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結婚愛 126

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126 (7) それゆえ、天界の天使と地上の人間の結婚の中に、主との夫の対応、教会との妻の対応はない
これらは今言われたことからいえます――それでもこれらに、真理が教会の第一位のものであるように見えることを付言しなければなりません、その最初の時に存在するからです。教会の高位聖職者たちが善のものである仁愛よりも真理のものである信仰にシュロの枝を与えたのは、この外観からです。同様に、学者たちは意志に属す情愛よりも理解力に属す思考に〔シュロの枝(勝利)を与えました〕。そのために、何が仁愛の善が、何が意志の情愛であるか、土まんじゅう(墓)かのようにその中に隠されて横たわります、そしてまたある者たちにより、死んだ者がよみがえらないように、これらに、土が投げかけられました。それでも、信仰の善が教会の第一位のものであることは、開かれた目で自分の理解力の中で天界からの道を閉ざさなかった者から見られることができます、それ〔が閉ざされること〕は、〝信仰だけが教会をつくる、思考だけが人間をつくる〟という確信によってです。
さて、仁愛の善は主からであり、信仰の真理がそれらからのように人間のもとにあるので、これら二つのものが人間のもとに主の結合、主との人間の結合のようなものをつくります、それは、主のことば、「 その方は彼らの中に、また彼らはその方の中にいる」(ヨハネ15:4, 5)によって意味されるような結合であり、これが教会であることが明らかです。