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結婚愛 486

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486 (6) 第一段階の姦淫は無知の姦淫であり、それらはまだ理解力に諮ることが、またここからそれらを抑えることができない者により行なわれる
 すべての悪は、そのように本質的に眺められた姦淫もまた、同時に内なる人と外なる人のものです。内なる人がそれを意図し、外なる人がそれを行ないます――そこで、外なる人によって行なわれる行為の中で、内なる人がどのようなものであるかによって、本質的に眺められた行為はそのようなものです。
 しかし、内なる人はその意図とともに人間の前に見られないので、それぞれの者が公会場〔法廷〕で、規定されたその用心深い法律にしたがって、行為と発言から裁かれなくてはなりません。法律の内的な意味も裁判官により細かく調べられなければなりません。
 しかし、例で説明します――もしかして姦淫がまだ姦淫が私通よりもさらに悪であることを知らない青年期の少年により行なわれるなら、同様に、単純な外なる人により行なわれるなら、病気により判断で鋭さが奪われている者により行なわれるなら、または、交替で気が狂い、その時、実際の精神錯乱の状態の中にいる者により行われるように行なわれるなら、さらにまた、酔っぱらった気違い沙汰の中で行なわれるなら、等々。その時、内なる人はすなわち心は、ほとんど理性のないものとなっている外なる人の中にいないことが明らかです――これらの姦淫は理性的な人間によりそれらの事情にしたがって属性づけられます。しかしそれでも、裁判官としての同じ者により、犯す者が法律から罪を帰せられ、罰せられます。しかし、死後、それらは、彼らの意志の中の理解力の現存・性質・能力により転嫁されます。