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結婚愛 341

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341 (8) 今日、イスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているのは、〝主イエス・キリストが父なる神と一つであり、このように天地の神として〟認められていない、ここから真の結婚愛を受けることができないからである
イスラム教徒はムハンマドにより伝えられた宗教から、イエス・キリストを神の子、また最大の預言者として、また父なる神から世の中に人間を教えるために送られたことを認めます、けれども、アタナシウス信条から、すべてのキリスト教徒の信仰にしたがって、父なる神がその方と一つであることを、またその方の神性と人間性が霊魂と身体のように結合された一つの位格(ペルソナ)であることを認めません――それゆえ、ムハンマドの追随者は私たちの主を永遠からの何らかの神として認めることができませんでした、単に自然的な完全な人間として認めました。
また、ムハンマドはそのような信念を抱き、ここから信奉者の弟子たち自身もそのような信念を抱き、神は一つであること、その神が全世界を創造したことを知っていたので、それゆえ、自分の礼拝の中で主を見過ごすことしか、さらにまたムハンマドを最大の預言者として宣言し、主が何を教えたかも知らないので、それだけさらにできませんでした。
この理由から、本質的に霊的なものである彼らの心の内的なものは開かれることができませんでした。それらが主おひとりにより開かれることは直前に見られます(340番)。
[2]天地の神として認め、近づき、主の戒めにしたがって生きるとき、彼らのもとに、その方により〔心の内的なものが〕開かれる正しい理由は、そうでなければ、結合がなく、結合なしに受け入れがないからです。 人間のもとに主の現在(居合わすこと)とその方との結合があります。その方に近づくことで現在(居合わすこと)が生じ、その方の戒めにしたがって生きることで結合が生じます。そして、受け入れがなくてその方の現在だけがあります、しかし、受け入れとともに現在と同時に結合があります。
[3]これらについて、私は霊界からの次の新しいことを述べましょう――そこでは、だれでも、その者についての思考からその者の現在(居合わすこと)がもたらされます。しかし、愛の情愛からでないなら、ある者が他の者に結合されません、愛の情愛は彼の言ったことと喜んだことを行なうことによって持ち込まれます。霊界で、そのように現在があり、そしてそのように結合があるという、このよく知られていることは、主から起源を得ています。
これらが言われたのは、なぜイスラム教徒に多くの妻をめとることが許されているか知られるためです。それは、ひとりの男とひとりの女の間にだけある真の結婚愛がありえなかったからです、彼らは主を宗教から父なる神と同等の方として、このように天地の神として認めませんでした。
それぞれの者のもとの結婚愛は教会の状態にしたがっていることが、前に見られます(130番、またしばしば前に述べたものの中に)。