カテゴリー

結婚愛 449

448◀︎目次▶︎450

449 私通の情欲が姦淫の情欲でないことは、だれもが通常の知覚から見通すでしょう。
 どの法律が、どの裁判官が、姦通者と同様の罪悪を私通者に帰すのですか?
 このことが通常の知覚から見られる理由がどこからなのかは、姦淫のように、私通が結婚愛に対立したものではないからです――自然的なものの中に霊的なものがたくわえられることができるように、私通の内部に結婚愛がたくわえられることができます。それどころか、さらにまた、自然的なものから実際に霊的なものがころがり出ます。霊的なものがころがり出る時、それを自然的なものは、木を樹皮のように、そして剣を鞘のように取り巻き、そしてまた、暴力に対して保護するものとして霊的なものに仕えます。
 これらから、〔異〕性へ向かう自然的な愛は〔異〕性からのひとりに向う霊的な愛に先行することが明らかです。けれども、もし私通が自然的な性愛から現われても、結婚愛が主要な善として眺められ、望まれ、求められるかぎり、それもまたぬぐい取られることができます。
[2]結婚愛に対立し、その破壊者である姦淫の好色なまたわいせつな愛とまったく異なっていることは、前章の「淫行愛と結婚愛の対立について」の中に示されています。それゆえ、もし姦淫者がいろいろな理由のために故意にまたは確信から結婚の寝床(夫婦の契り)に入るなら、逆のものが生じます。内部で自然的なものがその好色なものとわいせつなものとともに隠れ、外部でその霊的なものの外観がおおいます。これらから、制限された私通の情欲は、理性によって、姦淫の情欲と比べた観点から、極北の領域の中の真冬の冷気に比べて最初の暖かさのようであることを見ることができます。