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結婚愛 525

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525 (2) ある者の善が他の者に転移するのは不可能である
これらが明白であることも、これらの順序から見られることができます――

(ⅰ) それぞれの人間は悪の中に生まれている。
(ⅱ) 主により再生を通して善へ導き入れられる。
(ⅲ) その方の戒めにしたがった生活によって行なわれる。
(ⅳ) それゆえ、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない。

第一、それぞれの人間は悪の中に生まれている、このことは教会でよく知られています。
この悪はアダムからの遺伝であることが言われています、しかし両親からです。両親からそれぞれの者は性質を得ており、それらは性向です。そのようであることは、理性と経験により確信されます。というのは、両親に似ていることが、顔・性質・振る舞いに関して最も近い子どもの中に、またこれらから子孫の中に、現われるからです。ここから、多くの者により一族が知られ、そしてまた彼らの気質(アニムス)について判断されます。それゆえ、両親自身が引き寄せた悪は、接ぎ木によって子孫の中に持ち込まれ、それらの中に人間は生まれています。
アダムの罪が人類すべての者に刻み込まれていると信じられているのは、わずかな者しか自分自身のもとに何らかの悪について熟考しないし、ここからそのことを知らないからです。それゆえ、神の前でないなら現われないように、これほどに深く隠されているという信念を抱いています。
[2]第二、主により再生を通して善へ導き入れられる
再生があること、まただれも再生されないなら、天界に入ることができないことは、主のことばからはっきりと明らかです(ヨハネ3:3, 5)。再生が悪からの浄化またこのようにいのち(生活)の更新であることは、キリスト教界で隠れていることができません、なぜなら、理性もまた、それぞれの者が悪の中に生まれていることを認める時、悪は、汚れのように、石鹸と水によって洗い落とし、ぬぐい取ることができず、後悔(悔い改め)によってであることを見るからです。
[3]第三、人間は主により、その方の戒めにしたがった生活によって善へ導き入れられる
再生のための戒め〔教え〕は五つであり、それらは前に見られ(82番)、それらの間にこれらがあります――悪は避けなければならないこと、悪魔のもの、悪魔からであるからです。善は行なわなければならないこと、神のもの、神からであるからです。主に近づかなければなりません、それらの行なうことへ向けて彼らが引き寄せられるためです。それぞれの者が自分自身で、人間の善が別の場所からかどうか思いめぐらし、熟考すべきです。もし善がないなら、彼に救いはありません。
[4]第四、善は、そのように植え付けられるとき、移されることができない
転移によって、ある者の善が他の者の中へ移されることが意味されます。
前述のことから、人間は再生によって霊に関してまったく新たにされ、このことは主の戒めにしたがった生活によって行なわれることになります。この更新は徐々にでないなら行なわれることができないこと、種から木が、連続的に根づき、増大し、完成されるのとほとんど異ならないことを、だれが見ませんか?
再生を〔これと〕異なって知覚する者は、人間の状態について何かのものを、悪と善について何らかのものも知りません、これら二つのものはまったく対立していること、善は悪が遠ざけられないかぎり植え付けられることができないことです。だれかが悪の中にいるかぎり、本質的に善である善を退けることを知りもしません。それゆえ、もしある者の善が悪の中にいるだれかの中に移されるなら、オオカミの前に投げられた羊のように、ブタの鼻に結び付けられた真珠のようになるでしょう――それらから、転移は不可能であることが明らかです。