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結婚愛 153a

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153a (11) 貞潔は単に外なるいろいろな原因のために姦淫を慎む者について述べられることができない
多くの者が、単に身体で姦淫を断つことが貞潔であることを信じています、そのときそれでも、それを同時に霊でも断つのでないなら貞潔ではありません。ここで情愛と思考に関する彼の心が意味される人間の霊が、貞潔と不貞をつくります、というのは、ここから身体の中につくるから。というのは、身体は完全に心すなわち霊のようであるからです――ここから、霊からでなく身体で姦淫を断つ者は、身体〔的な原因〕から霊でもまた断つ者は、貞潔ではないことがいえます。
人間がそれを身体〔的な原因〕で、そしてまた、身体から霊で断念させるようにする多くの原因が存在します。しかしそれでも、霊から身体でそれをやめない者は不貞です。なぜなら、主は言われるからです、

だれかが他の女を、彼女をほしがるように眺めるなら、すでに自分の心の中で、彼女と姦淫を犯しています(マタイ5:28)。

[2]身体だけで姦淫を断つすべての理由は、列挙されることができません、なぜなら、結婚の状態にしたがって、そしてまた、身体の状態にしたがってさまざまであるからです――というのは、市民の法律とその罰の恐れから断つ者がいるからです。名声とここから名誉が失われる恐れから、それからの病気の恐れから、家で妻からがみがみ言われ、ここから生活の安らぎを失う恐れから、夫または親類からの復讐の恐れから、そして召使いからのむち打ちの恐れから、なおまた、貧乏または貪欲(しみったれ)、または、あるいは病気からあるいは濫用から、あるいは老齢から、あるいは(性的)不能から起こった虚弱からから断つ者がいます。
さらにまた、これらの者の間に、その者は身体でできないかまたはあえてしないで、それゆえ、霊でもまた姦淫を、このようにそれに対して道徳的に批難し、結婚のために(賛成して)話す者がいます――しかし、これらの者は霊からではなく、宗教から霊からではなく、姦淫を忌み嫌うなら、それでも姦淫者です、なぜなら、たとえ身体でなくても、それでも霊でそれを犯すからです。それゆえ、死後、霊となる時、公然とそれに賛成して話します。
これらから、不信心な者も姦淫を害として避けることができること、しかしそれを罪として避けることは、キリスト教徒でないならできないことが明らかです。
さて、これらから〝貞潔は単に外なるいろいろな原因のために姦淫を慎む者について言われることができない〟という〔ここの〕主題の真理が明らかです。