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結婚愛 340

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340 (7) イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、その民族のもとにキリスト教会がなかった、ここから真の結婚愛もありえなかったからである
今日、一夫一婦の結婚制度、すなわち、ひとりの女とのひとりの男の結婚制度について、疑わしく考え、一夫多妻の結婚がイスラエル民族に、またその王たちに、そしてダビデとソロモンに、公然と許されており、本質的にキリスト教とにもまた許されたという信念を抱いて、自分自身のもとで〔その〕論拠を争う者が存在します。しかし、彼らは、イスラエル民族とキリスト教徒について、外なる教会と内なる教会についても、外なるものから内なるものへの主による教会の変化についても何も明確なものを知りませんでした。したがって、結婚について内なる判断からは何も知りません。
一般的に、人間は霊的になるために自然的なものに生まれていること、自然的なものにとどまるかぎり、霊的なものについて夜の中に、また眠りの中にいるようであり、その時、外なる自然的な人と内なる霊的な人の間の相違を、決して知らないことを把握すべきです。
[2]イスラエル民族のもとにキリスト教会がなかったことは、みことばからよく知られています。というのは、彼らは世のすべての民族また人々の上に自分たちを高めるメシアを、今でも期待しているように、期待したからからです。それゆえ、もし、彼らに、メシアの王国が天界の上に、ここからすべての民族の上にあることが言われ、また今でも言われたなら、そのことをたわごととしたでしょう――ここから、キリスト、すなわち、私たちの主、メシアが、世の中に来た時、〔その方を〕認めなかっただけでなく、世からもまた残虐に取り除きました。
これらから、その民族のもとに、今日もないように、キリスト教会がなかったことが明らかです。また、キリスト教会がない者は、外なるまた内なる自然的なものです。これらの者に一夫多妻は害となりません、というのは、それは自然的な人に刻み込まれているからです――というのは、自然的な人は結婚の中の愛について、情欲のものであるものしか知覚しないからです。
このことが、主により、これらによって意味されています、

モーセは彼らの心のかたくなさのために妻を離縁することを許しました。しかし、初めからそのようではありませんでした(マタイ19:8)。

モーセが許した、と言ったのは、〔許したのは〕主でないことが知られるためです。
[3]けれども、主は内なる霊的な人を教えたことが、その方の教えから、また単に自然的な人に仕える役立ちのための儀式の廃止からよく知られています――洗うことについて、その方の教えは、内なる人を清めることです(マタイ15:1, 17–20, 23:25, 26、マルコ7:14–23)。姦淫について、これは意志の欲望です(マタイ5・28)。妻を離縁することについて、これは許されません。一夫多妻について、神的な律法に一致しません(マタイ19・3―9)。
主は内なるまた霊的な人のものであるこれらや多くのことを教えられました、〔主〕おひとりが人間の心の内なるものを開き、そしてそれを霊的なものにし、これらに自然的なものを着せられます、これらの自然的なものもまた霊的な本質を得るためです。その方に近づき、そしてその方の教えにしたがって生きるなら、このこともまた生じます、その教えは要約すれば、その方を信じること、そして悪を悪魔のもの、悪魔からのものであるので避けること、なおまた、主のもの、主からのものであるので善を行なうこと、またそれらを自分自身からのように行なうこと、また同時に主から彼を通して行なっていると信じることです。
[4]主おひとりが内なる霊的な人を開き、そしてこれに外なる自然的な人を着せる理由そのものは、すべての人間は自然的に考え、自然的に行動するので、それゆえ、神が自然的な人間性をとられ、これもまた神的なものにされなかったなら、霊的なものを何も知覚することが、またそれをその自然的なものの中に受け入れることができなかったからです。
これらから、イスラエル民族に多くの妻をめとることが許されたのは、それらの民族のもとにキリスト教会がなかったからであるという真理が今や明らかです。