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結婚愛 269

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27 明けの明星(魔王)について

269 その後、私たちはこれらの低いところから、私たちが最初にいた南へ上った、そして、そこでは、天使たちは空想のまたは幻想のものでない欲望について話しに出す価値のある多くのものを語った、「その中にすべての人間は出生の時からいます。それでもなお、自分自身には、その時、最高度に賢明な者に見られます。また、〔その〕愚かさから、交替に、自分のもとにある外なるものの中にある理性に戻されます。その状態で、自分の狂気を見、認め、告白します、しかしそれでも、自分の理性的な状態から、自分の狂気を激しく欲し、そしてまた、強制と不愉快からのように自由と快さの中に、自分自身をこの中に入れます。そのように、彼らは欲望によって内的に喜び、知性によっては喜びません。
[2]三つの普遍的な愛があり、創造によりすべての人間はそれらからつくり上げられています——役立ちを行なう愛である隣人愛、富を所有する愛である世俗愛、他の者を支配する愛である自己愛です。
隣人愛すなわち役立ちを行なう愛は霊的な愛です。けれども、世俗愛すなわち富を所有する愛は物質的な愛です。しかし、自己愛すなわち他の者を支配する愛は形体的な愛です。
[3]隣人愛すなわち役立ちを行なう愛が頭をつくり、世俗愛が身体をつくり、自己愛が足をつくる時、人間は人間です——しかし、世俗愛が頭をつくるなら、人間はせむしのような人間でしかありません。自己愛が頭をつくるとき、足の上に立っている人間ではなく、手の掌の上に、頭を下方にして、尻を上方にして立っています——役立ちを行なう愛が頭をつくり、残りの二つの愛が順に身体と足をつくる時、その人間は天界から、頭のまわりの美しい虹とともに天使の顔で見られます。しかし、世俗愛が頭をつくるなら、彼は天界から、頭のまわりの黄色の輪とともに死人のような青白い顔で見られます。けれども、自己愛が頭をつくるなら、彼は天界から、頭のまわりの白い輪とともに黒ずんだ火の顔で見られます」。
これらに私は質問した、「頭のまわりの輪は何を表象しているのですか?」
彼らは答えた、「知性を表象しています。黒ずんだ顔の頭のまわりの白い輪は、外なるものの中にあるすなわち彼のまわりにあるその知性を表象しています、しかし、内なるものの中にすなわち彼の中に狂気があります——人間もまたそのようなものです、身体の中にいるとき賢明です、しかし、霊の中にいる時、狂っています。だれも人間は主からでないなら霊で賢明ではありません、それはその方により再びすなわち新たに、再生させられ、創造されるとき生じます」。
[4]これらが言われて、左に地が開かれ、開口部を通って、頭のまわりの白い輪とともに悪魔が上がって来るのを見た。私は尋ねた、「あなたはだれですか?」
彼は言った、「私は暁の子、明けの明星(魔王)である、私は自分自身を〝至高者〟と等しいものにしたので、投げ落とされた」。しかし、彼は明けの明星(魔王)ではなく、自分自身をそれであると信じたのであった。
私は言った、「投げ落とされているとき、あなたはどのように地獄から上ることができるのですか?」
答えた、「私は、そこの悪魔である、しかし、ここでは光の天使である。あなたは光り輝くスフェアで取り巻かれた私の頭を見ないのか? そしてまた、もしあなたが欲するなら、あなたは、私が道徳的な者の間で最高に道徳的な者、そして理性的な者の間で最高に理性的な者、それどころか、霊的な者の間で最高に霊的な者であることを見るであろう。私は説教することもできる、そしてまた説教した」。
私は質問した、「あなたは何を説教したのですか?」
彼は言った、「だます者に反対して、姦淫者に反対して、すべての地獄的な愛に反対して〔説教した〕——それどころか、その時、私〔自身〕を明けの明星(魔王)を悪魔と呼び、そして私は、その私〔自身〕に対して呪いをあびせ、そしてそのために称賛されて、天界へ上げられた。ここから、私は暁の子と呼ばれた。私は自分自身でも驚くのであるが、私が説教壇の上にいたとき、私は適切にまた正しく話しているとしか考えなかった。しかし私に理由が示された、私が外なるものの中にいた、これらのものはその時、私の内なるものから分離されたものであったからである。それでも、このことが私に示された、やはり私は自分を変化させることができなかった、私の高慢のために、神へ目を向けなかったからである」。
[5]その後、私は質問した、「あなたがだます者そのもの、姦淫者そのもの、悪魔そのものであるとき、どのようにして、そのように話すことができたのですか?」
彼は答えた、「私は、私が外なるものの中にすなわち身体の中にいるときと、内なるものの中にすなわち霊の中にいるときは別者である——身体の中で私は天使である、しかし霊の中で悪魔である。なぜなら、身体の中で私は理解力の中にいる、けれども、霊の中で私は意志の中にいる、そして理解力が私を上へ向ける、しかし、意志が私を下へ向けるからである。私が理解力の中にいる時、私の頭のまわりを白い輪がおおう、しかし、理解力がそれ自体をまったく意志に引き渡す時、理解力がそうなるとそれが私たちの最後の運命であり、その時、輪は黒くなる、そして失われる。そのことが起こったので、私はもはやこの光の中に上ることができない」。
その後、彼は外なるものと内なるもののその二つの状態について、他のだれよりも、さらに理性的に話した——しかし急に、彼が私のもとの天使を見たとき、顔と声で興奮し、さらにまた頭のまわりの輪に関して黒くなった。彼は開口部を通して現われたが、その開口部を通って地獄へ墜落した。
傍観者たちはそれらの見られたものから、この結論をつくった、人間は彼の愛がどのようなものであるか〔によって〕そのようなものであること、彼の理解力がどのようなものかによらないこと、愛は理解力を容易に自分の側に連れ去り、従属させるからである。
[6]その時、私は天使たちに質問した、「悪魔にこのような推理力があるのはどこからですか?」
彼らは言った、「自己愛の栄光からです。なぜなら、自己愛は栄光に取り巻かれていて、その栄光が理解力をほとんど天界の光の中に上げるからです。なぜなら、それぞれの人間のもとの理解力は思考にしたがって上げられることのできるものです、しかし意志は教会と理性の真理にしたがった生活によってでないなら上げられないからです。ここから、無神論者ですら、自己愛からの名声の栄光の中に、ここから自己知性の高慢の中にいて、他の多くの者よりも高遠な推理力を授けられています。けれども、その時、理解力の思考の中にいて、意志の情愛の中にいません。意志の情愛は人間の内なるものをもちます、しかし、理解力の思考は外なるものをもちます」。
さらに、天使は、なぜ、人間は三つの愛から、すなわち、役立ちの愛・世俗愛・自己愛からつくり上げられているか〔その〕理由を言った、それは、人間が神から考える、それでもまったく自分自身からのように考えるためである——〔天使は〕言った、「人間の〔心の中の〕最高のものは神へと上へ向かっています、そこの中間のものは世へと外側へ、そしてそこの最も低いものは身体の中へと下へ向かっています。最も低いものが下へ向きを変えられているので、人間はまったく自分自身からのように考えますが、そのときそれでも神から考えています」。