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結婚愛 460

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460 (14) 愛人を持つことは、多くの者と、処女すなわち害われていない女とも、そして結婚した女とも結ばれず、そして結婚愛から分離して保たれるかぎり放浪性の情欲にまさる
いつ、だれのもとで愛人を持つことが放浪性の性愛にまさるか、直前に示しました。

(ⅰ)愛人を持つことがひとり以外の多くの者と結ばれてはならないことは、多くの者と結ばれるとき一夫多妻が内在し、それは人間に単なる自然的な状態をひき起こし、そしてこれを、結婚愛が存在しなければならない霊的な状態の中へ高揚されることができないようにまでも感覚的なものの中へ押し下げるからである(338, 339番参照)。
[2](ⅱ) 処女または損なわれていない女と結ばれてはならないことは、女のもとの結婚愛は彼女の処女性は一つのものとして活動するからである。その愛の貞潔性・純粋性・聖性はここからである。それゆえ、その処女性をある男に誓約し、差し出すことは、彼を永遠に愛するしるしを与えることである。それゆえ、処女はその処女性を、結婚の契約の保証とともにでないなら、理性的な承諾から何も誓約することができない――それは彼女の名誉の冠でもある。それゆえ、結婚の約束なしにその処女性を強奪し、その後、そのままにすることは、花嫁また貞潔な妻になることができる何らかの処女を娼婦にすること、または何らかの男をだますことであり、そして両方とも有害である――それゆえ、処女を愛人として自分自身に結び付ける者は、確かに彼女と一緒に住むことができ、このように彼女を愛の友情の中に入れることができる、しかしそれでも、もし姦通しないなら、自分の妻であるように、あるいは自分の妻になるようにとの変わらない意図とともにである。
[3](ⅲ) 愛人を持つことは結婚した女と結ばれてはならないことは明らかである、これが姦淫であるからである。
[4](ⅳ) 愛人を持つことの愛は結婚愛から分離されて保たれなければならない、その理由は、それらの愛は区別され、それゆえ、混ぜられてはならないからである。というのは、愛人を持つことの愛は不貞な・自然的な・外なるものである、しかし、結婚愛は貞潔な・霊的な・内なるものであるから――愛人を持つことの愛は二つの霊魂を切り離す、そして身体の感覚的なものだけを結合する。しかし、結婚愛は霊魂を、また霊魂の結合から身体の感覚的なものもまた、二つのものから一つのもののようになるまでも結合し、それは一つの肉である。
[5](ⅴ) 愛人を持つことの愛は理解力の中にだけ入り、理解力によるものの中へ入る。しかし、結婚愛は意志の中へも入り、意志によるものの中に入る、それゆえ、人間のすべてと個々のものの中にある。それゆえ、愛人を持つことの愛が結婚愛になるなら、男は、結婚の結合の性的暴行なしに、何らかの権利から退くことができない。もし退き、他の者をめとるなら、結婚愛はその破壊の中で滅びる。
愛人に結婚を誓約しないこと、彼女を何らかの結婚の希望へ導き入れもしないことによって、愛人を持つことの愛は結婚愛から分離されて押しとどめられることを知るべきです。
それでもなお、性愛のたいまつは妻と初めて点火されることがまさっています。