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結婚愛 432

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432 (8) 淫行愛は人間をますます人間でなく、男を男でなくする、結婚愛は人間をますます人間とし、男とする
 愛とその知恵の歓喜について第一部で、光の中で理性の前に示されたすべてと個々のものにより、結婚愛が人間をつくることを説明し、証明しました――例えば、

(ⅰ) 真の結婚愛にいる者は、ますます霊的になる。ある者が霊的であればあるほどますます人間である。
(ⅱ) ますます賢明になる。ある者が賢明であればあるほどますます人間である。
(ⅲ) 彼のもとで、主を見る、または直覚で認めるようにまでも、ますます心の内的なものが開かれる。ある者がその視覚の中にまたはその認識の中にいればいるほどますます人間である。
(ⅳ) ますます道徳的で市民的になる、霊的な霊魂が彼の徳性と公民性に内在するからである。ある者が道徳的な市民であればあるほどますます人間である。
(ⅴ) さらにまた、死後、天界の天使になる。そして、天使は本質と形で人間であり、そしてまた、本物の人間性がその顔の中に、話し方から、振る舞いから、輝き出る。

 これらから、結婚愛はますます人間をつくることが明らかです。
[2]姦通者には、姦淫と結婚の対立そのものから反対であり、それについて、本章で〔すでに〕扱い、また扱っており、証明を続けます――例えば、

(ⅰ) 霊的でなく、最高度に自然的な者である。そして霊的なものから分離した自然的な人間は、理解力に関してだけ人間であるけれども意志に関して人間ではない。この意志を身体に、肉の欲望に浸す、その時にその理解力も集められる。この者が半分の人間でしかないことを、その者自身が、自分の理解力の理性から、それを高揚させるなら見ることができる。
(ⅱ) 姦通者が、地位の高い者や学問で名高い者、品行方正な者との交わりの中にいる時、話し、そしてまた身振りの中でないなら、賢明でなく、しかし、独り自分自身のもとで、神的なものと教会の聖なるものを価値のないものと思って、また生活の道徳的なものを慎みのないものと不貞なもので汚して、狂っていることは、姦淫についての章で証明される――身振りで話すこのような者は、単に外なる姿に関して人間であり、内なる形に関して人間でないことを、だれが見ないか? 
(ⅲ) 姦通者はますます人間でなくなることは、地獄の中で彼らを見た観察が、私にはっきりとした確信として役立った。というのは、そこに悪鬼(ダイモーン)がいて、その者は、天界の光の中で見られる時、その顔は吹き出物のようであり、その身体はせむしのようで、その話し方はぞんざいであり、身振りは芝居じみていたからである。

[3]しかし、このような者は、目的と確信からの姦通者であることを知らなければなりません。けれども、熟慮からでない者は〔そのような〕姦通者ではありません。
 なぜなら、姦通者に四つの種類があるからであり、それらについて、姦淫とそれらの段階についての章に〔見られます〕――目的からの姦通者は、意志の情欲からの者です。確信からの姦通者は、理解力の信念からの者です。熟慮からの姦通者は、感覚の誘惑からの者です。熟慮からでない姦通者は、理解力に相談する能力のない、または〔その〕自由の中にいない者です。
 前の二種類の姦通者はますます人間でなくなります。しかし、後の二種類の姦通者は、その誤りから去り、その後、賢明になるほど人間になります。