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結婚愛 490

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490 (10) 第三段階の姦淫は理性の姦淫であり、それらは罪の悪でないことを理解力で確信する者により行なわれる
 すべての人間は、意志と理解力が存在することを知っています。なぜなら、〔人々は〕話す時、「私はこれを欲する、私はこれを理解する」と言うからです。しかし、それでも、区別しないで、それらを同じものにします。
 その理由は、理解力からの思考に属すものについてだけ熟考し、意志からの愛に属すものについて熟考しないから、というのは、後者は前者のように光の中では見えないからです。
 しかしながら、意志と理解力をそれ自体の間で区別しない者は、善と悪をそれ自体の間で区別することができません、ここから罪の責任について何らかのものをまったく知ることが〔でき〕ません。
 しかし、善と真理が、愛と知恵のように二つの区別のあるものであることをだれが知りませんか? 理性的な光の中にいる時、だれがここから結論することができませんか? 人間の中に二つのものがあり、それらは区別してそれら自身にそれら二つのもの〔善と真理〕を受け入れ、割り当てます、その一つが意志そしてもう一つが理解力であることです。その理由は、意志が受け入れ、再現するものは善と呼ばれ、そして、理解力が受け入れるものは真理と呼ばれるからです。なぜなら、意志が愛し、行なうものは善と呼ばれ、理解力が知覚し、考えるものは真理と呼ばれるからです。
[2]さて、善と真理の結婚についてこの著作の「第一部」の中で扱われ、そしてそこに意志と理解力について、そして両方の特質と属性のいろいろなものについて、多くのものが示されているので、(それらは、私が推測するに、理解力と意志について何らかのものを明瞭に考えなかった者にもまた知覚されています、というのは、人間の理性は、たとえそれらのもの〔真理〕を以前に区別しなかったにしても、真理をそれらの光から、理解するようなものであるからです)。それゆえ、理解力と意志の相違がはっきりと知覚されるために、何らかのものを私はここに述べます、理性〔から〕の姦淫すなわち理解力〔から〕の姦淫がどんなものか、その後、意志〔から〕の姦淫がどんなものか知られる目的のためにです。
[3]これらについて認識するために、これらが役立つでしょう――

(ⅰ) 意志だけでは、それ自体から何も働かない、しかし働くどんなものでも、理解力によって働く。
(ⅱ) 逆に、理解力だけでは、それ自体から何も働かないが、働くどんなものでも、意志から働く。
(ⅲ) 意志は理解力の中へ流入する、けれども、理解力は意志の中に流入しない、しかし理解力は何が善と悪であるか教え、意志に諮り、それら二つのものから、その心地よいものを選び、行なう。
(ⅳ) この後、二重の結合が生じる。一つは、その中で意志が内部から、理解力が外部から働く。もう一つは、その中で理解力が内部から、意志が外部から働く。

 このように理性〔から〕の姦淫は意志〔から〕の姦淫から区別され、ここにその理性〔から〕の姦淫について、それらについて区別が続けられます――一つのものは、もう一つのものよりもさらにきびしいからです。というのは、理性〔から〕の姦淫は意志〔から〕の姦淫よりもきびしさが少ないからです――その理由は、理性〔から〕の姦淫は理解力が内部から、意志が外部から働きます。しかし、意志〔から〕の姦淫は意志が内部から、そして理解力が外部から働きます、そして、意志は人間そのものであり、そして理解力は意志からの人間であり、そして内部で働くものが、外部で働くものを支配するからです。