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結婚愛 426

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426 (3) 淫行愛は、本質的に見られた自然的な人が霊的な人に対立しているように、結婚愛に対立している
 自然的な人と霊的な人は互いに、一方が欲するものを、もう一方が欲ないようにまでも、対立していること、それどころか、互いに戦うことは、教会の中でよく知られています、しかしそれでも、〔このことは〕はっきりしません。それゆえ、何が霊的なものと自然的なものを区別するか、また〔何が〕前者に反抗して後者を起き上がらせるか、言います。
 自然的な人の中へ、だれでも、成長している時、最初に導き入れられ、それは知識と認識によって、そして理解力からの理性的なものによって生じます。しかし、霊的な人の中へ、役立ちを行なう愛によって導き入れられ、その愛は仁愛とも呼ばれます。それゆえ、だれかがこの中にいればいるほど、それだけ霊的です。しかし、この中にいなければいないほど、たとえ才気で明敏、判断で賢明であっても、それだけ自然的です。
 自然的と呼ばれるこの人は、霊的なものから分離されているとき、どれほど自分自身を理性的な光(ルーメン)の中に高揚させても、それでも自分自身を情欲の中に解放し、それらに働きかけられることは、仁愛が欠けているというその性向だけから明らかになります。またこの欠けている者は、淫行愛のすべての好色へ向けてだらしなくなっています――そのために、彼は、この好色の愛は貞潔な結婚愛に反していると言われ、自分の理性的な光(ルーメン)と相談するように、と求められるとき、それでもその光(ルーメン)と相談しないで、出生から自然的な人に植え付けられた悪の快さとの結合しているものから、自分の理性で、自分の身体の感覚の誘惑の心地よいものに反する何らかのものを見ないことを結論します。それらの中で確信した後に、彼の理性は、結婚愛の属性とされるそれらすべての心地よいものに向けて鈍ります。それどころか、前に言われたように、その心地よいものに対して戦い、そして勝ち、皆殺しの後、勝利者のように自分自身のもとの結婚愛の陣営を最外部のものから最内部のものまで破壊します――これを自然的な人は自分の淫行愛から行ないます。
 このことが述べられるのは、それらの二つの愛の対立がどこからであるか知られるためです。なぜなら、前に大いに示されたように、本質的に見られた結婚愛は霊的な愛であり、本質的に見られた淫行愛は自然的な愛であるからです。