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結婚愛 463

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463 (1) 二種類のめかけ囲いがあり、それら自体の間に大いなる相違がある。一つは妻と一緒のもの、もう一つは妻から離れたものである
 二種類のめかけ囲いがあり、それらはそれら自体の間で大いに異なります。一つの種類は、男とともに寝る女を寝床に付き添わせ、そして同時に彼女とまた妻と一緒に生活することです。もう一つの種類は、適法にまた正当に妻からの分離の後、その代わりに女を寝床の仲間の中に結びつけることです。
[2]これらの二種類のめかけ囲いは、物事を鋭く、明確に観察する者から、洗われたものから汚れた亜麻布のようにそれら自体の間で引き離されていることが、見られることができます。しかし、混乱して、またぼんやりと観察する者に見られることができません。確かに、結婚愛にいる者はできます、けれども、姦淫愛にいる者はできません。前者はそれらについて日の中にいます、けれども、後者は性愛からのすべての派生物について夜の中にいます――しかしそれでも、姦淫にいる者は、自分自身の中に自分自身から、それらとこれらの派生物の相違を見ることができます、しかし、他の者から、それらを聞く時でないなら決してできません。なぜなら、理解力を高揚させる同様の能力が、それは貞潔な夫婦のもとにありますが、姦淫者のもとにもあるからです。しかし、姦淫者は、他の者から聞いた相違を認めます、それでも、自分の理解力を自分の快楽の不潔なものに浸す時、それを抹殺します。というのは、貞潔と不貞、そして健全さと狂気は、一緒に存在することができません、しかし、分離する時に、理解力で区別されることができるからです。
[3]かつて、霊界で、姦淫を罪と見なさなかった者が、私通・愛人を持つこと・二種類のめかけ囲い、そして姦淫の段階の間の相違を一つでも知っているか私により質問されました。彼らは、一方はもう一方のもののようであることを言いました――結婚もまたそうなのか質問され、そして、聖職者からのだれかがいないかあたりを見回しました。いない時、本質的に似たものであることを言いました。
 自分の思考の観念の中で、姦淫を罪と見なした者は異なっています。これらの者は、知覚に属す内的な観念の中で、相違を見ます、しかし、まだそれを区別することと見分けることを学んでいない、と言いました。
 私は、その相違が、その微細なものに関して、天界の天使により知覚されていることを断言することができます。
 それゆえ、それら自体の間に対立した二つのめかけ囲いが存在し、一つはそれから結婚愛を破壊する、もう一つはそれから破壊しないことを明らかにするために、断罪される種類を最初に述べ、そしてその後、もう一つの断罪されないものを述べます。