広げることを望み、決して終わりを見ないからです。
世俗愛にいる者は、そのすべてのものを所有することを望み、そして、ある者の宝庫に、ある者のもとにたくわえられて隠されているなら、苦しみ、ねたみます。それゆえ、このような者が欲望だけのもの、このように人間でないものにならないように、名声が奪われ、このように名誉と利益が奪われることの恐れから、そのようにまた法律とその罰への恐れから考えることが彼らに自然界で与えられ、そしてまた心を、何らかの関心または働きへ振り向けることが与えられ、それによって外なるものの中に、このように知性の状態の中に、どれほど内的に正気を失って狂っていても保たれます」。
[4]これらの後、私は、欲望の中にいるすべての者は、自分の幻想の中にもいるのか質問した。
天使たちは、「彼らは自分の欲望の幻想の中にいること、自分自身と話して、内的に自分自身の中で考え、度を越えた自分の想像にふけります」と答えた。「というのは、これらの者は自分の霊をほとんど身体との結びつきから分離し、幻から知性を水でおおい、愚かにも、自分自身を、全世界を所有するかのように楽しませるからです——自分の霊を身体から引き離し、精神錯乱の楽しみから戻ることを欲しなかった人間は、死後、この精神錯乱に入れられます。〔その者は〕悪と虚偽について宗教から何らかのものを考えても、主への愛を破壊するものである抑制のない自己愛については、そして隣人に対する愛を破壊するものである抑制のない世俗愛については、その何らかのものを最小限にしか考えません」。

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267◀︎目次▶︎269

268 これらの後、ふたりの天使と私もまた、世俗愛からすべての富を所有する幻と幻想の中にいる者を見ようとする願いが起こった。私たちは、知られる目的のためにその願いが吹き込まれたことを知覚した。
彼らの小屋は私たちの足の地の下に、しかし、地獄の上方にあった。それゆえ、私たちは互いに見て、言った、「私たちは行きましょう」。そして、開口部が、そこに階段が見られた。これを通って、降りた。「彼らの幻想のもやの中に入らないように、そして知性に関して、その時、一緒に視覚に関して暗くされないように、東から近づかなくてはならない」と言われた。
[2]見よ、もやの中に立っているかのような、アシ(葦)から建てられ、割れ目だらけの家が見られた、そのもやは、壁の三つの割れ目を通って煙のように絶えず流れ出ていた。
私たちは入った、ここに五十人、そこに五十人が長椅子の上に座って、東と南から背いて西と北へ向かって眺めているのが見られた。それぞれの者の前にテーブルがあり、テーブルの上にふくらんだ財布、財布のまわりにおびただしい金貨があった。
私たちは、「これらは世のすべての富ですか?」と質問した。
「世のすべての富ではないが、王国のすべての富である」と言った。
彼らの話しの声はシューシュー言うようであり、自分自身には丸い顔に見られ、それはカタツムリの殻のように赤く輝き、そして目のひとみは緑の表面〔地色〕の中であたかもぴかっと輝くようであった、それは幻想の光からであった。
私たちは彼らの真ん中に立ち、「あなたがたは、自分たちは王国のすべての富を所有している、と信じていますか?」と言った。
答えた、「私たちは所有している」。
その後、私たちは質問した、「あなたがたのだれが〔所有しているのですか〕?」
彼らは言った、「それぞれの者が」。
私たちは質問した、「それぞれの者が、どのようにですか? あなたがたは大勢います」。
彼らは、「私たちのそれぞれの者は、彼のすべてのものが〝私のもの〟であることを知っている。ある者に、『〝私のもの〟はあなたのものではない』と考えること、まして、言うことが許されないが、『私のものは〝あなたのもの〟である』と考え、言うことは許される」と言った。
テーブルの上の硬貨は、私たちの前にも純金からできているように見えた。しかし、私たちが東からの光を引き入れたとき、それは共有の同一の幻想によってそのように大きくなった金の粒であった——彼らは、「入る者はだれでも、何らかの金を持参しなければならない。それを小片に、粒に切り分け、一致する幻想の力によって大きな形の硬貨へと大きくする」と言った。
[3]その時、私たちは、「あなたがたは理性的な人間に生まれませんでしたか? あなたがたの愚かな幻はどこからですか?」と言った。
彼らは、「私たちは、空虚な想像であることを知っている。しかし私たちの心の内的なものが喜ばせるので、私たちはここへ入り、すべてのものを所有するかように楽しむ。しかし、ここに私たちは、数時間の間しかとどまらない、それらを終えて私たちは出て行く、これほどに何度も健全な心が私たちに戻る——しかしそれでも、私たちの幻の楽しみが、交替に出てくる、そして行なう、時々、私たちは再び入る、また時々、出て行く。このように、私たちは交替に賢明であり、狂う——さらにまた、私たちは、狡猾さで他の者からその財産を盗む者にはきびしい運命が待っていることを知っている」と言った。
私たちは質問した、「どんな運命が〔待っているのですか〕?」
彼らは、「その者はのみ込まれ、そして裸で何らかの地獄の牢へ導き入れられ、そこで衣服と食物のために、そしてその後、何らかの小銭のために労働することを強いられ、その小銭を集め、それらの中に自分の心の楽しさを置く。しかし仲間に悪を行なうなら、自分のもの(個人財産)である小銭の一部を罰金として与えなければならない」と言った。

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268◀︎目次▶︎270

27 明けの明星(魔王)について

269 その後、私たちはこれらの低いところから、私たちが最初にいた南へ上った、そして、そこでは、天使たちは空想のまたは幻想のものでない欲望について話しに出す価値のある多くのものを語った、「その中にすべての人間は出生の時からいます。それでもなお、自分自身には、その時、最高度に賢明な者に見られます。また、〔その〕愚かさから、交替に、自分のもとにある外なるものの中にある理性に戻されます。その状態で、自分の狂気を見、認め、告白します、しかしそれでも、自分の理性的な状態から、自分の狂気を激しく欲し、そしてまた、強制と不愉快からのように自由と快さの中に、自分自身をこの中に入れます。そのように、彼らは欲望によって内的に喜び、知性によっては喜びません。
[2]三つの普遍的な愛があり、創造によりすべての人間はそれらからつくり上げられています——役立ちを行なう愛である隣人愛、富を所有する愛である世俗愛、他の者を支配する愛である自己愛です。
隣人愛すなわち役立ちを行なう愛は霊的な愛です。けれども、世俗愛すなわち富を所有する愛は物質的な愛です。しかし、自己愛すなわち他の者を支配する愛は形体的な愛です。
[3]隣人愛すなわち役立ちを行なう愛が頭をつくり、世俗愛が身体をつくり、自己愛が足をつくる時、人間は人間です——しかし、世俗愛が頭をつくるなら、人間はせむしのような人間でしかありません。自己愛が頭をつくるとき、足の上に立っている人間ではなく、手の掌の上に、頭を下方にして、尻を上方にして立っています——役立ちを行なう愛が頭をつくり、残りの二つの愛が順に身体と足をつくる時、その人間は天界から、頭のまわりの美しい虹とともに天使の顔で見られます。しかし、世俗愛が頭をつくるなら、彼は天界から、頭のまわりの黄色の輪とともに死人のような青白い顔で見られます。けれども、自己愛が頭をつくるなら、彼は天界から、頭のまわりの白い輪とともに黒ずんだ火の顔で見られます」。
これらに私は質問した、「頭のまわりの輪は何を表象しているのですか?」
彼らは答えた、「知性を表象しています。黒ずんだ顔の頭のまわりの白い輪は、外なるものの中にあるすなわち彼のまわりにあるその知性を表象しています、しかし、内なるものの中にすなわち彼の中に狂気があります——人間もまたそのようなものです、身体の中にいるとき賢明です、しかし、霊の中にいる時、狂っています。だれも人間は主からでないなら霊で賢明ではありません、それはその方により再びすなわち新たに、再生させられ、創造されるとき生じます」。
[4]これらが言われて、左に地が開かれ、開口部を通って、頭のまわりの白い輪とともに悪魔が上がって来るのを見た。私は尋ねた、「あなたはだれですか?」
彼は言った、「私は暁の子、明けの明星(魔王)である、私は自分自身を〝至高者〟と等しいものにしたので、投げ落とされた」。しかし、彼は明けの明星(魔王)ではなく、自分自身をそれであると信じたのであった。
私は言った、「投げ落とされているとき、あなたはどのように地獄から上ることができるのですか?」
答えた、「私は、そこの悪魔である、しかし、ここでは光の天使である。あなたは光り輝くスフェアで取り巻かれた私の頭を見ないのか? そしてまた、もしあなたが欲するなら、あなたは、私が道徳的な者の間で最高に道徳的な者、そして理性的な者の間で最高に理性的な者、それどころか、霊的な者の間で最高に霊的な者であることを見るであろう。私は説教することもできる、そしてまた説教した」。
私は質問した、「あなたは何を説教したのですか?」
彼は言った、「だます者に反対して、姦淫者に反対して、すべての地獄的な愛に反対して〔説教した〕——それどころか、その時、私〔自身〕を明けの明星(魔王)を悪魔と呼び、そして私は、その私〔自身〕に対して呪いをあびせ、そしてそのために称賛されて、天界へ上げられた。ここから、私は暁の子と呼ばれた。私は自分自身でも驚くのであるが、私が説教壇の上にいたとき、私は適切にまた正しく話しているとしか考えなかった。しかし私に理由が示された、私が外なるものの中にいた、これらのものはその時、私の内なるものから分離されたものであったからである。それでも、このことが私に示された、やはり私は自分を変化させることができなかった、私の高慢のために、神へ目を向けなかったからである」。
[5]その後、私は質問した、「あなたがだます者そのもの、姦淫者そのもの、悪魔そのものであるとき、どのようにして、そのように話すことができたのですか?」
彼は答えた、「私は、私が外なるものの中にすなわち身体の中にいるときと、内なるものの中にすなわち霊の中にいるときは別者である——身体の中で私は天使である、しかし霊の中で悪魔である。なぜなら、身体の中で私は理解力の中にいる、けれども、霊の中で私は意志の中にいる、そして理解力が私を上へ向ける、しかし、意志が私を下へ向けるからである。私が理解力の中にいる時、私の頭のまわりを白い輪がおおう、しかし、理解力がそれ自体をまったく意志に引き渡す時、理解力がそうなるとそれが私たちの最後の運命であり、その時、輪は黒くなる、そして失われる。そのことが起こったので、私はもはやこの光の中に上ることができない」。
その後、彼は外なるものと内なるもののその二つの状態について、他のだれよりも、さらに理性的に話した——しかし急に、彼が私のもとの天使を見たとき、顔と声で興奮し、さらにまた頭のまわりの輪に関して黒くなった。彼は開口部を通して現われたが、その開口部を通って地獄へ墜落した。
傍観者たちはそれらの見られたものから、この結論をつくった、人間は彼の愛がどのようなものであるか〔によって〕そのようなものであること、彼の理解力がどのようなものかによらないこと、愛は理解力を容易に自分の側に連れ去り、従属させるからである。
[6]その時、私は天使たちに質問した、「悪魔にこのような推理力があるのはどこからですか?」
彼らは言った、「自己愛の栄光からです。なぜなら、自己愛は栄光に取り巻かれていて、その栄光が理解力をほとんど天界の光の中に上げるからです。なぜなら、それぞれの人間のもとの理解力は思考にしたがって上げられることのできるものです、しかし意志は教会と理性の真理にしたがった生活によってでないなら上げられないからです。ここから、無神論者ですら、自己愛からの名声の栄光の中に、ここから自己知性の高慢の中にいて、他の多くの者よりも高遠な推理力を授けられています。けれども、その時、理解力の思考の中にいて、意志の情愛の中にいません。意志の情愛は人間の内なるものをもちます、しかし、理解力の思考は外なるものをもちます」。
さらに、天使は、なぜ、人間は三つの愛から、すなわち、役立ちの愛・世俗愛・自己愛からつくり上げられているか〔その〕理由を言った、それは、人間が神から考える、それでもまったく自分自身からのように考えるためである——〔天使は〕言った、「人間の〔心の中の〕最高のものは神へと上へ向かっています、そこの中間のものは世へと外側へ、そしてそこの最も低いものは身体の中へと下へ向かっています。最も低いものが下へ向きを変えられているので、人間はまったく自分自身からのように考えますが、そのときそれでも神から考えています」。

結婚愛

269◀︎目次▶︎271

28 結婚の冷淡について

270 (第三のメモラビリア——)
ある朝、私は眠りの後、私の思考を、結婚愛のある秘義の中に、最後に次のことの中に深く沈めた——「真の結婚愛は人間の心の領域のどこに、ここから結婚の冷淡はどこに住んでいるか?
私は、人間の心の領域があるものが他のものの上にと三つあること、最も低い領域に自然的な愛、さらに高い領域に霊的な愛、最も高い領域に天的な愛が宿っていること、善は愛に属し、真理は知恵に属すので、それぞれの領域に愛と知恵の結婚があること、また、意志は愛の容器そして理解力は知恵の容器であるので、この結婚は意志と理解力の結婚と同じものであることを知っていた。
[2]私がこの思考の深遠なものの中にいたとき、見よ、私は北へ向かって飛んでいる二羽の白鳥を、直ぐに、南へ向かって飛んでいる二羽の極楽鳥を、そしてまた、東の中を飛んでいる二羽のキジバトを見た。飛行の様子を眺め続けたとき、私は、二羽の白鳥がその行路を北から東へ、同様に、二羽の極楽鳥が南から東へ曲げ、2羽のキジバトへ集まったのを見た。また、一緒になってそびえ立つある宮殿へ飛んだ、そのまわりには、オリーブの木・シュロの木・ブナの木があった。
宮殿に、あるものが他のものの上にと、三つ並びの窓があった。私が気をつけて見ていると、白鳥が宮殿の中へ、並ぶ最も下の開かれた窓を通って、極楽鳥が並ぶ中間の開かれた窓を通って、キジバトが並ぶ最も上の開かれた窓を通って飛び入るのを見た。
[3]これを私が見て、傍らにいた天使が言った、「あなたはその見られたものを理解していますか?」
私は答えた、「何らかのものを、少しだけ」。
〔天使は〕言った、「その宮殿は人間の心の中にあるような結婚愛の住まいを表象しています。キジバトが引っ込んだその最高の部分は、心の最高の領域を表象しており、そこに結婚愛が自分の知恵とともに善の愛の中に住んでいます。極楽鳥が引っ込んだ中間の部分は、中間の領域を表象し、そこに結婚愛が自分の知性とともに真理への愛の中に住んでいます。そして白鳥が引っ込んだ最も低い部分は、心の最も低い部分を表象し、そこに結婚愛が自分の知識とともに公正で正直な愛の中に住んでいます」。
[4]「三つがいの鳥もまたそれらを意味します、一つがいのキジバトは最高の領域の結婚愛を、一つがいの極楽鳥は中間の領域の結婚愛を、一つがいの白鳥は最も低い領域の結婚愛を意味します。宮殿のまわりの三種類の木、オリーブの木・シュロの木・ブナの木も同様のものを意味します。
天界の私たちは、心の最高の領域を天的なもの、中間のものを霊的なもの、最も低いものを自然的なものと呼んでいます。そして、私たちはそれらを段階によって、家の中の住む場所のように、あるものが他ものの上に、階段を通ってあるものから他ものの中へ上るかのように、知覚しています。それぞれの部分の中に一つは愛のための、もう一つは知恵のための二つの部屋のように、前部に寝室のような部屋があり、そこに愛はその知恵とともに、または、善はその真理とともに、またはそれは同じことですが、そこに意志はその理解力とともに、ふしどの中で互いに一緒になります。その宮殿の中に、結婚愛のすべての秘義が映し出されたもののように示されています」。
[5]これらを聞いて、その宮殿を見る願望に刺激されて、私は、それが表象的な宮殿であるので、そこに入ること、知ることが、だれかに与えられるか質問した。
〔天使は〕「第三の天界にいる者にしか与えられません」と答えた、愛と知恵の表象的なすべてのものが彼らに実在するものとなるからです。「私は彼らから聞いたものをあなたに語りました。このことも話しましょう、真の結婚愛は相互愛の真ん中の最高の領域の中に、意志の部屋の中に、そしてまた知恵の知覚の真ん中の中に、理解力の部屋の中に住んでいて、寝室の中のふしどで一緒にされることです、それは正面に、東にあります」。
私は質問した、「なぜ、二つの部屋があるのですか?」
〔天使は〕「夫は理解力の部屋の中にいます、妻は意志の部屋の中にいます」と言った。
[6]私は質問した、「結婚愛がそこに住んでいるからには、その時、結婚の冷淡はどこにありますか?」
答えた、「それは最高の領域にもあります、しかし理解力の部屋の中にだけあり、そこでは意志の部屋は閉ざされています。というのは、理解力はその真理とともに、好むたびごとに、結合した階段を通って、最高の領域へ、その部屋の中へ上ることができるからです、しかし意志がその愛の善とともに同時に仲間の部屋の中へ上らないなら、この意志の部屋は閉ざされ、理解力の部屋の中に冷淡が生じます、これが結婚の冷淡です。理解力は、このような冷淡が妻に向けてある時、最高の領域から下方を最も低いものへ向けて眺めます、そしてまた、もし恐れでそれを抑制しないなら、そこで許されない火から熱くなるために、降ります」。
〔天使は〕これらを言って、結婚愛についてさらに多くのものをその宮殿の中に映し出されたものから列挙しようとした。しかし言った、「これで十分でしょう、最初に、これらが通常の理解力を超えているかどうか検討しなさい。もし超えているなら、〔これ以上の〕多くの何を〔話したらよいでしょう〕? しかし、もしそうでないなら、多くのものを明らかにしましょう」。

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270◀︎目次▶︎272

(十一)結婚での、みせかけの愛・友情・好意の原因について

271 冷淡と分離の原因について扱ったので、順序から、結婚での、みせかけの愛・友情・好意の原因についてもまた扱うことを続けます――というのは、たとえ冷淡が夫婦の愛を分離していても、今日、それでも彼らは一緒に住み、子を産むことがよく知られているからです。見せかけの愛もまた、そして交替に、本物の愛の熱の類似のものまたは模倣したものが存在しなかったなら、それらは生じなかったでしょう。
それらの外観(みせかけ)は必要不可欠なもの、また役に立つものであり、それらなしに、家は、またここから社会も存続しないことが、続くものの中で見られます。
このことのほかに、ある良心的な者は、自分自身や配偶者の間の心の不一致、ここからの内なる仲違いが彼らの過失(落ち度)であり、責任が帰せられるという観念に苦労し、そのことのために心で苦しむことがあります。しかし、内なる不一致は、助けるために彼らの手中にないので、彼らには、厄介な〔障害が〕起こることを愛と友情の外観(みせかけ)によって、良心から鎮めることで十分です。ここから友情もまた戻ることができ、たとえもう一方から結婚愛が隠れていなくても、その中に彼の側の結婚愛が隠れています。
しかし、この章はこれらの主題の数でいろいろであるために、前のもののように項目に分けます。
その項目はこれらです――

(1) 自然界では、ほとんどすべての者が外なる情愛に関して結合されることができる、けれども、これらが不一致であり、現われるなら、内なる情愛に関して結合されることができない。
(2) 霊界では、すべての者は内なる情愛にしたがって結合される、けれども、これらが内なる情愛と一緒に働かないなら外なる情愛にしたがって結合されない。
(3) 外なる情愛があり、それらにしたがって、世で、一般に結婚生活が結ばれる。
(4) しかし、心を結合させる内なる情愛が内在しないなら、結婚生活は家の中で損なわれる。
(5) それでも結婚生活は世で、いのちの終わりまで両方の者に持続されなければならない。
(6) 内なる情愛が結合していない結婚生活の中に、内なるものを偽り装い、仲間となっている外なる情愛が存在する。
(7) ここから、夫婦の間に、見せかけの愛または見せかけの友情・好意がある。
(8) これらの見せかけは結婚の模倣であり、それらは役に立ち、必要なものであるので称賛に値する。
(9) 自然的な人と結合した霊的な人のもとで、結婚のこれらの模倣は、公正と思慮分別からの賢明なものである。
(10) 自然的な人のもとで、これらの結婚の模倣は、いろいろな原因のために、思慮分別からの賢明なものである。
(11) 改善のためであり、調整のためである。
(12) 家庭の事柄で秩序を維持するためであり、相互の助けのためである。
(13) 幼児の世話のためであり、子どもに対して一致するためである。
(14) 家の中の平和のためである。
(15) 家の外の評判のためである。
(16) 配偶者からまたはその親類から期待されるいろいろな好意のためであり、このようにそれらを失う恐れのためである。
(17) 汚点の弁解とここからの悪評の回避のためである。
(18) 和解のためである。
(19) 年取った時、男(夫)のもとの能力が終わる時、妻の好意が終わらないなら、結婚を模倣している友情が生じることができる。
(20) 夫婦の間に、一方が服従し、ここからもう一方が服従させるいろいろな種類の見せかけの愛と友情が存在する。
(21) 世では、内的に最も和解しにくい敵であり、外的に最も結合した友のようである夫婦の間に、地獄的な結婚が存在する。

. 今からこれらの説明を続けます。

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271◀︎目次▶︎273

272 (1) 自然界では、ほとんどすべての者が外なる情愛に関して結合されることができる、しかしこれらが不一致であり、現われるなら、内なる情愛に関して結合されることができない
 その原因は、人間は世で物質的な身体が備えられ、これは欲望で詰め込まれ、それら〔欲望〕はそこのおりのようであり、ブドウ酒のブドウ汁が澄むとき、底に投げ落とされるからです。そのようなものから物質は構成されていて、それらから、世で人間の身体は作られています――ここから、心のものである内なる情愛は現われません、また多くの者のもとで、それらからほとんど微塵にも見られません。というのは、身体はそれら〔内なる情愛〕を、あるいは吸い込み、そのおりで包む、あるいは幼児期から教えられた見せかけから、他の者の視野から深く隠すからです。そこのことによって自分自身をそれぞれ情愛の状態の中に入れ、それを他の者の中で認め、またその情愛を自分自身に結びつけ、このように互いに結合します。互いに結合するのは、それぞれの情愛にその快さがあり、快さがアニムス(外的な心)を迎え入れるからです。
 けれども、霊界で生じるように、もし内なる情愛が外なる情愛のように、視覚の前で顔や身振りの中に、また聴覚の前で話しの音声の中に、またはそれらの快さが鼻で感じられるならすなわち嗅ぎ出されるなら、異なって生じたでしょう。その時、もし不一致なほどに異なるなら、アニムスは相互から分離し、反感を知覚するにしたがって遠くへと遠ざかります。
 これらから、自然界ではほとんどすべての者が外なる情愛に関して結合されることができます、しかし内なる情愛に関して、もしこれらが不一致であり、現われるなら、できないことが明らかです。

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273 (2) 霊界では、すべての者は内なる情愛にしたがって結合される、けれども、これらが内なる情愛と一緒に働かないなら外なる情愛にしたがって結合されない
 その原因は、今、前に言われたように、その時、すべての情愛を受けることまた示すことのできる形である物質的な身体は捨てられ、その身体から脱がされた人間は、その身体が隠していた自分の内なる情愛の中にいるからです。ここから、そこに同質なものと異質なものが、すなわち、同意と反感が、感じられるだけでなく、それらが顔・話し・身振りの中にもまた現われます。それゆえ、そこに似ているものは結合され、似ていないものは分離されます。
 これが、天界全体は善と真理への愛のすべての情愛の多様性にしたがって、地獄は対立するものから悪と虚偽への愛のすべての情愛の多様性にしたがって、主により秩序づけられていることの原因です
[2]天使と霊たちに世の人間にあるのと等しく内なるものと外なるものの情愛があり、そこの内なる情愛は外なる情愛から隠されることができないので、透かして見え、それ自体を示します、ここから、両方のものは彼らのもとで似ているものと対応するものにされ、その後、彼らの内なる情愛は外なる情愛によって顔の中に映し出され、話しの音声の中で知覚され、そしてまた振る舞う態度の中に現われます。
 天使と霊たちに内なるまた外なる情愛があることは、彼らに心と身体があり、そして、情愛とここからの思考は心のものであり、そして感覚とここからの快楽は身体のものであるからです。
[3]そこにしばしば、死後、友人たちが出会い、前世での自分たちの友情を思い出すことが起こり、その時、以前のような友情の生活の交わりに加わることになる、と信じます。しかし、天界でその交わりが知覚されるとき、それは単に外なる情愛のものであり、内なる情愛にしたがって分離が生じます。その時、その出会いから、ある者は北に、ある者は西に、また各々の者は隔たりへ向けて自分たちの間で、互いにもはやだれも見ない、認めないほどに、追放されます。なぜなら、彼らが滞在する場所で、顔が〔悪いものへ〕変えられ、その顔は彼らの内なる情愛の似姿になるからです。
 これらから、霊界では、すべての者は内なる情愛にしたがって結合されます、けれども、これらが内なる情愛と一緒に働かないなら外なる情愛にしたがって結合されないことが明らかです。

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274 (3) 外なる情愛があり、それらにしたがって、世で、一般に結婚生活が結ばれる
 このことは、内なる情愛が考慮されるのがまれであるからです。もし考慮されるなら、それでも女の中にそれらの似たものが見られません、というのは、これら内なる情愛を出生の贈り物から自分の心の奥底の中に引っ込めるからです。
 男に結婚生活を結ばせることへ向けてひき起こす外なる情愛は、多くのものがあります。この時代(現代)の第一の情愛は、豊かにされるためにも、豊富に利用できるためにも、富による個人財産の増大です。第二のもの情愛は、あるいは尊ばれるために、あるいは繁栄の状態の増大の中にいるために、名誉への熱望です――これらのほかに、いろいろな誘惑や欲望があります。これらの情愛もまた、内なる情愛の適合性を調べるようとする余地を与えません。
 これらのわずかなものから、結婚生活が一般に世で結ばれることは、外なる情愛にしたがっていることが明らかです。

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274◀︎目次▶︎276

275 (4) しかし、心を結合させる内なる情愛が内在しないなら、結婚生活は家の中で損なわれる
 家の中で、と言われます、彼らの間の私生活においてであるからです。このことは、婚約の時に火が付けられ、結婚が迫る時の燃え立つ最初の熱が、その後、連続的に内なる情愛の不一致のために、興奮が冷め、最後に冷淡へ去るときに生じます――その時、彼らを結婚生活へ向けて導き入れ、引き寄せる外なる情愛は、もはや結合すらしないために、消失することがよく知られています。
 内なる・外なる・偶発的な冷淡が、いろいろな原因から起こり、それらすべてのものは内なる性向の似てないことから派生物をひき起こすことは、前章で説明しました。
 これらから、心を結合させる内なる情愛が外なる情愛に内在しないなら、結婚生活は家の中で損なわれる、という真理が明らかです。

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275◀︎目次▶︎277

276 (5) それでも結婚生活は世で、いのちの終わりまで両方の者に持続されなければならない
そこに本物でない結婚愛がなくても、それでも装わなければ、すなわち、存在するかのように見られなければならない必要性を、役立つことを、このことの真理がさらにはっきりと示されるために、理性の前に示します。もし始められた結婚が生涯の終わりまでも取り決められたものでなく、しかし、意のままに解消できたなら、イスラエル民族のもとにあったように、異なっていたでしょう、その民族はどんな理由からでも妻を離縁する自由を自分自身に主張しました。「マタイ福音書」の次のものから明らかです――

パリサイ人が近づき……イエスに、「人間に妻を離縁することが許されないのは、どんな理由からですか?」と言った。そのときイエスは、淫行のためでないなら、妻を離縁し、他の女を得ることすることは許されないことを答えた。彼らは、それでもモーセは、離婚の自由を与えたこと、また離縁することを命じたこと話した。また、弟子たちは言った……「もし、人間にとって妻との〔離縁の〕理由がこのようなものであるなら……結婚生活を結ぶことは都合のよいことではありません」(19:3–10)。

[2]そこで、結婚の契約が生涯の契約であるとき、夫婦の間で愛また友情の外観が必要であることがいえます。
結婚生活が世で、いのちの終わりまで両方の者に持続されなければならないことは、神的な律法からです、これらからであるので、さらにまた理性的な法律から、ここから市民的な法律(民法)からです。前のように、神的な律法から、淫行のためでないなら、妻を離縁し、他の女を得ることはことが許されません。理性的な法律から許されないのは霊的な法律に基づくからです、というのは、神的な律法と理性的な法律は一つの法律であるから。これ〔神的な律法〕とそれ〔理性的な法律〕と一緒に、すなわち、これ〔神的な律法〕によってそれ〔理性的な法律〕から、結婚の解消、すなわち、妻が死ぬ前に夫の意のままに妻を追い出すことによる多くの無法なものを、また社会の破壊を見ることができます。それらの無法なものと社会の破壊に関して、九つの王国から集められた者から結婚愛の起源について発表されたメモラビリアの中に多くのものを見ることができます(103–115番)。それらに多くの論証を積み重ねることは必要とされません。
しかし、これらの原因は、その原因のために分離が許されます(それらについては前の252–254番)、そしてまた、めかけ囲いの妨げとはなりません(それらについては第二部)。

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276◀︎目次▶︎278

277 (6) 内なる情愛が結合していない結婚生活の中に、内なるものを偽り装い、仲間となっている外なる情愛が存在する
 内なる情愛によって、天界から両方の者の心(mens)の中にある相互の性向が意味されます。しかし、外なる情愛によって、世から両方の者の心の中にある性向が意味されます――後者の情愛または性向は確かに等しく心のものです、しかしその低い領域を占めています、けれども、前者は高い領域を占めています――しかし、二つのものは自分の座を心の中に定められているので、似たものまた適合するものであると信じられることができます。しかし、たとえ似たものでなくても、それでも似たものに見られることができます、しかし、ある者のもとで適合するもののように、ある者のもとで快く柔らかい見せかけのもののように存在するようになります。
[2]ある種の共有が結婚の契約の最初から両方の者に植え付けられていて、それらは、たとえアニムス(気質)が不一致であっても、それでも植え付けられて残ります。例えば、所有物(財産)の共有、多くの者の中で役立ちの共有、家のいろいろな必需品の共有、また思考も、またある種の秘密の共有、さらにまた寝床の共有、また幼児への愛の共有です。ほかにも多くのものがあり、それらは結婚の契約にあるので、彼らの心にも、刻み込まれています。
 これらから、特に外なる情愛が存在し、それらは内なる情愛に似たものとして扱われます。けれども、単にそれらを偽り装うそれらは、部分的に同じ起源から、また部分的に他の起源からのものです。しかし、両方のものについて、続きの中で扱います。

結婚愛

277◀︎目次▶︎279

278 (7) ここから、夫婦の間に、見せかけの愛・見せかけの友情・好意がある
 夫婦の間の見せかけの愛・友情・好意は、生涯の終わりまで取り決められた結婚の契約から生じ、ここから協力で結ばれた者に刻み込まれた結婚の共有から、直前に示されたように、その外なる情愛から内なる情愛に似たものが生まれます。ほかの原因からも生じ、それらは役に立つことと必要性です。それらから、部分的に、結合へ向かう外なる情愛あるいは偽りの情愛が存在するようになり、それらによって外なる愛は内なる愛のように、また外なる友情は内なる友情のように見られます。

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278◀︎目次▶︎280

279 (8) これらの見せかけは結婚の模倣であり、それらは役に立ち、必要なものであるので称賛に値する
 模倣と言われるのは、心で不一致であり、その不一致から、内的に、冷淡の中にいる者の間に存在するからです。それでも、外なるものの中にいる時、義務であり、ふさわしいように社交的な生活を送る時、彼らが一緒に住むことの交わりは模倣と呼ばれることができます、しかし結婚のものは、役立ちのために称賛に値するものであり、偽善的な偽装からはまったく区別されます。というのは、それらによって順に以下の(11)から(20)節までに列挙されるそれらの善が供給されるからです。必要性のために称賛に値するものであることは、そうでなければ、それらの善が追放されるからです。それでも、一緒に住むことが契約と法律から強いられていて、このことはここから義務として両方の者に居座っています。

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279◀︎目次▶︎281

280 (9) 自然的な人と結合した霊的な人のもとで、結婚のこれらの模倣は、公正と思慮分別からの賢明なものである
 その理由は、霊的な人は公正と判断力から行なうことを行ない、それゆえ、この者はこれらの模倣を自分の内なる情愛から引き離されたものと見ないで、それらに結びついたものとして見るからです。というのは、彼はまじめに行動し、改善(矯正)を目的として眺めるからです、もしこれが結果として生じないなら、家の中の秩序のために、相互の助けのために、幼児の世話のために、平和と平穏のために、調整を目指すからです。公正からこれらへ導かれ、判断力から実行に移します。
 霊的な人が自然的な人とこのように一緒に住むのは、霊的な人は、自然的な人ともまた霊的に行なうからです。

結婚愛

280◀︎目次▶︎282

281 (10) 自然的な人のもとで、結婚のこれらの模倣は、いろいろな原因のために、思慮分別からの賢明なものである
ひとりは霊的である、けれども、もうひとりは自然的であるふたりの夫婦の間で、霊的な者によって霊的なものを愛する者が、このように主から賢明である者が意味されます、また自然的な者によって、自然的なものだけを愛する者が、このように自分自身から賢明である者が意味されます。
それらのふたりの夫婦が交わる時、霊的な者のもとの結婚愛は熱く、自然的な者のもとで冷たいものです。熱と冷たさが一緒に存在することができないこと、また熱は冷たさの中にいる者を、冷たさが最初に追い散らされないなら燃え上がらせることができないこと、冷たさも熱の中にいる者の中に、熱が最初に取り去られなければ、流入することができないことは明らかです。ここから、内部の愛は霊的な者と自然的な者の夫婦の間にありえません。しかし、前節に言われたように、内部の愛を模倣したものが霊的な配偶者の側から存在することができます。
[2]しかし、ふたりの自然的な夫婦の間に内部の愛はありえません、両方が冷えているからです。もし熱いなら、好色なものからです。これらの者は、それでもなおやはり、アニムスで分離しながらも一緒に住むこと、そしてまたどれほど心が互いに一致していなくても、自分たちの間の愛と友情のような顔つきを映し出すことができます――これらの者のもとの外なる情愛は、それらの大部分は富と所有物(財産)、または名誉と地位であり、熱望することができるようなものです。その熱望は、それらが奪われることに対する恐れをひき起こすので、それゆえ、結婚の見せかけが彼らに必要なものです、特に、それらは次に示されているものです((15)~(17)節)。これらとともに列挙されている残りの原因は、霊的な人のもとの原因と何らかの共通なものを持つことができます、それらについては前に見られます(280番)、しかし自然的な人のもとの思慮分別が知性から賢明であるかぎりそれを持つことができます。

結婚愛

281◀︎目次▶︎283

282 (11) 改善のためであり、調整のためである
アニムスで不一致な夫婦の間の愛と友情の見かけである結婚の偽装が改善のためであることは、自然的な人に結婚の契約で結びつけられた霊的な人は、生活の改善以外の他のものを何も意図しないからです。それがその者により知恵のある上品な話しによって、また他の者の愛想のよい好意ある性質によって生じます。しかし、もしこれらが虚しくその耳や振る舞いに落ち込むなら、〔それでも〕家庭の事柄での秩序の維持のために、相互の助けのために、また幼児と子ども、また他の同様のもののための調整を意図しています。なぜなら、霊的な人から発出する言われたものと行為は、前に示されたように(280番)、公正と判断力から賢明なものであるからです。
[2]けれども、彼らからある者は霊的でなく、しかし両者が自然的である夫婦のもとで、似たものが存在することができます、しかし他の目的のためです――もし改善また調整のためなら、他の者ために自分の態度を似たものに向けて強制し、そして自分の欲望が従属されるための目的があります、あるいは他の役立ちのために、自分に仕えるようになるために、あるいは家の内の平和のために、または家の外の評判、あるいは配偶者からまたはその親類から期待される好意のために、ほかにも他の目的があります。しかし、これらは、ある者のもとで彼らの理性の思慮分別からであり、ある者のもとで生来の礼儀正しさから、ある者のもとで出生から親しいものとなっている欲望の快さから、それらを奪われることを恐れ、ほかに多くのものがあり、それらから結婚愛のような好意をおび、多かれ少なかれ、うわべのものが生じています。
さらにまた家の外にあって家の内に何もない結婚愛のような好意が存在します、しかしこれらは目的として両者の評判に目を向け、もしこの目的がないなら演技です。

結婚愛

282◀︎目次▶︎284

283 (12) 家庭の事柄で秩序を維持するためである。相互の助けのためである
 そこに子ども、これらを教える者、他の召使いがいるそれぞれの家は、大きな社会を模倣している一つの社会です。この大きな社会もまたそれらから、部分からの普遍的なもののように、共存します。そしてまた大きな社会の安全が秩序に依存しているように、そのようにこの小さな社会の安全も秩序に依存しています――それゆえ、合成された社会の中に秩序が存在し、維持されるように細かく調べ、供給することが行政長官(知事)に重要であるように、その個々の社会の中にいる配偶者にも重要です。
 しかし、この秩序は、もし夫と妻が心で不和であるなら、ありえません、というのは、そのことによって相互の忠告と助けはいろいろな方向に追い立てられ、そしてアニムスのように分割され、このように小さな社会の形は引き裂かれるからです。それゆえ、秩序が守られるために、またそれによって自分自身と同じく家に、または家と同じく自分自身に、破滅に陥り、破滅へ突進しないよう備えるために、主人と女主人が一致するように、そして一つのものとなる必要が要求されます。それがもし心の相違のために〔一つのものと〕なれないなら、それでも〔家が〕よくあるために、それが生じるために、結婚の友情を表象するものによってそうすべきであり、それがふさわしいことです。ここから家の中の和合が必要のためにつなぎ合わされること、ここから役に立つことが、よく知られています。

結婚愛

283◀︎目次▶︎285

284 (13) 幼児の世話のためであり、子どもに対して一致するためである
 真の結婚のような愛と友情の外観である結婚の見せかけは、夫婦の間の幼児と子どものためであることは、非常によく知られています。これらの者の共通の愛が、〔それぞれの〕配偶者が〔他の〕配偶者を親切に、好意を持って眺めるようにします。
 母と父のもとの幼児と子どもへの愛は、胸の中の心臓と肺のように互いに結合しています。母のもとの彼らへの愛はそこの心臓のようであり、父のもとの彼らに対する愛はそこの肺のようです――このたとえの理由は、心臓は愛に、肺は理解力に対応し、母のもとに意志からの愛があり、父のもとに理解力からの愛があるからです。
 霊的な人のもとに、公正と判断力からのその愛によって結婚の結合があります。公正からであるのは、母は彼らを子宮に運び、苦痛ともに彼らを産み、その後、彼らを疲れを知らない世話で授乳し、養育し、清潔にし、着せ、教育したからです。

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284◀︎目次▶︎286

285 (14) 家の中の平和のためである
 結婚の見せかけまたは外なる友情は家での平和と平穏のために、男の自然的な特質のために主要なものです、それは、行なうものを理解力から行なうことです。そして、理解力は、考えるものであるので、いろいろなものに向きを変え、それらはアニムスを不安にし、そらし、かき乱します。それゆえ、もし家に平穏がなかったなら、彼らの生命の霊が衰えること、そして彼らの内的ないのちが死のように倒れ、このように彼らの心と身体の健康が滅ぼされることが生じたでしょう。男の理解力の動揺を鎮めることのための避難所が家に、妻のもとになかったなら、これらの危険と他の多くのものの恐れが男の心を包囲したでしょう。
[2]さらに、平和と平穏は心を落ち着かせ、それらを妻たちから与えられる好意を快く受け入れることへ向けて整えます、彼女たちはすべての働きを敏感に夫のもとに観察する心の雲を鎮めるために費やします。そしてなおまたその働きが彼女たちの居合わせることを楽しくします――ここから、真の結婚のような愛の見せかけが家での平和と平穏のために必要であること、そしてまた役に立つことが明らかです。
 追加の事実は、妻のともに夫のもとのような見せかけがないことです。しかし、もしそれらのように見えるなら、実在する愛です、妻たちは男の理解力の愛に生まれているからです。それゆえ、夫の好意を親切に、もし口でないなら、それでも心で喜んで受け入れます。

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285◀︎目次▶︎287

286 (15) 家の外の評判のためである
 男(夫)の繁栄(成功)の大部分は、公正・誠実・正直であるという評判によっています。この評判もまた彼の個人生活を知っている妻によっています――それゆえ、もし彼らの心の不一致が、あからさまな敵意・口論・憎しみの脅しの中に突発するなら、またこれらが妻またその友人から、そして家の召使いから公けにされるなら、容易に侮辱へと変えられ、それは彼の名前に不面目と悪評になります。
 このようなものを避けるために、偽って妻に賛同するか、あるいは家を別にするか以外に他の余地はありません。

結婚愛

286◀︎目次▶︎288

287 (16) 配偶者からまたはその親類から期待されるいろいろな好意のためであり、このようにそれらを失う恐れのためである
 これらのことは特に結婚での異なっている状態と境遇の中で生じます(それらについて前の250番参照)。裕福な妻がめとられて、その妻が自分の財布の中に硬貨を、または金庫の中に宝を隠しているときのようです。さらに〔妻が〕、夫が自分の財産と収入から家(家庭・所帯)を維持することは夫の義務である、とずうずうしくも言い張るなら、ここから強制されて結婚の愛に似たようなものがあることが一般によく知られています。
 同様なものが、妻の両親・親類・友人が、地位のある職務の中に、利益のある商売(事業)の中に、また商品を扱う仕事の中にいて、その者が彼の状態からさらに繁栄した状態を整えることができるその妻がめとられたとき、生じます。これらのために、結婚の愛に似ているようなものがあることもまた一般によく知られています。
 これらがそれらの損失の恐れのためであることが明らかです。

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287◀︎目次▶︎289

288 (17) 汚点の弁解とここからの悪評の回避のためである
配偶者が悪評を恐れる汚点は多くのものがあり、あるものは重大であり、あるものは重大ではありません。前章に列挙された分離の原因(252と253番)よりも軽い、心の汚点と身体の汚点があります。それゆえ、悪評のためにもうひとりの配偶者によって沈黙が守られる汚点が意味されます――これらのほかに、ある者のもとに、もし公けにされるなら、問題とされる法律の刑罰のものである偶発的な罪悪があります。たいていの男たちが自慢する〔ような〕能力の欠如が黙っておかれるようなものです。
悪評の回避のためのこのような弁解が、配偶者に愛と友情の見せかけの理由であることは、さらなる確証なしに、明らかです。

結婚愛

288◀︎目次▶︎290

289 (18) 和解のためである
 いろいろな原因から心(mens)で一致しない夫婦の間に、交替して、不一致と信頼、仲違いと結合、それどころか、けんかと和解があります。なおまた、友情の外観が和解もさせることが、世でよく知られています。
 分離の後に行なわれる和解もまた存在し、それらはそのように交替のものや一時的なものではありません。

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289◀︎目次▶︎291

290 (19) 年取ったとき、男(夫)のもとの能力が終わる時、妻の好意が終わらないなら、結婚を模倣している友情が生じることができる
 夫婦の間の心(アニムス)の分離のおもな原因は、男(夫)のもとで能力が、またここから愛が終わって、妻のもとに好意が不足することです。なぜなら、熱が互いの間で伝達するように、冷淡もまた同様であるからです――両者のもとの愛の不足から、友情が、もし家の中で家庭の事柄が破滅の恐れがないなら、好意もまた終わることが、理性と経験から明らかです。
 そこで、もし男がひっそりと自分自身に原因を帰し、それでも、妻が彼に対する貞潔な好意を持続するなら、ここから友情が生じることができ、それは配偶者の間にあるので、結婚を模倣する〔愛の〕ように見えます。
 あたかもその〔結婚〕愛かのような友情が年取った夫婦の間に存在することは、一緒に生活する彼らの交際、また穏やかな、不安のない、愛すべき交わりから、経験により証言されます。

結婚愛

290◀︎目次▶︎292

291 (20) 夫婦の間に、一方が服従し、ここからもう一方が服従させるいろいろな種類の見せかけの愛と友情が存在する
 結婚の最初の時の過ぎ去った後、権利と支配力について張り合うことが起こります。権利について、取り決められた契約の規定にしたがって対等であり、それぞれの者に自分の職務からの本分の尊厳があります。支配力について〔の張り合いは〕、男により男であるので家のすべての事柄の中で優越性が要求されること、また女に女であるので、劣ることがあり、〔このことは〕今日の世で知られたものの間にあります。
 今日、よくあるこのような張り合うことは、真の結婚愛について意識が何もないことからは、またその愛の至福について感覚の知覚が何もない以外に他のところからは流れ出ません。その愛の代わりにそれらの不在から欲望があり、それはその愛を装っています。この欲望から、本物の愛から遠く離れ、支配力を求めることが流れ出て、それはある者に支配する愛の快さから内在し、ある者に結婚前に知識を持っている女からであり、ある者に燃えているものです。
[2]この求めることの中にいる男たちは、張り合って、支配の力を得た後、妻たちを、それぞれの者が自分自身のもとの生来のまた隠れている彼らの求めることの段階と性質にしたがって、あるいは自分の支配の下の所有物に、あるいは自分の自由裁量の従順な行為に追いやり、あるいは奴隷します。けれども、もし妻たちはこの求めることの中にいるなら、張り合って支配の力を得た後、自分の夫たちをあるいは自分自身に対等の支配の下に、あるいは自分の自由裁量の従順な行為に追いやるか、あるいは奴隷します。しかし、妻たちは、彼らから支配のファスケス(権威標章)を得た後、結婚の愛を装う欲望にとどまるので、もし自分の支配力を道義に適うものを超えて道徳的な悪にまで拡張するなら、正当な分離の法律に、またその恐れに抑制され、それゆえ、夫たちとの社交的な生活を送ります。
[3]けれども、女主人の妻と奴隷の夫の間の愛と友情がどんなものが、なおまた主人の夫と女奴隷の妻の間でどんなものが存在するか、わずかな言葉で述べられることができません。実に、もしそれらの相違が詳細に集められ、これらが列挙されるなら、ページが足りないでしょう――というのは、いろいろであり、異なっているからです。男のもとの求めることの性質にしたがっていろいろであり、妻のもとのいろいろなものも同様です。また女のもとにあるそれらから異なったものが男たちにあります――というのは、このような男たちは愚かなものでないなら愛の友情が何もない中にいるし、また女たちは欲望からのにせの愛の友情の中にいるからです。
 けれども、どんな技巧で妻たちは男たちの上の力を自分自身に得るか、今、次の節で言います。

結婚愛

291◀︎目次▶︎293

292 (21) 世では、内的に最も和解しにくい敵であり、外的に最も結合した友のようである夫婦の間に、地獄的な結婚が存在する
 私は、霊界にいるそのような種類の妻たちから、それらの結婚を公けの光の中に置くことを確かに禁じられています。というのは、彼女たちは、男たちの力を妨げるそれらの技巧を同時に公けにされないように恐れているからです、それでもその技巧を最高度に隠すことを欲しています――しかし、私は、その世界の男たちから、自分の内部の、妻に対する彼らの心の中に持ち込まれたあたかも激怒のような憎しみの原因を明かすことへ向けてかき立てられています。彼女たちの秘密の技巧から、私はこれら次のものだけを示すことを欲しています。
 男たちは、「自分たちに知られないうちに、妻たちに対する恐ろしい恐怖がひき起こされ、そこから、彼女たちの自由裁量に最も従順に従う、また彼女たちの気まぐれ(意向)に応じる、それよりさらに、最も卑しく仕える」と言いました。それで、気の抜けたワイン(ただの人・ろくでなし)のようになるしかできませんでした。妻たちに対してそのようになったのは、彼らだけでなく、要職に何も任命されていない者、しかし高位にいる者、実に、精力的で名高い将軍もいました。また、その恐怖を引き寄せた後、その恐怖の中で、「妻たちとは親しげにでなければ大胆に話すこと、彼女たちに気にいられることでないなら、彼女たちに行なうことができなかった、それでも、自分の心の中で彼女らに対する致命的な憎しみを抱いた」と言いました。また依然として、それでも妻たちは、自分たちに愛想よく話し、行動し、自分たちの要求のあるものを従順に聞きました。
[2]さて、男たち自身は非常に驚じ、彼らの内部にこのような反感が、また外部にこのような調和するものがどこからか、その秘密の技巧を知っていた女たちを見つけ出しました。彼らは質問し、彼女たちの口から、女(妻)たちが男たちを自分のくびきの支配に、もし欲するなら、服従させる知識を深く自分自身のもとに隠していることを学びました。またこのことは粗野な妻たちのもとでは叱ることと好意を示すことが交替に行なわれます。他の妻のもとでは絶えずきびしいまた不愉快そうな顔つきによって、また他の妻のもとでは異なって――しかし、礼儀正しい妻のもとでは、祈願の頑固さによって、交互に、決して中断のないものによって、また夫に対する頑強な抵抗によって、もし彼らから厳しいことを被っても、法律からの平等を自分の権利として要求して、そこから大胆に(ずうずうしくも)自分自身に振る舞います――それどころか、もし家を追い出されるなら、随意に戻り、そして同様のことを主張します。というのは、男たちが自分の性質から自分の妻の頑固さに決して抵抗することができないこと、彼女たちの自由裁量に譲歩した後、自分自身を服従させることを知っているからです、また、その時、妻たちは、自分の支配の下で、夫たちに礼儀正しいものと優しいものを示します。
 この技巧による妻の支配の真の原因は、男は理解力から、女は意志から行動すること、また意志はそれ自体に固執することができる、けれども、理解力は固執しないことです。
 私に、「この種類の最悪な妻は、支配を求めることに深く囚われていること、自分の頑固さで執拗に、いのちの(最期の)もがきまで、固執することができます」と言われました。
[3]私はそれらの女たちから、なぜ、この技巧の行使に至ったか〔その〕弁解を聞きました。
 彼女たちは、「もし夫たちから征服されるなら、最大の軽蔑を〔受け〕、将来、捨てられます、ここから自分の破滅を先見しなかったなら、それに至りませんでした、このように必要から、この自分の武器を得ました」と言いました――これらに、男たちに対して、妻たちに自分の権利を残すように、また交替で冷淡の中にいる時、彼女を女召使いの下の卑しい者として見なさないように、との警告を言い足しました。さらにまた、自分の性からの多くの者は生来の臆病からそれらの技巧を行使する状態の中にいないことを言いました。しかし、私は、生来の慎み深さから、とつけ加えました。
 これらから、今や、よく知られます、それらの結婚が世で内的に最も和解しにくい敵であり、外的に最も結合した友のようである夫婦の間の地獄的な結婚によって意味されることです。

結婚愛

292◀︎目次▶︎294

29 バラの園に座っていた七人の妻たちについて、彼女たちは結婚愛についていろいろなことを話した

293 (これらに二つのメモラビリアを付け加えます、第一のものはこれ——)
かつて窓を通して私は東へ向かって眺め、ある泉の近くにバラの花壇の上に座って水を飲んでいる七人の女たちを見た。私は何を行なっているのか見るために強く鋭い視線を向け、そして私の強く鋭い視線が彼女たちに働きかけた——それゆえ、彼女たちからのある者が身振りで私を招いた。私は家を出て、急いで近づいた。着いたとき、丁寧に、どこから来たのか質問した。
彼女たちは言った、「私たちは妻です、ここで結婚愛の歓喜について話し合い、多くの確証から、その歓喜は知恵の歓喜でもあることを結論しています」。
返答は、他の前の時のものよりも、霊の中で私に、ここから知覚の中に見られたように、私の心(アニムス)を喜ばせ、さらに内部のものそして照らされたものであった。それゆえ、私は彼女たちに言った、「これらの楽しさについていくつかの質問を許してください」、すると同意した。
私は質問した、「結婚愛の歓喜が知恵の歓喜と同じであることを、どのように、あなたがた妻たちは知っているのですか?」
[2]答えた、「このことを、私たちは、夫のもとの知恵が私たちのもとの歓喜に対応することから知っています。なぜなら、私たちのもとのこの愛の歓喜は、高まり、減ります、そしてまったく私たちの夫のもとの知恵にしたがってその性質を与えるからです」。
これらを聞いて、私は質問して、「私は、夫たちの柔らかい言葉が、そして彼らの心の快活さが、あなたがたに働きかけること、あなたがたは胸全体で彼らから楽しむことを知っています。それでも、私は、彼らの知恵がそれをひき起こす、とあなたがたが言うことを不思議に思います。しかし、知恵が何か、どのような知恵が〔それを行なうか〕私に言ってください」と言った。
[3]これらに妻たちは憤慨して、答えた、「あなたは、私たちが、知恵が何か、どのような知恵が〔それを行なうか〕知らない、と思っているのですか? そのときそれでも、夫たちのもとのそれらについて私たちは絶えず熟慮しています、それらを、日々、彼らの口から学んでいます。なぜなら、私たち妻たちは私たちの夫たちの状態について朝から夕まで考えているからです——一日中、私たちの直覚的な思考が彼らからまったく去る、すなわち、不在である時間はほとんど存在しません。逆に、一日中、夫たちは私たちの状態について、ほとんど何も考えていません——ここから、私たちは、彼らのどんな知恵が私たちの中で楽しんでいるか知っています——夫たちはその知恵を霊的理性的な知恵、そして霊的道徳的な知恵と呼んでいます。夫たちは、霊的理性的な知恵を理解力また思考のエッセ(存在)と言い、そして霊的道徳的な知恵を意志や生活のエッセ(存在)と言います。しかし、それら両方のものを〔一つのものとして〕考え、一つのものにします、この知恵の楽しいものが彼らの心から私たちの胸の中に、歓喜の中に移され、私たちのもの〔心〕から彼らの胸の中に、このようにその知恵の起源へ戻る、と想定しています」。
[4]その時、私は、「あなたがたの中で歓喜となる夫たちの知恵について、さらに何らかのものを知っていますか」と質問した。
言った、「私たちは知っています。霊的な知恵があり、ここから、理性的な知恵と道徳的な知恵があります。霊的な知恵は救い主なる主を天地の神として認めること、その方から、みことばによって、そしてここからの説教によって生じることですが、自分自身に教会の真理を、そこから霊的理性的な知恵を得ること、その方からそれらにしたがって生活すること、そこから霊的道徳的な知恵を得ることです。これら二つのものを夫たちは知恵と呼びます、それらは全般的に結婚愛を生み出します。
私たちは夫たちから理由も聞いています、それらの知恵によって心の内的なものが開かれ、ここから彼らの身体のもの、そこから最初のものから最後のものまで、愛の水脈として、自由な通行が存在するようになり、その流れ込みの十分な数量と力から、結婚愛は依存し、生きていることです。
私たちの夫たちの霊的理性的なまた霊的道徳的な知恵には、特に結婚に関して、目的また標的として妻だけを愛すること、他の女へのすべての欲望を取り去ることがあります——このことが生じれば生じるほどそれだけ、程度に関してその愛が高められ、そして質に関して完全にされ、そしてまたそれだけ私たちは私たちの中の明瞭なまた鋭敏なものを、私たちの夫たちの情愛の快さと思考の楽しさに対応したものを感じます」。
[5]その後、私は、〝どのように伝達が生じるか〟知っているか質問した。
言った、「愛を通してのすべての結合の中に、活動・受容・反作用があります。私たちの愛の楽しい状態は働きかける力(作用因)または活動であり、夫たちの知恵の状態は受け入れるものまたは受容です、そしてまた受容にしたがって反応することまたは反作用があります、この反作用は私たちから、その受け入れに向けて常に広がる状態と用意する状態にしたがって、胸の中の歓喜とともに知覚されます、それらは夫たちのもとの力(精力)とともに、そのようにまた私たちのもとの愛の最外部の状態とともに、何らかの割合で密着し、ここから発出します」。
さらに言った、「私たちが話している歓喜によって、あなたが愛の最終の歓喜を理解しないように用心してください。これらについて私たちは決して何らかのものを話していません、私たちの胸の歓喜について話しています、それらの永続的なものは私たちの夫の知恵の情愛に対応しています」。
[6]この後、遠方から口にくわえた木の葉とともに、あたかも飛んでいるかのようなハトが現われた、しかし近づくに応じて、ハトに代わって手にした紙とともに小さな少年が見られ、私たちに近づいてその紙を私に差し出し、言った、「それを、これら泉の処女たちの前で読みなさい」。私はこれらを読んだ。「地上の住民に言いなさい、あなたはその者たちといます、〝結婚愛が存在し、その歓喜は無数であり、それらについてほとんど何らかのものは依然として世に知られていない〟ことです。しかし、教会がその主と婚約し、そして、結婚するとき、知ります」。
その時、私は質問した、「なぜ、その少年はあなたがたを泉の処女たちと呼んだのですか?」
答えた、「私たちはこの泉に座っているとき、私たちは私たちの夫の知恵の真理への情愛であるので処女と呼ばれ、真理への情愛は処女と呼ばれます。泉もまた知恵の真理を意味し、そしてその上に私たちは座っているバラの花壇はその歓喜を意味します」。
[7]その時、それら七人からのある者が、バラからの花冠を編み、それに泉の水を振りかけ、そしてそれを少年の帽子の上に彼の小さな頭のまわりに置き、言った、「知恵の歓喜を受け取りなさい。あなたは、帽子が知性を、そしてバラからの花冠がこの歓喜を意味することを知っているでしょう」。
そして少年はこれらで飾られて立ち去り、遠方から、再び、ハトが飛んでいるように見えた、しかし頭の上に冠を被っていた。

結婚愛

293◀︎目次▶︎295

30 女の思慮分別について、同じ妻たちから

294 (第二のメモラビリア——)
数日後、再び私はバラ園の中のそれらの7人の妻たちを見たが、以前と同じバラ園の中にではない。
みごとなバラ園であり、それに類似したものを私は以前に決して見たことがなかった。円形であった、そしてバラがそこに虹のように弓形を作っていた。紫色のバラまたは花がその最外部の輪を、そして金色の黄色の他のものが最も近い内側を、そしてこの内を紺青色の他のものが、そして明るい緑色または輝く緑色のバラまたは花が最内部の輪を作っていた。この虹のバラ園の内に澄んだ水の小さな池があった。
以前に泉の処女と呼ばれた七人のそれらの妻たちは、そこに座って、窓の中に私を見て、再び自分のもとへ呼んだ——私が近づいたとき、「あなたはこれまで地上でさらに美しいものを見ましたか?」と言った。私は言った、「決してありません」。
すると言った、「このようなものは主により瞬間に創造され、それは地上の何らかの新しいものを表象します、なぜなら、主により創造されるすべてのものは〔何かを〕表象するからです。しかしこれが何か、もしあなたにできるなら、推測しなさい。私たちは、結婚愛の歓喜を推測します」。
[2]これを聞いて、私は言った、「結婚愛の歓喜とは何ですか? あなたがたは、以前にそれらについて知恵から、そしてまた能弁から、これほどに多くのものを話しました。
その後、私はあなたがたから立ち去り、私はあなたがたの談話を、私たちの地域の中に滞在している妻たちに語りました。私は教えられて、今では知っている、と言いました、あなたがたにあなたがたの結婚愛から出てくる胸の歓喜があること、それらをあなたがたの夫たちに彼らの知恵にしたがって伝えることができ、それゆえ、あなたがたの夫たちをあなたがたの霊的な目で絶えず朝から夕まで熟視すること、そして知恵へ彼らの心(アニムス)を向け、それらの歓喜を(あなたがたが)獲得する目的のために導くことです——さらにまた私は、知恵によって何をあなたがたが理解しているか話しに出しました、それは霊的理性的な知恵と道徳的な知恵です——また結婚に関して、妻だけを愛することへ向かう、他の女へ向かうすべての欲望を取り去ることへ向かう知恵です——しかしこれらに、私たちの地域の妻たちは笑いとともに答えて、言いました、『このことは何ですか。それら言われたものはつまらないものです——私たちは何が結婚愛か知りません。何らかのものが夫たちにあるにしても、それでも私たちには何もありません——その時、私たちのもとの彼のその歓喜はどこからですか? それどころか、あなたがたが最外部のものと呼ぶ歓喜を、時々、私たちは手荒く拒みます、というのは、私たちに不愉快なものであり、ほとんど強姦でしかないからです——それどころか、もしあなたが留意するなら、私たちの顔の中にそのような愛のしるしを見ないでしょう——それゆえ、もしそれらの七人の妻たちとあなたが、朝から夕までも、私たちの夫たちについて、絶えず彼らのえり好みと自由な選択に向けて彼らからこのような歓喜を得るために(私たちが)留意している目的のために私たちが)考えている、と話すなら、あなたはばかげたことを話しているかまたは冗談を言っています』。
私は彼女たちの言ったことを心に留めました、それらの言葉を私が話すためであり、泉の近くであなたがたから私が聞き、またそれほどに熱心に私が吸収し、そしてまた私が信じたことに、〔あなたがたが〕反感を抱き、そしてまた談話にまったく逆らうであろうからです」。
[3]これらにバラ園に座っている妻たちは答えた、「友よ、あなたは妻たちの知恵と思慮分別を知りません、夫たちにそれらをまったく隠しているからです、それらを、愛されるためだけの目的のために隠します——というのは、霊的でなく単に理性的に自然的また道徳的であるだれにでも、その男(夫)に、妻へ向けて冷淡があるからです。これは彼のもとの最内部の中に隠れています——これを賢明なまた用心深い妻は敏感にまた鋭く気づきます、またそれだけ自分の結婚愛から隠し、そして胸の中に引っ込め、そこに、その最小のものも顔の中に、音声の中にも、素振りの中にも見られないようにこれほどに深くしまい込みます——その理由は、見られれば見られるほど、それだけそこに住んでいる結婚の男の冷淡が彼の心の最内部からそれ自体を彼の最外部の中へ注ぎ出し、そして全身が冷たくなることをひき起こし、ここから寝床からまた寝室からの分離の努力があるからです」。
[4]その時、私は質問した、「あなたがたは結婚の冷淡と呼ぶそのような冷淡がどこからですか?」
〔彼女たちは〕答えた、「霊的なものの中での彼らの狂気からです。霊的なものの中で狂っているすべての者は、妻に向けて内部で冷たく、淫婦に向けて内部で温かいです——結婚愛と淫行愛はそれ自体に対立しているので、淫行愛が温かい時、結婚愛は冷淡を生じることがいえます——男は、自分のもとで冷淡が支配するとき、何らかの愛の感覚に、このように何らかのそのそよぎに耐えません——それゆえ、妻はこれほどに賢明にまた用心深くそれを隠し、否定し、拒絶して、それを隠せば隠すほど、それだけ男は娼婦のスフェアの流れ入るものから元気づけられ、回復されます——ここから、このような男の妻には私たちにあるような胸の歓喜はありません、しかし単に快楽があり、それは男の側から狂気の快楽と呼ばれるべきものです、淫行愛の快楽であるからです。
[5]すべての貞潔な妻は、不貞な妻もまた自分の夫を愛します——しかし知恵がもっぱら彼の愛を受け入れるものであるので、それゆえ、妻はすべての努力を、彼の狂気を知恵に変えるために、すなわち、自分自身のほかに他の女をほしがらないように、ついやします。このことを、何らかのものが男から見つけられないよう最大限に用心して千もの方法で行ないます、なぜなら、愛が強制されることができないこと、しかし自由の中で徐々に入り込むことをよく知っているからです——それゆえ、妻たちに視覚・聴覚・触覚から、自分の男たちの心(アニムス)のすべての状態を知ることが与えられています。しかし、逆に、男たちに、自分の妻たちの心(アニムス)の状態を何も知ることが与えられていません。
[6]貞潔な妻は、男(夫)を厳しい顔つきで眺め、荒っぽい声で話しかけ、そしてまた、怒ることやけんかすることができます、それでもなお、やはり、心の中で彼に対する優しいまた柔らかい愛を抱くことができます。しかしそれらの怒りの状態や偽装は知恵を目的として持っています。ここから夫のもとの愛を受け入れることは、すぐに和解することができることからはっきりと明らかです。さらに、妻たちは、彼女たちの心にそして髄に植え付けられた愛を隠すために、男のもとの結婚の冷淡は突発しません、そしてまた彼の淫行の熱の炉〔の火〕を消すような、このように緑の木を乾いた丸太にしないような手段があります」。
[7]それらの7人の妻たちがこれらをまた同様の多くのものを話した後、彼女たちの夫たちが手にしたブドウの房とともにやって来た、それらのあるものは上品な味、あるものは忌まわしい味だった。妻たちは言った、「なぜ、あなたがたは悪いブドウの房、すなわち、野ブドウの房もまた携えているのですか?」
夫たちは答えた、「私たちは私たちの霊魂の中で、あなたがたの霊魂と結合していることを知覚したからです、その男と真の結婚愛について話したこと、その歓喜は知恵の歓喜であったこと、そしてまた淫行愛について、その歓喜は狂気の快楽であったこと——前者は上品な味のブドウの房です、けれども、後者は忌まわしい味の、すなわち、野ブドウの房です」。
また、彼らは自分たちの妻たちの話しを確認し、狂気の快楽は外なるものの中で知恵の歓喜と似たものに見える、しかし内なるものの中でそうではない、と言い足した。「まったく善いブドウの房と悪いブドウの房のようです、それらを私たちが携えてきました。というのは、貞潔な者にも不貞な者にも外なるものの中で似た知恵がありますが、内なるものの中で、まったく異なっています」。
[8]この後、再び小さい少年が紙を手にしてやって来て、「読みなさい」と言って、私に差し出した。私はこれらを読んだ——
「結婚愛の歓喜は最高の天界へ上り、そしてそれ自体を途中で、そこで天界のすべての愛と結合させ、このように永遠に存続するそれ自体の幸福へ入ることを知りなさい。その理由は、その愛の歓喜は知恵の歓喜でもあるからです。
そしてまた、淫行愛の快楽は最適の地獄までも降り、そしてそれ自体を途中で、そこで地獄のすべての愛の快楽と結合させ、そしてこのように、心のすべての快さに代わって苦悩であるそれ自体の不幸へ入ることを知りなさい。その理由は、その愛の快楽は狂気の快楽でもあるからです」。
この後、夫たちは妻たちとともに立ち去り、小さい少年が天界へ上る道まで同行した——彼らは、新しい天界の社会から遣わされ、その社会に地上の新しい教会が結合されるであろうことを知った。

結婚愛

294◀︎目次▶︎296

(十二)婚約と結婚式について

295 婚約と結婚式について、そしてまた、それらのまわりの習慣的なものについて、ここに特に理解力に属す理性から扱います。なぜなら、本書に書かれているものは目的として、読者が自分の理性的なものから真理を見る、このように同意するためのものを持つから、というのは、そのように彼の霊は納得させられ、霊が納得させられるそれらは、権威者とその信仰から、理性の熟慮なしに入って来るそれらの上に場所を定められるからです。なぜなら、これらは記憶の中によりもさらに深く頭には入らず、そこにそれ自体を欺きと虚偽に混ぜ、理解力に属すものである理性的なものの下にあるからです――人間はだれも、これらから理性的であるかのように、しかしあべこべに話すことができます。というのは、その時、しっぽを見て追いかけ、カニが歩くかのように考えるからです――もし、理解力からなら、異なります。理解力からの時、記憶からの理性的な視覚は適合するものを選び、それによって本質に関して真理を確信します。
[2]これが、この章で習慣として受けれ入れられた多くのものが示されていることの理由です。例えば、選択は男にあること、両親に相談すべきであること、しるし(担保品)が与えられなければならないこと、婚姻の前に結婚の契約が結ばれなくてはならないこと、それは聖職者により聖別されなければならないこと、なおまた、婚姻が祝われなければならないこと、ほかに多くのことです。それらは、人間が自分の理性的なものから、このようなものを、それらが結婚愛を促進し、完成させるその必需品のようにその結婚愛に刻み込まれていることを見る目的のために示します。
[3]この論考を項目に分け、次の順序で続けます――
(1) 選択は男にあり、女にない。
(2) 男は自分の結婚について女に求愛し、懇願するべきであり、逆ではない。
(3) 同意する前に、女は両親に、または両親に代わる者に相談し、その後、自分自身のもとで熟慮すべきである。
(4) 同意の宣言の後、〔約束の〕しるしが与えられなければならない。
(5) 同意は厳粛な婚約によって確かにされ、確定されなければならない。
(6) 婚約によって両者は結婚愛へ向けて準備される。
(7) 身体の結婚が行なわれる前に霊の結婚が生じるために、婚約によって一つの心はもう一つの心に結合される。
(8) 結婚について貞潔に考える者にそのように生じ、それらについて不貞に考える者は異なる。
(9) 婚約の期間内で身体的に結合されることは許されない。
(10) 婚約の期間の終わった後、結婚式が行なわれなければならない。
(11) 結婚式の祝賀の前に、証人の臨席のもとに結婚の契約が結ばれなければならない。
(12) 結婚は聖職者により神聖なものとされなければならない。
(13) 結婚式はお祭り気分で祝われなければならない。
(14) 結婚式の後、霊の結婚もまた身体のものに、このように完全なものになる。
(15) 結婚愛の秩序はその様式とともに、その最初の熱からその最初のたいまつへ向けて、このようなものである。
(16) 秩序とこの様式がない急がされた結婚愛は、髄を焼き尽くされ、滅ぼされる。
(17) 両者の心の状態は連続的な秩序の中で進み、結婚の状態の中へ流入する。しかしながら、霊的な者のもとと自然的な者のもとで異なる。
(18) 連続的な秩序と同時的な秩序が存在し、前者から後者があり、前者にしたがっているからである。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

