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結婚愛 235

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235 (1) 霊的な熱があり、霊的な冷淡がある。霊的な熱は愛であり、霊的な冷淡はその剥奪である
 霊的な熱は霊界の太陽から以外の他のところからではありません。というのは、そこの太陽は主から発出していて、その方はその真ん中におられ、また主からであるので、その太陽はその本質では純粋な愛であるからです――この太陽は、天使たちの前に火に見え、まったくそのように、人間の前に私たちの世界の太陽に見えます。火に見えるのは、愛は霊的な熱であるからです。
 その太陽から熱も光も発出します。しかし、太陽は、それは純粋な愛であるので、ここからの熱はその本質では愛であり、光はここからその本質では知恵です。ここから、霊的な熱がどこからなのか、また愛であることが明らかです。
[2]けれども、霊的な冷淡がどこからなのかもまた、わずかばかり公けにします――それは自然界の太陽から、そしてその熱と光からです。自然界の太陽は、その熱と光をそれ自体の中に、〔霊的な〕太陽の中の霊的な熱と光を受け入れるために、また大気によってこれらを地上の最後のものにまで与えるために、主のものである目的の結果をひき起こすために、そしてまた、適切な霊的な衣服で、すなわち、物質で着せるために、自然界で最終的な目的を働くために創造されました。これらは、霊的な熱が自然的な熱に連結されるとき生じます――しかし、霊的な熱が自然的な熱から分離される時、正反対のものが生じます、それは自然的なものを愛し、霊的なものを退ける者のもとに生じます。これらの者のもとに霊的な冷淡が生じます――創造から調和している二つのそれらの愛が、そのように対立したものになるのは、その時、主人である熱が、しもべである熱になるからです、そしてその逆にもなります。また、このことが生じないように、主人である霊的な熱はその家系から去ります。その時それらの主体の中で、霊的な熱は正反対のものになるので冷えます。
 これらから、何が霊的な冷淡か、また霊的な熱の剥奪であることが明らかです。
[3]今、言われた中で、熱によって愛が意味されます、その熱は生きている主体の中で愛として感じられるからです。
 私は霊界で聞きました。単に自然的な霊は、愛の状態にいるある天使たちの脇に寄り添う時、同様に、地獄の霊は、天界からの熱が彼らに流入する時、強烈な冷たさで凍ること――それでも自分たちの間で、天界の熱が彼らから断たれるとき、大いなる熱で燃えることです。