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結婚愛 128

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128 (9) みことばは、主からであり、こうして主であるので、結合の手段である
みことばは人間との主の、また主との人間の結合の手段であることは、それはその本質で、神的善と結合した神的真理、そして神的真理と結合した神的善であるからです。この結合が、みことばのすべてと個々のものの中に、その天的な意味と霊的な意味の中にあることは、『啓示された黙示録』に見られます(373, 483, 689, 881番)。そのことから、みことばは善と真理の完全な結婚であることがいえます――それは主から、その方からであるのでその方でもあり、人間がみことばを読み、それから真理を引き出す時、主は善を接合することになります。というのは、人間は情愛の善を見ないからであり、理解力からそれを読み、そして理解力はここから自分のものである真理でないなら汲み取らないからです。これらに善が主により接合されることは、理解力が照らされる時、流入することを快さから感じます。しかし、このことはそれを賢明になる目的で読む以外の他の者には内的に生じません、賢明になる目的は、そこの本物の真理を学んで獲得することを欲する者に、このことによって自分自身のもとに教会をつくることを欲する者にあります――けれども、それを単に博学との称賛のために読む者、なおまた、単に読むことあるいはそれを聞くことが、信仰を吹き込み、救いに貢献するという見解から読む者は、主から何らかの善を受けません、これらの者には単にそこの言葉から自分自身を救う目的があり、それら〔の言葉〕に、真理からの何らかのものは内在しないからです。博学から卓越する目的がある者に何らかの霊的な善は結合されません、しかし、世の称賛からの自然的な快さがあります。
みことばは結合の手段であるので、それゆえ、それは旧い契約と新しい契約と呼ばれます、契約は結合を意味します。