295◀︎目次▶︎297

296 (1) 選択は男にあり、女にない
 このことは、男は理解力であるために、けれども、女は愛であるために生まれているからです。なおまた、一般的に、男たちのもとに性愛があります、けれども、女たちのもとに〔異〕性からのひとりへの愛があるからです。そのようにまた、愛について話すことまたそれを公けにすることは、男たちにふさわしくないものでなく、女たちにふさわしくないからです。しかしながら、それでも、女たちに求婚者たちからひとりを選択の自由があります。
 男に選択があることの最初の原因を考慮してみます、理解力へ向けて生まれているからです、理解力は適合するものと不適当なものを見通すこと、そしてそれらを見分けること、判断から適切なものを選ぶことができるからです。女たちのもとで異なります、愛に向けて生まれているからです、彼女たちにその光の洞察力はありません、ここから彼女たちに結婚への決断は、自分の愛の性向からでないなら、ないでしょう。もし男たちから男を見分ける知識が彼女たちにあるなら、それでも彼女たちの愛は外観へ向けられています。
[2]なぜ、選択が男に〔あって〕女にないか第二の原因を考慮してみます、一般的に、男たちのもとに、性愛があること、また女たちのもとに〔異〕性からのひとりへの愛があり、性愛がある者たちに、自由な慎重さ、そしてまた決断があります。女たちに異なります、彼女たちに〔異〕性からのひとりに向かう愛が植え付けられています。
 あなたが確信するために、どうぞ、出会う男に、一夫一婦の結婚と一夫多妻の結婚について質問してみてください。すると、あなたは一夫多妻を支持して答える者に会わないのはまれでしょう、これは性愛です。しかし、それらの結婚について女たちを質問してみなさい、するとほとんどすべての者は、娼婦を除いて、一夫多妻の結婚が退けられます。それらから、女に〔異〕性からのひとりへの愛が、そのように結婚愛がある、と見なせます。
[3]第三の原因に関して、愛について話すことまたそれを公けにすることは男たちにふさわしくなくはないこと、また女たちにこのことはふさわしくないことは、それ自体から明らかです。ここからもまた、男たちに宣言することがあり、宣言があるなら選択もまたある、といえます。
 女たちに求婚者たちから〔選ぶ〕選択の自由があることは、よく知られています。しかし、この選択の種類は狭くまた制限されたもの、けれども男のものは広くまた制限のないものです。

結婚愛

296◀︎目次▶︎298

297 (2) 男は自分の結婚について女に求愛し、懇願するべきであり、逆ではない
このことは選択の後の結果です。またさらに、結婚について女に求愛し、懇願することは、本質的に男の名誉であり、適切なものです、けれども、女にそうではありません。もし女が求愛し、懇願するなら、侮辱されるだけでなく、懇願の後も、卑しい者のように、または結婚の後、情欲の対象として見なされ、それらの者に、冷淡と不快でないなら、共同天幕(一緒に生活すること)は与えられません。それゆえ、このように結婚は悲劇の場面に変えられます。さらにまた、妻たちは、男たちの懇願の無理強いのために自分自身を食べ物のように明け渡したという称賛を自分自身へ向けます。
女が男を求愛するなら、まれに受け入れられるか、あるいは、恥ずべきものとして拒絶されるか、あるいは好色へ誘惑され、そしてまた自分の貞節が売られることを、だれが先見しませんか?
さらに、前に〔経験から〕証明されたように〔161番の[2]〕、男に何らかの生来の性愛はなく、その愛なしに、いのちの内的な楽しさはありません。それゆえ、その愛によって自分のいのちを高めるために、男は、礼儀正しく、熱心にまた謙遜して、女から自分のいのちにその心地よさを付加するために求愛し、懇願して女に愛想よくします。女性は、男性以上に、その顔・身体・振る舞いの魅力もまた、誓われた権利かのように自分自身に加えています。

結婚愛

297◀︎目次▶︎299

298 (3) 同意する前に、女は両親に、または両親に代わる者に相談し、その後、自分自身のもとで熟慮すべきである
 両親に相談すべきであることは、両親は、判断・知識・愛から、熟慮し、相談するからです――判断から〔両親は〕進んだ年齢の中にいて、この年齢は適合(一致)と不適当(不似合い)を見通すことを授けられているからです――知識から〔両親は〕求婚者についても〔自分の〕娘についても、求婚者について知識を得るであろうし、娘についても知っています。それゆえ、複合的見地から両方の者について総合的に結論します――愛から〔両親は〕、娘の善(益)を慮り、その家に備えることは、彼女の善でもあり、自分自身の善でもあるからです。

結婚愛

298◀︎目次▶︎300

299 もし娘が、両親にまたは両親に代わる者に相談しないで、自分自身から求婚者(の依頼人)に同意するなら、まったく異なったでしょう。というのは、判断・知識・愛からでなく、将来の福祉のものであるその事柄を、〔天秤ばかりの〕皿にかけることができるからです。判断からでないのは、彼女の判断は結婚生活についてまだ無知の中にあり、互いに理性で比較し、そして男たちの振る舞いを彼らの性質から見通す状態の中にないからです――知識または認識力からでないのは、両親のもとの家事を、また仲間のある者のもとの家事を超えるものを、わずなものしか知らないからです。また、自分の求婚者の家族のものまた自己のものであるようなものを探り出すために不適当であるからです――愛からでもないのは、娘たちの愛は、彼女たちの適齢期の最初の年齢の中で、そしてまた第二のものの中で、感覚から欲したものに従い、まだ心で精錬されたものから望むものではないからです。
[2]それにもかかわらず、娘を、その事柄を自分自身のもとで同意する前に熟慮することをさせるべきです、その理由は、不本意の娘が愛せない男との結びつきに導かれないためです。というのは、このように彼女の側からの同意が加わっておらず、それにもかかわらずこれが結婚愛をつくり、そして彼女の霊をその愛の中に導くからです。そして不本意なまたは外側に向かう同意は霊を導かないで、身体を導くことができます。このように、霊の中に住んでいる貞潔を、情欲に変え、そこから結婚愛はその最初の熱の中で腐敗させられます。

結婚愛

299◀︎目次▶︎301

300 (4) 同意の宣言の後、〔約束の〕しるしが与えられなければならない
 しるしによって贈り物が意味され、それらは承諾の後の証拠・証明・最初の好意・喜びです。
 それらの贈り物が証拠であるのは、承諾のしるしであるからです。それゆえ、両方の側に何らかのものに向けて承諾される時、「私にしるしを与えよ」と言われます。結婚を誓約し、また捧げ物(贈り物)によって誓約を確かにしたふたりについてそれは担保で結ばれ、そのように確認されます。
[2]証明であるのは、それらのしるしが相互愛の永続する目に見える証人(証拠)、ここからさらにまたその記念のようであるからです、特にもし指輪・香水入れ(におい玉)・飾り帯(綬)であるなら、それらは視野に向けて、掛けて飾られます。それらの中に婚約者たちのアニムス(外なる心)を表象する何らかの像があります。
 そのしるしが最初の好意であるのは、結婚愛がそれ自体に、永久不変の好意を誓約するからであり、その初穂がそれらの贈り物です。
 愛の喜びであることはよく知られています。というのは、心がそれらを見て喜ばされるからです。愛が内在するからであり、それらの好意はどんな贈り物よりも愛すべきものと貴重なものです。心と心がそれらの中にあるようです。
[3]それらのしるしは結婚愛を支えるものであるので、それゆえ、承諾の後に送ることもまた古代人のもとに受け入れられた習慣でした、また受納の後、婚約者たちであることが宣言されました。
 しかし、それらの捧げ物(贈り物)が婚約の行為の前に、あるいはその後に贈られることは自由裁量による選択の中にあることを知らなければなりません。もし前なら、婚約へ向けて承諾の証拠と証明です。もしその後なら、さらにまた結婚式へ向けてです。

結婚愛

300◀︎目次▶︎302

301 (5) 同意は厳粛な婚約によって確かにされ、確定されなければならない
 婚約の理由はこれらです――

(ⅰ) その〔婚約〕後、二つの霊魂がお互いに傾くためである。
(ⅱ) 〔異〕性への全般的な愛がひとりへ、すなわち〔異〕性からのひとりへ向けられるためである。
(ⅲ) 内的な情愛が相互に知られ、また〔その〕適用によって愛の内的な快活さの中で結合されるためである。
(ⅳ) 両方の霊が結婚へ入り、そしてますます〔結婚で〕仲間となるためである。
(ⅴ) このように結婚愛がその最初の熱から結婚の炎まで正しく進められるためである。
(ⅵ) したがって、結婚愛が霊的なその起源から正しい順序で発出し、成長するためである。

 婚約の状態は夏の前の春の状態に、またその内的な楽しさは結実する前の樹木の開花にたとえられることができます。
 結婚愛の開始と進行は、婚礼から始まる有効な愛の中へ、その流入のために順序正しく進むので、それゆえ、天界にもまた婚約があります。

結婚愛

301◀︎目次▶︎303

302 (6) 婚約によって両者は結婚愛へ向けて準備される
ある者の心または霊が婚約によってもうひとりの心または霊との結合に向けて準備されることは、または同じことですが、ある者の愛がもうひとりの愛とそのようにされることは、前節で示された論証から明らかです。
それらのほかに、このことが話しに出されなくてはなりません――結婚愛に上昇するまた下降する秩序が刻み込まれていることです。その最初の熱から霊魂に向けて前進的に、そこでの結合へ努力して上昇します、このことは、絶えずさらに内的な心を開くことによっています。また、結婚愛以外に、その開くことをさらに懸命に努める、すなわち、内的な心をさらに強くまた適切に開く愛は存在しません、というのは、両方の霊魂はそれを意図しているからです。しかし、それらと同じ程度に、その愛は霊魂へ向けて上昇し、さらにまた身体へ向けて下降し、その身体を着ます。
[2]しかし、降下の中で結婚愛は、高さの中にあるものへ上昇するようなものであることを知らなければなりません。もし高さの中にあるなら、それは貞淑へ下降します、しかし、もし高さの中にないなら、それは不貞へ下降します。その理由は、心の低いものは不貞です、しかし、その高いものは貞淑であるからです。というのは、心の低いものは身体に付着しています、しかし高いものはそれらから分離するからです。けれども、これらについてさらに後で見られます(305番)。
これらのわずかなものから、両者の心は婚約によって、たとえ情愛にしたがって異なっていても、結婚愛へ向けて準備されることを明らかにすることができます。

結婚愛

302◀︎目次▶︎304

303 (7) 身体の結婚が行なわれる前に霊の結婚が生じるために、婚約によって一つの心はもう一つの心に結合される
このことは、前述のこと(301, 302番)からの帰結であり、さらに進んで示される理性からの確証なしで通り過ぎることにします。

結婚愛

303◀︎目次▶︎305

304 (8) 結婚について貞潔に考える者にそのように生じ、それらについて不貞に考える者は異なる
宗教から結婚について考える貞潔な者のもとで、霊の結婚が先行し、身体の結婚が続きます。愛が霊魂に向けて高さへ上昇している者のもとで、その高さから下降します(それらについて前の302番)。これらの霊魂は、制限のない性愛からそれ自体を分離し、それ自体をひとりの者に捧げ、その者と永久不変のそして永遠の結合を、またその増大する至福を、彼らの心の絶えず活気づける希望の薪として眺めます。
[2]しかし、不貞な者は、結婚について、宗教から、またこれらの神聖さから考えません、その者にまったく異なっています。これらの者に身体の結婚があり、霊の結婚は何もありません。もし婚約の状態が継続して、何らかの霊の結婚のものが見られ、それでもこれが、それについて思考の高揚によって上昇しても、それでも、肉からその意志の中にある情欲の中へ引き下がり、このように不貞なものからそこに真っ逆さまに身体の中へ降ってしまい、そしてその愛の最外部のものを、誘惑する熱望で汚します。そのことから、最初は燃えたように、急に燃え尽くし、冬の冷たさに変わります。ここから〔愛の〕欠如が加速されます。
これらの者のもとの婚約の状態は、その情欲を好色で満たすため以外に、ほとんど何の助けとなりません、愛の結婚のものはそれらからよごされます。

結婚愛

304◀︎目次▶︎306

305 (9) 婚約の期間内で身体的に結合されることは許されない
 というのは、そのように結婚愛に刻み込まれている秩序が滅びるからです。
 人間の心の中に三つの領域があるからであり、それらの最も高いものは天的なもの、中間のものは霊的なもの、最も低いものは自然的なものと呼ばれ、この最も低いものの中に人間は生まれています、しかし、霊的なものと呼ばれるそのさらに高いものの中へ宗教の真理にしたがった生活を通して、また最も高いものの中へ愛と知恵の結婚によって上ります。
 自然的なものと呼ばれる最も低い領域の中に悪くて好色なすべての情欲が住んでいます。けれども、霊的なものと呼ばれるさらに高い領域の中に悪くて好色な情欲の何らかものはありません、というのは、この中へ人間は再生するとき主により導き入れられるからです。けれども、天的なものと呼ばれる最も高い領域の中に結婚の貞潔がその愛の中にあります。この中へ人間は役立ちへの愛を通して、また最もすぐれた役立ちは結婚からあるので真の結婚愛によって、高揚されます――
[2]これらから、結婚愛がその新しい熱から、貞潔なものになるために、そしてそのように貞潔なものから中間の領域と低い領域を通って身体の中へ降ろされるために、低い領域から最も高い領域の中へ高揚されなければならないことを要約して見ることができます。そのことが行なわれるとき、下降している貞潔なものにより、この最も低い領域は、その不貞なものから清められます。ここからその愛の最外部のものもまた貞潔になります――さて、もしこの連続的な愛の秩序が、その時の前の身体の結合によって早められるなら、人間は出生から不貞である最も低い領域から行動することがいえます。ここから、結婚に対する冷淡が、そして配偶者に対する嫌悪とともに無視が始まり、起こることがよく知られています。
 しかしそれでも、早すぎる結合から、そのうえさらにまた、婚約の期間を過度の長引かせること、そしてまた過度の急ぐことから、違う結果のいろいろなものが存在します。しかし、それらは数が多いことと多様性のために見えるようにされることがほとんどできません。

結婚愛

305◀︎目次▶︎307

306 (10) 婚約の期間の終わった後、結婚式が行なわれなければならない
単に形式的なものである儀式が存在し、同時に本質的なものである儀式が存在します。後者の間に結婚式があります。本質的なものの間にあるものは、礼儀正しく明らかにされ、正式に祝われなければならないことは、これらの理由によって証明されます――

(ⅰ) 結婚式は、婚約によって開始されたもっぱら霊の状態であった以前の状態の終わりをつくり、そして結婚によって開始されるべき後の状態の始まりをつくり、それは同時に霊と身体の状態である。というのは、その時、霊は身体の中へ入り、そこで働くから。それゆえ、その日に、花婿と花嫁の名前を状態を脱ぎ棄て、そして配偶者たちが床の交わり(夫婦の契り=夫婦としてともに寝ること)の状態と名前を着る。
(ⅱ) 結婚式は、新しい状態の中への導入と入場であり、それは処女が妻となり、若者が夫となり、そして両方の者が一つの肉となるためである。それは、愛が最外部のものによって彼らを結合させる時、行なわれる――結婚が実際に処女を妻に、そして若者を夫に変えることは、なおまた、結婚はふたりを一つの人間の形に、もはやふたりではなく、一つの肉であるように結合することは前に示された。
(ⅲ) 結婚式は結婚愛からの性愛の完全な分離のための入り口であり、それは、結合の十分な機会によって生じ、その時、一方の愛がもう一方の愛へ向けて制限された属性(割り当て)が生じる。
(ⅳ) 結婚式が単に二つのそれらの状態の間の中休みをつくるように、このように単なる形式的なものであり、それらは省略されることができることのように見られる。しかしそれでも、それらの中にもまた次の本質的なものがある――前述のその新しい状態は、その時、契約から入らなければならないこと、そして同意(承諾)を証人の居合わせる中で宣言し、そしてまた、聖職者により神聖なものとされ、ほかに他のものによってそれを確定させなければならないこと。

結婚式に本質的なものが内在するので、またそれ以前ではなく、その後に正当な結婚が生じるので、それゆえ、結婚式は天界でも祝われます(前の21番、またそれらの後の27–41番参照)。

結婚愛

306◀︎目次▶︎308

307 (11) 結婚式の祝賀の前に、証人の臨席のもとに結婚の契約が結ばれなければならない
 結婚の契約が結婚式の祝われる前に結ばれるために、真の結婚愛の規定と法律が知られ、それらが結婚式の後に思い出されるために、なおまた、心を固く結ぶことに向けて正しい結婚のきずながあるべきです。なぜなら、結婚のある初期の段階の後、時々、婚約に先行する状態が戻り、その中で記憶が滅び、結んだ契約の忘却が生じるからです。それどころか、誘うものから、不貞なものにより不貞なものへとその抹殺が生じ、もしその時、記憶の中に呼び戻されるなら、その侮辱が生じます――しかし、これらの違反を防ぐために社会自体がその契約の保護を受け入れ、それを犯す者に刑罰を科します。
 一言でいえば、結婚前の契約は、真の結婚愛の規定を明らかにし、それらを確かなものにし、そして放蕩者をそれらの従順な行為に向けて抑制します――追加の事実は、この契約によって、子どもを産む権利が、子どもに両親の財産を相続する権利が、正当なものとされます。

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307◀︎目次▶︎309

308 (12) 結婚は聖職者により神聖なものとされなければならない
 その理由は、本質的に見られた結婚は霊的なものであり、ここから神聖なものであるからです。というのは、天界の善と真理の結婚から下り、そして結婚は主と教会の神的結合に対応し、ここから、それらは主ご自身からであり、結ぶ者のもとの教会の状態にしたがっているからです。
 さて、地上の聖職者階級の者は、主のもとの祭司職に属すものに、すなわち、その方の愛に属すものに、そのようにまたそれらは祝福を与えるものに仕えるので、結婚はその方に仕える者(聖職者)たちにより神聖にされるべきです。その時、主要な証人たちであるので、彼らにより契約の同意(承諾)もまた聞かれ、受け入れられ、強められ、このように確立されます。

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308◀︎目次▶︎310

309 (13) 結婚式はお祭り気分で祝われなければならない
 その理由は、花婿と花嫁にあった結婚前の愛は、その時、彼らの心の中に下り、まわりに発散することによって、ここからどの方面でも身体の中に、結婚の歓喜が感じられ、それらから彼らの心はお祭りを思い、そしてまた、許され、ふさわしいかぎり、お祭り気分の中に自分自身を解放するからです。それらに好感が持たれるために、彼らの心のお祭り気分が共有されるために、このように彼ら自身が結婚愛の楽しさの中に導き入れられることが重要です。

結婚愛

309◀︎目次▶︎311

310 (14) 結婚式の後、霊の結婚もまた身体のものに、このように完全なものになる
 人間により身体の中で行なわれるすべてのものは、彼の霊から流入します。というのは、口はそれ自体から話さず、心(mens)の思考が口によって話し、なおまた、手また足はそれ自体から行なわず、歩かず、心の意志がそれらによって行ない、歩くことがよく知られているからです。ここから、心があるように、そのように口の話しがあり、そのように身体の行為があることが明らかです――これらから、心は絶え間のない流入によって、それ自体に一致し、同時に起こる活動へ向けて身体をつくっていることが結論としていえます。それゆえ、内的に見られた人間の身体は、霊魂の意向を遂行するために有機的にまとめられた心の外的な形でしかありません。
 これらが言われたのは、心または霊は、最初にさらにまた先んじて身体に関して、互いに結婚のように結合しなければならない、すなわち、結婚が、身体のものとなる時、霊のものであることがどこからであるか、知覚されるためです。したがって、霊から互いに愛する夫婦は、ここから身体でも互いに愛します。
[2]さて、これらから、私たちは結婚に注目してみます――結婚愛がふたりの心を結合させ、そしてそれらを結婚として形作る時、それに向けて彼らの身体もまた結合され、形作られます。なぜなら、〔これまでに〕言われたように、身体の内的な形が心により確定されるものへ向けられてこの外的に有機的にまとめられたものがそれを遂行するためのものである、という単なる相違とともに、心の形は内的に身体の形でもあるからです。
 けれども、結婚愛から形作られた心は、単に全身の中に、そのまわりのどこでも内的に存在するのではなく、特に、生殖に割り当てられた器官の中に内的に存在します、それらは身体の他の領域の下のその領域の中に置かれていて、これらの中に、結婚愛で結合されている者もとの心の形が終結しています。したがって、彼らの心の情愛と思考はそこ〔生殖器官〕に確定されます。この中で心の活動は他の愛と異なっています。これらはそれに行き渡りません。
 これらから、ふたりの心または霊の中に結婚愛があるように、その器官の中の内的なものがそのようである、という結論が生じます。
 けれども、婚礼の後、霊の結婚もまた身体のものに、このように完全なものになることは、それ自体から明らかです。したがって、霊での結婚が貞潔であり、そしてその神聖なものを得ているなら、身体の中でその完全なものにあるときも同様です――そして霊での結婚が不貞なものであるなら逆です。

結婚愛

310◀︎目次▶︎312

311 (15) 結婚愛の秩序はその様式とともに、その最初の熱からその最初のたいまつへ向けて、このようなものである
 その最初の熱からその最初のたいまつへ向けて、と言われます、生命力の熱は愛であり、そして結婚の熱または愛は、継続的に増大し、最後に、炎、すなわち、たいまつへと増大するからです――その最初のたいまつへ向けて、と言われるのは、その愛が燃え上がる時の婚礼後の最初の状態が意味されるからです。しかし、このたいまつの後、結婚そのものの中で、どのようなものになるか、これまでの章で述べられています。けれども、この論考の部分で、 (競技場の)最初の出発門から、この最初のゴールに向けて、その秩序を説明します。
[2]すべての秩序は最初のものから最後のものへ進むこと、最後のものは何らかの続く秩序で最初のものになること、なおまた、秩序の中間のすべてのものは前のものの最後のものであること、そして後のものの最初のもの、このように目的は原因を通して結果へ絶えず進むことは、世で知られ、見られたものから、理性の前に十分に確信され、そして明らかにされることができます。しかし、ここに、秩序について、その中で、愛がその出発点からそのゴールに向けて進むことがもっぱら扱われ、それらについては省きます、ここでは単に、この愛の秩序がどんなものであるか、その最初の熱からその最初のたいまつへ向けて、その後の前進の中で、大部分のものがあり、内在するようなものがあることだけを言います。というのは、この〔たいまつの〕中で本質的に最初の熱であったようなものを広げるからです。その者が貞淑なら、彼の貞淑さは前進の中で強くされます。けれども、もし不貞なら、進行しているうちに婚約の時から外的なものからであった、また内的なものからでなかったその不貞さがすべての貞潔を奪うまでも大きくなります。

結婚愛

311◀︎目次▶︎313

312 (16) 秩序とこの様式がない急がされた結婚愛は、髄を焼き尽くされ、滅ぼされる
天界のある者によりこのように言われています。髄によって心と身体の内的なものが意味されます。この髄が急がされた結婚愛により焼き尽くされる、すなわち、滅ぼされるのは、その愛が、その時、その聖なる場所を食い尽し、そして汚す炎から始まるからです、その源のようにその中に結婚愛が住んでいて、それらから始まります。もし男と女が、主に目を向けることなく、理性に諮ることなく、婚約を退けて、肉だけに服従して、秩序なしに結婚を早めるなら、このことが生じます。その熱からその愛が始まるなら、それは外なるものになり、内なるものにならず、そのように結婚のものになりません。この愛は、その本物の本質が空っぽにされているので、穀粒のない殻のものと呼ばれることができます、すなわち肉のものであり、やせた、ひからびたものです(これらの多くのものについて前の305番参照)。

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312◀︎目次▶︎314

313 (17) 両者の心の状態は連続的な秩序の中で進み、結婚の状態の中へ流入する。しかしながら、霊的な者と自然的な者のもとで異なる
 最後の状態が連続的な秩序であるようなものであることは、その連続的な秩序からそれら〔最後の状態〕が形成され、存在するようになることは、それが真理ゆえに、学問の世界で承認されなければならない規範です。というのは、このように、何が流入であるか、また何が働いているか明らかにされるからです。
 流入によって、先行し、続くものを、続くものによって秩序で最後のものを作り上げるそのすべてのものが意味されます。例えば、人間のもとで先行し、彼の知恵を作り上げるすべてのもの、または政治家のもとで先行し、彼の思慮分別を作り上げるすべてのもの、または神学者のもとで先行し、彼の学問を作り上げるすべてのもの、同様に幼児のもとで先行し、成人を作り上げるすべてのものです。なおまた、秩序の中で種と灌木から進み、木をつくり、そしてその後、それは花から進み、その果実をつくります――まったく同様に、花婿と花嫁のもとで先行し、発出し、彼らの結婚をつくるすべてのものです――流入はそのようなものを意味します。
[2]心の中で一続きのものを形作ること、また一続きのものは集まり、あるものの次にもう一つのものを、またあるものの後にもう一つのものを、またこれらは一緒に最後のものを作り上げること、それらすべてのものが、依然として世で知られていません。しかし、天界からの真理であるので、ここに示します。というのは、それらによって、流入が何を働いているか、また最後のものがどんなものであるか、その中で今しがた言われた連続的に形成された一続きのものが共存することが明らかにされるからです。
 これらから、ふたりの心の状態は、連続的な秩序の中で進んで、結婚の状態の中へ流入することを見ることができます――しかし、夫婦は、結婚後、彼らのアニムスに先立つものからしみ込んで内在する連続的なものについてまったくの無知の中にいます。しかしそれでも、それらは結婚愛に形を与え、そしてその状態からお互いの間で活動する彼らの心の状態をつくります。
[3]霊的な者のもとで、自然的な者のもとで以外の他の秩序から他の状態が形作られるのは、霊的な者は正しい秩序で、そして、自然的な者は不正な秩序で進むからです。というのは、霊的な者は主に目を向け、そして主は備え、秩序を導くからです。しかし、自然的な者は自分自身に目を向け、ここから逆の秩序で進みます。それゆえ、これらの結婚の状態は内的に不貞なもので満ちています。また不貞と同数のこれほど多くの冷淡、この冷淡と同数のこれほど多くの最内部のいのちを妨害するものがあり、それらから流出口がふさがれ、泉は涸れます。

結婚愛

313◀︎目次▶︎315

314 (18) 連続的な秩序と同時的な秩序が存在し、前者から後者があり、前者にしたがっているからである
このことを、前の箇所を確かなものとする原因として示しておきます。
連続的なものがあり、同時的なものがあることがよく知られています。しかし、同時的な秩序が連続的な秩序からであり、これにしたがっていることは知られていません。けれども、どのように連続的なものがそれ自体を同時的なものにもたらすか、どのような秩序をそこに形作るか、知覚へ向けて示すことはきわめてむずかしいです、そのことを明らかにするために学者のもとにある何らかの観念がまだ役立ってないからです――また、この秘義についての最初の観念は、わずなかものによってもたらされることができません、そしてここに詳細にその観念をもたらすことは、結婚愛についてさらに開けた視覚から心を遠ざけるからです。説明のためには、連続的なものと同時的なもの二つの秩序について、それらの流入について、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に十分に役立つことのできるものがあります、そこから引用して要約したものはこれらです――

[2]「天界と世に連続的な秩序と同時的な秩序が存在する。
連続的な秩序の中で、最も高いものから最も低いものまで、一つのものの後ろにもう一つのものが続く。けれども、同時的な秩序の中で、最内部から最外部まで、一つのものがもう一つのもののすぐ近くにある。
連続的な秩序は最も高いものから最も低いものまで段をもった柱のようである。しかし、同時的な秩序は中心から表面へと密接に結合した作品のようである。
この様式で、連続的な秩序は最後のものの中で同時的な秩序になる――連続的な秩序で最も高いものは、同時的な秩序で最内部のものになる。そして連続的な秩序で最も低いものは、同時的な秩序で最外部のものになる。段のある柱が沈んでできるような、平面の中で密接に結合している物体にたとえられる。
このように同時的なものは連続的なものから形作られる。このことは霊界のすべてと個々のものの中で、そして自然界のすべての個々のものの中で〔そのようである〕」
(そこの38, 65番参照。またこれらの非常に多くのものについて『神の愛と知恵』205–229番参照)。

[3]結婚に向けての連続的な秩序と結婚での同時的な秩序も同様です。すなわち、前者から後者があり、前者にしたがっていることです。
同時的な秩序の中の連続的な秩序を知る者は、天使たちが人間の手の中に彼の心の思考と意図のすべてを見ることができること、そしてまた、妻たちが自分の胸の上の夫たちの手から彼らの情愛を感じることの理由を把握することができます――その事柄への言及を、数回、メモラビリアの中で行ないました。その論拠は、手が人間の最外部のものであり、その中に彼の心が考えたものと結論に達したものが確定されていて、そしてそこに同時的なものをつくっているからです――それゆえ、みことばの中でも、「手に刻まれている」と言われています。

結婚愛

314◀︎目次▶︎316

31 討議:何が霊魂か、それがどんなものか

315 (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
かつて私は私から遠くないところに大気現象を見た——小さい雲に分かれた雲を見た、それらのあるものは空色あるものは暗い色だった。互いに衝突しているかのように見た。細い帯の光線がそれらを輝き貫き、それはある時は切っ先のように鋭く、ある時は折れた剣のように鈍く見えた。それらの光線は、ある時は向かい合って伸び、ある時は引っ込み、完全に拳闘家たちのようであった。そのようにそれらのいろいろな色の小さな雲は、互いに闘っていたかのように見えた、しかし遊んでいた。
この大気現象は私から遠くないところに見られたので、私は目を上げ、そして目を鋭く注ぎ、少年・若者・老人を、家の中に入っている者たちを見た、その家は大理石から、土台は班岩から造られていた。この家の上方にその現象があった。
その時、入っていく者たちからのある者に話しかけて、私は質問した、「ここに何があるのですか?」
答えた、「学校である、そこで若者たちが知恵に属するいろいろなものの中で手ほどきされる」。
[2]私はこれを聞いて、彼らと入った。私は霊の中に、すなわち、霊と天使たちと呼ばれる霊界の人間がいるのと似た状態の中にいた。見よ、その学校の中に前部に特別席が、真ん中に長椅子、まわりの脇に座席、入り口の上方に天井さじき(貴賓席)が見られた——特別席は、示されようとしているその討議の議題に答える若者のためにあった、長椅子は聴衆のために、脇の座席は以前に賢明に答えた者のために、天井さじき(貴賓席)は判断し、判定する者である長老のためにあった。天井さじきの中央に演壇があり、そこに校長と呼ばれる賢明な男が座り、その者は討議の議題を示し、それへ特別席の若者が答える。
その後、〔彼らが〕集められ、演壇から男が立ち上がり、言った、「今、私は〝何が霊魂か、それがどんなものか?〟この討議の議題に向けて尋ねる、もしあなたがたができるなら、それを解き、答えよ」。
[3]これらを聞いて、すべての者は驚き、つぶやいた。長椅子の上の集団から、ある者は叫んだ、「人間のだれが、黄金時代(サートゥルヌスの時代)からこの私たちの時代まで、何が霊魂か、ましてそれがどんなものか、理性のどんなものも思考で見ることまた把握することができたか? これはすべての者の理解力の領域の上にあるのではないのか?」
しかしこれらに天井さじきから言い返された、「これは理解力の上方にない、しかしその中に、その前にある。ただ答えよ」。
その日に選ばれて、特別席に上がり、討論の議題に答えようとする若者たちが、立ち上がった。五人いた、その者は長老たちにより探し出され、そして賢明さを授けられている者であると見つけられ、その時、座席の脇に、列の上に座っている者であった。これらの者はその後、順にのぼって、その上に座った。だれもが上るとき、オパールのような色の絹でできたシャツを、その上に柔らかな羊毛のトーガを着せられた、それに花〔模様〕が織り込まれていた、ほかに帽子〔を被せられ〕、そのてっぺんに小さいサファイアで取り囲まれたロザリオ〔のような飾り〕があった。
[4]私は、そのように着せられ、上る最初の者を見た、その者は言った——「霊魂とその性質が何か、創造の日からだれにも啓示されていない。神の宝庫の中だけにある秘義である——しかし霊魂は人間の中で女王のように住んでいることが明らかにされている、けれども、その宮殿がどこにあるか、学者たちは根拠を推測した。ある者は、松果体と呼ばれる大脳と小脳の間の小さな結節の中にあることを、この中に霊魂の座を想定した。その理由は、人間全体がこれらの二つの脳から統制されていて、その結節がそれらを制御するからである。それゆえ、脳が意のままに制御する、これは人間全体もまた頭からかかとまで制御する」——また、言った、「ここから、このことは真理またはもっともらしいもののように世の多くの者に見られた、しかし時代の後、このことは作り事として捨てられた」。
[5]これを言い終わった後、トーガ・シャツ・帽子を脱ぎ、それらを選ばれた者たちからの第二の者が受け入れ、そして座席に入った。
霊魂についてのこの者の発言は、天界全体に、また世界全体に、霊魂とその性質が何か知られていないことであった。
「これがあること、人間の中にあることが知られている、しかしどこに〔あるの〕か推測されている。これが頭の中にあることは確実である、そこでは理解力(知力)が考え、意志が意図する、また頭の正面方向の顔の中に、人間の五感があるからである。これらやそれらに、別の者は、頭の中の内部に住んでいる霊魂以外に、いのちを与えない。しかし、その集会所がそこのどこにあるか、あえて発言しないが、私は、脳の三つの脳室の中に、ある時にはそこの線条体の中に、ある時には両方の脳の髄質の中に、ある時には皮質の中に、ある時には硬膜の中に座を割り当てた者に同意した、というのは、それぞれの座に対しての確信からの白色の小石(=賛成票)を欠いていなかったからである。
[6]脳の三つの脳室に対する小石(賛成票)は、それらが霊魂精気と脳のすべてのリンパ液の容器であることからであった——線条体に対する小石(賛成票)は、これらが髄質をつくること、それによって神経が出る、それによって両方の脳が脊柱の中に続けられ、これらから繊維が突出する、それらから身体全体が構成されるからであった——両方の脳の髄質に対する小石(賛成票)は、それがすべての繊維の集めることと積み重ねであること、それらは人間全体の最初の段階であるからであった——皮質に対する小石(賛成票)は、そこに最初のものと最後のものの目的があること、ここからすべての繊維の始まり、このように感覚と運動があるからであった——硬膜に対する小石(賛成票)は、それらは両方の脳の共通のおおいであること、ここからある連続するものによってそれ自体を、心臓の上に、また身体の内臓の上に伸ばしているからであった。
私に関しては、私は、あるものが他のものよりもよいと判断しない——どうぞ、あなたがたが、何が好ましいものか判断し、選びなさい」。
[7]これらを言って、座席から降り、第三の者に、シャツ・トーガ・帽子を渡した。その者は座席に上がって、これらを話した——
「若者の私に、このように高尚な論証とともに何が〔あるのか〕?私はここに脇へ座っている学者へ訴える、私は天井さじきの中のあなたがたに、賢明な者に訴える、それどころか、私は最高の天界の天使に訴える、だれが自分の理性的な光から霊魂について何らかの観念を自分自身に得ることができるのか——しかし、人間の中のその座について私は他の者のように表明することができる。私は、心臓とここから血の中にあることを表明する。私のこの表明は、心臓がその血によって身体と頭とを統制するからである。というのは、大動脈と呼ばれる大きな血管を全身に送り出す、そして頸動脈と呼ばれる血管を頭全体の中に送り出すから。ここから、霊魂は心臓から血によって、(身体の)器官の全組織を、身体も頭も維持し、滋養物を与え、生かしていることが普遍的に同意されている——この信念の主張に向けて、聖書に「霊魂と心臓(心)」がこれほど何度も言われているという事実がある、例えば、あなたは神を「全部の霊魂から、また全部の心(心臓)から」愛さなければならないこと。神は人間の中に「新しい霊魂と新しい心(心臓)」を創造することである(申命記6:5, 10:12, 11:13, 26:16、エレミヤ32:41、マタイ22:37、マルコ12:30, 33、ルカ10:27また他の箇所に)。そして、あからさまに、血は肉の霊魂であること〔が述べられている〕(レビ記17:11, 14)」。
これらを聞いて、ある者は、「学者らしい、学者らしい」と言って、声を上げた。聖職者からであった。
[8]この後、この衣服を着た第四の者が、特別席に入って、言った——
「私もまた、何が霊魂か、その性質が何か、吟味することができるような、それほどに透徹したまた鋭利な才気がだれにもないのかと疑念を抱く。それゆえ、私は思う、それ〔霊魂とその性質〕を調べることを欲する者のもとに、不必要に精妙なもの(微妙な議論)が浪費されている。しかしそれでも、子供時代から私は古代人の抱いた見解に対する信念にとどまった、人間の霊魂はその全体の中に、またこの全部の部分の中に、このように頭の中にも、その個々のものの中に、身体の中に、その個々のものの中にあることである。それに対してどこかに、またどこかにでもなく、座を定めることは現代の著述家により考え出された空虚なことである。霊魂は霊的な実体でもあり、それについて拡大も場所も属性づけられない、しかし住むことと充満〔が属性づけられる〕。さらにまた、霊魂のことを言う時、〔その〕いのちは全部の中に、またどんなものでも部分の中にあるいのちを、だれが理解しないか?」
これらを聞いて、講堂の中の多くの者が賛同した。
[9]この後、第五の者が立ち上がった、そして同じ装飾で飾って、特別席からこのことを言い表わした——
「霊魂がどこにあるか、何らかの部分の中にか、あるいは全部の中のどこにでもか、これを言うことを私は気にしない。しかし私の蓄えと倉庫から、私は、何が霊魂か、それがどんなものかについて心を開く。
霊魂はある者により、何か純粋なもののようにしか考えられていない、それはエーテルまたは空気または風になぞらえられる、その中に推理力からの生命力がある、それは獣よりも人間にある。
私は、この見解を、人間は最期の息を吐く時、霊魂または霊を出すことまたは息を出すことが言われることの上に建てた。ここからもまた、死後に生きている霊魂はこのような息(発散気)であることが信じられ、その中に思考力のあるいのちがあり、それは霊魂と呼ばれる。他の何が霊魂であることができるのか?
しかし私は、霊魂についての討議の議題、霊魂は何か、その性質が何であるか、理解力の上方になく、その中に、その前にあることを、天井さじきから言っているのを聞いたので、私は、この永遠の秘義をあなたがた自身が明らかにするよう求め、願う」。
[10]天井さじきの中の長老が討議の議題を示した校長を覗き込んだ、校長は〔その〕身振りから、下り、教えるよう欲していることを理解した。直ちに、彼は講壇から下り、講堂を通り抜け、特別席に入り、そこで手を伸ばして、言った。「どうぞ、聞きなさい。霊魂が人間の最内部の最も鋭敏な本質(エッセンス)とエッセ(存在)であることを、だれが信じないか? しかし、何らかの形なしの本質とは、創造の所産以外の何か?
それゆえ、霊魂は形である、しかし、形がどんなものであるか言われなければならない——愛のすべてのものと知恵のすべてのものの形である。愛のすべてのものは情愛と呼ばれ、知恵のすべてのものは知覚と呼ばれる——それらからまたそれらとともにこれらは一つの形をつくる、その中に無数のものが一つの存在物(個体)と呼ばれることができるような秩序・連鎖・密着性の中にある。一つの存在物(個体)と呼ばれることができる、そのようなものであるために、ここから何らかのものを取り去ること、それへ何らかのものを加えることもできないからである——このような形でないなら、何が人間の霊魂か? 愛のすべてのものと知恵のすべてのものがその形の本質的なものではないのか、これらが人間のもとに、霊魂の中に、霊魂から、頭と身体の中にある。
[11]あなたがたは霊や天使と呼ばれている。あなたがたは世で、霊や天使は風またはエーテル、このように心とアニムスのようであることを信じた。今や、はっきりとあなたがたは、真に、実際に、事実上、人間であることを見る、その人間は、あなたがたが物質的な身体の中で生き、考えた世で、あなたがたが、物質的な身体が生きない、考えないと知った、しかしその身体の中の霊的な実体が〔生き、考えたと知った〕、これをあなたがたは霊魂と呼び、その形を知らなかった、それでも今、あなたがたは見てきた、また見ている。あなたがたは、すべての者は霊魂であり、それらの不死性についてこのように多くのものを聞き、考え、言い、書いた。あなたがたは神からの愛と知恵の形であるので、永遠に死ぬことができない。
そこで、霊魂は人間の形であり、それについて少しも取り去ることができない、それに加えることもできない、そして最内部の形、身体全体のすべての形である。外にある形は、最内部のものから本質と形とを受けるので、それゆえ、あなたがたは、あなたがたと私たちの前に見られているように、霊魂である。一言でいえば、霊魂は、最内部の人間であるので人間そのものであり、それゆえ、その形は十分に、完全に人間の形である。けれども、いのちではなく、神からのいのちの最も近い容器、このように神の住まいである」。
[12]これらを聞いて、多くの者は拍手喝采したが、ある者たちは、「熟考してみよう」と言った。
私は、その時、家へ去った。見よ、その学校の上方に、以前の大気現象の場所に、互いに争って闘う細い帯または光線はなく、白く輝く雲が見られた。その雲が屋根を貫通して入った、そして壁を照らした。私は〔そこに〕書かれたものが見られたことを聞いた、そして他の〔書かれた〕ものの間にこれもあった、

神エホバが……人間の鼻にいのちを息(霊魂)を吹き込まれた、人間は生きている霊魂となった(創世記2:7)。

結婚愛

315◀︎目次▶︎317

32 庭園について、そこで結婚に関する神的摂理についての談話があった

316 (第二のメモラビリア——)
かつて、心(アニムス)の安らぎと心(mens)の平和な快さの中で歩いていると、私は遠方に木立を見た、その真ん中に小さな宮殿へ向かう並木道があった。私は、宮殿へ入っている娘と若者たち、そして夫と妻たちを見た——さらにまた、私は霊の中でそこへ近づき、入り口に立っているある見張りに、私もまた入ることが許されるかどうか質問した。
彼は私を眺めた、私は、「なぜ、あなたは私を眺めるのですか?」と言った。
彼は答えた、「私は、あなたが結婚愛の快さからの何らかのものを得て、平和の快さがあるかどうか見るために眺める、それはあなたの顔の中にある。
この並木道の後に庭園が、その真ん中に家があり、そこに最近結婚したふたりの夫婦がいる、その者へ、今日、女友だちと友人たちが、祝福するためにやって来る。私が入ることを許す者を、私自身は知らない。しかし私は、彼らを彼らの顔から知るであろう、と言われた。もし私がそれらの顔の中に結婚愛の快さを見たなら、これらの者が入ることを許し、他の者を許さない」。
すべての天使たちは、顔から他の者の心の快さを見ることができる。私の顔に見た愛のその快さは、私が結婚愛について瞑想したものであった。この瞑想が私の目から輝き出て、ここから私の顔の内的なものの中に入った。それゆえ、私に、「入ることが許される」と言った。
[2]私が通って〔小庭園へ〕入った並木道は、実を結ぶ木々から、枝によって相互につながれ、それらは両側に木の絶え間なく続く壁をつくっていた。並木道を通って私は小庭園へ入った、それは灌木と花から楽しみを与えるものを吹き出し、灌木と花が二つ一組になっていた。私は、このような小庭園が、婚礼がある家、また婚礼があった家のまわりに見られ、ここから婚礼の小庭園と呼ばれていることを聞いた。
その後、私は家の中へ入った、そこに、互いに手を握って、真の結婚愛から互いの間で話しているふたりの夫婦を見た。その時、彼らの顔から結婚愛の像を、彼らの会話からその生命力を見ることが与えられた。
私が、多くの者の間で「おめでとう」と言い(直訳:願いを呼び)、彼らの幸福を願った後に、私は婚礼の小庭園へ出た。私はその右側に若者からの集団を見た、家から出たすべての者がその集団へ走り寄った。すべての者がそこへ走り寄った理由は、そこで結婚愛についての話しがあり、この話しがすべての者の心(アニムス)を、ある隠された力でそれ自体へ引きつけたからである。
その時、その話を賢明な者から聞いた、私が聞いたそれらは、要約すればこれらであった——

[3]天界の結婚について、また結婚の中で、主の神的摂理は最も個々のものとここから最も普遍的なものである、すべての快いものは結婚愛の快いものから、泉の流出口からの甘い水のように、わき出るからである。それゆえ、結婚の一組は〔もともと〕生まれるかのように備えられている。これらの者は主により常にその結婚へ向けて、少年も少女も、そのことを知らないで育てられている。時の過ぎ去った後、その時、適齢期の娘は、結婚にふさわしい若者は、運命からのようにどこかで出会い、互いに見る。直ちに、その時、ある種の本能からのように、配偶者であることを知り、ある種の命令(内なる声)のようなものから内部に自分たち自身の中で考える、若者は彼女が私のものであること、娘は彼が私のものであることである。しばらくの間、このことが両方の者の心に定まった後、熟慮して、互いに話しかけ、婚約する。運命・本能・命令からのように、と言われたが、神的摂理からであることが意味される、これが知られない時、そのように見えるからである。

結婚へ向かう一組が生まれ、そして両方の者に知られないで、結婚へ向けて教育されることを、両方の者の顔に見える結婚のものが似ていることによって、なおまた、アニムスと心の最内部と永遠の結合によって確信した天界にあるようなそれらは、主からの予見と備えられたものなしに、ありえない。
[4]賢明な者がこれらを話した後、集団が拍手喝采した。さらに、人間のもとの最も個々のものの中に、男性にも女性にも、結婚のものがあることを言った。「しかしそれでも、男性のもとで結婚のものと女性のもとで別ものであり、なおまた、男性の結婚のものは女性の結婚のものとの結合へ向かっている、そして逆もいえ、さらにまた最も個々のものの中にもある。このことをそれぞれの者の中の意志と理解力の結婚によって論証した、それら二つのものは心の最も個々のもののと身体の最も個々のものの中で一緒に働く。それらから、どの実体にも、最小のものの中にもまた結婚のものがあることを見ることができる——このことは単一の実体から組み立てられている合成された実体から明かされる、例えば、二つの目・二つの耳・二つの鼻・二つのほほ・二つの唇・二つの手と腕・二つの腰・二つの足、そして人間の中の内部に脳の二つの半球・心臓の二つの心室・肺に二つの葉・二つの腎臓・二つの睾丸があること、またそこに二つのものがなくても、それでも二つに分かれている
二つのものがあるのは、一つは意志のもの、もう一つは理解力のものであるからであり、それらは、一つのものをもたらすために互いに不思議に働く。それゆえ、二つの目は一つの視覚を、二つの耳は一つの聴覚を、二つの鼻の穴は一つの嗅覚を、二つの唇は一つの話すことを、二つの手は一つの仕事を、二つの足は一つの足取りを、二つの脳半球は一つの心の住まいをつくる。二つの心室は血によって身体の一つのいのちを、肺の二つの葉は一つの呼吸をつくる、等々——しかし、真の結婚愛によって結合された男のものと女のものは、完全に人間的な一つのいのちをつくる。
[5]これらが言われた時、右に赤い稲妻が、左に白く輝く稲妻が見られた。二つとも穏やかであった、そして目を通って心の中に入り、これらもまた照らした。それらの後、雷も鳴った、それは優しいさざめきであり、天使たちの天界から流れ下って、大きい音となった。
これらが聞かれ、見られて、賢明な者が言った、「これらは私にとって、私が自分の話しに、それらの一組のものからの右がそれらの善を意味し、左がそれらの真理を意味することをつけ加えるようにとのしるしと警告である。これは善と真理の結婚からであり、それは人間に普遍的なものの中に、そのすべての個々のものの中に刻み込まれている、そして善は意志に、真理は理解力に、そして両方のものは一緒に一つのものに関係する。ここから、天界の中で右目は視覚の善、そして左はその真理である、なおまた右耳は聴覚の善、そして左はその真理、そのようにまた、右手は人間の力の善、そして左はその真理である。他の一組のものも同様である——また、右と左にそれらの意味であるので、主は言われた、

もし右の目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい……。もし右の手があなたをつまずかせるなら、それを切断しなさい(マタイ5:29, 30)。
そのことによって、もし善が悪となるなら、これは追い出されなければならないことを意味した——なおまた、 弟子たちに、網を舟の右側に降ろすよう言われ、そのように行なった時、おびただしい多数の魚を獲ったことによって(ヨハネ21:6, 7)、〔弟子たちが〕仁愛の善を教え、このように人間を集めることを意味した」。
[6]これらが言われた後、再び、以前のものよりも穏やかなそれらの二つの稲妻が見られた。その時、左の稲妻がその白光りを右の稲妻の赤い火から得ていることが見られた——これらを見て、「これは私の話しを確かなものとする天界からのしるしである、天界の中で火は善である、そこの白光りは真理であるからである。左の稲妻がその白光りを右の稲妻の赤い火から得ていることが見られたのは、光の白光りすなわち光は、火の輝き以外の何らかのものでないことのしるしを示している」と言った。
これらを聞いて、すべての者はその稲妻から、またそれらについての話しから、善と真理の喜びで燃え立たされて、家へ去った。

結婚愛

316◀︎目次▶︎318

(十三)再婚について

317 ひとりの夫とひとりの妻の間にある結婚愛が、配偶者の死後、分離されることができるかどうか、または、移されるか、または、重ねて着ることができるかどうか、さらにまた、再婚は一夫多妻と共通なものを得ているかどうか、このように継続的な一夫多妻と呼ばれることができるかどうか、ほかにも多くのものを推論する者のもとで、異議に異議を加えることが常である討議に入ることができます。
そこで、結婚のこれらについて、陰の中で推論している探究者である教師が、何らかの光を見るために、私は、それらについての判断へ向けて、次の項目を示すのは努力の価値があるであろうと思いました、これらです――

(1) 配偶者の死後、再び結婚生活を結ぶことは、先行している結婚愛にかかっている。
(2) その中で生きた結婚の状態にもかかっている。
(3) 真の結婚愛がなかった者たちに、再び結婚生活を結ぶのは、何も妨げがなく、害がない。
(4) 互いに真の結婚愛に生きた者は、結婚愛から分離した原因のためでないなら、再び結婚を欲しない。
(5) 処女と若者の結婚の状態は、やもめと若者の結婚の状態と別ものである。
(6) 処女と男やもめの結婚の状態も、やもめと男やもめの結婚の状態と別ものである。
(7) これらの結婚の変化と多様性は、愛とその属性に関して、すべての数を超えている。
(8) やもめの状態は男やもめの状態よりも重苦しい。
今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

317◀︎目次▶︎319

318 (1) 配偶者の死後、再び結婚生活を結ぶことは、先行している結婚愛にかかっている
 真の結婚愛は、それによって再婚への傾向が計量されるはかりのようです。先行している愛がその愛へ近づけば近づくほど、それだけ再婚への傾向が退きます。しかし、先行する愛がその愛から退けば退くほど、それだけもう一つの結婚への傾向が近づくことが常です――原因ははっきりしています、結婚愛は心の結合と同様の段階の中にあるからです、それがある者の身体での生活の中に、もうひとりの死の後に残り、これが傾きを抑え、天秤の中の針のように、真の愛を自分のものとすることにしたがって、重量でまさるようにします――しかし、この愛への接近は数歩近づくことはあっても今日ではまれであるので、傾向が重量でまさる〔天秤ばかりの〕皿は、大部分は等しくすることへ向けてそれ自体を持ち上げるようにし、ここから他の側へ、すなわち、結婚へ傾き、向かいます。
[2]以前の結婚の中でその先行している愛が真の結婚愛から引き下がっていた者のもとでは正反対です。その理由は、それからの離脱が、心の分離と同様の段階の中にあるからです、さらにまたそれはある者の身体の生活の中で、もうひとりの死の後に残り、これが他の者との分離により意志に入り、新しい結合への傾向をつくるからです。意志の傾向からもたらされるその思考のために、結合とこのようにさらに快い同棲(一緒に住むこと)について希望がもたらされます。
[3]再婚への傾向が、先行している愛の状態からその起源を得ていることは、よく知られており、理性もこのことを見ます。というのは、失うことの恐れが、また失うことの後の悲しみが真の結婚愛に内在し、この悲しみとその恐れが心の最内部そのものの中にあるから。ここから、その愛から内在すればするほど、それだけ霊魂は、意志と思考から、すなわち、意図から、その対象者の中に、その者とともに、その者の中にいたように傾きます。これらから、以前にあった愛の段階にしたがって、心がもう一つの結婚へと天秤の中で保たれることがいえます。このことから、死後、同じ者が再結合され、そして同様に、世でのように、互いに愛します――しかし、前に言われたように、今日、その愛はまれであり、指先でそれに触れる者はわずかです。触れない者は、さらにまた、その愛から遠く引き下がっている者は、以前に過ごした冷淡であった共同の生活の中で分離を望んだように、そのように他の者との結合を望みます。
 しかし、それらについて、多くのものを続きの中で述べます。

結婚愛

318◀︎目次▶︎320

319 (2) 配偶者の死後、再び結婚生活を結ぶことは、その中で生きた結婚の状態にもかかっている
 結婚の状態によってここに、前節での愛の状態は意味されません、これは結婚へ〔向かう〕かまたは結婚から〔遠ざかる〕内なる傾向をつくるからです、しかし結婚へ〔向かう〕かまたは結婚から〔遠ざかる〕内なる傾向をつくる結婚の状態が〔意味されます〕。この状態はその傾向とともに多種多様です――例えば、

(ⅰ) 家に幼児がいて、彼らに新しい母が備えられなければならない場合。
(ⅱ) さらに多くの幼児を願う場合。
(ⅲ) 家が大きく、男女の召使いが備えられている場合。
(ⅳ) 外で続けられている業務で心が家庭のことから引き離され、ここから新しい女主人がないなら困難や落ち込むことが危惧される場合。
(ⅴ) いろいろな職業や労働のように相互の助けと役割が要求される場合。
(ⅵ) さらに、最初の結婚の後、独りで、すなわち、配偶者なしで、生きることができるか、できないかどうかは、死別した配偶者の性質にかかっている。
(ⅶ) 前の結婚もまた、〔その後の〕結婚生活に対する恐れかあるいはそれに対する好意を与える。
(ⅷ) 私は、「一夫多妻への愛、性愛、なおまた、処女凌辱の情欲で、そして変化への情欲で、ある者の愛が、再婚への欲望の中へ導き入れられたこと、そのようにまた、姦通するなら、法律〔から〕の恐れ、また名声の〔失われる恐れ〕が、ある者の心(アニムス)を〔再婚へと導き入れた〕」ことを聞いた。

 ほかにも、結婚生活への外なる傾向を助長する他の多くのものがあります。

結婚愛

319◀︎目次▶︎321

320 (3) 真の結婚愛がなかった者たちに、再び結婚生活を結ぶのは、何も妨げがなく、害がない
 結婚愛がない者たちに、何らかの霊的なすなわち内なるきずなはありません、しかし単なる自然的なすなわち外なるきずながあります。また、もし内なるきずながその順序と進行の中で外なるものを保持しないなら、これは縛るものを奪われた束のようにしか存続せず、それは投げることかまたは風にしたがって散らばります――その理由は、自然的なものは霊的なものからその起源を得ていて、その寄せ集められた霊的なものから存在する塊でしかないからです。それゆえ、生み出し、あたかもそれを産む霊的なものから自然的なものが分離されるなら、もはや内的なものが含まれず、全般的なもので取り巻き、縛る霊的なものからの外なるものだけであり、それは個々のものの中に集められず、束ねるものの中に保たれません――ここから、ふたりの配偶者のもとで、霊的なものからの自然的なものの分離は、心の何らかの結合をつくらず、このように意志の結合をつくりません、しかし身体の感覚に密着している何らかの外なる情愛の結合だけをつくります。
[2]このような者に何も妨げがなく、害がなく、むしろ再び結婚生活を結ぶことができるのは、彼らに結婚の本質的なものがなく、ここから彼らに死による分離の後、何らかの結婚の本質的なものも内在しなかったからです。それゆえ、その時、感覚的な情愛を結ぶことの完全な自由選択の中にいて、もし、男やもめなら、だれ(女)とでも、またもし、やもめなら、だれ(男)とでも、好みのままであり、許されます――彼ら自身も結婚について自然的にしか、またいろいろな必要と外なる役立つことのために利点からでしか考えません、それらは、死によって、再び、前の者の代わりに他の人物によって回復されることができます。また、おそらく、彼らの内的な思考が、霊界でのように、見通されるなら、それらの中に、結婚の結合の間と結婚外の性交の間に何らかの区別は見つけられません。
[3]これらの者に再度のまた再度の結婚を結ぶことが許されているのは前述の原因です。自然的なだけの結合は、死後、分解し、そして崩壊するからです。というのは、外なる情愛は、死後、内なるものに密着するもの残されて、身体につき従い、それとともに埋葬されるからです。
 しかし、地上では内的に結合された結婚にほとんど入ることができないことを知らなければなりません、そこに内なる似た者を選択することが、天界でのように、主により備えられることができないからであり、多くの方法で制限されているからです、例えば、状態と条件で〔ふさわしい〕相手に、住んでいる王国・都市・村の内に、そしてそこに大部分は外なるものが彼らを結びつけています、このように内なるものが結びつけてないからです。それは結婚の〔期間の〕経過の後でないなら現われず、外なるものが割り込んでくる時だけ、知られます。

結婚愛

320◀︎目次▶︎322

321 (4) 互いに真の結婚愛に生きた者は、結婚愛から分離した原因のためでないなら、再び結婚を欲しない
真の結婚愛に生きた者が、その配偶者の死後、再び結婚を欲しないのは、これらの原因です――

(ⅰ) 霊魂に関して、ここから心に関して結合されているからである。この結合は、霊的なものなので、一方の霊魂と心のもう一方への実際の接合であり、それはまったく解消されることができない。霊的な結合がこのようなものであることは、以前にしばしば示されている。
[2](ⅱ)さらにまた身体に関して結合される、妻により自分の中に夫の霊魂の繁殖を受け入れるによって、またこのように彼のいのちの導入によって、それによって処女は妻になる。また逆に、夫により妻の結婚愛を受け入れることによって、愛を受け入れることができ、知恵を受け入れることができる状態の中で、それは心(mens)の内的なものを、また同時に彼の身体の内的なものと外的なものを整え、それは彼の状態を若者から夫にする(それらについて前の198番参照)。
[3](ⅲ)妻からの愛のスフェア、そして男(夫)からの理解力のスフェアは、常に流れ出ている、それが結合をつくり上げ、それがその快いそよぎとともに、それらのまわりにあり、そしてそれらを結合させる(さらにまた前の223番参照)。
[4](ⅳ)結婚でこのように結合した夫婦は永遠を考え、吸い込む、この観念の上に彼らの永遠の幸福が基礎づけられる(216番参照)。
[5](ⅴ)これらから、もはやふたりではなく、ひとりの人間、すなわち、一つの肉である。
[6](ⅵ)このような一つのものは、他方の死によって引き離されないことは、霊の視覚の目の前に、はっきりと明らかである。
[7](ⅶ) これらに、この新しい理由が加えられる。彼らふたりは、一方の死によって、やはり分離されない。亡くなった者の霊は、まだ亡くなっていない者の霊と、常に一緒に住んでいるからであり、そのことは一方の死まで続き、死んだ時、再び会い、互いに再結合し、そして霊界にいるので以前よりもさらに優しく互いに愛する。

これらから、真の結婚愛に生きた者は再び結婚を欲しないという、この疑う余地がない結果が与えられます。
けれども、もしその後、何らかの結婚に似たものを結ぶなら、結婚から分離した原因のために行なわれます。これらの原因はすべて外なるものです。例えば、幼児が家の中にいて、彼らの世話が備えられなければならないなら――家が大きくて、男女の召使いが備えられるなら――外での管理が心を家庭のことから引き離すなら――相互の助けと役割が必要であるなら、また他の同様なもの、それらが原因です。

結婚愛

321◀︎目次▶︎323

322 (5) 処女と若者の結婚の状態は、やもめと若者の結婚の状態と別ものである
 結婚の状態によって、結婚式後の、夫と妻の両方の生活の状態が意味されます、その時、一緒に住むこと〔同棲〕が、霊魂と心(mens)の内なるものがどんなものであるか――それが一緒に住むことの主要な考えです――あるいは、アニムス・感覚・身体の外なるものだけであるかです。
 処女との若者の結婚の状態は、本物の結婚へ向かう頭文字そのものです、というのは、これらの者の間で結婚愛はその正しい順序で進むことができるからです、その順序は最初の熱から最初のたいまつへ向けて、またその後、夫の若者のもとの最初の種(精子)から、また処女である妻のもとの花から、またこのように発芽し、生長し、実を結ぶこと、そしてそれらの中に自分たち自身を相互に導き入れることです。さもなければ、外なる形の中でないなら、若者は若者でなく、処女も処女でありませんでした。
 けれども、若者とやもめの間で、結婚に向けて、始まりからと同様の開始が存在しません、結婚の中に同様の前進もありません、やもめは処女よりもさらに自分の自由選択と権利の中にいるからです。それゆえ、若者は処女である妻とは異なる視覚で、やもめの妻におもねます。
 しかし、これらの中に多くの変化と多様性が存在し、それゆえ、それらは全般的にだけ述べられます。

結婚愛

322◀︎目次▶︎324

323 (6) 処女と男やもめの結婚の状態も、やもめと男やもめの結婚の状態と別ものである
 というのは、男やもめは結婚生活の中にすでに導かれており、処女は〔これから〕導かれなければならず、それでもなお、結婚愛は相互の導入の中でその楽しさと快さを知覚し、感じるからです。夫の若者と妻の処女は、起こるものの中で常に新しいものを知覚し、感じ、それらから続いているある種の始まりとここから愛らしい前進の中にいます――処女との男やもめの結婚の状態の中に、他のものが生じます。処女の妻に内なる性向があります、しかし、男(夫)のもとでそれは過ぎ去っています。しかし、これらの中に、同様に、やもめと男やもめの間の結婚の中に多くの変化と多様性が存在します。それゆえ、それらの全般的な概念のほかに、特定的に何らかのものを付け加えることは許されません。

結婚愛

323◀︎目次▶︎325

324 (7) これらの結婚の変化と多様性は、愛とその属性に関して、すべての数を超えている
 すべてのものに無限の変化があり、そしてまた無限の多様性があります――変化によってここでは、それらの間の変化が意味され、それらは一つの部類または一つの種類の間のもの、さらにまた部類の間と種類の間のものです。しかし、多様性によって、ここでは対立しているものの間の多様性が意味されます。
 変化と多様性の区別について、私たちの観念は、以下によって説明されることができます――
 天使の天界は、無限の変化の中にあって、一つのもののように密着しています。そこには、他と似ているものは、霊魂と心に関しても、情愛・知覚とここから思考に関しても、性向とここから意図に関しても、そして話しの音声・顔・身体・身振り・歩行、また多くのものに関しても絶対的に存在しません。それでも、たとえ無数であっても、主により一つの形の中に秩序づけられた、また秩序づけられているその〔形〕の中に完全な一致と調和があります。それは、「唯一の者」よりすべてのものが、普遍的にまた特定的に、これほどに変化して導かれないなら、ありえませんでした。これらが、ここに私たちが変化によって意味するものです。
[2]しかし、多様性によって、私たちは地獄の中に存在する対立したそれらの変化を意味します。というのは、そこのすべてと個々のものは、天界にあるそれらに正反対に対立していて、地獄はそれらから、変化したものによって、一つのもののように、互いに、天界のいろいろなものに完全に対抗しているもの、そのように永続する多様性によって、保たれているからです。
 これらから、何が無限の変化によって、また何が無限の多様性によって意味されるか明らかです。
 結婚も同様であり、そのように、結婚愛にいる者のもとに無限の変化があり、そして淫行愛にいる者のもとに無限の変化があります。またここから、前者ち後者の間に無限の多様性があります。
 これらから、次の結論がいえます、それぞれの部類と種類の結婚の中の変化と多様性は、あるいは若者と処女に、あるいはやもめとの若者に、あるいは処女との男やもめに、あるいはやもめとの男やもめにあっても、すべての数を越えていることです。だれが、無限なものを数に分けることができますか?

