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結婚愛 526

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526 (3) 転嫁は、それによってこのような転移が意味されるなら、むだな言葉である
悪の中にいるそれぞれの者に、死後、その悪が、同様に善が転嫁されることが示されました(前の524番)。ここから、何が転嫁によって意味されるか明らかです――しかし、転嫁によって悪にいる者への善の転移が意味されるなら、むだな言葉です、直前にも示されているように(525番)、不可能であるからです。
世では人間により、功績はあたかも移されることができるかのようです、すなわち、両親ゆえに子どもに、または好意からある隷属者(被保護者)の友人に恩恵が与えられることです。けれども、功績の善は彼らの霊魂に刻み込まれることができません、外面的なものに結び付けられるだけです――同様のものが人間に、彼らの霊的ないのち(生活)に関してありえません。これは、前に示されたように、植え付けられなくてはなりません。それはもし前に言及された主の戒めにしたがった生活によって植え付けられないなら、人間は、その生まれた悪の中に、とどまります――このことが行なわれる前に、人間は何らかの善を生むことができません。それがもし生まれるなら、岩の上に落ちた弾力のある球のように、直ちにはずみ、はね返されます、または、沼沢地に投げ込まれたダイヤモンドのようにのみ込まれます。
[2]改心されない人間は、霊に関して、ヒョウまたはフクロウのようであり、イバラやイラクサにたとえられることができます。しかし、再生された人間は羊またはハトのようであり、オリーブの木とブドウの木にたとえられることができます。どうぞよろしかったら、どのように人間豹が人間羊に、またはフクロウがハトに、またはイバラがオリーブの木に、またはイラクサがブドウの木に、転嫁によって転移が意味されるなら、その何らかの転嫁によって変えられることができるか考えてみてください。変化が生じるために、ヒョウやフクロウの野獣性が、またはイバラやイラクサの有害性が、前もって取り除かれなければならず、このように真の人間性と無害なものが植え付けられなければならないのではありませんか?
このことがどのように生じるか、主もまた「ヨハネ福音書」で教えられています(15:1–7)。