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結婚愛 232

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23 議論家(理屈屋)たちについて、彼らは「おお、なんと学識のある者」と叫ばれた

232 (第二のメモラビリア——)
数時間後、私は再び〝低い地〟から、最初の声、「おお、なんと学識のある者、おお、なんと学識のある者」を聞いた——私は天使たちのだれがいるのか見回した。見よ、「おお、なんと学識のある者」と叫んだ者たちの上に直接に天界にいる天使たちがいた。
叫びについて彼らと話した。天使たちは、「彼らは、単に存在するか、あるいは、存在しないか推論し、まれに、そのようであることを考える学識のある者たちでした」と言った。「それゆえ、吹き、通り過ぎる風のようです。髄のない木のまわりの樹皮のような、または種のないアーモンドのまわりの皮のような、または果肉のない実のまわりの表皮のようです。なぜなら、彼らの心は内的な判断がなく、単に身体の感覚に結合されたものであるからです。それゆえ、感覚そのものが判断しないなら、何も結論することができません。一言でいえば、単なる感覚的なものであり、私たちから議論家(理屈屋)と呼ばれます——議論家(理屈屋)と呼ばれるのは、決して何らかのものを結論しないで、何でも聞くものを〔主題に〕取り上げ、存在するかどうか、常に反駁して論争するからです。真理そのものを攻撃し、論争の中に入れて、このようにそれら真理を引き裂くこと以外に、何も愛しません——世で、これらの者がすべての者よりも自分自身を学識のある者と信じています」。
[2]これらを聞いて、私は天使たちに、私を彼らへ導くよう懇願した。
空洞へ導かれ、そこから階段が〝低い地〟へ向かっていた、私たちは降った、私たちは「おお、なんと学識のある者」の叫びに従った。見よ、一つの場所に数百人の者が立って、〔足で〕地面を打っていた。
最初、これに驚いて、私は質問した、「なぜこのように立っているのですか、足の裏で地面を打っているのですか?」 私は〔加えて〕言った、「このように、足で地面に穴をつくることができます」。
これを天使たちはほほ笑み、言った、「このように立っていることが見られるのは、何らかの事柄について、そのようであることを単にそのようであるかどうか〔以外に〕何も考えず、そして論争するからです——思考がその先へ進まないとき、単に地の一つの土くれを踏みつけ、進まないように見えます」。
しかし、その時、私は集会へ近づいた、見よ、見苦しくない顔の、飾られた衣服の人間が見られた。しかし天使たちは、「固有の光の中でこのような者に見られます、しかし、もし天界からの光が流入するなら、顔は、そしてまた衣服も変えられます」と言った——そのように行なわれた。その時、顔は黒ずみ、黒い麻布の衣服で見られた。しかしこの光が引っ込められたとき、最初のように見られた。
間もなく、私は彼らからのある者と話し、私は言った、「私はあなたのまわりの群衆の『おお、なんと学識のある者』という叫びを聞きました。それゆえ、学識の最高のものである事柄についてあなたがたと何らかことを話して議論することを許してください」。
[3]彼らは答えた、「言え、何でも好むところを、私たちは満足させよう」。
私は質問した、「人間が救われる宗教は、どんなものでなければなりませんか?」
彼らは答えた、「私たちはこの質問を多くのものに細分し、これらを私たちが結論する前に、答えを与えることはできない——そして討議されなければならない。
第一、宗教は何らかのものであるのか。第二、救いはあるのか、あるいはないのか。第三、ある宗教は他の宗教よりもさらに有効であるのか。第四、天界と地獄はあるのか。第五、死後、永遠のいのちはあるのか。加えて多くのもの」。
私は最初のもの、「宗教は何らかのものであるのか」を質問した——すると、これを豊富な論証で議論し始めた。宗教があるかどうか。それはそのように呼ばれる何らかのものであるかどうか——私はこれを会衆へ話すように頼んだ、そして彼らは応答した——また、その主題は、夕方の間に終わることができないほどに多くの調査を必要とする、という共通の答えがあった。
私は質問した、「あなたがたにより、一年の間に終わりにすることができますか?」
ある者が、百年の間ではできないことを言った。
私は言った、「その間、あなたがたは宗教なしでいます」。
彼は答えた、「最初に、宗教があるのか、それがそのように呼ばれる何らかのものであるのか示されるべきではないのか? もしあるなら、賢明な者のためのものでもあろう、もしないなら、単に大衆のためのものであろう——宗教が束縛と言われることはよく知られている。しかし、だれのためのものか? と質問される〔であろう〕。もし単に大衆のためのものなら、それ自体の中に何らかのものはない。さらにまた、もし賢明な者のためなら、〔何らかのものが〕ある」。
[4]これらを聞いて、私は言った、「あなたがたは決して学識ある者ではありません、あなたがたは、存在するかどうか、またこれを両方の側から考えること以外の何らかのものを考えることができないからです。何らかのものを確実なものとして知り、人間が歩みから歩みへ進むように、それへ進み、引き続いて知恵へ進まないなら、だれが学識ある者であることができますか? そうでなければ、あなたがたは真理に決して爪〔の先〕でさえ触れません、しかし、視野からますますそれらを取り去ります。
単に存在するかどうか推論することは、決してかぶらない帽子から、または決してはかない履き物から、推論することです。
あなたがたには、どんなものでも何らかのものが存在するかどうかの観念しか存在しないのではありませんか? それどころ何らかの救いが存在するかどうか、死後、永遠のいのちが存在するかどうか、ある宗教が他のものよりもさらにまさるかどうか、天界と地獄が存在するかどうか、ここからは知らないこと以外に何が生じますか?
これらについて、あなたがたが第一歩の中にとどまり、そこの砂を打ち、足を越えて足を運び、進まないかぎり、あなたがたは何らかのものを考えることができません。あなたがたは、あなたがたの心が、このように判断なしに外に立つ時、内部で固くなり、あなたがたが塩の柱に、ロトの妻の友人にならないよう用心しなさい」。
[5]これらを言って、私は去った。彼らは憤りから私の後ろに石を投げつけた。私には〔彼らが〕人間の理性が何も内在しない石の彫像のように見えた。
私は彼らの運命について天使たちに質問した。彼らは言った、「彼らの運命は、深い所へ、そこの荒野へ行かされ、荷を運ぶよう強いられることです。その時、理性から何らかのものを取り出すことができず、空虚なものをペチャクチャしゃべり、話し、遠くからはそこで重荷を運ぶロバのように見えます」。