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結婚愛 358

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358 (1) 本質的に見られた熱意は燃える愛の火のようである
 何が熱意か認められないなら、何が嫉妬か知られることができません。というのは、嫉妬は結婚愛の熱意であるからです。
 熱意が燃える愛の火のようであることは、熱意は愛のものであり、愛は霊的な熱であり、これはその起源の中で火のようであるからです。
 熱意が愛のものである最初のものについてはよく知られています。嫉妬することと熱意から行動することによって、愛の力で〔そうする〕以外に何も意味されません。しかし、存在するようになるとき、愛のように現われず、しかし敵意ある者や敵のように現われるので、愛を損なう者に対して攻撃し、戦う者は、それゆえ、愛の防護者や守護者と呼ばれます。というのは、すべての愛は、その快いものから追い払われる時、憤りと怒りの状態の中へ、それどころか激怒の中へ突破するようなものであるから――それゆえ、もし愛が、特に支配愛が触れられるなら、アニムス(外なる心)に動揺を生じます。またもし触れて、それが害するなら、憤りが生じます――それらから、熱意は愛の最高の段階のものではありません、しかし燃える愛であることを見ることができます。
 一方の愛と調和するもう一方の愛は、ふたりの同盟する者のようです。しかし、一方の愛がもう一方の愛に対して立ち上がるとき、敵のようになります。その理由は、愛は人間のいのちのエッセであるからです、それゆえ、愛を攻撃する者は、いのちそのものを攻撃します。その時、攻撃に対する憤りの状態が生じます、それぞれの人間が他の者を殺そうとするような状態です。
 このような憤りがそれぞれの愛に、最高に穏やかな愛にもあります、すべての種類のめんどり・ガチョウ・鳥からはっきりと見られるように、ひなを害する、または食い物を取り去るそれらに対して恐れることなく立ち上がり、そしてそれらに飛びかかります――ある獣に怒りの状態、そして野獣に激怒があることがよく知られています、もし子が攻撃されるかまたは食い物が取り去られるなら。
 愛が火のように燃え立つことが言われるのは、愛が天使の太陽の火から起こる霊的な熱以外の他のものではないからです、これは純粋な愛です――愛が火からのような熱であることは、生きている身体の熱から、それらの愛から以外の他のところからではないこと、なおまた、人間は愛の高ぶりにしたがって熱くなり、燃え上がることから、はっきりと明らかです。
 これらから、熱意が燃える愛の火のようであることが明らかです。