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結婚愛 478

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(二十)姦淫とそれらの種類と段階について

478 姦淫について外なるものだけから判断する者はだれも、姦淫に何らかの悪が内在することを知ることができません、というのは、外なるものの中で結婚に似ているからです。
外なるものの審判者は、内なるものが言われ、彼らに、これらの外なるものからその善あるいはその悪を得ていることが言われる時、自分自身に言います、「内なるものとは何か? それらをだれが見るのか? このことは、それぞれの者の知性の領域の上方にのぼることではないのか?」
これらの者は、すべての偽りの善を、本物の意志の善として受け入れる者に似ています。そして、その者は知恵を〔その〕談話の優雅さから眺めます。または、人間そのものを、みごとな衣装から、荘厳な馬車で運ばれることから評価し、善の情愛から判断されるものであるその状態の内なるものからでなく評価します――同じく、そのことは木の果実について、そして何らかの食べる物について、視覚と触覚だけから判断することに似ていて、その美点について味と知識から判断しません――人間の内なるものについて知覚することを決して欲しないすべての者は、そのように振る舞います。
ここから、姦淫の中に何も悪を見ないこと、それどころか、結婚をそれらと同じ寝室の中で結合させる、すなわち、まったく同様のものとする今日の多くの狂気があります。そのことは外なるものの中で似ている外観のためにだけです。
[2]そのようであることは、次の経験からの証明によって確信させられます。

かつて、天使たちによりヨーロッパの世界から、そこの才能の付与されている者・学問のある者・知恵のある者が呼び集められた。結婚と姦淫の違いについて質問され、自分の理解力の理性に諮るよう求められた。協議の後、十人を除いてすべての者が、「公共の(法令の)法律だけが違いをつくる。何らかの利益のためであり、それは確かに知られることができる、しかし、それでも市民の思慮分別によって適するようにされることができる」と答えた。
その後、結婚の中に善の何らかのものを、また姦淫の中に悪の何らかのものを見るか質問された。彼らは、「何らかの理性的な〔=健全な理性に合致した〕悪と善を〔見〕ない」と答えた――何らか罪のものを見るか質問されて、彼らは、「どこに、それが? 行為は似ていないか?」と言った。
これらの答えに、天使たちは唖然とし、「おお、〔この〕時代の愚かさは、どんな、どれほど〔のものなの〕か」と叫んだ。
それらを聞いて、数百人の知恵ある者たちが互いに〔顔を〕向け、声高に笑って、自分たちの間で、「これが愚かであるのか? 他の者の妻を愛することが永遠の断罪に値することを納得させる何らかの知恵がありえるのか?〔そんな知恵はありえない〕」と言った。

[3]けれども、姦淫は霊的な悪、ここから道徳的な悪、そして市民的な悪、そして理性の知恵に正反対に対立するものであること、なおまた、姦淫の愛は地獄からであり、地獄へ戻ること、また結婚愛は天界からであり、天界へ戻ることは、この〔第二〕部である最初の章「淫行愛と結婚愛の対立について」に示してあります。
しかし、すべての悪は、すべての善のように、広さと高さが定められていて、そして広さにしたがってそれに種類があり、高さにしたがってそれに段階があるので、それゆえ、姦淫が両方の次元に関して知られるように、それらを、最初にその種類に、またその後、その段階に分けます。
そのことを次の系列で行ないます――

(1) 三種類の姦淫がある、単一のもの・二重のもの・三重のものである。
(2) 単一の姦淫は、他の妻との独身の男のもの、または他の夫との未婚の女のものである。
(3) 二重の姦淫は、他の者の妻との夫のもの、または逆のものである。
(4) 三重の姦淫は、血縁の者とである。
(5) 姦淫に四つの段階があり、それらにしたがって、それらの属性の割り当て・譴責・死後の転嫁が行なわれる。
(6) 第一段階の姦淫は無知の姦淫であり、それらはまだ理解力に諮ることが、またここからそれらを抑えることができない者により行なわれる。
(7) これらの者により行なわれた姦淫は穏やかである。
(8) 第二段階の姦淫は情欲の姦淫であり、それは確かに理解力に諮ることができる、しかし、それらの瞬間の偶発的な原因のために諮ることができない者により行なわれる。
(9) これらの者により行なわれた姦淫は、その後、理解力によりそれらが賛同されるかあるいは賛同されないことに応じて、罪を帰すことができる。
(10) 第三段階の姦淫は理性の姦淫であり、それらは罪の悪でないことを理解力で確信する者により行なわれる。
(11) これらの者により行なわれた姦淫はきびしい、そして確信にしたがって、罪が帰せられる。
(12) 第四段階の姦淫は意志の姦淫であり、それらについて理解力に諮るに値いするほどのものではなく、それを許されたものや喜ばしいものとする者により行なわれる。
(13) これらの者により行なわれた姦淫は最もきびしい、そして意図された悪として彼らに転嫁され、そして罪あるものとして居座る。
(14) 第三と第四段階の姦淫は、行為で行なわれたにしろ行為で行なわれなかったにしろ、それらの中の理解力と意志の量と質によって、罪の悪である。
(15) 意志の意図からの姦淫と理解力の確信からの姦淫は、人間を自然的・感覚的・身体的にする。
(16) このことは、最後には教会と宗教のすべてのものを自分自身から退けるほどのものになる。
(17) それでも、人間の推理力が、他の者と同じく、授けられている。
(18) しかし、外なるものの中にいる時、その推理力を用いるが、自分の内なるものの中にいる時、誤用する。

今からこれらの説明を続けます。