結婚愛

324◀︎目次▶︎326

325 (8) やもめの状態は男やもめの状態よりも重苦しい
外なる原因と内なる原因があります。
外なる原因はだれの光の中にもあります。例えば、

(ⅰ) やもめは、自分自身にまた自分の家に生活必需品を備えることが、取得物を整えることも、男(夫)のように、また男(夫)によってまた男(夫)とともに以前のように、できない。
(ⅱ) 自分自身をまた自分の家を、〔して当然であるか〕のように守ることができない。というのは、男(夫)は、妻がいた時、保護し、腕のように彼女を守るものであった、また彼女自身がそうしたものであった時でも自分の男(夫)をあてにしたからである。
(ⅲ) 自分自身からではこのようなものの中で、内的な知恵のものまた思慮分別のものである助言に欠けていた。
(ⅳ) やもめは、女としての愛を受け入れていない、そのように、生来のものから、また結婚によってとられたものからとは異なる状態の中にいる。

[2]自然的なものであるこれらの外なる原因は、世のまた身体の他のすべてのもののように、さらにまた霊的なものである内なるものから起源を得ています(それらについて前の220番)。
それらの自然的な外なる原因は、善と真理の結婚から発出する霊的な内なる原因から〔起源を得ており〕、特に次のことから知覚されます――善は何らかのものを真理によってでないなら備えることができず、整えることもできないことです。善はそれ自体を真理によってでないなら守ることもできません、それゆえ、真理は善を保護するもの、腕のようなものです。真理のない善は助言に欠けています、真理によってそれに助言・知恵・思慮分別があるからです。
[3]さて、男は創造から真理であり、妻は創造からその善であるので、すなわち、同じことですが、男は創造から理解力であり、妻は創造からその愛であるので、女のやもめの状態を重苦しくする外なる原因すなわち自然的な原因が、内なる原因すなわち霊的な原因から起源を得ていることが明らかです。
これらの霊的な原因が、自然的な原因に結合されていることは、みことばの多くの箇所で、やもめについて言われているものによって意味されています(『啓示された黙示録』(764番)参照)。

結婚愛

325◀︎目次▶︎327

33 霊的なものと自然的なものの間の相違について

326 (これらに私は二つのメモラビリアを付け加えます、最初のものはこれ——)
霊魂についての問題がギムナジウム(学校)の中で議論され、解決された後に、私は順に出て行く者たちを見た。彼らの前に上級の教師、彼らの後に長老たち、彼らの真ん中に答えた五人の若者が、これらの者の後ろに他の者たちがいた。出たとき、家のまわりの脇へ去った、そこに低木で囲まれた遊歩道があった。そこに集まった者たちは、知恵の事柄について対話するために、それだけの数の若者の交わりの小さい集団に分かれ、それらのそれぞれに天井さじきからのひとりの賢明な者がいた。
これらの者を、霊の中にいた私は宿屋から見て、霊の中で彼らへ出て行き、近ごろ霊魂についての問題を示した上級の教師へ近づいた。
この者は私を見て言った、「あなたはだれか? 私は驚いている、私が道を上ってくるあなたを見たとき、時には、あなたは私の見えない中へ落ち込み、時には、あなたはそこから出る、すなわち、時には、あなたは私に見え、また急に見えなくなる。確かに、あなたは私たちの国のいのちの状態の中にいない」。
これにほほ笑んで私は答えた、「私は演技者でも、ウェルトゥムヌスでもありません。しかし私は交互に、時には、あなたがたの光の中に、時には、あなたがたの陰の中にいます、このようにここでよそ者であり、そしてまた土着の者です」。
[2]このことにその上級の教師は私を熟視し、言った、「あなたは、異様なことと驚くべきことを話している。あなたはだれであるのか、私に言え」。
私は言った、「私は自然界と呼ばれる世界にいます、その中にあなたがたはいました、そこからあなたがたは出ました、そしてまた、私は霊界と呼ばれる世界にいます、その中にあなたがたはいます——ここから、私は自然的な状態の中に、同時に霊的な状態の中にいます。自然的な状態の中で地球の人間とともに、霊的な状態の中であなたがたとともにいます。私が自然的な状態の中にいる時、私はあなたがたを見ません、しかし、霊的な状態の中で、私は見ます。私がこのようであることは、主により与えられました。
照らされた方よ、あなたに、自然界の人間は霊界の人間を見ないこと、その逆もまた、よく知られています。それゆえ、私の霊が私の身体の中に入れられるとき、あなたに私は見られません——しかし、私が身体から出るとき、私は見られます。
あなたもまたギムナジウムの学校で、あなたが霊魂であること、霊魂は霊魂を見ることを教えました、人間の形であるからです。あなたは、あなたが自然界にいたとき、あなたがあなたを見ないことを、すなわち、あなたの霊魂があなたの身体の中に見ないことを知っていました。しかし、このことは霊的なものと自然的なものの間にある相違から生じます」。
[3]彼は、霊的なものと自然的なものの間の相違を聞いたとき、言った、「相違とは何か? それは純粋なものが多いか少ないかの間のようなものであるのか? そのように、自然的なものの純粋なものでないなら霊的なものとは何か?」
私は答えた、「相違はそのようなものではありません、しかし前のものと後ろのものの間のようであり、それらの間に有限な比率は存在しません。というのは、原因がその結果の中にあるように、前のものは後ろのものの中にあり、そして結果がその原因から存在するように、後ろのものは前のものから存在するからです。ここから、一方はもう一方に見られません」。
これに、上級の教師は言った、「私はこの相違について熟考した、しかしそれでも、むだだった。それを私が知覚させてもらいたい」。
[4]私は言った、「あなたは霊的なものと自然的なものの間の相違を知覚するだけでなく、さらにまた見るでしょう」。
その時、私はこれらを言った——「あなたは、あなたがたのもとにいる時、霊的な状態の中にいます、しかし、私のもとで自然的な状態の中にいます。というのは、あなたはすべての霊と天使に共通であるあなたがたの霊的な言語で話します、しかし、私とあなたは私の母語で話すからです。なぜなら、すべての霊と天使は人間と話すとき、彼の固有の言語で、そのようにフランス人とフランス語で、イギリス人と英語で、ギリシア人とギリシア語で、アラビア人とアラビア語で話すからです、等々——そこで、あなたが言語に関して霊的なものと自然的なものの間の相違を知るために、このように行なってみてください——あなたがたの中へ入り、そこで何かを話しなさい、そして音声を心に保ち、これらをともに記憶の中に戻り、私の前にそれらを発声してみてください」。
そしてそのように行ない、私のところに口の中のそれらの言葉とともに戻った、それは発言されたが、〔それを〕何も理解しなかった。音声はまったく異なり、奇妙であって、それは自然界の何らかの言語の中に存在しないものであった。数回繰り返されたこの経験によって、はっきりと明らかになった、霊界の中のすべての者に、何らかの自然界の言語と共通なものを何も得ていない霊的な言語があること、すべての人間はその言語の中に、死後、自分自身からやって来ることである。
その時、一緒に、彼もまた経験から学んだ。霊的な言語の音声そのものが自然的な言語の音声から、霊的な大きな音声もまた、自然的な人間から少しも聞かれない、自然的な音声も霊的な人間から聞かれないように、これだけ異なっていることである。
[5]その後、私は上級の教師と周りに立つ者に、自分のところに入り、何らかの短い文を紙の上に書き、その紙とともに私のところに出てきて、読むよう頼んだ——彼らはそのように行ない、手にした紙とともに戻った。しかし、彼らが読んだとき、その書いたものはただ上にねじれのある何らかのアルファベットの文字から構成されていたので、何も理解することができなかった、ねじれのあるそれぞれの文字は何らかの(意味の)事柄を意味していた——アルファベットの中のそれぞれの文字はそこに何らかのもの(意味)を意味するので、そこから、主が「アルファとオメガ」と言われることの意味が明らかである。
彼らは再びまた再び、入り、書き、戻った。その書いたものは無数のものを含み、包含している、それらを何らかの自然的に書かれたもので決して表わすことができない。しかし、「霊的な人間が、自然的な人間に〔とって〕理解できないものや言い表わすことができないものを考えているからである、これらは何らかの書いたものと何らかの言語の中に流入すること、持ち込まれることができない」と言われた。
[6]その時、そばに立っている者が、〝霊的な思考は、比較すれば、これほどに言い表わすことができないようにも、自然的な思考にまさっている〟ことを把握したがらなかったので、私は彼らに言った、「経験してください。あなたがたの霊的な社会の中へ入って、何らかの事柄を考え、そしてそれを心にとどめ、戻り、私の前にそれを述べてください」。
そして彼らは、入り、考え、心にとどめ〔たが〕、思考した事柄を述べるとき、できなかった。というのは、何らかの霊的な思考の観念に釣り合った自然的な思考の観念を何も考え出さなかったから。そのようにそれを述べる何らかの言葉もない、なぜなら、思考の観念は話しの言葉を生じるからである。
[7]その時、再び入り、戻った後、霊的な観念は超自然的で、言い表せないもの、言葉にできないもの、自然的な人間に理解できないものであったことを確信した——これほどに卓越したものであるので、彼らは、「霊的な観念または思考は自然的なものに比べて観念の観念、思考の思考である、それらによって性質の性質が、また情愛の情愛が表わされる、したがって、霊的な思考は自然的な思考の始まり、そして起源である」と言った。ここからもまた、霊的な知恵は知恵の知恵であり、そのように自然界のだれか知恵のある者に知覚されることができないことが明らかである。
その時、彼らに第三の天界から言われた、さらに、内的なまたはさらに上の知恵があること、それは天的なものと呼ばれ、霊的な知恵へのその関係は、自然的な知恵への関係と同様である。これらは天界にしたがった順序の中で主の神的知恵から流入する、それは無限である。

結婚愛

326◀︎目次▶︎328

327 これらが行なわれて、私は傍観者に言った、「これらの三つの経験からの証拠から、あなたは、霊的なものと自然的なものの間の相違がどんなものであるか、そしてまた、なぜ自然的な人間が霊的な人間に見られないか、また霊的な人が自然的な人に見られないか、その理由を知るでしょう。それでも、情愛と思考に関して、ここから居合わせて交わっています——ここから、上級の教師、あなたに、途中で、時には私が見られ、時には見られませんでした」。
 これらの後、高い天界から上級の教師に「ここへ上れ」と言う声が聞こえた——上り、戻って、彼は、「天使は以前に霊的なものと自然的なものの間の相違を知らなかった。その理由は、ある人間が両方の世界に同時にいて、その人間のともに、何らかの比較の機会が与えられ、そして比較なしにその相違はそれ以前に知ることができないからである」と言った。

結婚愛

327◀︎目次▶︎329

328 これらの後、私たちが去る前に、再び、私たちはこの事柄について話し、私は言った、「それらの相違は、別の源泉からではありません、霊界のあなたがたは、実体的なものの中にいるので、ここから霊的であり、物質的ではなく、そして実体は物質の始まりです。あなたがたは始まり(基本物質)の中に、このように個々のもの(特定のもの、限られたもの)の中にいます、けれども、私たちは(最初の原理からの)派生物の中に、合成物(いろいろな要素を含むもの)の中にいます。あなたがたは個別のものの中にいます、けれども、私たちは全般的なものの中にいます。全般的なものが個別のものの中に入ることができないように、そのように物質的なものである自然的なものは、実体的なものである霊的なものの中に入ることができません。まったく、船のロープが裁縫の針の穴を通って入るかまたは導かれることができないような、または小繊維から神経が存在するのに、その一つに引き入れられることができないようなものです——このこともまた世でよく知られています、それゆえ、霊的なものの中への自然的な流入は存在せず、自然的なものの中への霊的な流入が存在することは、学者の同意事項です。
 そこで、これらが、霊的な人間が考えるものを自然的な人間が考えることも、ここから、それを話すこともできない理由です。それゆえ、パウロは、第三の天界から聞いたそれらを言い表わせないものと呼びました。
[2]追加の事実は、霊的に考えることは時間と空間なしに、自然的に考えることは時間と空間とともに考えることです。というのは、自然的な思考のすべての観念には時間と空間からの何らかのものが付着しています、けれども霊的な観念の何らかのものに付着していないからです。その理由、霊界は自然界のように空間と時間の中になく、それらの二つの外観の中にあるからです——思考と知覚もこのことで相違しています。
 それゆえ、あなたがたは永遠からの神の本質と遍在について考えることができます、すなわち、あなたがたは、世の創造前の、時間なしの神の本質について、空間なしにその方の遍在について考えるので、このようにあなたがたは人間の自然的な観念を超えているようなものを把握します」。 
[3]その時、私は、かつて私が永遠からの神の本質と遍在について、すなわち、世の創造前の神について考えたこと、私の思考の観念からまだ時間と空間を取り除くことができなかったので、神の観念の代わりに自然の観念が入って、私が悩まされたことを話した。しかし私に「空間と時間の観念を取り除け、するとあなたは見る」と言われた。
 取り除くことが与えられ、私は見た。その時から私は、永遠からの自然ではまったくない、永遠からの神を考えることができた。神はすべての時間の中で、時間なしに、またすべての空間の中で、空間なしに存在するからである、けれども、自然はすべての時間の中で、時間の中に、すべての空間の中で、空間の中に存在するからである。自然はその時間と空間とともに始まらないことができない、けれども、神は〔そうしたことは〕ない、その方は空間と時間なしである。それゆえ、自然は神から、永遠からでなく、時間の中に、すなわち、その時間と同時に空間とともに存在する。

結婚愛

328◀︎目次▶︎330

329 上級の教師と他の者が私から立ち去った後に、ギムナジウム(学校)の中にいたある少年たちが家へと私に従い、私が書いているとき、そこにしばらくいた。見よ、その時、彼らは私の紙の上を走っているシミを見て、驚いて言った、「これほどにすばやいこの小動物は何か?」
私は言った、「シミと言われています、それについて私はあなたがたに驚くべきことを言いましょう」。私は、「これほどに小さな生き物の中に、ラクダと同じ数の肢体と内臓があります。そのように、脳・心臓・肺の気管・感覚と運動と生殖の器官・胃・腸、また多くのものがあります。そして、繊維・神経・血管・筋肉・腱・膜からの個々の組織があります、これらの個々のものはさらに純粋なものからであり、それらは鋭いすべての目を逃れて、その内部に深く隠れています」と言った。
[2]その時、彼らは言った、「それでも、この小さな生き物は、自分たちに単純な物体のようにしか見えない」。
私は言った、「それでも内部に無数のものがあります。これらを私は、あなたがたに知ってほしいために言います、すべての対象も同様です、それはあなたがたの前に、あなたがたの行動にも情愛と思考にも、一つのもの、単純なもの、また最小のもののように見えます——私はあなたがたに断言することができます、あなたがたの思考のどの小片も、また情愛のどの一滴も無限にまでも分割され、あなたがたの観念が分割されるほど、あなたがたは賢明であることです——あなたがたに知ってほしいのは、すべてのものはますます多種多様なものに分割され、ますます単純なものに分割されるのではないことです。分割されまた分割されたものは、近くまたさらに近く、その中に無限にすべてのものが存在する無限なものへ近づくからです。以前には聞いたことのないこの新しいことを、私はあなたがたに話しています」。
[3]これらを聞いて、少年たちは私から上級の教師へと立ち去り、彼に、いつか、ギムナジウムで、何か聞いたことのない新しいものを、問題として、示すよう請い求めた。
彼は言った、「何を?」
彼らは言った、「すべてのものはますます多種多様なものに分割され、ますます単純なものに分割されるのではない。分割され、また分割されたものは、その中に無限にすべてのものが存在する無限なものへますます近づくからである」。
彼は示すことを約束し、言った、「私はこのことを見る、自然的な一つの観念は霊的な無数の観念の容器である、それどころか、霊的な一つの観念は天的な無数の観念の容器であることを知覚したからである。第三の天界の天使がいる天的な知恵の間と第二の天界の天使がいる霊的な知恵の間の相違、そのようにまた最も外部の天界の天使がいる自然的な知恵の間の相違、そしてまた人間の知恵との相違はここからである」。

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329◀︎目次▶︎331

34 討議:美しいことから自分自身を愛する女は夫を愛するか、 なおまた、知性から自分自身を愛する男は妻を愛するか

330 (第二のメモラビリア——)
かつて私は男(夫)たちの間の楽しい討議を聞いた、それは女性についてであった、常に自分の美しさを愛している女は、すなわち、自分の形(=容姿)から自分自身を愛している女は自分の男(夫)を愛することができるかどうかである。
自分たちの間で最初に、女に二重の美しさがあることで一致した、一つは顔と身体のものである自然的な美しさ、もう一つは愛と振る舞いのものである霊的な美しさである。さらにまた、それら二つの美しさは、しばしば自然界で分離されていること、霊界で常に結合していることで一致した。なぜなら、この霊界で美しさは愛と振る舞いのものであるからである——それゆえ、死後、しばしば、醜い女が美しくなり、そして美しい女が醜くなることが生じる。
[2]男(夫)たちがこのことを討議していたとき、妻たちがやって来て、言った、「私たちが居合わせることを許してください、あなたがたは、討議中のものを知恵から教えられます、けれども、私たちは、それを経験から教えられます、そしてまた、あなたがたは妻の愛についてほとんど何も知らないかのようにこれほどに知らないからです——あなたがたは、夫への自分の愛を自分の胸の最内部の中に、または自分の心の真ん中に隠すことが妻の知恵の思慮分別であることを知っていますか?」
討議が始められ、男たちによる最初の結論があった、それは、「すべての女は顔の美しさと振る舞いの美しさが見られることを欲する、愛の情愛として生まれており、この情愛の形が美しさであるからである。それゆえ、美くあることを欲しない女は、愛し、愛されることを欲する女ではなく、ここから真の女ではない」。
これらに妻たちは言った、「女の美しさは柔らかな優しさの中に、ここから敏感な感覚(感情)の中に住んでいます。男への女の愛、また女への男の愛はここからです。おそらく、あなたがたは、このことを理解しないでしょう」。
[3]男たちの第二の結論は、「結婚前の女たちは男たちのために美しくあることを欲する、しかし、結婚後、もし貞潔であるなら、ひとりの男のために、また男たちのためにではない」ことであった。
これに妻たちは言った、「夫は妻の自然的な美しさを味わった後に、もはやそれを見ません、しかし彼女の霊的な美しさを見ます、またこれから愛し返します、そして自然的な美しさを、しかし他の姿の下に思い出します」。
[4]彼らの第三の結論は、「もし女が結婚後、その前と同様に美しく見られることを欲するなら、男たちを愛する〔のであって〕、〔ひとりの〕男〔を愛するの〕ではない」であった。「自分の美しさから自分自身を愛している女は、絶えず自分の美しさが味われるようにと欲するからである、これはもはや〔ひとりの〕男に見られないので、あなたがた〔妻たち〕が言うように、男たちから、それらの者の前に見られるように欲する。この女に性愛があり、〔異〕性からのひとりへの愛がないことが明らかである」。
これらに妻たちは黙っていた。それでもなお、これらをつぶやいた、「男たちからも、同時に、その時、自分の唯一の者〔から〕も美しく見られることを欲しないような、そのように虚栄のない女がいるでしょうか?」
これらを、天界の情愛〔であった〕ので美しかった天界からのある妻たちが聞いて、男たちの三つの結論を確認した。しかし言い足した、「〔彼女たちは〕単に、自分の夫たちのためにまた夫たちから、自分の美しさとその飾られたものを愛すればよいでしょう」。

結婚愛

330◀︎目次▶︎332

331 天界からの妻たちから男たちの三つの結論が確認されたことに憤慨したそれらの3人の妻たちは、男(夫)たちに言った、「あなたがたは、自分自身を自分の美しさから愛する女(妻)は自分の男(夫)を愛するかどうか質問しました。逆に、それゆえ、私たちは、自分自身を自分の知性から愛する男は自分の妻を愛することができるかどうか議論します。〔あなたがたはここに〕いて、聞きてください」。
 また、最初の結論をつくった——
 「すべての妻は自分の男(夫)を顔から愛しません、しかし彼の役割と振る舞いの中の知性から愛します。そこで、〔あなたがたは〕妻は自分自身を男(夫)の知性に、このように男(夫)に結合させることを知ってください。それゆえ、男は、もし自分自身を自分の知性から愛するなら、その知性への愛を妻から自分自身の中へ引き戻します、ここから分離が生じ、結合は生じません。なおまた、自分の知性を愛することは、自分自身から賢明になることであり、これは狂うことです、それゆえ、自分の狂気を愛することです」。
 これらに男(夫)たちは言った、「おそらく、妻は自分自身を男(夫)の精力と結合させる」。
 これらに妻たちは笑って、言った、「男(夫)が妻を知性から愛する時、精力は欠けません、しかし、もし狂気から〔愛するなら〕欠けます。知性は妻だけを愛することです。この愛に精力は欠けません。しかし、妻を愛さないで、性を愛することは狂気であり、この愛に精力が欠けています——あなたがたにこのことがわかりますか?」。
[2]第二の結論があった——
 「私たち、女は、男(夫)の知性への愛の中に生まれています。それゆえ、もし男(夫)が自分の自己の知性を愛するなら、知性は妻のもとにあるその本物の愛と結合されることができません。もし男の知性が妻のもとにあるその本物の愛に結合されないなら、知性は高慢からの狂気となり、結婚愛は冷淡になります。それゆえ、どの女が自分の愛を冷淡と結合することができますか。どの男が自分の高慢の狂気を知性の愛に結合することができますか?」
 しかし、男(夫)たちは言った、「自分の知性を称賛しないなら、男への妻からの敬意が、どこからか?」 
 妻たちは答えた、「愛からです、愛は敬意を払うからです。敬意は愛から分離されることができません、しかし愛は敬意から分離されることができます」。
[3]その後、この第三の結論をつくった——
 「あなたがたが妻たちを愛しているように〔自分自身に〕見えます、〔でも〕妻たちからあなたがたが愛され、このようにあなたがたが愛し返しているのを、あなたがたの知性が容器であることを見ていません。それゆえ、もしあなたがたが、自分の中の自分の知性を愛するなら、その知性はあなたがたの愛の容器になります——自己への愛は、同等のものを保たないので、決して結婚のものを生じません——しかしまさるかぎり、それだけの間、淫行のものが残ります」。
 これらに男(夫)たちは黙っていた。それでもなお、「結婚愛とは何か?」とつぶやいた。
 それらを天界の中のある夫たちが聞き——ここから妻たちの三つの結論を確認した。

結婚愛

331◀︎目次▶︎333

(十四)一夫多妻について

332 なぜ一夫多妻の結婚がキリスト教界からまったく断罪されているのか、その原因を見つけ出そうとしても、鋭く見通す才能を授かって、物事を見られることができるように開かれているどんな賜物を持っているにしても、前もって「真の結婚愛が存在する、これはふたりの間にしかありえない、主おひとりによらないならふたりの間にもない、この愛に天界がそのすべての幸福とともに刻み込まれている」ことを教えられている者でないなら、その原因はだれのもとにも〔見られることは〕ありません。
これらの知識が、あたかも最初の〔土台の〕石を置くように先行しないなら、なぜ一夫多妻がキリスト教界から断罪されているのか、家がその石または土台の上に定まるように、心が理解力から納得し、それらの上に休むかのような何らかの論証を導き出すことは、奮闘しても、少しもできません。
一夫一婦の結婚の制度が主のみことばに基づくことがよく知られています、淫行のためでなく妻を離縁し、他の女をめとる者は姦淫を犯すこと、また、ふたりが一つの肉になり、神が結びつけた人間が分かれてはならないことが結婚の初めからすなわち最初から制定されたことです(マタイ19:3–11)。
[2]しかし、たとえ主がそれらを結婚〔について〕刻み込まれた神的律法から命令したにしても、それでも、もし理解力がそれらを支えることができないなら、その論証から、それでもそれらは曲解によってそれ自体にありふれたものに〔導き〕、また誤まった解釈によって、その神的律法を連れまわし、疑わしいあいまいなものに〔導き〕、また最後に肯定的なもの〔と〕否定的なものに、市民の法律からでもあるので肯定的なものに、また、彼らの理性の視覚からでないので否定的なものに導くことができます――前に話しに出された理解力に導入としてその論証の中で役に立つ知識について、前もって教えられていなら、人間の心はこのことの中に落ち込みます。それら〔の知識〕は、真の結婚愛が存在すること、これはふたりの間にしかありえないこと、主おひとりによらないならふたりの間にもないこと、この愛に天界がそのすべての幸福とともに刻み込まれていることです。
しかし、これらは、またキリスト教界から一夫多妻が断罪されていることについて多くのことは、次の項目にしたがった順序で証明されなければなりません。
項目はこれらです――

(1) ひとりの妻とでないなら真の結婚愛は存在することができない、したがって、真の結婚の友情・信頼・能力、そして二つのものが一つの肉であるような心の結合もない。
(2) ひとりの妻とでないなら、初めから真の結婚愛にいる者に備えられているような天的な至福、霊的な幸せ、そして自然的な快感の状態は存在することができない。
(3) それらのすべてのものは、主おひとりからでないなら存在することができない。また、その方だけに近づき、同時にその方の戒めにしたがって生きる者にしか与えられない。
(4) したがって、真の結婚愛はその幸福とともに、キリスト教会に属す者のもとでないなら存在することができない。
(5) ここから、キリスト教徒は、ひとりの妻をめとるのでないなら許されない。
(6) キリスト教徒は、多くの妻をめとるなら、自然的な姦淫だけでなく、霊的な姦淫も犯す。
(7) イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、その民族のもとにキリスト教会がなかった、ここから真の結婚愛もありえなかったからである。
(8) 今日、イスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているのは、〝主イエス・キリストが父なる神と一つであり、このように天地の神として〟認められていない、ここから真の結婚愛を受けることができないからである。
(9) イスラム教徒の天界がキリスト教徒の外にあり、それは低いものと高いものの二つの天界に分割されている。めかけを退け、ひとりの妻と生活し、天地の支配が与えられている私たちの主を父なる神と等しい方と認める者しか彼らの高い天界に上げられない。
(10) 一夫多妻は好色である。
(11) 一夫多妻の者のもとに、結婚の貞潔・純潔・神聖さはありえない。
(12) 一夫多妻の者は、一夫多妻の者にとどまるかぎり、霊的なものになることができない。
(13) 一夫多妻は、それが宗教から存在する者のもとで罪ではない。
(14) 一夫多妻は、主について無知の中にいる者のもとで罪ではない。
(15) たとえ一夫多妻者でも、神を認め、宗教から公正な民法にしたがって生きる者は救われる。
(16) しかし、これらの者からのだれもキリスト教の天界の天使と仲間になることはできない。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

332◀︎目次▶︎334

333 (1) ひとりの妻とでないなら真の結婚愛は存在することができない、したがって、真の結婚の友情・信頼・能力はない。二つのものが一つの肉であるような心の結合もない
 今日、真の結婚愛がこれほどにまれであり、一般的に知られていないことは、前にたびたび示されました。それでもなお、実際に存在することは、その章で、またその後、時々、続きの中で、証明し、示しました。
 そうでなければ、他のすべての愛に卓越と楽しさでまさっているそのような愛が存在することを、すべての愛について取るに足らないものであるとするほどに、自己愛や世俗愛に、それどころか、いのちへの愛にまさることを、経験が証言していることを、だれが知りませんか?
 婚約者として女の願望と懇願のために、ひざまずき、彼女をあたかも女神かのように崇拝し、気に入られるために最も卑しい奴隷のように自分自身を服従させる者がいませんでしたか、いませんか? その愛が自己愛にまさる証拠です。
 婚約者として女の願望と懇願のために、財産を、それどころか、もし所有するなら宝物を無価値なものとみなす、そしてまたそれらを浪費する者がいませんでしたか、いませんか? その愛が世俗愛にまさる証拠です。
 婚約者として女の願望と懇願のために、自分のいのちそのものを価値のないものとして判断し、その誓いが約束されないなら、その願いを死で激しく欲する者がいませんでしたか、いませんか? このこともまた、死までも争う多くの競争相手が証言しています。その愛がいのちへの愛にまさる証拠です。
 婚約者として女の願望と懇願のために、〔その〕拒否から狂った者になった者がいませんでしたか、いませんか?
[2]だれが、多くの者のもとのその愛のこの始まりから、理性的に結論することができませんか――その愛はその本質から他のすべての愛の上に最高のものとして支配し、人間の霊魂は、その時、その中にあり、そして永遠の至福の願いと懇願とともにそれを誓約することです。もし、あらゆる方向へ尋ねるなら、自分の霊魂と自分の心をひとり(の女)にささげること以外の他の理由を、だれが見ることができませんか? なぜなら、愛する者が、全世界の最も価値ある、最も豊かな、また最も美しい〔異〕性から選ぶ選択権が与えられていて、その状態の中にいる時、選択権を見下し、選んだ者にしがみつくのではありませんか? というのは、彼の心は唯一の女へ向けてであるからです。
 これらが言われたのは、このような卓越した結婚愛が存在すること、また〔異〕性からのひとり(の女)が愛される時、存在することを、あなたがたが認めるためです。
 推論を関連性の中で鋭く洞察して熟慮する者で、だれが理解力によってここから導くことができませんか? 〔それは〕もし愛する者が霊魂から、すなわち、最内部のものから変わることなく彼女へ向けての愛に居続けるなら、それらを自分自身に承諾の前に、また承諾の中で永遠の彼女の至福を達成させることを誓約することです。
 さらにまた、もし主に近づき、その方から真の宗教を生きるなら、それらが達成されることが前に示されています。
 〔主以外の〕他のだれが、上から人間のいのちを入れ、内なる天界の楽しさを注ぎ、さらにまた同時に不変の精力を与える時、さらに多く、結果へ移すのですか?
 自分自身のもとに、そしてこの者のまたその者のもとにないから、このような愛が存在しない、ありえもしない、という帰結に効力はありません。

結婚愛

333◀︎目次▶︎335

334 真の結婚愛はふたりの霊魂と心が結合するので、それゆえ、友情とまたこれを通して信頼とも結ばれ、両方のものを結婚のものにします、それらは、(その)愛が、愛の愛、そのようにまたその友情が、友情の友情です、信頼も同様であるように、そのように他の友情と信頼よりも卓越しています。〔性的〕能力にもまた、多くの原因があります、それらのあるものは、この章の後の第二のメモラビリア〔355番〕の中に示してあり、その能力からその愛の忍耐力が続きます。
真の結婚愛によってふたりの配偶者が一つの肉をつくることは、特別の章〔第7章〕の中で示しました(それは156bから183番まで)。

結婚愛

334◀︎目次▶︎336

335 (2) ひとりの妻とでないなら、初めから真の結婚愛にいる者に備えられているような天的な至福、霊的な幸せ、自然的な快感の状態は存在することができない
 天的な至福、霊的な幸せ、自然的な快感が言われるのは、人間の心が三つの領域の中に分かれているからです、それらの最高のものが天的なもの、第二のものが霊的なもの、第三のものが自然的なものと呼ばれます。そしてそれらの三つの領域が真の結婚愛にいる者のもとに開かれており、そして流入が開かれたものにしたがって順に続いています――その愛の楽しさは最高の領域の中で最も卓越しているので、それらは至福として知覚されます。中間の領域の中でそれほど卓越していないので、それらは幸せとして、また最後に、最も低い領域の中で、快感として知覚されます――それらが存在し、知覚され、感じられることは、それらを述べたメモラビリアから明らかです。
[2]それらのすべての幸福が真の結婚愛にいる者に初めから備えられていることは、主の中に無限のすべての至福があり、その方は神的愛であり、愛の本質は、ご自分のすべての善を愛する他の者に伝える(共有する)ことを欲することであるからです――それゆえ、人間と一緒にその愛を創造し、そして彼にそれを受け入れ、知覚する能力を刻み込まれました。
 ある愛があり、その中に主からもたらされたすべての至福・幸せ・快さがあり、それらは常にもたらされることができることを見ることができないような、これほどに鈍いまた気の狂った知力がだれにあるのですか〔ありえないでしょう〕。

結婚愛

335◀︎目次▶︎337

336 (3) それらのすべてのものは、主おひとりからでないなら存在することができない。また、その方だけに近づき、その方の戒めにしたがって生きる者にしか与えられない
このことは前に、多くの箇所で示されました。それらに、それらのすべての至福・幸せ・快さが、主から以外に存在することができないこと、またこのために、他の者に近づいてはならないことが結び付けられなければなりません―― その方によって、造られたすべてのものが造られ(ヨハネ1:3)、その方が天地の神であられ(マタイ28:18)、その方によってでないなら、父なる神の何らかの姿は決して見らず、その方の声も聞かれない(ヨハネ1:18, 5:37, 14:6–11)とき、ほかにだれが〔いるのですか〕?
みことばの中のこれら、また他の非常に多くのものから、愛と知恵の結婚が、すなわち、善と真理の結婚が、その結婚からもっぱらその起源を導いていますが、その方おひとりから発出することが明らかです。
その愛は、その幸福とともに、その方に近づき、ここから従う者以外の他の者に与えられないこと、また、その方の戒めにしたがって生きる者に与えられるのは、彼らと愛によって結合されるからです(ヨハネ14:21–24)。

結婚愛

336◀︎目次▶︎338

337 (4) したがって、真の結婚愛は、キリスト教会に属す者のもとでないなら存在することができない
結婚愛が存在しないこと、〔その結婚愛が〕どのようなものかその章の中に(57–73番)、またそれに続く章の中に、そのようにキリスト教会の者でないなら、その本質でどんなものであるか述べられており、その理由は、その愛は主おひとりからであり、主は神として近づくことができるように、他のところでそのように知られていないからです。なおまた、その愛はそれぞれの者もとの教会の状態にしたがっています(130番)、また教会の本物の状態は、主からの以外の、そのようにその方からそれを受ける者以外の他の者のもとに、他のところにないからです。
これら二つは、その愛の始まり・導入・確立であることは、このような論証や証拠、結論に達した豊富なもので、何らかのものをさらに加えることはまったく余分であるかのように、これまで確かにされています。
それでもやはり、真の結婚愛がキリスト教界にまれであることは(58, 59番)、そこに主に近づく者がわずかであり、そして、彼らの間に、確かに教会を信じ、しかし、それを生きない者がいるからです。ほかに多くのものがあり、それらは『啓示された黙示録』に明かされており、そこに今日のキリスト教会の状態が述べられています――しかし、それもかかわらず、キリスト教会からである者のもとでないなら真の結婚愛が存在することができないという真理は確かです。それゆえ、一夫多妻もここからまったく断罪されます――このこともまた主の神的摂理からであることは、摂理について正しく考えている者にはっきりと明らかです。

結婚愛

337◀︎目次▶︎339

338 (5) ここから、キリスト教徒は、ひとりの妻をめとるのでないなら許されない
 このことは先行する確認されたものから確証されます。それらに、次のことが加えられなければなりません――本物の結婚のものは、一夫多妻を抱擁(並置)している異教徒の心よりも、キリスト教徒の心にさらに深く刻み込まれていることです。ここからキリスト教徒の心は、一夫多妻の心よりも、その愛の受けることのできるものです。なぜなら、その結婚のものは、キリスト教徒の心の内的なものに刻み込まれており、主を、その方の神性を、市民の法律(民法)によって、彼らの心の外的なもので認めるからです。

結婚愛

338◀︎目次▶︎340

339 (6) キリスト教徒は、多くの妻をめとるなら、自然的な姦淫だけでなく、霊的な姦淫も犯す
多くの妻をめとるキリスト教徒が自然的な姦淫を犯すことは、主のことばにしたがっています、それらは、 「妻を離縁することは許されない、初めから一つの肉であるように創造されているからである。正しい理由なしに離縁し、他の女をめとる者は、姦淫を犯す」(マタイ19:3–11)です。離縁しないで、妻を引き止め、他の女をさらに加える者はさらにいっそうそのようです。
主により結ばれた結婚についてのこれらの律法は、内なる原因を霊的な結婚から導いています。なぜなら、主が話されたどんなものでも、本質的に霊的なものであったからです。それはこれらによって意味されています、

わたしがあなたがたに話すことばは、霊であり、いのちです(ヨハネ6:63)。

内在する霊的なものは、このことです――キリスト教界の中の一夫多妻の結婚によって、主と教会の結婚が冒涜され、善と真理の結婚も同様であり、そのうえ、みことばが、みことばとともに教会が冒涜され、そして、それらの冒涜は霊的な姦淫であることです。
みことばからの教会の善と真理の冒涜は姦淫に対応すること、ここから霊的な姦淫であること、また善と真理の虚偽化も同様であり、しかしより低い段階の中での冒涜であることは、『啓示された黙示録』に説明されたものが見られます(134番)。
[2]キリスト教徒のもとの一夫多妻の結婚によって、主と教会の結婚が冒涜されたことは、その神的結婚とキリスト教徒の結婚の間に対応が存在するからです(それについては前の83–102番参照)。その対応は、妻に〔さらに〕妻が付き添えられるなら失われ、それが失われるとき、配偶者である人間はもはやキリスト教徒ではありません。
キリスト教徒のもとの一夫多妻の結婚によって、善と真理の結婚が冒涜されることは、この霊的な結婚から地上の結婚が導かれるからです。善が真理をそして真理が善を愛し、そして一つであるように、妻と夫がそのようであるキリスト教徒の結婚は、このことで他の異教徒の結婚と異なっています。それゆえ、もしキリスト教徒が妻に〔さらに〕妻を付き添えるなら、その霊的な結婚はそれ自体のもとで引き裂かれ、それゆえ、その結婚の起源を冒涜し、このように霊的な姦淫を犯します――地上の結婚が善と真理の結婚から導かれることは、前に見られます(116–131番)。
キリスト教徒が一夫多妻によってみことばと教会を冒涜することは、本質的に見られたみことばが善と真理の結婚であるからです、また教会も、これがみことばからであるかぎり同様であるからです(前の128–131番参照)。
[3]さて、キリスト教徒である人間は、主を知り、みことばを持ち、彼にみことばを通して主から教会があるので、キリスト教徒でない人間よりも彼に、再生させられ、このように霊的になること、そしてまた真の結婚愛を達成すること、できるような能力があることが明らかです、なぜなら、密接に関連するからです。
キリスト教徒からの、多くの妻をめとる者は、自然的な姦淫だけでなく、同時に霊的な姦淫もまた犯すので、死後、キリスト教徒の一夫多妻の断罪は、単に自然的な姦淫を犯す者の断罪よりもさらにきびしいことがいえます。
死後の彼らの状態について質問して、私は返答を聞きました――

天界は彼らのためにまったく閉ざされる。地獄の中で、浴室の容器の中の熱湯の中に横たわっているように見える。遠方から、それでも足の上に立ち、歩いているように見える。また、そのことは彼らの内部の狂乱からである。このような者からのある者は〔その〕世界の辺境にある泥沼の中へ投げ込まれる。

結婚愛

339◀︎目次▶︎341

340 (7) イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、その民族のもとにキリスト教会がなかった、ここから真の結婚愛もありえなかったからである
今日、一夫一婦の結婚制度、すなわち、ひとりの女とのひとりの男の結婚制度について、疑わしく考え、一夫多妻の結婚がイスラエル民族に、またその王たちに、そしてダビデとソロモンに、公然と許されており、本質的にキリスト教とにもまた許されたという信念を抱いて、自分自身のもとで〔その〕論拠を争う者が存在します。しかし、彼らは、イスラエル民族とキリスト教徒について、外なる教会と内なる教会についても、外なるものから内なるものへの主による教会の変化についても何も明確なものを知りませんでした。したがって、結婚について内なる判断からは何も知りません。
一般的に、人間は霊的になるために自然的なものに生まれていること、自然的なものにとどまるかぎり、霊的なものについて夜の中に、また眠りの中にいるようであり、その時、外なる自然的な人と内なる霊的な人の間の相違を、決して知らないことを把握すべきです。
[2]イスラエル民族のもとにキリスト教会がなかったことは、みことばからよく知られています。というのは、彼らは世のすべての民族また人々の上に自分たちを高めるメシアを、今でも期待しているように、期待したからからです。それゆえ、もし、彼らに、メシアの王国が天界の上に、ここからすべての民族の上にあることが言われ、また今でも言われたなら、そのことをたわごととしたでしょう――ここから、キリスト、すなわち、私たちの主、メシアが、世の中に来た時、〔その方を〕認めなかっただけでなく、世からもまた残虐に取り除きました。
これらから、その民族のもとに、今日もないように、キリスト教会がなかったことが明らかです。また、キリスト教会がない者は、外なるまた内なる自然的なものです。これらの者に一夫多妻は害となりません、というのは、それは自然的な人に刻み込まれているからです――というのは、自然的な人は結婚の中の愛について、情欲のものであるものしか知覚しないからです。
このことが、主により、これらによって意味されています、

モーセは彼らの心のかたくなさのために妻を離縁することを許しました。しかし、初めからそのようではありませんでした(マタイ19:8)。

モーセが許した、と言ったのは、〔許したのは〕主でないことが知られるためです。
[3]けれども、主は内なる霊的な人を教えたことが、その方の教えから、また単に自然的な人に仕える役立ちのための儀式の廃止からよく知られています――洗うことについて、その方の教えは、内なる人を清めることです(マタイ15:1, 17–20, 23:25, 26、マルコ7:14–23)。姦淫について、これは意志の欲望です(マタイ5・28)。妻を離縁することについて、これは許されません。一夫多妻について、神的な律法に一致しません(マタイ19・3―9)。
主は内なるまた霊的な人のものであるこれらや多くのことを教えられました、〔主〕おひとりが人間の心の内なるものを開き、そしてそれを霊的なものにし、これらに自然的なものを着せられます、これらの自然的なものもまた霊的な本質を得るためです。その方に近づき、そしてその方の教えにしたがって生きるなら、このこともまた生じます、その教えは要約すれば、その方を信じること、そして悪を悪魔のもの、悪魔からのものであるので避けること、なおまた、主のもの、主からのものであるので善を行なうこと、またそれらを自分自身からのように行なうこと、また同時に主から彼を通して行なっていると信じることです。
[4]主おひとりが内なる霊的な人を開き、そしてこれに外なる自然的な人を着せる理由そのものは、すべての人間は自然的に考え、自然的に行動するので、それゆえ、神が自然的な人間性をとられ、これもまた神的なものにされなかったなら、霊的なものを何も知覚することが、またそれをその自然的なものの中に受け入れることができなかったからです。
これらから、イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、それらの民族のもとにキリスト教会がなかったからであるという真理が今や明らかです。

結婚愛

340◀︎目次▶︎342

341 (8) 今日、イスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているのは、〝主イエス・キリストが父なる神と一つであり、このように天地の神として〟認められていない、ここから真の結婚愛を受けることができないからである
イスラム教徒はムハンマドにより伝えられた宗教から、イエス・キリストを神の子、また最大の預言者として、また父なる神から世の中に人間を教えるために送られたことを認めます、けれども、アタナシウス信条から、すべてのキリスト教徒の信仰にしたがって、父なる神がその方と一つであることを、またその方の神性と人間性が霊魂と身体のように結合された一つの位格(ペルソナ)であることを認めません――それゆえ、ムハンマドの追随者は私たちの主を永遠からの何らかの神として認めることができませんでした、単に自然的な完全な人間として認めました。
また、ムハンマドはそのような信念を抱き、ここから信奉者の弟子たち自身もそのような信念を抱き、神は一つであること、その神が全世界を創造したことを知っていたので、それゆえ、自分の礼拝の中で主を見過ごすことしか、さらにまたムハンマドを最大の預言者として宣言し、主が何を教えたかも知らないので、それだけさらにできませんでした。
この理由から、本質的に霊的なものである彼らの心の内的なものは開かれることができませんでした。それらが主おひとりにより開かれることは直前に見られます(340番)。
[2]天地の神として認め、近づき、主の戒めにしたがって生きるとき、彼らのもとに、その方により〔心の内的なものが〕開かれる正しい理由は、そうでなければ、結合がなく、結合なしに受け入れがないからです。 人間のもとに主の現在(居合わすこと)とその方との結合があります。その方に近づくことで現在(居合わすこと)が生じ、その方の戒めにしたがって生きることで結合が生じます。そして、受け入れがなくてその方の現在だけがあります、しかし、受け入れとともに現在と同時に結合があります。
[3]これらについて、私は霊界からの次の新しいことを述べましょう――そこでは、だれでも、その者についての思考からその者の現在(居合わすこと)がもたらされます。しかし、愛の情愛からでないなら、ある者が他の者に結合されません、愛の情愛は彼の言ったことと喜んだことを行なうことによって持ち込まれます。霊界で、そのように現在があり、そしてそのように結合があるという、このよく知られていることは、主から起源を得ています。
これらが言われたのは、なぜイスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているか知られるためです。それは、ひとりの男とひとりの女の間にだけある真の結婚愛がありえなかったからです、彼らは主を宗教から父なる神と同等の方として、このように天地の神として認めませんでした。
それぞれの者のもとの結婚愛は教会の状態にしたがっていることが、前に見られます(130番、またしばしば前に述べたものの中に)。

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341◀︎目次▶︎343

342 (9) イスラム教徒の天界がキリスト教徒の外にあり、それは低いものと高いものの二つの天界に分割されている。めかけを退け、ひとりの妻と生活し、天地の支配が与えられている私たちの主を父なる神と等しい方と認める者しか彼らの高い天界に上げられない
 これらについて何らかのものが細部にわたって言われる前に、イスラム教の出現に関して主の神的摂理について何らかのものがあらかじめ言われることが重要です。
 この宗教がキリスト教よりも多くの王国により受け入れられていることは、神的摂理について、キリスト教徒に生まれた者よりも救われることができないと考え、同時に〔そのように〕信じている者に、つまずきの石であることができます。しかし、イスラム教は、すべてのものは神的摂理のものであること信じる者に、つまずきの石ではありません。これらの者はどこにあるか探求し、そしてまた見つけます。
 このことの中にあります――イスラム教は、私たちの主を、最も賢い人間、最大の預言者としても、その方を人間を教えるために世にやって来た神の子として認めていることです。しかし、クルアーンだけを自分たちの宗教の本とし、ここからそれを書いたムハンマドが彼らの思考に居座ったので、彼を何らかの礼拝で捜し求め、それゆえ、私たちの主についてほとんど考えません。
 その宗教が主の神的摂理から、多くの国民の偶像崇拝を除くために起こされたことが十分に知られるために、何らかの順序で、それゆえ、最初に偶像崇拝の起源について言います。
[2]その宗教の前に、地球全体に偶像崇拝の礼拝がありました。
 その原因は、主の来臨の前の教会はすべて表象的な教会であったからです。イスラエル教会もまたそのようなものでした。そこの幕屋・アロンの衣服・いけにえ・エルサレムの神殿のすべてのもの、そしてまた法令は表象でした――また、古代人のもとに対応の知識がありました、それもまた表象であり、特にエジプト人により発達した知識の中の知識そのものであり、これらの者の象形文字はここからです。
 彼らはその知識から、すべての種類の動物が何を、なおまたすべての種類の木が何を、そのようにまた山・丘・川・泉が何を、そのようにまた太陽・月・星が何を意味するか知りました。その知識によって、彼らにも霊的な認識がありました。表象されるものは、天使のもとの霊的な知恵のものであるので、それらが起源でした。
[3]さて、彼らのすべての礼拝は、対応そのものから成り立っている表象的なものであったので、それゆえ、山や丘の上で、そしてまた杜や庭園の中で、礼拝を持ちました。それゆえ、泉を神聖なものとしました、また崇拝の中で東の太陽へ顔を向けました。そのうえ、馬・牛・子牛・子羊、それどころか鳥・魚・ヘビの彫像をつくり、これらを家に、また他のところに、それらに対応した、すなわち、それらを表象した教会の霊的なものにしたがって順に置きました――さらにまた同様のものを自分の神殿の中に、それらが意味する礼拝の聖なるものを記憶の中に呼び戻すために置きました。
 時の〔経過の〕後、対応の知識が消し去られた時、子孫が、彫像そのものを本質的に聖なるものとして、彼らの父祖である古代人がそれらの中に見た何らかの聖なるものを見ず、聖なるものを表象し、意味したことを知らないで、しかし単に対応にしたがって、礼拝することを始めました。
 これらから、偶像崇拝が起こり、それらが地球全体に、アジアも、周囲の島ともに、アフリカ・ヨーロッパにも満ちました。
[4]すべてのそれらの偶像崇拝が根絶されるために、主の神的摂理から、東洋の者の性質に適合した新しい宗教が始められるようにされました。その宗教の中に、みことばの両方の契約からの何らかのものもまたありました、それは、主が世の中にやって来ること、その方は最大の預言者、すべての者の最も賢い者、神の子であったことを教えました。
 このことは、ムハンマドによって行なわれ、その者からその宗教は〔ムハンマドの宗教と〕呼ばれました。
 これらから、この宗教が主の神的摂理から起こされたこと、そして言われたように、東洋の者の性質に適合したことが明らかです。このように多くの国民の偶像崇拝を除き、そして死後に、霊界にやって来る前に、主についての何らかの認識を与える目的のためです――その宗教は、彼らの観念に適合しなかったなら、このように多くの王国から受け入れられず、そこの偶像崇拝を根絶できませんでした。特に、一夫多妻が許されなかったなら、さらにまた、東洋の者はその許しなしに、ヨーロッパ人よりも不潔な姦淫の中に燃え立ち、滅んだであろうという理由からです。

結婚愛

342◀︎目次▶︎344

343 イスラム教徒にもまた天界があります、神を認め、宗教からその方に対する悪を罪として避ける全地球のすべての者は救われるからです。
 私は、イスラム教徒の天界が低いものと高いもの二つに分離していること、また、低い天界で、世でのように妻やめかけたちの多くの者と生活する。しかし、めかけたちを退け、ひとりの妻と生活する者は高い天界に上げられることを、彼ら自身から聞きました。
 さらにまた、私は、彼らに、父なる神と一つの私たちの主を考えることが不可能であること、しかし彼らに、「その方が同等の方である、なおまたその方に天地の支配権が与えられた」と考えることが可能であることを聞きました。それゆえ、この信仰が彼らのもとにあり、それらによって高い天界への上昇が主により与えられています。

結婚愛

343◀︎目次▶︎345

344 かつて、私に、一夫多妻の結婚愛の熱がどんなものであるか知覚することが与えられました。
 私はムハンマドの役割を果たした者と話しました。決してムハンマド自身ではありません、しかし、世から新しく来た者が彼を見るために、そのような目的のために、彼の代わりに代理人が置かれました。その代理人は、私が彼と少し離れて何らかのことを話した後、私に象牙のさじや他のものを送りました、それらは、彼からであることのしるしでした。また同時に、彼らの熱として結婚愛の伝達が始まりました。それは私により、浴場の悪臭のある熱のように知覚されました。それを感じて、私が向きを変えると、伝達の入り口は閉ざされました。

結婚愛

344◀︎目次▶︎346

345 (10) 一夫多妻は好色である
 その愛が多くの者の間に分割されている性愛であり、そして外なる人すなわち自然的な人の愛であり、このように、ひとえに貞潔が存在する結婚愛ではないからです。
 一夫多妻の愛が多くの者の間に分割されていることは、よく知られています。そして、分割された愛は結婚愛ではありません、というのは、この愛は〔異〕性からのひとりに分けられることができません、ここからその愛が好色であり、一夫多妻は好色です。
 一夫多妻の愛は性愛であり、数に関して制限されていて、それを一夫多妻者は自分のものにすることができます。また、公共の善のために結ばれたある種の法律によって抑制されていて、なおまた、妻にめかけをさらに加えることが許されています。このことだけで〔一夫多妻の愛と性愛が〕異なります。このように性愛であるので、好色な愛です。
[2]一夫多妻の愛が、外なる人すなわち自然的な人の愛であることは、その人間に刻み込まれているからです。人間が自分自身から行なうどんなものでも悪であり、内なる霊的な人へ高揚されないなら、その悪から連れ出されません、そのことは主おひとりにより行なわれます。そして自然的な人に内在する性へ向かう悪は淫行です。しかし、これは社会を破壊するので、その淫行に代わって似ているものが導き入れられ、それは一夫多妻と呼ばれます。
 すべての悪は、人間はその中へ両親から生まれていて、彼の自然的な人に植え付けられています、けれども、何らかの霊的な人に植え付けられていません、主からこの霊的な人に生まれているからです。
 〔ここに〕示され、そしてまた他の論拠の多くのものから、一夫多妻が好色であることがはっきりと見られることができます。

結婚愛

345◀︎目次▶︎347

346 (11) 一夫多妻の者のもとに、結婚の貞潔・純潔・神聖さはありえない
このことは直前に確証したものから、そして「貞潔な者と不貞な者について」の章〔第6章〕で示されているものからはっきりといえます。特に、そこのこれらから――
貞潔・純潔・聖なるものは一夫一婦の者の、すなわち、ひとりの妻とひとりの男(夫)の結婚についてだけ述べられること(141番)。なおまた、真も結婚愛は貞潔そのものであること、ここからその愛のすべての歓喜は最外部のものもまた貞潔であること(143, 144番)。
また、さらに「真の結婚愛について」の章〔第3章〕に割り当てられているそれらから。例えば、そこのこれらから――
ひとりの妻とひとりの男(夫)のものである真の結婚愛は、その起源とその対応から、すべての愛よりも天的なもの・霊的なもの・聖なるもの・清潔なものである(64番以降)。
さて、貞潔・純潔・聖なるものは結婚愛にだけ存在するので、一夫多妻に存在しないし、ありえもしないことがいえます。

結婚愛

346◀︎目次▶︎348

347 (12) 一夫多妻の者は、一夫多妻の者にとどまるかぎり、霊的なものになることができない
 霊的なものになることは自然的なものから高揚されること、すなわち、世の光と熱から天界の光と熱の中に高揚されることです。この高揚については、高揚された者でないなら知りません。しかしそれでも、高揚されていない自然的な人は、やはり高揚されているとしか知覚しません。その理由は、霊的な人と等しく、自分の理解力を天界の光の中に高揚させること、そして自然的に考えることと話すことのように、霊的に考えることと話すことができるからです。しかし、もし同時に理解力に続いて意志がその高さの中に高揚されないなら、やはり高揚されません。というのは、その高揚の中にいないで、一瞬のうちに、自分自身をその意志へと降ろし、そしてそこに自分の位置を安定させるからです――意志が言われると同時に愛が意味されます、意志は愛の容器であるからです、というのは、人間が愛するものを意志するからです。
 これらのわずかなものから、一夫多妻の者は、一夫多妻の者にとどまるかぎり、すなわち同じことですが、自然的な人は自然的なものにとどまるかぎり、霊的なものになることができないことを明らかにすることができます。

結婚愛

347◀︎目次▶︎349

348 (13) 一夫多妻は、それが宗教から存在する者のもとで罪ではない
宗教に反しているすべてのものは、神に反するので、罪であると信じられています。また逆に、宗教とともにあるすべてのものは、神とともにあるので、罪でないと信じられています。また、イスラエル民族のもとの、また同様に、今日、イスラム教徒のもとの一夫多妻は宗教からであったので、それを彼らに罪として帰せられることができませんでした、できもしません。
なおまた、その一夫多妻が彼らに罪でないように、〔彼らは〕自然的なものにとどまり、霊的なものになりません。自然的な人は、受け入れられた宗教に属すそのようなものに何らかの罪が内在することを見ることができません――このことを霊的な人だけが見ます。その理由のために、たとえクルアーン〔イスラムの聖典〕から私たちの主を神の子として認めても、それでもその方に近づきません、しかしムハンマドに近づきます。また、自然的なものにとどまる間、ここから、一夫多妻に何らかの悪が内在することを知らず、決して何らかの好色なものではないとしか知りません。というのは、主は言われたから、

もし、あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はありませんでした。しかし、今、あなたがたは、「私たちは見る」と言います、それゆえ、あなたがたの罪が残ります(ヨハネ9:41)。

一夫多妻によって彼らは罪について責められることができないので、それゆえ、死後、彼らに自分たちの天界があります(342番)。そこで、生活にしたがって楽しさを享受します。

結婚愛

348◀︎目次▶︎350

349 (14) 一夫多妻は、主についての無知の中にいる者のもとで罪ではない
 その理由は、主おひとりから結婚愛があり、これは、その方を知り、認め、信じ、その方からのものである生活を生きる者以外の他の者に主から与えられることができないからです。また、その愛が与えられることができない者は、性愛が、したがって、一夫多妻もまた、結婚愛と一つのものであるとしか知りません――追加の事実は、一夫多妻の者は、その者は主について何も知らず、自然的なものにとどまることです。というのは、人間は、ひとえに主により霊的になり、宗教の法と社会の法律にしたがっている自然的な人に罪が帰せられないからです。彼はまた自分の理性にしたがって行動し、自然的な人の理性は真の結婚愛について暗黒そのものの中にいます、卓越しているこの結婚愛は霊的なものです――しかしそれでも、経験から彼らの理性は、見境のない情欲が一般に抑制され、自分の家の内のそれぞれの者に残されるために、公共と個人の平和のものであることを教えられます。ここから一夫多妻があります。

結婚愛

349◀︎目次▶︎351

350 人間が獣よりも卑しいものに生まれていることはよく知られています。
すべての獣は自分の生命の愛に対応する知識の中に生まれています。というのは、子宮から落ちる、あるいは卵から孵化するとすぐに、見、聞き、歩き、自分の食物・母親・友・敵を知り、そのうちに、〔異〕性を、愛することを知り、そしてまた子を育てることを知るからです。
生まれたとき人間だけが、このようなものを何も知りません、というのは、彼に生来の知識が何もないからです。知識と愛に属すものを受け入れる能力と性向だけがあります。また、もしこれらを他の者から受けないなら、卑しい獣にとどまります――人間は何も自分自身に帰さないように、しかし他の者に、また最後に知恵とその愛のすべてのものを神おひとりに帰す目的のために生まれています、そしてここから神の映像になることができることがメモラビリアに見られます(132–136番)。
[2]これらから、主が世にやって来たこと、神であることを他の者を通して知らないで、単に宗教について、また自分の王国の法律について何らかの知識を吸収した人間は、もし性愛についてよりも結婚愛についてさらに考えなくても、一夫多妻の愛だけが結婚愛であることを信じても、批難されないことがいえます――主はこれらの者を彼らの無知の中で導き、神的摂理の導きで、宗教から悪を罪として避ける者を、救われる目的のために、罪を帰すことから引き戻されます。というのは、だれでも人間は天界へと生まれており、だれも地獄へと生まれていません、だれもが、主により天界へ行き、自分自身から地獄へ行くからです。

結婚愛

350◀︎目次▶︎352

351 (15) たとえ一夫多妻者でも、神を認め、宗教から公正な民法にしたがって生きる者は救われる
 神を認め、宗教から公正な民法にしたがって生活する全地球の中のすべての者は救われます――公正な民法によって、十戒の中にあるような戒めが意味され、それらは、〝殺してはならない、姦通してはならない、盗んではならない、偽って証言してはならない〟です。これらの戒めは、地上のすべての王国の公正な民法です、なぜなら、これらなしに王国は存続しないからです。
[2]しかし、ある者は法律の罰の恐れから、ある者は市民としての従順さから、ある者は宗教から生活します。宗教からもまた生活する者は救われます――その理由は、その時、彼らの中に神がいて、その者の中に神がいる人間は救われるからです。
 エジプトから出発したイスラエル民族のもとに、彼らの律法の間に、〝殺してはならない、姦通してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない〟があったこと、彼らの共同体または社会はそれらの律法なしに存続することができなかったことをだれが見ませんか? それでも、同じ律法が神エホバからシナイ山の上で驚くべき奇跡とともに布告されました。しかし、それらが布告された理由は、同じ律法が宗教の律法であり、このようにそれらが社会の善のためだけでなく、しかし、神のためにもまた行なわれることにあったためであり、それらを神のために宗教から行なうとき救われるためです。
[3]これらから、神を認め、公正な民法にしたがって生きる異教徒は救われることを明らかにすることができます。というのは、主について何らかのものを、したがって、ひとりの妻との結婚の貞潔について何らかのものを知らないことは彼らの過失ではないから――なぜなら、神を認め、そして宗教から公正な法律に生きる者が、それら〔の法〕は悪を神に反しているので避け、善を神とともにあるので行なうこと〔であって〕、〔それに生きる者が〕断罪されることは神の公正に反しているからです。

結婚愛

351◀︎目次▶︎353

352 (16) しかし、これらの者からのだれもキリスト教の天界の天使と仲間になることはできない
 その原因は、キリスト教の天界に神的真理である天界の光があり、神的愛である天界の熱があり、それら二つのものは、善と真理がどんなものであるか、なおまた悪と虚偽がどんなものであるか明らかにするからです――ここから、キリスト教徒の天界の間とイスラム教徒の天界の間のすべての伝達手段は取り去られています。もし伝達手段があったなら、主からの天界の光の中に、また同時に天界の熱の中にいた者以外に他の者たちは救われることができませんでした――それどころか、もし天界どうしの結合があったなら、これらの者もまた救われませんでした。というのは、その結合から、すべての天界は、天使たちが存続することができなかったほどに揺さぶられたから。というのは、イスラム教徒から不貞なものと好色なものがキリスト教徒の天界に流入し、それはそこでは我慢されることができない、またキリスト教徒から貞潔なものと純粋なものがイスラム教徒の天界に流入し、それはそこでは我慢されることができないからです――その時、伝達手段から、またここからの結合から、キリスト教徒の天使たちは自然的なものに、このように姦淫者になります。あるいは、もし霊的なものにとどまるなら、自分自身のまわりに絶えず好色なものを感じ、それは彼らの生活のすべての幸運をさえぎります――イスラム教徒の天界に同様なものが生じたでしょう、というのは、キリスト教徒の天界の霊的なものが絶えず彼らを取り巻き、苦しめ、そして彼らのいのち(生活)のすべての快さを取り去り、そしてなおまた、一夫多妻は罪であったことがしみ込み、このように常に批難されたでしょう。
 これらが、すべての天界は、その真ん中にある主からの太陽からの光と熱による以外に、それらの間に結合が存在しないように完全に分けられていることの原因です。またこの流入が、〔その〕受け入れにしたがってだれでも照らし、生きいきとさせ、その受け入れは宗教にしたがっています。この伝達手段が存在します、しかし天界どうしの間に伝達手段は存在しません。

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352◀︎目次▶︎354

35 自己の思慮分別について

353 (これらに私は二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
かつて私は天使たちの真ん中にいて、彼らの談話を聞いた。
談話は知性と知恵についてであった。
人間は両方とも自分自身の中にある、このように何でも理解力から考えまた意志から欲するものが、自分自身からであるとしか知覚しないこと。そのときそれでも、それらを受け入れる能力を別として、それらは神からの理解力と意志のものであり、その最小のものも人間からでないこと。すべての人間は出生から自分自身を愛することへ向けて傾いているので、人間が自己愛から、また自己知性からの高慢から滅びないように、男のその愛が妻の中に移されるように、また妻に出生から、自分の男の知性と知恵を、このように男を愛するよう植え付けられていることが創造から備えられている。それゆえ、妻は絶えず自分の男の自己知性からの高慢を自分自身に引きつける、そしてそれを彼のもとで消滅させ、それを自分自身のもとで生かし、このようにそれを結婚愛へ変え、そしてそれを無制限に楽しさで満たす——自己知性からの愛であったヘビが、言い、説きつけたように、自己知性からの高慢が男を、主からでなく自分自身から理解することが賢明であることを信じるように、このように善悪の知識の木から食べることを欲し、ここから自分自身を神と等しい、そしてまた神と信じるほどにまで、のぼせあがらせないように、このことが主により備えられた。それゆえ、人間は、食べることの後、楽園から追い払われ、ケルブによっていのちの木への道が守られた——霊的には、楽園は知性である。霊的には、いのちの木から食べることは主から理解し、賢明になることである。そして霊的には、善悪の知識の木から食べることは自分自身から理解し、賢明になることである。

結婚愛

353◀︎目次▶︎355

354 天使たちが、この談話を終えて、去り、ふたりの聖職者が、世の中で王国の大使であった男と一緒にやって来た。私は、彼らに私が天使から聞いたものを語った。
それらを聞いて、彼らは知性と知恵について、そしてまた思慮分別について、神からか、あるいは人間からか論争し始めた——論争は激しかった。彼ら三人は、心では同様に、人間の中にあるので人間からであることを信じた、感覚とここからの知覚そのものが、存在することをそのように確信させたからである。
しかしその時、神学への熱意の中にいた聖職者は「知性と知恵のものは何もない、このように人間から思慮分別は何もない」と言った。しかし、大使は、「そのように思考の何らかのものもない」と言い返し、彼らは、「何もない」と言った。
しかし、彼ら三人が似た信念の中にいたことが天界で知覚されたので、王国の大使に言われた、「聖職者の衣服を着て、あなたが聖職者であると信じ、その時に、話せ」。そして、着て、信じた。その時、「知性と知恵のものは何もない、ここから思慮分別は何もない、どんな場合でも、神からでないなら与えられることができない」と声高に話し、そしていつもの雄弁な論証で十分な推論でそれを示した。
霊界で独特なものであるが、霊は、自分の衣服がどんなものであるかによって、自分自身をそのようなものである、と考える。その理由は、そこのそれぞれの者に理解力が着せられるからである。
[2]その後、天界から、それらふたりの聖職者にもまた言われた、「あなたがたの服を脱げ、そして政治に仕える者の服を着よ、あなたがたがそのような者であると信じよ」。そしてそのように行なった、その時、自分自身の内的なものから考え、そして内的に抱いている論拠から自己知性に賛成して話した。
その瞬間、道の近くに木が現われ、彼らに言われた、「善と悪の知識の木である。あなたがたはそれらから食べないように用心せよ」。しかし、それでも、彼ら三人は自己知性で愚鈍にさせられ、それらから食べる欲望に燃え、互いに、「なぜ、食べないのか? 善い実ではないのか?」と言い、近づき、食べた。
直ちに、その時、彼ら三人は、似た信念の中にいたので、心で友人になり、地獄へ伸びていた自己知性の道を、一緒に行った。しかしそれでも、私はそこから戻るこれらの者を見た、まだ準備されていなかったからである。

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354◀︎目次▶︎356

36天界での、妻を愛することの永続する能力について

355 (第二のメモラビリア——)
 かつて、私が霊たちの世界の中を眺めたとき、私はある草地に、世の人間たちの衣服に似ている衣服を着た男たちを見た。そのことから私は、近ごろ世から到着したことを知った。
 私は彼らに近づき、何を自分たちの間で話しているか聞くために脇に立った。
 彼らは天界について話していた。天界について何らかのものを知っていた彼らの間のひとりが、「そこに驚くべきものがある、それらは見たことがないならだれにも決して信じられることができない。例えば、楽園のような庭園、巧みに建築された荘厳な宮殿、技術そのものからであるので、金からできているかのように光り輝き、その前に銀からできた柱、それらの上に宝石からできた天界の形、そしてまた、碧玉と青玉からできた家があり、その前に堂々とした柱廊(アーケード)、それを通って天使たちが入り、そして家の中の内部に、技術でも言葉でも、表現されることができない装飾がある」と言った。
[2]「天使そのものについては両性からであり、若者と夫たちと娘と妻たちである。娘たちは世に似たものが存在しないようにも、これほどに美しい。しかし、妻たちはなおさら美しく、それは天界の愛の本物の似姿のように見られる。そして、彼女の夫たちは天界の知恵の似姿のようである。これらのすべての者は青春期の若者である——さらに、そこでは、結婚愛以外の他の性愛が何か知られていない——あなたがたは、夫たちに楽しむことの永続する能力があることに驚く」。
 新しくやって来たそれらの霊たちは、そこに結婚愛以外の他の性愛が存在しないこと、彼らに楽しむことの永続する能力があることを聞いたとき、互いにほほ笑み、言った、「あなたは信じられないことを話す、このような能力はありえない、おそらく、あなたは作り話を語っている」。
[3]しかしその時、突然、天界からある天使が彼らの真ん中に立ち、言った、「どうか私〔の言うこと〕を聞いてください——私は天界の天使です、私の妻と私は、今や千年、生活し、その間、同じような花の年齢の中の私を、あなたがたはここに見ています。このことは私に、私の妻との結婚愛からです——私は、私にその永続する能力があったこと、〔今も〕あることを断言することができます。私は、あなたがたがこのことはあり得ないと信じていることを知覚するので、この事柄についてあなたがたと、あなたがたの理解力の光にしたがって理性から話しましょう。
 あなたがたは人間の初期の状態について何らかのものを知りません、それはあなたがたから完全な状態と呼ばれています。その状態の中で、心の内的なすべてのものは主にまでも開かれ、ここからそれは愛と知恵の結婚すなわち善と真理の結婚の中にありました。愛の善と知恵の真理は互いに永続的に愛するので、永続的に結合されることを欲します。また、心の内的なものが開かれるとき、その霊的な結婚のものはその永続的な努力とともに自由に流れ下り、その能力をもたらします。
[4]人間の霊魂そのものは、善と真理の結婚の中にあるので、永続するそれらの結合の努力の中にあるだけでなく、自分に似たものの結実と生産の努力の中にあります——人間の内的なものが、霊魂からまでも、その結婚から開かれているとき、そして内的なものが最終的なものの中に、目的として存在するように絶えず結果に目を向けています、ここから、霊魂自体に似たものを結実し、生産するその永続する努力〔があり〕、身体に属すものになります。ふたりの配偶者(夫婦)のもとの身体の中の霊魂の最終的な作用は、そこに愛の最終的なものの中にあり、これらは霊魂の状態に依存するので、彼らのこの永続性がどこからであるか明らかです。
[5]さらにまた、愛のものである天的なものと知恵のものである霊的なものを産むことの永続する結実があり、ここから子孫である自然的なものがあります、主から発出する天界全体と世界全体を満たし、繁殖させる普遍的なスフェアがあるからであり、天界のそのスフェアは人間のすべての霊魂を満たし、彼らの心を通って身体の中へその最終的なものまで降り、産む力を与えます。しかしこの力は、霊魂から心の高いものと低いものを通って身体の中へ、その最終的なものへ通路を開いている以外の他の者に与えられることができません、このことは創造の初期の状態へ主により戻されることを自分自身に許す者のもとに生じます。
 私は、今や千年の間、決して能力が、力が、精力が私に欠けなかったこと、力の減少について何も知らないことを断言することができます、これは前述の普遍的なスフェアの絶え間のない流入によって絶えず新しくされ、その時、霊魂もまた喜ばせ、それらが奪われることを被る者のように悲しませないからです。
[6]さらに、真の結婚愛は、まったく春の熱のようであり、その流入からすべてのものは発芽と結実へ向かおうとします。私たちの天界に他の熱はありません——それゆえ、夫婦のもとに、そこに春がその永続する努力の中にあり、この永続する努力があって、それからその力があります。
 しかし天界の私たちのもとの結実は、地の彼らのもとのものとは別ものです。私たちのもとに愛と知恵のものすなわち善と真理のものである霊的な結実があります。妻は夫の知恵から自分自身の中にその〔知恵への〕愛を、夫は妻の中のその愛から自分自身の中に知恵を受けます。それどころか、妻は実際に、夫の知恵への愛に形作られています、そのことは自分の夫の知恵の愛になることを欲すること、そのことから起こる歓喜とともに、彼の霊魂の繁殖を受容することによって生じます。そのように、彼女は娘から妻になり、似姿になります。ここからさらにまた、愛は妻のもとのその最内部の友情とともに、そして知恵は夫のもとのその幸福とともに、永久に、これが永遠に増大します——これが天界の天使の状態です」。
[7]天使がこれらを話したとき、世から近ごろやって来た者を注視し、彼らに言った、「あなたがたは、あなたがたが愛の精力の中にいた時、あなたがたはあなたがたの配偶者を愛したこと、また歓喜の後、あなたがたは向きを変えたことを知っています——しかしあなたがたは、天界の私たちはその精力から配偶者を愛するのではなく、愛から私たちに精力があること、永続するものが私たちにあることを知りません、私たちが永続的に配偶者を愛するからです——それゆえ、もし状態を逆さにすることができるなら、あなたがたはこのことを把握することができます。永続的に配偶者を愛する者は、全心と全身で彼女を愛しませんか? というのは、愛は心のすべてのものを、身体のすべてのものを愛する者へ向け、それがお互いに行なわれるので、そのように一つのものになるように彼らを結合させるからです」。
[8]さらに言った、「私はあなたがたに、創造から男性と女性に植え付けられた結婚の愛について、正当な結合へ向けての彼らの性向について、真理への愛から知恵を増す能力と一つをつくる男性の中の生殖力の能力について、また人間がその愛から知恵をすなわち善から真理を愛すれば愛するほど、それだけ真の結婚愛の中に、またそれに伴う精力の中にいることは話さないでおきましょう」。

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356 これらを言って、天使は黙った。到着した最近の者が、天使の話しの精神(霊)から、楽しむことの永続する能力がありえることを把握した。そのことが彼らの心(アニムス)を喜ばせたので、言った、「おお、天使たちの状態はなんと幸福なのか。私たちは、あなたがたが天界で永遠に青年期の状態の中に、ここからその年齢の精力の中にいることを知覚します——しかし私たちに言ってください、その精力を私たちもまたどのように得られるか」。
 天使は答えた、「姦淫を地獄のものとして避けなさい。主に近づきなさい、すると、あなたがたは持つでしょう」。
 言った、「私たちはそれをそのように避けよう、主に近づこう」。
 しかし天使は答えた、「あなたがたは姦淫を地獄の悪として、他の悪も同様に避けないなら、避けることができません。姦淫は〔それら〕すべての複合体であるからです、それらを避けないなら、主に近づくことができません、主はそれらの者を受け入れません」。
 この後、天使は去った、そしてそれらの新しい霊たちは悲しみのうちに立ち去った。

