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結婚愛 326

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33 霊的なものと自然的なものの間の相違について

326 (これらに私は二つのメモラビリアを付け加えます、最初のものはこれ——)
霊魂についての問題がギムナジウム(学校)の中で議論され、解決された後に、私は順に出て行く者たちを見た。彼らの前に上級の教師、彼らの後に長老たち、彼らの真ん中に答えた五人の若者が、これらの者の後ろに他の者たちがいた。出たとき、家のまわりの脇へ去った、そこに低木で囲まれた遊歩道があった。そこに集まった者たちは、知恵の事柄について対話するために、それだけの数の若者の交わりの小さい集団に分かれ、それらのそれぞれに天井さじきからのひとりの賢明な者がいた。
これらの者を、霊の中にいた私は宿屋から見て、霊の中で彼らへ出て行き、近ごろ霊魂についての問題を示した上級の教師へ近づいた。
この者は私を見て言った、「あなたはだれか? 私は驚いている、私が道を上ってくるあなたを見たとき、時には、あなたは私の見えない中へ落ち込み、時には、あなたはそこから出る、すなわち、時には、あなたは私に見え、また急に見えなくなる。確かに、あなたは私たちの国のいのちの状態の中にいない」。
これにほほ笑んで私は答えた、「私は演技者でも、ウェルトゥムヌスでもありません。しかし私は交互に、時には、あなたがたの光の中に、時には、あなたがたの陰の中にいます、このようにここでよそ者であり、そしてまた土着の者です」。
[2]このことにその上級の教師は私を熟視し、言った、「あなたは、異様なことと驚くべきことを話している。あなたはだれであるのか、私に言え」。
私は言った、「私は自然界と呼ばれる世界にいます、その中にあなたがたはいました、そこからあなたがたは出ました、そしてまた、私は霊界と呼ばれる世界にいます、その中にあなたがたはいます——ここから、私は自然的な状態の中に、同時に霊的な状態の中にいます。自然的な状態の中で地球の人間とともに、霊的な状態の中であなたがたとともにいます。私が自然的な状態の中にいる時、私はあなたがたを見ません、しかし、霊的な状態の中で、私は見ます。私がこのようであることは、主により与えられました。
照らされた方よ、あなたに、自然界の人間は霊界の人間を見ないこと、その逆もまた、よく知られています。それゆえ、私の霊が私の身体の中に入れられるとき、あなたに私は見られません——しかし、私が身体から出るとき、私は見られます。
あなたもまたギムナジウムの学校で、あなたが霊魂であること、霊魂は霊魂を見ることを教えました、人間の形であるからです。あなたは、あなたが自然界にいたとき、あなたがあなたを見ないことを、すなわち、あなたの霊魂があなたの身体の中に見ないことを知っていました。しかし、このことは霊的なものと自然的なものの間にある相違から生じます」。
[3]彼は、霊的なものと自然的なものの間の相違を聞いたとき、言った、「相違とは何か? それは純粋なものが多いか少ないかの間のようなものであるのか? そのように、自然的なものの純粋なものでないなら霊的なものとは何か?」
私は答えた、「相違はそのようなものではありません、しかし前のものと後ろのものの間のようであり、それらの間に有限な比率は存在しません。というのは、原因がその結果の中にあるように、前のものは後ろのものの中にあり、そして結果がその原因から存在するように、後ろのものは前のものから存在するからです。ここから、一方はもう一方に見られません」。
これに、上級の教師は言った、「私はこの相違について熟考した、しかしそれでも、むだだった。それを私が知覚させてもらいたい」。
[4]私は言った、「あなたは霊的なものと自然的なものの間の相違を知覚するだけでなく、さらにまた見るでしょう」。
