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結婚愛 431

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431 (7) 教会の中の不潔なものも、そこの清潔なものと同様である
その理由は、教会は、天界の主の王国に対応する地上のその方の王国であり、そしてまた、一つのものとなるために主はそれを結合しているからです――さらにまたそこにいる者を、天界と地獄を分離するように、愛にしたがって彼らを分離します。淫行愛の不謹慎でわいせつさの中にいる者は、自分自身を地獄からの似た者に結びつけます。しかし、結婚愛の慎み深いまた貞潔な快さの中にいる者は、主により天界からの似た天使の仲間とされます――これらの者の彼らの天使たちは、人間のもとで確信した心とはっきりとした目的の姦淫者のそばに立つ時、その悪臭を感じ(それらについては前の430番)、少し引き下がります。
[2]糞と汚物との不潔な愛の対応のゆえに、イスラエル民族に、神エホバが彼らの宿営の真ん中を歩いて事柄の裸を見ないように、戻らないように、自分自身にへらを持って、それで自分の糞をおおうように命じられました(申命記23:13, 14参照)。このことが命じられたのは、イスラエル民族の宿営が教会を表象し、そしてその不潔なものが淫行の好色に対応し、「神エホバが彼らの宿営の真ん中を歩くこと」によって天使たちとのその方の臨在が意味されたからです。「おおう」ことの理由は、地獄の中のすべてのそれらの場所はおおわれ、閉ざされているからであり、それゆえ、さらにまた、「事柄の裸を見ないように」と言われています。
地獄の中のすべての場所が閉ざされていることを見ることが与えられました。そしてまた、開かれるとき、それは新しい悪魔が入るとき起こり、ここから、私の胃に苦痛のような不快を引き起こしたような悪臭が発散します。驚くべきことですが、それらの腐った臭いが、糞がブタに快いように、そのように彼らに快いものです。
これらから、教会の中の不潔なものが淫行愛からであること、そこの清潔なものが結婚愛からであることは、どのように理解されなければならないか明らかです。