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(十五)嫉妬について

357 ここに嫉妬について扱います、結婚愛にも関係するからです。
しかし、正しい嫉妬と不正な嫉妬が存在します――正しい嫉妬は互いに愛し合う配偶者にあります。これらの者に彼らの結婚愛が害されないようにその正しいまた賢明な嫉妬があり、もし害されるならここから正しい悲しみがあります。しかし、不正な嫉妬が疑い深い性質の者にあり、それらの者に粘液質や胆汁質の血液から心の病気があります。
さらに、すべての嫉妬は、ある者により落ち度としてみなされています。それは特に淫行する者により生じ、その者は正しい嫉妬の中に侮辱もまた投げ入れます――それでも嫉妬(zelotypia)は熱意(zelus)と型(typus)から導かれ、そして正しい熱意の型または像と不正な熱意の型または像が存在します。しかし、それらの相違を、今から続くものの中で説明します。それをこれらの系列の中で行ないます――

(1) 本質的に見られた熱意は燃える愛の火のようである。
(2) 熱意であるその愛の燃えることまたは炎は、愛からの悩ますことや攻撃から起こる霊的な燃えることまたは炎である。
(3) 人間の愛がどのようなものであるかによって、善の愛がある者に、また悪の愛がある者に、そのような熱意がある。
(4) 善の愛の熱意と悪の愛の熱意は外なるものの中で互いに似ている、しかし、内なるものの中でまったく違っている。
(5) 善の愛の熱意はその内なるものの中に愛と友情を隠している。しかし、悪の愛の熱意はその内なるものの中に憎しみと復讐を隠している。
(6) 結婚愛の熱意は嫉妬と呼ばれる。
(7) 嫉妬は、配偶者の愛を悩ましているものに対する燃える火のようであり、その愛が奪われることに対する身震いする恐れのようである。
(8) 一夫一婦の者に霊的な嫉妬があり、一夫多妻の者に自然的な嫉妬がある。
(9) 互いにやさしく愛する夫婦の嫉妬は、結婚愛が分裂され、こうして滅びないようにとの健全な理性からの正しい悲しみである。
(10) 互いに愛していない夫婦のもとに、多くの原因のために嫉妬がある。ある者のもとで、心のいろいろな病気からである。
(11) ある者に何も嫉妬がない、このこともいろいろな原因からである。
(12) めかけに対する嫉妬もあるが、このようなものは妻に対するようなものではない。
(13) 嫉妬は獣にも鳥にもある。
(14) 男や夫にある嫉妬と女や妻にある嫉妬は異なる。

今からこれらの説明を続けます。

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357◀︎目次▶︎359

358 (1) 本質的に見られた熱意は燃える愛の火のようである
 何が熱意か認められないなら、何が嫉妬か知られることができません。というのは、嫉妬は結婚愛の熱意であるからです。
 熱意が燃える愛の火のようであることは、熱意は愛のものであり、愛は霊的な熱であり、これはその起源の中で火のようであるからです。
 熱意が愛のものである最初のものについてはよく知られています。嫉妬することと熱意から行動することによって、愛の力で〔そうする〕以外に何も意味されません。しかし、存在するようになるとき、愛のように現われず、しかし敵意ある者や敵のように現われるので、愛を損なう者に対して攻撃し、戦う者は、それゆえ、愛の防護者や守護者と呼ばれます。というのは、すべての愛は、その快いものから追い払われる時、憤りと怒りの状態の中へ、それどころか激怒の中へ突破するようなものであるから――それゆえ、もし愛が、特に支配愛が触れられるなら、アニムス(外なる心)に動揺を生じます。またもし触れて、それが害するなら、憤りが生じます――それらから、熱意は愛の最高の段階のものではありません、しかし燃える愛であることを見ることができます。
 一方の愛と調和するもう一方の愛は、ふたりの同盟する者のようです。しかし、一方の愛がもう一方の愛に対して立ち上がるとき、敵のようになります。その理由は、愛は人間のいのちのエッセであるからです、それゆえ、愛を攻撃する者は、いのちそのものを攻撃します。その時、攻撃に対する憤りの状態が生じます、それぞれの人間が他の者を殺そうとするような状態です。
 このような憤りがそれぞれの愛に、最高に穏やかな愛にもあります、すべての種類のめんどり・ガチョウ・鳥からはっきりと見られるように、ひなを害する、または食い物を取り去るそれらに対して恐れることなく立ち上がり、そしてそれらに飛びかかります――ある獣に怒りの状態、そして野獣に激怒があることがよく知られています、もし子が攻撃されるかまたは食い物が取り去られるなら。
 愛が火のように燃え立つことが言われるのは、愛が天使の太陽の火から起こる霊的な熱以外の他のものではないからです、これは純粋な愛です――愛が火からのような熱であることは、生きている身体の熱から、それらの愛から以外の他のところからではないこと、なおまた、人間は愛の高ぶりにしたがって熱くなり、燃え上がることから、はっきりと明らかです。
 これらから、熱意が燃える愛の火のようであることが明らかです。

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358◀︎目次▶︎360

359 (2)熱意であるその愛の燃えることまたは炎は、愛からの悩ますことや攻撃から起こる霊的な燃えることまたは炎である
 熱意が霊的な燃えることまたは炎であることは、前述のことから明らかです。
 霊界の中の愛はそこの太陽から生まれる熱であるので、それゆえ、愛もまた遠方からそこの炎のように見られます。そのように天界の愛は天界の天使のもとで見られ、そのように地獄の愛も地獄の霊のもとで見られます――しかし、その炎は自然界の炎のように燃えるのではないことを知らなくてはなりません。
[2]熱意が愛からの攻撃から起こるのは、愛はそれぞれの者のいのちの熱であるからです。それゆえ、いのちの愛が攻撃されるとき、抵抗し、攻撃者に対して突発し、自分の力と強さから敵のように行動します、それは彼が興奮中に突発する火からの炎のようです。それが、火のようであることは、きらめく目から、または興奮させられた顔から、なおまた話しの音声から、振る舞いからも見られます――愛はいのちの熱であるからであり、その愛とともに、その愛からのすべての活発さ・元気・快さを知覚できることが消滅させられないように、このことを愛が行ないます。

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359◀︎目次▶︎361

360 どのように愛が、その攻撃から、熱意へ、火が炎のように燃え上り、燃え立つか、言います。
 愛は人間の意志の中に住みます。しかし、意志そのものは火をつけられません、けれども、理解力に火がつけられます。というのは、意志の中で火のようであり、理解力の中で炎のようであるからです。
 愛は意志の中で、それ自体について何も知らず、それ自体ではそこに何も感じず、それ自体からそこで活動しないからです、しかし、このことは理解力の中で、その思考の中で生じます。それゆえ、愛が、攻撃される時、理解力の中で怒り、それはいろいろな推論によって生じます。これらの推論は、火をつけ、ここから燃え立つ木材のようです。そこで、それらはそれだけ多くのたきぎ、またはそれだけ多くの燃えやすい物質のようであり、それらからそれらの霊的な炎が生じ、それらは多種多様です。

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360◀︎目次▶︎362

361 人間が火をつけられる〔とき〕その愛への攻撃から原因そのものが明らかにされます。
 人間の形は、創造からその最内部の中で愛と知恵の形です。人間の中に最も完全な秩序の中に合成された愛のすべての情愛が、ここから知恵のすべての知覚が、そのように同時に合意を、またこのように一つのものをつくるようなものがあります。それら〔情愛と知覚〕は実体化されたものです、なぜなら、実体はそれらの主体であるからです。
 そこで、人間の形はそれらから合成されているとき、もし愛が攻撃されるなら、その全体の形もまた、そこにすべてと個々のものとともに、瞬く間にまたは同時に、攻撃されることが明らかです――また、すべての生きているものに創造からそれ自体の形の中にとどまることを欲することが与えられているので、このことを共通の合成された構造は個々のものから、また個々のものは共通のものから欲します。ここから、愛が攻撃されるとき、その理解力によってそれ自体を、そして理解力は理性的なものや想像上のものによって、それらによってそれ自体に結果を見える形で示すことによって、守ります。特に、それらによって行ないます、それらは攻撃される愛と一つのものです――それが行なわれないなら、愛が取り去られることから、その全部の形が滅ぼされるでしょう。
[2]さて、ここから、愛は、攻撃に抵抗するために、その形の実体を固くし、そして、鶏冠のように、同じ数のとげを立てます、すなわち、ひだになります。このようなものが愛の激昂であり、それは熱意と呼ばれます――それゆえ、もし、抵抗する能力が存在しないなら、内的ないのちを、その快さとともその消滅を先見するので不安と悲しみが起こります。
 けれども、逆に、もし愛が好感を持たれ、愛撫されるなら、その形はゆるめられ、やわらかくなり、広がり、そしてその実体の形は、柔らかく、穏やかな、柔和な、ここちよいものになります。

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361◀︎目次▶︎363

362 (3)人間の愛がどのようなものであるかによって、善の愛がある者に、また悪の愛がある者に、そのような熱意がある
 熱意は愛のものであるので、愛がどのようなものであるによって、そのようなものであることがいえます。また、全般的に二つの愛、善への愛とここから真理への愛、そして悪への愛とここから虚偽への愛があるので、ここから、全般的に善とここから真理のための熱意、また悪とここから虚偽のための熱意が存在します。
 しかし、両方の愛に無限の変化があることを知らなければなりません。
 このことは、天界の天使たちから、また地獄の霊たちからはっきりと明らかです――これらの者は、霊界の中で、自分の愛の形です、それでも、顔・話し方・歩行・振る舞い・態度に関して他の者と絶対的に似ている天界の天使はひとりも存在せず、地獄の霊もそうです。それどころか、永遠に存在することができず、両方の場所で、無数に増やされます。
 ここから、それらの形がこのようなものであるので、愛に無限の変化があることが明らかです。
 熱意も同様です、これは愛に属すからです。すなわち、ある者に他の者の熱意と絶対的に似ているかまたは同じである熱意が存在することができないことです。
 全般的に、善の愛の熱意があり、悪の愛の熱意があります。

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362◀︎目次▶︎364

363 (4) 善の愛の熱意と悪の愛の熱意は外なるものの中で互いに似ている、しかし、内なるものの中でまったく違っている
 外なるものの中での熱意は、それぞれの者のもとで怒りと憤りのように見られます、というのは、愛は、妨害者に対して自分自身を守るために、また彼を遠ざけるために、火をつけられ、燃え上がるから。
 善への愛の熱意と悪への愛の熱意が外なるものの中で似たものに見られる原因は、愛が熱意の中にある時、両方のもののもとで、しかし、善人のもとでは単に外なるものの中でだけ、しかし悪人のもとで外なるものの中でも内なるものの中でも燃え立ちます、また、熱意に内なるものが見分けられない時、同様のものが外なるものの中で見られるからです――しかし、内なるものの中でまったく違っている(似ていない)ことが、直ぐに続く項目の中で見られます。
 外なるものの中で、熱意が怒りと憤りのように見られることは、熱意から話し、行動するすべての者から見られ、聞かれることができます。例えば、熱意から説教するときの聖職者からです、彼の話し声は高く、て激しく、鋭くて荒っぽく、彼の顔は熱くなり、汗ばみ、高ぶり、説教壇を打ち叩き、悪を行なう者に対して地獄から火を呼び出します――他の多くの者たちも同様です。

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363◀︎目次▶︎365

364 善い者のもとの熱意と悪い者のもとの熱意について、そしてそれらの相違について、明確な観念得られるために、人間のもとの内なるものと外なるものについて、何らかの観念が形作られることが必要です。形作られるために、庶民のためでもあるのでそれらについて庶民の観念を持ち出して示します。
 それらをクルミまたはアーモンドによって、そしてそれらの種によって示します。
 善い者のもとの内なるものは、内部に健全さと善良さがあり、その通常のまた天然の殻に囲まれた種のようです――しかし、悪い者のもとでまったく異なっています。彼らの内なるものは、あるいは苦さのために、あるいは腐ったあるいは虫に食われた種のようであり、食べられません、しかし、彼らの外なるものは、天然のものに似たもの、あるいは貝殻のように赤みのある、あるいは多くの色の虹の石のような、それらの堅い外皮または殻のようです。そのようにそれらの外なるものは見られ、それらの内部に前述の内なるものが隠れています。彼らの熱意も同様です。

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364◀︎目次▶︎366

365 (5) 善の愛の熱意はその内なるものの中に愛と友情を隠している、しかし、悪の愛の熱意はその内なるものの中に憎しみと復讐を隠している
 熱意は外なるものの中で、善の愛の中にいる者のもとでも、悪の愛の中にいる者のもとでも、怒りと憤りのように見られることを言いました。しかし、内なるものは異なるので、怒りと憤りもまた異なります。以下のようにです――

(ⅰ) 善の愛の熱意は天界の炎のようであり、それは決して他の者の中に突発しない、しかし、ただそれ自体を守るだけであり、悪が火の中に乱入し、焼かれる時のように、それ自体を悪に対抗して守る――しかし、悪の愛の熱意は、地獄の炎のようであり、それはそれ自体から突発し、突進し、他の者を滅ぼすことを欲する。
(ⅱ) 善の愛の熱意は、他の者が攻撃から去る時、直ちに燃え尽き、和らぐ。しかし、悪の愛の熱意は、持続し、消えない。
(ⅲ) その原因は、善の愛の中にいる者の内なるものは、本質的に、穏やかで、優しく、友好的また好意的であるからである。それゆえ、外なるものがそれ自体を守るために厳しくし、ひだになり、立ち、そのように手荒く振る舞う時、それでも、彼の内なるものがその中にある善から和らげられる。悪い者のもとで異なる。これらの者のもとで、内なるものは、敵意・残酷・無情であり、憎しみと復讐をしたがり、それらの快さからそれ自体を養っている。たとえ和解されても、それでもそれは灰の下の木材の中に火のように隠れている。これらの火は、もし世で突発しないなら、それでも、死後に突発する。

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365◀︎目次▶︎367

366 熱意は、外なるものの中で善い者も悪い者も両方の者のもとで似たものに見られるので、またみことばの最終的な意味は対応と外観から成り立っているので、しばしば、エホバについてそこに、怒る、燃え立つ(激しく怒る)、復讐する、罰する、地獄へ投げ込む、ほかに多くのことが言われ、それらは外なるものの中での熱意の外観です。ここから、「ねたむ神」とも呼ばれています。そのときそれでも、怒り・憤り・そして復讐は、決してその方の中にありません。というのは、慈悲・恵み・柔和そのもの、そのように善そのものであられ、その中に何もそのようなものはありえないからです(これら多くのものについて著作『天界と地獄』(545–550番)、『啓示された黙示録』(494, 498, 525, 714, 806番)参照)。

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366◀︎目次▶︎368

367(6) 結婚愛の熱意は嫉妬と呼ばれる
真の結婚愛のための熱意は熱意の〔中の〕熱意です、その愛は愛の〔中の〕愛であり、その快さは、それらのためにも嫉妬しますが、快さの〔中の〕快さであるから、というのは、その愛は、前に示されたように、すべての愛の頭であるからです。その理由は、その愛は妻に愛の形を、そして夫に知恵の形をひき起こし、一つのものに結合されたこれらの形から、知恵と同時に愛から味わうもの以外に何らかのものは発出することができないからです。
結婚愛の熱意は熱意の〔中の〕熱意であるので、それゆえ、新しい名前で嫉妬(zelotypia)と呼ばれます、それは熱意(zelus)の型(typus)そのものです。

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367◀︎目次▶︎369

368 (7) 嫉妬は、配偶者の愛を悩ましているものに対する燃える火のようであり、その愛が奪われることに対する身震いする恐れのようである
 ここに、配偶者と霊的な愛にいる者の嫉妬について、続く項目の中で自然的な愛にいる者の嫉妬について、この後、真の結婚愛にいる者の嫉妬について扱います。
 霊的な愛にいる者のもとで、嫉妬はいろいろです、彼らの愛がいろいろであるからです、なぜなら、霊的あるいは自然的である愛は、ふたりの者のもとに、まして多くの者のもとに完全に似た愛は決して存在しないからです。
[2]霊的な嫉妬、すなわち、霊的な者のもとの嫉妬は、彼らの結婚愛を攻撃する者に対して燃え出す火のようであることは、両方の内なるものの中に愛の源があるからです、彼らの愛はその源から最終的なもの(最外部のもの)まで(最初の源からの)派生物に従い、同時に心と身体のものである中間のものから、愛らしいものの結び付きの中に保たれます。
 これらの者は、霊的であるので、その結婚の中で目的として結合を、またその中で霊的な休息を、そしてこの楽しさに目を向けています。さて、自分のアニムス(外なる心)から分裂を退けるので、それゆえ、その嫉妬は攻撃する者に対して奮起し、投げつける火のようです。
[3]さらにまた身震いする恐れのようであることは、彼らの霊的な愛は一つであるように意図しているからです。それゆえ、もし原因が存在するようになるかまたは分離の外観が起こるなら、結合された二つの部分が引き離される時のような身震いする恐れが生じます。
 霊的な結婚愛にいる者によりこれらの嫉妬の記述が私に天界から与えられました。というのは、自然的な結婚愛・霊的な結婚愛・天的な結婚愛があるからです。自然的な者と天界的な者〔=霊的な者〕そして彼らの嫉妬について、続く二つの項目の中で言います。

結婚愛

368◀︎目次▶︎370

369 (8) 一夫一婦の者に霊的な嫉妬があり、一夫多妻の者に自然的な嫉妬がある
一夫一婦の者のもとに霊的な嫉妬が存在することは、前に豊富に示したように、これらの者だけが霊的な結婚愛を受けることができるからです――存在すると言われます、しかし彼らのもとにありうることが意味されます。一夫一婦の結婚があるキリスト教界の極めてわずかな者のもとでないなら存在しません、しかし、それでもそこにあるうることは、前にも論証しました。
一夫多妻の者のもとの結婚愛は自然的であることは、一夫多妻についての章(345, 347番)の中に見られます。その時、嫉妬も同様であり、これは愛に続くからです。
[2]一夫多妻の者の嫉妬がどのようなものか、東洋人のもとのそれらについて、ある者たちの個人的な観察による物語で教えられます。それらは、妻たちやめかけたちは、強制収容所の中の捕虜のように守られ、男たちとのすべての連絡から妨げられ、抑えられること、女性用の部屋または見張り番がいる彼女たちの部屋の中に、宦官が伴っていないなら、男に入ることが許されないこと、もしある女が好色な目または顔つきで通り過ぎる者に目を向けるなら、厳しく監視されること、もしこれが認められるなら、女は打つことで懲らしめられること――もし狡猾さによってある男を入り口または外部に引き入れて、みだらなことを行なうなら、死で罰せられることです。

結婚愛

369◀︎目次▶︎371

370 これらから、一夫多妻の結婚愛が燃え上がっている嫉妬の火がどのようなものであるか、〔それが〕怒りと復讐の中にあることが確かに明らかにされます。柔和な者のもとで怒りの中に、また残酷な者のもとで復讐の中にあります。また、このことが彼らの愛が自然的であり、霊的なものにあずからないので、生じます。このことは「一夫多妻について」の章の中の論証からいえます、そこのこれらからです、「一夫多妻は好色である」(345番)、「一夫多妻の者は、一夫多妻の者にとどまるかぎり、自然的であり、霊的のものになることができない」(347番)。
けれども、自然的な一夫一婦の者のもとの嫉妬の火は別のものです――これらの者の愛は、女に対してそのように火をつけられません、しかし、妨害者に対して火をつけられます。前者に対して冷淡が、後者に対して怒りが生じます――一夫多妻の者たちのもとでは異なり、それらの嫉妬の火は復讐の興奮でもまた燃え立ちます――このことが、一夫多妻の者のめかけと妻たちが、死後、多くの部分に関して解放され、見張り番のない女性用の部屋へ、女の仕事であるいろいろなものを作ることへ追い払われることの理由でもあります。

結婚愛

370◀︎目次▶︎372

371 (9) 互いにやさしく愛する夫婦の嫉妬は、結婚愛が分裂され、こうして滅びないようにとの健全な理性からの正しい悲しみである
 すべての愛に、失われないようにという恐れ、もし失われるなら悲しむといった恐れと悲しみが内在します――同様なものが結婚愛に内在します。しかし、その恐れと悲しみは熱意と嫉妬と呼ばれます。
 互いにやさしく愛する夫婦のもとの熱意が、正しく健全な理性からであることは、同時に、自分のものだけでなく、配偶者の永遠の幸福もまた奪われることに対する恐れであり、姦淫に対する保護でもあるからです。
 自分と配偶者の永遠の幸福が奪われることに対する正しい恐れである最初のものについては、真の結婚愛についてこれまで示されたすべてのものからいえます。また、その愛から彼らの霊魂の至福、彼らの心の幸せ、胸の快さ、身体の快楽があることからいえます。これらが彼らに永遠にとどまるので、ふたりに永遠の幸福〔を奪われること〕への恐れがあります。
 その熱意が姦淫に対する正しい保護であることは明らかです。ここから〔その熱意は〕、性的暴行に対して、また自分自身を守ってそれに対してパッと燃え出す火のようです。
 これらから、配偶者をやさしく愛する者に嫉妬もあります、しかし、〔その嫉妬は〕男の知恵にしたがって正しく、健全であることが明らかです。

結婚愛

371◀︎目次▶︎373

372 結婚愛に、分裂されないようにと恐れが、そして滅びないようにと悲しみが植え付けられていること、またその熱意が性的暴行に対する火のようであることを言いました。
 かつて、これらについて瞑想していたとき、私は熱意あふれる天使たちに、嫉妬の座について質問しました。
 彼らは、「配偶者の愛を受け入れ、その性質が男の知恵にしたがっているその男の理解力の中にあります――さらにまた、嫉妬が、それもまた結婚愛に内在します、尊敬と何らかの共通なものを持っています、なぜなら、配偶者を愛する者は、彼女を尊敬もするからです」と言いました。
[2]「男のもとの熱意が彼の理解力の中に住んでいる理由は、善が真理によって守るように、結婚愛はそれ自体を理解力によって守るからです」と言いました。そのように妻は男と共通のものであるそれを、夫に通して守ります。それゆえ、熱意は男に植え付けられ、そして男を通して、男のために、女に植え付けられています。
 男たちのもとの心のどの領域の中に住んでいるかとの質問に、「彼らの霊魂の中にあります、姦淫に対する保護でもあるからです。これが特に結婚愛を破壊するからです。男の理解力は、性的暴行の危険の中で固くなり、姦淫者を突く角のようになります」と答えました。

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372◀︎目次▶︎374

373 (10) 互いに愛していない夫婦のもとに、多くの原因のために嫉妬がある。しかし、ある者のもとで、心のいろいろな病気からである
 互いに愛していない夫婦にもまた嫉妬がある原因は、特に能力の名誉、自分のそしてまた妻の評判が中傷される恐れ、そして家庭の事柄で揺り動かされないようにとの恐怖です。
 男に能力の名誉があること、すなわち、その能力から称賛されることを欲していることは、よく知られています。なぜなら、彼らにこの能力があるかぎり、心で高揚されているようであり、また男と女たちの間で顔で低くされない〔恥ずかしくない〕からです――その名誉に、強いことの評判もまた結び付けられています。それゆえ、軍務の士官に他の者よりもさらに固く宿ります。
 自分のまた妻の評判が中傷される恐れがあることは、前の原因と密接に関連します。追加の事実は、娼婦と一緒に住み、家が淫売宿のようであることは悪評であることです。
 家庭の事柄で揺り動かされないように、ある者に嫉妬があるのは、それだけ夫はみくびられ、そして相互の本分と助けが切り離されるからです。しかし、この嫉妬はある者のもとで時が経つにつれて終わり、無になります。また、ある者のもとで単なる愛の見せかけに変えられます。

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373◀︎目次▶︎375

374 ある者のもとの嫉妬が心のいろいろな病気からであることは、世に隠れていません。というのは、男とまたは男について親しげに話しているのを単に見るかまたは聞くだけで、妻について絶えず不誠実であると考え、彼女を淫婦と信じる者がいるからです。
 それらの病気をひき起こす、心の多くの欠陥があり、それらの間で、疑い深い幻想が第一位を占め、それがもし長い間、心に抱かれるなら、心が似た霊の社会の中に引き入られ、それらからほとんど連れ出されることできません。身体の中でも確かにされ、そのことによって漿液とここから血は、粘着性の、ねばねばした、濃い、鈍い、すっぱいものになります。活動力の不足もそれを増します、なぜなら、これが、心をその疑い深さから高揚されることができないように行なうから。というのは、活動力の臨在が高揚させ、それらの不在が滅ぼすから。なぜなら、このこと〔活動力の不足〕が、心が倒れ、つぶれ、衰えるように行ない、その時、その幻想により気が狂うまでもますます沈められるからです。これがやかましい言葉となり、許されるかぎり罵倒する快さになります。

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374◀︎目次▶︎376

375 さらにまた、ある地域には、他のものよりも困難な嫉妬に苦しむ家族が存在します。これらから妻たちは閉じ込められ、独裁的に男たちとの会話を抑えられ、格子を下まで伸ばして据えられた窓によって彼らの視野を妨げられ、そしてもし抱いた疑いの原因があばかれるなら、死のおどしで恐れさせられます。ほかに他のきびしいものあり、妻たちは自分の夫の嫉妬深さからそこでそれを苦しんでいます。
[2]しかし、この嫉妬の原因に二つのものがあります――一つは、教会の霊的なものについてその思考の捕らわれ状態と窒息です。もう一つは、復讐への内部の欲望です。
教会の霊的なものについてその思考の捕らわれ状態と窒息である最初の原因について、それが何を生み出すかは、前に示されたことから結論することができます、それぞれの者に自分のもとの教会の状態にしたがって結婚愛があり、教会は主からであるので、その愛はひとえに主からであることです(130, 131番)。そこで、主の代わりに、生きているまた死んだ人間に近づき、〔これが〕祈られるとき、教会とともに結婚愛が一つのものとして活動することができるその状態がないことがいえます。彼らの心がその礼拝へと、恐るべき(残虐な)牢獄へと脅迫によって恐れさせられるときそれだけ〔そうなります〕――ここから思考が話すことと一緒に、手荒くとりこにし、窒息させることが生じます。それらが窒息されて、あるいは教会に反するかあるいは教会に対して想像上のものであるこのようなものが流入します。それらからは、淫婦に対する熱情そして配偶者に対する凍結(凍るような寒さ)以外に何らかのものははね返ってきません。一つの主体の中に同時に〔存在する〕二つのそれらのものから、このような制御されていない嫉妬の火が流れ出ます。
[3]復讐への内部の欲望である第二の原因に関しては――これらは結婚愛の流入をまったく妨げ、それを吸収し、またそれと天界のものであるその快さをのみ込み、地獄のものである復讐の快さに変えて、これに密接に結びついた決断は妻へ向けられます。
外観からも大気の有害なものがあり、それが周囲の地域の毒性の発散物からそこに満たされていることは、副次的な原因です。

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375◀︎目次▶︎377

376 (11) ある者に何も嫉妬がない、このこともいろいろな原因からである
 嫉妬が何もない、また嫉妬をやめることに多くの原因があります。
 結婚愛を淫行愛よりも〔価値の〕多いものとしない、同時に名声を得ることに何も価値を置かない無名の者に、特に彼らに何も嫉妬がありません。これらの者は妻を持つポン引き(ひも)に似てなくもありません。
 確信して嫉妬を捨てる者にもありません、〔嫉妬が〕心(アニムス)を悩ませること、そして妻を見張ることが無益であり、もし見張られるなら、〔かえって〕刺激され、それゆえ、目を閉じて、決して、扉の鍵穴を通して覗かないで、何らかのものを視覚によってあばかないようにすることがさらに適切であることです――ある者は、男は何も恐れないことが男であると考えて、嫉妬〔深い者〕と呼ばれる中傷〔の恐れ〕から嫉妬を捨てます。ある者は、家庭の事柄が破壊されないように、なおまた、もし罪のある情欲の妻が非難されるなら、公共の中で侮辱が起こらないように、嫉妬を捨てることへ向けて追い立てられます。
 さらに、性的能力の不足のために妻に放縦を許す者のもとで、相続する子どもを生殖する理由のために、なおまた、ある者のもとで利得のために、嫉妬は重要でないものへと去っています、等々。
 淫行の結婚もあり、それらの中で相互の同意から両方の者が色情の放縦が与えられています、それでも互いに礼儀正しい顔で会っています。

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377 (12) めかけに対する嫉妬もあるが、このようなものは妻に対するようなものではない
 妻に対する嫉妬は人間のもとの最内部から、しかし、めかけに対する嫉妬は外なるものからわき出ます、それゆえ、別の種類のものです。
 妻に対する嫉妬が最内部からわき出る理由は、結婚愛がそこに住んでいるからです。そこに住んでいることは、結婚が契約によって確立されたその永遠の取り決めから、そしてまた権利の平等にしたがって、一方の者のものが他方の者のものであり、霊魂を結合させ、心を上部で結ぶからです――いったん与えられたこのきずなを結ぶこととその結合は、その後、間に起こる愛が、あるいは熱いあるいは冷たいどんな種類のものでも、引き離されないで残ります。
[2]ここから、妻からの愛への勧誘は、全部の男を最内部から最も外部のものへと冷たくします。しかし、めかけからの愛への勧誘は、愛する者にとってそのようではありません。
 妻に対する嫉妬に、名誉のための評判を求めることが加わっています。この嫉妬の付加的なものは、めかけに対するものにありません。
 しかしそれでも、それらの嫉妬は、妻から、めかけから受けた愛の座にしたがって、同時にそれを受けている男の判断の状態にしたがっていろいろです。

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378 (13) 嫉妬は獣にも鳥にもある
 獣に、例えば、ライオン・トラ・クマ、また多くのもの、それらに子がある時に〔嫉妬が〕あることは、よく知られています。ほかに、牛にも、たとえそれらに子がなくてもです――オンドリに最も明らかに見られます、オンドリは自分のメンドリのためにライバルと死ぬまでも闘います。
 これらにそのような嫉妬があることは、誇りある愛する者であるからです、そしてその愛の栄光は同等の者を容赦しません。それらがすべての鳥の種属よりも誇りある愛する者であることは、それらの振る舞い・身振り・足取り・鳴き声から見えます。
 男のもとの名誉の栄光が、愛する者も愛さない者も、嫉妬を高め、荒々しいものにすることは、前に確証されています。

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378◀︎目次▶︎380

379 (14) 男や夫にある嫉妬と女や妻にある嫉妬は異なる
 しかし、それらの相違は明確に述べられることができません、嫉妬が、互いに霊的に愛する配偶者と単に自然的に愛する配偶者のもとで別のものであり、アニムス(外なる心)で不和である配偶者のもとで別のものであり、配偶者を自分の服従のくびきの下にしている者のもとで別のものであるからです。
 本質的に見られた男また女の嫉妬は、別の起源からであるので異なっています――男の嫉妬の起源は理解力の中にあります、しかし、女の嫉妬の起源は自分の男の理解力に適合させた意志の中にあります。それゆえ、男の嫉妬は燃え上がる怒りの炎のようです。しかし、女には、いろいろな恐れで、夫に向けていろいろな見方で、自分の愛へ向けていろいろな顧慮で、これを嫉妬によって夫に明らかにしないようにするいろいろな思慮分別で抑制された火のようです――妻たちは愛です、そして男たちは受け入れるものであるので区別されます。そして、妻にとって、自分の愛を惜しみなく与えることは男のもとで障害となりません、しかし妻のもとで、受け入れる者〔男〕に同様ではありません。
[2]けれども、霊的な者のもとで異なります。これらの者のもとで、妻の愛が男の中に移されるように、男の嫉妬は妻の中に移されます、それゆえ、両方の側に、妨害者の努力に対して自分自身と同様のものが見られます。しかし、妨害者である娼婦の努力に対して、妻の嫉妬は、涙を流し、良心を刺激する悲しみのように、男に吹き込まれます。

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379◀︎目次▶︎381

37 討議:自然はいのちに属すものか、あるいは、いのちは自然に属すものか。なおまた、いのちのまた自然の中心と広がりについて

380 (二つのメモラビリアを加えます、最初のものはこれ——)
かつて私は、創造を、またここから太陽の下のすべてのものを、太陽の上にあるすべてのものを、自然に帰する膨大な数の人間について驚いていた。あるものを見るとき、「これは自然のものではないのか?」と心から認めて言い、それゆえ、「なぜそれらは自然のものであり、神のものでないのか」、と質問されるとき、そのときそれでも、交際しているときは、ときどき、「神が自然を創造した」と言い、ここから見られるものを等しく、「神のものである」とも「自然のものでもある」とも言うことができる。しかしほとんど聞こえない内にこもった声で、「自然でないなら、神とは何か?」と答えている。
彼らは、自然からの全世界の創造についての確信から、またその狂気から、知恵からのように自慢し、神による全世界の創造を認めるすべての者を、地面を這い、いつもの道を行くアリのように、空中を飛ぶチョウのように眺め、それらの教えを、見ないものを見ているので、「だれが神を見たか、だれが自然を見なかったか?」と言って、夢と呼んでいる。
[2]このような者の多数について、私が驚いていた時、脇から天使が私のそばに立って、「何をあなたは熟考しているのですか?」と言った。
私は答えた、「自然が全世界を創造したことを信じているこのような多くの者についてです」。
すると天使が私に言った、「全地獄はこのような者からであり、そこではサタンと悪魔と呼ばれています。サタンは、自然として自分自身に確信し、ここから神を否定した者です。悪魔は、無法に生き、このように心から神の認知のすべてを退けた者です。しかし、私はあなたを南西にある学校(gymnasium)へ案内しましょう、そこにはまだ地獄にいないような者がいます」。
そして、私の手をつかみ、案内した。私は小さい家々を、それらの真ん中に学校を見た、その真ん中に他のものの中心施設のようなものがあった。これはピッチのような色(=黒色)の石から建てられていて、それはあたかもきらめくかのような金や銀からのガラス製の小板でおおわれていた、それらは「マリアの氷」と呼ばれるものであり、同様にあちこちに光り輝く貝殻がちりばめてあった。
[3]ここへ私たちは近づき、たたいた。間もなく、ある者が扉を開け、「ようこそ!」と言った。机へ走り、4冊の本を持ってきて言った、「これらの本は知恵である、これらを国々の大衆が、今日、称賛している。この本、すなわち、この知恵をフランスで多くの者が称賛している、これを多くの者がドイツで、これをある者がオランダで、これをある者がイギリスで称賛している」。
さらに言った、「もしあなたがたが見たいなら、私はこれらの四つの本をあなたがたの目の前で輝くようにする」。その時、自分の名声への称賛が拡散し、取り巻き、間もなく、本は光からのように輝いた。しかしこの光は私たちの目の前で直ちに消えた。
その時、私たちは、今、何を書いているか質問した。答えた、「今は、最内部の知恵のものである、それらを自分の宝庫から引き出し、取り出そう、それらの大要はこれらである」——

(1) 自然はいのちからのものであるのか、あるいは、いのちは自然からのものであるのか。
(2) 中心は広がりのものであるのか、あるいは、広がりは中心のものであるのか。
(3) 自然のまたいのちの中心と広がりについて。

[4]これらを言って、机の椅子へ戻った。けれども、私たちはその広い学校の中を歩いた。
彼は机の上にロウソクを置いた、そこに昼の太陽の光がなく、夜の月の光があったからである。驚いたことに、ロウソクがそこの周囲を動き回り、照らすのが見られた。しかし、それは芯を切っていなかったので、わずかに照らした。彼が書いていたとき、私たちは、いろいろな形で机から内壁へと飛ぶ像を見た。それらはその夜の月の光の中で、インドの美しい鳥〔クジャク〕のように見えた。しかし私たちが扉を開けたとき、見よ、それは太陽の昼間の光の中で、翼に網目がある夕方の鳥〔コウモリ〕のように見えた。というのは、それは確信によって欺きへ作られ、彼により巧妙に連続してつなぎ合わされていた真理の外観であったからである。
[5]私たちがこれらを見た後に、私たちは机に近づき、、今、何を書いているのか、彼に質問した。
彼は、「その最初のもの、自然はいのちからのものであるのか、あるいは、いのちは自然からのものであるのか、についてである」と言った。このことについて彼は、両方とも確認すること、真理であるとしてつくることができる。しかし内部に何らかの深遠なものが隠れて、それを恐れるので、自然はいのちのものである、すなわち、いのちからであること、けれども、いのちは自然のものである、すなわち、自然からであることをあえて確認しない、言った。
私たちは穏やかに、内部に隠れているもの、それを恐れる深遠なものとは何か、と質問した。
彼は、「盲目の信仰から信じる者たち、あるいはその信仰を確認している視覚から見ている者たちから、自然主義者〔自然を神として崇拝する者〕、このように無神論者と聖職者から、また平信徒から健全な理性のない男と呼ばれてしまうことである」と答えた。
[6]しかしその時、真理のための熱意のある種の憤りから、私たちは彼に話しかけて、言った、「友よ、あなたは大いに欺かれています。書くことの才気であるあなたの知恵が、あなたを惑わせました、名声の称賛が、あなたが信じないものを確認することへ導きました。
人間の心が感覚的なものの上に高められることができるものであることはよく知られていませんか? 身体の感覚から思考の中にあるものは、高められるとき、上にあるものを、また下にある自然的なものを見ます。
愛と知恵以外の何らかのいのちとは何ですか? それらの容器以外の何らかの自然とは何ですか? それによってその結果またはその役立ちを生み出します。これら〔愛や知恵と自然〕は一緒であることができますか? 光は目と一緒であることができますか? 音は耳と一緒ですか? これらの感覚は、いのちからでないなら、それらの形は自然からでないなら、どこからですか? 人間の身体は、いのちの器官以外でないなら、何ですか? その人体のすべてと個々のものは有機的に形作られていませんか? それらを生み出すために、それらを愛が意志に、そして理解力が考えます。自然から身体の器官が、そしていのちから愛と思考が存在しませんか? それらは互いにまったく別ものとして存在しませんか?
知力の鋭さを、さらに少しさらに高いところに上げてみなさい、するとあなたは、働きかけられることと考えることがいのちのものであること、働きかけられることが愛から、考えることが知恵からであり、そして両方のものがいのちのものであることを見るでしょう、なぜなら、言われたように、愛と知恵はいのちであるからです。
もしあなたがさらに理解する能力を少し高く上げるなら、あなたは、愛と知恵が、それらの起源があるところでないなら、存在しないこと、それらの起源は〔愛そのものと〕知恵そのもの、ここからいのちそのものであり、これらは神であり、その方から自然があることを見るでしょう」。
[7]その後、私たちは彼と第二のもの、中心は広がりのものであるのか、あるいは広がりは中心のものであるのか、について話した。私たちは、なぜこのことを発表(議論)するのか、質問した。
「自然といのちの中心と広がりについて、そのように一つともう一つの起源について証明する目的のためである」と答えた——私たちが、それが彼の心〔の中にある見解〕であるか質問したとき、これらについて最初のものと同様に、両方とも確認することができること、しかし名声が失われることの恐れから、広がりが中心のものであること、すなわち、中心からであることを確認した。「それでも、私は、太陽の〔存在する〕前に何らかのものがあったこと、これは広がりの中のどこにでも、これが秩序の中へそれ自体から、そのように中心の中へ群がり集まったことを知っている」と答えた。
[8]しかしその時、再び、熱意から憤って彼に話しかけた、「友よ、あなたは狂っています」。このことを聞いた時、彼は机から椅子を遠ざけ、臆病になって、私たちを注視し、その時、耳を向けた、しかし〔疑いをもって〕ほほ笑んでいた。
しかし、私たちは続けて言った、「中心は広がりからである、と言うこと以上にさらに何が狂っていますか? あなたの〔言う〕中心によって、私たちは太陽を、また、あなたの〔言う〕広がりによって、私たちは全世界を理解します、このように全世界は太陽なしに存在したのですか? 太陽は自然とその所有物のすべてのものを生じさせませんか? それらはもっぱら大気を通って太陽から発出する光と熱に依存します。これらは以前どこに〔存在しましたか〕?
しかしこれらがどこからか、続きの中で、話題に取り上げて、言いましょう。大気は、また地球の上のそれらすべてのものは、表面のようであり、太陽はその中心ではありませんか? 太陽なしにそのすべてのものは何ですか? 一瞬でも存続することができますか? ここから、太陽〔が存在する〕以前にそれらすべてのものは何ですか? 存在するようになることができましたか? 存続は永続する存在ではありませんか?
そこで、自然のすべてのものの存続が太陽からであるとき、すべてのものの存在もまた太陽からであることがいえます。このことを見ます、また個人的な観察からそれぞれの者が認めます。
[9]後のものが存在するように、前のものからもまた存続するのではありませんか? もし表面が前のもの、中心が後のものであったなら、前のものは後のものから存続することになり、そのことはそれでも、秩序の法則に反していませんか? どのように、後のものが前のものを、または外的なものが内的なものを、またはさらに粗雑なものがさらに純粋なものを生み出すことができますか? ここから、広がりをつくる表面は、どのように中心を生み出すことができるのですか? このことが自然の法則に反していることをだれが見ませんか?
私たちはこれらの論拠を理性の分析から言い加えたのは、広がりは中心から存在し、逆ではないことを確認するためですが、それでも正しく考えるそれぞれの者が、これらのことがなくても、このことを見ます。
あなたは、広がりがそれ自体から中心へ群がり集まった、と言いました。これほどに不思議なまた驚くべき秩序の中に、一つがもう一つのために、そのように、またすべてと個々のものが人間のために、また彼の永遠のいのちのために、このように偶然にですか? 自然は何らかの愛から何らかの知恵を通してこのようなものを備えることが、また人間から天使を、天使から天界をつくることができますか? これらを前に置き、考えてみてください、すると、自然からの自然の存在についてのあなたの観念は崩壊します」。
[10]この後、私たちは彼に、第三のもの、自然のまたいのちの中心と広がりについて、何を考えたか、またその時、何を考えているか、いのちの中心と広がりが自然の中心と広がりと同じである、と信じているか質問した。
彼は言った、当惑していること、最初は、自然の内的な活動がいのちである、本質的に人間のいのちをつくる愛と知恵はそこからであると思ったこと。また、太陽の火は、熱と光によって、大気を手段〔として〕それら〔いのち〕を生み出したこと、しかし、今、人間の永遠のいのちについて聞いてからは、疑いの中にいて、この疑いが心をある時は上へ向かうように、ある時は下へ向かうようにすること、また、上へ向かうとき、中心を認める、それについて最初は何も知らなかった。また、下へ向かうとき、中心を見る、それを唯一のものと信じた。また、いのちは中心からであり、それについて最初は何も知らなかった、また、自然が中心からであること、それを最初は唯一のものであること、また両方の中心がそれ自体のまわりに広がりをもっていることを信じた。
[11]これらに、私たちは、「いのちの中心と広がりから自然の中心と広がりを、また逆にでなく、眺めることもまた欲するかぎり、それでよいです!」と言った——私たちは彼に〔次のことを〕教えた——
「天使の天界の上に純粋な愛である太陽があり、外観に関して世の太陽のような火であり、その太陽から発出する熱から、天使と人間に意志と愛があり、ここからの光から彼らに理解力と知恵があること。また、それらは霊的なものと呼ばれるものからであり、それらは世の太陽から発出し、いのちの容器であり、自然的なものと呼ばれること。なおまた、いのちの中心からの広がりは霊界と呼ばれ、それはその太陽から存続し、自然の広がりは自然界と呼ばれ、それはその太陽から存続すること。
さて、愛と知恵について、空間と時間は属性とされることができず、しかしそれらの代わりに状態があるので、天使の天界の太陽のまわりの広がりは広がりではない、しかしそれでも、自然的な太陽の広がりの中にあり、そこにいのちの主体のもとに受容にしたがって広がりがあり、受容は形にしたがっていること」。
[12]しかしその時、彼は、「世または自然の太陽の火はどこからか?」と質問した。
私たちは、天使の天界の太陽からであり、それは火ではなく、神から最も近く発出している神的愛であり、その方は愛そのものである、と答えた。
このことは〔彼には〕不思議であるので、私たちはこのように示した——
「愛はその本質の中で霊的な火です。ここから、みことばの中の火はその霊的な意味で愛を意味します。そのゆえ、神殿の中で聖職者たちは、天界の火が心を満たすように、と祈ります、その火によって彼らは愛を理解します。イスラエル民族のもとの幕屋の中の祭壇の火、燭台の火は、神的愛以外の何も表象しませんでした。血の熱は、または人間の、また一般的に動物の生命力の熱は、愛から以外の別の源泉からではなく、それはそれらの生命をつくります。ここから、人間は彼の愛が熱意・怒り・憤りの中で高められる時、火をつけられ、熱くなり、興奮します。それゆえ、そのことから、愛である霊的な熱は、人間のもとに自然的な熱を生み出し、熱くなるまでも彼らの顔と手足に火をつけること、自然的な太陽の火は、神的愛である霊的な太陽の火から以外に、他の源泉から存在しないことを明らかにすることができます。
[13]さて、広がりは中心から生じるので、また逆でなく、前に私たちが言ったように、いのちの中心は、それは天使の天界の太陽であり、神から最も近く発出する神的愛であり、その方はその太陽の真ん中におられます。ここから、その中心の広がりがあるので、それは霊界と呼ばれます。また、その太陽から世の太陽が存在するようになったので、このことからその広がりが、それは自然界と呼ばれ、全世界は唯一の神により創造されたことが明らかです」。
これらの後、私たちは去った。彼は自分の学校の入り口を越えて、私たちに同行し、私たちと、新しい知力の賢明さで、天界と地獄について、神的統治について話した。

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380◀︎目次▶︎382

38 女性の美の起源についての演説者たち

381 (第二のメモラビリア——)
かつて、私が霊たちの世界であたりを見回したとき、遠方に群衆により取り巻かれたあたかも包囲されたかのような宮殿を見た。そしてまた、走り寄っている多くの者を見た。
そのことに驚いて、私はすみやかに家を出て、走り寄っている者に、その事柄について質問した。
彼は、「世から新たに到着した三人が天界へ上げられ、そこに荘厳なものを、そしてまた驚くばかりに美しい娘と妻たちを見た。そしてその天界から降ろされて、その宮殿の中に入れられ、そしてそれら見たものを話した。特に、彼らの目が決して見なかったし、天界のオーラの光から照らされないなら、見ることもできないような美しいものである」と話した。
彼ら自身について、「世ではフランス国出身の雄弁家であった。雄弁術に専心したこと、今や、自分たちに美の起源について話そうとする欲望が生じた」と言った。
このことが近隣によく知られていたので、聞きたいために多くの者が群がり集まった。
これらを聞いて、私もまた急いだ。真ん中に立ち、サファイア(青玉)色のトーガを着ていた3人の男を見た、そのトーガは織り込まれた金糸から、向きを変えるしたがって金のように輝いた。
彼らは直ぐにも話そうとしてある演壇の後ろに立った。間もなく、演壇の後ろの階段の上に、女性の美の起源について演説しようとする者が立ち上がり、〔次の〕これらを言明した——

結婚愛

381◀︎目次▶︎383

382 「愛以外に美の何らかの起源とは何か? それは若者の目へ流入するとき、彼らに火をつけ、美を生じる。それゆえ、愛と美は同じものである。というのは、愛は最内部からある種の炎で適齢期の娘の顔をかすかに染め、その透明さから、彼女のいのちの夜明けとその紫色〔の空〕がある。
 彼女の炎がその目の中へ光線を送ることをだれが知らないか? それは輪の中の中心からのように顔に拡がり、そしてまた胸の中へ行き、そして心臓に火をつけ、そばに立つ者にこのように働きかける火の熱と光でしかないことである。その熱は愛であり、その光は愛の美である。
 それぞれの者が自分の愛にしたがって愛らしく、美しいことは、全世界で同意され、確立されている。しかしそれでも、男性の愛と女性の愛は別ものである。男性の愛は賢明になろうとする愛であり、女性の愛は男性の中の賢明になろうとする愛を愛そうとする愛である。そこで、若者に賢明になろうとする愛があればあるほど、それだけ娘に対して愛らしく、美しい。また娘に若者の知恵への愛があればあるほど、それだけ彼女たちは若者に対して愛らしく、美しい。それゆえ、愛がもう一方の愛に出会い、キスするように、美もそのようである——そこで、私は、愛が美をそれ自身に似たものに形作る、と結論する」。

結婚愛

382◀︎目次▶︎384

383 この後、もうひとりの者が立ち、丁寧な話しによって、美の起源を示した。
 この者は言った、「私は、愛が美の起源であることを聞いた。しかし承諾も賛同もしない。
 人間のだれが、愛とは何か知っているのか? だれが何らかの思考の観念でそれを熟考したのか? だれが目でそれを見たのか? 言ってみよ、どこにあるか。
 しかし、私は、知恵が美の起源であることを断言する。女の中で、知恵は内部で隠れ、秘められている。男の中で、知恵は開かれて、明らかに見られる。
 知恵からでないなら、どこから人間は人間であるのか? ここからでないなら、人間は彫像または絵画になったであろう。
 娘は、若者のもとにどのような知恵があるか〔そのこと〕以外に何に留意するのか? また若者は、娘のもとの自分の知恵の情愛がどんなものであるかでないなら、何に留意するのか?
 知恵によって、私は理解しているものは本物の徳性である、これが生活の知恵であるからである。
 ここから、隠れている知恵が開かれている知恵に近づき、抱擁されるとき、それは両方の霊の内部で生じ、互いにキスし、結合し、それが愛と呼ばれる。その時、両方の者が自分自身に美しい者として見られる。
 一言でいえば、知恵は火の光または輝きのようであり、それが目を打ち、打つかぎり美を形作る」。

結婚愛

383◀︎目次▶︎385

384 この後、第三の者が立ち、これらを話した——
 「美の起源は愛だけでもなく、知恵だけでもない。しかし愛と知恵の結合であり、若者の中で知恵との愛の結合、そして娘の中でその愛と知恵との結合である。というのは、娘は自分自身の中の知恵を愛さない、しかし若者の中の知恵を愛し、ここから彼を美として見る、また若者がこのことを娘の中に見る時、彼女を美として見るからである。それゆえ、愛は知恵によってその美を形作り、そして知恵は愛からその美を受け入れる。
 そのようであることは、天界ではっきりと見られる——私は、そこに娘と妻たちを見た、また美へ心を向け、まったく別のものを娘たちと妻たちの中に見た。娘たちの中に単なるその輝きを、けれども、妻たちの中にその光輝を見た。私は、光からきらめくダイヤモンドと、同時に火からひらめくルビーのような違いを見た。
 視覚の歓喜でないなら、何が美か? 愛と知恵の戯れからでないなら、この歓喜の起源はどこからか? この戯れから視覚が赤く輝き、この赤みが目から目の中へときらきら光り、美を見せる。
 赤色と白光りが、またこれらの愛らしい混合がそれ自体の間にないなら、何が顔の美をつくるのか? 愛から赤色が、知恵から白光りがあるのではないか? というのは、愛は自分の火から赤く、知恵は自分の光から白く輝くから——私はこれらの二つを天界のふたりの夫婦の顔の中に、白光りの赤色を妻の中に、また赤色の白光りを夫の中に見た。また私は、相互の見つめ合いから輝いたことに気づいた」。
 第三の者がこれらを話したとき、集団は拍手喝采し、「この者が勝った」と叫んだ。
 すると急に、燃えるような光が、それは結婚愛の光でもあるが、輝きで家を満たし、同時に彼らの心を楽しさで満たした。

結婚愛

384◀︎目次▶︎386

(十六)幼児への愛と結婚愛の結合について

385 結婚愛と親心(ストルゲー)と呼ばれる幼児への愛が結合されていることを明らかにするしるしがあります。そしてまた、結合されていないという信念をひき起こすことができるしるしがあります。というのは、心から互いに愛する夫婦のもとに、また心で不和である夫婦のもとに存在するからです。そしてまた、分離している者のもとに幼児への愛が存在し、時々、後者のもとで、前者よりもさらに優しいものや強いものとなっているからです。
しかし、それでも幼児への愛は結婚愛と永続的に結合されていることは、それが流入する起源から明らかにすることができます。たとえその起源は受け入れる者たちのもので変えられても、それでもそれらの愛は、最初の目的が結果である最後の目的の中にあるように、ばらばらにされないで完全に残っています。
結婚愛の最初の目的は子孫を産むことです。結果である最後の目的は生まれた子孫です。
最初の目的は結果の中へ移動し、そしてそこにその始めのものの中にあるかのように存在し、それから引き下がらないことは、目的と原因の進行について、理性的な熟考から結果へ向かうその順序の中で見られることができます――しかし、非常に多くの(誤まった)推論は、結果から始まり、それらから何らかの帰結へ進み、原因からではなく、またこれらから分析的に結果などへは進まないので、それゆえ、光の理性的なものは雲の不明瞭なものを生じるしかなく、ここから外観と欺きから起こる真理からの逸脱があります。
けれども、結婚愛と幼児への愛がたとえ外的に分離されていても、内的に結合されていることが見られるために、この順序で示します。
(1) 全世界を創造された状態に保つために、主から二つの普遍的なスフェアが発出している。それらの一つは産むスフェアであり、そしてもう一つは産んだものを守るスフェアである。
(2) それらの二つの普遍的なスフェアは、結婚愛のスフェアと、幼児への愛のスフェアと一のものとなっている。
(3) それらの二つのスフェアは、全般的にまた特定的に、最初のものから最後のものまで、天界のすべてのものの中へまた世のすべてのものの中へ流入している。
(4) 幼児への愛のスフェアは、自分自身を守り、支えることができない者を守り、支えるスフェアである。
(5) このスフェアは、悪い者にも善い者にも働きかけ、そしてそれぞれの者を、自己の愛から自分の子を愛し、守り、支えるために制御している。
(6) このスフェアは、特に女性に、そのように母に働きかけ、彼女たちから男性または父に働きかけている。
(7) このスフェアは主からの無垢と平和のスフェアでもある。
(8) 無垢のスフェアは、幼児の中へ、また彼を通して両親の中へ流入し、働きかけている。
(9) 両親の霊魂の中へも流入し、それ自体を幼児のもとの同じスフェアに結合させ、特に触覚によって徐々にしみ込んでいる。
(10) 幼児のもとの無垢が去る段階の中で、それだけますます、情愛と結合も、徐々に分離へまでも弱められる。
(11) 幼児に対する両親のもとの無垢と平和の理性的な状態は、〔幼児が〕自分自身からでは何も知らず、できない、しかし、他の者から、特に父と母から知り、できることである。その状態もまた、他の者からでなく自分自身から知り、できるようになるに応じて徐々に去る。
(12) そのスフェアは、順に目的から原因を通して結果へ前進し、そして周期をつくる。それによって創造は先見されたものと備えられたものの状態に保たれる。
(13) 幼児への愛は下降し、上昇しない。
(14) 妊娠前とその後の出産までとで、妻にとって愛の状態は異なっている。
(15) 霊的な原因とここから自然的な原因によって、結婚愛は両親のもとで幼児への愛と結合されている。
(16) 幼児への愛や子どもへの愛は、霊的な夫婦と自然的な夫婦のもとで別ものである。
(17) 霊的な者のもとで、その愛は内的なまたは前のものからある、けれども、自然的な者のもとで、外的なものまたは後ろのものからある。
(18) その愛が相互に愛する夫婦のもとにも、互いにまったく愛さない夫婦のもとにもあるのはここからである。
(19) 幼児への愛は、死後、特に女のもとに残る。
(20) 幼児は主の導きのもとで彼女たちによって教育され、そして世でのように背丈と知性が増大する。
(21) そこでは、彼らのもとで幼児の無垢が知恵の無垢になるように、そしてそのように幼児は天使となるために、主により備えられている。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

385◀︎目次▶︎387

386 (1)全世界を創造された状態に保つために、主から二つの普遍的なスフェアが発出している。それらの一つは産むスフェアであり、そしてもう一つは産んだものを守るスフェアである
性はスフェアと呼ばれ、その方から出て、その方を囲み、霊的なものと自然的なものの両方の世界を満たし、そして主が創造の中で予定し、その後、備えた目的の結果を生み出すからです。
主体から流れ出て、それを囲み、まわりに群がるすべてのものは、スフェアと名づけられます――例えば、太陽からそのまわりの光と熱のスフェア、人間からそのまわりのいのちのスフェア、灌木からそのまわりの香りのスフェア、磁石からそのまわりの引きつけることのスフェア、等々です。
[2]しかし、ここに扱われる普遍的なスフェアは、主からその方のまわりのもの、そして、霊界の太陽から発出し、その真ん中にその方がいるものです。
主からその太陽を通して熱と光のスフェアが、すなわち、同じものですが、愛と知恵のスフェアが、役立ちである目的を生み出すために発出します。しかし、それらのスフェアは、役立ちにしたがって、いろいろな名前で区別されています。
全世界の維持に備えて、継続する生殖によって、創造された状態に保つ神的スフェアは産む(発生させる)スフェアと呼ばれます。また、生殖の維持を始まりの中に、またその後、その進行の中に備える神的スフェアは、産んだものを保護するスフェアと呼ばれます――これらの二つのもののほかに、他の多くの神的なスフェアがあり、それらは役立ちにしたがって、そのように異なって、名づけられています(前の222番参照)。
それらのスフェアを通して役立ちを働くことが神的摂理です。

結婚愛

386◀︎目次▶︎388

387 (2) それらの二つの普遍的なスフェアは、結婚愛のスフェアと、幼児への愛のスフェアと一つのものとなっている
 結婚愛のスフェアが幼児への愛のスフェアと一つのものとなることは明らかです。というのは、産むことは目的であり、結婚愛はそれを通して働く中間の原因であり、そして目的と原因は産むことの中で、また結果の中で一緒であるので、一つとして働くからです――幼児への愛のスフェアが産んだものを保護するスフェアと一つのものとなることもまた明らかです、〔それは〕産むことである先行する目的から発出している目的であり、幼児への愛はその産むことを通してその〔愛が働く〕中間の理由であるからです――というのは、目的はあるものの後にもう一つのものといった連鎖の中で進行し、最後の目的の進行する中で最初の目的を生じ、このように最後のものを生じ、最終段階まで、その中でとどまるかあるいは終わるからです。(しかし、これらについて多くのものが項目(12)の説明の中に見られます)。

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387◀︎目次▶︎389

388 (3) それらの二つのスフェアは、全般的にまた特定的に、最初のものから最後のものまで、天界のすべてのものの中へまた世のすべてのものの中へ流入している
 全般的にまた特定的にと言われるのは、全般的なものが言われるとき、同時に、それらから〔全般的なものがある〕特定のものが意味されるからです。というのは、これら(特定のもの)からそれら(全般的なもの)が存在するようになり、存続し、そのように部分から共有のもの(全般的なもの)が名づけられるからです。それゆえ、もしあなたが特定のものを取り去ったなら、全般的なものは単なる名前であり、また内部に何らかのものがない表面のようなものです――それゆえ、神に全般的な統治を帰し、特定のものを取り去ることは、空虚な言葉、またこのように無意味な述語(属性の割り当て)です。
 地上の王の全般的な統治との比較は有効ではありません。
 さて、ここから、それらの二つのスフェアが全般的にまた特定的に流入することが言われます。

結婚愛

388◀︎目次▶︎390

389 産むスフェア、そして産んだものを守るスフェアが、すなわち、結婚愛のスフェアと幼児への愛のスフェアが、最初のものから最後のものまで、天界のすべてのものの中に、また世のすべてのものの中に流入することは、主から、すなわち、その方からの、またその中にその方がいる太陽から発出し、創造された全世界のすべての最後のものまでも、すべてのものを通過するからです。その原因は、前進する中で天的なものと霊的なものと呼ばれる神性は、空間と時間のないものであるからです。霊的なものについて、空間と時間のものが何もないので、広がりの属性は何もないことがよく知られています。ここから、主から発出するどんなものでも、瞬く間に、最初のものから最後のものの中にあります――結婚愛がそのように普遍的なものであることは、前に見られます(222–225番)。
[2]同様に幼児への愛が普遍的であることは、地上からの幼児たちがいる天界のその愛から、そして世の人間のもとの、獣や鳥・ヘビ・虫のもとの愛から明らかです――この愛の類似したものが植物界や鉱物界にも存在します。植物界では、種がむつきの帯のように外皮によって、そしてなおまた、家の中のように実の中に守られています、そして乳でのように液汁で養育されます。鉱物の中に何らかの似たものがあることは、母岩やおおいから明らかです、それらの中にみごとな宝石や貴金属が、隠され、守られています。

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389◀︎目次▶︎391

390 産むスフェア、産んだものを守るスフェアが、継続する連鎖の中で一つのものとなっていることは、産む愛が産んだものへの愛の中に持続されるからです――産む愛がどんなものであるかはその快さから知られ、それは卓越し、限度を越えるものです。その中に、男のもとに産むことの状態があり、そして女のもとに目に見えて受け入れる状態があります。
 この最高の快さがその愛とともに出産の中に続き、そこにそれ自体を満たします。

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390◀︎目次▶︎392

391 (4) 幼児への愛のスフェアは、自分自身を守り、支えることができない者を守り、支えるスフェアである
主から発出しているスフェアを通して、その方による役立ちの働きが神的摂理であることは、前に言われました(386番)。それでこのことが、自分自身を守り、支えることができない者を守り、支えることのスフェアによって意味されます――というのは、被造物が保存され、保護され、守られ、支えられることが、創造からであり、そうでなければ、全世界は滅びるであろうからです。しかし、それは自由裁量のままに残されている生きている者のもとに、直接に主により行なわれることができないので、それは、父たち、母たち、乳母たちにより植え付けられた自分の愛を通して間接的に行なわれます。彼らの愛が、彼らのもとの主からの愛であることを知らないのは、流入を、まして主の遍在を知覚しないからです。
しかし、これが自然のものではなく、自然の中で自然を通して働いている神的摂理であることを、だれが見ませんか。また、このような普遍的なものは、全世界の中心にある主からのある種の霊的な太陽とその働きを通してでないなら、存在することができません、なぜなら、空間と時間なしに、最初のものから最後のものの中に瞬間のうちに現在するからです。
[2]けれども、主の神的摂理であるその神的働きが、神性が生命のあるものにより、どのように受け入れられるか、続きの中で言います。
母や父たちが自分自身を守り、支えることができない幼児たちを守り、支えることは、その愛の原因ではなく、理解力の中に落ち込んでいる理性的な原因です。というのは、人間はそれを吹き込み、吹き込んでいる愛なしに、またはそれを強いる法律や罰なしに、この〔理性的な〕原因だけからでは、彫像ほどにも幼児に備えることをしないからです。

結婚愛

391◀︎目次▶︎393

392 (5) このスフェアは、悪い者にも善い者にも働きかけ、そしてそれぞれの者を、自己の愛から自分の子を愛し、守り、支えるために制御している
 幼児への愛または親心(ストルゲー)が悪い者のもとにも善い者のもとにも、同様に、おとなしい獣と獰猛な獣のもとに等しくあること、それどころか、獰猛な獣のもとのように悪い人間のもとで、時々、さらに強く、またさらに激しくあることは、経験が証言しています――その原因は、主から発出し、そして流入するすべての愛は、主体の中でそのいのちの愛へ変えられるからです。というのは、生命のあるそれぞれの主体は、自分自身から愛するとしか感じないから、というのは、流入を知覚しないからです。さらにまた、実際に自分自身を愛する時、幼児への愛を自分の自己〔プロプリウム〕の愛にします、なぜなら、いわば彼らの中に自分自身を、自分自身の中に彼らを、また自分自身を彼らとそのように結合されたものとして見るからです。
[2]さらにまたここから、獰猛な獣のもとのその愛は、馬・鹿・ヤギ・ヒツジのもとよりも、ライオンと雌ライオン・熊と雌熊・ヒョウと雌ヒョウ・オオカミと雌オオカミ、また同様の他のもののもとのように、さらに残虐です。その理由は、それらの獰猛な獣には、おとなしい獣を支配し、ここから支配力を有する自己の愛があり、またこの愛は自分自身をその子孫の中で愛するからです。それゆえ、言われたように、流れ入る愛は自己(プロプリウム)の愛へ変えられます。
 プロプリウムへ流れ入るこのような愛の反転は、またここから悪い親たちからの子や子孫の保護と維持は、主の神的摂理からです、なぜなら、そうでなければ、人類からわずかな者でないなら、また、凶暴なそれでも役に立つ獣から何らかのものが残らないからです。
 これらから、それぞれの者が、自己(プロプリウム)の愛から自分の子(子孫)を愛し、守り、支えるために制御されることが明らかです。

結婚愛

392◀︎目次▶︎394

393 (6) このスフェアは、特に女性に、そのように母に働きかけ、彼女たちから男性または父に働きかけている
このことは、それについては前に述べた同じ起源からいえます〔223番〕、結婚愛が女より受け入れられ、女を通して男の中に移されることです、その理由は、女は男の理解力の愛に生まれていて、そして理解力は受け入れるものであるからです――幼児への愛も同様です、これは起源的に結婚愛からであるからです。
母に最も優しい幼児への愛があり、父に優しさがより少ないことはよく知られています。
結婚愛に、その中に女は生まれていますが、幼児への愛が刻み込まれていることは、幼児への愛すべき親しい少女たちの情愛から、また彼女たちの像〔=人形〕への情愛から明らかです、それらを連れまわし、着せ、キスし、そして自分の胸の内側に近づけます。このような情愛は少年たちにありません。
[2]母の血から子宮の中のそれら〔胎児〕への滋養物から、またここから自分のいのちの自分のものとすることから、このように調和して働く結合から、幼児への愛が母たちにあるように見えます。しかしそれでも、もし母に知られないで、出産後、本物に代わって、他の幼児が取り換えられるなら、それが等しく優しく愛され、それを自分のものであるかのように愛するので、これはその愛の起源ではありません。なおまた、幼児たちは、時々、母からよりも乳母から愛されます――これらから、その愛は、それぞれの女に植え付けられた結婚愛以外の他のところからでないものが流れ出て、それにみごもる愛が結び付けられ、その快さ(喜び)から妻は受け入れることへ準備されます。これがその愛の最初のものであり、それは出産後、その快さ(喜び)とともに、完全に子の中へ移ります。

結婚愛

393◀︎目次▶︎395

394 (7) このスフェアは無垢と平和のスフェアでもある
無垢と平和は天界の二つの最内部のものです。直接に主から発出するので最内部のものと言われます。というのは、主は無垢そのものと平和そのものであられるからです。
主は無垢から小羊と呼ばれ、平和から〔次のように〕言われました、

わたしはあなたがたに平和を残します。わたしはあなたがたにわたしの平和を与えます(ヨハネ14:27)。

そしてまた〔弟子たちが〕入った都または家に挨拶した「平和」によって、ふさわしかったならその上にやって来る平和が、ふさわしくなかったなら〔弟子たちに〕戻る平和が意味されます(マタイ10:11–15)。ここからもまた、主は「平和の君」呼ばれています(イザヤ9:6, 7)。
無垢と平和が天界の最内部のものであることの理由は、無垢はすべての善のエッセ(存在)であり、そして平和は善のものであるすべての快さの至福でもあるからです。(著作『天界と地獄』、「天界の天使の無垢の状態」276–283番、また「天界の平和の状態」284–290番参照)。

結婚愛

394◀︎目次▶︎396

395 (8) 無垢のスフェアは、幼児の中へ、また彼を通して両親の中へ流入し、働きかけている
 幼児が無垢であることは知られています、しかし、彼らの無垢が主から流入することは知られていません――直前に言われたように、無垢そのものである主から流入するからです。何らかのものも流入することができません、そのものそれ自体であるその源からでないなら、存在することができないからです。
 けれども、両親に働きかける幼児の無垢がどんなものか、簡潔に言います。それは彼らの顔から、彼らの振る舞いのあるものから、また彼らの最初の話し方から、輝き出て、働きかけます。彼らに無垢があります、彼らは内的なものから考えないからです、というのは、それらから考える何が善と悪か、また真理と虚偽をまだ知らないからです。ここから、彼らにプロプリウム(固有のもの)からの思慮分別はありません。熟考からの意図も、このように悪の目的もありません。彼らに自己愛と世俗愛から得られたプロプリウム(固有のもの)はありません。自分自身に何も帰しません。受けたすべてのものを自分の両親に置きます。彼らに贈り物で与えられるちっぽけなものに満足しています。食物や衣服について彼らに心配はありません。将来についても心配は何もありません。世を眺めず、ここから多くのものを欲しません。自分の両親・自分の乳母・仲間の幼児を愛し、彼らと無邪気に遊びます。導かれることに甘んじ、聞き従います。これが幼児の無垢であり、それが愛の原因であり、それは親心(ストルゲー)と呼ばれます。