その時、私はこれらを言った——「あなたは、あなたがたのもとにいる時、霊的な状態の中にいます、しかし、私のもとで自然的な状態の中にいます。というのは、あなたはすべての霊と天使に共通であるあなたがたの霊的な言語で話します、しかし、私とあなたは私の母語で話すからです。なぜなら、すべての霊と天使は人間と話すとき、彼の固有の言語で、そのようにフランス人とフランス語で、イギリス人と英語で、ギリシア人とギリシア語で、アラビア人とアラビア語で話すからです、等々——そこで、あなたが言語に関して霊的なものと自然的なものの間の相違を知るために、このように行なってみてください——あなたがたの中へ入り、そこで何かを話しなさい、そして音声を心に保ち、これらをともに記憶の中に戻り、私の前にそれらを発声してみてください」。
そしてそのように行ない、私のところに口の中のそれらの言葉とともに戻った、それは発言されたが、〔それを〕何も理解しなかった。音声はまったく異なり、奇妙であって、それは自然界の何らかの言語の中に存在しないものであった。数回繰り返されたこの経験によって、はっきりと明らかになった、霊界の中のすべての者に、何らかの自然界の言語と共通なものを何も得ていない霊的な言語があること、すべての人間はその言語の中に、死後、自分自身からやって来ることである。
その時、一緒に、彼もまた経験から学んだ。霊的な言語の音声そのものが自然的な言語の音声から、霊的な大きな音声もまた、自然的な人間から少しも聞かれない、自然的な音声も霊的な人間から聞かれないように、これだけ異なっていることである。
[5]その後、私は上級の教師と周りに立つ者に、自分のところに入り、何らかの短い文を紙の上に書き、その紙とともに私のところに出てきて、読むよう頼んだ——彼らはそのように行ない、手にした紙とともに戻った。しかし、彼らが読んだとき、その書いたものはただ上にねじれのある何らかのアルファベットの文字から構成されていたので、何も理解することができなかった、ねじれのあるそれぞれの文字は何らかの(意味の)事柄を意味していた——アルファベットの中のそれぞれの文字はそこに何らかのもの(意味)を意味するので、そこから、主が「アルファとオメガ」と言われることの意味が明らかである。
彼らは再びまた再び、入り、書き、戻った。その書いたものは無数のものを含み、包含している、それらを何らかの自然的に書かれたもので決して表わすことができない。しかし、「霊的な人間が、自然的な人間に〔とって〕理解できないものや言い表わすことができないものを考えているからである、これらは何らかの書いたものと何らかの言語の中に流入すること、持ち込まれることができない」と言われた。
[6]その時、そばに立っている者が、〝霊的な思考は、比較すれば、これほどに言い表わすことができないようにも、自然的な思考にまさっている〟ことを把握したがらなかったので、私は彼らに言った、「経験してください。あなたがたの霊的な社会の中へ入って、何らかの事柄を考え、そしてそれを心にとどめ、戻り、私の前にそれを述べてください」。
そして彼らは、入り、考え、心にとどめ〔たが〕、思考した事柄を述べるとき、できなかった。というのは、何らかの霊的な思考の観念に釣り合った自然的な思考の観念を何も考え出さなかったから。そのようにそれを述べる何らかの言葉もない、なぜなら、思考の観念は話しの言葉を生じるからである。
[7]その時、再び入り、戻った後、霊的な観念は超自然的で、言い表せないもの、言葉にできないもの、自然的な人間に理解できないものであったことを確信した——これほどに卓越したものであるので、彼らは、「霊的な観念または思考は自然的なものに比べて観念の観念、思考の思考である、それらによって性質の性質が、また情愛の情愛が表わされる、したがって、霊的な思考は自然的な思考の始まり、そして起源である」と言った。ここからもまた、霊的な知恵は知恵の知恵であり、そのように自然界のだれか知恵のある者に知覚されることができないことが明らかである。
その時、彼らに第三の天界から言われた、さらに、内的なまたはさらに上の知恵があること、それは天的なものと呼ばれ、霊的な知恵へのその関係は、自然的な知恵への関係と同様である。これらは天界にしたがった順序の中で主の神的知恵から流入する、それは無限である。