カテゴリー

結婚愛 152a

151b◀︎目次▶︎152b

152a (10) 貞潔は、姦淫を宗教の悪であると信じない者について、さらにまして姦淫を社会の害であると信じない者について述べられることができない
 貞潔は彼らについて言われることができません、何が貞潔か、その存在も知らないからです。というのは、貞潔は、この章の最初に示されたように結婚に属すものであり、姦淫が宗教の悪であることを信じていない者は、結婚もまた不貞なものにするからです、そのときそれでも夫婦のもとの宗教が彼らの貞潔をつくっています。このように彼らに何も貞潔はありません、それゆえ、彼らの前で貞潔の名称はむなしいものとなります。これらの者は確信からの姦淫者です――けれども、姦淫が社会の害であることを信じない者は、前の者よりも何か貞潔か、それが存在することも、さらにいっそう知りません。というのは、故意の姦淫者であるからです。
 もし、結婚は姦淫よりも不貞であることが少ない、と言うなら、これを心でなく、口で言います、彼らのもとで結婚は凍っているからです。この冷たさから貞潔な熱について話す者は、結婚愛について貞潔な熱の観念を持つことができません。
 彼らがどのようなものか、彼らの思考の観念がどのようなものか、またここから彼らの話しの内的なものがどのようなものか、姦淫者の狂気についての第二部で見られます。