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395◀︎目次▶︎397

396 (9) 両親の霊魂の中へも流入し、それ自体を幼児のもとの同じスフェアに結合させ、特に触覚によって徐々にしみ込んでいる
主の無垢は、そこにすべての者が知恵の無垢の中にいる第三の天界の天使たちへ流入します、そして低い天界を、しかし単にそこの天使たちの無垢を通り過ぎ、このように直接にそして間接に幼児へ流入します。これらの者〔幼児〕は、ほとんど彫像の形のようでしかありません、しかしそれでも、天界を通して主からのいのちを受け入れることができます。
しかし、両親もまた、その流入を自分の霊魂へ、そしてその心の最内部へ受け入れないなら、幼児の無垢により働きかけられてもむなしいものとなります。他の者の中に適切なものと同質のものの何かがなければなりません、それによって伝達が生じ、それが受容・情愛、ここからの結合をつくります。そうでなければ、柔らかい種が火打ち石の上に落ちるように、またはオオカミに向けて投げ出された子羊のようになったでしょう――そこで、ここから、両親の霊魂の中に流入する無垢が、幼児の無垢と結合します。
[2]この結合が身体の感覚の媒介するものです、しかし特に、両親のもとの触覚によって生じることは、経験から教えられることができます。例えば、彼らの視野から視覚が、彼らの話し方から聴覚が、彼らのにおいから嗅覚が内部で(深く)楽しまされることです――特に、触覚によって無垢の伝達とここからの結合が生じることは、母のもとの前腕に幼児を運ぶことの楽しさから、とりわけ、抱擁とキスから、それは胸の上の幼児に口と顔を押しあてることから、同時に、そこに幼児の手のひらの接触から楽しむことから、全般的に、乳首を吸うことと授乳から、ほかに、彼らの裸の身体を撫でることから、また自分のひざの上で彼らを産着で包んだり、きれいにしたりする疲れを知らない働きからはっきりと見られます。
[3]触覚の感覚によって、配偶者(夫婦)の間の愛とその歓喜の伝達が行なわれることは、前に数回、示されました。それによって心の伝達もまた行なわれるのは、手は人間の最外部のものであり、そして彼の最初のものは最外部の中に一緒に存在し、さらにまたそれによって身体のすべてのものと中間のものである心のすべてのものが、引き離されない結びつきの中に保たれるからです。イエスが幼児に触れたのはここからです(マタイ19:13, 15、マルコ10:13, 16)。そして病気の者に触れることによって癒したこと、また、その方に触れた者は癒されたこと、さらにまたここから、祭司職への叙階は、今日、手を置くことによってなされることです。
これらから、両親の無垢と幼児の無垢がそれら自身に触覚を、特に、手を通して出会うこと、このように互いにあたかも口によってかのように結合することが明らかです。

結婚愛

396◀︎目次▶︎398

397 無垢は、獣や鳥のもとと同様に、人間のもとの接触によって働くことがよく知られています。同様に働くのは、主から発出するすべてのものは、瞬く間に、全世界に行き渡るからです(前の388–390番参照)。また、段階によって、継続する媒介によって進むので、それゆえ、動物にだけでなく、越えて植物や鉱物に向けてもまた進みます(389番)――すべての植物と鉱物の母である地そのものの中にも移ります。というのは、これは春の時に、種の受け入れに向けて、あたかも子宮の中にあるかのように準備の状態の中にあり、そしてあたかも妊娠するかのように受け入れるとき、それは育て、運び、孵化し、授乳し、食物を与え、着せ、教育し、守る、等々、あたかもそれらからの子を愛するかのようであるからです。
生殖(繁殖)のスフェアがそこへ進むとき、何が、その時、すべての種類の動物へ、虫までも進みませんか?
地が植物の共通の母であるように、それぞれのミツバチの巣の中に共通の母のミツバチもいることは、確定された事実です。

結婚愛

397◀︎目次▶︎399

398 (10) 幼児のもとの無垢が去る段階の中で、それだけますます、情愛と結合も、徐々に分離へまでも弱められる
 両親から、幼児への愛は、すなわち、親心(ストルゲー)は、彼らから無垢が引っ込むことにしたがって、人間のもとで、家から子どもの分離にまでも引っ込み、獣や鳥のもとでは居合わすことからの拒絶にまでも、またその系統(一族)からであることを忘れるにまでも引っ込むことがよく知られています――このことから、確信したしるしからのように、両方に流入している無垢が、親心(ストルゲー)と呼ばれる愛を生み出していることもまた明らかにすることができます。

結婚愛

398◀︎目次▶︎400

399 (11) 幼児に対する両親のもとの無垢と平和の理性的な状態は、〔幼児が〕自分自身からでは何も知らず、できない、しかし、他の者から、特に父と母から知り、できることである。その状態は、他の者からでなく自分自身から知り、できるようになるに応じて徐々に去る
 幼児への愛のスフェアは、自分自身を守ることと支えることができない者を守り、支えることのスフェアであることは、前にその項目の中に示されています(391番)。この原因は人間のもとの理性的な原因だけであり、彼ら〔両親〕のもとの愛の原因そのものでないことを、そこでも話しに出しました――その愛の始まる原因そのものは主からの無垢であり、それが人間に知られないで流入し、その理性的な原因を生み出しています。それゆえ、最初の原因がその愛から引っ込むことをひき起こすように、そのように同時に、この第二の〔理性的な〕原因をひき起こします。すなわち同じことですが、無垢の伝達が引き下がるように、それを納得させる理性も伴います――しかし、このことは人間のもとにだけ生じます、彼が自由から理性にしたがって、行なうことを行なうために、またこのことから、理性的な法則と同時に道徳的な法則から、必要そして役立つことにしたがって、自分の成熟した子を支えるためにです。この第二の原因は理性を欠いている動物にはありません。動物には本能である前の原因だけがあります。

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399◀︎目次▶︎401

400 (12) 発出する愛のスフェアは、順に目的から原因を通して結果へ前進し、そして周期をつくり、それによって創造は先見されたものと備えられたものの状態に保たれる
 全世界のすべての働きは目的から原因を通して結果へ前進します。これら三つのものは、たとえ観念の中で分けることできるものに見えても、本質的に分割できないものです。しかしそれでも、そこに目的が意図されている結果と一緒に見られないなら、何らかのものではなく、その両方のものも、原因が支え、備え、結合しないなら、何らかのものになりません。
[2]それぞれの人間にこのような進行が、全般的に、またすべての特定のものの中に、ちょうど意志・理解力・活動のように、刻み込まれています――そこに、すべての目的は意志に属し、すべての原因は理解力に属し、すべての結果は活動に属しています。同様に、すべての目的は愛に属し、それを通してすべての原因は知恵に属し、ここからのすべての結果は役立ちに属しています。その論拠は、意志が愛の容器であり、理解力が知恵の容器であり、そして活動が役立ちの容器であるからです。そこで、人間のもとで、働きが全般的に、また特定的に、意志から理解力を通して活動の中で進行しているとき、そのようにさらにまた愛から知恵を通して役立ちの中に〔進行しています〕。しかし、ここで知恵によって、判断と思考に属すすべてものが意味されます。それら三つのものが結果の中で一つのものであることが明らかです――さらにまた、観念の中で結果の前に一つのものをつくり、決心(決定)だけが介在することが知覚されます。というのは、心の中で、目的は意志から出発し、そしてそれ自体に原因を理解力の中で生み出し、そしてそれ自体に意図をもたらし、そして意図は決心(決定)前の行動のようであるからです。ここから、意図は賢明な者により、そしてまた主により、活動として受け入れられています。
[3]それら三つのものが何らかの最初の原因から流れ出ること、また、全世界の創造主と維持者であられる主から、愛・知恵・役立ちが、これら三つのものが一つのものとして絶えず発出していることがその原因であることを聞く時、理性的な者のだれが見ること、または、認めることができませんか?
 そうでなければ、どこからなのか、あなたがたにできるなら、言ってください。

結婚愛

400◀︎目次▶︎402

401 目的から原因を通して結果への同様の進行が、産み、産まれた者を守るスフェアにもあります。そこの目的は産む意志または愛です。中間(媒介)の原因は、それを通して、またその中に目的をそれ自体にもたらす結婚愛です。有効な原因の前進する連鎖は、産む胎児または子のための愛の行為・妊娠・〔子宮に〕運ぶことです。そして、結果は産まれた子です――しかし、たとえ、目的・原因・結果が三つのものとして連続的に進行しても、やはりそれでも、産む愛の中で、そして内部に、個々の原因の中で、また結果そのものの中で、一つのものとなっています。有効な原因だけが存在し、それは時間を通して、自然の中にあるので、進行し、持続して常に同じ目的、すなわち、意志と愛があります。なぜなら、目的は自然の中で時間なしに時間を通って進行します、しかし結果または役立ちが存在するようになり、主体となる前に、それ自体を現わし、示すことができないからです。それ以前に、その愛は愛することが、それ自体を安定させ、固定することが、進行中でないならできません。
[2]このような進行の周期があり、それらによって創造の維持が、先見と備えの状態の中にあることが、よく知られています。
 けれども、幼児への愛の、その最大のものから最小のもののへ、そのように最後のものへの連鎖は後退します、主体の中の無垢の減少にしたがっているので、そしてまた周期のために、その中で停止します、または終わります。

結婚愛

401◀︎目次▶︎403

402 (13) 幼児への愛は下降し、上昇しない
 すなわち、世代から世代の中へ、息子と娘たちから孫や孫娘へ下降し、これらの者から一族の父や母へと上昇しないことは、よく知られています。
 下降の中でそれが増大する原因は、役立ちの実を結ばせるまたは役立ちを生み出す愛であり、また人類に関しては、それを増大させる愛であるからです。しかし、このことは、ひとえに人類からの天使の天界であるこの最終的な目的のために、人類の増大の中に、創造の維持を眺める主から起源を得ています。また、天使の天界は目的の目的であり、ここから主のもとの愛の愛であるからです、それゆえ、産む愛だけでなく、産まれた者を続くものの中で愛する愛もまた人間の霊魂に植え付けられています。さらにまたここから、この愛は人間のもとにだけ存在し、何らかの獣や鳥のもとにはありません。
 人間のもとのこの愛が増大しながら下降することは、彼のもとで増加にしたがって増す称賛の名誉からでもあります。称賛の名誉への愛は、本質的に主から流入している幼児への愛を受け入れ、これを自分のもののようにすることは、次の項目(16)の中に見られます。

結婚愛

402◀︎目次▶︎404

403 (14) 妊娠前とその後の出産までとで、妻にとって愛の状態は異なっている
 このことは〔以下のことが〕知られる目的のために示されます。産む愛、またここから続いて産まれた者への愛は、女のもとの結婚愛に〔生まれながらに〕植え付けられていること、またそれら二つの愛は女のもとで、目的である産む愛がその進行を始める時、分割されることです。
 その時、妻から親心(ストルゲー)の愛が夫の中に移されること、そしてまた、その時、言われたように、女のもとでその結婚愛と一つのものとなっている産む愛が同様のものでないことは、多くのしるしから明らかです。

結婚愛

403◀︎目次▶︎405

404 (15) 霊的な原因とここから自然的な原因によって、結婚愛は両親のもとで幼児への愛と結合されている
 霊的な原因は、人類が増やされ、このことから天使の天界が拡大され、このように、天界で役立ちを行なうために、天使になる者が産まれ、地上でもまた人間との交わりによって主に仕えるためです。というのは、人間のそれぞれの者と、主により天使たちは仲間となっていて、その者たちと、もし〔それが〕取り去られるなら、一瞬に、人間は死んで倒れるような結合があるからです。
 彼らのふたりの愛の結合の自然的な原因は、人間の社会の中で役立ちをもたらす者が産まれるため、そしてそれらに成員として受け入れるためです。
 幼児への愛と結婚愛にこの自然的なまたその霊的な原因があることは、夫婦自身もまた考えており、時々、「天界を子孫と同数のこれほどに多くの天使たちで豊かにし、社会を子どもと同数のこれほどに多くの仕える者で飾りました」と言って、言明しています。

結婚愛

404◀︎目次▶︎406

405 (16) 幼児への愛や子どもへの愛は、霊的な夫婦と自然的な夫婦のもとで別ものである
 霊的な夫婦のもとで、幼児への愛は外観に関して自然的な夫婦のもとの幼児への愛と似ています、しかしさらに内的であり、ここからさら優しく、その愛は無垢から存在し、その〔無垢の〕さらに近い受け入れから、このように自分自身のもとにさらに現在して知覚しているからです、なぜなら、霊的な者は無垢から得れば得るほどそれだけ霊的であるからです。
 けれども、父と母は、自分の幼児のもとの無垢のここちよさを味わった後に、自分の子どもを自然的な父と母と比べてまったく異なって愛します。霊的な者は子どもを彼らの霊的な知性と道徳的な生活から、このように彼らを神への恐れと実際の敬虔さすなわち生活の敬虔さから、また同時に、社会に仕える役立ちに向けての情愛と適用から、そのように彼らのもとの美徳と善い振る舞いから愛します。これらの愛から〔両親は〕特に彼らに必要なものを備え、与えます。それゆえ、もしこのようなものを彼らの中に見ないなら、彼らから心を引き離し、単に義務から彼らのために何らかのものを行ないます。
[2]自然的な父母のもとで、幼児への愛もまた確かに無垢からです、しかし彼らによるこの〔無垢〕受け入れは、彼らのプロプリウムの愛でまわりを包まれてしまい、これ〔プロプリウムの愛〕から同時にそれ〔無垢からの愛〕から幼児を、キスして、抱擁して、連れて、胸に近づけて、またすべての方法を上回って(=この上もなく)愛想をよくして愛し、彼らを自分自身と一つの心と一つの霊魂のように眺めます。そしてその後、彼らの幼児の状態の後、青春期、また越えて、無垢がもはや何らかのものを働かない時までも、神への恐れと実際の敬虔さすなわち生活の敬虔さからでなく、彼らのもとの理性的な道徳的な何らからの知性からでもなく、彼らを愛します、そしてわずかにまたほとんど、彼らの内なる情愛に向けて、ここから美徳と善い振る舞いに向けてどんなものも眺めません、しかし、ただ外なるものだけに向けて眺め、それらに好意を持ちます。これらに自分の愛を結び付け、取り付け、貼り付けます。ここからさらにまた彼らの欠点に、それらを許して、それらに好意をもって、目を閉ざします――その理由は、自分の子への彼らのもとの愛は、自己愛でもあり、これは主体に外側で付着しています、そして、〔主体〕そのものがそれ自体の中へ入らないように、その中へ入らないからです。

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405◀︎目次▶︎407

406 幼児への愛と子どもへの愛が霊的な者のもとでどんなものか、自然的な者のもとでどんなものか、死後の彼らからはっきりと把握されました――というのは、大部分の父たちはそこにやって来る時、彼らの前に死んだ自分の子どもを思い出し、そしてまた居合わす者が示され、相互に認めるからです。
 霊的な父たちは単に彼らを眺め、どんな状態の中にいるか質問し、もし彼らに善くあるならうれしがり、もし悪くあるなら悲しみます。また、天界の道徳的な生活について何らかの会話・教育・忠告の後、彼らから互いに分かれ、そして分かれる前に、主が天界のすべての者の唯一の父であることをその方のことばにしたがって(マタイ23・9)、もはや父として思い出されてはならないこと、自分たちも、子どもとして、決して思い出されないことを教えます。
 けれども、自然的な父たちは、自分自身が死後に生きていることを認めると直ぐに、自分の記憶に彼らの前に死んだ子どもを呼び戻し、そしてまた、欲望からの願いで居合わすことが示され、直ちに結合され、結ばれた束にように密着します。そして、その時、父は絶えず彼らの外見から、また彼らとの会話から楽しみを与えられます。
 父に、彼のそれらの子どもからのある者がサタンであること、善良な者に危害を加えることが言われても、それでもなお、彼らを、自分のまわりの群衆の中に、または自分の面前の群れの中に保ちます。損害を加え、悪を行なうことを自分自身で見ても、それでもそれらに決して心を向けないし、ある者を自分自身から引き離しもしません。それゆえ、このような有害な集団が存続しないように、強制(必要性)から、一緒に地獄へ追放され、そしてそこで父は子どもの前で牢獄に閉じ込められ、それぞれの者が自分の生活の場所へ追い払われます。

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406◀︎目次▶︎408

407 これらに私はこの驚くべきことを加えます。私は霊界で、目の前に差し出された幼児を憎しみから、激怒からかのように、もしできるなら、彼らを殺すことを欲するほどに残忍な心で、そのように眺めた父親たちを見ました。けれども、偽って彼ら自身の幼児であったことが彼らに言われるやいなや、その時、直ちに激怒と凶暴性が引っ込み、そして彼らを感情のおもむくままに愛しました。
 前者の憎しみと後者の愛は、世で内的に狡猾であり、そしてその者の心(アニムス)は主に反抗して攻撃した愛と一緒のものです。

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407◀︎目次▶︎409

408 (17) 霊的な者のもとで、その愛は内的なものまたは前のものからある、けれども、自然的な者のもとで、外的なものまたは後ろのものからある
 内的なものや前のものから考えることや結論することは、目的と原因から結果に向けて〔そうすること〕です、しかし、外的なものまたは後ろのものから考えることや結論することは、結果から原因と目的に向けて〔そうすること〕です。前者の進行は秩序にしたがっています、けれども後者の進行は秩序に反しています。なぜなら、目的と原因から考えることや結論することは、心の高い領域の中で見通された(把握された)善と真理から〔そうすることであるから〕です。人間の推理力そのものは創造からこのようなものです――しかし、結果から考えることや結論することは、心の低い領域からであり、そこに身体の感覚的なものがその外観と欺きとともにある原因と目的から推量することであり、それは本質的に、虚偽と欲望を確信すること以外の何ものでもなく、これらを確証の後、真理の知恵であることを、またこの愛の美徳〔であること〕を見ることや信じることです。
 霊的な者と自然的な者のもとの幼児と子どもへの愛も同様です。霊的な者は、前のものから、そのように秩序にしたがって彼らを愛します。けれども、自然的な者は後ろのものから、そのように秩序に反して彼らを愛します。
 先行する節を確証するためにだけこれらを示しました。

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408◀︎目次▶︎410

409 (18) その愛が相互に愛する夫婦のもとにも、互いにまったく愛さない夫婦のもとにもあるのはここからである
 それゆえ、霊的な者と等しく自然的な者のもとにあります。けれども、前者に結婚愛があります、しかし、後者には外観上のものやうわべだけのものでないならありません。
 それでも、幼児への愛と結婚愛は一つのものとして活動します、すべての女に創造から結婚愛が、それと一緒に産む愛が植え付けられているからです、それは産まれた子へ向けられ、作り上げられ、そして前に言われているように、女から男(夫)へ持ち込まれます――ここから、男(夫)と妻の間に結婚愛がない家で、やはりそれでも妻のもとにあり、それによって男(夫)と何らかの外なる結合があります。
 この同じ原因から、娼婦もまた自分の子を愛することがあります。なぜなら、創造から霊魂に植え付けられ、繁殖を目指すものは、消すことができず、根絶できないものであるからです。

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409◀︎目次▶︎411

410 (19) 幼児への愛は、死後、特に女のもとに残る
 幼児は生き返ると直ぐに、それは死後に直ちに起こりますが、天界へ上げられ、そして自分のいのちが身体の中にあったときに幼児を愛し、同時に神を恐れた女性の天使に手渡されます。彼女たちは、優しさから母のようにすべての幼児を愛したので、彼らを自分自身のもののように受け入れ、そして幼児もまた生来のものからのように、あたかも自分自身の母のように彼女たちを愛します。彼女たちのもとには霊的な親心 (ストルゲー)から望むだけの数の幼児がいます。
 幼児がいる天界は、額の領域の中の正面の方向に、天使が主に目を向ける直線または視線の中に見られます。その位置にそこに天界があるのは、すべての幼児は主の直接の導きのもとで育てられるからです。さらにまた彼らのもとに第三の天界である無垢の天界が流入します――この最初の時期がなし遂げられた後、他の天界へ移され、そこで教えられます。

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410◀︎目次▶︎412

411 (20) 幼児は主の導きのもとで彼女たちによって教育され、そして世でのように背丈と知性が増大する
 幼児は天界でこの方法で教育されます――自分を育てる女から話すことを学びます。彼らの最初の話し方は単なる情愛の音声です、それでもその中に何らかの思考の初めのものがあり、それから音声の中の人間性が動物の音声から区別されています。この話し方が思考の情愛から観念が入ってくるほど、だんだんと明確になります。無垢から発出している彼らのすべての情愛も増大します。
 彼らに最初に目の前に現われ、歓喜を与えるものようなものが徐々にしみ込みます。それらは霊的な起源からのものであるので、それらの中に同時に天界のものが流入し、それらによって彼らの心の内的なものが開かれます。
 これらの後、幼児は、知性で完成されるように、そのように背丈で増大します、そしてこれに関しても、さらに成人した者が見られます――その理由は、知性や知恵は霊的な滋養物そのものであるからです。それゆえ、それらは、それは彼らの心を養育し、そこで彼らの身体も養育します。
 しかし、天界の幼児は、最初の年齢を越えて成長しません、そこにとどまり、その中で永遠に続きます――その年齢の中にいるとき、婚姻が与えられ、それは主により備えられ、そこに若者がいる天界で祝われます。その者は、間もなく、妻に従って、彼女の天界へ、あるいは、もし同じ社会の中にいるなら彼女の家へ行きます。
 幼児が知性のように背丈も増大し、成長することを確かな事実として私が知るために、幼児であった時のある者たちと、またその後、成長したときの彼らと話すことが与えられました。そして、世の若い青年と似た背丈の青年が見られました。

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411◀︎目次▶︎413

412 幼児は特に、彼らの性質に釣り合い、一致した表象的なものによって教えられます、それ〔表象的なもの〕がどれほど美しいか、同時に内的なものの知恵に満ちているか、世の中でほとんど信じられることができません。
 二つの表象的なものを、ここに物語ることが許されています、それらから残りのものに向けて結論することができます。
 かつて、〔幼児たちが〕墓から上がる主を、同時に神性とのその方の人間性の結合を表象しました――最初に、墓の観念を示しました、しかし、同時に主の観念は、主であることをほとんど知覚しないような、このように遠く離れてでないなら、いわば遠方からでないなら、示しませんでした、その理由は墓の観念に死の何らかのものが内在し、それをこのように遠ざけたからです――その後、彼らは墓の中へ、希薄な水のようにも見えるある種の気体を慎重に入れ、それによって彼らは、適切な距離を置くことによってもまた、洗礼の中の霊的ないのちを表わしました。
 その後、私は、彼ら〔天使たち〕により、縛られた者に向けた主の降下を、そして縛られた者とともに天界への上昇を表象しようとしているものを見ました。幼児らしく、ほとんど見えないような綱を、しなやかな最も柔らかい〔綱を〕降ろし、それでもって主を上へ引き上げました、常に聖なる恐れの中で、表象するものの中に天界的でないものが何も影響を及ぼさないようにしてです。
 ほかに他の表象的なものがありました、それによって同時に真理の思考と善の情愛の中に、幼児の心に一致した遊びによってかのように、もたらされます。
 これらや同様のものに向けて、幼児は主により第三の天界を通り過ぎている無垢によって導かれ、そしてそのように霊的なものが、彼らの情愛に、ここから柔らかい思考に、幼児が自分自身からそのようなものをつくり、考えているとしか知らないように、徐々に持ち込まれ、そのことによって彼らの理解力が導かれます。

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412◀︎目次▶︎414

413 (21) そこでは、彼らのもとの幼児の無垢が知恵の無垢になるように主により備えられている
多くの者は、幼児は幼児のままにとどまり、死後、直ちに天使になる、と思うかもしれません。しかし、知性と知恵が天使をつくります。それゆえ、幼児がそれら〔知性と知恵〕を持たない間、確かに天使たちのもとにいますが、天使たちではありません。しかし、知性と知恵がつくられる時、その時、初めて天使になります。
そこで、幼児は幼児の無垢から知恵の無垢へ、すなわち、外なる無垢から内なる無垢へ連れて行かれます。彼らのすべての教育と進歩の目的はこの無垢です。それゆえ、知恵が無垢へやって来るとき、彼らに幼児の無垢が結び付けられます、それは彼らにその間に面として役立ったものです。
幼児の無垢がどんなものか、私は、ほとんど生命の欠けている木製のものによって表象されたのを見ました。それは真理の認識と善の情愛を吸収して、生きいきとされました。その後、幼児の無垢がどんなものか、活気のある裸の幼児によって表象されました。他の者よりも主からの無垢の状態の中にいる第三の天界の天使たちは、下方の天界にいる霊たちの目の前で、裸の幼児のように見えます、他の者よりも賢明であるので、さらにまた生きいきとしています。その理由は、無垢が幼児に、そしてまた裸に対応するからです――それゆえ、アダムとその妻について、無垢の状態の中にいたとき、裸でした、恥ずかしがらなかったこと、しかし、無垢の状態が失われた後に、裸を恥ずかしがり、自分自身を隠したことが言われています(創世記2:25, 3:7, 10, 11)――一言でいえば、天使は賢明であればあるほどますます無垢です。
知恵の無垢がどんなものであるか、前に述べられた幼児の無垢から、ある程度、見られることができます(395番)、そこに父たちとして、「父」としての主が受け入れられさえすれば、その方により導かれ、その方にすべてのものが受け入れられます。

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413◀︎目次▶︎415

414 私は無垢について天使たちといろいろなことを話しました。彼らは言いました、無垢はすべての善のエッセ(存在)であること、善はその中に無垢があればあるほど、それだけ善であること――知恵はいのちのもの、ここから善のものであるので、知恵は無垢から導かれれば導かれるほど、それだけ知恵であること、愛・仁愛・信仰も同様であること、ここから、無垢がないなら、だれも天界に入ることができないことです。このことが主の次のことばによって意味されます、

幼児たちをわたしに来させなさい、彼らを制してはなりません。というのは、天界の王国はそのような者のものであるからです。まことに、わたしはあなたがたに言います、幼児のように天界の王国を受け入れないなら、だれもその中に入れられません(マルコ10:14, 15、ルカ18:16, 17)。

そこの「幼児」によって、みことばの他の箇所でもまた、無垢の中にいる者が意味されます。
善がその中に無垢があるほど善であることの原因は、すべての善は主からであり、そして無垢は主により導かれることを欲することであるからです。

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414◀︎目次▶︎416

39 自然界に存在し、生じるすべてのものは、主から霊界を通って存在すること

415 (ここに次のメモラビリアを加えます——)
ある朝、眠りから目覚めての時、朝また穏やかな光の中で、完全な目覚めの前に瞑想しながら、私は窓越しに、稲妻の閃光のようなものを見、すぐに雷鳴のような鋭い音を聞いた。そして、これがどこからか私が怪しんでいるとき、私は天界からこれらを聞いた——
「あなたから遠くないところにいて、神と自然について鋭く推論している者たちがいる。稲妻のような光のひらめきと、雷鳴のような空気の鋭い音は、一方の側が神に賛成し、もう一方の側が自然に賛成する論証の戦いと衝突の対応するものとここからの外観である」。
この霊的な戦いの原因はこれであった——地獄に、あるサタンたちがいて、互いに、「神と呼ぶものは自然であること、それらからすべてのものがあり、そのように自然を意味しないなら、神は単なる言葉であることを、私たちが天界の天使たちと話して、完全に論証することが私たちに許されればよいのに」と話した——そのサタンたちは全心でまた全精神でそのことを信じ、天界の天使たちと話すことを欲したので、彼らに地獄の泥と暗やみから上り、ふたりの天使がその時、降って来て、話すことが与えられた。彼らは天界と地獄の中間にある霊たちの世界にいた。
[2]サタンたちはそこに天使たちを見て、すばやく走り寄り、激怒した声で叫んだ、「神と自然について推論しに集まることが許されている天界の天使はあなたがたか?
あなたがたは神を認めるので賢明な者たちと呼ばれる。おお、しかしなんとあなたがたは単純な者なのか。だれが神を見たか? 神が何者か、だれが理解しているか? 神が全世界を、そしてそのすべてと個々のものを支配し、支配することができることを、だれが把握しているのか? 庶民や大衆でないなら、見ないし、理解しないものをだれが認めるのか?
自然がすべての中のすべてであること以外に、さらに何が明らかか? 自然以外に、何らかのものをだれが目で見るのか? 自然以外に、何らかのものをだれが耳で聞くのか? 自然以外に、何らかのものをだれが鼻でかぐのか? 自然以外に、何らかのものをだれが舌で味わうのか? 自然以外に、だれが手と身体の何らかの触覚で何らかのものを感じるのか?
私たちの身体の感覚だけが真理の証人ではないのか? だれがそのようであることを、それらから誓うことができないか? あなたがたの頭は自然の中にないか? 自然からでないなら、流入はどこから思考の中に与えられるのか? 自然を取り去ってみよ、あなたがたはどんなものも考えることができないのではないか?」
ほかに同様の、別の種類の多くのもの。
[3]これらを聞いて、天使たちは答えた、「あなたがたはそのように話します、あなたがたは単に感覚的であるからです。地獄のすべての者は思考の観念を身体の感覚で沈めたものを持っています、その上に心を上げることもできません。それゆえ、私たちはあなたがたに許します。悪の生活とここからの虚偽の信仰が悪の生活と信仰の虚偽から遠く離れた状態の中でないなら、感覚的なものの上への高揚があなたがたのもとにありえないようにまでも、あなたがたの心の内的なものを閉ざしています。なぜなら、サタンは天使と等しく、真理を聞くとき、理解することができるからです、しかし心に保持しません、悪が真理を消し去り、虚偽を引き入れるからです。
しかし私たちは、あなたがたが遠く離れた状態の中にいること、このように私たちが話す真理を理解できることを認めます。それゆえ、これら私たちが話すものに留意しなさい」。
また、言った——「あなたがたは自然界にいました、そこで死に、今や、霊界にいます——今より以前に、死後の生活について何らかのものを知りましたか? 以前に、それを否定しませんでしたか、また、あなたがたはあなたがたを獣(動物)と等しくしませんでしたか? 以前に、あなたがたは天界と地獄について何らかのものを知りましたか、この世界の熱と光について何らかのものを〔知りましたか〕? もはやあなたがたは自然の内にいないこと、しかしその上にいることについて〔知りませんか〕? というのは、この世界は、すべてのものが霊的である世界であり、霊的なものは自然的なものの上にあり、決してこの世界へ、自然の最小のものも、流入することができないようなものであるからです。しかし、あなたがたは、自然を神あるいは女神と信じたので、この世界の熱と光もまた自然界の熱と光であると信じています。そのときそれでも、少しも〔そうでは〕ありません。なぜなら、自然的な光はここの暗黒であり、自然的な熱はここの冷たさであるからです。
あなたがたはこの世界の太陽について何らかのものを知っていましたか? その太陽から私たちの光と私たちの熱は発出しています。この太陽は純粋な愛であり、自然界の太陽は純粋な火であることを知っていましたか? 世の太陽は純粋な火であり、その太陽から自然は存在するようになり、存続します。天界の太陽は純粋な愛であり、その太陽から知恵と一緒の愛であるいのちそのものがあり、存在するようになり、存続します。このように、あなたがたは神あるいは女神とする自然はまったく死んだものであることを〔知っていましたか〕?
[4]あなたがたは、守衛が与えられるなら、私たちと天界へ上がることができます。私たちは、守衛が与えられるなら、あなたがたと地獄へ下ることができます——あなたがたは天界でりっぱなものとみごとなものを、しかし地獄で不潔なものときたないものを見ます——それらの相違があるのは、天界のすべての者は神を礼拝し、地獄のすべての者は自然を礼拝するからです。そして、天界のりっぱでみごとなそれらのものは、善と真理への愛の情愛に対応するものです、そして、地獄の不潔なきたないそれらのものは、悪と虚偽の欲望に対応するものです。
これらから、今や、すべての中のすべてのものは神なのか、あるいは、自然なのか、結論しなさい」。
これにサタンたちは答えた、「今や、私たちがいる状態の中で、私たちは聞いたことから、神がいることを結論することができる。しかし悪の快さが私たちの心を占めるとき、私たちは自然しか見ない」。
[5](それらのふたりの天使とサタンたちが私から遠くないところに立った。それゆえ、私は彼らを見、聞いた——すると見よ、私は彼らのまわりに多くの霊を見た、その者たちは自然界からの有名な博学な者たちであった。そして、私は、その博学な者たちが、時には天使の近くに、時にはサタンの近くに立ち、彼らの近くに立って賛同したことを怪しんだ——すると、私に、「時には一つの側にまた時にはもう一つの側にと賛成する彼らの位置の変化は、彼らの心の状態の変化であった」と言われたというのは、ウェルトゥムヌス(変化の神)であったからである。)
「私たちはあなたに秘密を言いましょう——私たちは地上の有名な博学な者を見下ろしました、その者は自分の判断から神と自然について考えました。私たちは、千人からの六百人の者が自然に賛成し、残りの者が神に賛成しているのを見ました。しかし、神に賛成しているこれらの者は、何らかの理解力からでなく、単に聞いたことから、自然は神からであることを、しばしば話していることからです。そして思考と知性と同時にでなく、記憶と思い出すことからたびたび話すことは、ある種の信仰をもたらします」。
[6]この後、サタンたちに守衛が与えられ、ふたりの天使とともに天界へ上り、そしてりっぱなものとみごとなものを見た。その時、天界の光からの照らしの中でそこに、神がいること、自然は神の中で、神からのいのちに役立つために創造され、自然は本質的に死んだものであり、このようにそれ自体から何も働かないこと、しかしいのちから働かされることを認めた。
これらを見て、知覚して、彼らは下った、下るに応じて、悪の愛が戻り、彼らの理解力を上で閉ざし、下で開いた。その時、その上に地獄の火からひらめいているおおいのようなものが見えた——足が地に触れたとき、直ちにその下の地面が割れ、自分〔仲間〕のところへ転び落ちた。

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415◀︎目次▶︎417

416 この後、私を近くで見ていたふたりの天使が、まわりに立っている者に、私について言った、「私たちはこの男が、神について、自然について書いたことを知っています、聞いてみたいです」。
 彼らは近づき、神について、自然について書かれたものが彼らの前で読まれることを懇願した——それで私は次のものを読んだ。

 「自然の個々のものの中に神的働きを信じる者は、自然の中に見る非常に多くのものから、自然を確信する者と等しく、それどころからさらに彼ら以上に神性を確信する。というのは、神性を確信する者は、植物と同様に動物の産出物の中に見られる驚くべきものに心を向けるからである。
 植物の産出物の中には——地へ投げられた小さな種から根が出ること、根によって茎(幹)、そして連続的に枝・葉・花・果実・新しい種まで、完全に種が連続する順序を、または、それによってそれ自体が新しくされる過程を知っているかのようである。
 理性的な者のだれが、純粋な火である太陽が、このことを知っている、このようなものを引き起こすようなその熱とその光を与えることができる、なおまたそれらの中に驚くべきものを形作る、そして役立ちを目指す、と考えることができるのか? 理性が高揚されている人間は、それらのものを見、熟考する時、無限の知恵がある方からである、このように神からである、としか考えることができない。
 神性を認める者は、そのこともまた見、考える。しかし、認めない者は、それを見ないし、考えない、欲しないからである、このように感覚によるものの中へ自分の理性を降ろし、すべての自分の観念を光(ルーメン)から得て、その中に身体の感覚があり、そして感覚の欺きを、「あなたは太陽がその熱とその光によってこれらの働きを〔生み出しているのを〕見ないか? あなたが見ないもの、それは何か? 何らかのものなのか?」と言って確信する。
[2]神性を確信する者は、動物の産出物の中に眺められる驚くべきものに心を向ける——例えば、ここに卵だけを話しに出そう、卵の中にひなが、その種または始まりの中に、すべての必要なものとともに、孵化まで、そしてまたすべての発達するものとともに、孵化後、鳥または飛ぶ動物が親の形になるまで隠れている。もし形に心を向け、このようなものであることを深く考えるなら、茫然自失してしまうしかない。例えば、 それら(動物の)形の最小のものの中に最大のものの中のように、それどころか、見えるもののように、目に見えないものの中に、すなわち、小さい昆虫の中に大きな鳥や獣の中のように、視覚・〔聴覚・〕嗅覚・味覚・触覚である感覚器官があること、なおまた筋肉である運動器官があること、というのは、飛び、歩くからであり、そのようにまた、心臓と肺のまわりの内臓があり、それらは脳により活動させられる〔ことである〕。下等な昆虫にもまたこのようなものが授けられていることは、ある者により、特に、スワンメルダムにより、彼の『自然の聖書』で記述されたそれらの解剖から、よく知られている。
[3]すべてのものを自然に帰する者は、確かにこのようなものを見る、しかし単に存在すると考え、自然が生み出すと言う。このことを言うのは、神性について考えることから心をそらせたからであり、神性について考えることから心をそらせた者は、自然の中の驚くべきことを見る時、理性的にまして霊的に考えることができないで、感覚的にまた物質的に考える。その時、自然から自然の中で考え、自然を越えない、同様に、地獄にいる者もそのようにしている。獣との相違は、単に推理力を授けられていること、すなわち、理解することができること、もし欲するならこのように異なって考えることである。
[4]自然の中の驚くべきものを見るとき、神性について考えることから自分自身をそらせ、それによって感覚によるものを開いた者は、多くの小さい昆虫を一つの不明確なもののように見るようにも、目の視覚がこのように粗野であることを考えない、それでも、それぞれ〔の昆虫〕は感じ、動くために、有機的にまとめられていて、このように繊維と器官を、なおまた小さな心臓・肺の気管・小さな内臓、そして脳を備えており、これらは自然の中の最も純粋なものから構成され、それらの組織は、いのちの何らかのものに対応しており、それらからその最小のものは区別して働きかけられている。
 目の視覚がこのように粗野であり、このように多くのものが、それぞれのものの中に無数のものがあり、目に小さい不明確なもののように見え、それでも感覚的な者は、その視覚から考え、判断するとき、彼らの心がどれほど鈍いか、またここから霊的なものについて暗黒の中にいるか、明らかである。

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416◀︎目次▶︎418

417 だれでも、自然の中に見ることのできるものから、欲するなら、神性を確信することができ、神について生活に基づいて考える者も確信する。例えば、空を飛ぶ動物を見る時である。それらの種類のどんなものでも、自分の食べ物を、またどこにあるかを知っている、音と視覚から仲間を、さらに他の種類のだれが自分たちの友であり、だれが敵であるか知り、つがいとなること、交尾を知っている、巧みに巣を作り、そこに卵を置き、それらを孵化し、孵化の時を知っていて、そのことで正確にひなを孵化し、それらを最も優しく愛し、翼の下で育み、食物を与え、食べさせ、このことをひなが自分自身で行なうまで、家族を生み、自分の種属が永続するためにまた同様のことを行なうことができるまでする。
 霊界を通って自然界の中へ、その神的な流入について考えようと欲するすべての者は、これらの中にそのことを見ることができる。さらにまた、欲するなら、「それら〔鳥〕のこのような知識は、太陽からその光線を通して流入することはできない。というのは、自然がそれ自体の起源と本質を得る太陽は純粋な火であり、ここからその光線はまったく死んだものであるから」と自分の心に言うこと——このように、「このようなものは自然の最も低いものの中へ神的知恵が流入するからである」と結論することができる。

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417◀︎目次▶︎419

418 だれでも、自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができる。虫を見れば、虫はある種の欲望の快さから自分の地的な状態を天界に類似したある種の状態に変えようと求め、そうしたがっている。さらに、再び生まれるために自分を子宮へ送るかのように場所へと這い、そこでクリサリス(さなぎ)、アウレリア(さなぎ)、エルカ(毛虫)、ニンファ(若虫)、ついにチョウになる。この変態を終えた時、種類にしたがって美しい羽を着て、自分の天界のような空中へ飛び出し、そこでうれしそうに遊び、つがいとなり、卵を産み、自分の子孫を備え、その間は、花から快い、甘い食べ物を自分の滋養物とする。
 自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができる者なら、虫の中に地上の人間の何らかの状態の映像を、チョウの中に天界の状態の映像を、だれが見ないか?
 しかし、自然を確信する者は、それらを見ても、心で人間の天界の状態を退けたので、それらを単なる自然の本能と呼ぶ。

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418◀︎目次▶︎420

419 だれでも、自然の中に見ることのできるものから神性を確信することができる。ミツバチについてよく知られていることに心を向ければ、ミツバチは草本や花から蝋を集め、蜂蜜を吸い、そして巣室を小さい家のように建て、それらを出入りする街路とともに町の形に配列すること、遠方から花と草本をかぎ出し、それらから家のために蝋を、食物として蜂蜜を集め、それらをいっぱい詰め込んで、自分の巣へ方位にしたがって飛んで帰ることを知っている。このように、これからやって来る冬のために、それを先見し、知っているかのように、自分自身に食物と住居を備える。さらにまた自分たちに女王のような女主人を置き、彼女から子孫を繁殖させる。彼女のために、まわりの護衛とともに、いわば宮殿を自分たちの上に建て、彼女は出産の時が迫ると、巣室から巣室へ、護衛により従者たちの中を行き、卵を産み、それを続く集団が空気から害されないように封じる。ここから彼らに新しい子孫がある——その後、これらの子孫が同じことができるような年齢に進んだとき、家から追い出される。そして、追い出された群れは、最初に集まり、仲間が散ることのないように集団となり、自分たちに居場所を突きとめるために飛び出す——秋の頃、役に立たない雄バチは連れ出され、戻って、自分たちの食物を、それらに雄バチは何の働きもささげなかったが、食い尽さないよう羽を奪われる。その他、多くのことがある——これらから、人類に果たす役立ちのためにミツバチに、霊界からの流入から、地上の人間のもとに、実に、天界の天使たちのもとにあるような統治の形があることを明らかにすることができる。
理性が損なわれていない者なら、ミツバチのこれらのものが自然界から存在しないことを、だれがわからないか? 自然のもとである太陽は、統治を模倣するものを、また天界の統治の類似物と共通なものを、何か持つであろうか?
これらから、また獣のもとにある他の似たものから、神の信者や崇拝者は同じものから神を確信するとき、自然の信者や崇拝者は自然を確信する。なぜなら、霊的な人間はそれらの中に霊的なものを見、自然的な人間はそれらの中に自然的なものを見、このように、だれでも〔自分がどんなものであるかにしたがって〕そのように見るからである。
私にとって、このようなものは自然的なものの中への霊的なものの流入、すなわち、自然界への霊界の流入、したがって主の神的な知恵からの流入の証拠である。
さらにまた熟考してみよ、何らかの統治の形、または何らかの市民の法について、または何らかの道徳上の美徳について、または何らかの霊的な真理について、もし神性がその知恵から霊界を通って流入しないのなら、あなたは分析的に考えることができるかどうか。私にとっては、できなかったし、今もできない。なぜなら、私はその流入を今や二十五年間、連続して、知覚でき、感覚で捉えることができるようにして認めたからであり、それゆえ、このことを私の経験から話している。

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419◀︎目次▶︎421

420 自然的なものが、目的として役立ちをもち、役立ちを順序の中に、形の中に配列することできるであろうか? このことは賢明でないならできない。そして全世界をこのように秩序づけ、形作ることは、無限の知恵であられる神でないなら、できない。
 他のだれが、人間に食物や衣服のすべてのものを先見し、備えることができるのか? それらは、地の果実や動物からの食物、そして同じものからの衣服である。驚くべきことである、カイコと呼ばれる卑しい虫が、王や女王から召使いや女召使いまで、絹を着せ、男女をみごとに飾ること——またミツバチのような卑しい昆虫が、蝋を光として与え、それらから神殿や宮殿は輝くことである。
 これらやその他多くのものは、主がご自身から霊界を通して自然の中にあるすべてのものに働かれることの明らかな証拠である。

結婚愛

420◀︎目次▶︎422

421 これらに、無神論者になるほどにまで、見える世界から自然を確信した者が、霊界で私に見られたことを付け加えよう。霊的な光の中で、彼らの理解力は下方が開いているが、上方が閉ざされて見える。その理由は思考が地へ、下方へ向いていて、天界へ、上方へ向いていないからである——理解力の最低のものである感覚的なものの上に、おおいのようなものが見えた。それが、ある者のもとでは地獄の火からひらめき、ある者のもとではすすのように黒く、ある者のもとでは屍のように鉛色であった。
 そこで、自然を確信することを警戒し、神性を確信せよ。そのためのものは不足していない。

結婚愛

421◀︎目次▶︎423

422 天界に主がおられ、そこの太陽について、そしてそこからの流入について知らないという理由から、確かにある者に、目に見えるものを自然に帰すことが許される。その世界とその状態について何らかのものも、それどころか、人間のもとに臨在することについても知らない。ここから、霊的なものは純粋な自然的なものである、このように天使たちはあるいはエーテルの中にいるかあるいは星の中にいる、さらに悪魔については、人間の悪であるか〔考えることができない〕、あるいはもし実際にいるとしても、空中に、あるいは深淵の中にいる、さらに、人間の霊魂は、死後、地の最内部の中にある、あるいは何らかの「どこか」に、すなわち「プー」の中に、審判の日までいるとしか考えることができないことである。他の同様のものが、 霊界とその太陽についての無知から空想により引き起こされる。
 信じた者が許されていることの理由は、自然が創造により植え付けられたものから見えるものを生み出していることである——しかしそれでも、確信して自然を選んで自分自身を無神論者とした者は、神性を選んで確信することができたので、許されない。確かに、無知は許される、しかし確信された虚偽は取り除かれない、なぜなら、この虚偽は悪と、したがって地獄と結びつくからである。

結婚愛

422◀︎目次▶︎424

淫行愛について狂気の快楽

――――――――――――――――――

(十七)淫行愛と結婚愛の対立について

423 この入り口で、本章の淫行愛が何を意味するか、最初に明らかにしなければなりません。
結婚に先行する私通愛を意味しません、配偶者の死後に続くそれも意味しません。適法な・正当な・重大な原因から始められるめかけ囲いも意味しません。穏やかな種類の姦淫も、人間が実際に後悔する重い種類の姦淫も意味しません、なぜなら、これらは結婚愛に対立するものをつくらないからです、結婚愛に対立するものでもありません。対立するものでないことは、続きの中で見られ、そこにそれぞれについて取り上げます。
しかし、結婚愛と対立する淫行愛によって、ここに、罪としても、理性に反する悪や恥ずべきものとして見なされないで、理性に許されるものとして見なされるような姦淫愛を意味します――この淫行愛は、結婚愛をそれ自体と同じものにするだけでなく、滅ぼし、破壊し、最後には吐き気を催すものにします。
[2]結婚愛に対するこの愛の対立について、本章で扱います。他のものについてではないことは、続く「私通」、「めかけ囲い」、「いろいろな種類の姦淫」についてから明らかにすることができます。
しかし、その対立を理性的な視覚の前に明らかするために、次の系列で論証します――
(1) 結婚愛がどんなものであるか知られないなら、淫行愛がどんなものか知られない。
(2) 淫行愛は結婚愛に対立している。
(3) 淫行愛は、本質的に見られた自然的な人が霊的な人に対立しているように、結婚愛に対立している。
(4) 淫行愛は、悪と虚偽のつがいが善と真理の結婚に対立しているように、結婚愛に対立している。
(5) ここから淫行愛は、地獄が天界に対立しているように、結婚愛に対立している。
(6) 地獄の不潔は淫行愛からである、天界の清潔は結婚愛からである。
(7) 教会の中の不潔なものも、そこの清潔なものと同様である。
(8) 淫行愛は人間をますます人間でなく、男でなくする、結婚愛は人間をますます人間とし、男とする。
(9) 淫行愛のスフェアがあり、結婚愛のスフェアがある。
(10) 淫行愛のスフェアは地獄から上り、結婚愛のスフェアは天界から降る。
(11) それら二つのスフェア自体は互いに両方の世界で出会う、しかし互いに結合しない。
(12) それら二つのスフェアの間に均衡があり、人間はその中にいる。
(13) 人間はそのスフェアへ好むままに自分自身を向けることができる、しかしどれだけ一方へ向けるかによって、それだけもう一方から背く。
(14) 両方のスフェアはそれ自体に快感をもたらす。
(15) 淫行愛の快感は肉から始まり、霊の中でも肉のものである。しかし、結婚愛の快感は霊の中で始まり、肉の中でも霊のものである。
(16) 淫行愛の快感は狂気の快楽である、結婚愛の快感は知恵の歓喜である。
今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

423◀︎目次▶︎425

424 (1) 結婚愛がどんなものであるか知られないなら、淫行愛がどんなものか知られない
 淫行愛によって結婚愛を破壊する姦淫愛が意味されます(前の423番のように)。
 結婚愛がどんなものであるか知られないなら、その淫行愛がどんなものであるか知られないことは、論証の必要がありません、単に似ているものによって説明することが必要とされます。例えば、何が善と真理か知らないなら、何が悪と虚偽か、だれが知ることができますか? 何が貞潔・名誉・礼儀正しさ・美しさか知らないなら、だれが、何が不貞・不名誉・不作法・醜いものを知るのですか? また、賢明な者でないなら、または何が知恵か知らないなら、だれが、狂気を見分けることができますか? なおまた、不協和なきしり音を、学習と研究で調和した韻律を学んだ者でないなら、だれが、正しく知覚することができますか? 同様に、結婚がどんなものか鋭く見なかったなら、だれが、姦淫がどんなものか、知覚することができますか? 前もって判断力をもって結婚愛の清潔さを示さないなら、だれが、淫行愛の快楽の不潔さを賢明に示すことができますか?
 さて、私は「結婚愛についての知恵の歓喜」を仕上げたので、ここから得た知性から、「淫行愛についての快楽」を述べることができます。

結婚愛

424◀︎目次▶︎426

425 (2) 淫行愛は結婚愛に対立している
 全世界に、対立するものがないものは何も存在しません、そして対立するものは互いに関連するものの間に存在しないで、正反対のものです――関連するものは同じ事柄の最大のものと最小のものの間にあります、しかし正反対のものはそれらに対する対立するものからであり、これらは互いに対立するように互いに関連したものです。それゆえ、関連するもの自体もまた対立するものです。
 すべてと個々のものにその対立するものがあることは、光・色・世の時間・情愛・知覚・感覚、また他の多くのものから明らかです。
 光と対立するものは暗黒であり、熱と対立するものは冷たさであり、世の時間で対立するものは昼と夜、夏と冬です。情愛で対立するものは楽しさと嘆き、そして喜びと悲しみです。知覚で対立するものは善と悪、そして真理と虚偽です。感覚で対立するものは快さと不快です。
 〔これらの〕明白なすべてのものから、結婚愛にその対立するものがあることを結論することができます。
 これが姦淫愛であることは、もし欲するなら、(内なる声から)命令されたすべての健全な理性からだれもが見ることができます――もしよろしかったら、その対立した別のものが何であるか言ってください。
 加えれば、健全な理性はその光からこのことをはっきりと見ることができるので、それゆえ、その理性は、結婚に味方して、また姦淫に反対して、市民の公正なものと呼ばれる法律を制定しました。
[2]対立するものであることを、さらにはっきりと明らかにするために、私がしばしば霊界で見たことを物語ることが許されています。
 自然界で確信した心から姦淫者であった者は、天界から流れ下る結婚愛のスフェアを知覚する時、直ちに、あるいは洞穴の中に逃げ去り、隠れるかあるいは、もしそれに対して頑固に振る舞うなら、激怒でいらいらさせられ、鬼(怨霊)のようになります。
 そのようになるのは、情愛のすべての快いものと不快なものがそこに知覚されるからです、時々、においのように、このようにはっきりと嗅覚で知覚されます、というのは、このようなものを吸収する彼らの物質的な身体がないからです。
[3]けれども、淫行愛と結婚愛の対立が自然界の多くの者に知られていないのは、肉の快さからです、外観上、それは外なるものの中で結婚愛の快さと似ており、快さだけの中にいる者は、それらの対立するものについて何らかのものを知りません――そして、もしあなたがたが、「物事のどんなものにもその対立したものがある」と言い、「結婚愛にもまたその対立するものがある」と結論するとき、姦淫者たちは、「その愛に対立したものはない。淫行愛は、どんな意味でもその愛からそれ自体を区別しないからである」と答えるであろうことを私は推量することができます。
 そのことから、結婚愛がどんなものであるか知らない者は、淫行愛がどんなものであるか知らないこと、さらにまた、結婚愛がどんなものであるか淫行愛からは知られないこと、しかし、前者から後者が知られることが明らかです。だれも悪から善を知りません、しかし、善から悪を知っています。というのは、悪は暗黒の中にあります、けれども、善は光の中にあるからです。

結婚愛

425◀︎目次▶︎427

426 (3) 淫行愛は、本質的に見られた自然的な人が霊的な人に対立しているように、結婚愛に対立している
 自然的な人と霊的な人は互いに、一方が欲するものを、もう一方が欲ないようにまでも、対立していること、それどころか、互いに戦うことは、教会の中でよく知られています、しかしそれでも、〔このことは〕はっきりしません。それゆえ、何が霊的なものと自然的なものを区別するか、また〔何が〕前者に反抗して後者を起き上がらせるか、言います。
 自然的な人の中へ、だれでも、成長している時、最初に導き入れられ、それは知識と認識によって、そして理解力からの理性的なものによって生じます。しかし、霊的な人の中へ、役立ちを行なう愛によって導き入れられ、その愛は仁愛とも呼ばれます。それゆえ、だれかがこの中にいればいるほど、それだけ霊的です。しかし、この中にいなければいないほど、たとえ才気で明敏、判断で賢明であっても、それだけ自然的です。
 自然的と呼ばれるこの人は、霊的なものから分離されているとき、どれほど自分自身を理性的な光(ルーメン)の中に高揚させても、それでも自分自身を情欲の中に解放し、それらに働きかけられることは、仁愛が欠けているというその性向だけから明らかになります。またこの欠けている者は、淫行愛のすべての好色へ向けてだらしなくなっています――そのために、彼は、この好色の愛は貞潔な結婚愛に反していると言われ、自分の理性的な光(ルーメン)と相談するように、と求められるとき、それでもその光(ルーメン)と相談しないで、出生から自然的な人に植え付けられた悪の快さとの結合しているものから、自分の理性で、自分の身体の感覚の誘惑の心地よいものに反する何らかのものを見ないことを結論します。それらの中で確信した後に、彼の理性は、結婚愛の属性とされるそれらすべての心地よいものに向けて鈍ります。それどころか、前に言われたように、その心地よいものに対して戦い、そして勝ち、皆殺しの後、勝利者のように自分自身のもとの結婚愛の陣営を最外部のものから最内部のものまで破壊します――これを自然的な人は自分の淫行愛から行ないます。
 このことが述べられるのは、それらの二つの愛の対立がどこからであるか知られるためです。なぜなら、前に大いに示されたように、本質的に見られた結婚愛は霊的な愛であり、本質的に見られた淫行愛は自然的な愛であるからです。

結婚愛

426◀︎目次▶︎428

427 (4) 淫行愛は、悪と虚偽のつがいが善と真理の結婚に対立しているように、結婚愛に対立している
結婚愛の起源が善と悪の結合からであることは、前のその章の中で示しました(83番から102番まで)。ここから、淫行愛の起源が悪と虚偽のつがい(交尾)からであること、またここから、悪が善に、そして悪の虚偽が善の真理に対立しているように、対立していることがいえます。両方の愛の快さがあり、それらはそのように対立しています、なぜなら、愛は、その快さなしに、何らかのものでないからです。
[2]これらがそれら自体にそのように対立していることは、まったく見られません――見られないのは、悪の愛の快さは外なるものの中で善の愛の快さを偽装しているからです。しかし、内なるものの中で悪の愛の快さは悪の欲望そのものから構成されています。悪それ自体はこれらのまるまった堆積または塊です――しかし、善の愛の快さは善の情愛の無数のものから構成されています、善それ自体は合わされたこれらの束のようです――この束とその塊は人間から一つの快さのようにしか感じられません、悪の快さは外なるものの中で善の快さを偽装しているので、言われたように、それゆえ、姦淫の快さも結婚の快さのようです。しかし、死後、だれもが外なるものを捨て、そして内なるものが裸にされる時、姦淫の悪が悪の欲望の塊であること、結婚の善が善の情愛の束であること、そのように、それら自体にまったく対立していることが感覚に明らかとなります。

結婚愛

427◀︎目次▶︎429

428 悪と虚偽のつがい(交尾)それ自体は、悪が虚偽を愛し、そしてそれら自体と一つであるように欲し、そしてまた互いに結合することが見られ、知られています。同様に、善が真理を愛し、そしてそれら自体と一つであるように欲し、そしてまた互いに結合します。そのことから、結婚の霊的な起源が善と真理の結婚であるように、姦淫の霊的な起源が悪と虚偽のつがいであることが明らかです。ここから、このつがいが、みことばの霊的な意味で、姦淫・淫行・売春によって意味されています(『啓示された黙示録』134番参照)。
 悪の中にいて、虚偽と結婚する者、虚偽の中にいて、悪を自分の寝室の交わりに導く者は、結合した契約から姦淫を確信します、また、それを、ずうずうしくも、できるかぎり犯すのは、この源からです。それを悪からの虚偽によって確信し、それを虚偽からの悪によって犯します――そしてまた逆に、善の中にいる者は真理と結婚します、または真理の中にいる者は善を自分の寝室の交わりに導きます、姦淫に反抗し、結婚に賛成して確信し、そして結婚生活の祝福を抱きます。

結婚愛

428◀︎目次▶︎430

429 (5) ここから淫行愛は、地獄が天界に対立しているように、結婚愛に対立している
地獄にいるすべての者は悪と虚偽のつがい(交尾)の中にいます、天界にいるすべての者は善と真理の結婚の中にいます。また、悪と虚偽のつがいは姦淫でもあり(今、前の427, 428番に示されたように)、それは地獄でもあるからです。ここから、そこにすべての者は、淫行愛の情欲・好色・あつかましさの中にいます、そして結婚愛の貞潔と慎み深さを避け、身震いします(前の425番参照)。
これらから、淫行愛と結婚愛のそれら二つの愛が、地獄が天界と、そして天界が地獄と対立しているように、互いに対立していることを見ることができます。

結婚愛

429◀︎目次▶︎431

430 (6) 地獄の不潔は淫行愛からである、天界の清潔は結婚愛からである
 全地獄は不潔で満ちていて、それらの全般的な起源は、慎みのないわいせつな淫行愛です。このようなものにその快さは変えられます。
 愛のすべての快さが、霊界で見られるいろいろな姿の下に、感じているいろいろなにおいの下に、眺めているいろいろな形の獣や鳥の形の下に示されることを、だれが信じることができますか?
 姿は、それらの下で地獄の中の淫行愛の好色な快さが見られて示されますが、糞と汚物です。においは、それらによってそれらが感じられて示されますが、そこの腐ったにおいと悪臭です。獣や鳥の形は、それらの下にそれらはそこの欲望が示されますが、ブタ・ヘビ・オーヒームやイィイームと呼ばれる鳥です。
 けれども、逆に、結婚愛の貞潔の快さが天界の中で〔姿・におい・形に変えられます〕――姿は、それらの下にそれらがそこに見られて示されますが、庭園と花の多い野原です。においは、それらの下にそれらがそこに感じられて示されますが、果実からの香りと花からの芳ばしさです。動物の形は、それらの下にそれらがそこに眺められて示されますが、子羊・子ヤギ・キジバトとゴクラクチョウ(極楽鳥)です。
 愛の快さがこのようなものや似たものに変えられるのは、霊界に存在するようになるすべてのものが対応するものであるからです。彼らの心の内なるものは、感覚の前に移り、外なるものが生じる時、これらのものに変えられます。
 しかし、不潔なものの無数の変化があり、それらの中に淫行の好色があり、その対応するものの中に出る時、変えられることを知らなくてはなりません――それらの種類にしたがって変化があり、それらは続くものの中で見られ、そこに姦淫とそれらの程度について扱っています。しかし、悔い改めた者の愛の快さからは、このような不潔なものは出ません、世でそれらから洗い清められたからです。

結婚愛

430◀︎目次▶︎432

431 (7) 教会の中の不潔なものも、そこの清潔なものと同様である
その理由は、教会は、天界の主の王国に対応する地上のその方の王国であり、そしてまた、一つのものとなるために主はそれを結合しているからです――さらにまたそこにいる者を、天界と地獄を分離するように、愛にしたがって彼らを分離します。淫行愛の不謹慎でわいせつさの中にいる者は、自分自身を地獄からの似た者に結びつけます。しかし、結婚愛の慎み深いまた貞潔な快さの中にいる者は、主により天界からの似た天使の仲間とされます――これらの者の彼らの天使たちは、人間のもとで確信した心とはっきりとした目的の姦淫者のそばに立つ時、その悪臭を感じ(それらについては前の430番)、少し引き下がります。
[2]糞と汚物との不潔な愛の対応のゆえに、イスラエル民族に、神エホバが彼らの宿営の真ん中を歩いて事柄の裸を見ないように、戻らないように、自分自身にへらを持って、それで自分の糞をおおうように命じられました(申命記23:13, 14参照)。このことが命じられたのは、イスラエル民族の宿営が教会を表象し、そしてその不潔なものが淫行の好色に対応し、「神エホバが彼らの宿営の真ん中を歩くこと」によって天使たちとのその方の臨在が意味されたからです。「おおう」ことの理由は、地獄の中のすべてのそれらの場所はおおわれ、閉ざされているからであり、それゆえ、さらにまた、「事柄の裸を見ないように」と言われています。
地獄の中のすべての場所が閉ざされていることを見ることが与えられました。そしてまた、開かれるとき、それは新しい悪魔が入るとき起こり、ここから、私の胃に苦痛のような不快を引き起こしたような悪臭が発散します。驚くべきことですが、それらの腐った臭いが、糞がブタに快いように、そのように彼らに快いものです。
これらから、教会の中の不潔なものが淫行愛からであること、そこの清潔なものが結婚愛からであることは、どのように理解されなければならないか明らかです。

結婚愛

431◀︎目次▶︎433

432 (8) 淫行愛は人間をますます人間でなく、男を男でなくする、結婚愛は人間をますます人間とし、男とする
 愛とその知恵の歓喜について第一部で、光の中で理性の前に示されたすべてと個々のものにより、結婚愛が人間をつくることを説明し、証明しました――例えば、

(ⅰ) 真の結婚愛にいる者は、ますます霊的になる。ある者が霊的であればあるほどますます人間である。
(ⅱ) ますます賢明になる。ある者が賢明であればあるほどますます人間である。
(ⅲ) 彼のもとで、主を見る、または直覚で認めるようにまでも、ますます心の内的なものが開かれる。ある者がその視覚の中にまたはその認識の中にいればいるほどますます人間である。
(ⅳ) ますます道徳的で市民的になる、霊的な霊魂が彼の徳性と公民性に内在するからである。ある者が道徳的な市民であればあるほどますます人間である。
(ⅴ) さらにまた、死後、天界の天使になる。そして、天使は本質と形で人間であり、そしてまた、本物の人間性がその顔の中に、話し方から、振る舞いから、輝き出る。

 これらから、結婚愛はますます人間をつくることが明らかです。
[2]姦通者には、姦淫と結婚の対立そのものから反対であり、それについて、本章で〔すでに〕扱い、また扱っており、証明を続けます――例えば、

(ⅰ) 霊的でなく、最高度に自然的な者である。そして霊的なものから分離した自然的な人間は、理解力に関してだけ人間であるけれども意志に関して人間ではない。この意志を身体に、肉の欲望に浸す、その時にその理解力も集められる。この者が半分の人間でしかないことを、その者自身が、自分の理解力の理性から、それを高揚させるなら見ることができる。
(ⅱ) 姦通者が、地位の高い者や学問で名高い者、品行方正な者との交わりの中にいる時、話し、そしてまた身振りの中でないなら、賢明でなく、しかし、独り自分自身のもとで、神的なものと教会の聖なるものを価値のないものと思って、また生活の道徳的なものを慎みのないものと不貞なもので汚して、狂っていることは、姦淫についての章で証明される――身振りで話すこのような者は、単に外なる姿に関して人間であり、内なる形に関して人間でないことを、だれが見ないか? 
(ⅲ) 姦通者はますます人間でなくなることは、地獄の中で彼らを見た観察が、私にはっきりとした確信として役立った。というのは、そこに悪鬼(ダイモーン)がいて、その者は、天界の光の中で見られる時、その顔は吹き出物のようであり、その身体はせむしのようで、その話し方はぞんざいであり、身振りは芝居じみていたからである。

[3]しかし、このような者は、目的と確信からの姦通者であることを知らなければなりません。けれども、熟慮からでない者は〔そのような〕姦通者ではありません。
 なぜなら、姦通者に四つの種類があるからであり、それらについて、姦淫とそれらの段階についての章に〔見られます〕――目的からの姦通者は、意志の情欲からの者です。確信からの姦通者は、理解力の信念からの者です。熟慮からの姦通者は、感覚の誘惑からの者です。熟慮からでない姦通者は、理解力に相談する能力のない、または〔その〕自由の中にいない者です。
 前の二種類の姦通者はますます人間でなくなります。しかし、後の二種類の姦通者は、その誤りから去り、その後、賢明になるほど人間になります。

結婚愛

432◀︎目次▶︎434

433 結婚愛が人間をさらに男にすることは、先行する部の中で結婚愛とその歓喜について示されたそれらからもまた説明されます。それらは、

(ⅰ) 男性のものと呼ばれる能力と活力は、知恵が教会の霊的なものから生命を与えられるかぎり、知恵に伴い、ここから結婚愛に内在する。知恵はこの愛の流れを霊魂の中のその泉から開き、このように男性のいのちそのものである知的ないのちを強くする、そしてまた永久に祝福する。
(ⅱ) ここから、メモリビリアの中で彼らの口の言うことにしたがって(355, 356番)、天界の天使たちはこの中に永遠にいる――さらにまた、黄金と白銀時代の最古代人は持続する効力の中にいた、自分の妻との愛の行為を愛し、娼婦との愛の行為をひどく嫌ったからである。〔このことを〕私は彼らの口から聞いた(メモラビリア75, 76番)。

[2]自然的なもの〔=自然界のもの〕の中にもあるその十分に霊的なものは、今日、主に近づき、姦淫を地獄のものとして忌み嫌う者に欠けてもないことも、天界から私に言われました。
けれども、目的からの姦通者に、また確信からの姦通者に、対立するものが起こります(それらの者については直前の432番末)。これらの者のもとで、男性のものと呼ばれる能力と活力は、無にまでも弱められ、その後、性への冷たさも始まり、この後、吐き気と見られるような嫌気が続きます、〔このことは〕少しばかり公表されたことからでもよく知られています――私は遠方から、このような者が地獄の中の姦通者であることを、すりきれた色情の情欲である妖婦たちから、そしてまたそこの売春宿経営者から聞きました。
これらから、〝淫行愛は人間をますます人間としない、男としない〟また、〝結婚愛は人間をますます人間とする、男とする〟と見なされます。

結婚愛

433◀︎目次▶︎435

434 (9) 淫行愛のスフェアがあり、結婚愛のスフェアがある
スフェアによって何が意味されるか、〔それらが〕多種多様であること、それらは主から発出する愛と知恵のものであり、天界を通って世に降り、これらがその最終的なものにまで行き渡ることが示されました(前の222–225番、また386–397番)。
全世界に、対立するものがないものは何も存在しないことが前に見られます(425番)。このことから、結婚愛のスフェアが存在するので、それに対立するスフェアも存在することがいえます、それは淫行愛のスフェアと呼ばれます――というのは、姦淫愛が結婚愛に対立しているように、それらは互いに対立しているからです。それらの対立について、本章の前の箇所で扱いました。。

結婚愛

434◀︎目次▶︎436

435 (10) 淫行愛のスフェアは地獄から上り、結婚愛のスフェアは天界から降る
結婚愛のスフェアが天界から降ることは、たった今、前に引用された箇所で示しました(434番)。けれども、淫行愛のスフェアが地獄から上ることは、この愛がここからであるからです(429番)――そのスフェアはここからの不潔なものから上り、そこにいる両性からの姦淫の快さはそれ〔スフェア〕へ変えられます(それらについては前の430, 431番参照)。

結婚愛

435◀︎目次▶︎437

436 (11) それら二つのスフェア自体は両方の世界で出会う、しかし互いに結合しない
 両方の世界によって、霊界と自然界が意味されます。
 霊界の中で、それらのスフェアは霊たちの世界で出会います、これは天界と地獄の間の真ん中にあるからです。しかし、自然界で互いに人間のもとの理性的な面で出会います、それもまた天界と地獄の間の真ん中にあります。というのは、その中に上から善と真理の結婚が流入し、そして、その中へ下から悪と虚偽の結婚が流入するからです。前者は天界を通して、けれども、後者は世を通して流入します――ここから、人間の理性はどちらの側にも向きを変えること、また流入を受け入れることができます。もし善へなら、それを上から受け入れ、その時、彼の理性はますます天界の受け入れへ向けて形作られます。しかし、もし悪へ向きを変えるなら、その流入を下から受け入れ、その時、彼の理性はますます地獄の受け入れへ向けて形作られます。
[2]それら二つのスフェアが結合しないのは、対立しているからです、そして対立するものは対立するものの中で敵のようにしか振る舞いません、それらの一方は殺害に燃え立つ憎しみで、激怒から、もう一方を襲います、けれども、もう一方は何も憎しみの中にいないで、単に自分自身を守ろうとする熱意の中にいます――それらから、それら二つのスフェアはただ単に互いに出会います、しかし互いに結合しないことが明らかです。
 真ん中の間隙で、一方の側から、虚偽に属さない悪から、悪に属さない虚偽から、またもう一方から真理に属さない善から、善に属さない真理から、それが出会います、それら二つは互いに確かに接触することができます、しかしそれでも、結合することができません。

結婚愛

436◀︎目次▶︎438

437 (12) それら二つのスフェアの間に均衡があり、人間はその中にいる
 それらの間の均衡は善と悪の間にあるので霊的な均衡です。この均衡から人間に選択の自由があります――この中で、またこれによって、人間は自分自身からのように考え、意志し、ここから話し、行動します。
 彼の理性は、善を受け入れることを欲するか、あるいは悪を受け入れることを欲するか、選択権と選択肢の中にあります。それゆえ、自由から理性的に自分自身を結婚愛へ配置することを欲するか、あるいは自由から理性的に自分自身を淫行愛へ配置することを欲します――前者へなら、主へ額と胸を向けます。後者へなら、主へ後頭部と背中を向けます。主へ向けるなら、彼の推理力と自由は主により導かれます。けれども、主に後ろを向けるなら、彼の推理力と自由は地獄により導かれます。

