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結婚愛 405

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405 (16) 幼児への愛や子どもへの愛は、霊的な夫婦と自然的な夫婦のもとで別ものである
 霊的な夫婦のもとで、幼児への愛は外観に関して自然的な夫婦のもとの幼児への愛と似ています、しかしさらに内的であり、ここからさら優しく、その愛は無垢から存在し、その〔無垢の〕さらに近い受け入れから、このように自分自身のもとにさらに現在して知覚しているからです、なぜなら、霊的な者は無垢から得れば得るほどそれだけ霊的であるからです。
 けれども、父と母は、自分の幼児のもとの無垢のここちよさを味わった後に、自分の子どもを自然的な父と母と比べてまったく異なって愛します。霊的な者は子どもを彼らの霊的な知性と道徳的な生活から、このように彼らを神への恐れと実際の敬虔さすなわち生活の敬虔さから、また同時に、社会に仕える役立ちに向けての情愛と適用から、そのように彼らのもとの美徳と善い振る舞いから愛します。これらの愛から〔両親は〕特に彼らに必要なものを備え、与えます。それゆえ、もしこのようなものを彼らの中に見ないなら、彼らから心を引き離し、単に義務から彼らのために何らかのものを行ないます。
[2]自然的な父母のもとで、幼児への愛もまた確かに無垢からです、しかし彼らによるこの〔無垢〕受け入れは、彼らのプロプリウムの愛でまわりを包まれてしまい、これ〔プロプリウムの愛〕から同時にそれ〔無垢からの愛〕から幼児を、キスして、抱擁して、連れて、胸に近づけて、またすべての方法を上回って(=この上もなく)愛想をよくして愛し、彼らを自分自身と一つの心と一つの霊魂のように眺めます。そしてその後、彼らの幼児の状態の後、青春期、また越えて、無垢がもはや何らかのものを働かない時までも、神への恐れと実際の敬虔さすなわち生活の敬虔さからでなく、彼らのもとの理性的な道徳的な何らからの知性からでもなく、彼らを愛します、そしてわずかにまたほとんど、彼らの内なる情愛に向けて、ここから美徳と善い振る舞いに向けてどんなものも眺めません、しかし、ただ外なるものだけに向けて眺め、それらに好意を持ちます。これらに自分の愛を結び付け、取り付け、貼り付けます。ここからさらにまた彼らの欠点に、それらを許して、それらに好意をもって、目を閉ざします――その理由は、自分の子への彼らのもとの愛は、自己愛でもあり、これは主体に外側で付着しています、そして、〔主体〕そのものがそれ自体の中へ入らないように、その中へ入らないからです。