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結婚愛 119

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119 教会が「母」と呼ばれていることは、これらの箇所から明らかです――

エホバは言われた、「あなたがたの母と争え。彼女はわたしの妻ではない、わたしはその夫ではない」(ホセア2:2, 5)。
あなたは、自分の夫を嫌っている母の娘(エゼキエル16:45)。
あなたがたの母の離縁状はどこにあるのか? 彼女をあなたがたが離縁した(イザヤ50:1)。
あなたの母は……水の近くに植えられた実りのよいブドウの木のようだった(エゼキエル19:10)。

. これらはユダヤ教会についてです。

イエスは自分の手を弟子たちへ向けて伸ばして、言われた、「わたしの母とわたしの兄弟は……神のことばを聞いて、それを行なう者です」(ルカ8:21, マタイ12:48, 49〔, 50〕, マルコ3:33–35)。

「主の弟子たち」によって教会が意味されています。

イエスの十字架のもとに、その方の母が立った……母と彼女の傍らにいる弟子を見ているイエスは、自分の母に言われた、「女よ、見よ、あなたの息子」。また弟子に言われた、「見よ、あなたの母」。それゆえ、その時から弟子は彼女を自分自身のものとして受け入れた(ヨハネ19:25–27)。

このことによって、主がマリアを「母」として認めず、〔母が〕「教会」であることが意味されます。それゆえ、彼女を女、弟子の母と呼ばれました。〔彼女が〕この弟子の母、すなわち、ヨハネの母〔と呼ばれたのは〕、彼が仁愛の善に関する教会を表象したからです。これら〔仁愛の善〕は、教会の結果そのものです――それゆえ、彼は彼女を自分自身のものとして受け入れたことが言われます。
『啓示された黙示録』の中に、ペテロが真理と信仰を、ヤコブが仁愛を、ヨハネが仁愛の働きを表象したこと(5, 6, 790, 798, 879番)、また十二の弟子たちが一緒に、教会をそのすべてのものに関して、表象したこと(233, 790, 903, 915番)が見られます。