結婚愛

437◀︎目次▶︎439

438 (13) 人間はそのスフェアへ好むまま自分に自身を向けることができる、しかしどれだけ一方へ向けるかによって、それだけもう一方から背く
 人間は、理性にしたがって自由から、そしてまったく自分自身から、行なうことを行なうように創造されています。これら二つのものなしに、人間ではなく、獣であったでしょう――というのは、天界から自分自身への何らかの流入を受けず、そしてそれを自分自身に、自分のものとして自分のものとすること、またここから彼に何らかの永遠のいのちが刻み込まれることができないから。というのは、これが彼に、自分のものであるとして、彼のものであるように刻み込まれなければならないから。〔はかりの〕皿にまた同時にもう一方〔の側への自由〕がなく、はかりが均衡から両方〔の側〕に向うことができないなら、何も釣り合いがないように、そのように人間に理性から、悪にもまた近づく自由がないなら、このように右から左へ、左から右へ、同様に姦淫のスフェアである地獄のスフェアへ、そのように結婚のスフェアである天界のスフェアへ向かう自由がないなら、何ら自由は存在しないからです。

結婚愛

438◀︎目次▶︎440

439 (14) 両方のスフェアはそれ自体に快感をもたらす
 すなわち、地獄から上る淫行愛のスフェアも、天界から降る結婚愛のスフェアも、受ける人間を快感で働きかけます。その理由は、最終の面は同じであり、その中で両方の愛の快感が終わり、そこにそれ自体を満たし、完成させ、それらをその感覚の中で示すからです――ここから、淫行の愛の行為は、また結婚の愛の行為は、たとえ内なるものの中でまったく異なっていても、最外部で似たものが感じられます――ここから外なるものの中でも異なっていることは、相違がないという感覚から判断されません。なぜなら、外なるものの中の相違から似ていないことは、真の結婚愛にいる者にしか感じられないからです。というのは、悪は善から知られます、けれども、鼻に忌まわしいにおいがこびりついているとき、心地よいにおいが認められないように、善は悪から知られないからです。
 私は、天使から聞きました、「私たちは好色なものを好色でないものから見分けます。糞の火をまたは焼かれた角の火を悪臭から、香料の火をまたは焼かれたシナモンの木質の火を芳香から、だれかが見分けるようにです。これは内なる快感の相違からであり、それは外なるものに入り、それを作り上げます」。

結婚愛

439◀︎目次▶︎441

440 (15) 淫行愛の快感は肉から始まり、霊の中でも肉のものである。しかし、結婚愛の快感は霊の中で始まり、肉の中でも霊のものである
 淫行愛の快感が肉から始まることは、肉の興奮がそれらの始まりであるからです――それが霊を感染させ、そしてそれは霊の中でもまた肉のものです、肉は感じないからです、しかし霊が肉の中で起こるそれらを感じます。この感覚は他の感覚と似たものです、例えば、目は対象の中のいろいろなものを見ないし、識別しません、しかし霊が〔します〕。耳も歌の中の調子の中の調和する音を、また話しの中の音の区切りの調和を聞かないし、識別しません、しかし霊が〔します〕。そして、霊は知恵へのその高揚にしたがってすべてのものを感じます。身体の感覚的なものの上方に高揚されていません、このようにそれらに付着する霊は、肉からまた世から身体の感覚を通して流入する快感しか感じません。これらを捕え、これらで楽しみ、自分のものにします。
[2]さて、淫行愛の始まりは単なる肉の興奮と情欲であるので、これは霊の中で不潔な誘惑するものであり、それは上昇し、下降し、前後するようなものであり、そのように刺激し、興奮させることが明らかです。
 全般的に、本質的に眺められた肉の欲望は、悪と虚偽の情欲の塊状集積でしかありません。ここから、教会の中に、肉は霊に逆らって、すなわち、霊的な人に逆らって熱望するという真理があります。それゆえ、肉の快感は、淫行愛の快感に関して、沸騰する情欲でしかなく、それらは霊の中で慎みなさの豊かな源となっていることがいえます。

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440◀︎目次▶︎442

441 けれども、結婚愛の快感は淫行愛の不潔な快感と何も共通なものを持っていません。これらは確かにそれぞれの人間の肉に内在します、しかし人間の霊が身体の感覚的なものの上方に上げられ、高みから下方のそれらの外観と欺きを見るかぎり、分離され、遠ざけられます。同様に、その時、肉の快さを知覚します、最初に外観と欺きの快さとして、そしてその後、避けなければならない好色のものとわいせつなものとして、そして続いて悩ませるものと霊魂に有害なもの、最後にそれらを、不快なもの・忌まわしいもの・吐き気を催させるものとして感じます。その快さをそのように知覚し、感じる段階にいればいるほどますます、結婚愛の快さを無害なまた貞潔なもの、最後に楽しいものと祝福されたものとして知覚する段階にもいます。
 結婚愛の快感も肉の中で霊の快感となることは、直前に言われたように、淫行愛の快感が遠ざけられたからであり、それらから解放された霊は、貞潔な身体の中に入り、そしてその至福の歓喜が胸を満たし、胸から身体の中のその愛の最後のものも満たします。ここから、霊はこれらとともに、またこれらは霊とともに、その後、完全な交わりの中で活動します。

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441◀︎目次▶︎443

442 (16) 淫行愛の快感は狂気の快楽である、しかし、結婚愛の快感は知恵の歓喜である
 淫行愛の快感が狂気の快楽であることは、その愛の中にいる自然的な人以外の他の者になく、そして自然的な人は霊的なものの中で狂っているからです、というのは、それに対立しているから、そして、それゆえ、自然的・感覚的・身体的な快感だけを抱くからです。
 快感が自然的なもの・感覚的なもの・身体的なものであることが言われました、自然的なものは三つの段階に区別されるからです。最も高い段階にいる自然的な者は理性的な視覚から狂気を見ます、それでも、小舟が小川の流れからのように、それらの快さにより運ばれます。さらに低い段階にいる自然的な者はただ身体の感覚だけから見て、判断します、そして、外観と欺きに反する理性的なものを踏みにじり、糸くずのように退けます。最も低い段階にいる自然的な者は、判断なしに、自分の身体の熱で誘惑的なものにより運ばれます。これらの者が、身体的な自然的な者、その前の者が感覚的な自然的な者、けれども、最初の者が自然的な者と呼ばれます。
 淫行愛、その狂気と快楽も、彼らのもとに同様の段階があります。

結婚愛

442◀︎目次▶︎444a

443 結婚愛の快感が知恵の歓喜であるのは、 霊的な人だけがその愛の中にいて、霊的な人は知恵の中にいるからです。ここから霊的な知恵と一致する快感以外の他の快感を抱きません。
 淫行愛の快感がどんなものか、結婚愛の快感がどんなものか、家との比較によってはっきりさせることができます。淫行愛の快感は、壁の外側が貝殻のように、または透明石膏と呼ばれる雲母のにせの金色からのように、赤く輝く家に〔たとえられることができます〕。しかし、壁の内側の部屋の中に、すべての種類の汚物とごみがあります――しかし、結婚愛の快感は、壁は純金からできているように輝き、そして部屋の内部は多くの貴重な宝が詰め込まれたように光り輝く、その家にたとえられることができます。

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443◀︎目次▶︎444b

40 何が淫行か知らなかった天使たちについて

444a (これらに次のメモラビリアを加えます——)
結婚愛についての瞑想を終えた後、私に淫行愛についての瞑想が起こった。突然、ふたりの天使がそばに立ち、言った、「私たちは、あなたが最初に瞑想したものを知覚し、理解しました。しかし、今、あなたが瞑想しているものは通り過ぎ、私たちは知覚しませんでした。これらを捨てなさい、無意味であるからです」。
でも私は答えた、「今、私が瞑想しているこの愛は、存在するので、無意味ではありません」。
しかし、彼らは言った、「創造からではない何らかの愛がどのように存在することができるのですか? 結婚愛はここからではありませんか? この愛は一つになることができるふたりの間に存在しませんか? 分裂させ、分離する愛がどのように存在することができるのですか? 愛し返す以外の他の娘を、どの若者が愛することができるのですか? 一方の愛がもう一方の愛を知り、認め、その者たちが互いに出会う時、自分自身を自分自身から結合しませんか? 愛の対象でない者をだれが愛することができますか? 結婚愛だけが相互と交互のものではありませんか? もし交互のものでないなら、はね返えり、無となりませんか?」
[2]これらを聞いて、私はそれらのふたりの天使に、天界のどの社会からであったか質問した。
言った、「私たちは無垢の天界からです——この天界的な世界に、私たちは幼児でやって来ました、そして主の導きのもとで育てられ、その後、青年になりました。ここに私とともにいる私の妻は、少女の適齢期のとき、私たちは婚約し、誓約し、初めてすべてのもので結合しました。真の結婚愛以外の他の愛について、私たちは知りません、それゆえ、私たちに私たちの愛にまったく対立した他の愛についての、あなたの思考の観念が伝えられたとき、私たちは何も把握できませんでした。それゆえ、私たちは、なぜ、知覚できないことをあなたが瞑想しているか、あなたに理由を質問するために降りました。そこで、私たちに言ってください、創造からでないだけでなく、創造に反してもいる愛が、どのようにして、ありえるかです——私たちは創造に反するものを、無の事柄の対象のように見なしています」。
[3]これらが言われて、私は、何が淫行かまったく知らなかったこのような無垢の天使たちと話すことが与えられたことを心から喜んだ。それゆえ、私は口を解き、〔次のことを〕言って、教えた、「あなたがたは善と悪が存在し、善は創造から、けれども、悪は創造からでないことを知らないのですか? それでも、本質的に眺められた悪は無ではなく、それでも決して善のものではありません——創造から善が存在します、そしてまた善は最大の段階の中に、また最小の段階の中に存在し、この最小のものが無となるとき、他の側から悪が発生します——それゆえ、悪へ向けて善の関係はなく、進行もありません、しかしさらに大きなまたさらに小さな善への、善の関係と進行、そしてさらに大きなまたさらに小さな悪への悪の関係と進行があります——というのは、すべてと個々のものの中に対立するものがあるからです。また、善と悪は対立するものであるので、中間のものが存在し、そこに均衡があり、その中で悪は善に対抗して働きます。しかし、優勢にないので、努力の中に残存します。
すべての人間はこの均衡の中で育てられます。善と悪の間に、または同じことですが、天界と地獄の間にいるからであり、そこに霊的な均衡があり、その均衡の中にいる者のもとで自由が生み出されます。
主はこの均衡からすべての者をご自分のもとへ引き寄せ、自由から従う人間を、悪から善の中へ、このように天界へ連れ出します。
愛に、特に結婚愛に、また淫行愛に同様です。前者の愛は善です、けれども、後者の愛は悪です。主の声を聞き、自由から従う、すべての人間は、主により結婚愛へ、すべての快さとその幸せの中へ導き入れられます。しかし、聞かず、従わない者は、自分自身を淫行愛へ、最初、その快さの中へ、しかし、その後、不快なものの中へ、また最後に、不幸の中へ導き入れます」。
[4]これらを聞いて、それらのふたりの天使たちは質問した、「創造から善以外でないなら存在するようにならなかった時、どのように悪が存在するようになることができるのですか? 何らかのものが存在するようになるために、その起源がなくてはなりません。善は悪の起源であることはできません、悪は決して善に属すものではないからです。というのは、善の正反対のものであり、その破壊を引き起こすものであるからです。しかしそれでも、存在し、感じられるので、無ではありません、何らかのものです。そこで、無であって、その後、どこからこの何らかのものが存在するようになったか言ってください」。
これに私は答えた、「この秘義は、神おひとりでないならだれも善ではないこと、また、神からでないなら本質的に善である何らかの善はないことを知らないなら明かされることはできません。それゆえ、神に目を向け、その方により導かれることを欲する者は、善の中にいます。神から自分自身に向きを変える者、自分自身により導かれることを欲する者は、善の中にいません、なぜなら、行なう善は、あるいは自分自身のため、あるいは世のため、このように、あるいは功績のもの、あるいは偽りのもの、あるいは偽善のものであるからです——それらから、人間自身が悪の起源であることが明らかです。その起源は創造から割り当てられたものでなく、自分自身で、神から自分自身への方向転換によって、自分自身にそれを割り当てたものでした。
その悪の起源はアダムとその妻の中にありませんでした。しかしヘビが、「 善と悪の知識の木からあなたが食べる日に……あなたは神のようになる」(創世記3:5)と言った時——その時、自分自身を神から向きを変え、神として自分自身へ方向転換したので、彼らは自分自身の中に悪の起源をつくりました。「その木から食べること」は、善と悪を知ること、そして自分自身から賢明であり、神からではないと信じることを意味します」。
[5]しかしその時、ふたりの天使たちは質問した、「〔神から〕自分自身へ向きを変えることは、それでも人間は、神からでないなら考え、ここから行なうことを欲することができないとき、どのように人間は自分自身を神から向きを変えることができたのですか? なぜ、神はこのことを許されたのですか?」
私は答えた、「人間は、欲し、考え、行なうすべてのことを、彼に自分自身の中にあるように見え、このように自分自身から行なうかのように、創造されています。人間は、この外観なしに、人間ではなかったでしょう、というのは、善と真理の、すなわち、愛と知恵の何らかのものを、受け入れ、保持し、自分自身にあたかも自分のものであるかのようにすることができないからです。そこから、生きているかのようなその外観なしに、人間に神との結合はなく、ここから永遠のいのちもなかったであろうことがいえます。
けれども、欲し、考え、またここから、神からでなく自分自身から善を行ない、それでもすべての外観の中で自分自身からのように行なうとき、もしこの外観から自分自身に信念がもたらされるなら、善を自分自身のもとで悪に変え、このように自分自身の中に悪の起源をつくります。このことがアダムの罪でした。
[6]しかし私はこの事柄のさらに照らされているものをいくつか明らかにしましょう——
主はすべての人間を、その額を見ます、この視線はその後頭部へ移ります。額の下に大脳があり、後頭部の下に小脳があります。前者は知恵とその真理に割り当てられ、後者は愛と善のものに割り当てられています。それゆえ、主に顔を向ける者は、その方から知恵を、これを通して愛を受けます。しかし、主から後ろ向きに目を向ける者は、愛を受け、知恵は受けません、知恵のない愛は、主からでなく人間からの愛です。この愛はそれ自体を虚偽と結合させるので、主を認めないで、自分自身を神として認めます、このことを、自分自身に創造から植え付けられた理解し、賢明になる能力によって、自分自身からのように、ひっそりと確信します。それゆえ、この愛が悪の起源です。
そのようであることは、目に示されることができます。私はここへ、神に背くある悪い霊を呼びます、私は彼に、背後から、すなわち、後頭部の中へ話します、すると、あなたがたは、言われたそれらが反対のものへ変えられるのを見るでしょう」。
[7]私はこのようなある者を呼んだ。〔彼が〕近づいた。私は彼に背後から、「あなたは地獄について、断罪について、そこの責め苦について知っていますか?」と言って、話した。
直ぐに、私に向きを変えたとき、私は、「あなたは何を聞きましたか?」と質問した。
答えた、「私はこれらを聞いた、『あなたは天界について、救いについて、そこの幸福について、なんらかのものを知っているか?』」。
その後、これらが彼に背後から言われ、前のものを聞いた、と言った。
続いて、彼の背後からこれらが言われた、「地獄にいる者は虚偽から狂っていることを、あなたは知っていますか?」。
これらについて、私から何を聞いたか質問されて、「私は、『天界にいる者は真理から賢明であることを、あなたは知っていますか?』と聞いた」と言った。
これらが彼に背後から言われて、「地獄にいる者は虚偽から狂っていることを、あなたは知っていますか?」と聞いた、と言った。等々。
それらからはっきりと、心がそれ自体を主から向きを変えている時、それ自体を自分自身に向けて変えること、そのとき反対のものを知覚することが明らかである。
「あなたが知っているように、これが、この霊界で、他の者の背後から、立つこと、また彼に話すことが許されない理由です、というのは、このように彼に愛が吹き込まれ、それに自己知性がその快さのために好感を持ち、従うからです。しかし人間からであり、神からでないので、悪の愛または虚偽の愛です。
[8]これに加えて、私はあなたに同様のこと話しましょう、すなわち、数回、私が、天界から地獄へ落ちた善と真理が、善が悪に、また真理が虚偽に、またそれらがそこで段々と反対のものになった、と聞いたことです。もちろん、この事柄の理由は同じであり、地獄にいるすべての者は、主に背くからです」。
これらを聞き、ふたりの天使は感謝して、「今、私たちの結婚愛に対立する愛について、あなたは瞑想し、書いています、そしてその対立する愛は私たちの心を悲しませるので、私たちは去ります」と言った。
彼らが、「平和が、あなたがたに〔ありますように〕」と言ったとき、私は、この愛について何らかのものを天界の自分の兄弟や姉妹に物語らないよう頼んだ、彼らの無垢を害するからである。

幼児で死んだ者は、天界の中で成長し、世で十八歳の若者、そして十五歳の娘である背丈に届いたとき、それらの中にとどまり、主によりその時、彼らに結婚が備えられる。なおまた、彼らは、結婚前も、その後も、何が淫行か知らず、ありえることもまったく知らない。私はこのことを確かなこととして断言することができる。

結婚愛

444a◀︎目次▶︎445

(十八)私通について

444b 私通によって、情婦である女との結婚前の青年のまたは若者の情欲が意味されます。けれども、情婦でない女との情欲は、すなわち、娘または他の者の妻との情欲は私通ではなく、娘とは性的な堕落であり、他の者の妻とは姦淫です。
これら二つのものが私通からどのように異なるか、性愛をその段階と多様性の中で見通し、その一方の側から貞潔を、またもう一方の側からの不貞を、そして、両方の側を属と種に分類し、このように区別しないなら、だれからも理性的に見られることができません――そうでなければ、それぞれの者の観念の中に、貞潔と不貞の間の、多かれ少なかれ、その違いを示すことができません。これらの区別なしに、すべての関係は、判断の事柄の中のこの洞察力とともに失われ、そして理解力は、姦淫から私通を、ましてさらに、私通と同様に姦淫の穏やかなものをそのきびしいものから、区別することを知らないような、このようなやみに包まれます。このように悪を混ぜ、〔悪の〕いろいろなものから一つのスープ(だし汁)を、また善のいろいろなものから一つのペースト(練り物)をつくります。
それゆえ、性愛が明瞭に知られるために、その〔性愛の〕部分に関して、それから結婚愛にまったく対立する淫行愛へ傾き、進んで行く、その始まり〔である私通〕を調べるのがうまいやり方です。
このことを次の系列で行ないます――

(1) 私通は性愛に属す。
(2) これは、青年が自己の理解力から考えることと行動することを始め、そしてその話す声が男らしいものになり始めるとき、始まる。
(3) 私通は自然的な人に属す。
(4) 私通は情欲である、しかし、姦淫への情欲ではない。
(5) 性愛は全面的に抑制されることができない、むしろ、ある者のもとで害なしに私通の中へ出て行く。
(6) それゆえ、人口の多い都市で売春宿は許容されている。
(7) 結婚愛を目指し、これを優先させるほど、私通しようとする情欲は軽いものである。
(8) 姦淫を目指すほど、私通しようとする情欲は重いものである。
(9) 多様なものへの欲望へ、処女凌辱への欲望へ向かうほど、私通しようとする情欲はさらに重いものである。
(10) 私通しようとする情欲のスフェアは、始まりの中で、淫行愛のスフェアと結婚愛のスフェアの間の中央にあり、均衡をつくるようなものである。
(11) 結婚愛が無秩序で抑制されていない私通によって滅ぼされないように用心しなければならない。
(12) ひとりの妻とひとりの男(夫)の結婚のものは、人間の生活の宝、キリスト教の宝庫であるからである。
(13) いろいろな理由のためにまだ結婚に入ることができない、また肉欲のために情欲を抑えることができない者のもとのこの結婚のものは、放浪性の性愛がひとりの愛人に限られるなら、保たれることができる。
(14) 愛人を持つことは、多くの者と、処女すなわち害われていない女とも、そして結婚した女とも結ばれず、そして結婚愛から分離して保たれるかぎり放浪性の情欲にまさる。
今からこれらの解説を続けます。

結婚愛

444b◀︎目次▶︎446

445 (1) 私通は性愛に属す
 私通は性愛に属すことが言われます、私通は性愛ではなく、性愛からのものであるからです。
 性愛は泉のようです、それから結婚愛と淫行愛の水路が開かれることができます。また、私通によっても、それなしでも開かれることができます――なぜなら、性愛はそれぞれの人間に内在し、それ自体をあるいは現わし、あるいは現わさないからです。もし結婚前に娼婦の女となら、私通と呼ばれます。もしそれ以前にでなく、妻とともになら、結婚と呼ばれます。もし結婚後、他の女となら、姦淫と呼ばれます。それゆえ、言われたように、性愛は貞潔な愛も不貞な愛も湧き出ることができる泉のようです。しかし、どのような用心深さと思慮分別とともに貞潔な結婚愛が私通によって生み出されることができるか、またどのような恥知らず(不謹慎さ)からその私通によって不貞なまたは淫行の愛が発出するか、続きの中で明らかにします。
 私通した者は結婚後に貞潔であることができないと結論することをだれができますか? 

結婚愛

445◀︎目次▶︎447

446 (2) 性愛は、これから私通があり、青年が自己の理解力から考えることと行動することを始め、そしてその話す声が男らしいものになり始めるとき、始まる
このことが、性愛とここから私通の起源が知られる目的のために加えられます、理解力がそれ自体から理性的になること、すなわち、自己の理性から利益と役立ちのものであるものを見通し、準備することが始まる時であり、それにその時、両親と教師から記憶の中にあるものが面としてそれに仕えます。
その時に、心の中に反転が生じます――以前は、持ち込まれた記憶の事柄から、単にそれらを熟考し、それらに従順になって考えました。その後、それらの上に理性から考えました。その時、愛に導かれて、居座った記憶の事柄を新しい秩序の中に配列し、これに一致して自己のいのちが始まり、だんだんとますます自分の理性にしたがって考え、自分の自由から欲します。
[2]性愛が自己の理解力の初期段階に続き、その活力にしたがって進むことがよく知られています。そのしるしは、理解力が上昇し、下降するようにその愛が上昇し、下降することです――上昇することによって知恵へ〔の上昇〕が意味され、下降することによって狂気へ〔の下降〕が意味されます。そして性愛を抑制することが知恵です、それを脇へ解放することが狂気です。もしその〔性愛の〕活動の始まりである私通の中にあるなら、記憶とここから理性に植え付けられ、その後、理性にまたここから記憶に植え付けられなければならない名誉(体面)と徳行(道徳)の原理から、抑制されなくてはなりません。
自己の理解力の始まりのときと一緒に、声もまた男らしいものになり始めることは、理解力が考え、思考によって話すからです。そのしるしは、理解力が男を、そしてまたその男性をつくることです。したがって、その理解力が高揚されるように、そのように人間を男に、そしてまた男性らしい男にします(前の432, 433番参照)。

結婚愛

446◀︎目次▶︎448

447 (3) 私通は自然的な人に属す
同様に、性愛のように自然的な人に属し、性愛はもし結婚前に生じるなら私通と呼ばれます。
身体的なものに生まれているすべての人間は、感覚的なものに、その後、自然的なものに、まただんだんと理性的なものになり、もしその時、止まらないなら、霊的なものになります。そのように進むことの理由は、面が形成され、それらにさらに上のものが、宮殿がその土台の上に支えられるように、支えられるためです。上部構造とともに最終の面は、すぐれた種が植え付けられる準備がなされた土地にもたとえられることができます。
[2]特に、性愛に関しては、それもまた最初に身体的です、なぜなら、肉から始まるからです。その後、それは感覚的なものになります、なぜなら、五官は、その性愛に共通のものから楽しみを与えられるからです。その後、それは動物のもとの同じものと非常に似ている自然的なものになります、性愛が放浪性のものであるからです。しかし、人間は霊的なものになるように生まれているので、その後、それは理性的な自然的なものに、また理性的な自然的なものから霊的なものに、最後に自然的な霊的なものになります、その時、霊的なものになったその愛は、理性的な愛の中へ、またこれを通して感覚的な愛の中へ、これを通して最後に身体の中のまた肉の中のその愛の中へ流入し、働きます。これはその最後の面であるので、その中で霊的に、また同時に、理性的にまた感覚的に働きます。そして、人間がその熟考の中にいる時、そのように連続的に、しかし、最終的なものの中にいる時、同時に、流入し、働きます。
[3]私通が自然的な人に属すものであることは、自然的な性愛の最も近いものから発出するからです。そして、理性的な自然的なものが存在することができます、けれども、霊的なものは存在できません、性愛は結婚愛にならないうちに霊的なものになることができないからです。性愛は、人間が放浪性の情欲から去り、自分自身をひとりにささげ、その霊魂に自分の霊魂を結合させる時、自然的なものから霊的なものになります。

結婚愛

447◀︎目次▶︎449

448 (4) 私通は情欲である、しかし、姦淫への情欲ではない
 私通が情欲であることの理由は――

(ⅰ)自然的な人から出てくるからである。それらから出てくるすべてのものの中に欲望と情欲がある。というのは、自然的な人は、欲望と情欲の住居と容器でしかないから、というのは、両親から相続したすべての罪がそこに住んでいるからである。
(ⅱ)私通する者は〔異〕性へ向けて定まった対象なしに、無差別に眺め、まだ〔異〕性からのひとりの者に向けて眺めていない。その状態の中にいるかぎり、彼は情欲により行なうことを行なうように向けて刺激される――しかし、ひとりの者に向けて眺め、そして自分のいのちをそのいのちと結合することを愛するかぎり、欲望は貞潔な情愛になり、そして情欲は人間らしい愛になる。

結婚愛

448◀︎目次▶︎450

449 私通の情欲が姦淫の情欲でないことは、だれもが通常の知覚から見通すでしょう。
 どの法律が、どの裁判官が、姦通者と同様の罪悪を私通者に帰すのですか?
 このことが通常の知覚から見られる理由がどこからなのかは、姦淫のように、私通が結婚愛に対立したものではないからです――自然的なものの中に霊的なものがたくわえられることができるように、私通の内部に結婚愛がたくわえられることができます。それどころか、さらにまた、自然的なものから実際に霊的なものがころがり出ます。霊的なものがころがり出る時、それを自然的なものは、木を樹皮のように、そして剣を鞘のように取り巻き、そしてまた、暴力に対して保護するものとして霊的なものに仕えます。
 これらから、〔異〕性へ向かう自然的な愛は〔異〕性からのひとりに向う霊的な愛に先行することが明らかです。けれども、もし私通が自然的な性愛から現われても、結婚愛が主要な善として眺められ、望まれ、求められるかぎり、それもまたぬぐい取られることができます。
[2]結婚愛に対立し、その破壊者である姦淫の好色なまたわいせつな愛とまったく異なっていることは、前章の「淫行愛と結婚愛の対立について」の中に示されています。それゆえ、もし姦淫者がいろいろな理由のために故意にまたは確信から結婚の寝床(夫婦の契り)に入るなら、逆のものが生じます。内部で自然的なものがその好色なものとわいせつなものとともに隠れ、外部でその霊的なものの外観がおおいます。これらから、制限された私通の情欲は、理性によって、姦淫の情欲と比べた観点から、極北の領域の中の真冬の冷気に比べて最初の暖かさのようであることを見ることができます。

結婚愛

449◀︎目次▶︎451

450 (5) 性愛は全面的に抑制されることができない、むしろ、ある者のもとで害なしに私通の中へ出て行く
 〔性的〕刺激の過多に苦しみ、原因となり、働きかけられる者のもとの性愛の過度の抑制による害を列挙することは重要性に欠けます――ここから、これらの者のもとに、名前を挙げないで黙っていられるような知られていない悪があり、ある種の身体の病気や心の疾患があります。
 情欲の活動に抵抗することができるような、これほどに性愛が制御されている者のもとでは異なっています。同じく、若い年齢で、世の財産の損失なしに、そのように最初のすべてのもので、適法の夫婦としてともに寝ることへ、自分自身を導き入れることの自由がある者のもとで異なっています。
 天界で幼児が結婚の年齢へと成熟するとき、そのようになるからです、それゆえ、そこでは私通が何か知られていません。しかし、地上で事柄は同様ではありません、そこでは、青春時代の過ぎ去った後でないなら、結婚することができません、これは、そこに職務が長い間になし遂げられ、家と家族を支えるための財産を稼ぎ、その時、初めてふさわしい妻が求められるという制約内の多くの者に生じます。

結婚愛

450◀︎目次▶︎452

451 (6) それゆえ、人口の多い都市で売春宿は許容されている
 前節を確信するために次のことを示します――王・行政長官により、ここから裁判官・取調官により、また人々により、ロンドン・アムステルダム・パリ・ヴィーン・ヴェネツィア・ナポリで、そしてまたローマで、ほかに他の多くの場所で許容されていることがよく知られています。その理由に前述のものがあります。

結婚愛

451◀︎目次▶︎453

452 (7) 結婚愛を目指し、これを優先させるほど、私通は軽いものである
 善の性質に段階があるように、悪の性質に段階があります。それゆえ、それぞれの善がより善く、最も善いように、それぞれの悪は軽い、また重いものです。
 私通も同様です、それは情欲であり、そして自然的な人にまだ清められていないものであるので悪です。しかし、すべての人間は清められることができるので、それゆえ、清めの状態へ近づけば近づくほど、それだけその悪は軽い悪になります、なぜなら、それだけぬぐい取られるからです。そのように私通は、清められた性愛の状態である結婚愛に近づくかぎり〔そうなります〕。私通の悪は姦淫愛に近づくかぎり重いことが次節に見られます。
[2]私通が結婚愛を目指すかぎり軽いのは、そのとき不貞の状態から貞潔な状態を目指す中にいるからです。また優先させればさせるほど、それだけ理解力に関してもまたその中にいます、またそれを優先させるだけでなく、しかし、さらにまたさらに愛せば愛すほど、それだけ意志に関して、このように内なる人に関してもその中にいます。その時、私通は、もしそれでもなおその中で続けるなら、彼に必要であり、その原因は彼のもとの調査〔したもの〕の中にあります。
[3]結婚の状態を優先させ、さらにまた愛する者のもとの私通が軽いことには、有効である二つの論拠があります――第一のものは、彼らに結婚生活が目標・意図、すなわち、目的であることです。第二のものは、自分自身のもとの悪を善から分離していることです。
 第一のものについては、彼らに結婚生活が目標・意図、すなわち、目的です、人間は、自分の目標・意図、すなわち、目的の中でそのような人間であるからです、そしてまた、主の前と天使の前でそのような者です、それどころか、世の賢明な者の前でもまたそのような者に見られます。というのは、意図はすべての行動の霊魂であり、そして、世で批難を、弁解を、また死後、転嫁を引き起こすからです。
[4]第二のものに関して、結婚愛を私通の情欲に優先させ、悪を善から分離する者は、そのように不貞を貞潔から〔その知覚そして意図を分離するからです〕。また善または貞潔の中にいる前に、それらの二つの知覚と意図を分離する者は、結婚の状態の中にやって来る時、その情欲の愛からもまた分離され、清められます。
 私通の中で姦淫を目指す者に、そのように生じないことは、今から続く節で見られます。

結婚愛

452◀︎目次▶︎454

453 (8) 姦淫を目指すほど、私通しようとする情欲は重いものである
私通の情欲の中で姦淫を目指すすべての者は、姦淫を罪と信じません、また結婚と姦淫について、それらは、許されるものと許されないものという単なる相違とともに同様のものと考えています。これらの者は、すべての悪から一つの悪をつくり、それらを一つの皿の中の食べられる食物と汚物のように、一つの杯の中のブドウ酒と廃物のように混ぜ、そしてそのように食べ、飲みます。彼らは、性愛・私通・めかけを持つことを、厳しくない、重い、またさらに重い姦淫、それどころか性的な堕落または処女凌辱と同様に行ないます――追加の事実は、それらすべてのものを混ぜるだけでなく、しかし結婚にもまた混ぜ合わせ、これを同様の概念で汚します――しかし、後者を前者から決して区別しない者のもとで、〔異〕性との放浪性の習慣の後、最初に配偶者に対して、その後、他の者に対して、最後に性に対して、冷淡・嫌気・吐き気が生じます。
彼らのもとに、私通から結婚愛を目指し、またこれを優先させる者のもとのような、弁解されるための善または貞潔の目標・意図または目的が存在しないこと、清められるための善からの悪の分離、または貞潔からの不貞の分離もないことはそれ自体から明らかです(それらについては、前節の452番参照)。
[2]これらを、天界からのこの新しいものによって確信することが許されています――

私は多くの者に出会った。ある者は世で他の者と同様に、自分を豪華に着飾って、ごちそうを食べ、利益とともに他の者のように商売し、劇場の演技を眺め、愛する者(恋人)について情欲からのように冗談を言って、ほかにも同様なものに生きた、それでも天使たちは、ある者にそれらを罪ある悪として罪を帰し、ある者にそれらを悪として罪を帰さなかった。前者を罪のある者、けれども、後者を罪がない者と宣言した。
「同様のことを行なったのに、そのときどうしてそのようなのか」との質問に、答えた、「目標・意図または目的からすべてのものを熟視し、それらにしたがって区別します――それゆえ、彼らを、彼らの目的で、赦し、断罪します。彼ら自身が許し、断罪する善の目的が天界のすべての者にあり、そして悪の目的が地獄のすべての者にあるからです――またこのことが、何らかの他のものでなく、主のことばによって意味されます、

さばかないようにしなさい、あなたがたが断罪されないためです(マタイ7:1)」。

結婚愛

453◀︎目次▶︎455

454 (9) 多様ものへの欲望へ、処女凌辱への欲望へ向かうほど、私通しようとする情欲はさらに重いものである
 その理由は、これらの二つは姦淫の付加的なものであり、そのようにそれを重くするものであるからです――というのは、穏やかな、重い、さらにまた重い姦淫が存在し、そして、それぞれのものが結婚愛の対立するものと破壊するものにしたがってはかりにかけられるからです。多様なものへの欲望や処女凌辱への欲望は行動での実現によって確かなものにされ、結婚愛を、あたかも海の底に沈めるかのように荒廃させることは、それらについて〔扱っている〕続く章の中で見られます。

結婚愛

454◀︎目次▶︎456

455 (10) 私通しようとする情欲のスフェアは、始まりの中で、淫行愛のスフェアと結婚愛のスフェアの間の中央にあり、均衡をつくるようなものである
淫行愛と結婚愛の二つのスフェアについて前章で扱いました。そして、淫行愛のスフェアが地獄から上昇し、結婚愛のスフェアが天界から下降することを示しました(435番)――それらの二つのスフェアは互いに両方の世界で出会います、しかし互いに結合しません(436番)――それらの二つのスフェアの間に均衡があり、人間はその中にいます(437番)――人間は自分自身を、好むところであるそのスフェアへ向けることができます、しかし、一方へ向ければ向けるほど、それだけもう一方から自分自身を背かせます(438番)。スフェアによって何が意味されるか〔示しました〕(434番、そこに引用された箇所から)。
[2]私通の情欲のスフェアはそれらの二つのスフェアの間の中央にあり、均衡をつくっていることは、だれかがその中にいる時、結婚愛のスフェアへ、すなわち、この愛へそしてまた姦淫愛のスフェアへ、すなわち、この愛へ自分自身を向けることができるからです。しかし、結婚愛へ向けるなら、自分自身を天界へ向けます。姦淫愛へ向けるなら、自分自身を地獄へ向けます――両方とも人間の選択・随意・意志の中にあります、その理由は、本能からでなく理性にしたがって、自由に行動することができ、それゆえ、人間であり、そして流入を自分のものにすることができるためであり、その何も自分のものにしない獣でないためです。
私通の情欲が始まりの中でどんなものであるか言われるのは、その時、中間の状態の中にあるからです。
それぞれの人間が始まりの中で行なうことは、自然的な人からなので、欲望からであることを、だれが知りませんか? また、自然的なものから霊的なものになる時、その欲望は〔その人間に〕帰せられないことを、だれが知りませんか?
私通の情欲も、人間の愛が結婚愛になる時、同様です。

結婚愛

455◀︎目次▶︎457

456 (11) 結婚愛が抑制されていない無秩序な私通によって滅ぼされないように用心しなければならない
 結婚愛が失われる無秩序の抑制されていない私通によって、それらにより力が弱められるだけでなく、しかしすべての結婚愛の美味もまた取り去られる私通が意味されます。というのは、それらの遠慮のない放埓から、虚弱とここからの欠乏だけでなく、不潔とあつかましさもまた生じ、それらから結婚愛はその清潔さと貞潔さが、このようにその甘さ、またその花の歓喜が、知覚され、感じられることができないからです――そのため、身体と心の害は、なおまた許されない誘惑は黙っておかれ、それらは結婚愛の祝福された快さを奪うだけでなく、それを取り去り、そして冷淡に、このように不快(嫌気)に変えます。
 このような私通は耽溺であり、それによって結婚の遊戯は悲劇の舞台へ向けられます――というのは、無秩序のまた抑制されていない私通は、最も低いものから起こり、身体を燃え立たせ、繊維を焦がし、血を汚し、そして心の理性的なものを害する火のようであるから。というのは、火のように家の土台から突発し、全部を焼き尽くすからです。
 そのようことが起こらないように、両親により用心されなければなりません、情欲でかきたてられた青少年は、理性からまだ自分自身に馬勒を据える(=抑制を負わせる)ことができないからです。

結婚愛

456◀︎目次▶︎458

457 (12) ひとりの妻とのひとりの男(夫)の結婚のものは、人間の生活の宝、キリスト教の宝庫であるからである
これらは、前に述べた「結婚愛とその知恵の歓喜について」の全部で、あらゆる点でまた個々に示されている二つのものです。
人間の生活の宝であることは、人間の生活(いのち)は、彼のもとのその愛がどんなものであるかによってそのようなものであるからです、というのは、彼らの生活(いのち)の最内部をつくるから。なぜなら、その愛と一緒に住んでいる知恵の生活(いのち)であり、その知恵と一緒に住んでいる愛の生活(いのち)であり、ここから両方の歓喜の生活(いのち)があるからです。一言でいえば、人間はその愛によって生きている霊魂です。ここから、ひとりの妻とのひとりの男(夫)の結婚のものは人間生活の宝と言われます。
[2]このことは前のこれらから確信されます――

真の結婚の友情・信頼・活力(性的能力)はひとりの妻と存在する、心の結合があるからである(333, 334番)。
その〔結合の〕中に、またそれから、天界の至福、霊的な幸せ、ここから自然的な快感が存在し、それらは真の結婚愛にいる者に初めから備えられている(335番)。
天的な、霊的な、またここから自然的なすべての愛の根本的な愛であり、その愛の中にすべての楽しさとすべての喜びが最初のものから最後のものまで集められている(65–69番)。

また、その起源の中で知恵と愛の遊戯であることが、この著作の「第一部」を構成している「結婚愛について知恵の歓喜」の中に、十分に示されています。

結婚愛

457◀︎目次▶︎459

458 その愛がキリスト教の宝庫であることは、この宗教がその愛と一つのものを構成し、一緒に住むからです。なぜなら、〔以下のことが〕示されているからです、

主に近づき、そしてその方の教会の真理とその善を行なう者以外に他の者はその愛の中にやって来ない、 その中にいることができない(70, 71番)。
その愛は主だけからであり、ここからキリスト教の中にいる者のもとに存在する(131, 336, 337番)。
その愛は人間のもとの知恵の状態にしたがっているので教会の状態にしたがっている(130番)。

これらがこのようであることは、「主と教会とのその対応について」の章全体の中で(116–131番)、また「善と真理の結婚からのその愛の起源について」の章の中で(83–102番)確証されています。

結婚愛

458◀︎目次▶︎460

459 (13) いろいろな理由のためにまだ結婚に入ることができない、また肉欲のために情欲を抑えることができない者のもとのこの結婚のものは、性愛がひとりの愛人に限られるなら、保たれることができる
 好色である者のもとに、抑制されていないまた無秩序の情欲を引き止められることができないことは、理性で見られ、経験で教えられます。それゆえ、この抑制されていないまた無秩序の情愛が、〔性的〕興奮に苦しみ、また多くの理由のために、結婚を早め、急ぐことができない者のもとで抑制されており、何らかの穏健な秩序づけられたものが整えられ、フランス語でメトレス〔愛人・めかけ・情婦〕と呼ばれる愛人を添えること以外に何らかのものの逃げ場が、いわば避難所が見られません。
 統治された王国の中で、青春時代(壮年)の過ぎ去った後以外でないなら結婚(生活)が多くの者により結ばれることができないことがよく知られています、前もって職務が行なわれ、そして家を維持し、家族を得るための財産がなければならず、その時、初めて妻を求めるのに値するとされているからです。それでも、先行する年齢の中で、妻のための精力(性的能力)の噴泉は、わずかな者のものに閉ざされて保たれ、保持されています――確かに、保持されるのが望ましいです。しかし、もし制御されていない情欲の力のためにできないなら、結婚愛がその間に滅びないように、中間の方法が求められ、それによって保持されることができ、それは愛人を持つことであり、〔そのことを〕これらが主張しています――

(ⅰ)それにより、見境のないでたらめな私通が制御され、制限され、このように制限された状態に導き入れられる、それは結婚のさらに類似した生活である。
[2](ⅱ) 灼熱のまた燃やすような最初の性的快楽の情熱は、鎮められ、和らげられる、このように不潔である色情(肉欲)の好色は、結婚の類似物のような何らかのものによって緩和される。
[3](ⅲ) それによって、定まった対象のないまた制限のない男子色情症(男の異常な性欲亢進症)によるかのように活力が捨てられることもなく、虚弱が縮められることもない。
[4](ⅳ) それによって、身体の感染症、そして心の狂気もまた避けられる。
[5](ⅴ) 同じく、それによって罪あるものとして黙っておかれ、それらは名前が上げられないような、妻たちとの姦通である姦淫が、そして処女を強姦することである誘惑することが予防される――というのは、少年は未熟者である時、姦淫と性的堕落が私通以外の何らかのものであることを、そのように他のものと同じもの、一つであることを考えず、娼婦の働き(売春)を根気づよく与える〔異〕性からのある種の誘惑に理性から抵抗することも知らないからである。しかし、さらに秩序づけられた、またさらに健全な私通である愛人を持つこと(内縁関係)の中で、相違を学び、見ることができる。
[6](ⅵ) 愛人を持つことによって、最高の段階の中で結婚愛を破壊するものである四種類の情欲への接近も存在しない。それらは、処女凌辱への情欲・多様なものへの情欲・強姦への情欲・無垢な者を惑わす情欲である。それらについては、続くものの中で〔述べる〕。

 しかし、これらは、情欲の熱情を抑制することができる者には言われません。若者になる時に直ちに、結婚に入り、そして精力(性的能力)の初穂を自分の妻に捧げ、振り向けることができる者にも言えません。

結婚愛

459◀︎目次▶︎461

460 (14) 愛人を持つことは、多くの者と、処女すなわち害われていない女とも、そして結婚した女とも結ばれず、そして結婚愛から分離して保たれるかぎり放浪性の情欲にまさる
いつ、だれのもとで愛人を持つことが放浪性の性愛にまさるか、直前に示しました。

(ⅰ)愛人を持つことがひとり以外の多くの者と結ばれてはならないことは、多くの者と結ばれるとき一夫多妻が内在し、それは人間に単なる自然的な状態をひき起こし、そしてこれを、結婚愛が存在しなければならない霊的な状態の中へ高揚されることができないようにまでも感覚的なものの中へ押し下げるからである(338, 339番参照)。
[2](ⅱ) 処女または損なわれていない女と結ばれてはならないことは、女のもとの結婚愛は彼女の処女性は一つのものとして活動するからである。その愛の貞潔性・純粋性・聖性はここからである。それゆえ、その処女性をある男に誓約し、差し出すことは、彼を永遠に愛するしるしを与えることである。それゆえ、処女はその処女性を、結婚の契約の保証とともにでないなら、理性的な承諾から何も誓約することができない――それは彼女の名誉の冠でもある。それゆえ、結婚の約束なしにその処女性を強奪し、その後、そのままにすることは、花嫁また貞潔な妻になることができる何らかの処女を娼婦にすること、または何らかの男をだますことであり、そして両方とも有害である――それゆえ、処女を愛人として自分自身に結び付ける者は、確かに彼女と一緒に住むことができ、このように彼女を愛の友情の中に入れることができる、しかしそれでも、もし姦通しないなら、自分の妻であるように、あるいは自分の妻になるようにとの変わらない意図とともにである。
[3](ⅲ) 愛人を持つことは結婚した女と結ばれてはならないことは明らかである、これが姦淫であるからである。
[4](ⅳ) 愛人を持つことの愛は結婚愛から分離されて保たれなければならない、その理由は、それらの愛は区別され、それゆえ、混ぜられてはならないからである。というのは、愛人を持つことの愛は不貞な・自然的な・外なるものである、しかし、結婚愛は貞潔な・霊的な・内なるものであるから――愛人を持つことの愛は二つの霊魂を切り離す、そして身体の感覚的なものだけを結合する。しかし、結婚愛は霊魂を、また霊魂の結合から身体の感覚的なものもまた、二つのものから一つのもののようになるまでも結合し、それは一つの肉である。
[5](ⅴ) 愛人を持つことの愛は理解力の中にだけ入り、理解力によるものの中へ入る。しかし、結婚愛は意志の中へも入り、意志によるものの中に入る、それゆえ、人間のすべてと個々のものの中にある。それゆえ、愛人を持つことの愛が結婚愛になるなら、男は、結婚の結合の性的暴行なしに、何らかの権利から退くことができない。もし退き、他の者をめとるなら、結婚愛はその破壊の中で滅びる。
愛人に結婚を誓約しないこと、彼女を何らかの結婚の希望へ導き入れもしないことによって、愛人を持つことの愛は結婚愛から分離されて押しとどめられることを知るべきです。
それでもなお、性愛のたいまつは妻と初めて点火されることがまさっています。

結婚愛

460◀︎目次▶︎462

41 快さについて、それは天界と地獄の普遍的なものである

461 (これらに次のメモラビリアを加えます——)
かつて私は、世にいた時、天界と地獄について多くのものを熟考した新来の霊と話した。新来の霊によって新たに死んだ人間が意味される、その者はその時、霊と呼ばれる霊的な人間であるからである。
彼は、霊界に入るとすぐに、天界と地獄について同様に熟考し始めた。天界について〔熟考する〕とき、自分自身が楽しさの中に、また地獄について〔熟考する〕とき、悲しみの中に〔いるように〕見られた。
彼は自分自身が霊界にいることを認めたとき、直ちに、天界がどこに、地獄がどこに、なおまたそれらが何か、どんなものか求めた。
〔そこにいる者が〕答えた、「天界はあなたの頭の上方にあり、地獄はあなたの足の下方にある、というのは、今や、あなたは天界と地獄の中央にある霊たちの世界にいるからである。しかし天界と地獄が何か、どんなものか、私たちは簡単に述べることができない」。
その時、知ることの願望が燃え立ったので、ひざまずき、教えられるようにと信心深く神に祈った。
すると、見よ、天使が右に現われ、彼を起こし、言った、「あなたは天界と地獄について教えられるようにと懇願しました。何が快さか探求し、学びなさい、するとあなたは知ります」。
天使は、これらを言って、上げられた。
[2]その時、新来の霊は自分自身に言った、「『何が快さか探求し、学びなさい、するとあなたは天界と地獄が何か、どんなものか知ります』とは何か?」。しかしその場所から立ち去って、歩きまわった。出会った者に話しかけて、言った、「お願いがあります、もしよろしかったら、何が快さか言ってください」。
ある者は言った、「これは何たる質問なのか? 何が快さか、だれが知らないか? 楽しさと喜びではないのか? それゆえ、あるものがもう一つのように、快さは快さである。私たちは違いを知らない」。
他の者たちは、快さは心のほほ笑みであることを言った、「というのは、心がほほ笑む時、顔は機嫌がよく、話し方は冗談まじりで、身振りはふざけている、人間全体は快さの中にいるからである」。
けれども、ある者たちは言った、「快さは、宴会で、ごちそうを食べ、そして銘酒を飲んで酔うこと、その時、いろいろな事柄について、特にウェヌスとクピドー(愛欲と欲望)の遊びについておしゃべりすること以外の他のものでは決してない」。
[3]これらを聞いて、憤慨した新来の霊は自分自身に言った、「これらの答えは田舎者のものである、公衆のもの(=教養あるもの)ではない。これらの快さは天界でも地獄でもない。私は賢明な者に出会えればよいのに」。彼らから去り、求めた、「賢明な者はどこにいるのか?」
その時、天使的なある霊により見られ、その者は言った、「私は、あなたが天界の全般的なものと地獄の全般的なものを知る願望にかきたてられていることを知覚しました、このこと〔天界と地獄〕は快さであるので、私はあなたを丘の上に導きます、そこに毎日、結果を調べる者・原因を探し求める者・目的を見つけ出す者が集まります——三つの集団があり、結果を調べる者は、知識の霊、また抽象的に「知識」と呼ばれます。原因を探し求める者は、知的な霊、また抽象的に「知性」と呼ばれます。目的を見つけ出す者は、知恵の霊、また抽象的に「知恵」と呼ばれます——彼らのまっ直ぐ上方に、天界に天使がいます、彼らは目的から原因を、原因から結果を見ます。これらの天使から、それらの三つの集団に照らしがあります」。
[4]彼は、その時、新来の霊を、手をつかまえて、丘の上へ、集団へ導いた、彼らは目的を調べる(見つけ出す)「知恵」と呼ばれる者たちであった。
彼らに言った、「私があなたがたへ上ること許してください——その理由は、私は子供時代から天界と地獄について熟考したからです、近ごろ私はこの世界にやって来て、私と仲間となったある者が、その時、ここに天界は私の頭の上方にある、そして地獄は私の足の下方にあると言いました。しかしそれらが何か、どんなものか言いませんでした。それゆえ、それらについての思考から絶えず悩まされて、私は神に祈りました。その時、天使がそばに立ち、言いました、『何が「快さ」か探求し、学べ、するとあなたは知る』。私は探求しました、しかし依然としてむなしいです——それで、お願いします、よろしかったら、あなたがたは、何が快さか私に教えてください」。
[5]これに「知恵(の霊たち)」が答えた、「快さは、天界のすべての者のいのちのすべてです、地獄のすべての者のいのちのすべてです——天界にいる者たちに、善と真理の快さがあります。けれども、地獄にいる者に、悪と虚偽の快さがあります。というのは、すべての快さは愛のものであり、愛は人間のいのちのエッセ(存在)であるからです。それゆえ、人間は自分の愛がどんなものかにしたがって人間であるように、そのように人間は自分の快さがどんなものかにしたがって人間です——愛の活動が快さの感覚をつくります。天界でその活動は知恵をともにあり、地獄でその活動は狂気をともにあります。両方のものはその対象の中で快さをひき起こします。けれども、天界のものと地獄のものは、対立する愛の中にあるので、対立する快さの中にあります。天界のものは〔善の〕愛とここから善を行なう快さの中にあります、けれども、地獄のものは〔悪の〕愛とここから悪を行なう快さの中にあります——それで、もしあなたが何が快さか知るなら、あなたは天界と地獄が何か、どんなものであるか知るでしょう。
しかし何が快さか、原因を探し求める「知性」と呼ばれる者から探求し、学びなさい。〔彼らは〕この場所から右側にいます」。
[6]私は去り、また近づき、到来の理由を言い、何が快さか教えるよう懇願した。
これらの者は質問にうれしがって言った、「快さを知る者が天界と地獄が何か、どんなものであるか知ることは真理です——意志は、その意志から人間は人間であり、快さからでないなら、決して一瞬も生じません。なぜなら、本質的に眺められた意志は、愛の情愛、そのように、快さの何らかの情愛でしかないから、というのは、何らかの選択・好み・心地よさであり、それが欲することを行なうからです。意志は理解力を考えることへ駆りたて、意志の快さの流れ入るものからでないなら、最小量の思考の観念も存在しません。
そのようであることの理由は、主は自分自身から流入によって、天使・霊・人間のもとのすべての霊魂とすべての心を拍動させ、愛と知恵の流入によって活動させ、この流入は活動そのものであり、その活動からすべての快さがあり、その起源の中で至福・幸せ・幸福と呼ばれ、派生物の中で快さ・楽しさ・心地よさ、また全般的な意味で善と呼ばれるからです。
しかし地獄の霊は自分自身のもとのすべてのものを、そのように善を悪の中へ、真理を虚偽の中へ、常に快さを持続しながら、逆にします。なぜなら、快さの持続なしに、彼らに意志はなく、感覚もなく、そのようにいのちがないからです。
これらから、地獄の快さが何か、またどんなものか、どこからか、なおまた天界の快さが何か、どんなものか、どこからであるか、明らかです」。
[7]これらを聞いて、第三の集団へ導かれた、そこに結果を調べる「知識」と呼ばれる者がいた。
これらの者は言った、「〝低い地〟へ下れ、そして〝高い地〟へ上れ。あなたは、前者の中で、地獄の霊の快感を、後者の中で天界の天使の快感を知覚し、感じる」。
しかし見よ、その時、隔たったところの地面が開き、裂け目から3人の悪魔が、彼らの愛の快さから燃え立って上った。新来の霊と仲間となった天使は、彼ら3人が、摂理から、地獄から上ったことを知覚したので、彼らに言った、「さらに近くに近づいてはなりません。しかしあなたがたがいるその場所から、あなたがたの快さについて何らかのものを語りなさい」。
彼らは言った、「善良な者あるいは悪い者であるそれぞれの者が、自分の快さの中にいること、善良な者は自分の善の快さの中に、悪い者は自分の悪の快さの中にいることを知るとよい」。
質問した、「あなたがたの快さは何ですか?」
彼らは言った、「淫行し、盗み、だまし、冒涜する快さである」。
再び質問した、「それらの快さはどんなものですか?」
彼らは言った、「他の者により、糞からの悪臭のように、死体からの腐臭のように、よどんだ尿からの臭いのように感じられる」。
質問した、「それらがあなたがたに快いものなのですか?」
言った、「極めて快いものである」。
言った、「その時、あなたがたは不潔な獣です、その獣はそれらの中で時を過ごします」。
答えた、「もし私たち〔がそのような者〕である〔と思う〕なら、私たち〔はそのような者〕である、しかしそのようなものが私たちの鼻を歓喜させるものである」。
[8]質問した、「もっと〔ほかに〕何が〔ありますか〕?」
「善い霊と天使を攻撃しないかぎり、それぞれの者が自分の快さの中に、さらにまた最も不潔なものと呼ぶようなものの中にいることが許されている」と言った。「しかし私たちの快さから、他の者を攻撃することしかできない、〔そうするとき〕私たちは強制収容所に中に投げ込まれ、そこで厳しいことを被る。そこに私たちの快さの抑制と引っ込めることがある、〔それは〕地獄の責め苦と呼ばれる。そしてまた内的な苦しみである」。
その時、質問した、「なぜ、あなたがたは善良な者を攻撃するのですか?」
「そのことしかできない」と言った。「ある天使を見るとき、彼らのまわりの神的なスフェアを感じるとき、〔彼らを〕襲う激怒のようなものがある」。
その時、言った、「このようにあなたがたもまた野獣のようです」。
彼らが天使とともに新来の霊を見るときすぐに、悪魔に激怒が出てきた、それは憎しみの火のように見えた。それゆえ、害を加えないように、地獄へ投げ返された。
この後、目的から原因を見、原因を通して結果を見た天使たちが現われた、それらの者はそれらの三つの集団の上方の天界にいた。これらの者は白く輝く光の中で見られた。その光は曲がったらせん形を通って転がり落ち——〔天使が〕円形の花冠を持ってきて、新来の霊の頭の上に置いた。その時、彼にここ〔天界〕から声があった、「あなたは子供時代から天界と地獄について熟考したので、その理由のために、この月桂冠があなたに与えられる」。

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461◀︎目次▶︎463

(十九)めかけ囲いについて

462 前章で、そこに私通について、愛人を持つことについても扱われ、これ〔愛人を持つこと〕によって、契約された女と独身の男の結合が意味されました。けれども、めかけ囲いによってここに同様に、契約された女と妻帯者の男の結合が意味されます。
その種類を区別しない者は、それらの二つの言葉で、いわば一種類のものを理解し、ここから意味されるものを無差別に用いています。しかし、二種類であり、愛人を持つことは、愛人は姦通者であるので前のものに適合し、めかけは寝床で男とともに寝る女であるので、めかけ囲いは後のものに適合します、それゆえ、区別の理由は、女との結婚前の契約が愛人を持つことによって、結婚後の契約がめかけ囲いによって意味されることです。
[2]めかけ囲いについて、秩序のためにここに扱います。なぜなら、秩序から、一方の側から結婚がどんなものか、またもう一方の側から姦淫がどんなものか明らかにされるからです。
結婚と姦淫が対立したものであることは、それらの対立について章の中で最初に扱いました。どれだけ、またどのように対立しているか、中間のものから、それらからでないなら、〔それらに〕めかけ囲いもありますが、汲み取られることできません。
しかし、この二種類のものがあり、これは完全に区別されなければならないので、それゆえ、本章は、前のもののように、部分に分割されなければなりません。それをこれらの中で行ないます――

(1) 二種類のめかけ囲いがあり、それら自体の間に大いなる相違がある。一つは妻と一緒のもの、もう一つは妻から離れたものである。
(2) 妻と一緒のめかけ囲いは、キリスト教徒にまったく許されない、嫌悪すべきものである。
(3) これは一夫多妻であり、キリスト教界から断罪され、断罪されるべきである。
(4) これは淫行であり、それによってキリスト教徒生活の宝である結婚のものは失われる。
(5) 妻から離れためかけ囲いは、適法な・正当な・真に重大な原因から行なわれるとき、許されないものではない。
(6) このめかけ囲いの適法な原因は、妻がそれでもなお家に保有される時、離婚の適法な原因である。
(7) このめかけ囲いの正当な原因は、寝床からの分離の正当な原因である。
(8) このめかけ囲いの重大な原因は、ほんとうであるし、ほんとうでない。
(9) 正当な原因からの、ほんとうの重大な原因がある。
(10) しかし、たとえ外観から正当な原因であっても、正当でなく、ほんとうではない重大な原因がある。
(11) 適法な・正当な・重大なほんとうの原因から、このめかけ囲いにいる者は、結婚愛にいることができる。
(12) このめかけ囲いが続く間、妻との実際の結合は許されない。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

462◀︎目次▶︎464

463 (1) 二種類のめかけ囲いがあり、それら自体の間に大いなる相違がある。一つは妻と一緒のもの、もう一つは妻から離れたものである
 二種類のめかけ囲いがあり、それらはそれら自体の間で大いに異なります。一つの種類は、男とともに寝る女を寝床に付き添わせ、そして同時に彼女とまた妻と一緒に生活することです。もう一つの種類は、適法にまた正当に妻からの分離の後、その代わりに女を寝床の仲間の中に結びつけることです。
[2]これらの二種類のめかけ囲いは、物事を鋭く、明確に観察する者から、洗われたものから汚れた亜麻布のようにそれら自体の間で引き離されていることが、見られることができます。しかし、混乱して、またぼんやりと観察する者に見られることができません。確かに、結婚愛にいる者はできます、けれども、姦淫愛にいる者はできません。前者はそれらについて日の中にいます、けれども、後者は性愛からのすべての派生物について夜の中にいます――しかしそれでも、姦淫にいる者は、自分自身の中に自分自身から、それらとこれらの派生物の相違を見ることができます、しかし、他の者から、それらを聞く時でないなら決してできません。なぜなら、理解力を高揚させる同様の能力が、それは貞潔な夫婦のもとにありますが、姦淫者のもとにもあるからです。しかし、姦淫者は、他の者から聞いた相違を認めます、それでも、自分の理解力を自分の快楽の不潔なものに浸す時、それを抹殺します。というのは、貞潔と不貞、そして健全さと狂気は、一緒に存在することができません、しかし、分離する時に、理解力で区別されることができるからです。
[3]かつて、霊界で、姦淫を罪と見なさなかった者が、私通・愛人を持つこと・二種類のめかけ囲い、そして姦淫の段階の間の相違を一つでも知っているか私により質問されました。彼らは、一方はもう一方のもののようであることを言いました――結婚もまたそうなのか質問され、そして、聖職者からのだれかがいないかあたりを見回しました。いない時、本質的に似たものであることを言いました。
 自分の思考の観念の中で、姦淫を罪と見なした者は異なっています。これらの者は、知覚に属す内的な観念の中で、相違を見ます、しかし、まだそれを区別することと見分けることを学んでいない、と言いました。
 私は、その相違が、その微細なものに関して、天界の天使により知覚されていることを断言することができます。
 それゆえ、それら自体の間に対立した二つのめかけ囲いが存在し、一つはそれから結婚愛を破壊する、もう一つはそれから破壊しないことを明らかにするために、断罪される種類を最初に述べ、そしてその後、もう一つの断罪されないものを述べます。

結婚愛

463◀︎目次▶︎465

464 (2) 妻と一緒のめかけ囲いは、キリスト教徒に許されない、嫌悪すべきものである
 許されないものであることは、結婚の契約に反しているからです。嫌悪すべきものであることは、宗教に反しているからです。前者と同時に後者に反するものは主に反します――それゆえ、ある者を重大な真の理由なしに妻にめかけ結びつけると直ぐに、彼に天界が閉ざされ、天使たちにより、もはやキリスト教徒の間に数えられません。その時から、教会と宗教のものであるものもまた踏みつけられ、そしてその後、顔を自然的なものの上方へ上げません、しかし、自分の情欲に一致する〔異教の〕神へ自分自身を向け、その〔自然的なものの〕流入から、その後、彼の霊は呼吸します(=生き生きとなります)。
 この背教(神の拒否)の内的な原因を続くものの中で明らかにします。
 このめかけ囲いが嫌悪すべきものであることを、その男自身が見ません、天界が閉ざされた後、霊的な狂気がひき起こされるからです。しかし、貞潔な妻はそれを把握します、〔彼女は〕結婚愛であるからであり、この愛はそれに吐き気を催します。それゆえ、彼女たちからの多くの者もまた、彼女たちの貞潔が娼婦から夫に付着している情欲の接触感染から汚されないように、自分の夫との実際の結合を拒否します。

結婚愛

464◀︎目次▶︎466

465 (3) これは一夫多妻であり、キリスト教界から断罪され、断罪されるべきである
妻と同時のまたは結合されためかけ囲いは、何らかの法律の規定によっていないので、たとえ、認識がなくても、また〔一夫多妻と〕このように呼ばれていなくても、一夫多妻であることを、すべての者は、明敏でない者も、見ます。というのは、妻のように用いられ、結婚の寝椅子に一緒に寝る女であるから――一夫多妻がキリスト教界から不可とされる、また不可とされるべきであることは、「一夫多妻について」の章で証明しました。特に、そこのこれらから――

キリスト教徒はひとりの妻をめとるのでないなら許されない(338番)。
キリスト教徒は、多くの者をめとるなら、自然的な姦淫だけでなく、霊的な姦淫も犯す(339番)。
イスラエル民族に許されたのは、その民族のもとにキリスト教会がなかったからである(340番)。

これらから、めかけを妻に付き添わせること、また両方の者と寝床を共にすることは、不潔な一夫多妻であることが明らかです。

結婚愛

465◀︎目次▶︎467

466 (4) これは淫行であり、それによってキリスト教徒生活の宝である結婚のものは失われる
これは単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも、結婚愛にさらに対立している淫行であり、キリスト教徒に出生から内在し、賢明な者の理性の前に力強い論証で確信させられることができる結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪です。
単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも結婚愛にさらに対立している淫行である妻との同時のまたは結合されためかけ囲いである最初のものについては、これらから見られることができます。普通の淫行すなわち単純な姦淫に結婚愛に類似している愛は内在しません、なぜなら、肉の単なる興奮であり、直ちにさめ、また時々、彼女への愛の痕跡を自分自身の後ろに残さないからです。それゆえ、この沸騰する好色は、もし意図からまたは確信から生じないなら、またもし姦通者がそれから後悔するなら、結婚愛から何らかの少量のものを取り去りません――一夫多妻の淫行は異なっています。これに、結婚愛に類似している愛が内在します、というのは、さめず、散らされず、沸騰の後、前のもののように、無の中に立ち去らず、しかし残り、新しくなり、それ自体を確立させ、またそれだけ妻への愛から取り去り、そしてその代わりに、妻に対して冷淡をひき起こすからです。というのは、その時、淫婦のめかけを、もし好むところなら、自然的な人に生来のものである引き下がることができる意志の自由から、愛らしいものとして見、これはここから快いものであるので、その愛を支持するからです。そして、なおまた、めかけは、妻よりも誘惑するものであり、さらに近い結合です。しかし、逆に同棲の義務から、生涯の契約によってそれが負わされているとき、妻に愛らしいものを見ません。結婚に対する愛が等しい程度で冷たくなり、彼女自身の価値がなくなり、そこへひとりの淫婦に対する愛が熱くなり、彼女〔淫婦〕が価値あることが明らかです。
[2]もう一つものについて、妻と同時に存在するまたは結合されためかけ囲いが、キリスト教徒に出生から内在する結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪であることは、これらから見られることができます――配偶者に向かう愛がめかけへ向かう愛の中へ移されば移されるほど、それだけ配偶者に対するそれ〔愛〕は、今、前に示されたように、取り去られ、消耗され、空にされます。このことが彼の自然的な心の内的なものを閉ざすこと、また彼の低いものの露顕によって生じることは、キリスト教徒のもとの〔異〕性からのひとりを愛することへの性向の座から明らかにすることができ、その座は彼の最内部の中にあり、ふさがれることができます、しかし、根絶されることができません――〔異〕性からのひとりを愛することへの性向は、そしてまたその愛を受け入れることへの能力は、キリスト教徒に出生から植え付けられており、その理由は、その愛は主おひとりからであり、宗教のものとされていて、キリスト教界で主の神性が認められ、崇拝され、そしてその方のみことばから宗教があるからです。ここから世代から世代へその接ぎ木すること、そしてまたその移植があります。
キリスト教徒のその結婚のものは一夫多妻の淫行によって滅びることが言われました。しかし、キリスト教徒の一夫多妻のもとに閉ざされ、中途妨害されること、しかしそれでも、祖父や曾祖父の似ているものが孫やひ孫の中に生じるように、その子孫の中に生き返されることが意味されます――ここから、その結婚のものがキリスト教徒の生活の宝、また、前に(457, 458番)、人間の生活の宝、そしてキリスト教の宝庫と言われています。
[3]キリスト教徒のもとのその結婚のものが、一夫多妻の淫行によって、破壊されることは、イスラム教徒の一夫多妻のようにめかけと妻を等しく愛することができないことからはっきりと明らかです。しかし、めかけを愛するか、または彼女に熱くなればなるほど、それだけ妻を愛しません、またはそれだけ彼女に冷たくなります。また嫌悪すべきものであることは、主をもまた単に自然的な人間として、マリアの子としても、同時に神の子としてでなく、心で認めれば、認めるほど、そしてまた、それだけ宗教をつまらないものと見なします。
しかし、それは、めかけを妻に引き寄せ、両方の者を実際に自分自身に結合する者に生じることをよく知らなければなりません。適法な・正当な・真に重大な理由から自分自身を分離し、実際の愛に関して自分自身を妻から切り離し、そして享受のための女を置く者にまったく〔あてはまら〕ないことです。
この種類のめかけ囲いについて、今から続けます。

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466◀︎目次▶︎468

467 (5) 妻から離れためかけ囲いは、適法な・正当な・真に重大な原因から行なわれる時、許されないものではない
 適法のもの、正当なもの、真に重大なものによって意味される原因が何か、その順序で言います。ここにその原因だけを言及して前もって言うのは、このめかけ囲いが、それについて続きの中で今から扱いますが、前のめかけ囲いから区別されるためです。

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467◀︎目次▶︎469

468 (6) このめかけ囲いの適法な原因は、妻がそれでもなお家に保有されるとき、離婚の適法な原因である
離婚によって、結婚の契約の破棄が、またここから完全な分離、またその後、他の妻をめとる正しい自由が意味されます。この完全な分離すなわち離婚の唯一の原因は、主の教えにしたがえば、淫行です(マタイ19:9)。
同じものにさらにまた明白なわいせつな行為に関係します、それは恥を破棄し、そして家を言語道断の誘惑で満たし、悩まし、それらから淫行の不謹慎な行為が現われます、その中では全部の心がゆるんでいます。
これらに悪意のある遺棄が加わります、それは淫行を、そして妻を姦婦にする、このように離婚されることを伴います(マタイ5:32)。
これら三つの原因は、離婚の適法なものであるからです、最初と第三のものは公けの裁判官の前に、そして真ん中のものは裁判官としての男(夫)の前に、めかけ囲いの適法な原因でもあります。しかし、姦婦の妻が家に保有されるときです。
淫行が離婚の唯一の原因であるのは、結婚愛の生活に真っ向から対立するものであり、これは虐殺するまでも破壊するからです(前の255番参照)。

