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結婚愛 482

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482 (3) 二重の姦淫は、他の者の妻との夫のもの、または逆のものである
これは二重の姦淫と呼ばれます、ふたりにより行なわれるからです、そして両方の側で結婚の契約が踏みにじられ、それゆえ、さらにまた前のものより2倍にきびしいものです。
ひとりの妻とのひとりの男(夫)の結婚愛は、取り決めと契約の後、霊魂を結合すること、その結合はその起源の中でその愛そのものであること、これは姦淫によって、泉の噴泉と水流のように、閉ざされ、ふさがれることが前に言われました(480番)。性への愛が〔異〕性からのひとりの女またはひとりの男へ抑制されている時、二つの霊魂が互いに結合することは、娘が自分自身を若者に全面的に約束し、そして逆に、若者が自分自身を娘に全面的に約束し、両方のいのちが、したがって霊魂が互いに結合することからはっきりと明らかです、これらがいのちの源であるからです――この霊魂の結合は一夫一婦の結婚、すなわち、ひとりの男(夫)とひとりの妻との結婚しかありえません、けれども、一夫多妻の結婚、すなわち、ひとりの男(夫)と多くの妻のとの結婚の中にはありません、愛は前者の中で結合され、後者の中で分割されたものとなります。
結婚愛は、この最高の座の中で霊的なもの・聖なるもの・純粋なものです、その理由は、それぞれの人間の霊魂はその起源から天界的(天的)であるからです。それゆえ、それは主から直接に流入を受けています、というのは、その方から愛と知恵の、すなわち、善と真理の結婚を受け、この流入が彼を人間につくり、獣から区別するからです。
[2]この霊魂の結合から、結婚愛が、それはそこにその神聖さと純潔さの霊的なものの中にあり、全身のいのちの中に、その水流が開かれてとどまるかぎり、それが主により霊的なものになっている者のもとに生じて、流れ下り、そしてそれを祝福された快さで満たします。
この結婚愛の座、起源を、または泉とその水流を閉ざし、ふさぐ何らかのものは姦淫以外に何もなく、このことは、主のことば、 「姦淫のためにだけ、妻を離縁することと他の者(女)をめとることが許される」(マタイ19:4–9)、なおまた、そこの「離縁された者をめとる者は、姦淫を犯す」(第9節)から明らかです。
そこで、純粋で聖なるその泉がふさがれるとき、前に言われたように、それは、宝石が糞で、またはパンが吐いたもので取り囲まれるように、不潔なもので取り囲まれます、それらはその泉すなわち結婚愛の神聖さと純潔さにまったく対立するものです。その対立から結婚の冷淡があり、これにしたがって、淫行愛の心地よい好色があり、それはそれ自体をおのずから消耗させます――これが罪の悪であることは、聖なるものがおおわれ、このようにその水流が身体の中でじゃまされ、それに代わって神聖さを汚すものが続き、この水流が身体の中で開かれるからです。ここから人間は天界的なものから地獄的なものになります。