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結婚愛 531

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531 (6) このようにそれぞれの者に結婚愛が転嫁される
結婚愛が見られず、それでも結婚愛のある結婚が存在します。また、結婚愛が見られ、それでも結婚愛のない結婚が存在します――両者に多くの原因があり、部分的に、真の結婚愛についての章から(57–73番)、そして冷淡と分離の原因について(234–260番)、また、結婚の中の愛と友情の外観の原因について(271–292番)から知ることができます――しかし、転嫁について外なるものの中の外観からは何も結論できません。
結論に導く唯一のものは、結婚のもの(結婚への性向)です、それは人間がどんな種類の結婚の状態にいても、ある者の意志の中に宿り、守られます――その結婚のものは(天秤ばかりの)針のようであり、それによってその愛がはかられます。というのは、ひとりの妻とひとりの夫の結婚のものは人間の生活の宝、キリスト教の宝庫であるからです(前の457, 458番に示されているように)。
そのようなものであるので、その愛はひとりの配偶者のもとに存在することができ、同時に他の者もとに存在できません。その愛は、人間自身がそれについて何らかのものを気づかないように深く秘められて隠れていることができます。そしてまた、人生行路の中に刻み込まれることができます。
その理由は、その愛がその歩みの中で宗教と同行し、そして宗教は、主と教会の結婚であるので、その愛の初期の段階と接ぎ木であるからです――それゆえ、結婚愛はそれぞれの者に、死後、彼の霊的で理性的な生活にしたがって転嫁されます。また、その者にその愛が転嫁され、死の後、どんな種類の結婚が世で彼にあった〔にしても〕天界で結婚が備えられます。
そこで、これらから、結びとなります、「その者に結婚愛があるかあるいはないか何らかのものについては、結婚の外観からでも淫行の外観からでもなく結論すべきである」。それゆえ、

さばいてはいけません、あなたがたが断罪されないためです(マタイ7:1)。