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結婚愛 276

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276 (5) それでも結婚生活は世で、いのちの終わりまで両方の者に持続されなければならない
そこに本物でない結婚愛がなくても、それでも装わなければ、すなわち、存在するかのように見られなければならない必要性を、役立つことを、このことの真理がさらにはっきりと示されるために、理性の前に示します。もし始められた結婚が生涯の終わりまでも取り決められたものでなく、しかし、意のままに解消できたなら、イスラエル民族のもとにあったように、異なっていたでしょう、その民族はどんな理由からでも妻を離縁する自由を自分自身に主張しました。「マタイ福音書」の次のものから明らかです――

パリサイ人が近づき……イエスに、「人間に妻を離縁することが許されないのは、どんな理由からですか?」と言った。そのときイエスは、淫行のためでないなら、妻を離縁し、他の女を得ることすることは許されないことを答えた。彼らは、それでもモーセは、離婚の自由を与えたこと、また離縁することを命じたこと話した。また、弟子たちは言った……「もし、人間にとって妻との〔離縁の〕理由がこのようなものであるなら……結婚生活を結ぶことは都合のよいことではありません」(19:3–10)。

[2]そこで、結婚の契約が生涯の契約であるとき、夫婦の間で愛また友情の外観が必要であることがいえます。
結婚生活が世で、いのちの終わりまで両方の者に持続されなければならないことは、神的な律法からです、これらからであるので、さらにまた理性的な法律から、ここから市民的な法律(民法)からです。前のように、神的な律法から、淫行のためでないなら、妻を離縁し、他の女を得ることはことが許されません。理性的な法律から許されないのは霊的な法律に基づくからです、というのは、神的な律法と理性的な法律は一つの法律であるから。これ〔神的な律法〕とそれ〔理性的な法律〕と一緒に、すなわち、これ〔神的な律法〕によってそれ〔理性的な法律〕から、結婚の解消、すなわち、妻が死ぬ前に夫の意のままに妻を追い出すことによる多くの無法なものを、また社会の破壊を見ることができます。それらの無法なものと社会の破壊に関して、九つの王国から集められた者から結婚愛の起源について発表されたメモラビリアの中に多くのものを見ることができます(103–115番)。それらに多くの論証を積み重ねることは必要とされません。
しかし、これらの原因は、その原因のために分離が許されます(それらについては前の252–254番)、そしてまた、めかけ囲いの妨げとはなりません(それらについては第二部)。