カテゴリー

結婚愛 87

86◀︎目次▶︎88

87 (2) 孤立した善は存在しない、どこでも結合している
何らかの感覚から、善についての観念を自分自身に得ることを欲する者は、善が見せられ、示される何らかの付加するものなしにその観念を見いだすことができません。これなしに、善は名前だけの何もない存在物です。それは、真理に関係するものによって見せられ、示されます――ただ善だけを、また同時にそれとともに存在するあれやこれやを言ってみなさい、または、それを抽象的に、すなわち密着した何らかの付加するものなしに定義づけてみなさい、するとあなたは、何らかのものでないこと、しかし付加したものとともになら、何らかのものであることを見るでしょう。もしあなたが理性の切っ先を伸ばす(向ける)なら、あなたは、何らかの付加するものなしに善は属性の割り当てが何もないもの、ここから、関係が何もないもの、情愛が何もないもの、状態が何もないもの、一言でいえば、特質が何もないものであることを知覚します――真理も、それが属性(に連結したもの)なしに聞かれるなら同様です。善に関係するその属性(に連結したもの)を、鋭い理性は見ることができます。
[2]しかし、善は無数にあり、どんなものでも、はしごの段階によるかのように、その最大のものへ上昇し、その最小のものへ下降します、そしてまた、それ自体の進行にしたがって、それ自体の性質にしたがって、名前を変えるので、賢明な者以外の他の者が、対象への善と真理の関係を、それらの中のそれらの結合を見ることは困難です。
それでも、以前の節に示されているように(84, 85番)、最初に、全世界のすべてと個々のものは善と真理に関係することが認められる時、真理なしに善は、善なしに真理も存在しないことは、一般的な知覚から明らかです。
[3]孤立した善は存在しない、孤立した真理も存在しないことは、いろいろなものによって説明され、同時に確信されることができます。例えば、これらによって――形なしに本質は存在しない、本質なしに形もないことです。そして、善は本質またはエッセであり、真理はそれによって本質が形成され、そしてエッセ(存在)が存在するようにするものです。
さらに、人間の中に意志と理解力があります。善は意志に属し、そして真理は理解力に属します、そして理解力によってでないなら意志だけでは何も行ないません、理解力だけでも意志からでないなら何らかのものを行ないません。
さらに、人間の中に身体のいのちの二つの源泉、心臓と肺があります。心臓は肺の呼吸なしに、肺も心臓なしに感覚と運動の何らかのいのちを生み出すことができません。心臓は善に、肺の呼吸は真理に関係し、対応も存在します。
[4]心のすべてと個々のものの中に、そして人間のもとの身体のすべてと個々のものの中に同様のものがあります。しかし、さらに進んで確証を生み出すには、ここに〔そのための〕時間がありません。しかし、これらを十分に確証したものが、『神の摂理』の中に見られ、そこに、それらが次の順序で説明されています(3–26番)――

(ⅰ) 全世界はその個々のものとともに、神的愛から神的知恵を通して、すなわち、同じことであるが、神的善から神的真理を通して創造されている。
(ⅱ) 神的善から神的真理は、一つのものとして主から発出している。
(ⅲ) この一つのものは、ある種の映像の中に、すべての被造物の中にある。
(ⅳ) 善は真理と結合していないかぎり善ではない、また真理は善と結合していないかぎり真理ではない。
(ⅴ) 主は、何かが分割されていることを許されない、それゆえ、人間は善と同時に真理の中にいなくて
ならない、あるいは悪と同時に虚偽の中にいなくてはならない。
ほかに、多くのもの。