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結婚愛 466

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466 (4) これは淫行であり、それによってキリスト教徒生活の宝である結婚のものは失われる
これは単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも、結婚愛にさらに対立している淫行であり、キリスト教徒に出生から内在し、賢明な者の理性の前に力強い論証で確信させられることができる結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪です。
単純な姦淫と呼ばれる普通の淫行よりも結婚愛にさらに対立している淫行である妻との同時のまたは結合されためかけ囲いである最初のものについては、これらから見られることができます。普通の淫行すなわち単純な姦淫に結婚愛に類似している愛は内在しません、なぜなら、肉の単なる興奮であり、直ちにさめ、また時々、彼女への愛の痕跡を自分自身の後ろに残さないからです。それゆえ、この沸騰する好色は、もし意図からまたは確信から生じないなら、またもし姦通者がそれから後悔するなら、結婚愛から何らかの少量のものを取り去りません――一夫多妻の淫行は異なっています。これに、結婚愛に類似している愛が内在します、というのは、さめず、散らされず、沸騰の後、前のもののように、無の中に立ち去らず、しかし残り、新しくなり、それ自体を確立させ、またそれだけ妻への愛から取り去り、そしてその代わりに、妻に対して冷淡をひき起こすからです。というのは、その時、淫婦のめかけを、もし好むところなら、自然的な人に生来のものである引き下がることができる意志の自由から、愛らしいものとして見、これはここから快いものであるので、その愛を支持するからです。そして、なおまた、めかけは、妻よりも誘惑するものであり、さらに近い結合です。しかし、逆に同棲の義務から、生涯の契約によってそれが負わされているとき、妻に愛らしいものを見ません。結婚に対する愛が等しい程度で冷たくなり、彼女自身の価値がなくなり、そこへひとりの淫婦に対する愛が熱くなり、彼女〔淫婦〕が価値あることが明らかです。
[2]もう一つものについて、妻と同時に存在するまたは結合されためかけ囲いが、キリスト教徒に出生から内在する結婚の生活へのすべての能力と性向の剥奪であることは、これらから見られることができます――配偶者に向かう愛がめかけへ向かう愛の中へ移されば移されるほど、それだけ配偶者に対するそれ〔愛〕は、今、前に示されたように、取り去られ、消耗され、空にされます。このことが彼の自然的な心の内的なものを閉ざすこと、また彼の低いものの露顕によって生じることは、キリスト教徒のもとの〔異〕性からのひとりを愛することへの性向の座から明らかにすることができ、その座は彼の最内部の中にあり、ふさがれることができます、しかし、根絶されることができません――〔異〕性からのひとりを愛することへの性向は、そしてまたその愛を受け入れることへの能力は、キリスト教徒に出生から植え付けられており、その理由は、その愛は主おひとりからであり、宗教のものとされていて、キリスト教界で主の神性が認められ、崇拝され、そしてその方のみことばから宗教があるからです。ここから世代から世代へその接ぎ木すること、そしてまたその移植があります。
キリスト教徒のその結婚のものは一夫多妻の淫行によって滅びることが言われました。しかし、キリスト教徒の一夫多妻のもとに閉ざされ、中途妨害されること、しかしそれでも、祖父や曾祖父の似ているものが孫やひ孫の中に生じるように、その子孫の中に生き返されることが意味されます――ここから、その結婚のものがキリスト教徒の生活の宝、また、前に(457, 458番)、人間の生活の宝、そしてキリスト教の宝庫と言われています。
[3]キリスト教徒のもとのその結婚のものが、一夫多妻の淫行によって、破壊されることは、イスラム教徒の一夫多妻のようにめかけと妻を等しく愛することができないことからはっきりと明らかです。しかし、めかけを愛するか、または彼女に熱くなればなるほど、それだけ妻を愛しません、またはそれだけ彼女に冷たくなります。また嫌悪すべきものであることは、主をもまた単に自然的な人間として、マリアの子としても、同時に神の子としてでなく、心で認めれば、認めるほど、そしてまた、それだけ宗教をつまらないものと見なします。
しかし、それは、めかけを妻に引き寄せ、両方の者を実際に自分自身に結合する者に生じることをよく知らなければなりません。適法な・正当な・真に重大な理由から自分自身を分離し、実際の愛に関して自分自身を妻から切り離し、そして享受のための女を置く者にまったく〔あてはまら〕ないことです。
この種類のめかけ囲いについて、今から続けます。