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結婚愛 332

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(十四)一夫多妻について

332 なぜ一夫多妻の結婚がキリスト教界からまったく断罪されているのか、その原因を見つけ出そうとしても、鋭く見通す才能を授かって、物事を見られることができるように開かれているどんな賜物を持っているにしても、前もって「真の結婚愛が存在する、これはふたりの間にしかありえない、主おひとりによらないならふたりの間にもない、この愛に天界がそのすべての幸福とともに刻み込まれている」ことを教えられている者でないなら、その原因はだれのもとにも〔見られることは〕ありません。
これらの知識が、あたかも最初の〔土台の〕石を置くように先行しないなら、なぜ一夫多妻がキリスト教界から断罪されているのか、家がその石または土台の上に定まるように、心が理解力から納得し、それらの上に休むかのような何らかの論証を導き出すことは、奮闘しても、少しもできません。
一夫一婦の結婚の制度が主のみことばに基づくことがよく知られています、淫行のためでなく妻を離縁し、他の女をめとる者は姦淫を犯すこと、また、ふたりが一つの肉になり、神が結びつけた人間が分かれてはならないことが結婚の初めからすなわち最初から制定されたことです(マタイ19:3–11)。
[2]しかし、たとえ主がそれらを結婚〔について〕刻み込まれた神的律法から命令したにしても、それでも、もし理解力がそれらを支えることができないなら、その論証から、それでもそれらは曲解によってそれ自体にありふれたものに〔導き〕、また誤まった解釈によって、その神的律法を連れまわし、疑わしいあいまいなものに〔導き〕、また最後に肯定的なもの〔と〕否定的なものに、市民の法律からでもあるので肯定的なものに、また、彼らの理性の視覚からでないので否定的なものに導くことができます――前に話しに出された理解力に導入としてその論証の中で役に立つ知識について、前もって教えられていなら、人間の心はこのことの中に落ち込みます。それら〔の知識〕は、真の結婚愛が存在すること、これはふたりの間にしかありえないこと、主おひとりによらないならふたりの間にもないこと、この愛に天界がそのすべての幸福とともに刻み込まれていることです。
しかし、これらは、またキリスト教界から一夫多妻が断罪されていることについて多くのことは、次の項目にしたがった順序で証明されなければなりません。
項目はこれらです――

(1) ひとりの妻とでないなら真の結婚愛は存在することができない、したがって、真の結婚の友情・信頼・能力、そして二つのものが一つの肉であるような心の結合もない。
(2) ひとりの妻とでないなら、初めから真の結婚愛にいる者に備えられているような天的な至福、霊的な幸せ、そして自然的な快感の状態は存在することができない。
(3) それらのすべてのものは、主おひとりからでないなら存在することができない。また、その方だけに近づき、同時にその方の戒めにしたがって生きる者にしか与えられない。
(4) したがって、真の結婚愛はその幸福とともに、キリスト教会に属す者のもとでないなら存在することができない。
(5) ここから、キリスト教徒は、ひとりの妻をめとるのでないなら許されない。
(6) キリスト教徒は、多くの妻をめとるなら、自然的な姦淫だけでなく、霊的な姦淫も犯す。
(7) イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、その民族のもとにキリスト教会がなかった、ここから真の結婚愛もありえなかったからである。
(8) 今日、イスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているのは、〝主イエス・キリストが父なる神と一つであり、このように天地の神として〟認められていない、ここから真の結婚愛を受けることができないからである。
(9) イスラム教徒の天界がキリスト教徒の外にあり、それは低いものと高いものの二つの天界に分割されている。めかけを退け、ひとりの妻と生活し、天地の支配が与えられている私たちの主を父なる神と等しい方と認める者しか彼らの高い天界に上げられない。
(10) 一夫多妻は好色である。
(11) 一夫多妻の者のもとに、結婚の貞潔・純潔・神聖さはありえない。
(12) 一夫多妻の者は、一夫多妻の者にとどまるかぎり、霊的なものになることができない。
(13) 一夫多妻は、それが宗教から存在する者のもとで罪ではない。
(14) 一夫多妻は、主について無知の中にいる者のもとで罪ではない。
(15) たとえ一夫多妻者でも、神を認め、宗教から公正な民法にしたがって生きる者は救われる。
(16) しかし、これらの者からのだれもキリスト教の天界の天使と仲間になることはできない。

今からこれらの説明を続けます。