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468◀︎目次▶︎470

469 それでも姦婦の妻が多くの男(夫)により家に保有されることには、原因があります――

(ⅰ)男(夫)は妻と訴訟を争うこと、姦淫を訴えること、このように公会場で罪悪を公表することを恐れる。なぜなら、彼女の確証が目撃者また目撃者に等しい者の証明で行なわれないなら、彼は、男の集団では隠れた侮辱で、また女の集団ではあからさまな侮辱で、のみ込まれるから。
(ⅱ)さらにまた、自分の姦婦の狡猾な弁明を、そしてまた裁判からのその支持を、またこのように自分の名前の恥辱を恐れる。
(ⅲ)それらのほかに、家庭の有益な役立ちが存在し、それらは家からの分離を思いとどまらせる。例えば、もし彼らに幼児がいて、さらにまたそれらに対して姦婦に母の愛があるなら。もし解決することができない相互の役割が間にあり、結合しているなら。もし妻に親族や親類による親戚関係や隷属関係があり、また彼らからの繁栄(財産)の希望があるなら。もし彼女と愛すべき習慣を最初は抱いたなら。もし彼女が、姦婦になった後、批難されないように、上品な優しさ、そして見せかけの礼儀正しさで巧みに男(夫)を愛撫することを知っているなら。ほかに他のもの、それらは本質的に離婚の適法な原因であるので、めかけ囲いの適法な理由でもある。なぜなら、淫行がある時、家に保有することの理由は離婚の原因を取り除かないからである。

 卑しい者でないなら、だれが結婚の寝床の権利を守ること、そして姦婦と寝椅子を共にすることができるのですか? もしあちらこちらで行なわれていても、証明とはなりません。

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469◀︎目次▶︎471

470 (7) このめかけ囲いの正当な原因は、寝床からの分離の正当な原因である
分離の適法な原因があり、正当な原因があります。裁判官からの布告によって適法な原因とされ、男(夫)だけからの布告によって正当な原因とされます。
寝床からそしてまた家からの分離の適法な原因も正当な原因も、前の列挙したものの要約の中にあります(252, 253番)。それらからの身体の疾患は、病気であり、接触感染から致命的なものがひき起こされるように、それらによって全身はそれだけ害われます。このようなものが悪性で伝染性の熱病・らい病・性病・がんです――なおまた病気、それらから全身がそれだけ不快です、社交性が何もないように、またそれらから有害な臭気と蒸発気が、あるいは身体の表面から、あるいはその内部のものから、特に胃と肺から発散します。身体の表面から、悪性の疱瘡・いぼ・膿疱(吹き出物)・壊血病からの肺結核・有害な疥癬、特に、もしこれらから顔が醜くされたなら――胃から、ぞっとする悪臭のまた悪臭を放つげっぷが絶えず発散します――肺から、膿瘍(できもの)から放出される不潔なまた腐った息が、潰瘍または膿瘍から、または腐敗した血液あるいは漿液から〔発散します〕。
これらのほかに、他のいろいろな名前の病気があります、例えば、身体の全面的な衰弱や力の欠如である卒倒、運動に役立つ膜や靭帯の締りのないこととゆるみである麻痺、てんかん、卒中からの残存する虚弱、ある種の慢性の病気。腸閉塞、ヘルニア、ほかに病理学で教えられている他の病気です。
心の疾患は、寝床からまた家からの分離の正当な原因です、例えば、狂気・精神異常・精神錯乱・実際の愚かさと愚劣、記憶の喪失、そして同様の他のものです。
これらがめかけ囲いの正当な原因であることは、分離の正当な原因であるので、理性によって裁判官なしに見られます。

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470◀︎目次▶︎472

471 (8) このめかけ囲いの重大な原因は、ほんとうであるし、ほんとうでない
 分離のまたここからめかけ囲いの正当なものになっている正当な原因のほかに、さらにまた男(夫)のもとの判断と公正に依存している重大な原因が存在するので、それゆえ、これらもまた話しに出さなくてはなりません。しかし、公正の判断はゆがめられ、そして正当なものの外観に確信によって変えられることができます、それゆえ、これらの重大な原因の中のほんとうのものとほんとうでないものを区別し、別々に述べなければなりません。

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471◀︎目次▶︎473

472 (9) 正当な原因からの、ほんとうの重大な原因がある
 これらの原因が知られるためには、ほんとうの重大なものである何らかものの列挙で十分です。例えば、ストルゲー(親心)が何もなくここからの育児の放棄、不摂生、酒浸り、不潔、無遠慮、家の秘密を公けに知らせる、争う、むち打つ、復讐する、悪いことをする、荒れ狂い欺く欲望、内なる不同、そのことからの反感です。結婚の義務のあつかましい強要、そのことから夫は石の〔ような〕冷淡が生じます――魔法と妖術の適用、極度の不敬――同様の他のものです。

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472◀︎目次▶︎474

473 寝床から分離し、それでも家からは分離しない、ほんとうに重大なものである穏やかな原因もまた存在します。例えば、妻のもとで老齢が進んだことから子孫を産むことの停止、ここから実際の愛に向けて耐えられず、気が進まず、それでも男(夫)のもとで情熱が続いていることがあります。ほかに同様のものがあり、それらの中に、理性的な判断により、正当なもの、良心を傷つけないものが見られます。

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473◀︎目次▶︎475

474 (10) たとえ外観から正当な原因であっても、正当でなく、ほんとうではない重大な原因がある
 これらは前に列挙された重大な原因から知られます、それらはもし正しく調べられないなら、正当なもののように見られることができます、それでも不正なものです。例えば、出産の後に必要である節制(禁欲)の時、妻の一時的な病気、ここからまたここからでない生殖力の消失、イスラエル民族に許された一夫多妻、また公正からは何も効力がない同様の他のものです。これらは男(夫)による冷淡が起こった後、不貞な情欲が彼らから結婚愛を剥奪し、そして〔結婚愛は〕淫行愛と似ているという観念が彼らの思慮を失わせる時、でっちあげられます。
 これらの者は、めかけ囲いに入る時、中傷されないように、このようなにせのまたごまかしの原因を、真実なものと本物のものにつくります。〔その〕大部分は、妻についてもまたでっちあげのものを散りばめたものであり、それらは友人の市民からの好意にしたがって同意され、伴奏的に歌われます(=うそぶかれます)。

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474◀︎目次▶︎476

475 (11) 適法な・正当な・重大なほんとうの原因から、このめかけ囲いにいる者は、結婚愛にいることができる
同時に結婚愛にいることができる、そして、この愛を自分自身のもとに隠して保つことができることが意味されると言われます。なぜなら、その愛は、主体の中で、その中にいて、滅びない、しかし、休んでいるからです。
結婚をめかけ囲いよりも優先させ、〔それでも〕前述の原因からめかけ囲いに入る者のもとの結婚愛が保存されることに、これらの原因があります――このめかけ囲いは結婚愛に反感を抱かない、それからの分離ではない、単にそのヴェールでおおうことであり、このおおいは彼らから、死後、取り除かれることです。

(ⅰ) そのめかけ囲いが結婚愛に反感を抱かないことは、前に立証されたものから、そのめかけ囲いが、適法の、正当な、真に重大な原因から行なわれる時、許されないものではないことからいえる(467–473番)。
[2](ⅱ) そのめかけ囲いが結婚愛からの分離ではない。なぜなら、適法な・正当な・真に重大な原因が間に介在し、説得し、強いる時、結婚愛は結婚と分離されない、しかし、単に中途妨害されるからである。そして、中途妨害され、分離されていない愛は、主体の中に残る――この者は愛した職務にいる、またそれから、交際によって、あるいは観劇によって、あるいは旅行によって離されている、それでも職務への愛は滅んでいない者と似ている。そして、銘酒を愛する、それでも、高貴でないものを飲む時、優良銘柄に対してほしがる味覚が滅んでいない者と似ている。
[3](ⅲ) そのめかけ囲いが結婚愛を単にヴェールをおおうことであるのは、めかけ囲いの愛が自然的なもの、結婚愛が霊的なものであり、そしてこの愛が中途妨害される時、自然的な愛が霊的な愛をおおうからである。そのようであることを、愛する者は知らない、霊的な愛はそれ自体から感じられないからである、しかし、自然的なものによって、そしてその中に天界からの祝福がある快さとして感じられる。しかし、自然的な愛はそれ自体によって単なる快さのように感じられる。
[4](ⅳ) このおおいが、死後、取り除かれることは、その時、人間は自然的なものから霊的なものになり、物質的な身体のかわりに霊的な身体が授けられ、その中で霊的な快さからの自然的な快さが、その卓越の中で感じられるからである。

このようであることを、私は、霊界のある者との伝達から、自然界で真に重大な原因からめかけ囲いにいた王たちからも聞きました。

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475◀︎目次▶︎477

476 (12) このめかけ囲いが続く間、妻との実際の結合は許されない
その理由は、その時、本質的に霊的な・貞潔な・純粋な・聖なるものである結婚愛が、自然的なものになり、汚され、腐敗し、このように滅びるからです。それゆえ、この愛が保存されるために、めかけ囲いが真に重要な原因から(472, 473番)、便宜上、ひとり(の女)と、また同時にふたりとでなく行なわれます。

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476◀︎目次▶︎478

42 天界に上げられ、そこで正反対のものを見た姦淫者について

477 (これらにこのメモラビリアを加えます——)
私は、世から新しく来た若者の霊が、淫行から自分自身を自慢し、他の者よりも男性的な男であったとの称賛を得ようとしていることを聞いた。放縦を自慢する間に、これらもまきちらした——「自分の愛を閉じ込め、ただひとりとだけ生きることよりも惨めなものは何か? 愛を解放することよりも快いことは何か? だれがひとりにうんざりさせられ、多くの者とならかき立てられないか? 見境のない自由・多様性・処女凌辱・夫を欺くこと、そして淫行の偽善よりも心地よいものは何か? 欺くこと・ごまかし・盗みで得られるものは、心の最内部のものを楽しませないか?」
[2]これらを聞いて、そばに立っている者が言った、「そのようなことを話すな。あなたは、どこにいるのか、だれといるのか、知らない。あなたは、近ごろ、ここにやって来た。あなたの足の下に地獄が、あなたの頭の上に天界がある。あなたは、今、それら二つのものの間にある世界の中にいる、これは霊たちの世界と呼ばれる。世から去ったすべての者はこの世界に来て、ここに集められ、どんな者であるか調べられ、そして悪い者は地獄へ、善い者は天界へ準備される——おそらく、世で聖職者たちから、あなたは今でも淫行する者と淫婦たちが地獄の中に投げ落とされ、貞潔な夫婦たちは天界へ上げられること〔=という記憶〕を保っている」。
このことにその新来者は笑い、言った、「天界とは何か、地獄とは何か? 天界は、そこは、だれかが自由であるところではないのか、その自由は、気にいるだけ多くの者を愛することが許されていることではないのか? また、地獄は、そこは、だれかが奴隷であるところではないのか? ひとりに結びつかなくてはならないのは、その奴隷ではないのか?」
[3]しかし、天界から見おろしている天使が、それらを聞き、さらに結婚を冒涜することへ向けて話しを前進しないように妨げ、彼に言った、「ここへ上がりなさい、天界とは何か、地獄とは何か、確信から淫行する者に、この地獄がどんなものであるか、生きいきと見せましょう」——道を見せ、〔若者は〕上がった。
〔同行の仲間として〕受け入れられた後、最初に、楽園の庭園へ案内された。そこに、果樹と花があった、それらは、美・愛らしさ・芳香から、心(アニムス)をいのちの歓喜で満たした。それを見たとき、大いなる驚きで称賛した、しかしその時、外なる視覚の中にいた、世で同様のものを見たとき、そのようなものの中にいて、この視覚の中に理性的なものがあった——けれども、内なる視覚の中で、その中で淫行が主要な役割を演じ、思考のすべての点を占め、理性的なものではなかった——それゆえ、外なる視覚が閉ざされ、内なる視覚が開かれた。それが開かれて、言った、「私は、今、何を見ているのか? わらと乾いた木材ではないのか? 私は、今、何を感じているのか? 悪臭ではないのか? 今、楽園のものはどこに?」
天使は言った、「すぐ近くにあります、しかし淫行する者であるあなたの内的な視覚に見られません、というのは、この視覚は天界のものを地獄のものに変え、対立するものでないなら見ないからです。
それぞれの人間に内なる心と外なる心が、このように、内なる視覚と外なる視覚があります。悪い者のもとで、内なる心は狂っており、外なる心は賢明です、しかし、善い者のもとで、内なる心は賢明であり、これから外なる心もまた賢明です。人間は霊界で、心があるままに、そのように対象物を見ます」。
[4]この後、天使は自分自身に与えられた力から、彼の内なる視覚を閉ざし、外なる視覚を開いた。入り口を通って住居の中央に向かって彼を案内した。雪花石膏・大理石・いろいろな貴重な石からできた荘厳な宮殿を、その近くに回廊を、またそのまわりに、驚くべき装飾をされ、飾り付けられたもので着せられ、取り巻かれた円柱を見た。それらを見たとき、唖然とし、言った、「私は何を見ているのか? 私は、その荘厳さそのものの中にある荘厳なものを、技術そのものの中にある建築物を見ている」。
しかし、その時、天使は再び彼の外なる視覚を閉ざし、内なる視覚を開いた、その視覚は悪いもの、淫行する者の不潔なものであった。それが行なわれて、彼は叫んで、言った、「私は、今、何を見ているのか? 私はどこにいるのか? 今、宮殿と荘厳なものはどこに? 私は、堆積・がれき・洞穴を見ている」。
[5]しかし、すぐに、外なる視覚の中に戻され、そして宮殿の一つに導き入れられた。また、入り口・窓・壁・屋根の装飾を、特に家具の装飾を見た、それらとそれらのまわりのものの上に金と宝石からできた天界の形があった、それらはどんな言葉でも述べられることが、どんな技術でも描かれることができなかった、というのは、言葉の観念の上に、また技術の概念の上にあったから。
これらを見て、再び叫んで、言った、「これらは目で決して見ることのない驚くべきものそのものである」。そして、その時、彼の内なる視覚が開かれ、外なるものが閉ざされ、前のように、「あなたは、今、何を見ていますか」と質問された。答えた、「垣根以外に何もない、ここにイグサから、ここにわらから、ここに燃えさしからできている垣根がある」。
[6]しかし外なる心の状態の中にさらに導かれ、天界の情愛の映像であったので、美しい処女たちが連れて来られ、その情愛の声で甘く彼に話しかけた。その時、〔彼女たちを〕見て、〔その声を〕聞いて、彼の顔が変えられ、自分自身から淫行であった自分の内的なものの中に戻った、それは天界的な愛の何らかのものに耐えないので、また逆に、天界的な愛によっても耐えられないので、処女たちは男の視野から、男は処女たちの視野から、両側から見えなくなった。
[7]この後、天使は彼に、彼の視覚の状態の逆転がどこからか教えて、言った、「私は、あなたがやって来た世で、あなたは、内なるものと外なるものの中で別の者、二枚舌の者であったことを知覚します。外なるものの中で、あなたは市民的・道徳的・理性的な人間でした、しかし、内なるものの中で、市民的でなく、道徳的でなく、理性的でもない淫行する者と姦淫者であったからです。このような者は、天界へ上がることが許されるとき、そこで自分の外なるものの中に保たれて、そこの天界のものを見ることができます。しかし、彼らの内なるものが開かれるとき、天界のものに代わって地獄のものを見ます。
[8]しかし、あなたは知らなければなりません、ここではそれぞれの者に連続的に外なるものが閉ざされ、内なるものが開かれ、このように天界または地獄へ準備されることです。淫行の悪は心の内なるものを他のすべての悪よりも不潔にし、あなたの愛の不潔なものへ運ばれるしかありえません、これは地獄の中にあり、そこの洞穴は糞から悪臭を放っています。
霊界で不貞なものと好色なものは不純なものと不潔なものであり、このようにこれ以上に人間を汚し、不潔にし、彼に地獄をひき起こすものは何もないことをだれが理性から知ることができませんか。
そこで、もはや、あなたはあなたの淫行を、その中であなたは他の者よりも男性的な男であることを自慢しないよう用心しなさい——私はあなたに、あなたが、どこにあなたの男性的なものがあるかほとんど知らないまでも、弱くなることを予言します。淫行の力を自慢する者にこのような運命が待っています」。
これらが言われて、降り、霊たちの世界へ、前の仲間へ戻った。彼らと慎み深く、貞潔に話した、しかしそれでも、長い間ではなかった。

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477◀︎目次▶︎479

(二十)姦淫とそれらの種類と段階について

478 姦淫について外なるものだけから判断する者はだれも、姦淫に何らかの悪が内在することを知ることができません、というのは、外なるものの中で結婚に似ているからです。
外なるものの審判者は、内なるものが言われ、彼らに、これらの外なるものからその善あるいはその悪を得ていることが言われる時、自分自身に言います、「内なるものとは何か? それらをだれが見るのか? このことは、それぞれの者の知性の領域の上方にのぼることではないのか?」
これらの者は、すべての偽りの善を、本物の意志の善として受け入れる者に似ています。そして、その者は知恵を〔その〕談話の優雅さから眺めます。または、人間そのものを、みごとな衣装から、荘厳な馬車で運ばれることから評価し、善の情愛から判断されるものであるその状態の内なるものからでなく評価します――同じく、そのことは木の果実について、そして何らかの食べる物について、視覚と触覚だけから判断することに似ていて、その美点について味と知識から判断しません――人間の内なるものについて知覚することを決して欲しないすべての者は、そのように振る舞います。
ここから、姦淫の中に何も悪を見ないこと、それどころか、結婚をそれらと同じ寝室の中で結合させる、すなわち、まったく同様のものとする今日の多くの狂気があります。そのことは外なるものの中で似ている外観のためにだけです。
[2]そのようであることは、次の経験からの証明によって確信させられます。

かつて、天使たちによりヨーロッパの世界から、そこの才能の付与されている者・学問のある者・知恵のある者が呼び集められた。結婚と姦淫の違いについて質問され、自分の理解力の理性に諮るよう求められた。協議の後、十人を除いてすべての者が、「公共の(法令の)法律だけが違いをつくる。何らかの利益のためであり、それは確かに知られることができる、しかし、それでも市民の思慮分別によって適するようにされることができる」と答えた。
その後、結婚の中に善の何らかのものを、また姦淫の中に悪の何らかのものを見るか質問された。彼らは、「何らかの理性的な〔=健全な理性に合致した〕悪と善を〔見〕ない」と答えた――何らか罪のものを見るか質問されて、彼らは、「どこに、それが? 行為は似ていないか?」と言った。
これらの答えに、天使たちは唖然とし、「おお、〔この〕時代の愚かさは、どんな、どれほど〔のものなの〕か」と叫んだ。
それらを聞いて、数百人の知恵ある者たちが互いに〔顔を〕向け、声高に笑って、自分たちの間で、「これが愚かであるのか? 他の者の妻を愛することが永遠の断罪に値することを納得させる何らかの知恵がありえるのか?〔そんな知恵はありえない〕」と言った。

[3]けれども、姦淫は霊的な悪、ここから道徳的な悪、そして市民的な悪、そして理性の知恵に正反対に対立するものであること、なおまた、姦淫の愛は地獄からであり、地獄へ戻ること、また結婚愛は天界からであり、天界へ戻ることは、この〔第二〕部である最初の章「淫行愛と結婚愛の対立について」に示してあります。
しかし、すべての悪は、すべての善のように、広さと高さが定められていて、そして広さにしたがってそれに種類があり、高さにしたがってそれに段階があるので、それゆえ、姦淫が両方の次元に関して知られるように、それらを、最初にその種類に、またその後、その段階に分けます。
そのことを次の系列で行ないます――

(1) 三種類の姦淫がある、単一のもの・二重のもの・三重のものである。
(2) 単一の姦淫は、他の妻との独身の男のもの、または他の夫との未婚の女のものである。
(3) 二重の姦淫は、他の者の妻との夫のもの、または逆のものである。
(4) 三重の姦淫は、血縁の者とである。
(5) 姦淫に四つの段階があり、それらにしたがって、それらの属性の割り当て・譴責・死後の転嫁が行なわれる。
(6) 第一段階の姦淫は無知の姦淫であり、それらはまだ理解力に諮ることが、またここからそれらを抑えることができない者により行なわれる。
(7) これらの者により行なわれた姦淫は穏やかである。
(8) 第二段階の姦淫は情欲の姦淫であり、それは確かに理解力に諮ることができる、しかし、それらの瞬間の偶発的な原因のために諮ることができない者により行なわれる。
(9) これらの者により行なわれた姦淫は、その後、理解力によりそれらが賛同されるかあるいは賛同されないことに応じて、罪を帰すことができる。
(10) 第三段階の姦淫は理性の姦淫であり、それらは罪の悪でないことを理解力で確信する者により行なわれる。
(11) これらの者により行なわれた姦淫はきびしい、そして確信にしたがって、罪が帰せられる。
(12) 第四段階の姦淫は意志の姦淫であり、それらについて理解力に諮るに値いするほどのものではなく、それを許されたものや喜ばしいものとする者により行なわれる。
(13) これらの者により行なわれた姦淫は最もきびしい、そして意図された悪として彼らに転嫁され、そして罪あるものとして居座る。
(14) 第三と第四段階の姦淫は、行為で行なわれたにしろ行為で行なわれなかったにしろ、それらの中の理解力と意志の量と質によって、罪の悪である。
(15) 意志の意図からの姦淫と理解力の確信からの姦淫は、人間を自然的・感覚的・身体的にする。
(16) このことは、最後には教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けるほどのものになる。
(17) それでも、人間の推理力が、他の者と同じく、授けられている。
(18) しかし、外なるものの中にいる時、その推理力を用いるが、自分の内なるものの中にいる時、誤用する。

今からこれらの説明を続けます。

結婚愛

478◀︎目次▶︎480

479 (1) 三種類の姦淫がある、単一のもの・二重のもの・三重のものである
 全世界の創造主は、創造したすべてと個々のものを、属に分け、それぞれの属を種に分け、それぞれの種を、同様にそれぞれ識別されるもの等々に区別されました。無限性の映像が永久の多様性の性質の中に存在するようにとの目的のためです――そのように、全世界の創造主は、善とそれらの真理を区別し、そして同様に、存在するようになった後に悪とこれらの虚偽を区別されました。
 属、種、そして相違の中に、霊界のすべての個々のものを分けたこと、またすべての善と真理を天界に、そしてすべての悪と虚偽を地獄に集めたこと、そして前者に対立させて後者を正反対に配置したことは、著作『天界と地獄』(ロンドンで1758年出版)の中に示されたものから明らかにすることができます――自然界で、そのようにまた善と真理が、そして人間のもとの悪と虚偽が、そのように人間が分離された、また分離されていることは、彼らの死後の運命、善い者に天界があり、そして悪い者に地獄があることから知られることができます。
 さて、善に属すすべてのものと悪に属すすべてのものは、属、種などに区別されているので、それゆえ、結婚もそれらに区別され、同様にこれらに対立する姦淫が区別されます。

結婚愛

479◀︎目次▶︎481

480 (2) 単一の姦淫は、他の妻との独身の男のもの、または他の夫との未婚の女のものである
 ここの、また続くものの中での姦淫によって、結婚に対立する淫行が意味されます。
 対立しているのは、夫婦の間に取り決められた生涯の契約を踏みにじり、彼らの愛を引き裂き、それを汚し、婚約の時に始められ、そして結婚の始まりの中で確かにされた結合を閉ざすからです。なぜなら、ひとりの妻との男(夫)の結婚愛は、取り決めと契約の後、霊魂を結合するからです――この結合を姦淫は解消しません、解消されることができないからです、しかしそれがその噴泉の源をまたここから流出口をふさぎ、そして水槽を不潔なまた腐った水で満たすように閉ざします。同様に姦淫によって霊魂の結合が起源である結婚愛は泥でおおわれ、包まれます。それ〔結婚愛〕がおおわれて、下から姦淫愛が発生し、それが増大するほど、それは肉感的なものになり、これが結婚愛に対抗して立ち上がり、それを破壊します――姦淫と結婚の対立はここからです。

結婚愛

480◀︎目次▶︎482

481 天使により直前の478番で明らかにされたように、姦淫の中に何らかの罪が賢明な者から見られないという今日の時代の愚鈍がどんなものであるか、再び、知られるために、ここにこのメモラビリアを付け加えます――

いのちが身体の中にあったときの習慣から、独特な策略で私を悩ませ、このことを正直な霊によくあるような、いわば波のように動くいくぶん柔らかな流入によって行なった霊たちがいた。しかし、捕らえ、欺くための狡猾さやそれに似たものが彼らの中にあることが知覚された。
ついに私は彼らのひとりと話し、「私は世で生きたとき、軍隊の司令官であった」と言われた。
私は、彼の思考の観念の中に好色があるのを知覚したので、私は彼と表象的なものとともに、意味を十分に、そして瞬間に多くのことを表現する霊的な言葉で話した。
彼は、「前の世界で、いのちが身体の中にあったとき姦淫を何ものでもないと見なした」と言った。  しかし、彼に「姦淫は極悪です。たとえとりこにする快さから、そしてそこからの確信から、極悪なものでなく、実に許されるようなものに見えても姦淫はそのようなものです」と言うことが与えられた。さらにまた次のことから知ることができることも言った。結婚は人類の苗床であり、ここから天界の王国の苗床でもあり、それゆえ、踏みにじってはならず、聖なる思いを抱くべきものであること。さらに次のことからも、霊界にいて、知覚の状態の中にいるので、結婚愛は主から天界を通って降ること、そしてその愛から、両親からのように、天界の支柱である相互愛が導かれることを知ることができることである――「このことから、姦淫する者は、ただ天界の社会に近づくだけで、自分自身の悪臭に気づき、そのことから自身自身を地獄へ向けて突き落とします。〔あなたは〕少なくとも知ることができたはずです。結婚を踏みにじることは、神的な秩序と人間の秩序に、他にも多くのことに反しているので、神的な律法に反し、またすべての国の民法に反し、なおまた理性の本物の光に反し、このように国民の法律(権利)に――さらに多くのものに反していることです」。
[2]しかし、彼は、「いのちが身体の中にあったとき、このようなことを考えなかった」と答えた。このようであるかどうか、推論することを欲した。
しかし、彼に、「真理は推論することを許しません、というのは、霊の快さに対抗して肉の快さで支えられ、それがどんなものであるかあなたは知らないからです。最初に、言われたことそれらについて、真理なので考えなくてはなりません。または、だれも、他の者が自分自身に行なうことを欲しないことを他の者に行なってはならないという世で最もよく知られている原則から考えなくてなりません。また、だれかが、すべての結婚で最初にそうであったように、最も愛した自分自身の妻を、このような方法で欺いたなら、その時、そのことについて激しく怒った状態の中にいて、その状態から話すなら、自分自身も姦淫を嫌ったかどうか、そしてその時、才能が与えられているので、他の者よりも姦淫に反対し、そのことを地獄へと断罪するようにまでも確信したか考えなくてなりません――軍隊の司令官であり、そこに剛健な者とともにいたので、それが自分に侮辱とならないように、姦淫者を殺すがあるいは淫婦を自分の家から追い出したのではありませんか」と言った。

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481◀︎目次▶︎483

482 (3) 二重の姦淫は、他の者の妻との夫のもの、または逆のものである
これは二重の姦淫と呼ばれます、ふたりにより行なわれるからです、そして両方の側で結婚の契約が踏みにじられ、それゆえ、さらにまた前のものより2倍にきびしいものです。
ひとりの妻とのひとりの男(夫)の結婚愛は、取り決めと契約の後、霊魂を結合すること、その結合はその起源の中でその愛そのものであること、これは姦淫によって、泉の噴泉と水流のように、閉ざされ、ふさがれることが前に言われました(480番)。性への愛が〔異〕性からのひとりの女またはひとりの男へ抑制されている時、二つの霊魂が互いに結合することは、娘が自分自身を若者に全面的に約束し、そして逆に、若者が自分自身を娘に全面的に約束し、両方のいのちが、したがって霊魂が互いに結合することからはっきりと明らかです、これらがいのちの源であるからです――この霊魂の結合は一夫一婦の結婚、すなわち、ひとりの男(夫)とひとりの妻との結婚しかありえません、けれども、一夫多妻の結婚、すなわち、ひとりの男(夫)と多くの妻のとの結婚の中にはありません、愛は前者の中で結合され、後者の中で分割されたものとなります。
結婚愛は、この最高の座の中で霊的なもの・聖なるもの・純粋なものです、その理由は、それぞれの人間の霊魂はその起源から天界的(天的)であるからです。それゆえ、それは主から直接に流入を受けています、というのは、その方から愛と知恵の、すなわち、善と真理の結婚を受け、この流入が彼を人間につくり、獣から区別するからです。
[2]この霊魂の結合から、結婚愛が、それはそこにその神聖さと純潔さの霊的なものの中にあり、全身のいのちの中に、その水流が開かれてとどまるかぎり、それが主により霊的なものになっている者のもとに生じて、流れ下り、そしてそれを祝福された快さで満たします。
この結婚愛の座、起源を、または泉とその水流を閉ざし、ふさぐ何らかのものは姦淫以外に何もなく、このことは、主のことば、 「姦淫のためにだけ、妻を離縁することと他の者(女)をめとることが許される」(マタイ19:4–9)、なおまた、そこの「離縁された者をめとる者は、姦淫を犯す」(第9節)から明らかです。
そこで、純粋で聖なるその泉がふさがれるとき、前に言われたように、それは、宝石が糞で、またはパンが吐いたもので取り囲まれるように、不潔なもので取り囲まれます、それらはその泉すなわち結婚愛の神聖さと純潔さにまったく対立するものです。その対立から結婚の冷淡があり、これにしたがって、淫行愛の心地よい好色があり、それはそれ自体をおのずから消耗させます――これが罪の悪であることは、聖なるものがおおわれ、このようにその水流が身体の中でじゃまされ、それに代わって神聖さを汚すものが続き、この水流が身体の中で開かれるからです。ここから人間は天界的なものから地獄的なものになります。

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482◀︎目次▶︎484

483 これらに私は霊界からの話しに出す価値があるものを加えます――

 そこ〔霊界〕で私は聞いた。妻帯者の男のある者に、損なわれていない女たちすなわち処女たちと、ある者に性を楽しんだ者または娼婦と、ある者に、結婚した女すなわち〔他の者の〕妻たちと、ある者に、高貴な家系からの、またある者に、高貴でない家系からのこのような者と、淫行する情欲があることである――そのようであることを、私はその世界の中のいろいろな王国からの多くの者から確信した。
 私がこのような情欲の多様性について熟考したとき、私は、すべての快さを他の者の妻と得て、未婚の女と何も〔快さを得〕ない者が存在するのか質問した――それゆえ、私が、存在することを知るために、ある王国からの多くの者が私へ連れて来られ、その者は自分の情愛にしたがって話すことが保たれた。
 これらの者は、自分たちに唯一の快楽と快さがあったこと、そしてまた、他の者の妻と姦通することを言った。美しい女〔他の者の妻〕を眺め、富にしたがって大きな報酬で彼女を雇った。また、多くの場合、報酬について彼女だけと約束する。
 私は、なぜ、未婚の女を雇わないのか質問した。
 彼らは、このことが自分たちに普通であり、本質的に価値がなく、それに何も快さが内在しないことを言った。
 さらにまた私は、 それらの妻たちはその後、自分の夫へ戻り、そして彼らと生活したのか質問した。
 娼婦となったので、あるいは戻らない、あるいは冷たい生活をした、と答えた。
[2]その後、私は、妻帯者である時、これを行なうことは二重の姦淫であることを、また、このような姦淫が人間をすべての霊的な善から荒廃させることを、かつて考えたか、あるいは今、考えているか、まじめに質問した。
 そこにいた多くの者は、これを笑って、「霊的な善とは何か?」と言った。
 しかし、私は、「自分の霊魂を夫の霊魂とその妻の中に混ぜることよりも忌まわしいものは何ですか?あなたは精子(精液)の中に男の霊魂があることを知らないのですか?」と主張して、言った。
 これに背いて、ブツブツと言った、「このことがそこでは何を傷つけるのか?」
 最後に、私は、「あなたはたとえ神的な律法を恐れなくても、市民の法律を恐れないのですか?」と言った。
 彼らは、恐れないことを答えた、「教会の聖職者のある者だけを恐れる、しかし彼らの前で、私たちはこのことを隠す。もし私たちが〔隠すことが〕できないなら、彼らに善く振る舞う」。
 その後、私は彼らが群れに分けられ、これらからのある群れが地獄へ投げ込まれたのを見た。

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483◀︎目次▶︎485

484 (4) 三重の姦淫は、血縁の者とである
これは三重の姦淫と呼ばれます、前の二つのものに〔対し〕三重(三倍)にきびしいからです。
近づいてはならない血族関係、すなわち、肉の残りの者(=肉親)が何かは、「レビ記」18:6–17に列挙されたものが見られます。
これらの姦淫が前述の二つのものに〔対し〕三重にきびしいものであることの理由に内なるものと外なるものがあります。内なる理由は、主と教会の結婚である霊的な結婚に、ここから善と真理の結婚に性的暴行を働くという対応からです。けれども、外なる理由は、人間が獣にならないようにする防御のためです――しかし、その理由を明らかにするために、ここで続けるには時間がありません。

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484◀︎目次▶︎486

485 (5) 姦淫に四つの段階があり、それらにしたがって、それらの属性の割り当て・譴責・死後の転嫁が行なわれる
 これらの段階は種類ではありません、しかし、それぞれの種類の中に入り、悪または善が多いか少ないかの間で違いをつくっています。ここでは、それぞれの種類の姦淫が事情と偶発的なものの関係から、穏やかなのものかまたはきびしいものかどうかが評価されなければなりません。事情と偶発的なものがそれぞれの事柄を変えることは、よく知られています。
 しかしそれでも、人間により、その理性的な光(ルーメン)から異なって、裁判官により法律から異なって、また主により人間の心の状態から異なって評価されます。それゆえ、属性の割り当て・譴責・死後の転嫁が言われます。なぜなら、人間により彼の理性的な光(ルーメン)にしたがって属性の割り当てが行なわれ、裁判官により法律にしたがって譴責が行なわれ、主により人間の心の状態にしたがって転嫁が行なわれるからです――これら三つのものがそれ自体の間で大いに異なっていることは、説明なしに見られることができます。というのは、人間は事情と偶発的なものにしたがって、理性的な証拠からある者を赦すことができます、裁判官は法廷で座っているとき法律からでは、その者を赦すことはできません、そしてまた、裁判官は、死後に断罪される者を赦すことができるからです。その理由は、裁判官は行為にしたがって判決を定めます、しかし、死後、それぞれの者は意志とここから理解力の意図にしたがって、また理解力とここからの意志の確信にしたがって判断されるからです。これらの理解力と意志を裁判官は見ません。しかしそれでも、一つは社会の市民の善のため、もう一つは天界の社会の善のための両方の判断は正しいものです。

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485◀︎目次▶︎487

486 (6) 第一段階の姦淫は無知の姦淫であり、それらはまだ理解力に諮ることが、またここからそれらを抑えることができない者により行なわれる
 すべての悪は、そのように本質的に眺められた姦淫もまた、同時に内なる人と外なる人のものです。内なる人がそれを意図し、外なる人がそれを行ないます――そこで、外なる人によって行なわれる行為の中で、内なる人がどのようなものであるかによって、本質的に眺められた行為はそのようなものです。
 しかし、内なる人はその意図とともに人間の前に見られないので、それぞれの者が公会場〔法廷〕で、規定されたその用心深い法律にしたがって、行為と発言から裁かれなくてはなりません。法律の内的な意味も裁判官により細かく調べられなければなりません。
 しかし、例で説明します――もしかして姦淫がまだ姦淫が私通よりもさらに悪であることを知らない青年期の少年により行なわれるなら、同様に、単純な外なる人により行なわれるなら、病気により判断で鋭さが奪われている者により行なわれるなら、または、交替で気が狂い、その時、実際の精神錯乱の状態の中にいる者により行われるように行なわれるなら、さらにまた、酔っぱらった気違い沙汰の中で行なわれるなら、等々。その時、内なる人はすなわち心は、ほとんど理性のないものとなっている外なる人の中にいないことが明らかです――これらの姦淫は理性的な人間によりそれらの事情にしたがって属性づけられます。しかしそれでも、裁判官としての同じ者により、犯す者が法律から罪を帰せられ、罰せられます。しかし、死後、それらは、彼らの意志の中の理解力の現存・性質・能力により転嫁されます。

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486◀︎目次▶︎488

487 (7) これらの者により行なわれた姦淫は穏やかである
このことは前述のことから(486番)、さらなる確証なしに明らかです。というのは、すべての行為の性質は、一般に、すべての事柄の性質は、事情に依存していて、これらが和らげ、重くすることがよく知られているからです――しかし、この段階の姦淫は、行なわれる最初の時に穏やかです。そしてまた、彼または彼女が続く人生行路の中で、神に反する悪であるので、あるいは隣人に反する悪であるので、あるいは市民の善に反する悪であるので、またそれらを理性に反する悪であるという理由のために、それらを断つかぎり、穏やかなものにとどまります。けれども逆に、話しに出された理由からの一つのために、もしそれらを断たないなら、それらは重いものの間にもまた数えられます。そのように、神的な律法にしたがっています(エゼキエル18:21, 22, 24、また他の箇所に)――けれども、それらの事情から、穏やかなものまたはきびしいものとして、人間により弁解されることや批難されること、または属性づけられることや裁かれることはできません、彼の前に見られない、それどころか彼の判断の中にもないからです。それゆえ、死後に、そのように見なされ、そして転嫁されることが意味されます。

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487◀︎目次▶︎489

488 (8) 第二段階の姦淫は情欲の姦淫であり、それは確かに理解力に諮ることができる、しかし、それらの瞬間の偶発的な原因のために諮ることができない者により行なわれる
 自然的なものから霊的なものになる人間のもとで、最初に、互いに争う二つのものがあります、それらは一般的に霊と肉と呼ばれます。結婚愛は霊のものであり、姦淫愛は肉のものであるので、その時、それらの間に闘争もまた生じます――もし結婚愛が勝つなら、その姦淫愛を支配し、征服し、そのことは距離を置くことによって行なわれます。しかし、もし霊が理性から抑えることができる以上にこれを越えて、情熱の中で肉の情欲がかきたてられることが起こるなら、状態はひっくり返され、そして情欲の熱情が霊を誘惑で、もはや自分の理性で抑えることができないようにまでも圧倒し、ここから自分の責任があります――このことが第二段階の姦淫によって意味され、それは確かに理解力に諮ることができます、しかし瞬間の偶発的な原因のためにそれらに諮ることができない者により行なわれます。
[2]しかし、例で説明します――例えば、もし淫婦の妻が狡猾に男の心(アニムス)を捕え、寝室に引き入れて、判断で逃げることができないまでも興奮させるなら。さらにまた、もしその時もまた、恥辱を批難するなら、もし、同意しないなら――同じく、もし淫婦の何らかの妻が、肉の興奮が理性の理解力の自由を取り去るような策略(妖術)を、または薬物(魔術)で男を刺激する(燃え立たせる)ことを知っているなら――同様に、もし男が誘惑物の心地よいもので、他の者の妻を、その意志を燃え立たせるまでも引き寄せ、もはや彼女に〔自制する〕力がないなら。ほかにも他の同様のものがあります。
 これらや同様の偶発的なものが姦淫の重大さを和らげ、そして、迷わした男または迷わした女のために、その侮辱の属性の割り当てを穏やかな部分へと向きを変えることは、理性により賛同され、支持されます。
 この段階の姦淫の転嫁について〔次に〕続けます。

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488◀︎目次▶︎490

489 (9) これらの者により行なわれた姦淫は、その後、理解力によりそれらが賛同されるかあるいは賛同されないことに応じて、罪を帰すことができる
 理解力により悪が賛同されればされるほど、それだけ人間はそれを自分自身に所有し、そして自分のものにします。賛同は承諾であり、そして承諾は心にそれらへの愛の状態をひき起こします――姦淫も同様です、それらは最初、理解力の承諾なしに行なわれ、賛同されます。その後、もし賛同されないなら、正反対のものが生じます。その理由は、盲目の理解力の中で行なわれる悪または姦淫は、身体の欲望から行なわれ、それは類似性では、獣のもとにあるような本能へ近づくからです――〔悪または姦淫が〕行なわれる時、人間のもとに、確かに、理解力がありますが、受動的なまたは死んだ力の中にあり、能動的なまたは生きている力の中にはありません。
 これらから、その後、賛同されないかぎり、このようなものが転嫁されない、あるいは、賛同されないことがそれ自体からいえます。
 転嫁によって、死後のこの告発、またここからの裁判が意味され、それは人間の霊の状態にしたがって生じます――けれども、人間による裁判官の前での譴責は意味されません。これは彼の霊の状態にしたがって行なわれません、しかし、行為の中の身体の状態にしたがって行なわれます。これらが相違しないなら、世で赦された者は死後も赦され、そこで断罪された者は、〔ここでも〕有罪とされ、このように後者に救いの何らかの希望はないでしょう。

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489◀︎目次▶︎491

490 (10) 第三段階の姦淫は理性の姦淫であり、それらは罪の悪でないことを理解力で確信する者により行なわれる
 すべての人間は、意志と理解力が存在することを知っています。なぜなら、〔人々は〕話す時、「私はこれを欲する、私はこれを理解する」と言うからです。しかし、それでも、区別しないで、それらを同じものにします。
 その理由は、理解力からの思考に属すものについてだけ熟考し、意志からの愛に属すものについて熟考しないから、というのは、後者は前者のように光の中では見えないからです。
 しかしながら、意志と理解力をそれ自体の間で区別しない者は、善と悪をそれ自体の間で区別することができません、ここから罪の責任について何らかのものをまったく知ることが〔でき〕ません。
 しかし、善と真理が、愛と知恵のように二つの区別のあるものであることをだれが知りませんか? 理性的な光の中にいる時、だれがここから結論することができませんか? 人間の中に二つのものがあり、それらは区別してそれら自身にそれら二つのもの〔善と真理〕を受け入れ、割り当てます、その一つが意志そしてもう一つが理解力であることです。その理由は、意志が受け入れ、再現するものは善と呼ばれ、そして、理解力が受け入れるものは真理と呼ばれるからです。なぜなら、意志が愛し、行なうものは善と呼ばれ、理解力が知覚し、考えるものは真理と呼ばれるからです。
[2]さて、善と真理の結婚についてこの著作の「第一部」の中で扱われ、そしてそこに意志と理解力について、そして両方の特質と属性のいろいろなものについて、多くのものが示されているので、(それらは、私が推測するに、理解力と意志について何らかのものを明瞭に考えなかった者にもまた知覚されています、というのは、人間の理性は、たとえそれらのもの〔真理〕を以前に区別しなかったにしても、真理をそれらの光から、理解するようなものであるからです)。それゆえ、理解力と意志の相違がはっきりと知覚されるために、何らかのものを私はここに述べます、理性〔から〕の姦淫すなわち理解力〔から〕の姦淫がどんなものか、その後、意志〔から〕の姦淫がどんなものか知られる目的のためにです。
[3]これらについて認識するために、これらが役立つでしょう――

(ⅰ) 意志だけでは、それ自体から何も働かない、しかし働くどんなものでも、理解力によって働く。
(ⅱ) 逆に、理解力だけでは、それ自体から何も働かないが、働くどんなものでも、意志から働く。
(ⅲ) 意志は理解力の中へ流入する、けれども、理解力は意志の中に流入しない、しかし理解力は何が善と悪であるか教え、意志に諮り、それら二つのものから、その心地よいものを選び、行なう。
(ⅳ) この後、二重の結合が生じる。一つは、その中で意志が内部から、理解力が外部から働く。もう一つは、その中で理解力が内部から、意志が外部から働く。

 このように理性〔から〕の姦淫は意志〔から〕の姦淫から区別され、ここにその理性〔から〕の姦淫について、それらについて区別が続けられます――一つのものは、もう一つのものよりもさらにきびしいからです。というのは、理性〔から〕の姦淫は意志〔から〕の姦淫よりもきびしさが少ないからです――その理由は、理性〔から〕の姦淫は理解力が内部から、意志が外部から働きます。しかし、意志〔から〕の姦淫は意志が内部から、そして理解力が外部から働きます、そして、意志は人間そのものであり、そして理解力は意志からの人間であり、そして内部で働くものが、外部で働くものを支配するからです。

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490◀︎目次▶︎492

491 (11) これらの者により行なわれた姦淫は、確信にしたがって、きびしい
 理解力だけが確信し、確信するとき、意志を結びつけ、それ自体のまわりに置き、このようにその意志を役立つことへ向けて促します――確信は誤まった推論によって行なわれ、それは心を、あるいはその高い領域から、あるいは低い領域から捕えます。もし天界と伝達している高い領域からなら、結婚を確信し、姦淫を断罪します。しかし、もし世と伝達している低い領域からなら、姦淫を確信し、結婚を見下します。
 だれもが善と等しく悪を、同様に虚偽と真理を確信することができます、悪の確信は善の確信よりもさらに楽しく知覚され、そして虚偽の確信は真理の確信よりもさらに輝いて見えます――その理由は、悪と虚偽の確信が、身体の感覚の快さ・欲望・外観・欺きからその誤まった推論を得ている、しかし、善と真理の確信は、身体の感覚的なものの上の領域からその論拠を得ているからです。
 さて、悪と虚偽は善と真理のように等しく確信されることができます、確信している理解力は意志を自分の側に引き寄せ、そして理解力と一緒の意志は心を形作るので、人間の心の形は確信にしたがっていて、もしその確信が結婚のためになら天界へ向けられた形です、しかし、もし姦淫のためになら地獄へ向けられた形です。人間の心の形がどんなものかによって、彼の霊はそのようなものであり、したがって人間はこのようなものです。
 そこでこれらから、この段階の姦淫は、死後、確信にしたがって転嫁されることが明らかです。

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491◀︎目次▶︎493

492 (12) 第四段階の姦淫は意志の姦淫であり、それらについて理解力に諮るに値いするほどのものではなく、それを許されたものや喜ばしいものとする者により行なわれる
 これらの姦淫は、それらの起源により前のものから区別されます――これらの姦淫の起源は人間に生来の邪悪な意志から、すなわち、遺伝の悪からです、それに人間は、自分の判断で行なわれた後、それらについて、悪かあるいは悪でないか判断することが何もなく、盲目的に従っています。それゆえ、それらについて理解力に諮るに値いするほどには重要視していないことが言われます――けれども、理性〔から〕の姦淫と呼ばれる姦淫の起源は、ゆがんだ理解力からであり、罪の悪でないことを確信する者により行なわれます。前者のもとで意志が、後者のもとで理解力が第一人者を演じます。
 これら二つの違いは、自然界で何も人間に見られません、しかし霊界で天使たちに明らかに見られます。この世界で、全般的に、すべての者は悪にしたがって区別されています、それは起源的に意志からあるいは理解力からわき出て、受け入れられ、自分のものとされます。さらにまたそれらにしたがって地獄の中で分離されます。地獄の中で、理解力から悪い者は、前部に住み、サタンと呼ばれます。けれども、意志から悪い者は、さらに後ろに住み、悪魔と呼ばれます――この全般的な相違のために、みことばの中で「サタン」と「悪魔」と呼ばれています。
 サタンと呼ばれる悪い者そしてまた姦淫者のもとで、理解力が第一人者を演じます。しかし、悪魔と呼ばれる者のもとで意志が第一人者を演じます。
 しかし、理解力がそれを見るようにまでも違いを示すことは、意志と理解力の相違が前もって知られ、そしてまた理解力によって意志からの心の形成が、そして意志によって理解力からその心の形成が述べられないなら、与えられることができません。前に言われた違いが理性から見られるために、これらの知識に光が投げ掛けられなければなりません――しかし、このことは数ページの著作〔が必要〕です。

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492◀︎目次▶︎494

493 (13) これらの者により行なわれた姦淫は最もきびしい、そして意図された悪として彼らに罪が帰せられ、彼らに罪あるものとして居座る
 最もきびしく、前のものよりもきびしいものであることは、これらの中で意志が第一位の部分で働きます、しかし、前のものの中で理解力が働き、そして人間のいのちは本質的に彼の意志であり、そして形式的に彼の理解力であるからです――その理由は、意志は愛と一つのものとして活動し、そして愛は人間のいのちの本質であり、これはそれ自体を理解力の中に、一致するようなものによって、形作るからです。それゆえ、本質的に見られた理解力は、意志の形以外の他のものではありません。愛は意志のものであり、そして知恵は理解力のものであるので、それゆえ、愛の形以外の他のものでもなく、同様に、真理は、善の形以外の他のものでもありません。
 人間のいのちの本質そのものから、そのように彼の意志または愛から流れ出るものは、特に目的と呼ばれます。しかし、彼のいのちの形から、そのように理解力と彼の思考から流れ出るものは、意図と呼ばれます――罪があることもまた、特に意志について述べられます(属性とされます)。ここから、それぞれの者の悪の罪があることは遺伝からです、しかし、悪は人間からであることが言われます。
 ここから、この第四段階の姦淫は、意図の悪として転嫁され、そして、罪があるものとして居座ります。

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493◀︎目次▶︎495

494 (14) 第三と第四段階の姦淫は、行為で行なわれたにしろ行為で行なわれなかったにしろ、それらの中の理解力と意志の量と質によって、罪の悪である
第三段階のものである理性のまたは理解力の姦淫には、そして第四段階のものである意志の姦淫には、理解力と意志の性質にしたがってきびしさが、したがって罪の悪があることは、それらについての前の論証から見られることができます(490–493番)。その理由は、人間は意志と理解力から人間であるからです。なぜなら、それら二つのものから、心の中に生じるすべてのものは存在するようになるだけでなく、身体の中に生じるすべてのものもまた存在するようになるからです。身体はそれ自体から活動しません、しかし意志が身体によって活動します、なおまた、口はそれ自体から話しません、しかし思考が口によって話していることを、だれが知りませんか? それゆえ、もし意志が取り去られるなら、一瞬に、行動は止まります。もし思考が取り去られるなら、一瞬に、口の話しは止まります――ここから、行為で行なわれる姦淫は、それらの中の理解力と意志の量と質にしたがってきびしいものであることがまったく明らかです。もし行為で行なわれなくても、同様に、きびしいものであることは、主の次のことばから明らかです――

昔の人から、あなたは姦通してはならない、と言われています。けれども、わたしはあなたがたに言います。もし、だれかが他の者の女を、そのように彼女を強く欲するように見たなら、すでに彼女と心で姦淫を犯したのです(マタイ5:27, 28)。

「心で姦淫を犯すこと」は、意志で犯すことです。
[2]行為での姦淫者ではありませんが、それでも、意志そして理解力での姦淫者となる多くの原因があります。というのは、行動に関して姦淫を慎む者がいるからです、市民の法律への恐れから、またその罰への恐れから、名声とここから名誉が奪われることへの恐れから、それらからの病気への恐れから、家で妻からの口論とここから生活の安らぎ欠如への恐れから、夫からまたは親類からの復讐への恐れから、そのようにまた召使いからのむち打ちへの恐れから、貧乏から、またはけちから、あるいは病気から起こる衰弱から、あるいは濫用から、あるいは年齢から、あるいは性的不能またここからの恥ずかしさから――もし、だれかがこれらのまた同様の原因から、行動での姦淫を抑制し、それでも意志と理解力でそれらに賛成するなら、やはり姦淫者です。というのは、それにもかかわらず、罪でないことを信じ、それを自分の霊の中で行なうことは神の前で許されなくもないとし、このように、たとえ世の前で身体でなくても、霊の中でそれを犯すからです――それゆえ、死後、霊となるとき、あからさまに、それらに賛成して話します。

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494◀︎目次▶︎496

495 (15) 意志の意図からの姦淫と理解力の確信からの姦淫は、人間を自然的・感覚的・身体的にする
人間の心が天界と同数の三つの領域に分けられていることによって、人間は人間であり、獣から区別されます。下の領域からさらに上の領域に、またこれから最も上の領域に上げられ、このように、一つの天界の天使に、そしてまた第三の天界の天使なることができることです。その目的のために、人間に理解力が、そこまでも高揚させる能力が与えられています。けれども、もし彼の意志の愛が同時に上げられ、霊的なものにならないなら、自然的なものにとどまります。それでもなお、理解力を高揚させる能力を保持します。
保持する理由は、改心することができるためです、なぜなら、理解力によって改心するからです、それは善と真理の認識によって、それらからの理性的な熟慮によって生じます。もし理性的にそれらの認識によって熟考され、そしてそれらにしたがって生活するなら、その時、意志の愛は一緒に高揚され、その程度の段階に人間性が完成され、そして人間はますます人間になります。
[2]もし善と真理の認識(知識)にしたがって生きないなら、異なって生じます。その時、彼の意志の愛は自然的なものにとどまり、そして彼の理解力は交互に霊的なものになります。というのは、それ自体をワシのように交替に持ち上げ、その愛の下に何があるか見おろし、それを見るとき、これに向って飛び降り、これと結合するからです。そこで、もし肉の情欲が彼の愛のものであるなら、高いところからこれらへ、それらとの結合の中へ降り、それらの快さから、楽しみ、そして再び、賢明な者であると信じられる名声への追求のために、今しがた言われたように、このように交互に跳んで、高い所へ上がります。
[3]意志の意図から、また理解力の確信から自分自身に姦淫者とした者である第三と第四段階の姦淫者は、まったく自然的であり、段々と感覚的にまた身体的〔形体的〕になります。自分の意志の愛と、一緒にその時、理解力を淫行愛の不潔なものに浸し、不潔な鳥と獣が、腐ったものと糞から、おいしいものと美味のようにこれらで楽しむからです。なぜなら、心の住居に吸い込まれるそれらの肉からの臭気の発散物は、そのかすで満たし、意志が何らかのおいしいものと望ましいものを感じないようにするからです――これらの者が、死後、身体的な霊になる者であり、それらの者から地獄や教会の不潔なものがわき出ます(それらについては前の430, 431番)。

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495◀︎目次▶︎497

496 自然的な人に三つの段階があります。
 第一の〔段階の〕中に、心を富(財産)の中に置いて、世だけを愛する者がいます。これらの者は正しく自然的な者によって意味されます――第二の〔段階の〕中に、心をすべての種類のぜいたくと快楽の中に置いて、感覚の快さだけを愛する者がいます。これらの者は正しく感覚的な者によって意味されます――第三の〔段階の〕中に、心を名誉を得ることに置いて、自分自身だけを愛する者がいます。これらの者は正しく身体的な者によって意味されます。その理由は、意志またここから理解力のすべてのものを身体の中に浸し、そして他の者から後ろ向きになって自分自身を眺め、自己のものだけを愛するからです。けれども、感覚的な者は、意志またここから理解力のすべてのものを感覚の誘惑と欺きの中に浸し、これらにだけ、ふけっています。けれども、自然的な者は、意志またここから理解力のすべてのものを世の中に注ぎ出し、貪欲に、欺いて富を捜し求め、それらの中に、またそれらから所有の役立ち以外の他の役立ちを眺めません。
 前に名前を挙げた姦淫によって、人間は下劣なこれらの段階の中へ、どんなものでも心地よいえり好み(選択)にしたがって、ある者はこの中へ、他の者はその中へと向けられます、そのことからその〔姦淫の〕性質が生じています。

結婚愛

496◀︎目次▶︎498

497 (16) このことは、最後には教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けるほどのものになる
意図からまた確信からの姦淫者が、教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けることは、結婚愛と姦淫が対立していて(425番)、結婚愛は教会と宗教のすべてのものと一つのものとして活動するからです(前の「部」の130番と他のどこの箇所でも)。ここから、姦淫愛は、教会に逆らうものと対立しているので、それらと一つのものとして活動します。
それらの姦淫者たちが教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けることは、結婚愛と姦淫が対立し、善と真理の結婚が悪と虚偽のつがい(交尾)のように対立しているからです(427, 428番)。そして、善と真理の結婚は教会です、しかし悪と虚偽のつがい(交尾)は反教会です。
それらの姦淫者たちが自分自身から教会と宗教のすべてのものを退けることは、結婚愛と姦淫が天界と地獄のように対立しているからです(429番)。天界に教会のすべてのものへの愛があります、しかし、地獄に教会のすべてのものへの憎しみがあります。
[2]それらの姦淫が教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けることは、それらの快感もまた肉から始まり、霊の中でもまた肉のものであるからです(440, 441番)。肉は霊に逆らっています、すなわち、教会の霊的なものに逆らっています――ここからもまた、淫行愛の快感は狂気の快楽と呼ばれています。
あなたがたが証明を望むなら、どうぞ、あなたがたが姦淫者であると知っている者に近づき、ひそかに質問しなさい、神について、教会について、また永遠のいのちについて何を考えているか、するとあなたがたは聞くでしょう。
真の理由は、結婚愛が心の内的なものを開くように、またこのようにそれを身体の感覚的なものの上に天界の光と熱の中に高揚させ、そのように逆に、姦淫愛は心の内的なものを閉ざし、心をその意志に関して身体の中に、その肉のすべての欲したものの中にまで押し下げ、深ければ深いほど、ますます心を天界から取り去り、追い払うことです。

結婚愛

497◀︎目次▶︎499

498 (17) それでも、人間の推理力が、他の者と同じく、授けられている
 自然的・感覚的・身体的な人間は、霊的な人間と等しく、理解力に関して理性的であることが、地獄から上がってきたサタンと悪魔から、また霊たちの世界の天使的な霊と会話して私に恩恵から示されました、それらについてメモラビリアの中のあちこちにあります。しかし、意志の愛が人間をつくり、これが理解力を同意へ引き寄せるので、それゆえ、このような者は、意志の愛から遠く離れた状態の中でしか理性的ではありません。しかし、この愛の中に再び戻る時、野獣よりもさらに悪く狂います。
 けれども、人間は理解力を意志の愛の上に高揚させる能力がなくては、人間でなく、獣になります、というのは、獣はその能力を享受しないから。したがって、どんなものも選ぶことができず、選択から善であるものを行なうこと、役立つこと、このように改心させられること、天界へ導かれること、永遠に生きることができません。
 このゆえに、意図と確信からの姦淫者は、たとえ単に自然的・感覚的・身体的な者であっても、それでも他の者のように理解する能力(賜物)または推理力を授けられています。しかし、姦淫の情欲の中にいて、またそれらからそれらについて考え、話すとき、その推理力を享受しません。その理由は、その時、肉が霊に働きかけ、霊が肉に働きかけないからです。
 しかし、これらの者は、最後に、死後、愚かになることを知っておくべきです、それらの者に賢明になる能力は取り去られませんが、知恵が彼らに不愉快であるので、賢明になることを欲しません。

結婚愛

498◀︎目次▶︎500

499 (18) しかし、外なるものの中にいる時、その推理力を用いるが、自分の内なるものの中にいる時、誤用する
 外や集まりの中で話す時、外なるものの中にいます、けれども、家にまたは自分自身にいるとき、自分の内なるものの中にいます。
 あなたが望むなら、経験により学びなさい。例えば、イエズス会士と呼ばれる教団からのある者を連れて来て、例えば、神について、教会の聖なるものについて、そして天界と地獄について、集まりの中で話させるか、または教会の中で教えさせなさい、するとあなたは、彼が他のだれよりもさらに理性的な熱意あふれる者とされているのを聞くでしょう。さらにまた、おそらく、あなたを救いのためのうめき声や涙へ駆り立てます――しかし、彼をあなたの家へ受け入れ、彼を教団〔の通常の者〕以上に称賛し、彼を知恵の父と呼び、自分の心を開く時まで、友としなさい、するとあなたは、その時、神について、教会の聖なるものについて、そして天界と地獄について、何が作り上げられるか聞くでしょう。すなわち、幻想そして欺くことを、このように霊魂の束縛する作り事であることを聞くでしょう、それらで大きい者と小さい者を、富む者と貧しい者を、捕え、縛り、自分の支配のくびきの下に保ちます。
 これらは、身体的にまでも自然的な人間によって何が意味されるか、〔すなわち〕他の者のように人間的な推理力を授けられていて、外なるものの中にいる時、それを用いること、しかし、自分の内なるものの中にいる時、誤用することの実例として十分なものです。
 ここからの帰結は、ある者について〔彼の〕口の知恵から判断を下してはならないこと、彼の生活の知恵と一緒に判断すべきことです。

結婚愛

499◀︎目次▶︎501

43 姦淫者が批難した3人の聖職者について

500 (これらに私は次のメモラビリアを加えます——)
かつて、霊たちの世界で私は大きな騒動を聞いた。数千の者が集まっていて、その者たちは叫んだ、「罰せられるべきだ、罰せられるべきだ」。
私は近づいて、「これは何ですか?」と質問した。
その大きな群れからのひとりが私に、「三人の聖職者に対して怒り、憤っている。その者たちは歩きまわり、そのどこでも、『姦淫者が神を認めることはない、彼らに天界は閉ざされ、地獄が開かれている。地獄に不潔な悪魔がいて、遠方からはそこに糞の中を転がりまわるブタのように見られ、天界の天使は彼らを忌み嫌う』と言って、姦淫に反対して説教している」と言った。
私は質問した、「それらの聖職者はどこにいますか? このために、なぜこれらの叫びがあるのですか?」
彼らは答えた、「それらの三人の聖職者は従者により守られて彼らの真ん中にいる。集まっている者は、姦淫が罪でないことを信じている者たちからであり、その者は、自分の妻にしがみつく者と等しく姦淫者も神を認めている、と言っている——彼らのすべての者はキリスト教世界からである。天使により、姦淫が罪であることを信じる者がどれだけそこにいたか視察され、千人のうち百人も見つけられなかった」。
[2]また、私に、彼らのうちの九百人が姦淫について次のように話している、と言った。
「だれが、姦淫の快さが結婚の快さよりも卓越していることを知らないか。姦淫者は永続する熱の中にいる、ここからひとりの女とだけ生活する者よりも活発な・勤勉な・活動的な生活の中にいる。また、逆に、配偶者との愛は冷たくなる、時々、彼女と話し、交わす一つの言葉も最後には、ほとんど生きていないようにも冷たくなる。娼婦となら異なる。〔性的〕能力の欠如から起こる妻との生活の壊死は、淫行によって回復され、活気づけられないか? 回復し、活気づけるものは、壊死するものよりもまさるのではないのか? 結婚は許された淫行でないなら何か? だれが違いを知っているのか? 愛は強制されることができるのか? それでも、妻との愛は約束や法律によって強制されている。配偶者との愛は性愛ではないのか? この性愛は、鳥や獣のもとにもあるように、これほどに普遍的である。結婚愛は性愛でないなら何か? すべての女と性愛は自由である。
市民の法律が姦淫に反しているのは、法律の制定者がそれが公共に善であることを信じているからである、それでも制定者や裁判官自身が、時々、姦通し、自分たちの間で、『罪のない者が、最初に石を投げよ』と言っている——単純な者と宗教的な者だけが姦淫が罪であることを信じていて、そのように知性的な者は、私たちのようにそれを自然の光から熟慮している者は信じていない。
[3]結婚からのように、姦淫からも等しく子が生まれないか? 私生児は適法の者のように、等しく職務や奉仕に向けて適し、有用でないのか? そして、そうでなければ、子がいない者にもまた家族が備えられる——このことは害でなく、利益ではないのか? もし妻が多くの競争相手を許しても何が〔妻を〕傷つけるのか? 何が男を傷つけるのか? 男に恥辱であることは、想像力からのくだらない見解である。
姦淫が教会の法と規定に反していることは、聖職者の教団からの支配力のためのものである。しかし神学と霊的なものが単なる形体的なものと肉欲のものと何〔の関係〕があるのか? 長老や修道士にそのような者が存在しないか? 彼らはこのために神を認めることと礼拝することができないのか? そこで、なぜ、それらの三人は、姦淫者に神を認めることがない、と説教するのか? このような冒涜を、私たちは許さない。それゆえ、裁かれ、罰せられるべきだ」。
[4]この後、私は、彼らが裁判官を呼び、彼らに罰を課するよう裁判官たちに懇願するのを見た。
しかし裁判官たちは言った、「このことは私たちの職務ではない、なぜなら、神を認めることについて、罪について、またこのように救いと断罪について扱われているからである。これらについては天界から裁かれる——しかし私たちは、それら3人の聖職者が真理を説教したかどうか、どのようにあなたがたが知ることができるか、助言を与える——私たち裁判官が知っている三つの場所があり、そこではこのようなことが特別な方法で調べられ、示される。
一つは、そこではすべての者に天界への道がはっきりと見える、しかし天界へやって来る時、自分たち自身が、神を認めることに関してどんなものであるか知覚する。第二の場所は、そこでもまた天界への道がはっきりと見える、しかし天界を自分自身の中に持つ者でないなら、その道へだれも入ることができない。第三の場所は、そこに地獄への道があり、その道へ自発的に入る、地獄を愛する者が快さから入るからである——私たち裁判官はその場所へ天界と地獄について審判を私たちから求めるすべての者を送り出す」。
[5]これらを聞いて、集まった者たちは言った、「私たちはその場所へ行こう」。
そこのすべての者に天界への道がはっきりと見える第一の場所へ行ったとき、突然、暗黒が生じた。それゆえ、彼らからのある者は、たいまつをともし、前へかざした。
彼らとともに裁判官は言った、「このことは最初の場所に行くすべての者に生じる、しかし、近づくほど、たいまつの火はさらに弱くなり、天界の光が流入する場所で消える、それは、そこにいることのしるしである。その理由は、最初に彼らに天界が閉ざされ、その後、開かれるからである」。
その場所の中にやって来た、また、たいまつはそれ自体から消えて、彼らは天界へ斜めに伸びる道を見た——それへ聖職者に対して怒りの憤りの中にいた者が入った。最初の者の間に意図から姦淫者であった者が、彼らの後に、確信から姦淫者であった者がいた——上っている中で、最初の者たちは叫んだ、「続け」。続く者たちは叫んだ、「急げ」、また追い立てた。
[6]しばらくして、すべての者が天界の社会の中にいたとき、彼らの間と天使たちの間に裂け目が現われ、その裂け目の上を、目の中に流入する天界の光が彼らの心の内的なものを開き、そこから内的に考えたように話すことが強いられた——その時、天使たちにより、神が存在することを認めたかどうか質問された。
意志の意図から姦淫者であった最初の者たちが、「神とは何か?」と答えた。また、互いに熟視し、「あなたがたのだれがその方を見たのか?」と言った。
理解力の確信から姦淫者であった第二の者たちが、「すべてのものは自然のものではないのか? その〔自然界の〕上に太陽でないなら何があるのか?」と言った。
その時、天使たちは彼らに言った、「私たちの場所から、今、あなたがたに神を認めることがないことを自分自身で知覚して、降りなさい。あなたがたが降りる時、あなたがたの心の内的なものが閉ざされ、その外的なものが開かれます。その時、あなたがたは内的なものに反して話し、神が存在する、と言うことができます。人間は実際に姦淫者になるとすぐに、彼に天界が閉ざされ、それが閉ざされると、神は認められないことを信じなさい——理由を聞きなさい。姦淫から地獄のすべての不潔なものがあり、これが天界では街路の腐った汚物のように悪臭を放ちます」。
これらを聞いて、互いに向きを変え、三つの道を通って降りた——下方に着いたとき、最初の者と第二の者は自分たちの間で会話して言った、「そこでは聖職者が勝った。しかし私たちは、私たちが彼らと等しく神について話すことができることを知っている。〔神が〕存在することを話すとき、私たちはその方を認めないか? 心の内的なものと外的なものは、それらについて天使たちが語ったが、作り事である。
しかし裁判官により指定された第二の場所へ出発しよう、そこでは天界への道が自分自身の中に天界を持っている者に明らかであり、そのようにその者は天界へ行くことになる」。
[7]彼らが近づいたとき、その天界から声が発した、「門を閉ざせ、姦淫者たちが近くにいる」。急に門が閉ざされ、見張りが手にした棒を持って彼らを追い払った。彼らに対して騒いだ3人の聖職者を、見張りが連れ出し、天界へ導き入れた——聖職者のために門が開かれたとき、直ちに、天界から結婚の快さが反逆者に吹き付け、それは貞潔なものと純粋なものであり、彼らをほとんど気絶させた。
それゆえ、窒息からの気絶を恐れて、第三の場所へ急いだ、それについて裁判官は、ここから地獄へ向かう道があることを言った。その時、ここから姦淫の快さが吐き出て、そのことから、意図からまた確信から姦淫者であった者は、あたかも踊るかのように降り、自分自身をブタのようにそこの不潔なもので浸し、このように彼らは生きいき〔としたもの〕となった。

結婚愛

500◀︎目次▶︎502

(二十一)処女凌辱への情欲について

501 この後に続く四つの章の中で扱われる情欲は、姦淫からでないなら存在しないので姦淫への情欲であるだけでなく、さらにきびしいものです、なぜなら、姦淫に〔ものたらないで〕飽きているからです。最初に扱われる処女凌辱(花を散らすこと)への情欲のように、それはある者のもとでそれ〔姦淫〕以前に起こることができません。同じく、多様なものへの情欲、強姦への情欲、無垢な者を惑わす情欲について続けます。
情欲と呼ばれるのは、それらへの情欲に量と質があり、それほどのまたそのようなそれらを自分のものとすることがあるからです。
特に、凌辱への情欲については、破廉恥な行為であるという明らかな確信が生じるために、これらを〔次の〕順序で示します――

