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結婚愛 134

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134 その時、最初に北の者たちが自分の見解を明らかにし始めた。「人間は知識なしに、すべてのものを受けることができるように生まれている。しかし、もし知識の中に生まれたなら、何も受けることができない、それらを除いて、その中に生まれている、またその時、自分自身に何も自分のものとすることができない」と言った。彼はこのたとえによって説明した——人間は最初に土地のように生まれている、それに何も種は植え付けられていないが、それはそれでもすべてのものを受け、そして種に芽を生じさせ、実を結ばせることができる。しかし、獣は、すでに植物の生長している、そして草と草本に満ちた土地のようであり、それは、植え付けられた以外の他の種を受けない。もし他のものが植えられたなら、それらを枯らす。ここから、人間は多くの年の間に成熟し、それらの中で、土地のように耕され、すべての種類の作物・花・木のように生じることができる。けれども、獣はわずかな年の間に成熟し、その間、生得のものへと発達する以外に他のものになることができない。
[2]その後、西の者たちが話した、人間は獣のような知識に生まれていない、しかし能力と性向に生まれていると言った。知ることへの能力と愛することへの性向である。知ることだけなく、理解し、賢明になることへの能力に生まれている。そしてまた、自分自身と世のものだけでなく、神と天界のものを愛する最も完全なものへの性向に生まれている。したがって、人間は、両親から、単なる外なる感覚で生き、最初は内なる感覚は何もない生命体に生まれている、その理由は、継続して、最初に自然的に、その後、理性的に、最後に霊的に生き、人間になるためである。もし獣のような知識と愛の中に生まれたなら、〔このことは〕生じないであろう。というのは、生来の知識と愛の情愛はその発達を制限する、しかし、生来の能力と性向は何も制限しないからであり、それゆえ、人間は知識、理解力また知恵を永遠に完成することができる。
[3]南の者たちが続き、自分の発言を述べて、言った、「何らかの知識を自分自身から持つことは人間に不可能である、しかし彼に生来の知識は何もないので、それを他の者から得る。知識を自分自身から何も得ることができないので、愛も何も得ることができない、知識のないところに、愛がないからである。知識と愛は分割できない仲間である、意志と理解力、または情愛と思考、それどころか、本質と形以上にさらに分離されることができない。それゆえ、人間が他の者から知識を得るように、そのように、愛はそれ自体にその仲間のように知識に結びつける。
それに自体に結びつける普遍的な愛は、知り、理解し、賢明になる愛である。これらの愛は人間にだけあり、獣に何もなく、神から流入する。
[4]私たちは西からの私たちの仲間に同意する、人間はどんな愛の中にも生まれていないこと、ここからどんな知恵の中にもなく、単に愛することへの性向の中に、ここから自分自身からでなく、他の者から、すなわち、他の者を通して知識を受け入れることの能力の中に生まれていることである。この者も何らかのものを自分自身から受け入れないので、他の者を通してと言われる。しかし、起源的に神からである。
私たちは北への私たちの仲間ともまた一致する、人間は最初に土地のように生まれている、それに何らかの種が植え付けられていない、しかしそれに高貴なものも低級なものもすべてのものが植え付けられることができることである。
これらに私たちは、獣は自然的な愛の中に、ここからそれら対応する知識の中に生まれていること、それでも知識から何らかのものを知らず、考えず、理解せず、賢明にならない、しかしそれらによって自分の愛により、ほとんど盲人のように、街路を通って犬により導かれることを付け加える、というのは、理解力に関して盲目であるから。または、むしろ夢遊病者のように、その者は盲目の知識から、理解力を眠らせることを行なう」。
[5]最後に東の者たちが話し、言った。「私たちは、私たちの仲間が話したことに同意する、人間は自分自身から何も知らないこと、しかし他の者から、また他の者を通してであり、知り、理解し、賢明になるすべてのものは神からであること知り、認めるためには、人間は主により、みごもり、産まれ(nascor)、生まれ(genero)、そしてその方の映像と似姿にされること以外にできないことである。なぜなら、愛と仁愛のすべての善は、認め、信じることによって、主の映像になるから、主から受け、受けている知恵と信仰のすべての真理は、少しも自分自身からでないからである。また、それらを自分自身からのように本質的に賢明になることによって、主の似姿である。このことを感じる知識の中に生まれていないからである、しかしそれらを受ける、また受けたものを、彼に自分自身からのように見える。このように感じることもまた、人間であり、獣でないために神から人間に与えられ、そのことによって、自分自身からのように意志し、考え、愛し、知り、理解し、賢明になり、知識を受け、それらを知性の中へ高め、それらの役立ちによって知恵の中へ高めるからである。このように主は人間をご自分に結合され、人間は自分を主に結合する。
このことは、主により人間が全面的な無知の中に生まれているように備えられなかったなら、生じることができない」。
[6]その後、すべての者は、討議から結論が行なわれ、それを言うことを欲し、このことが行なわれた——

人間は、すべての知識の中にやって来て、知性の中に、これを通して知恵の中に進むことができるように、知識が何もない中に生まれている。また、すべての愛の中にやって来て、知性からの知識の適用によって、隣人に対する愛によって、主への愛へ、このように主へ結合され、そのことによって人間になり、永遠に生きることができるように、愛が何もない中に生まれている。