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結婚愛 396

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396 (9) 両親の霊魂の中へも流入し、それ自体を幼児のもとの同じスフェアに結合させ、特に触覚によって徐々にしみ込んでいる
主の無垢は、そこにすべての者が知恵の無垢の中にいる第三の天界の天使たちへ流入します、そして低い天界を、しかし単にそこの天使たちの無垢を通り過ぎ、このように直接にそして間接に幼児へ流入します。これらの者〔幼児〕は、ほとんど彫像の形のようでしかありません、しかしそれでも、天界を通して主からのいのちを受け入れることができます。
しかし、両親もまた、その流入を自分の霊魂へ、そしてその心の最内部へ受け入れないなら、幼児の無垢により働きかけられてもむなしいものとなります。他の者の中に適切なものと同質のものの何かがなければなりません、それによって伝達が生じ、それが受容・情愛、ここからの結合をつくります。そうでなければ、柔らかい種が火打ち石の上に落ちるように、またはオオカミに向けて投げ出された子羊のようになったでしょう――そこで、ここから、両親の霊魂の中に流入する無垢が、幼児の無垢と結合します。
[2]この結合が身体の感覚の媒介するものです、しかし特に、両親のもとの触覚によって生じることは、経験から教えられることができます。例えば、彼らの視野から視覚が、彼らの話し方から聴覚が、彼らのにおいから嗅覚が内部で(深く)楽しまされることです――特に、触覚によって無垢の伝達とここからの結合が生じることは、母のもとの前腕に幼児を運ぶことの楽しさから、とりわけ、抱擁とキスから、それは胸の上の幼児に口と顔を押しあてることから、同時に、そこに幼児の手のひらの接触から楽しむことから、全般的に、乳首を吸うことと授乳から、ほかに、彼らの裸の身体を撫でることから、また自分のひざの上で彼らを産着で包んだり、きれいにしたりする疲れを知らない働きからはっきりと見られます。
[3]触覚の感覚によって、配偶者(夫婦)の間の愛とその歓喜の伝達が行なわれることは、前に数回、示されました。それによって心の伝達もまた行なわれるのは、手は人間の最外部のものであり、そして彼の最初のものは最外部の中に一緒に存在し、さらにまたそれによって身体のすべてのものと中間のものである心のすべてのものが、引き離されない結びつきの中に保たれるからです。イエスが幼児に触れたのはここからです(マタイ19:13, 15、マルコ10:13, 16)。そして病気の者に触れることによって癒したこと、また、その方に触れた者は癒されたこと、さらにまたここから、祭司職への叙階は、今日、手を置くことによってなされることです。
これらから、両親の無垢と幼児の無垢がそれら自身に触覚を、特に、手を通して出会うこと、このように互いにあたかも口によってかのように結合することが明らかです。