(1) 処女、すなわち、損なわれていない女の結婚前と結婚後の状態について。
(2) 処女性は貞潔の冠であり、結婚愛のしるしである。
(3) 結婚の目的なしの処女凌辱は略奪者の破廉恥な行為である。
(4) 処女凌辱への情欲が罪の悪でないことを自分自身に確信した者の運命は、死後、きびしい。

これらの説明を続けます。

結婚愛

501◀︎目次▶︎503

502 (1) 処女、すなわち、損なわれていない女の結婚前と結婚後の状態について
 結婚のたいまつのいろいろなものについて教えられる前の処女の状態がどのようなものであるか、私に霊界で、自分の幼児期に自然界から去り、そして天界で教育された妻たちから示されました。
 彼女たちは、「適齢期の状態に達した時、配偶者〔となるであろう者〕を見て、結婚生活を愛することが始まります、しかし、妻と呼ばれるため、そしてひとりの男と親しい交わりをまた信頼して交わりを保つため、そしてまた自分の責任で行なって、服従の家から移動する目的だけのためです」と言いました。また、「配偶者〔となる〕男との相互の友情と信頼の至福からだけ考え、まったく何らかの炎の歓喜からでなく考えました」と言いました。
[2]しかし、彼女たちの処女の状態は婚姻の後、それについて以前に決して知らなかった新しいものに変えられます。また、「これは自分の身体のすべてのものを、最初のものから最後のものまで拡げる状態です、自分の夫の賜物を受け入れることへ向けて、また自分のいのちをこれに結合させることへ向けて、このように彼の愛に、また妻になるためです。またこの状態は〔処女の〕花を散らす瞬間から始まり、この後、愛の炎は夫だけに向けて燃え、その拡げることの歓喜は天界的なものに感じます――この状態の中へ自分の夫により導き入れられたので、また彼から、このように自分自身の中の彼〔の状態〕からであるので、まったく彼以外に愛することができません」と言いました。
[3]これらから、処女の結婚前と結婚後の状態が天界でどんなものであるか明白です。
 〔結婚の〕最初の兆しで結合されることが地上の処女と妻の状態と同様であることは隠れていません〔=よく知られています〕。
 その中にいる前に、どの処女が新しいその状態に入ることができるのか質問しなさい、するとあなたがたは聞くでしょう。
 彼女たちは結婚前に〔そのことについて〕知識からその誘惑を受けた彼女たちのもとでは相違があります。

結婚愛

502◀︎目次▶︎504

503 (2) 処女性は貞潔の冠であり、結婚愛のしるしである
 処女性は、結婚の貞潔の冠を授け、そしてまた貞潔のしるしであるので、貞潔の冠と呼ばれます。それゆえ、花嫁は結婚式で頭の上に冠を置きます――〔これは〕結婚の神聖さのしるしでもあります。なぜなら、花嫁は処女の花の後、自分自身の全部を、その時、夫の花婿に与え、そして逆に、夫は自分自身の全部をその時、妻の花嫁に与えるからです。
 処女性もまた、約束のものであり、そして約束は、愛が彼らをひとりの人間に、すなわち、一つの肉に結合させるためのものであるので、結婚愛のしるしと呼ばれます。
 男(夫)自身もまた結婚式の前に花嫁の処女性をその貞潔の冠として、そして結婚愛のしるしとして、そして、美味なものとして、それからその愛の歓喜が始まり、持続するものとして眺めます。
 これらや先行するものから、帯が取り除かれ、そして処女性が解放された後、処女は妻になること、妻にならないなら、淫婦になることが明らかです――というのは、その時、引き起こされる(その中への)新しい状態は、自分の男(夫)のための愛の状態であり、もし男(夫)のためでないなら情欲の状態であるからです。

結婚愛

503◀︎目次▶︎505

504 (3) 結婚の目的なしの処女凌辱は略奪者の破廉恥な行為である
 姦淫者のある者に、処女を、またここから、少女をその無邪気な年齢の中で、その花を散らす欲望があります――このようなものへ、あるいは売春宿の経営者からの説得によって、あるいは男からの贈り物によって、あるいは結婚の誓約によって誘われます。それらの男たちは処女凌辱の後、彼女たちを捨て、そして他の女また他の女を捜します。
 追加の事実は、過去の者を喜ばず、しかし常に新しい者から〔喜びを得ます〕。この情欲は、彼らの肉の快感の頂点にまでも増大します。
 これらにこの不法行為も加えます、いろいろな欺きで、結婚しようとしているまたは結婚式直後の処女を、結婚の初穂を自分自身に捧げることへ向けて誘うことです、このこともこのようにきたならしく汚します。
 さらにまた、私は、その刺激とともに、自分の性的能力がなくなるとき、〔汚した〕処女性の数を、イアーソーンの〔獲得した〕金の羊毛の数と同じように誇るのを聞きました。
[2]性的な堕落であるこの破廉恥な行為は、力強い年齢で始まりがあり、その後、自慢することによって強められるので、根づいて残り、このように、死後、定着します。
 この破廉恥な行為がどのようなものか、前述のこと、処女性は貞潔の冠、将来の結婚愛のしるしであること、その処女は、それをささげる者に、自分の霊魂といのちをささげることから明らかです。結婚の友情とこの信頼は、その上にもまた基礎づけられます――そしてまた、女は、処女凌辱から、この結婚愛の扉がこじ開けられた後、恥を捨て、淫婦になります、その略奪者はその原因でもあります。
[3]それらの略奪者たち自身が、もしこれらの色情症と貞潔の冒涜の過ぎ去った後、心(アニムス)を結婚に適合させるなら、心で、将来の配偶者の処女性以外に何も欲しません。それを味わった後、寝床と寝室を、それどころか、少女以外に、全女性を嫌悪します――このような者は結婚の侵害者、女性の軽蔑者、このように霊的な強盗であるので、神的な報いが彼らを追跡することが明らかです。

結婚愛

504◀︎目次▶︎506

505 (4) 処女凌辱への情欲が罪の悪でないことを自分自身に確信した者の運命は、死後、きびしい
 彼らの運命はこれらです、霊たちの世界で天使的な霊との交わりの中にいるので、謙虚さと礼儀正しいものである最初の期間を過ごした後、その時、自分の外なるものから自分の内なるものの中に、またその時、世ではまりこんでいた欲望の中に、またこれらの者がどんな段階にいたか見られる目的のために自分のものの中に入れられます、もし低い段階〔のきびしさ〕なら、それらの中に入れられた後に、恥で赤面するために送り出されます。
[2]しかし、その卓越した歓喜を深く感じるような者は、それらの〔処女性の〕盗みを、豊富な略奪品を自慢するほどに、この悪質の情欲の中にいた者は、引き出されることに甘んじません。それゆえ、自分の自由〔にしてよい〕として送り出されます、その時、直ちに歩きまわり、売春宿を探し求め、それが示される時、さらにまた入ります。これらは地獄の側面にあります。しかし、そこに売春婦しか会わないとき、立ち去り、どこに処女がいるか質問します。その時、娼婦へ運ばれます、彼女は幻想によって自分自身に、卓越した美を、そして花盛りの少女の美観をひき起こし、自分自身が処女であると自慢することができます、〔彼らは〕彼女に世でと同様に燃え上がります。それゆえ、これらの者と約束するとき、しかし契約が得られるとき、引き起こされた幻想が天界から取り除かれ、その時、その処女たちは自分の醜さ・奇怪さ・黒ずんだものの中に見られます、それでもしばらくの時間まで彼女たちにしがみつくことを強いられます。それらの娼婦はセイレーン(妖婦)と呼ばれます。
[3]しかし、もしこのような魔法によってその気違いじみた情欲から引き出されることに甘んじないなら、だます淫婦の地獄の下に南と西にある地獄へ投げ入れられ、そこで自分の仲間と交際します。
 その地獄の中の彼らを見ることもまた与えられました――そして、私に、そこに、高貴な家系からの、また富裕な者からの多くの者がいることが言われました。しかし、世でこのような者であったので、彼らに家系の記憶そして富からの品位のすべてのものが取り去られ、そして、卑しい奴隷であり、ここからすべての名誉に値しないという信念がひき起こされます。
[4]自分たち自身の間で、確かに、人間のように見えます、しかしそこを見つめることが許される他の者により、優しい顔の代わりに、いかめしい顔の、そしておどけた容貌の代わりに、毛むくじゃらの容貌のサルのように見えます――腰がやせて、上の部分が転倒しているかのように下向きに、このようにかがめて、前へ傾けて歩きまわり、悪臭を放っています――〔異〕性を嫌悪し、彼女たちを見ると、彼女たちから向きを変え、彼女たちに〔対して〕何も欲望がありません。
 近くでこのよう見られる者は、遠方からは愛玩用の犬のように、すなわち、楽しみの動物の子(犬の子)ように見えます。そしてまた、彼らの話し声の中に何らかの吠え声が聞こえます。

結婚愛

505◀︎目次▶︎507

  (22)多様なものへの情欲について

506 ここに扱われる多様なものへの情欲によって淫行への情欲は意味されません、それについてはその章の中で扱いました。これ〔淫行への情欲〕は、たとえ見境なく定まったものでないことが常であっても、それでも、枡(=許容限度)を超え、私通者が欲望から数を目指し、それについて自慢する時でないなら、多様性への情欲をもたらしません――これらの〔数を目指し、自慢する〕思いによってこの情欲が導かれます。
 しかし、その進行の中でどのようになるか、何らかの系列の中でないなら明確に知覚することができません、それはこれらです――

 (1) 多様なものへの情欲によってまったく放埓な淫行への情欲が意味される。
 (2) その情欲は愛と同時に性に対する嫌悪である。
 (3) その情欲は自分自身のもとの結婚愛をまったく絶滅させる。
 (4) 死後の彼らの運命は、彼らに内なるいのちがないので、悲惨である。

 これらの説明を続けます。

結婚愛

506◀︎目次▶︎508

507 (1) 多様なものへの情欲によってまったく放埓な淫行の情欲が意味される
 この情欲が、青年期の中で貞節の抑制をゆるめ、娼婦を得る機会が欠けていない者のもとにしみ込みます、特に、もし〔娼婦への〕報酬に費やす富も〔欠けてい〕ないなら――この情欲を、無秩序のまた際限のない淫行によって、また女性の愛についての恥ずかしさの何もない思考によって、姦淫は悪ではない、まったく罪でないとの確信によって、自分自身に植え付け、根づかせます。
 この情欲が、彼らのもとで前進して、世の全部の女を欲し、そして群れ(=ハーレム)を、そして毎日、新しい女を望むようにまでも増大します。
 この情欲は人間のそれぞれの者に植え付けられた普遍的な性愛から、また完全に結婚のものである〔異〕性からのひとりへの愛から、それ自体を投げ出し、そしてそれ自体を外的な心(cor)の中へ押し込みます、それら〔外的な心〕から分離した愛の歓喜として、それでもそれらからであるので、それゆえ、活力が衰えた後、触覚の中に残っているように、これほどに深く皮膚に植え付けられます。
 これらの者は姦淫を何とも思いません、それゆえ、全部の女性について普通の娼婦についてのように、また結婚について普通の売春についてのように考え、このように不謹慎を貞節に混ぜ合わせ、〔その〕混合から狂います。
 これらから、多様なものへの情欲によって何がここに意味されるか、まったく放埓な淫行の情欲であることが明らかです。

結婚愛

507◀︎目次▶︎509

508 (2) その情欲は愛と同時に性に対する嫌悪である
 〔異〕性から多様なものがあるので、彼らに性に対する愛があり、飲み物の奉納物(献酒)の後、捨て、そして他の者(女)に欲情するので、性に対する嫌悪があります――このわいせつな情欲は新しい女に熱くなり、熱の後、彼女に冷たくなります。そして、冷淡は嫌悪です。
 その情欲が愛であり、同時に性に対する嫌悪であることは、このように説明されることができます――左側に彼らから味わったものからの群れを、右側に味わっていないものからの群れを置きなさい、前者を嫌悪から、けれども、後者を愛から眺めませんか? それでも両方の群れは〔異〕性です。

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508◀︎目次▶︎510

509 (3) その情欲は自分自身のもとの結婚愛をまったく絶滅させる
 そして、その愛を引き裂くだけでなく、それをちりかのようにすり砕き、このように無へと減ずるような対立があります――なぜなら、結婚愛は〔異〕性からのひとりへのものです、けれどもその情欲はひとりの者にとどまりません、しかし彼女に対して以前に熱のようであったものが、1時間または1日の後、冷淡に向けられるからです。また、冷淡は嫌悪であるので、これは強制的な同棲と滞在によって、吐き気へまでも積み上げられ、このように結婚愛はその残りが何もないほどに滅ぼされます。
 これらから、この情欲は結婚愛の殺害であることを見ることができます。結婚愛は人間のもとのいのちの最内部をつくるので、それはそのいのちの殺害です。また、その情欲は、心の内的なものの継続的な中断と閉鎖によって最後に皮だけの(上っ面の)ものに、このように単なる誘惑的なものになります。それでも、理解する能力、または、推理力は残っています。

結婚愛

509◀︎目次▶︎511

510 (4) 死後の彼らの運命は、彼らに内なるいのちがないので、悲惨である
 いのち(生活)の優秀さは、それぞれの者の結婚愛にしたがっています、というのは、そのいのちは、妻のいのちとも結合させ、結合によってそれ自体を高めるからです。しかし、これらの者のもとに結婚愛は決して残っていません、ここからいのちの最内部からの何らかのものも残っていません、それゆえ、彼らの死後の運命は悲惨です。
 これらの者は自分の外なるものの中で、それらの中で理性的に話し、市民らしく(礼儀正しく)行動する期間が過ぎ去った後、自分の内的なものの中に、その時、その中に世でいた同じ段階の中の似た情欲とその快さの中に入れられます。というのは、それぞれの者が死後、自分自身に自分のものとしたいのちと同じ状態の中に、そこから引き出されるようにという目的のために、入れられるからです。というのは、ある者は、前もってその中に導き入れられなかったなら自分の悪から引き出されることができないから。そうでなければ、悪はそれ自体を隠し、心の内的なものを汚し、疫病のようにそれ自体をまき散らし、その後、かんぬきを破り、そして身体に属すものである外なるものを破壊します。
 この目的のために彼らに地獄の側面にある売春宿が開けられ、そこにいる売春婦と自分の情欲を変化させる機会が与えられます。しかし、このことは1日のうちひとりの者(女)と許され、罰のもとに、同じ日に多くの者とは禁じられます。
[2]その後、その情欲が引き出されることによってできないようにも出生によって伝えられていることが調べられた時、彼らに割り当てられている地獄の上のそれに最も近いある場所へ運ばれ、その時、気絶へ落ち込むように自分自身に見え、また他の者に外見では、あお向けに沈むように見えます。そしてまた、実際に地面が彼らの背中の下に開かれ、のみ込まれ、そこに似た者がいる地獄へ落ち込みます。このように、自分たちの者〔仲間〕へ集められます。
 私に、そこの彼らを見ること、そしてまた彼らと話すことが与えられました。
 自分たちの間で人間のように見え、そのことは、仲間にとって恐怖とならないよう彼らに与えられています。しかし、ある距離をおいて皮膚だけからのような変わらない白い顔で見られ、このことは彼らに霊的ないのちが内在しないからであり、それはそれぞれの者に植え付けられた結婚のものにしたがっています。
[3]彼らの話し方は味気なく、乾燥しており、悲しいものです――飢えている時、嘆き悲しみ、その嘆きは独特な音の低いざわめきのように聞こえます――彼らがぼろぼろの衣服であり、パンツ(半ズボン)は腹部の上、胸のまわりに引き上げられています、彼らに腰がないからです、しかし、腹部の最も低い部分から彼らの足のくるぶしが始まっています。その理由は、人間の腰は結婚愛に対応し、これが彼らにないからです。
 彼らは、「自分たちに性的能力が何もないので、性を拒絶している」と言いました。
 しかしそれでも、自分たちの間で、いろいろなものについて推理力からのように推論することができます、しかし皮膚のもの(皮相的)であるので、感覚の欺きから推論します。
 この地獄は北に向かう西の方位にあります。
 けれども、同じ者が遠方から人間のようにも、怪物のようにも見えないで、ゼリーのように見えます。
 しかし、その情欲の中で自分自身のもとの人間の結婚のものを引き裂き、絶滅させたような段階に浸った者はこのような者になることを知るべきです。

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(二十三)強姦への情欲について

511 強姦への情欲によって処女凌辱の情欲は意味されません。この情欲は処女性の強姦ですが、同意なしで行なわれる時の処女への強姦ではありません。しかし、ここに扱われる強姦への情欲は、同意から引き下がり、不同意から強くされるものです。まったく拒絶し、激しく抵抗する女を、あるいは処女、あるいはやもめ、あるいは妻を、だれでも強姦する情熱です――略奪品や捕獲物を喜び、贈り物や正当に得たものを喜ばない盗賊や海賊のようです。許されないものや禁じられたものをほしがり、許されたものや与えられたものをけとばす、悪を行なう者のようです。
これらの強姦者は同意をまったく嫌悪し、反抗から燃え上がります。もしその反抗が内なるものでないと気づくなら、直ちに、彼らの情欲の情熱は、水を投げかけられた火のように、消されます。
妻は愛の最終的な結果に関して、自分の自発的なものから自分の夫の自由選択に服従させないこと、また思慮分別から強姦に向かうかのように抵抗することがよく知られています、常に許されたものからの通常のものから、そしてまたそれらについて好色な考えから起こる夫の冷淡が取り除かれるようにとの目的のためです――これらの反抗は、たとえ火をつけても、それでも原因ではありません、しかし単にこの情欲の始まりです――その理由は、実行を通して衰えた後に、結婚愛そしてまた淫行愛は、回復されるために、徹底的な反抗によって燃え立たされることを欲することです。
そのように始まったこの情欲は、その後に増大し、増大するほど、性愛のすべての限界を軽蔑し、破り、それ自体を追い出し、肉体的なまた肉欲的な好色な愛により軟骨のものや骨のものになり、その時、鋭い感覚を授けられている骨膜から、鋭いものになります。
しかしそれでも、この情欲はまれです、結婚に入り、その時、それでも衰弱したものになった時に淫行を実行する者のもとでないなら存在しないからです。
この情欲の自然的な原因のほかに、霊的な原因もまた存在し、それについて何らかのものを続きの中で〔述べます〕。

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512 彼らの運命は、死後、このようです――
 その時、それらの強姦者は自発的に、制限された性愛にいる者から、また完全に、結婚愛にいる者から、そのように天界から自分自身を分離します――その後、最も狡猾な売春婦へ向けて追い払われます、彼女たちは貞潔さそのものであったように、確信だけでなく、しかし演技上の完全な模倣からもまた、装うこと、表現することができます。彼女たちは、だれがその情欲の中にいるか、よく見通します。これらの者の前で、貞潔について、その貴重なことについて話します。また、強姦者が近づき、触れるとき、激しく怒り、恐れからのようにそこに長椅子と寝台がある部屋の中へ逃げ、そして自分自身で扉を軽く閉ざし、そして座ります。そして、ここから、自分の技巧から強姦者に、扉を振り払い、乱入し、侵入しようとする抑制されていない情欲を吹き込みます。そのことが生じるとき、立ち上がっている売春婦は、手と爪で、顔を引っかき、強姦者の衣服を引き裂いて争い始めます、そして荒れ狂った声で叫んで、仲間の売春婦へ向けて、助け〔を求める〕ために女召使いへ向けて、そして窓を開けて、大声で、「泥棒、略奪者、殺人者」と叫びます。強姦者が〔その〕用意ができたとき、嘆き叫び、泣きます。強姦の後、ひれ伏し、声をあげて泣き、「口にするのもいやだ」と叫びます。その時、重々しい口調で、強姦を大きな代価で償わないなら、その破滅に努めるであろうとおどします。
 色情のこの芝居じみたものの中にいるとき、遠方からはネコのように見え、そのネコは結合の前にまったく同様にけんかをし、走り回り、声をあげて泣きます。
[2]いくつかのこのような売春宿での競演の後、連れ出され、洞窟へ移され、そこで何らかの仕事が強いられます。しかし、人間性のいのちの宝である結婚のものを追い散らし、そのことから悪臭を放つので、西方の末端へ追放されます。そこに、少し離れて、皮膚で包まれた骨だけから構成されているようにやせ衰えて見えます、しかし、遠方からは、ヒョウのように見えます。
 彼をさらに近く見ることが与えられたとき、私は、彼らからのある者が手に本を握り、そして読んでいることに驚きました。「このことは、世で教会の霊的なものについていろいろなものを話し、それでも、それらを姦淫よって、極度の状態へまで汚し、この情欲のこのようなものが霊的な結婚の強姦に対応するものであったからです」と言われました。
 しかし、この情欲の中にいる者はまれであることを知るべきです。
 女は、愛を売ること〔売春〕は彼女たちにふさわしくないので、再三再四、抵抗し、反抗が活気づけるのは確かな事実です。しかしそれでも、このことは何らかの強姦の情欲からではありません。

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(二十四)無垢な者を惑わす情欲について

513 無垢の者を惑わす情欲は、処女凌辱の情欲ではありません、強姦の情欲でもありません、しかし、それ自体から独特であり、特殊です。特に、狡猾な者のもとに存在します。
彼らに無垢のように見える女たちは淫行の悪を憎むべき罪と見なし、彼女たちはそのように貞潔であり、同時に敬虔なことに専念しています。これらの者に〔その情欲が〕燃え上がります。
カトリック教の王国の中に修道院の処女たちがいます――これらの者を、他のすべての者よりも敬虔な者、無垢な者と信じているからであり、これらの者を自分の情欲の美味やごちそうとして眺めます。
これらの者を惑わすために、〔彼らは〕狡猾であるので、最初に策略を工夫し、その後、彼女たちに自分の性質を吹き込んだ後に、恥を引っ込めることなしに、本性からのようにそれらを実行します。
策略は、特に、無垢・愛・貞潔・敬虔のふりです――これらや他の策略によって、彼女たちの内的な友情の中へ、またここから愛の中へ入り、これをいろいろな信念と同時に巧妙に持ち込むことによって、霊的なものから自然的なものに、そしてその後、肉体的なものの中への刺激によって肉欲のものに変えます、その時、意のままに彼女たちを思いのままにします。それらをなし遂げて、心で楽しみ、そして傷つけた者をあざ笑います。

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513◀︎目次▶︎515

514 これらの誘惑者の運命は、死後、惨めです、その誘惑は不敬であるだけでなく有害でもあるからです。
 彼らは、他の多くの者の前で優雅に振る舞い、口のうまい話し方で、外なるものの中にいる最初の期間を過ごした後に、内なるものの中にいる自分のいのちの第二の期間へ追いやられます、それは、それらの中で情欲が解放され、自分の遊びを始める期間です。
 その時、最初に、貞潔を誓っている女のもとへ運ばれます――これらの女のもとで彼らの欲望の悪意がどんなものか、確信させられないなら、裁かれないという理由のために調べられます――彼女たちの貞潔を感じるとき、彼らの欺瞞を働くことを、そして自分の狡猾さに励むことを始めます。しかし、むだなので、彼女たちから立ち去ります。
[2]その後、真に無垢な女へ導き入れられます。
 これらの女を同様に欺くことを試みるとき、それらの女に与えられた力から、ひどく懲らしめられます。というのは、彼らの手と足に、同じく彼らの首に麻痺の重苦しさをひき起こし、最後に気絶するかのように感じることを彼らにするからです。それらを被るとき、彼女たちから自分自身を救い出します。
 これらの後、無垢を巧みに装うことを学んだ娼婦の群れへの道が彼らに開かれます。これらの者は最初に自分たちの間で彼らを笑いにさらし、最後にいろいろな保証の後、性的暴行を受けます。
[3]このようないくつかの場面の後、審判である第三の期間が起こります。その時、確信させられて沈み、北の方位にある地獄の中の似た者のもとに集められます、遠方からは、そこのイタチのように見えます。
 しかし、もし欺瞞にはまり込んでいたなら、ここから背後に深くある西方の狡猾の者の地獄へ運び下ろされます――遠方からは、この中にいろいろな種類のヘビが、最も狡猾なものはマムシのように見えます。しかし、覗き込むことが私に与えられた地獄そのものの中で、石灰のように白い顔で黄ばんだ色のように見られました。〔彼らは〕欲望だけのものであるので、話すことを好みません。もし話すなら、つぶやき、いろいろなことをブツブツ言うだけであり、それらはそばの仲間以外に他の者から理解されません。しかし、座るかまたは立つと直ぐに、自分自身を目立たないようにし、洞穴の中を幽霊のように飛び回ります、その時、幻想の中にもいて、幻想は飛ぶことのように見えます。
 飛行の後、戻ります。その時、驚くべきことですが、互いに他の者を知りません。このことは欺瞞の中にいて、そして欺瞞は他の者を信じないで、このように自分自身を引っ込めるからです。
 これらの者は結婚愛からの何らかのものを感じるとき、あなぐらの中へ逃げ去り、自分自身を隠します。性愛もなく、性的無能そのものです――彼らは地獄の悪鬼と呼ばれています。

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514◀︎目次▶︎516

(二十五)霊的な結婚への性的暴行と淫行の対応について 

515 ここに私は、対応について何らかのものを、それが何か、あらかじめ言っておきます、しかし、このことはこの著作にではありません。けれども、対応が何かは、前に簡潔な概要の中にあります(76番342番)。そして、『啓示された黙示録』の中に、始めから終わりまで十分に見られ、それはみことばの自然的な意味と霊的な意味の間にあるものです。
みことばの中に自然的な意味と霊的な意味があり、それらに間に対応があることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』に示してあります(特に、そこの5–26番)。

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515◀︎目次▶︎517

516 霊的な結婚によって主と教会の結婚が意味されます(それについては前の116–131番)。ここから善と真理の結婚についてもまた意味されます(それについては前の83–102番)。この結婚は主と教会のもの、ここから善と真理の結婚であり、みことばのすべてと個々のものの中にあるので、この性的暴行が霊的な結婚の性的暴行によるものであることがここに意味されます、というのは、教会はみことばからであり、みことばは主であるからです。
主がみことばであるのは、そこに神的善と神的真理があるからです。
みことばがその結婚であることは、『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中に十分に論証されて示されています(80–90番)。

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516◀︎目次▶︎518

517 そこで、霊的な結婚の性的暴行(強姦)がみことばの性的暴行であるとき、この性的暴行は善の不純化と真理の虚偽化であることが明らかです。というのは、すでに言われたように霊的な結婚は善と真理の結婚であるからです。ここから、善が不純化され、みことばの真理が虚偽化される時、その結婚が性的に暴行されることになります。その性的暴行がどのように、まただれから行なわれるか、それらは以下に続けられるものから少しばかり明らかになります。

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517◀︎目次▶︎519

518 以前に、主と教会の結婚について(116番以降)、善と真理の結婚について(83番以降)扱ったところで、その結婚が地上の結婚に対応していることを示しました。ここから、その結婚の性的暴行は淫行と姦淫に対応することがいえます――そのようであることは、『啓示された黙示録』(134番)の中で豊富に示されたみことばからの箇所から明白に見られることができるように、そこに「淫行」と「姦淫」によって真理の虚偽化と善の不純化が意味されることが、みことばそのものからはっきりと明らかです。

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518◀︎目次▶︎520

519 みことばの性的暴行(強姦)はキリスト教会でその善と真理を不純化する者により行なわれます。真理を善から、また善を真理から分離する者は、真理の外観と虚偽を本物の真理として持ち込み、論証する者は、このことを行ないます。そのようにまた、その者はみことばからの教えの真理を知り、悪に生きています。ほかにも似たような他の者たちがいます。
 みことばと教会へのこれらの性的暴行は〔姦淫の〕禁じられた段階に対応しています(「レビ記」第18章に列挙されています)。

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519◀︎目次▶︎521

520 それぞれの人間のもとの自然的なものと霊的なものは霊魂と身体のように密着しているので――なぜなら、人間は、流入して彼の自然的なものを生かす霊的なものなしに、人間ではないからです――ここから、霊的な結婚の中にいる者は自然的な幸福な結婚の中にもいることがいえます。逆に、霊的な姦淫の中にいる者は、自然的な姦淫の中にもいて、その逆も言えます。
 さて、地獄にいるすべての者は悪と虚偽のつがい(交尾)の中にいて、これは霊的な姦淫そのものであり、また天界にいるすべての者は、善と真理の結婚の中にいて、これは結婚そのものであり、それゆえ、地獄全体は姦淫と呼ばれ、そして天界全体は結婚と呼ばれます。

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520◀︎目次▶︎522

44 天界や教会の何らかのものを認めない意図と確信からの姦淫者について

521 (これらに次のメモラビリアを加えます——)
私に目が開かれ、私は暗い森を、そこにサテュロスの群れを見た。
サテュロスは、胸は毛むくじゃら、足は、ある者は子牛、ある者はヒョウ、ある者はオオカミのようであり、足底は指の代わりに野獣のような爪であった。
これらの者が、「女はどこにいるか?」と叫んで、野獣のように駆け回っていた。
その時、彼らを待っていた娼婦たちが見られた——それらもまたいろいろな怪物であった。
サテュロスたちは走り寄り、彼女たちをつかまえ、森の真ん中に、地の下の深い洞穴へ引き下ろした。洞穴のまわりの地上に、らせん形に屈曲した大きなヘビが横たわっていて、洞穴の中へ毒を吹き込んでいた。ヘビの上方の森の枝に、死を招く(不吉な)夜の鳥(フクロウ)がガーガー鳴き、叫んでいた。
しかしサテュロスと娼婦たちはこれらを見なかった、彼らの好色に対応するものであったからである、いつもの外観が遠方からこのように見られる。
[2]その後、洞穴から出て、ある低い小屋へ入った、それは売春宿であった。その時、娼婦たちから引き離され、自分たちの間で話した、それへ私は耳を向けた。というのは、話しは霊界で、そこの空間の広がりは単なる外観であるので、遠く離れたところからでも、居合わせるかのように聞かれることができるからである。
彼らは、結婚について、自然について、宗教について話していた。
結婚について、足が子牛のように見られた者が話し、「結婚は許された姦淫でないなら何か? 淫行の偽善、そして夫たちを欺くこと以上に何が心地よいか?」と言った。
これらに、他の者たちは高笑いして、拍手喝采した。
自然について、足がヒョウのように見られたサテュロスが話し、「自然以外に他の何があるのか? 人間が明晰な発音で、獣が音声で話すことができること以外に、人間と獣の間に何の違いがあるのか? 両方とも自然の働きであり、熱からのいのちが、そして光から理解力があるのではないのか?」と言った。
これらに、他の者たちは叫んだ、「ああ、あなたがたは思慮分別から話している」。
宗教について、足がオオカミのように見られた者が話し、「自然の最内部の働きでないなら、何が神か、または神性か? 大衆を捕え、縛るための作り事でないなら、何が宗教か?」と言った。
これらに、他の者たちは叫んだ、「ブラボー(いいぞ)」。
[3]ほんの短い時間の後、彼らは勢いよく出て来た。勢いよく出て来ながら、彼らに向けて目を集中させて眺めている私を遠方から見た。そのことから怒って森から走り出て、脅迫的な顔つきで私に向かって走り急いだ。
彼らは言った、「なぜ、ここにあなたは立って、あなたは私たちのひそひそ話しを聞いているのか?」
私は答えた、「なぜ、いけないのですか? 何が禁じられているのですか? 〔ひそひそ話しではなく、単に〕話しでした」。私は、彼らから聞いたものを話した。
このことから彼らの心(アニムス)は座らされた、これは〔自分たちの話しが〕漏れないようにとの恐れからであった。その時、謙虚に話し、礼儀正しく振る舞い始めた。そのことから私は、卑しい庶民からでなく、さらに高貴な家系からの者であったことを認めた。
その時、私は彼らに、私が森の中の彼らを数で三十人のサテュロスとして、二十人を子牛のサテュロスとして、六人をヒョウのサテュロスとして、また四人をオオカミのサテュロスとして見たことを語った。
[4]彼らはこのことに驚いた、まさに自分自身を、私のもとでここに自分自身を見ているのと同様、人間としてしか見なかったからである。
私は、遠方から淫行の情欲からそのように見えること、サテュロスのこの形は放埓な姦淫の形であり、人物の形ではないことを教えた。私はこの理由を言った、「それぞれの悪の欲望は、ある形の中に自分と似ているものを見せます、それは自分自身から眺められません、しかし、隔てて立っている者から眺められます」——また、言った、「あなたがたが信じるために、あなたがたからある者をその森へ送り出し、そしてあなたがたはここにとどまり、観察してみなさい」。
そして、そのように行なわれ、ふたりを送り出した。その売春宿の小屋の近くで、そのふたりがまったくサテュロスのようであるのを見た。戻ったとき、彼らはそのサテュロスに挨拶し、言った、「おお、何たる笑いもの」。
笑いの中にいたとき、私は彼らにいろいろな冗談を言い、私が姦淫者をブタとして見たことも語った。その時、私はオデュッセイアとキルケーについての寓話を思い出した、このオデュッセイアの仲間と召使いは、ヘカテーの草〔=魔女の薬草〕を振りかけ、魔法の棒で触れて、ブタに変えたが、おそらく、姦淫者に〔変えたのであろう〕、どんな技巧であっても、ある者をブタに変えることはできなかったからである。
これらや同様のものに高笑いした後に、私は、彼らが世でどの王国の出身であったか質問した。
彼らは、いろいろな国からであったことを言い、イタリア・ポーランド・ドイツ・イギリス・スウェーデンの名前を挙げた。
私は、自分たちの間にオランダからの者を見たか質問した。「だれも見ない」と言った。
[5]この後、私は話題をまじめなものに変え、これまでに姦淫が罪であることを考えたか質問した。答えた、「罪とは何か? 私たちはこれが何か知らない」。
私は、これまでに姦淫が十戒の第六の戒めに反すると記憶したことがあるのではないのか質問した。答えた、「十戒とは何か? 教理問答書なのか? 私たちおとなにその子どもじみた小著と何〔の関係〕があるというのか?」
私は、これまでに地獄について何か考えたか質問した。答えた、「だれがここから上ったか、また語ったか?」
私は、死後の生活について世で何か考えたか質問した。彼らは言った、「獣のいのちと同様のもの、また時々は、幽霊のいのちと同様のものと考えた、それはもし死体から発散されるなら、消滅する」。
さらに私は、これらやそれらについて何らかのものを聖職者から聞いたのではないかと質問した。彼らの話しの音声だけに留意し、事柄に留意しない、「また、これが何か?」と答えた。
[6]これらに驚き、私は彼らに言った、「顔とまなざしを森の真ん中へ、その中にあなたがたがいたそこの洞穴へ向けなさい」。彼らは向けた、そしてそのまわりにらせん形に屈曲し、そして毒を吹き込んだその大きなヘビを、そしてまたその上方の枝に死をもたらす鳥を見た。
私は質問した、「あなたがたは何を見ますか?」しかし怖くなって、何も答えなかった。
私は言った、「あなたがたは恐ろしいものを見ませんでしたか? これは姦淫の情欲の中の邪悪な行為を表象するものであることを知りなさい」。
突然、その時、ある天使がそばに立った。聖職者であった。彼は西の方位に、最後にこのような者が集められる地獄を開い〔て見せ〕た。また、言った、「それを眺めなさい」。彼らは火のような湖を見た。そこに世で友人であった者を認めた、その者は彼らを自分のもとに招いた。
これらを見て、聞いて、向きを変え、私の視野から飛び出し、森から去った。しかし私は彼らの歩き振りを観察した。彼らは去ることを装ったが、回り道を通って森の中へ戻った。

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521◀︎目次▶︎523

522 この後、私は家へ戻った。一日後、それらの惨めな光景を思い出しながら、私は同じ森に向かって眺めた、それは消滅していたがその代わりに砂だらけの平地を、その真ん中に湖を、その中にある種の赤いヘビたちがいるのを見た。
しかし数週間後、再びそれを見た時、私はその右側に耕地を、その上に数人の農夫を見た。そして再び数週間後、私は灌木に囲まれた新開地のその耕地から生え出てくるものを見た。
その時、私は天界から声を聞いた、「あなたの寝室へ入り、扉を閉ざせ。「黙示録」について始められた著作に傾注せよ。これを二年の内に終わりまで追跡せよ」。

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522◀︎目次▶︎524

(二十六)淫行愛と結婚愛の両方の愛の転嫁について

523 主は言われました、

さばいてはいけません、あなたがたが断罪されないためです(マタイ7:1)。

このことによって、世での道徳的なまた市民的な何らかの生活(いのち)についての裁きは決して意味されることができません。霊的なまた天的な何らかのいのち(生活)についての裁きが意味されます。
もし世で自分と一緒に住む者の道徳的な生活(いのち)について裁くことが許されないなら、社会は崩壊することをだれが見ませんか? もし公けの裁きがないなら、もしそれぞれの者に他の者について自分の裁きがないなら、社会に何が起こりませんか?
しかし、どのような内的な心または霊魂が、そのように彼にどのような霊的な状態が内在するか、またここから死後の運命を裁くことは、このことについて、主おひとりが知られているので、裁くことは許されません。主はこのことを死んだ後でないなら示されません、それぞれの者が行なうことを自由から行ない、このことによって善または悪が、彼から、またこのように彼の中にあり、ここから永遠に自分自身にまた自分自身のものを生きる理由のためです。
世で隠された心の内的なものが、死後、現わされることは、このことがその時、人間が生きる社会にとって重要であり、貢献するからです、というのは、すべての者はそこでは霊的であるからです。
そのとき、それらが現わされることは、これらの主のことばから明らかです、
現われないで秘密にされている、または知られないで隠されているものは何もありません。それゆえ、暗やみの中であなたがたが言うどんなものでも、光の中で聞かれます。寝室の中で耳の中へあなたがたが話したものが、屋上で宣言されます(ルカ12:2, 3)。

[2]もし外なるものの中で見られるようなあなたが、内なるものの中でもこのようなものであるなら、あなたは救われるかあるいは断罪されるといった、このような全般的な裁きは許されます。あなたは内なるものの中でこのような者である、それゆえ、あなたは救われるかあるいは断罪されるといった、このような個々の(特定の)裁きは許されません。
人間の霊的ないのち(生活)、すなわち、霊魂の内なるもののいのち(生活)についての裁きが転嫁によって意味され、それについてここに扱われています。
だれが心で淫行者であるのか、だれが心で配偶者であるのか、人間のだれが知っていますか? それでも、意志の目的である心の考えた事柄が、だれをも裁きます。
しかし、これらを次の順序で明らかにします――

(1) 死後、悪の中にいるそれぞれの者に、その悪が転嫁される。善も同様である。
(2) ある者の善が他の者に転移するのは不可能である。
(3) 転嫁は、それによってこのような転移が意味されるなら、むだな言葉である。
(4) それぞれの者の悪が彼の意志がどんなものかにしたがって、彼の理解力がどんなものかにしたがって転嫁される、善も同様である。
(5) このようにそれぞれの者に淫行愛が転嫁される。
(6) 結婚愛も同様である。

これらの説明を続けます。

結婚愛

523◀︎目次▶︎525

524 (1) 死後、悪の中にいるそれぞれの者に、その悪が転嫁される。善も同様である
このことが何らかの明白なものの中で明らかとなるために、次の仕切ったもので説明します――

(ⅰ) それぞれの者に、その人自身のいのち(生活)がある。
(ⅱ) それぞれの者に、死後、自分のいのち(生活)が残る。
(ⅲ) その時、悪い者に彼のいのち(生活)の悪が転嫁され、善い者に彼の〔いのち(生活)の〕善が転嫁される。

第一、それぞれの者に、その人自身のいのち(生活)がある、そのように他の者とは別々のいのち(生活)があることはよく知られています。というのは、永続する多様性があり、何らかの同じものはないからです。ここからそれぞれの者に自分のプロプリウム(固有のもの)があります。
このことは人間の顔からはっきりと明らかです、完全に他のものと似ている一つの顔は存在しません、永遠に存在することもできません。その理由は、似たアニムス(気質)は存在しないし、アニムスから顔があるからです。というのは、顔は、言われたように、霊魂の象徴であり、そしてアニムスはその起源と形をいのちから導くからです。
[2]人間に固有のアニムスが、また固有の顔があるように、いのち(生活)がなかったなら、彼に他の者から分離した死後のいのち(生活)もなかったでしょう。それどころか、天界も存在しないでしょう、というのは、天界は永続的に〔区別された〕他の者から存続するからです。この形はもっぱらこのような配置の秩序の中の霊魂と心の多様なものから存在し、一つのものをつくります、そして「唯一の者」から一つのものをつくり、霊魂が人間の中にあるように、それぞれの者のいのちがそこのすべてと個々の者にあるためです。そうでなかったなら、形が分解されるので、天界は消散させられたでしょう。
「唯一の者」は主であり、その方からすべての個々のいのちがあり、形がその方から密着します。
全般的に、いろいろなものそしてこのようなものからのすべての形は、一つのものへとこれらの調和した整合と配列のようです――このようなものが人間の形です。ここから、人間はこのように多くの四肢・内臓・器官から構成されていても、一つのものまた自分自身からのもののようでないなら自分自身の中に何らかのものを感じません。
[3]第二、それぞれの者に、死後、自分のいのち(生活)が残る、このことは、みことばから教会の中で、これらの箇所からよく知られています――

人の子がやって来ようとしています……その時、それぞれの者にその行なったことにしたがって、報います(マタイ16:27)。
私は開かれた書物を見た。すべての者はその働きにしたがって裁かれた(黙示録20:12, 13)。
審判の日、神はそれぞれの者にその働きにしたがって報いられる(ローマ2:6、コリントⅡ 5:10)。
働きはいのち(生活)であり、それにしたがってそれぞれの者は報いられます、いのち(生活)がそれを行ない、いのち(生活)にしたがっているからです。
多くの年にわたって、私に天使と一緒であること、そして世からやって来ている者と話すことが与えられたので、私は確かに証言することができます、それぞれの者はそこで、彼のいのち(生活)がどんなものであったか調べられること、また世で得たいのち(生活)が永遠に残ることです。
私は数世代前に生き、その者のいのち(生活)が歴史から私に知られていた者と話しました、私は〔歴史に〕記述されたものと似ていることを認めました。私は天使たちから、ある者のいのち(生活)が、死後、変えられることができないことを聞きました、彼の愛とここからの働きにしたがって組織化されているからです。もし変えられるなら、組織が引き裂かれますが、そのことは決して行なわれることができません。なおまた、組織の変化はもっぱら物質的な身体の中に存在し、特に捨てられた後に、霊的な身体の中ではまったく不可能です。
[4]第三、その時、悪い者に彼のいのち(生活)の悪が転嫁され、善い者に彼の〔いのち(生活)の〕善が転嫁される
悪の転嫁は、世の中のような控訴・告発・批難・裁判ではありません、悪そのものがこのことを行ないます――というのは、悪い者は自分の自由から善い者から、一緒にいることができないので、自分自身を分離するからです。悪の愛の快さは善の愛の快さを退けます、それぞれの者から快さが、地上のすべての植物からのにおいのように発散しています。というのは、以前のように物質的な身体に吸収されず、隠されません、しかし、自由に彼らの愛から流れ出る霊的なオーラ(空気)の中にあるからです――悪はそこにそのにおいのように感じられるので、このことが、何らかの裁判官の前でなく、しかし善にいるそれぞれの者の前で控訴し、告発し、批難し、裁きます。このことが転嫁によって意味されることです。
さらに、悪い者は仲間を選び、それらの者と自分の快さの中で生きます。また、善の快さを退けるので、自発的に地獄の中の自分のものへ行きます。
[5]善の転嫁も同様に行なわれます。
このことは、自分の中のすべての善は主からであり、自分自身から何もないことを認めた者に生じます。
これらの者は準備された後に、善の内的な快さの中に入れられ、その時、彼らに天界の社会への道が開かれ、そこに彼の同質の快さがあります――このことは主により行なわれます。

結婚愛

524◀︎目次▶︎526

525 (2) ある者の善が他の者に転移するのは不可能である
これらが明白であることも、これらの順序から見られることができます――

(ⅰ) それぞれの人間は悪の中に生まれている。
(ⅱ) 主により再生を通して善へ導き入れられる。
(ⅲ) その方の戒めにしたがった生活によって行なわれる。
(ⅳ) それゆえ、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない。

第一、それぞれの人間は悪の中に生まれている、このことは教会でよく知られています。
この悪はアダムからの遺伝であることが言われています、しかし両親からです。両親からそれぞれの者は性質を得ており、それらは性向です。そのようであることは、理性と経験により確信されます。というのは、両親に似ていることが、顔・性質・振る舞いに関して最も近い子どもの中に、またこれらから子孫の中に、現われるからです。ここから、多くの者により一族が知られ、そしてまた彼らの気質(アニムス)について判断されます。それゆえ、両親自身が引き寄せた悪は、接ぎ木によって子孫の中に持ち込まれ、それらの中に人間は生まれています。
アダムの罪が人類すべての者に刻み込まれていると信じられているのは、わずかな者しか自分自身のもとに何らかの悪について熟考しないし、ここからそのことを知らないからです。それゆえ、神の前でないなら現われないように、これほどに深く隠されているという信念を抱いています。
[2]第二、主により再生を通して善へ導き入れられる
再生があること、まただれも再生されないなら、天界に入ることができないことは、主のことばからはっきりと明らかです(ヨハネ3:3, 5)。再生が悪からの浄化またこのようにいのち(生活)の更新であることは、キリスト教界で隠れていることができません、なぜなら、理性もまた、それぞれの者が悪の中に生まれていることを認める時、悪は、汚れのように、石鹸と水によって洗い落とし、ぬぐい取ることができず、後悔(悔い改め)によってであることを見るからです。
[3]第三、人間は主により、その方の戒めにしたがった生活によって善へ導き入れられる
再生のための戒め〔教え〕は五つであり、それらは前に見られ(82番)、それらの間にこれらがあります――悪は避けなければならないこと、悪魔のもの、悪魔からであるからです。善は行なわなければならないこと、神のもの、神からであるからです。主に近づかなければなりません、それらの行なうことへ向けて彼らが引き寄せられるためです。それぞれの者が自分自身で、人間の善が別の場所からかどうか思いめぐらし、熟考すべきです。もし善がないなら、彼に救いはありません。
[4]第四、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない
転移によって、ある者の善が他の者の中へ移されることが意味されます。
前述のことから、人間は再生によって霊に関してまったく新たにされ、このことは主の戒めにしたがった生活によって行なわれることになります。この更新は徐々にでないなら行なわれることができないこと、種から木が、連続的に根づき、増大し、完成されるのとほとんど異ならないことを、だれが見ませんか?
再生を〔これと〕異なって知覚する者は、人間の状態について何かのものを、悪と善について何らかのものも知りません、これら二つのものはまったく対立していること、善は悪が遠ざけられないかぎり植え付けられることができないことです。だれかが悪の中にいるかぎり、本質的に善である善を退けることを知りもしません。それゆえ、もしある者の善が悪の中にいるだれかの中に移されるなら、オオカミの前に投げられた羊のように、ブタの鼻に結び付けられた真珠のようになるでしょう――それらから、転移は不可能であることが明らかです。

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525◀︎目次▶︎527

526 (3) 転嫁は、それによってこのような転移が意味されるなら、むだな言葉である
悪の中にいるそれぞれの者に、死後、その悪が、同様に善が転嫁されることが示されました(前の524番)。ここから、何が転嫁によって意味されるか明らかです――しかし、転嫁によって悪にいる者への善の転移が意味されるなら、むだな言葉です、直前にも示されているように(525番)、不可能であるからです。
世では人間により、功績はあたかも移されることができるかのようです、すなわち、両親ゆえに子どもに、または好意からある隷属者(被保護者)の友人に恩恵が与えられることです。けれども、功績の善は彼らの霊魂に刻み込まれることができません、外面的なものに結び付けられるだけです――同様のものが人間に、彼らの霊的ないのち(生活)に関してありえません。これは、前に示されたように、植え付けられなくてはなりません。それはもし前に言及された主の戒めにしたがった生活によって植え付けられないなら、人間は、その生まれた悪の中に、とどまります――このことが行なわれる前に、人間は何らかの善を生むことができません。それがもし生まれるなら、岩の上に落ちた弾力のある球のように、直ちにはずみ、はね返されます、または、沼沢地に投げ込まれたダイヤモンドのようにのみ込まれます。
[2]改心されない人間は、霊に関して、ヒョウまたはフクロウのようであり、イバラやイラクサにたとえられることができます。しかし、再生された人間は羊またはハトのようであり、オリーブの木とブドウの木にたとえられることができます。どうぞよろしかったら、どのように人間豹が人間羊に、またはフクロウがハトに、またはイバラがオリーブの木に、またはイラクサがブドウの木に、転嫁によって転移が意味されるなら、その何らかの転嫁によって変えられることができるか考えてみてください。変化が生じるために、ヒョウやフクロウの野獣性が、またはイバラやイラクサの有害性が、前もって取り除かれなければならず、このように真の人間性と無害なものが植え付けられなければならないのではありませんか?
このことがどのように生じるか、主もまた「ヨハネ福音書」で教えられています(15:1–7)。

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526◀︎目次▶︎528

527 (4) それぞれの者の悪が彼の意志がどんなものかにしたがって、彼の理解力がどんなものかにしたがって転嫁される
  人間のいのちをつくる二つもの、意志と理解力があることがよく知られています。人間により行なわれるすべてのものは、彼の意志から、また理解力から行なわれます。これらなしに、機械によるようなもの以外に、人間に活動も話すこともなかったでしょう――ここから、人間は、彼の意志と理解力がどんなものであるかによることが明らかです。なおまた、人間の活動は本質的に、それを生み出している彼の意志の情愛がどのようなものであるかによります。人間の話すことは本質的に、それを生み出している彼の理解力の思考がどのようなものであるかによります。それゆえ、多くの人間は同様に行動することと話すことができます、それでも異なっていて、ある者は悪い意志と思考から、ある者は正しい意志と思考から行動し、話します。
[2]これらから、行為または働きにしたがってそれぞれの者が裁かれるそれらのものによって何が意味されるか、もちろん、それは意志と理解力であることが明らかです。したがって、悪の働きによって、どんなものが外なるものの中で見られても、悪の意志の働きが意味されます。また、善の働きによって、たとえ外なるものの中で、悪の人間からの働きと似たものに見えても善の意志の働きが意味されます。
 人間の内的な意志から行なわれるすべてのものは、意図から行なわれます、その意志がその意図が行なうものをそれ自体に示すからです。理解力から行なわれるすべてのものは、確信したものから行なわれます、理解力が確信するからです――これらから、それらの働きの中の彼の意志がどんなものかにしたがって、またそれら確信したものについて彼の理解力がどんなものかにしたがって、それぞれの者に悪または善が転嫁されることを明らかにすることができます。
[3]このことを次のことによって確信することが許されています――

 霊界で、私は多くの者に出会った。ある者は自然界で他の者と同様に、豪華に自分を着飾って、ごちそうを食べ、利益とともに他の者のように商売し、劇場の演技を眺め、愛する者(恋人)について情欲からのように冗談を言って、ほかにも他の同様なものに生きた、それでも天使たちは、ある者にそれらを罪のある悪として罪を帰し、ある者にそれらを悪として罪を帰さなかった、前者を罪のある者、けれども、後者を罪がない者と宣言した。
 「同様のことを行なったのに、それでもそのようであるのはどうしてなのか」との質問に、答えた、「目標・意図・目的から、すべてのものが熟視され、それらにしたがって区別されます。それゆえ、彼らの目的によって彼らを許すかあるいは断罪します。彼ら自身が許し、または断罪する善の目的が天界のすべての者にあり、悪の目的が地獄のすべての者にあるからです」。

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528 これらに次のことを加えます。
教会で、「だれも律法を満たすことができない、まして、十戒の一つの戒めに反して罪を犯す者は、すべてのものに反して罪を犯すので、さらにできない」と言われています――けれども、この決まり文句はそのように聞かれるものではありません。なぜなら、これは、意図または確信した心から一つの戒めに反して行なう者は、彼は残りのものに反して行なう、とこのように理解されなければならないからです。意図または確信した心から行なうことは、罪であることをまったく否定し、罪を否定する者は、もし残りの戒めに反して行動しても何でもないとすることであるからです。
姦淫者である者が、殺人者・泥棒・虚偽の証人でないゆえに、それらの者であることも欲しないことを、だれが知りませんか? しかし、意図と確信から姦淫者である者は、宗教のすべてのものを、そのように、殺人・盗み・虚偽の証言も何でもないとします。これらの者は罪であるので慎まないのではなく、法律と名声を恐れるので慎むのではありませんか?
意図と確信からの姦淫者は教会と宗教の聖なるものを何も評価しないことは、前に見られます(490–493番、また二つのメモラビリア500521, 522番)。
もしだれかが意図または確信から十戒の何らかの一つの戒めに反して行動するなら、残りのものに反して行動することも同様です、何らかの罪と見なさないからです。

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528◀︎目次▶︎530

529 主から善の中にいる者のもとでまったく同様です。これら者が、もし意志と理解力から、すなわち、意図と確信から、罪であるからと一つの悪を慎むなら、さらにもっと多くの悪を慎むなら、すべてのものを慎みます――というのは、ある者が意図と確信から、罪であるので、何らかの悪を慎むと直ぐに、彼は主により他のものを慎もうとする意図の中に保たれるから。それゆえ、もし無知からまたは何らかの身体の欲望のまさったものから、悪を行なうなら、それでもこれは彼に転嫁されません、それを自分自身に持ち出さなかった、自分自身のもとで確信もしなかったからです。
 人間は、もし1年のうちに1度または2度、自分自身を調べ、自分自身のもとに悪を見つけ、後悔する〔=悔い改める〕なら、この目的(意図)の中にやって来ます。自分自身を決して調べない者は異なります。
 これらから、罪が転嫁される者がだれか、転嫁されない者がだれであるか、明らかになります。

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530 (5) このようにそれぞれの者に淫行愛が転嫁される
 すなわち、〔転嫁は〕外なるものの中の人間の前に見られるような、それどころか裁判官の前に見られるような行為にしたがっていません、しかし、内なるものの中の主の前に、その方から天使たちの前に見られるようなものにしたがっています、それはそれらの中の意志の性質と理解力の性質にしたがっています。
 世に、罪悪を和らげ、許す、なおまた、重くし、批難するいろいろな事情が存在します。しかし、それでも、転嫁は、死後、行為の外なるものである事情にしたがって生じるのではありません、心(mens)の内なるものにしたがっています――これらはそれぞれの者のもとの教会の状態にしたがって考慮されます。例えば、意志そして理解力で不信心な人間は、その者に神への恐れがなく、隣人愛もなく、ここから教会の何らかの神聖なものに対する畏敬の念もありません。彼は、死後、身体で行なった罪のあるすべての罪悪を行ないます、その善行を思い出すことは生じません。彼の心は、その心からそれらの罪悪が泉からのようにわき出たので、天界から背き、地獄へ向けたからです、行動はそれぞれの者の心の住居の場所から流れ出ます。
[2]このことが理解されるために、私はアルカナを述べます。
 天界は無数の社会に分けられ、同様に、反対の位置に地獄が分けられています。人間のそれぞれの者の心は彼の意志とここからの理解力にしたがって、ある社会の中に実際に住んでいて、そこの彼らと同様に意図し、考えています。
 もし心が天界のある社会の中にあるなら、その時、そこの彼らと同様に意図し、考えています。もし〔心が〕地獄のある社会の中にあるなら、そこの彼らと同様に〔意図し、考えています〕――しかし、人間は世に生きるかぎり、それだけ長い間、ある社会から他の社会の中へ、自分の心の意志とここから理解力の情愛の変化にしたがって移住します。しかし、死後、彼の遍歴が集められ、一つに集められたものから、もし悪い者なら地獄の中に、もし善い者なら天界の中に、彼に場所が定められます。
[3]さて、地獄のすべての者に悪の意志があり、その意志からそこのすべての者が眺められ、天界のすべての者に善の意志があり、その意志からそこにすべての者が眺められます。それゆえ、それぞれの者の意志と理解力の性質にしたがって、死後、転嫁が生じます。
 同様のものが淫行に、あるいは私通に、あるいは愛人を持つこと、あるいはめかけ囲い、あるいは姦淫に生じます。それらは、行為にしたがわないで、しかし、行為の中の心の状態にしたがって、それぞれの者に転嫁されるからです。というのは、行為は身体に従って土まんじゅう(墓)の中へ〔入ります〕、しかし、心はよみがえるからです。

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531 (6) このようにそれぞれの者に結婚愛が転嫁される
結婚愛が見られず、それでも結婚愛のある結婚が存在します。また、結婚愛が見られ、それでも結婚愛のない結婚が存在します――両者に多くの原因があり、部分的に、真の結婚愛についての章から(57–73番)、そして冷淡と分離の原因について(234–260番)、また、結婚の中の愛と友情の外観の原因について(271–292番)から知ることができます――しかし、転嫁について外なるものの中の外観からは何も結論できません。
結論に導く唯一のものは、結婚のもの(結婚への性向)です、それは人間がどんな種類の結婚の状態にいても、ある者の意志の中に宿り、守られます――その結婚のものは(天秤ばかりの)針のようであり、それによってその愛がはかられます。というのは、ひとりの妻とひとりの夫の結婚のものは人間の生活の宝、キリスト教の宝庫であるからです(前の457, 458番に示されているように)。
そのようなものであるので、その愛はひとりの配偶者のもとに存在することができ、同時に他の者もとに存在できません。その愛は、人間自身がそれについて何らかのものを気づかないように深く秘められて隠れていることができます。そしてまた、人生行路の中に刻み込まれることができます。
その理由は、その愛がその歩みの中で宗教と同行し、そして宗教は、主と教会の結婚であるので、その愛の初期の段階と接ぎ木であるからです――それゆえ、結婚愛はそれぞれの者に、死後、彼の霊的で理性的な生活にしたがって転嫁されます。また、その者にその愛が転嫁され、死の後、どんな種類の結婚が世で彼にあった〔にしても〕天界で結婚が備えられます。
そこで、これらから、結びとなります、「その者に結婚愛があるかあるいはないか何らかのものについては、結婚の外観からでも淫行の外観からでもなく結論すべきである」。それゆえ、

さばいてはいけません、あなたがたが断罪されないためです(マタイ7:1)。

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45 主により啓示された新しいものについて

532 (これらに私はこのメモラビリアを加えます——)
かつて、私の霊に関して私は天使の天界に、その一つの社会の中に上げられた。その時、そこの賢い者たちからのある者が私に近づいて、言った、「地から何か新しいもの(ニュース)がありますか?」
私は彼らに言った、「これが新しいもの(ニュース)です、主が教会の始まりからこれまでに啓示された秘義にまさっている卓越した秘義を啓示されたことです」。
彼らは質問した、「それらは何ですか?」
私はこれらであることを言った——

(ⅰ) みことばの中のそのすべてと個々のものの中に自然的な意味に対応している霊的な意味がある、その意味によって主と教会の人間の結合が、また、天使との交わりがある、みことばの聖性はその〔意味の〕中に住む。
[2](ⅱ) 対応が明らかにされ、それらから霊的な意味が構成されている。

天使たちは質問した、「地球の住民たちは以前に対応について知らなかったのですか?」
私は言った、「まったく何も〔知りません〕。また、今や数千年の間、すなわち、ヨブの時代以来、隠されています。その時代に、またその後に生きた者のもとに、対応の知識は知識の〔中の〕知識であり、その知識から彼らに知恵がありました、天界と教会のものである霊的なものについての認識であるからです。しかしその知識は、偶像崇拝的なものに変わったので、主の神的摂理から、だれもそれらについて何らかのしるしを見ないように、そのように消され、失われました——しかしそれでも、今や、主により、その方と教会の人間の結合が、また天使との交わりが生じるために明らかにされました。これらはみことばによって行なわれ、その中に対応のすべてと個々のものがあります」。
天使たちは、主が、数千年の間、これほどに深く秘められたこの大いなる秘義を啓示することが喜びであったことを大いに嬉しがった。「このことは、みことばの上に建てられているキリスト教徒の教会が、今やその終わりにあり、再び復興するためであり、主から天界を通してその霊(息吹)を得る目的のために行なわれました」と言った。
天使たちは、それらの知識によって、今日、明らかにされているか、「洗礼」が何を、「聖餐」が何を意味するか、それらについてこのようにいろいろなものをこれまでに考えたか質問した。
私は、明らかにされたことを答えた。
[3](ⅲ) さらに私は、今日、主により「死後の人間のいのち(生活)」について啓示されたことを言った。
天使たちは言った、「死後のいのち(生活)について、何が?死後に人間が生きることをだれが知らないのですか?」
私は答えた、「(彼らは)知っているし、知りません。人間ではなく、彼の霊魂が生きること、またこれが霊として生きること、霊について風またはエーテルのような観念を抱いていて、人間は、最後の審判の日の後でないなら生きない、その時、世に残す身体は、たとえ、虫・ネズミ・魚により食い尽されても、呼び戻され、再び、身体へ集められ、人間はこのように復活する、と言っています」。、
天使たちは言った、「このことはなぜですか? 人間は死後に人間〔として〕生きること、ただ相違は、その時、霊的な人間が生きることです。物質的な人間が物質的な人間を見るのと等しく霊的な人間が霊的な人間を見ること、完全な状態の中にいることのほかに一つの違いもないことを、だれが知らないのですか?」
[4](ⅳ) 天使たちは質問した、「私たちの世界について、そして天界と地獄について何を知っていますか?」
私は、何も知らないこと、しかし、今日、主により、天使と霊たちが生きる世がどんなものであるか、そのように天界がどんなものか、また地獄がどんなものか、ほかにもまた、天使と霊たちが人間と結合の中にあること、さらに、それらについて多くの驚くべきことが明らかにされたことを言った。
天使たちは、人間が自分の不死性について無知からもはや疑いの状態の中にいないように、主がこのようなものを明らかにすることを喜ばれたことを喜んだ。
[5](ⅴ) さらに私は、今日、主により啓示されたこと、「私たちの世界にあるもの以外に、あなたがたの世界にもう一つの太陽があり、あなたがたの世界の太陽は純粋な愛であり、私たちの世界の太陽は純粋な火であること。それゆえ、あなたがたの太陽から発出するすべてのものは、純粋な愛であるので、いのちから得ていること。私たちの太陽からのすべてのものは純粋な火からのものであるので、いのちから何も得ていないこと。ここから霊的なものと自然的なものの間に違いがあり、その違いが今まで知られていないこともまた明らかにされました。そのことから、ここから人間の理解力の知恵を照らす光があり、ここから人間の意志の愛を燃え立たせる熱があることをよく知られるようにされました」と言った。
[6](ⅵ) ほかにも、いのちの三つの段階があること、ここから三つの天界があること、人間の心は三つの段階に区別されていること、ここから人間は三つの天界に対応することが明らかにされた〔と言った〕。
天使たちは言った、「〔人間は〕このことを以前に知っていましたか?」
私は、「より大きいものとより少ないものの間の段階について知っていました、しかし前のものと後のものの間の段階について何も知りませんでした」と答えた。
[7](ⅶ) 天使たちは、これらのほかに多くのものが啓示されたかどうか質問した。
私は、多くのもの〔がある〕ことを言った。それらは、最後の審判について、主について、天地の神であること、神は位格と本質で一つであること、その中に神的三一性があり、その方は主であること。なおまた、その方により設立された「新しい教会」について、またその教会の教えについて。また、「聖書の聖性」について。さらにまた「黙示録」が啓示されたこと。さらにまた、「惑星の住民」について。そして、宇宙の中の「諸地球」について。ほかに、霊界からの印象的な出来事(メモラビリア)と驚くべくことが天界から、知恵のものであるそれら多くのものによって明らかにされたことである。

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532◀︎目次▶︎534

533 天使たちはこれらを聞いて大いにうれしがった。しかし、私の中に悲しみを知覚し、尋ねた、「あなたの悲しみはどこからですか?」
 私は、主により啓示されたそれらの秘義が今日、たとえ優秀さと品位でこれまで公けにされた認識にまさっていても、それでも地上で、何らかの価値がないように評価されていることを言った。
 このことに天使たちは驚き、主に、世を見おろすことを許すよう求めた。
 見おろした、見よ、そこに暗やみそのもの。
 また、彼らに、それらの秘義を紙に書き、紙が地に降ろされ、〔そこからの〕出来事を見るようにと言われた。そのように行なわれた。見よ、それらの秘義が書かれていた紙は、天界から降ろされた。前進中、依然として霊界にあった時、星のように輝いた。しかし、それが自然界へ落ち込んだ時、光は消え、沈むかのように次第に暗くされた——天使により集会の中へ降ろされ、そこに聖職者と平信徒のある者たちからの学識や教養のある者がいて、多くの者からブツブツ言う声が聞かれ、その中に次の声があった。
 「これは何か? 何らかのものなのか? それらを私たちが知るかあるいは知らないにしても、何の関わりがあるのか? 脳から生まれた子ではないのか?」
 また、書かれたものを消すために、ある者は紙を手に取り、折りたたみ、ころがし、それを指で回転させるかのように見られ、そして、ある者は引き裂き、ある者は足で踏みにじりたいと欲しているように見られた。しかし彼らに行なうことが主により押しとどめられ、天使たちに、それらを引き戻し、守るように命令された。天使たちは悲しくされたので、「これがいつまでなのか?」と考えた。「一時と二時と半時まで」(黙示録12・14)と言われた。

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533◀︎目次▶︎535

534 この後、私は天使たちと、さらに、主により世で啓示されたものを話した。
 彼らは質問した、「それは何ですか?」
 私は言った、「真の結婚愛について、その天界的な歓喜についてです」。
 天使たちは言った、「だれが、結婚愛の歓喜がすべての愛の歓喜にまさることを知りませんか? だれが、ある種の愛の中にすべての至福・幸せ・快さが集められ、それらはそれでも主により集められることができると考えることができませんか? それらの容器が真の結婚愛であり、それは十分な感覚へ向けてそれらを受け入れること、知覚することができませんか?」。
 私は、「〔人々は〕このことを知りません、主に近づかず、その方の戒めにしたがって悪を罪として避けて、善を行なって生きなかったからです。真の結婚愛はその歓喜とともにひとえに主からであり、その方の戒めにしたがって生きる者に与えられます。そのように主の新しい教会の中に受け入れられる者に与えられ、その者は「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって意味されます」と答えた。
 私はこれらに、世で〔人々が〕今日、その愛が本質的に霊的なものまたここから宗教からのものであることを信じることを望んでいるか、私が疑いの中にいることを加えた、その愛について単なる形体的な観念を抱いているという理由からである。
 その時、彼らは私に言った、「それについて書きなさい、啓示に従いなさい。その後、それについて書かれた本が私たちにより天界から降ろされます、私たちは、その中にあるそれらが受け入れられるかどうか、また同時に、認めたいと欲するかどうか見ます、その愛は人間のもとの宗教にしたがっています、霊的な者のもとで霊的であり、自然的な者のもとで自然的、姦淫者のもとで単に肉的であるからです」。

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534◀︎目次▶︎おわり

535 この後、私は低い領域から敵意のあるブツブツ言う声を、また同時にこれらの声を聞いた、「奇跡を行なえ、すると私たちは信じる」。
私は質問した、「これらは奇跡ではありませんか?」
答えられた、「〔奇跡〕ではない」。
私は質問した、「では、何の奇跡を?」
言われた、「未来のことを示せ、啓示せよ、すると私たちは信仰を持つ」。
しかし私は答えた、「そのようなものは天界から与えられません、人間は未来を知れば知るほど、それだけ彼の理性と理解力は思慮分別や知恵とともに怠惰の中に落ち込み、無活動になり、滅ぼされるからです」。
再び私は質問した、「ほかに何の奇跡を行なえばよいですか?」
その時、叫んだ、「エジプトでモーセ〔が行なった〕と同様のものを行なえ」。
これに私は答えた、「おそらく、それら〔の奇跡〕に、あなたがたの心は、パロとエジプト人のようにかたくなにされるでしょう」。
答えた、「〔そんなことは〕ない」。
再び私は言った、「私に、あなたがたは金の子牛のまわりを踊らない、それを崇拝しない、と断言してください。シナイの燃える全山を見て、また火から話すエホバご自身を聞いて、それはすべての〔うちで〕最大のものであった奇跡の後、一か月の後に、それを行なったヤコブの子孫のように、そのようにならないことです」。 (「金の子牛」は 霊的な意味で肉の快楽である。)
低い領域から答えた、「私たちはヤコブの子孫のようにはならない」。
しかし、その時、私は、天界から彼らに次のことが言われたのを聞いた——「もしあなたがたがモーセと預言者を、すなわち、主のみことばを信じないなら、あなたがたは、荒野の中のヤコブの子たちよりもさらに奇跡から信じない。世にいて、主ご自身により行なわれた奇跡を自分の目で見た時に信じなかった者よりもさらに信じない」。