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結婚愛 291

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291 (20) 夫婦の間に、一方が服従し、ここからもう一方が服従させるいろいろな種類の見せかけの愛と友情が存在する
 結婚の最初の時の過ぎ去った後、権利と支配力について張り合うことが起こります。権利について、取り決められた契約の規定にしたがって対等であり、それぞれの者に自分の職務からの本分の尊厳があります。支配力について〔の張り合いは〕、男により男であるので家のすべての事柄の中で優越性が要求されること、また女に女であるので、劣ることがあり、〔このことは〕今日の世で知られたものの間にあります。
 今日、よくあるこのような張り合うことは、真の結婚愛について意識が何もないことからは、またその愛の至福について感覚の知覚が何もない以外に他のところからは流れ出ません。その愛の代わりにそれらの不在から欲望があり、それはその愛を装っています。この欲望から、本物の愛から遠く離れ、支配力を求めることが流れ出て、それはある者に支配する愛の快さから内在し、ある者に結婚前に知識を持っている女からであり、ある者に燃えているものです。
[2]この求めることの中にいる男たちは、張り合って、支配の力を得た後、妻たちを、それぞれの者が自分自身のもとの生来のまた隠れている彼らの求めることの段階と性質にしたがって、あるいは自分の支配の下の所有物に、あるいは自分の自由裁量の従順な行為に追いやり、あるいは奴隷します。けれども、もし妻たちはこの求めることの中にいるなら、張り合って支配の力を得た後、自分の夫たちをあるいは自分自身に対等の支配の下に、あるいは自分の自由裁量の従順な行為に追いやるか、あるいは奴隷します。しかし、妻たちは、彼らから支配のファスケス(権威標章)を得た後、結婚の愛を装う欲望にとどまるので、もし自分の支配力を道義に適うものを超えて道徳的な悪にまで拡張するなら、正当な分離の法律に、またその恐れに抑制され、それゆえ、夫たちとの社交的な生活を送ります。
[3]けれども、女主人の妻と奴隷の夫の間の愛と友情がどんなものが、なおまた主人の夫と女奴隷の妻の間でどんなものが存在するか、わずかな言葉で述べられることができません。実に、もしそれらの相違が詳細に集められ、これらが列挙されるなら、ページが足りないでしょう――というのは、いろいろであり、異なっているからです。男のもとの求めることの性質にしたがっていろいろであり、妻のもとのいろいろなものも同様です。また女のもとにあるそれらから異なったものが男たちにあります――というのは、このような男たちは愚かなものでないなら愛の友情が何もない中にいるし、また女たちは欲望からのにせの愛の友情の中にいるからです。
 けれども、どんな技巧で妻たちは男たちの上の力を自分自身に得るか、今、次の節で言います。